安芸の宮島訪問「女神の島」
※(広島県宮島・2001年8月24日)
2001年8月下旬、日本列島の南を台風11号が牛のような鈍さで通り抜けていった。台風が日本の東海上に通り抜けたのを確認して、私は帰省先の北九州の実家から関東に戻ることにした。私は飛行機は使わない。空港まで遠いこともあったが、やはり地上を移動した方が「旅をした」という感じがあって好ましい。今回も当然のように新幹線で戻ることにする。
ただ、そうは思いながらも6時間以上も新幹線の中で座っているのも苦痛なものだ。途中の新幹線の駅で降りてみようと考えた。普通だったら中間地点の京都あたりになるのだろうが、なぜか私の頭に「広島」、そして「宮島」という言葉が浮かんできた。
安芸の宮島。日本三景の一つであり、宮島の中心となる厳島神社は世界遺産にも登録されている。実は広島に親戚がいて、宮島には何回か行ったことがある。ただ、ここしばらくは宮島から遠ざかっていた。
だが、しばらく訪問しないうちに宮島ではいろんなことがあったようだ。強烈な台風の被害にあって厳島神社の建築が被害を受けたこと、その修復が終わったこと、厳島神社の舞台で歌舞伎などの公演が行われるようになったこと、大河ドラマ「毛利元就」のクライマックスの舞台になったこと、そして原爆ドームと共に世界遺産に指定されたこと。これらの情報はマスコミを通じて私の所に伝わってきた。
21世紀の今、宮島はかつて見た宮島と何か変わっているのだろうか。自分の目で今の宮島を見るべく、私は安芸の宮島に行くことにした。
広島駅の新幹線ホームに降りた私は、山陽本線のホームへと急ぐ。広島市街から宮島口へは私鉄も存在するが、始発が西広島駅であり、新幹線を広島駅で降りた人間が利用するには不便だ。私も当然のようにJRで西に向かう。
鈍行列車の外はよく晴れていて暑い。長い距離を歩くとなると辛そうだなと思いながらも列車はJR宮島口駅に到着した。
宮島は島であり、宮島へ行くのにはここ宮島口から連絡船を利用しなくてはならない。連絡船はJRと民間の二つがある。西広島までなら私鉄と民間のフェリーを続けて利用した方がかなり安いらしいが、広島駅まで戻ることを考えるとJRの連絡船を利用することにする。
連絡船乗り場は宮島口駅から歩いて数分の所にある。まだJRが国鉄だった頃、ミニ周遊券という割引切符があった。これは決められた範囲の国鉄線を乗り放題というもので(ただし、特急には乗れない)、貧乏学生が旅行をする時の定番みたいな切符だった。その中に「広島ミニ周遊券」があり、国鉄の連絡船だった宮島連絡船にも乗ることができた。ミニ周遊券を見せて国鉄の宮島連絡船に乗ったことを思い出したが、宮島口駅に貼ってあった時刻表だと宮島行きの船はすぐに出る。感慨に耽るよりも先に急ぎ足で乗り場へと向かった。乗り場に着くともうほとんどの人は乗船が終わっていたようで、慌てて船の中へと走り込んだ。すぐに船は出航した。
眺めのいい三階の席へと階段を上がる。私の記憶の中にある宮島連絡船はそう新しい船でもなかったが、この船は実に新しいものだ。それもそのはずで今年の4月に就航したばかりだということをテープの案内が語っている。
風の吹き抜ける三階のデッキにはそれなりに人が座っていた。世界遺産に登録されたことが関係あるのか、欧米人らしい家族もいる。
海を船で渡るのは今年初めてだ、と思いながら海峡を眺める。青い夏空の下、青い海の向こうに宮島の山並みが見える。宮島口と宮島の間の海はそう広くはない。しかし、昔は海流の関係もあって瀬戸内海を通る船の多くはこの海峡を通っていったという。船の航海安全を祈る神が宮島に祀られたのはごく自然の成り行きだったのだろう。それが宮島の中心である厳島神社の起源だ。
宮島の連絡船は船が新しくなっただけではなく航路も変化していた。宮島の連絡船ターミナルにまっすぐ向かうのではなく、厳島神社の前の海へと立ち寄るらしい。むろん観光客へのサービスというわけで、そこら辺はJRも経営努力しているのだろう。
実は後で気が付いたのだが、JR連絡船の宮島における船着き場はほんの少しだけ民間のフェリーの船着き場よりも厳島神社寄りにある。この位置を利用してJR連絡船は「厳島神社への道草航路」を独占しているようだ。料金の安さで勝負しなくてはならない民間フェリーは大変だろうなと思ってしまう。
せっかく厳島神社の前を通るんだからと船の右手(つまり島側が見えやすい方)に寄って厳島神社の方に目を向けた。ここで私は変な違和感に気が付いた。厳島神社の大鳥居がどこにあるのかわからないのである。
厳島神社の大鳥居は宮島のシンボルであり、ある意味で厳島神社の本殿よりも有名なものだ。おそらく日本人の多くは海の中に立つ朱色の大鳥居の姿を映像か写真で目にしたことがあるはずだ。私も昔、帰りの船の中から見えた朱色の大鳥居の光景は脳裏にしっかりと刻まれている。それがどこにあるのかわからないのだ。
まだ連絡船は宮島からだいぶ離れている。しかし、私の記憶の中で大鳥居は対岸の宮島口からも見えていたはずである。と、いうより厳島神社の大鳥居は厳島神社の位置が対岸からでもわかるように建てられたと言われるので、海峡の中程まで来て大鳥居の位置がわからない方がおかしいのだ。
焦りながら目を動かし、ようやく大鳥居を見つけだすことができた。しかし、自分の記憶にある大鳥居はもっと鮮やかだったはずだ。今、目にしている大鳥居は生きた伊勢エビのように暗く沈んだ色をしている。まさか台風の被害で一気に鳥居の朱が剥落してしまったのかと少し暗い気分になった。
だが、私はあることにも気づいた。鳥居だけでなく宮島全体があまりはっきりとしていない。私の記憶の中では宮島の山の緑が美しかったはずなのに。ここでようやく私は自分の勘違いに気が付いた。
宮島は宮島口から東南の方角にある。まだ午前中の今は宮島の山の向こうから日が照らすことになる。そして私の記憶にある「鮮やかな大鳥居の光景」というのは時間から判断して夕方に近い午後の太陽が朱色の鳥居を照らし出している光景だったのだ。つまり単なる逆光で大鳥居がよく見えなかったのである。
勘違いに苦笑しているうちに船は厳島神社の前の海にさしかかった。本当のところ厳島神社との距離はまだかなりあるのだが、この位置から厳島神社を見るのは初めだ。修理をやっているのか、本殿の屋根が少し白い。船は左に大きく曲がってターミナルについた。
ターミナルの建物から外に出た。そこには宮島のシンボルである鹿が数頭、のへーっと歩いていた。やっぱりこの光景だけは全く変わっていない。
蝉がうるさく鳴いている。厳島神社の方に向かおうとして、小さい案内板を見つけた。宮尾城への登り口を示す案内板だ。
宮尾城、それは毛利元就軍が陶晴賢軍と戦いを繰り広げた城である。毛利元就は、主家の大内家を滅ぼした陶晴賢の大軍を狭い宮島に誘い込み、ここで陶軍を壊滅させた。その勝利をきっかけとして毛利氏は中国地方最大の戦国大名に成り上がる。
私は何度か宮島を訪ねていても宮尾城に上ったことは一度もない。城に上ってみることにした。宮尾城は小高い丘の上にある。木製の階段で整備された遊歩道を登るとすぐに上についた。小さな祠と説明板があるだけの何もない場所だ。ただ、小高い場所にあるだけあって眺めはいい。正面に赤い五重塔が見える。説明板によると陶軍が本陣を置いたのはその五重塔の近くだったという。陶軍は毛利方の宮尾城を落とすために宮島へと渡ってきたのだ。城とそこは意外と近い。毛利の籠城軍は陶軍を間近に見ながら必死になって籠城戦を戦い抜いたのだ。
そして目を左に向けると思わぬ光景が広がっていた。瓦屋根の並ぶ集落。道路には郵便バイクが走っているのが見える。人の暮らす町がそこにはあった。
今まで宮島を何回か訪れて、宮島に住む人は観光業に関係した店がほとんどだろうと思っていた。宮島は「神の島」であり、様々な禁忌がそこに住む人に課せられた。たとえば島内に墓地を作ることは許されず、また昔はお産の時には対岸に渡って子供を産んだという。そんなことを聞いていたために「島には観光業の人しか住んでいないのだ」と勝手に思いこんでいたのだ。
しかし、目の前にはそう広くはないが町並みが静かにたたずんでいた。まるで観光客の目から逃れるように、その町並みは宮尾城の向こうに存在していた。日本でも有数の観光地である「安芸の宮島」にも、観光とは直接の関係を持たない人たちが暮らしていたのである。これは意外な発見だった。
宮尾城から降りて厳島神社へと向かう。海沿いの道と土産物街と道が二つに分かれている。どちらを通っても厳島神社に着くはずだ。私は土産物街を通ることにした。久しぶりに通る土産物街は新しくまたオシャレになっていた。以前通った時は昔ながらの土産物屋が並んでいた。今見ている土産物屋は基本的にはただの土産物屋だが、どの店も小綺麗なのである。そして何軒かはハーブの店など「オッシャレーな店」が混じっている。
人気のある観光地では必ずオシャレな店が開店している。つまり21世紀になっても宮島は人気観光地であり続けていることを意味する。おそらく一年だけで終わるはずだった「毛利元就」による宮島人気が『世界遺産』に登録されることによって落ちることなく、ブランドとして定着したのだ。しばらく「安芸の宮島」は広島の人気観光地の座を保っていくだろう。
しかし、土産物屋で売っている土産物は新世紀になってもやっぱり昔の匂いを残している。宮島土産の定番である「しゃもじ」。中の餡の種類がやたら増えていた紅葉まんじゅう。やはり宮島はこうでなくてはいけない。
土産物街を抜けると厳島神社の『朱の大鳥居』が見えてきた。さきほど船から見た時はあまり鮮やかさを感じなかったが、ここから見るとやはり昔の色でホッとする。この場所は潮の干満の差が大きく、時間によって「海面に映える大鳥居」と「鹿が下を歩ける大鳥居」の二つの光景が楽しめる。今は満潮に近い時間らしく、海面の上に朱色の鳥居という状態だ。
厳島神社の入り口まで来た。拝観料を払って神社の回廊の中に入る。満潮が近いので境内には海水が満ちている。厳島神社は本殿が海の上に建っているという世界でも珍しい神社だ。厳島神社は宗像三女神という航海安全の女神を祀っている。その海の女神に相応しい神殿だといえるだろう。
当然、木製の回廊の左右にはアオサノリの漂う海水が広がっている。もし、回廊の床板が腐っていてそこを足で踏み抜いたりしたら、いきなり海に足を突っ込むことになる。海の上を歩いているという感触。それがこの厳島神社の回廊には存在する。
このような不思議な建築物はどうして作られたのだろうか。前にも書いたが、宮島は神の住む島であり、古代には足を踏み入れることすら憚られる聖地であった。古代の人たちは島の岸に運んできた木で祭場を作り、そこで神を祀った。後に厳島の女神を信仰した平清盛は都の寝殿造りを持ち込み、厳島神社を女神の豪華な神殿に作り替えた。
ただ、厳島神社の本殿は木造である。もし、人々の維持修理の手が入らなければ短期間で腐り果てるだろう。しかし、厳島神社は今も存在し、『世界遺産』にも登録された。これは今まで人々が厳島神社の女神に熱心な信仰を向け続けたことに他ならない。今も本殿中心部は修理中のようで、鉄の支えが見えているが、これも仕方のないことだろう。
しばらく回廊を歩くと「鏡の池」と呼ばれる場所に来た。池と言っても海の一部なのだが、朱色の五重塔を背景にアオサノリがぷかぷか浮かんでいる静かな水面というのは、不思議な光景だ。おまけに秋が近いためか「鏡の池」の上をアカトンボが飛んでいる。ふと回廊の下の方を見ると、海水が上ってきていない砂地に穴が無数に開いている。そこからのっそりと蟹が出てきて砂を外に出していた。蟹の巣穴というわけだが、境内にこれだけ蟹が生息している神社は当然のように厳島神社だけだろう。
修理中の本殿に参拝し、本殿の前にある舞台へと歩を進めた。ここからは海の中に『朱の大鳥居』が立っているという厳島最大の絶景ポイントだ。来た人が次々と写真を撮りまくり、私もカメラのシャッターを頼まれた。舞台の先端にある銅灯籠は古い物のようなので、ぜひとも年代を確かめたかったが、人が次々とその灯籠(正確にいうとその背景にある大鳥居だが)をバックに写真を撮り続けているので断念した。
本殿から回廊を進むと海側に能舞台が見えてきた。厳島神社の建物は朱色と白で彩られた鮮やかなものが大部分であるが、この能舞台は茶色の地味な建物である。この建物にカメラを向ける人は誰もいない。だが、私はこの能舞台を感慨深い目で見ていた。かつて台風のために、完全に倒壊した厳島神社の建物。それこそがこの能舞台なのだ。しかし、目の前にある能舞台は倒壊した経験があると思えないほど、静かにたたずんでいた。背後にはこの能舞台の修理に力を尽くした職人の努力があったことを思う。
能舞台を過ぎると回廊の終点が近づいた。海の女神の神殿の出口である。
厳島神社の出口から出るとたいていの観光客は連絡船乗り場の方へと戻っていく。私はちょっとここら辺にとどまることにした。
厳島神社から出てすぐの所に門がある。広場の中にポツンと寺院の門が立っていてその向こうに横長の寺院の本堂が見える。大願寺だ。
宮島は「竹生島・江ノ島」と並んで日本三大弁財天の霊地とされている。神仏習合により厳島神社こそが弁財天の社であったのだが、明治の神仏分離により弁財天的なものはすべてこの大願寺に運び込まれた。つまりこの観光客のあまり来ない大願寺こそ日本三大弁財天を祀る寺院なのだ。しかし、境内は狭く、横長の本堂にいろんな神仏をまとめて祀ってあるような寺院ではあったりする。
その本堂の片隅に意外な歴史の舞台が存在する。幕末に幕府と長州藩が戦った第二次長州征伐で、事実上勝利した長州藩と幕府の勝海舟が交渉を行った部屋があるのだ。おそらく長州藩の近くでなおかつ交通の要所ということで、この宮島が交渉場所に選ばれたのだろう。中は修理工事中でよくわからなかったが、敗戦交渉をどうまとめるのか勝海舟がこの部屋で苦闘していたに違いない。これもまた宮島の歴史の一コマだ。
大願寺のすぐ先にある宮島歴史民俗資料館に行く。大願寺もそう参拝者は多くなかったが、ここはほとんど客がいない。町立とはいえ、経営的には赤字だろうなあと思いながら中を見て回る。この資料館は宮島の豪商の家を修理改造したもので、江戸期の商家の様子がよくわかる。それだけでも見る価値はあると思うが、宮島の資料を収めた建物がいくつもあり、なかなか見応えのある場所だった。
江戸時代の宮島の様子を描いた絵画、宮島の信仰を伝える資料、かつて宮島に存在しながら今は廃れてしまった特産品、今の宮島の名物であるしゃもじに関する資料など興味深いものが数多くある。ただ、普通の人が見て面白いかというと疑問かもしれない。単に古くさいものが並べられている、という感想を抱くのが普通だろう。
しかし、すっかり小綺麗になってしまった宮島の中で、ここだけは昔の匂いを保持している。人々が忘れてしまったものがここには確かに存在していた。
ここで宮島の名物である「しゃもじ」について説明しておこう。実は今の形の「しゃもじ」はこの宮島で発明されたとも言われている。
しゃもじは飯をすくい取るための「しゃくし」である。宮島のしゃもじが発明されるまでは、しゃくしは「おたま」のような形をしていた。この形のしゃくしは滋賀県の多賀神社の周辺で発明され、「お多賀杓子」と呼ばれていた。蛙の子供を「おたまじゃくし」というのは「お多賀杓子」に形が似ているからだという。
先ほど書いたように、宮島は「神の島」であり島民の生活には様々な制約があった。当然、島民は一部を除いて貧しいものだった。江戸時代中期、その様子を見た誓真という僧侶は島の人々を救う決意をする。良質な水が得られずに苦しんでいた島民のために井戸を掘り、そして島の産業としてある物を発明する。それが宮島の「しゃもじ」であった。誓真は弁財天の持つ琵琶の姿からヒントを得て、飯を専門にすくい取る「しゃもじ」を考え出したのだ。
今までのしゃくしは飯も汁もすくうことができるものだった。しかし、飯をすくい取ることに特化することによって、飯をすくうだけでなく、飯をかき混ぜたりすることも可能になり、飯に関しては「しゃもじ」のみが使われるようになった。
しゃもじはヒット商品となり、島も潤ったという。今でも島の人たちは誓真の恩を忘れておらず、土産物のしゃもじの袋にも「誓真大徳の御徳」と書いてある。偉大な発明は人々を救い、人々の記憶に残っていく。
資料館を出て宮島名物「あなご飯」を食べる。ウナギに比べればさっぱりした味だ。ふと「ウツボ飯」とかいう食べ物は日本のどこかにあるんだろうかと思ってしまう。
連絡船乗り場へ戻る前に五重塔と千畳敷に向かう。明治以前は厳島神社に付属する仏教的建築物だったが、明治以降は仏教的なものを排除している。丘の上にあり、宮島の風景の一部を担っている建物だ。
階段を上ると五重塔の手前に竜髭松という横に長く伸びた松があった。ここまでになるまでには、さぞかし手入れが大変だったと思う。ただ、松の枝が低く伸びているために「凄いはずなのだが迫力に欠ける」という奇妙なものになっていた。
五重塔は白と朱色で塗られた小綺麗な塔であるが、塔としての役目は終えているために(中の仏像は明治に大願寺へと移された)、存在自体が所在なさげに見えた。
拝観料を払って「千畳敷」に入る。この千畳敷は豊臣秀吉が作らせた大経堂であり、明治になってからは厳島神社末社で豊臣秀吉を祀る豊国神社ということになっている。「畳が千枚敷ける」ほどの広さなので「千畳敷」という名前があるらしい。(実際に敷くことができるかどうかは疑問だが。)
拝観料を払って中に入る。板の間が広がり、風の吹き抜ける空間。梁の上には古い絵馬がかかっている。私は「あれ?」と思った。
だいぶ前だが、この千畳敷には入ったことがあった。その時、この建物には無数のしゃもじが奉納されていたはずだ。その中には人の背丈を超えるものもいくつかあった。今は何もない。
不審に思って千畳敷の中を歩く。正面に豊臣秀吉を祀った小さな社があり、その横にしゃもじを奉納する場所があった。その後ろには願い事を書いたしゃもじが奉納されていたが、その数はわずかなものだ。おそらく昔あったしゃもじは撤去されてしまったのだろう。すっかり小綺麗になってしまった千畳敷。ただ、それはどことなく空虚な感じがした。何となく「がらんどう」という言葉が頭をよぎっていく。夏の日差しの中で蝉が鳴いていた。
帰りの連絡船から振り返ると、厳島神社の『朱の大鳥居』と山の緑が昔の記憶の色彩のままに見えていた。宮島はあまり変わっていなかった。多少、20世紀の汚れを洗い流していたとしても。そして宮島は女神様がいる限り、未来も「神の島」であり続けるだろう。