
「日帰り善光寺」
※(長野県長野市・2003年4月29日)
★善光寺前立本尊御開帳
長野は善光寺の国である。と、いうより長野県は山や谷が多くて地域としてのまとまりが悪く、それを善光寺が精神的な長野県のシンボルとしてまとめているのだとも言われている。
その善光寺で今年、七年に一度(正確には六年に一度。これは「数え」で年を数えているため。)の御前立本尊開帳が行われる。私は前回の御前立本尊開帳にも出かけているが、やっぱり七年に一度の歴史的なイベントだ。それに、その七年の間に長野では新幹線が開通し、冬季オリンピックが開催され、知事が変わった。何が変わったのかを見てみたい気もして、私は長野に行くことにした。
★新幹線に乗って
4月29日、私は朝早く起きてまず埼玉県の大宮駅に向かった。東京都内から新幹線に乗ってもよかったのだが「少し安い」という理由だけで、大宮駅で新幹線に乗ることにした。
長野新幹線(正確には長野行新幹線という妙な名前)の「あさま号」に乗車する。朝早いせいかそんなには混んでいないが、サラリーマンらしき人が結構多い。ただし、次の高崎駅でかなりの人が降りた。東京と高崎間はビジネスで利用する人が多いのだろう。
新幹線は関東を抜けて、別荘地として知られる軽井沢を駆け抜けていく。さすがに標高が高いせいか、芽吹いていない樹木もある。その中で白い花をつけている木が目に付いた。少なくとも桜ではないが、何の木なのかはわからない。
新幹線は順調に進み、八時過ぎには長野駅に到着した。前回の長野善光寺参りは高速バスを利用したが、朝早く出ても到着するのは昼前後だった。それを考えると、本当に新幹線は早い。とにかく地方の経済界が新幹線を欲しがる気分がわかるような気もする。ただ、新幹線の盲腸線を増していけば財政負担はとんでもないことになるのだろうけど。
長野駅は近代的な駅舎に変わっていた。以前の駅舎は寺院建築に似せた味のある建造物だったので、よそ者の私としては「つまらん建物に変わってしまった」という感想しか抱けない。新しく作るならもう少しデザインを考慮してもよかったのではないだろうか。
★善光寺への道
「駅前食堂」という名前の定食屋で朝食を済ませると、善光寺へ向かう。料金が百円だったのでバスを利用しようかとも思ったが、バス停にはとにかく人が並んでいる。並ぶのは嫌なので、二キロほど歩いて善光寺に向かうことにした。
中央通をしばらく進む。ここは善光寺への参道として開けた通りで、今でもところどころに土産物屋が見える。ちょっと覗いてみると、なんとカールおじさんがマルコメ君化していた。つまりお土産品としての「地方カール」の一種なのだが、長野では「マルコメ君」と手を組み、信州味噌味のカールになっていたのである。(さすがにリンゴ味のカールにするわけにはいかなかったのだろう。)
道路の歩道には花を植えたプランターが並んでいた。これは「善光寺花回廊」というイベントのためだ。善光寺の御前立本尊開帳を盛り上げるため、善光寺へと続く中央通を花で飾ろうというイベントだ。御前立本尊と回向柱を結ぶ「金の糸」にひっかけてキンセンカが多く、次いで季節柄かパンジーが多い。あまり派手ではないけれども、こういう盛り上げ方は好ましい。
★「刈萱」
中央通の途中に西光寺という寺がある。説教浄瑠璃『刈萱』(かるかや)で有名な寺だ。もっとも私もその『刈萱』についてよく知っているわけではない。ただ、名前だけは小学生の時に聞いていた。それは福岡県の大宰府の遺跡めぐりの時に出くわした名前だった。事典で知った『刈萱』のストーリーを簡単に述べてみよう。
昔、大宰府の近くに武将がいたが、世の中の無常を感じ、妻と生まれたばかりの子供を捨てて出家してしまった。京都で法然上人の弟子となっていたが、妻がやってくるのを恐れ、女人禁制の高野山に移り住み、名前を刈萱道心と改めた。その刈萱の元に少年となった息子の石堂丸がやってくる。自分の顔を知らない石堂丸に対して、「お探しの父上は去年亡くなりました」と告げる。石堂丸は結局父親と知らずに刈萱の元で出家した。しかし、そのうちに「二人は親子である」という風聞が立ち、刈萱は長野の善光寺に移り住み、そこで一生を終える。
室町時代には成立していた話のようで、節をつけて謡う説教節として江戸時代には相当人気があったらしい。その刈萱が住んでいた寺が西光寺だと言われるのだ。
西光寺はそれほど大きな寺院ではない。それでも本堂の奥では、刈萱が刻んだ地蔵菩薩像と、それを石堂丸が模して作った地蔵の二体の地蔵菩薩像「親子地蔵」が開帳されていた。いろいろと各地の仏像を見てきた私だが、独尊や三尊像ではなく、同じ菩薩像のタッグという例は珍しい。おそらく『刈萱』伝説を基にして作られた特別の仏像なのだろう。
★大門まで
セントラル・スクウェアという広場の横を通る。ここは確か、長野オリンピックで表彰式が行われた場所ではないだろうか。今の長野市にはオリンピックの痕跡はそう多くはない。まあ、主な試合会場が市街地にはなかったことも影響しているのだろうが、あくまでも一過性のイベントだったからだろう。ある意味で、長野新幹線を含む長野市の開発も「一過性のイベント」で終わった可能性もなくはないと考えてしまった。
善光寺の大門の屋根が見えてきたと思ったら、急に人が混みだしてきた。その混み具合は「休日の原宿の竹下通り」といっても過言ではない。ある程度、予想していたとはいえ、この混みようは想像を超えていた。
ガードマンが交通整理する信号を何とか渡ると、そこは「インフォラータ・イン・NAGANO」の会場だった。
★「インフォラータ・イン・NAGANO」
ヨーロッパでは道路を花で飾るお祭りがある。そんなお祭りの一つに「インフォラータ」という名前のものがあるらしい。それを善光寺御開帳に合わせて長野で開催したものが、「インフォラータ・イン・NAGANO」なのだ。これは4月29日と30日だけ開催され、実は私がこの日に長野行きを決意したのは、この「インフォラータ・イン・NAGANO」の情報を手に入れたからだ。
人込みを押し分けるようにして進むと、何とか人の間越しに「花びらで模様の描かれた道路」が見えてきた。場所は善光寺大門の前から少し下り坂になっている百メートルほどの道路。普段は車の通る部分を花で埋め、左右の歩道から見物するようになっている。模様は幾何学的なもので「貴族のお嬢様のドレスの柄」を思わせなくもない。
もらったパンフの説明によると、花びらは更埴市などで栽培されている球根育成用のチューリップのものを使用しているとのこと。球根育成用のチューリップは観賞用のものと違い、花に栄養が行かないよう花が咲くとすぐに花を取り去ってしまうのだと聞いたことがある。つまり産業廃棄物の一時的な有効利用と言えなくもない。その証拠に「あと数日放置しておけば間違いなくゴミになるだろーな」的な匂いが微かにしていた。こりゃあ、二日間しか開催できないわけだ。
よく見ると花びらの他には、茶色の部分に木のチップ、緑の部分に杉の葉、そして白い部分と黒い部分は石だった。何か黒い花を使っているのかと思っていたので、少しガッカリする。
「インフォラータ・イン・NAGANO」の会場横に、八幡屋磯五郎本店を見つけた。ここは善光寺土産として江戸の昔から知られた七味唐辛子の老舗である。当時、名物の食べ物といえばその場に行って食べるしかなかった。そういう点で持って帰ることのできた「唐辛子」は土産として喜ばれたのだろう。
実家へ帰省した時の土産として私も小さな缶入りのものを買い求めた。ふと気がつくと、店内では「ベビースターラーメン」を売っていた。当然「長野バージョンのベビースターラーメン」で、「戸隠のそば粉と八幡屋磯五郎の唐辛子を使用した」と書いてあった。どうも長野ではやたら「タッグの土産物」が多いらしい。箱入りでなかったら私も買ったと思うが(正直持って歩くのに邪魔になる)、唐辛子の小缶だけを買って外に出た。
★ソフトクリーム浄土
大門をくぐると「仲見世」と呼ばれる、土産物屋が並ぶ通りに入る。やたらソフトクリームの店が増えていた。私が訪れた六年前には存在しなかったが、今となっては善光寺の参道でえらく話題になっている食べ物があった。それが「味噌ソフトクリーム」である。(ドッギャーン!)
この味噌ソフトクリーム、「すや亀」という長野市の味噌の老舗が開発・販売したもので、旅番組でも取り上げられたりしてえらく話題になったシロモノなのだ。この味噌ソフトクリームの人気(?)に引きずられる格好で、リンゴソフトクリームや抹茶ソフトクリームなどがあちこちで売られている。
こういう変なものは食ってみなくてはなるまいと思ったが、手に入れたパンフによると「すや亀」の本店でも売っているらしい。わざわざ混んでいる所で食べることもない。仲見世を素通りして善光寺の境内に向かった。
★人に押されて善光寺
善光寺境内は実に賑やかだった。いや、「うるさい」という表現の方が正しい。ガードマンが拡声器で叫んでいる。時々、上空からはヘリの爆音。そして何より―、うおおおっ、なんだ、この人ごみは!? ある程度多いとは覚悟していたが、この人口密度は東京のターミナル駅の雑踏に匹敵する。なんせ本堂前に建てられた回向柱に触るため「だけ」に百メートル以上の行列ができていたほどだ。
回向柱とは前立本尊開帳中だけに建てられる木の柱であり、前立本尊の手に結ばれた糸と綱で結縁されている。つまり回向柱に触ると、前立本尊と握手してもらったことになるのである。ただ、どんな人でもペタペタと20秒も触っていれば気の済むもので、その20秒のために百メートルの行列。この回向柱は前立本尊開帳の名物ではあるが(境内には回向柱ストラップという謎なものまで売られていた)、とりあえず回向柱に触ることは諦めた。
内陣参拝券を買い、本堂内陣参拝だけでもすることにした。ただし、本堂内陣参拝も大行列。ガードマンが「四列にお並びくださーい」と叫んでいる。もしかすると、ここは長野ではなくて東京のイベント会場なのかもしれない、という幻想にちょっと囚われてしまった。
★お待たせしました、私が善光寺如来です
ここで善光寺如来について説明しておこう。善光寺如来とは、善光寺本堂の奥に安置されている絶対秘仏の仏像だ。
縁起によると、インドの月蓋長者の娘・如是姫の病気を治すため、お釈迦様が阿弥陀様の力をこの世に出現させようとお釈迦ビーム(←び、ビーム?)で作り出した仏像とされている。この仏像はインドからまず中国に伝わり、そこから朝鮮半島の百済国に伝わった。そして百済の聖明王から大和朝廷に贈られたという。しかし、当時の大和朝廷は仏教の受容を巡り、蘇我氏と物部氏との間で争いが続いており、この仏像は難波の海に捨てられてしまった。その頃、信濃国から大和朝廷に出仕していた本田善光という人物がいた。本田善光が難波の海に通りかかった時、突然仏像が海から出現した。善光に向かって仏像は、善光の故郷に連れて行ってくれと命じた。善光は仏像を故郷の信濃につれて帰り、お堂を建てて安置した。それが善光寺の始まりだという。
これは伝説に過ぎないが、善光寺如来を写したといわれる仏像を見る限りでは、飛鳥時代の仏像の様式が見られ、善光寺如来像が飛鳥時代の仏像だと考えてもおかしくはない。確実な証拠はないが、私は百済から日本に来た百済王族の一人・禅興の念持仏ではないかと考えている。そして信濃地域に興味を持っていた天武天皇か持統天皇の頃に、信濃に運び込まれたと推測する。
ただ、この善光寺如来は絶対秘仏であり(一説によると、室町時代に修理した跡を隠すためとも言われている)、誰も見ることはできない。それで「善光寺如来に最も近い」とされているコピーを前立本尊として、六年に一度公開する。それが前立本尊御開帳なのだ。
普段は宝庫に収められている前立本尊が、御開帳期間中は本堂奥の中央に安置される。何十分もかかって、ようやくその前までたどりついた。前立本尊はそう大きいものではないが、照明が当てられてなかなか綺麗だ。しかし、行列が続いているのであわただしく参拝して、行列から脱出した。
ところで本当の本尊の善光寺如来はというと、前立本尊の横にある厨子の中にいるはずだ。その厨子の前だけは、がらーんとしていてほとんど開店休業中状態。つまり善光寺前立本尊開帳とは、副社長の「前立本尊」にスポットが当たり、社長のはずの「善光寺如来」がのんびりしているという、よく考えたら結構不思議な行事だったのだ。
★幻の戒壇巡り
内陣参拝券で「戒壇巡り」もできるようになっている。「戒壇巡り」とは善光寺本堂の地下に作られた暗黒の廊下を手探りで進み、その途中にある「極楽の鍵」と呼ばれる金具に触ると極楽往生が決定するというものだ。
戒壇巡りは善光寺参りのハイライトとも言われているが、この人込みではどれくらい時間がかかるかわからない。また戒壇巡り自体は前回経験しているので、とりあえず今回はパスすることにした。
ちなみに「極楽の鍵」とは、細長い金具で上部に蝶番みたいなものがあり多少上下方向に動く。情報によると「独鈷」という密教の法具を模しているらしい。前回暗闇の中を歩いてみた経験では「人間はとにかく視界に頼って行動しているのだな」ということを強く実感した。昔の人はその闇の向こうに善光寺如来の姿を見たのかもしれない。
★善光寺のお宝
本堂を出て近くにある宝物展会場に行く。前回の開帳ではなかった行事なので、ぜひとも見ておかねばなるまい。博物館というよりは、普段は広間として使われている場所を会場にした雰囲気がある。そこに仏像がずらりと並べられていた。
時代的には江戸期以降のものがほとんどだ。これは戦国時代に善光寺の近くで川中島の合戦が行われ、善光寺も被害を受けたことが大きいだろう。
その時から四十年あまり善光寺如来は戦国武将の手によって各地を放浪することになる。まず武田氏の手によって甲府に移り、武田氏が滅んだ後は織田信長の手によって尾張に移動。その後も徳川家康によって浜松に移ったり、また甲府に帰ったり、豊臣秀吉の命令で京都の方広寺に来たりと各地を彷徨った。秀吉亡き後、善光寺如来は長野に落ち着いたが、すぐに甲府に戻した家康を除いて、善光寺如来を手に入れた戦国の英雄たちは悲惨な結末に見舞われた。(武田氏は滅亡、織田信長は本能寺に倒れ、豊臣秀吉は善光寺如来を方広寺に迎えてから間もなく病死。)どうも善光寺如来は天下人といえども勝手にしてはいけない存在らしい。
そういうこともあるのか、善光寺本堂の建設には徳川幕府の強い援助があったという。(ただし、時代は家康からかなり下って綱吉の頃になるが。) それで江戸期の仏像が多いのだと思われる。時代はさほど古くはないが、それなりに重量感がある。
仏像とは別に奉納された絵馬も展示されていた。こちらは庶民の信仰を伝えるもので、「働く魚屋さんの前に突如善光寺如来出現!」という、よく考えるとシュールなものもあったりする。(魚屋を営んでいた人物が極楽往生を願って奉納したらしい。)
★大往生!
宝物展を出て、善光寺から北西にある往生寺に向かった。ここも西光寺と同じく「刈萱」の伝説を伝える寺であり、ここの梵鐘は童謡「夕焼け小焼け」に出てくる山の寺の鐘だとされている。(作曲者の草川信が長野市の出身。ただし、作詞者の中村雨紅は東京八王子周辺の情景を詩にしたらしいが。) 高台にあって眺めもよさそうなので、訪ねてみることにしたのだ。
善光寺から往生寺まではひたすら坂道を真っ直ぐ行けばいいらしい。「洗濯屋ケンチャン」という怪しい名前のクリーニング店の横を過ぎて上っていく。善光寺の境内は人でごった返しているが、こちらは静かなものだ。電柱に記された地名表示を見ると、「往生地」という変わった地名が書かれてあった。
おそらく善光寺如来を信ずる人たちが極楽往生を願って住み着いた場所なのだろう。「刈萱」でも刈萱道心は「善光寺奥の院」に住み着いたとされ、中世にはそういう人たちが多くいたと思われる。
道の左右に関東ではすでに散ってしまった八重桜や、白いリンゴの花が見られる。(パンフによると、この場所で長野県のリンゴ栽培が始まったとのこと。)
天気も実によく、のどかな春のハイキング―のはずなのだが、進むにつれて辛くなってきた。とにかく進んでも進んでも坂道。その上、進めば進むほど勾配が急。「往生地で往生」しそうな気分になってしまった。こりゃあ、確かに観光客の来る所じゃなさそうだ。
それでも往生寺まであと一息という所まできた。うおおっ、さらに坂道が急! でも、この道もしっかり車道であり、この時私は「凄いぞ、車!」と変な感心をしていた。
なんとか往生寺に到着。そんな私を待っていたのは「拝観料300円」の文字だった。苦労してたどり着いた結果が「三百円払え」。この時、私の心の中では「大往生ーっ!」という叫びがこだましていた。
★山のお寺
このまま引き返したのでは本当に大往生しそうなので、三百円払って境内に入る。山の斜面にあるためか境内はさほど広くない。ここの本堂の前にも回向柱が立っていて、善光寺の回向柱の代わりにペタペタ触りまくった。途中の道ではほとんど人に出会わなかったが、何人か観光客がいる。自動車であの坂を上ってきたらしい。改めて恐るべし、現代テクノロジー。
本堂に入ると寺の人が「刈萱縁起」の絵解きをしていた。「絵解き」とは物語の各シーンを描いた掛け軸(一軸のこともあれば、数軸使われることもある)を前に、僧侶が物語の説明をするものだ。民俗学の本で「絵解き」という単語は何度も見たが、実際に体験するのは初めてだ。
僧侶が高い声の調子で掛け軸の絵の説明をしていく。「歌」というほどでもないが、「節」に似た調子で説明する。私の知る範囲で一番近いのは「日本で最初に行われた、別府温泉での観光バスガイドの説明口調」だろうか。たぶんこれらの「絵解き口調」を参考にして初期の観光バスガイドの説明口調が考え出されたのだろう。
ふと気がつくと犬がこちらを見ていた。先客の人がテリアみたいな犬を抱いていたのだ。さすがに犬にとっては「絵解き」はなんだかわからず、後から入ってきた私に興味を持ったらしい。すると、私は「刈萱縁起の絵解き」よりも魅力的だったのか。ただし、あくまで「犬レベル」での話だが。
絵解きが終わると、本堂右手奥にある刈萱道心像に案内された。厨子に収まっていて小さなものだ。その背後には、こちらにも「親子地蔵」二体があった。刈萱道心が彫った地蔵像を真似て、子供の石堂丸が彫ったとされる二体の地蔵。ただし、西光寺のものと比べればかなり小さい。昔の善光寺周辺では「親子地蔵」がトレンドだった時期があるのかもしれない。
本堂を出て裏山に上る。眺めがいいかと思ったが、樹木が微妙に邪魔をしてさほどでもない。それでも長野の街に背の高い建造物が増えていることだけは理解できた。
最後に「夕焼け小焼け」のイメージの元になったと言われる梵鐘を見て(さすがに普通のお寺の鐘だった)、往生寺を後にした。
★善光寺の梵鐘
下り坂だけあって帰りはさすがに早い。膝に負担がかからないよう注意しながら坂を下り、善光寺まで戻ってきた。
往生寺の鐘を見て、見忘れていたものがあったことを思い出した。やっぱり人で混んでいる本堂前を横切って「鐘楼堂」に向かう。そこには大きな梵鐘があった。観光客で注目しているのは私だけだが、かつてこの鐘は世界中の注目を集めたことがある。そう、長野冬季オリンピックの開幕を告げる合図に使われた鐘こそ、これなのだ。
NHKの「ゆく年くる年」で日本中にその音を響かせた鐘は多いが、世界中にその音を鳴り響かせた梵鐘はこれぐらいなものじゃなかろうか。
ほんの一瞬だけ世界中の注目を集めた鐘も今は静かに佇んでいるだけだった。
★善光寺の○○
善光寺の梵鐘をモチーフとした最中があると聞いたので、「善光寺」の名称を使った商品を集めた土産物売り場に行ってみた。「善光寺鐘楼最中」という名称で、また三個入りのお手ごろ品だったので買い求めた。
ここは「善光寺」の名称を許可した商品が並んでおり、『インパクト語録』にも登場した「善光寺なごみそば」まで置いてあったのには笑ってしまった。中には「善光寺プリン」なんてものもあったが、「善光寺」と「プリン」、わざわざ結びつける必要はあったんだろうか……?(「善光寺如来は甘いものがお好き!」てなことがあったりして。直接の関係はないが、歓喜天という象の頭をした神は甘いものが好きだとされていて、京都では「清浄歓喜団」というお菓子が売られている。)
★それがミソ
回向柱など触るべきものには触っていないが、見るべきものは見たので、善光寺を後にした。向かうは「すや亀」本店、狙うは味噌ソフトクリーム。中央通をまたもやテクテクと歩き、パンフに載っている「すや亀」本店に向かう。
中央通から少し入った所に「すや亀」本店はあった。観光客で賑わう中央通に比べれば静かな生活道路という感じだが、それでも店の前には十名以上の観光客らしき人間が、椅子に座って「全員」ソフトクリームを食べていた。
すや亀は酢屋亀と書くようで、長野でも知られた味噌の老舗と聞く。でも、見た感じはアイスクリーム屋以外の何物でもない。とりあえず中に入ってみた。店内はそう広くはない。右手には食事をする所があり、看板からすると「味噌焼きおにぎり」なんてものを売っているらしい。左手の方で味噌を売っているようだが、お菓子も売っていたりしてノリは間違いなくアイスクリームショップ。(むろん、いうまでもなくそのお菓子も味噌入りだったりするのだが。)
どこで味噌ソフトクリームを売っているのか、戸惑っていたところ、女性の店員さんが「味噌ソフトですか?」と聞いてきてくれたので「一本お願いします」と頼んだ。店員は右手の食事処の方に消えた。どうやら左の方は本当に味噌の販売所らしい。店の感じは間違いなくアイスクリーム屋なのだが。
しばらくして店員さんがソフトクリームを手にして出てきた。見た目は普通のソフトクリーム。でも、ちょっと茶色。ソフトクリームを手にして店頭に出る。また客が入ってきたところを見ると、とにかく長野で流行の食べ物らしい。(地元民の間でも流行っているのかどうかは不明。)
一口食べてみた。感想、「味噌入りのソフトクリーム」。いや、それ以外に適当な表現が思いつかない。もう少し回りくどく言うと「イロモノ道に身を落としかけたが、寸前で思いとどまった」てなところだろうか。完全にイロモノになってしまっては決して流行の食べ物にはなれなかっただろう。しかし、「抜群のうまさで名物の地位を強奪した」とも違うような気がする。確かにソフトクリームを食べているのだが、「今、俺は確実にナトリウム分を摂取している!」ということを実感できるソフトクリームも珍しいと思う。
旅の最後は老舗の謎食品を味覚して締めくくりとなった。
★六年ぶりの長野
帰りは長野駅から再び新幹線を使い、アパートへと戻った。意外と早い時間に戻り、料金の高さにさえ目をつぶれば、関東郊外の観光地に出かけた感覚だった。
さて、六年ぶりの長野善光寺だったわけだが、21世紀になっても善光寺如来のご威光は健在だったというべきか。善光寺は昔から人々が参詣に訪れた場所だが、これからも「ちょっとだけ極楽気分」を楽しめる所であってほしいものだ。
(終わり)