
「大江戸小紀行」
※(東京都府中市・千代田区・2003年8月27・28日)
今年は徳川家康が江戸に幕府を開いてから四百年目の年に当たる。(ただ、家康が征夷大将軍宣下を受けたのは京都の伏見城においてであり、それから亡くなるまでの家康は江戸ではなく静岡にいることが多かった。) それを記念して今年の東京ではいろいろとイベントが開催されているようだ。
それで江戸好きの私としてもいくつか関連した場所を巡ってみている。その中でも江戸の中心である江戸城にはぜひとも行くべきだと考えていた。しかも旧暦の八月一日に。
☆八朔の入城
徳川家康は天正18年(1590年)の八月一日、つまり八朔の日に江戸城入りしたと言われている。この八朔の日は稲の実りを願う行事の行われる日であり、農家では重要視されていた。家康もこの日を選んで江戸城入りしたのだろう。
ある書物によると、江戸城の南、つまり東海道方面から江戸城に入ったとされている。ただし、この書物の真偽を問う学説もあり、また別の説によると家康は武蔵国国府のあった府中から江戸城に入ったとも言われている。
武蔵国国府は古代だけでなく中世でも武蔵国の政治の重要な中心だった。また武蔵国の主な六つの神々を祭った六社宮(今の大国魂神社)は、源頼朝などをはじめとする関東の武士たちからも尊崇を受けたという。
源頼朝を尊敬していた家康も、江戸に入城する前に府中の六所宮へ参拝をした可能性は充分にあると思われる。(ちなみに家康は天正18年11月に六所宮に対して領地五百石の寄進をしている。)
私も旧暦の八朔に当たる日に江戸城に行ってみようと決意した。
☆前日の府中散歩
今年(2003年)の旧暦の八朔は8月28日だが、私は前日の27日に、東京の府中市に行ってみることにした。もしかすると家康は府中から江戸入りしたのかもしれないし、家康の江戸入城は武蔵国の中心が府中から江戸に移り変わったことを意味する。江戸の前に府中を少し見ておくべきだと思ったからだ。
さて、府中についた私はまず府中郷土の森博物館に向かった。以前、ここにはプラネタリウムのプログラム「ウルトラマンティガ」を見に来たことがあったが、博物館は見たことがない。まずそれを見ようと思ったのだ。
しかし、府中郷土の森博物館までは歩いて2キロ弱。バスもあるが「めんどうくさい」ので歩いて向かう。標識が整備されているので迷うことはない。
その途中、謎の店を見つけてしまった。何もない道端に「新日本プロレス」の名前が書かれた店を発見。シャッターが下りていたので、その店がどういう店なのか不明だが、10月に開催される東京ドーム大会のポスターが貼ってあったので、何らかの形で活動しているらしい。しかし、なぜこんな何もないところに新日本プロレス関係の店が?(新日本プロレスの本社は六本木にあり、道場は世田谷区にある。) 歩いているだけで不思議なものを見つけてしまうものだ。
☆府中散歩その2
府中郷土の森は、博物館だけでなく、プラネタリウムや民家園などがあり、歴史と科学が学べる場所だ。(そして梅などの名所でもある。) ここに来て初めて知ったのだが、プラネタリウムのプログラムは「ジャングル大帝」だった。(どうも火星がらみの話らしい。) ただ、最終上映の開始には間に合わず、そのまま博物館に向かう。
博物館は府中市の旧石器時代から現代までを紹介しており、これは各地にある郷土博物館とそう変わりはない。しかし、三万五千年前の遺物が展示されている博物館はそう多くはないだろう。(その頃の遺物出土はかなり少ない。) 多摩川の流れが作る環境は昔から人間にとって住みやすいものだったに違いない。
期待していた徳川家康関係の資料はそんなに多くなかった。それでも江戸期の府中宿の模型などが展示されていて、江戸期の府中のイメージはよく理解できた。(府中宿は、六所宮の門前町であると同時に甲州街道の宿場町として栄えた。また江戸市中から多摩川の景勝を訪ねてくる文人も多かったという。)
常設展の他に特別展として、「昔の道具展」なるものが開催されていた。観音講など昔の信仰を物語るものなどが展示されていたが、中には去年潰れた銭湯で使っていた備品を展示しているコーナーもあった。しかしー、「ケロリン」の洗面桶にしろ、下駄箱の鍵にしろ、銭湯を使っている私にとっては「現役のシロモノ」でしかない。つまり、逆に言えば私は「足を半分ほど博物館に突っ込んで生きている」ということになる。そういう意味で急に足元がぐらつく感触を覚えてしまった。
意外と博物館で時間を使ってしまい、昔の六所宮こと大国魂神社へ急ぐ。大国魂神社は武蔵国の大地の精霊「武蔵大国魂」、武蔵国の六つの有力な神、それに謎の神「御霊神」を祭る、武蔵国総社とされる古社である。武蔵国国府が消滅した今、その名残を伝える唯一のものだ。
大国魂神社は周囲に緑を残し、建物もなかなか立派なものだ。しかし、時刻はすでに夕方で、本社の前に人はほとんどいない。それでも昇殿して御祓いを受けている人がいたところは、さすがに武蔵国総社といったところか。私も短く参拝して早々に大国魂神社を離れた。急いでいたためか、この大国魂神社の末社である東照宮に参拝するのを忘れていた。東照宮の祭神は肝心の徳川家康であるというのに。
とりあえずこれで八朔前日の府中散歩は終わりとなった。
☆江戸の主
翌8月28日、旧暦の八朔の日。私はJR東京駅に降り立った。東京の玄関口から江戸城本丸へと向かうべきだと思ったのだ。ただし、その前に行くべき場所があった。徳川家康が江戸に入る遥か以前からこの地域一帯の『主』とでも言うべき存在に会いに。そう、『将門の首塚』だ。
平将門は平安時代の関東の武将である。同族内部の領地争いが拡大し、将門は国府にも攻撃をしかけてしまう。将門軍は勝利を収め、ついには関東を支配地域に置いて『新皇』と名乗る。しかし、将門は平貞盛・藤原秀郷連合軍に討たれてしまった。
伝説によると、将門の首は京都でさらされたが首は突然飛び上がり、自分の体を求めて関東へと飛んでいった。しかし、江戸芝崎の地で力尽きて落下し、地元民が首を埋めて塚を作ったという。それがこの首塚だ。
徳川家康の江戸入城の時は塚の傍らに将門の供養のための日輪寺というお寺と将門の霊を祭った社があったらしいが、大名屋敷造営のため日輪寺と社は他の場所に移転させられた。(社は江戸っ子の守護神・神田明神となる。) ただし、首塚は大名屋敷の一角に残り続け、明治になって大蔵省のものになっても塚はそのまま残っていた。それが関東大震災で塚が崩壊し、塚の上に建っていた石灯篭を立て直したものが現在の首塚である。
終戦後、この首塚は消滅の危機に見舞われた。アメリカ軍がブルドーザーで首塚を破壊して整地しようとしたのだ。しかし、突然ブルドーザーは転倒し、怪我人が出た。それを目撃した日本人がアメリカ軍に「あれは古代の酋長を祭った墓だ。手を出してはならない」と訴えたために整地計画は中止になったという。なお、この事件を目撃した人がマスコミで何度かインタビューを受けており、よくある都市伝説とは確実に一線を帰す。ここは江戸における最大級の魔所だと言っていい場所なのだ。
ビルの谷間に首塚はあった。草木の植えてあるミニ公園という趣だが、とにかく狭い。広いアパートの一室ぐらいの広さしかないのではないだろうか。その右手奥に首塚はあった。中世の板碑(←青い石の石板を立てて作られた碑。梵字などが刻まれていることが多い。)を模造した板碑(明治時代に作られたものらしい)が正面に見え、その奥に本当に古そうな石灯籠があった。これこそが首塚の上に建っていた石灯籠であり、今は首塚そのものとされているものだ。(なお、この石造物は書物によっては「五輪塔」と書かれることが多いが、私の目には石灯籠に見える。)
石灯籠は風化し、年月を感じさせる。この石造物は家康が江戸に入る以前から存在し、江戸に幕府が開かれてからも大名屋敷の一角に残り、また明治維新後は官庁の一部にあり続けた。高度成長期以降はビルの間に埋もれているが、江戸の魔所としての風格は強く持ち続けている。つまり江戸と東京を見続けてきた存在であり、まさに「江戸の主」なのだ。
私はこの石灯籠と将門公の霊に祈った。この東京が安全で平和な都市でありますようにと。
☆大手門突入
江戸城の大手門前に来た。皇居東御苑に入る門は全部で三つ。そのうち一番南にあるのが大手門だ。門の前では警官が警備しているが、別に咎められることもなく、大手門の枡形の中へと入っていった。
枡形門は近世城郭の防御システムの一つで、城の出入り口に四角い区画を作り、その区画を二つの門で防御する。敵が第一の高麗門を突破しても櫓門の上から弓矢や鉄砲による攻撃を受け、そう簡単に櫓門を突破することはできない。
この大手門の枡形では、高麗門と櫓門がきっちりと枡形を固めている。しかし、説明版によると門は戦災で焼け、戦後に復興したものだという。それにしても重量感のある櫓門だ。江戸時代ここを通る大名たちも同じような感覚を覚えただろう。もしかするとその感覚が徳川幕府を260年も存続させた一因になったのかもしれない。
☆城内の美術館
大手門を過ぎると、三ノ丸尚蔵館という美術館がある。これは皇室に伝えられた美術品を保存・研究するものらしい。「工芸風土記」という展示をやっているので入ってみる。展示室は狭い部屋が一つのみ。大規模な展示を目的としているわけでなく、収蔵品を少しずつ展示するのでこれでいいのだろう。日本全国の工芸作家によって作られた作品が並んでいるが、さほど工芸品に詳しいわけではないのでさっと眺めて終わる。
しかし、カタログを見たところ、ここの収蔵品は「著名な芸術家の作品が必ず一点はある」みたいな感じらしい。一度、どこかの広い美術館で収蔵品展をやったら、さぞかし豪華なものになるだろう。
三ノ丸尚蔵館の近くに休息所がある。売店も兼ねているので、とりあえずのぞいてみる。絵葉書や菊の御紋のついたネクタイピンなどを売っていた。ここ独自の食べ物とかないだろうかと思ったが、さすがにそういうものはないらしい。仕方なく普通のアイス最中を買って食べる。そんな中でなかなかよさそうなものを見つけた。「皇居東御苑セルフガイド」というガイドブックだ。東御苑内の案内の他、歴史や自然についても詳しく書かれており、なかなかいい本だ。皇居東御苑に来ることがあったら、まず手に入れておいた方がいい本だ。そのガイドブックを手に再び歩き出す。
☆災害の跡
しばらく行くと「切り込みはぎ」という石積みの仕方をした、非常に整った石垣が見えてくる。江戸城の権威を示すためのものだろうが「穴太積み」という「石垣表面は雑だが、奥行きがある」積み方に比べれば力学的に不安定とされている。そのせいか、中には十センチほどずれて飛び出している石垣もあった。(関東大震災の影響らしい。)
坂を上り、江戸時代には本丸への最後の門であった中雀門の跡まで来る。建物は残っておらず、しかも石垣が火に焼けてひびが入っている。これは幕末の文久三年(1863年)に江戸城本丸が火事で焼失した時の名残りだという。
その時の火事で本丸御殿を焼失した後、江戸城の機能は西の丸(現在皇居があるあたり)に移り、本丸御殿が再建されることはなかった。つまり幕府の崩壊前に江戸城本丸は放棄されていたわけだ。もしかするとその時点で徳川幕府は終わっていたのかもしれない。
☆江戸城本丸
江戸時代、日本の中心だった場所、江戸城本丸。今は芝生の広がる公園になっている。何もない、ひたすら明るい空間という感じがする。芝生の向こうの方には天守閣のあった天守台の石垣が見える。とりあえずガイドブックに従い、芝生の端っこに沿って歩いてみることにした。
まずは富士見櫓。天守閣が焼けた後、天守閣の代わりとして使われた三階の櫓だ。現存する江戸城の建物としては最大のものだ。近づくことはできないが、それでも江戸城の櫓の風格は感じ取ることができる。将軍はここから隅田川の花火などを見物したという。
鷹狩の時などを除いて、将軍が江戸城の外に出る機会はほとんどなかっただろう。そういう意味で富士見櫓は、将軍が城の外の景色を見る窓みたいなものだったのかもしれない。
☆殿中松の廊下
植え込みに沿って進むと、植え込みの中に「松之大廊下跡」と彫られた石柱が見えた。言うまでもなく、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「殿中松の廊下」跡だ。
切りつけた動機については浅野内匠頭が何も語らなかったために永遠の謎となっている。ただ、人目のある場所での突然の襲撃ということを考えれば、冷静に吉良上野介を殺害しようとしたわけではありえない。(「お話ししたきことが…」と一室に呼び出して、近づいてきたところで正面から短刀で突けばよいだけのことだから。) たぶん浅野内匠頭は、かっとなって廊下にいた吉良上野介短刀で襲いかかったのだろう。その結果として浅野内匠頭は吉良上野介の殺害に失敗し、その後に赤穂四十七士の吉良邸討ち入りということになる。
もし、ここで浅野内匠頭が吉良上野介殺害に成功していたら、二人はきわめて無名な殿様で終わっていたはずだ。たとえば熊本細川藩の細川宗孝も江戸城内で殺害されているが(しかもよりにもよって人間違い)、その事実を知っている人間ははっきり言って多くはない。それを考えると、松之廊下での暴発が二人を歴史に名前を残す存在にしたわけで、歴史とは実に皮肉なものだ。
☆日本の中心へ
続いて石垣だけ残る天守台跡へと上る。天守台の石垣は巨大な石を綺麗に組んで作ってあり、さすがは「日本の中心の中の中心」だっただけのことはある。
それに個人的なことだが、私は昔、江戸城天守閣のプラモデルを作ったことがあり、その場所に入ることができるというだけでも感慨深いものがある。(でも、大阪城天守閣のプラモも作ったのに、大阪城復興天守閣に行ったことはない。行くチャンスはあったのだが……)
ところでこの天守台は最初からこの場所にあったわけではない。家康が建てた「慶長天守」は江戸城本丸の中心部にあったとされている。大阪城の黒い天守閣に対抗して、白い天守閣だったといわれている。
どうも家康は「白い天守閣」を建立することで、「黒い天守閣」の大阪城にいた豊臣家の権威に対抗しようとしていた節があるらしい。(「白鷺城」として知られる姫路城の白い天守閣もこの計画の一環として作られたという説もある。) 当然、家康は江戸城の天守閣を建立することでここを大坂に代わる日本の中心にしようとしていたはずだ。それもあって本丸の中心付近に天守閣が置かれたのだろう。
しかし、家康の死後、その天守閣は取り壊され、二代将軍秀忠によって今の位置に天守閣が建てられた。(「元和天守」と呼ばれる。) 江戸城の機能拡張のために本丸の中心にあった天守閣が邪魔になり、本丸の端の方に移したのだとされている。
ただ、この天守閣の寿命も長くはなかった。三代将軍・徳川家光が天守閣を取り壊し、新たに黒い天守閣を建てさせたからだ。(これは「寛永天守」と呼ばれ、江戸初期の江戸を描いた図屏風に姿が描かれている。) 家光が新しく天守閣を建てさせた理由は、父親の秀忠を嫌っていた家光が父親の威光を否定するためだったとも言われている。(黒い天守閣にした理由は豊臣家がすでに過去の存在になっていて、別に気にする必要がなくなっていたからだろう。)
つまり江戸城天守閣は将軍の代替わりごとに建てかえられていたことになる。当時、日本でも最大級の建造物を短いスパンで建て替えていた徳川家の財力と権力は凄かったとしかいいようがない。
その悪循環を止めさせたのは、会津の初代藩主保科正之だった。1657年、明暦の大火により天守閣が全焼したが、四代将軍家綱の叔父でもあった保科正之が「天守閣の再建よりも江戸の街の復興に力を注ぐべきである」と主張したために江戸城天守閣が二度と作られることはなかった。
天守閣は城の中心で、いわば重要な軍事施設である。その軍事施設をほっといて街の復興に力を入れたのだから、歴史に残る大英断と言えよう。
☆日本の中心で何も叫ばなかった男
天守台へ石段ではなくアスファルトの道が続く。天守台の上は石垣の手前に背の低いネット(おそらく石垣からの転落防止用)があるだけで、がらんとした雰囲気だ。しかし、それなりに高い位置にあり眺めはいい。南は本丸御殿跡の芝生があり、その向こうに今の日本の中心地であるビル街の建物が見える。
北に目を向けると日本武道館の「黄金の玉ねぎ」が見えた。武道館はスポーツ・芸能における中心地の一つだ。ここよりもむしろ日本武道館を「日本の中心」だと感じている人の方が多いだろう。
周囲を眺めているうちに外国人にカメラのシャッターを頼まれた。たぶん、日本人よりも彼のような外国人の方がここを日本の中心だった場所だと認識しているにちがいない。そんなことを考えながら私は天守台を後にした。
☆江戸の昼寝
本丸御殿跡の芝生の所まで戻ってきた。しかし、実に手入れの行き届いた芝生だ。しかも説明板によると芝生を三区画に分け、順番に立ち入りを許可しているとのこと。せっかくなので、芝生の上で寝転んでみることにした。
ごろんと横になると雲が流れていくのが見えた。この場所は本丸御殿跡で昔は数多くの大名がいた場所だ。しかも基本的に横になったりするようなことのできない場所でもあった。そんな場所の跡地で庶民の私が昼寝していると考えると少し愉快な気分になる。
江戸開府から四百年の旧暦の八朔に江戸城跡でこんなことをしたのは日本で私だけだろう。つまりこれは『天下一の昼寝』。今のところ最大のマイ江戸開府四百年記念イベントは『天下一の昼寝』ということになりそうである。
(終わり)