山鹿灯籠踊り「光の舞」

※(熊本県山鹿市・2001年8月16日)

 熊本県に山鹿市という所がある。熊本県の北の方にあり、中世の九州に一大勢力を築いた菊池一族の本拠地・菊池市のすぐ近くにある。この山鹿市、8月15日と16日の両日に「灯籠踊り」というものが開催されることは九州地方では有名で、私も子供の頃から写真などでは何度も見ていた。しかし、一度も行ったことはない。
 ところが2001年の8月、北九州の実家に帰省した時のこと。新聞を見ていた母親がふいに呟いた。「山鹿灯籠踊りのバスツアーがあるみたいやけど、参加してみんね」と。何でも四千円ほどの日帰りツアーがあるらしい。
 山鹿灯籠踊りは夜間に開催される。もし、山鹿灯籠踊りを見に行くのであれば当然一泊が必要で、しかもお祭りの最中だからよほど早くから申し込まなければ宿泊はできないだろう。そう思っていたので「山鹿灯籠踊りを見に行くことはない」と漠然と考えていたが、ツアーは日帰りらしい。山鹿灯籠踊りが終わった後に高速道路を走って北九州まで戻ってくるツアーだという。
 子供の頃から聞いていた山鹿灯籠踊り。私は21世紀になって初めて山鹿灯籠踊りを見に行くことした。

 8月16日は晴れて異様に暑かった。バスの待ち合わせの場所にただ立っているだけで汗がダラダラと流れてくる。夜になれば少しは涼しくなることを願いつつ、やってきたバスに乗り込んだ。バスは途中で博多駅に立ち寄り、九州高速道路を南に向けて進む。お盆の帰省ラッシュにかかっても不思議はない時期だが、バスはスムーズに走り菊水インターチェンジで高速を降りた。バスは緑の中の道路をくねくねと走り、山鹿市街の北にある臨時駐車場に到着した。
 時刻はまだ夕方の4時を過ぎたばかりだ。バスを降りるとムッとした熱気が顔に張り付いてくる。山鹿市は菊池川の辺にあるとはいえ盆地であり、やはり暑さは厳しいらしい。
 灯籠踊りが始まるまでだいぶ時間はある。このツアーは渋滞を避けて早めに到着するように予定を組んであるようだ。ツアーはまず八千代座という芝居小屋を見学し、それから帰りまで全くの自由時間となっている。この予定だと自由に動けるので私にとっては非常に望ましい。

 駐車場からしばらく通りを歩く。昔は豊前街道という街道だったそうで、古そうな建物がいくつか残っている。しかも今にも崩れそうな建物があったりして、まだ観光用に整備されていない古き町並みだ。時間がそこに降り積もり建物を少しずつ朽ちさせている様子が見えて、観光用に整備された町並みとは違った雰囲気がある。
 その通りを進んでいくと左手の奥に山鹿の芝居小屋「八千代座」が見えた。これは山鹿の商人たちがお金を出し合って作った明治の芝居小屋だ。娯楽の少ない当時にあっては山鹿最大の娯楽センターだった場所だ。
 添乗員の旗にくっついて団体専用入り口から中に入る。ここら辺は特別待遇という感じでちょっと気持ちいい。八千代座は文化財の指定がされており、できるだけ当時の雰囲気そのままに復元がなされている。だから今にも滅びそうな古い芝居小屋というよりは、最近になって新たに作られた芝居小屋という雰囲気すらある。
 パンフレットを片手に八千代座の中を見て回る。中はそう広いという感じはしない。マイナーな映画ばかりがかかる映画館並の広さというべきか。正面には回り舞台付きの舞台があり、その手前に木枠で仕切られた枡席がある。枡席の左右に花道が作られ、そして舞台を見下ろすような観客席があり、枡席の外と二階に作られている。広さこそ大したことはないが、構造だけなら現代の演芸ホールにも負けないほどだ。
 ただ、現代の演芸ホールというよりは江戸時代の歌舞伎小屋あたりが基本になっているような気がする。この八千代座が山鹿の人々が楽しめる大衆演劇の芝居小屋を目指して作られた以上、それは当然のことだろう。それでいて天井からはシャンデリアがぶら下がっていたりするのだ。江戸時代の芝居小屋の伝統を受け継ぎながらシャンデリアという舶来のものが加わっている所が、明治から昭和初期にかけて栄えた八千代座の特性をよく物語っているように思う。
 八千代座は観客席だけでなく、舞台裏も見ることができる。舞台の裏には役者の控え部屋や大道具部屋・小道具部屋などというものもあった。そして地下には回り舞台を動かすための「奈落」と呼ばれる場所もある。奈落は石垣に囲まれて薄暗く、地下の牢獄という雰囲気すらある場所だ。そして「人力で」動かす回り舞台の装置と、これまた「人力で」役者を舞台へと押し上げる「迫り上がり」という装置があった。当時は芝居の進行に合わせて奈落の裏方が体力で装置を動かしていたわけで、さぞ大変だっただろうと思う。ただ、パンフレットによると、回り舞台の装置に使われているレールはドイツ製なのだそうで、八千代座は奈落ですらハイカラな匂いのする芝居小屋なのだ。

 八千代座の見学を終えると後は自由時間である。ただし、まだ外は明るく灯籠踊りが始まるまでは時間がある。私は山鹿の街の散策をすることにした。八千代座から道を下っていくと山鹿灯籠の資料館があった。普段は入場料が必要らしいが、灯籠踊りの期間中だけは無料開放するらしい。とりあえず重厚な建物の中に入ってみることにした。

 ここで「山鹿灯籠踊り」がどんなものだか説明しておかねばなるまい。山鹿灯籠踊りとは「そろいの浴衣を着た女性たちが頭に灯籠被って踊る」行事である。「女性たちが頭に灯籠被って踊る」という表現は冗談としか思えないかもしれないが、単なる事実だ。
 山鹿市の公式パンフレットによるとその起源は、景行天皇(←九州各地で軍事活動をしていたという古代の天皇)の故事から来ているという。天皇が菊池川を船で進んでいた時、濃霧のため視界を失ってしまった。その時、山鹿の里人が松明を掲げて天皇を出迎え、天皇は松明の明かりのお陰で無事に山鹿の岸にたどり着くことができた。その故事に因んで大宮神社(←景行天皇を祀る)で灯りを奉る行事が始まり、これが中世に灯籠へと変化したという。
 別の説では山鹿にある金剛乗院という寺院が起源だともいう。中世に山鹿の温泉が枯れたことがあり、再びの温泉湧出を金剛乗院の僧侶に祈願してもらった。祈願の効果があったのか、温泉が再び湧き出すようになり、喜んだ山鹿の人たちはお礼に灯籠を奉納したのだと。
 いずれにしても灯りを神仏に奉納する行事が盆踊りと結びつき、灯籠踊りが始まったのだろう。しかし、「灯籠被って踊る」という、よく考えたらトンデモないことをなぜ始めたのかはよくわからない。ただ、熊本県阿蘇地方に神に奉納する食事を頭に乗せた女性たちが行列を作って神社に参拝するという神事があったような気がするので(←うろ覚え)、あるいはこの地方には「女性が神仏に捧げる大事な物を頭に乗せて神仏に参詣し、神仏への敬意を表す」という風習があったのかもしれない。

 山鹿灯籠資料館の中はクーラーが利いていてホッと一息つける。資料館には踊りの時に被る灯籠(単に「山鹿灯籠」と書いてあるようだった)と飾り灯籠が展示してあった。
 踊りに使う山鹿灯籠は石灯籠のようなものでなく、神社の回廊などに吊されている木製の吊り灯籠を想像してもらったら近いかもしれない。ただし、材質は『紙』オンリーである。木や金属を使っているようにも見えるが、そこも使用しているのは紙なのだ。紙で作る理由はただ一つ、「軽いから」だ。頭に被るものである以上、重ければ踊るどころではない。被るためにも全体を紙で作る必要があったのだ。
 飾り灯籠は踊るための灯籠から発展したらしく、紙だけで城の天守閣や神社の本殿を作り、それを街角に飾るものだ。こういう城や社寺の模型はどことなく「何かバランス違うぞ……」と突っ込みを入れたくなるものが多かったりするのだが、この山鹿の飾り灯籠は見事なものだ。この飾り灯籠を製作するに当たって職人たちはその建物について詳しく調べ、場合によっては現地に出かけていくこともあるという。実は「本物っぽく見えるように微妙にバランスを崩してある」らしいのだが、紙だけで作られたとは思えないほど精巧に作られている。しかも全体として「灯籠」になっていなければならないだけにその見事さは賞賛に値する。
 資料館の説明によると昭和初期に山鹿灯籠作りの名人がいたようで、その人は本格的に日本画も学んだという。そんな名人たちの芸術的努力が今の山鹿灯籠に結びついているのだろう。

 資料館を出て市街地の東側にある大宮神社へと向かう。ここは景行天皇を祀った神社で、灯籠踊りは大宮神社に奉納するお祭りということになっている。とりあえずは参拝しておかねばなるまい。
 大宮神社の参道は地元の青年会などが店やステージを出していた。規模は小さいが手作りという感じがして好感が持てる。
 大宮神社に参拝する。ふと見ると社務所の前で「灯籠みくじ」という物をやっていた。おみくじを引いて場合によっては灯籠が当たるらしい。踊り用の灯籠は街の土産物屋でも売っているが三千円から五千円はする。三百円できれいな山鹿灯籠が当たったならば儲けものだと思い、チャレンジしてみることにした。結果は「大吉」。ただし、おみくじの裏には「絵ハガキ」と書いてあった。絵ハガキは一番下の賞品である。よーするに私は「スカの大吉」を引いてしまったらしいのだ。こ、これは「毎日新聞の休刊日」のような「事象としては何の問題もないが、何となく論理矛盾を抱え込んだような言葉」ではないか…
まあ、逆に言えば「豪華な飾り灯籠が当たった大凶」というものも存在するかもしれないわけで、どちらがいいのかはちょっと悩む。実際「豪華な灯籠が当たった大凶」って、その場ですべての幸運を使い果たしたような気がして結構怖いぞ……
 ところでこの絵はがきは土産に持って帰ったら母親が結構気に入っていた。

 市の中心部に戻るとようやく日も暮れかけてきた。人で賑わうお祭り広場から少し離れた道で早くも灯籠踊りの一団に出会った。まだ暗くなっていないので頭上の灯籠に明かりはついていないが、灯籠を被った女性たちが「よほへ節」という民謡に合わせてゆったりと踊っている。灯籠を被ってなければ普通の盆踊りのような気もするが、金色の部分(当然、金紙)もある灯籠が王冠のようにも見えてなかなか綺麗だ。しばらくこの踊りにくっついて見ていた。この通も豊前街道の一部で古き道である。昔から代々続いてきたらしい店が道の左右に続いている。その中を進む踊りの一団。これが山鹿灯籠踊りの本来の姿なのだろう。
 日も暮れて暗くなってきた。お祭り広場に戻ると少女灯籠踊りというものが始まっていた。人混みの後ろから踊りの列を眺める。アナウンスによると市内の小中学生が主体の踊りらしい。灯籠に光が入り、頭に乗せた光がゆったりと動いている。これが山鹿灯籠踊りなのだ。
 灯りがゆらめかないところを見ると、灯籠の中には電池式の電球が入っているらしい。昔はロウソクを使っていたであろうから、山鹿灯籠踊りの歴史の中には「髪の毛が燃えた」女性が何人かいたのではないだろうか。そんなことを考えながらボンヤリと踊りの列を眺めていた。

 少し踊りの行列を眺めていた後で菊池川のほとりへと向かう。パンフレットによると景行天皇を迎える儀式というのが行われるようだ。
 街の南にある菊池川の堤防に到着すると、灯籠踊りの行われているお祭り広場より人は少ないがそれなりの人が集まっていた。ただ、そのうちの半数以上は白い古代装束に「みずら」のかつらをつけた男性たちである。景行天皇を迎える松明行列に参加する人たちらしい。しかし、そういう人たちが「いやー、ここまで暑いとビールでも飲まんとやっとられんですもんねー」と話している姿は何かマヌケで笑える。
 堤防から見下ろすと川岸に小さなステージが作られ、そのステージの前に松明行列に参加する「古代衣装にみずら」という人たちが集まっていた。菊池川にかかる橋の下には二隻の小舟がいるのが見える。
 しばらくするとスピーカーからナレーターの声が響いてきた。ナレーターは山鹿灯籠祭りの由来を語っている。その間、船からは「まだ早いまだ早い」という声が聞こえてきた。イベントの進行に合わせるという大変なんだなと思ってしまった。そしてスモークを焚きながら船がステージの方へと近づいてくる。ナレーターによると景行天皇を乗せた小舟らしい。岸では松明を掲げた山鹿の里人が景行天皇を出迎えていた。そう、これは神話を元にして作られたイベントなのだ。
 おそらく祭りとしてはごく新しいものなのだと思うが、祭りの本質の一つが「神話の再現」にある以上、このイベントもある意味で「祭り」として正しいのだと思う。
 景行天皇と部下に扮した人たちがステージに上がり、巫女装束の少女から「浦安の舞」の奉納を受けていた。「浦安の舞」はさいたま市の氷川大社で見たことがあるが、「浦安の舞ってこんなに長かったっけ?」と思うほど舞は長く続いた。歓迎の意味での舞なのだろうが、現代の我々にとっては舞が終わるまで少し退屈してしまうかもしれない。そういう意味では昔はすごくのんびりした時代だったのだろう。
 儀式の後、景行天皇とその一行は市街地を通って「山鹿千人踊り」が開催される山鹿小学校のグラウンドに向かって歩き出した。古代装束をつけた男性たちが松明を掲げて後に続くのだが、無数の松明の行列というのはそれだけで迫力がある。電気の力を得た今でこそ我々の周りには光があふれているが、昔の人々にとって闇を照らす光というのは頼もしいものであり、ある意味で神仏に通じるものでもあったのだ。

 私も行列にくっついて歩き、山鹿灯籠踊りのメインイベントである「山鹿灯籠千人踊り」の会場へと向かう。この「山鹿灯籠千人踊り」は名前の通り、千人近くの踊り手が一カ所に集まって踊るもので、「これを見なければ山鹿灯籠踊りを見に来た甲斐がない」とまで言われる。
 山鹿灯籠千人踊りの会場となっている山鹿小学校グラウンドは、実は「灯籠みくじ」を引いた大宮神社のすぐ横にある。その時は中央のやぐらと観客席(野外コンサートなどに見られる鉄骨製の観客席)があるだけでさほど人もいなかった。しかーし、景行天皇の松明行列と共に大宮神社に戻ってきた時、グラウンドは人がびっしりでもはや人など入り込む余地はなかったのである。とりあえず私はグラウンドの横の道に回り込んだ。さきほど大宮神社に来た時に「ここからならば見えそうだ」と思った場所へと歩く。そこはネットが張られている場所で、人の頭越しながら何とかグラウンド内が見える。非常に視界は狭いが、ここで山鹿灯籠千人踊りを見ることにした。
 山鹿小学校グラウンドに通じる部分では「ここからはもう入れませーん!」と警備員が怒鳴っている。明石市花火大会の事故を思い出して少し寒くなってしまう。もし、山鹿灯籠千人踊りを見に来られる方がおられたら、桟敷席(鉄骨製の観客席)のチケットを前もって買われておくことをお勧めする。(ただし、三千円ほどかかる。)

 山鹿灯籠千人踊りは戦後に始まったもので、そう古いものではない。たぶん、観光協会あたりが中心となって「灯籠踊りの踊り手が一度に集まって踊ったら綺麗じゃないだろうか?」という単純な発想で始めたのではないだろうか。
 人の頭越しにグラウンドを見ている私の目にも、灯籠のぼんやりとした灯りの群が写っていた。灯りを引き立てるためにグラウンド内の照明は落とされている。「頭に灯籠を乗せた人たちが集まっている」ということが何とかわかる感じだ。私は「発光キノコの妖精たちが年に一度の大集会に参加している」という気がした。(もっとも発光キノコの色は白色でなく蛍光色であるが。)
 ナレーターの声が聞こえてくる。ここでも山鹿灯籠の起源を語り、続いて景行天皇と松明行列がらみのアトラクションをやっているようだが、この位置からは何をやっているのか見えない。やがて千人踊りが始まった。
 灯りの波。私が思ったことはそれだった。踊りの動き自体はさきほど市街地で見たものと同じだ。ただ、それは踊り手が動いているというより、頭上の灯籠の灯りが一斉に動いているようにしか見えない。しかも灯り自体は強力なものではないので、無数のぼんやりとした灯りが波のごとくに漂っているように見える。「幻想的」という表現がぴったりくるかどうかはわからないが、不思議な光景であることは確かだ。これは間違いなく神仏に灯りを捧げる踊りなのだ。
 曲が終わると急にグラウンド内が明るくなった。強烈な光が踊り手たちを照らし出す。今までは灯籠の光が主役だったのに、今度は踊り手の女性たちが主役となったのである。光に照らし出されたグラウンドでは別の曲が始まった。盆踊り曲でやはり曲のテンポは変わらないが、会場内部の華やかさが全く違う。綺麗なのだ。
 そろいの浴衣を着た女性たちが強烈な光を浴びて踊る。それだけで華やかな感じはあるが、頭上の灯籠の金色の部分が光を反射してキラキラと輝いている。まるで冠をつけて踊っているようだ。夜の闇の中での踊りが「陰」ならば、こちらは「陽」。ふいに私は大日如来を思い出した。
 大日如来は密教の最高尊で、太陽を神格化したものと言われる。いわば仏の世界の王者であり、それを示すために宝冠とアクセサリーを身につけている。その大日如来が集団で踊っている幻想がふいに脳裏をかすめたのだ。宇宙の絶対神が千人も集まってきて一緒に踊るというのはさすがに剛毅な光景だろう。(ただ、場所が小学校のグラウンド(笑)。)
 よく考えたら、この幻想はそう突飛なものではない。大日如来は「光の仏」であり、山鹿灯籠踊りは「神仏に灯籠の光を捧げる踊り」である。『光』という点で両者は確実に結びつくのだ。
 ただ、これらの光景は強力な照明があってこそのものであり、むしろ「闇を照らす光を神仏に捧げる」という本来の意味を否定するものなのかもしれない。
 人間は原人時代に火を使うようになってから、闇を照らす灯りというものを手に入れた。しかし、科学技術の進歩はその灯りすらも越えてしまった。しかもその強烈な光を我々が自由にできるようになったのは20世紀になってからである。そんなことを考えてしまった今回の旅行だった。
 千人踊りを見た後、バスは暗き夜の中を帰っていった――


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