
1901年春・秋
第五回戦においても、各休戦期間中にマスターがプレイヤーにそれぞれアンケートを行い答えてもらうという試みを行った。
おかげさまで詳細な回答を頂いた。
プレイヤー各位には改めて感謝したい。
以下にアンケート回答から導きだした戦況概説を行うものとする。
ロシア
○ロシア南進
ロシアは初手からGalとBlaに進撃。
Blaではスタンド・オフ(SO)したものの、Galは見事に奪取成功した。
Mos陸軍はUkrに移動し、Rum占領をほぼ確実なものとしている。
この全力南下政策はいかなる背景で行われたのか。
図:1901年春のロシア軍。
対オーストリア先制攻撃。
いきなりオーストリア即死の態勢である。
○オーストリアとの相互誤解
当初、ロシアはオーストリアとの同盟を目指した。
しかし、これは不調に終わる。
ロシアによると「オーストリアさんとの同盟を目指してましたので、問われるままに全ての行軍を明かして、友情の証としました」としながらも、オーストリア側からは「ガリシアはオーストリア領」と主張され、「第1ターンのSOすら許してくれなかった」とのこと。
この点、オーストリア側からの視点はどうだったのだろうか。
オーストリアのアンケートによると「ロシアさんから対トルコ共同戦線を持ちかけられ、それに同意し、イタリアさんへも参加を呼びかけていましたが、その後の交渉がうまくいかなかった結果、当初、ロシアさんに認められていたガリシアをオーストリアの保護地域とする提案を一方的に破棄されました 」とある。
これらのアンケートからは、双方の国とも互いの意思を誤解していたことが示唆される。
イタリアもアンケートで「行軍は求められるままに包み隠さず墺に教えました」とオーストリアに行軍を教えていたと述べている。
つまりオーストリアはロシア・イタリア双方に1901年春の行軍を問い、なおかつその回答を得るという、なかなか恵まれた立場にいたわけだ。
イタリアは「これについて特に(オーストリアから)反応がなかったので、同意したと判断しました」と言っており、オーストリアからの返事が届いていなかったらしい。
オーストリアからの返事が届いていれば、オーストリアの未来は変わっていたかもしれない。
ともかくも露墺間は1901年春の段階で亀裂が入る。
ロシアはスタンドオフ狙いでガリシアに進撃し、結果としてこれに成功した。
露墺戦争はロシアの圧倒的優位のもと幕を切ることになったのである。
○スカンジナビア協定
北方において露は英独に対しスウェーデン領有を要求。
交渉の結果ノルウェーは英、デンマークは独、スウェーデンは露という分配でまとまり、「スカンジナビア協定」が締結され公開される。
もっとも、これが遵守されるかどうかはドイツ海軍の動き次第だ。
ロシアはドイツに1901年春にDenに移動しないよう要請したが、ドイツは明白にこれを拒否!
ロシアのスウェーデン占領計画は風向きが怪しくなってしまった。
ロシアとしては1901年秋にドイツとスェーデンでスタンド・オフしたくない。
そこでロシアはスカンジナビア協定をドイツに守らせるべく、「(ドイツさんが)秋にスウェーデンに移動する余裕を作るわけにはいかず、自然に対独包囲に力を注ぐことにしました」という外交攻勢を開始した。
ロシアはいかにして英仏をしてドイツを包囲しようとしたのか。
○巧妙なロシアの一手
このころ、ベルギーの領有権について英独仏の間でまだ合意はできていなかった。
ここに付け込む隙を見出したロシアは、ベルギー問題を軸として英仏に急速接近。
「ブルガンディーにフランス軍の進出できた場合には(ベルギーを)フランス領とする」と英仏に提案した。
この案はロシア外交として非常に上手い。
というのはこの案は英仏双方にとって利点のある素晴らしい落としどころだからだ。
通常、英仏双方が恐れている未来図は「相手国がドイツと組んだ上での自国袋叩き」である。
イギリスにとっては、仮にフランスがBurに進撃成功してくれた場合は、かなりの高確率で独仏戦争を期待することができ、それだけで外交的大成功である。
この案のミソは「ブルガンディーにフランス軍の進出できた場合」としているところで、フランスとドイツがSOした場合はベルギーの領有権は発生しない。
独仏が共謀してBurで相互SOすると、フランスはベルギーの領有権を主張できないのだ!
フランスはベルギー領有をとるか独仏関係をとるかの二者択一を迫られたことになる。
イギリスにとってはどちらに転んでも笑いがとまらない。
一方でフランスにしてみれば、Bur進軍はドイツとの開戦が避けられない危険な手である。
しかし今回に限り、Bur進軍はイギリス・ロシアの承認のもとで行うのであるから、フランスにとってのリスクは非常に少ないのだ。
一般にフランスはスペインとポルトガルの領有はほぼ確実に可能なので、ベルギーを領有できれば1年目で国力6にまで到達できる。
ゆえに、フランスにとってもこのロシア案は魅力的だったであろう。
紆余曲折はあったであろうが、結局のところこのロシア案が決め手となって英仏は急速接近し、自然と対独の姿勢が強くなっていった。
ロシアは一兵も用いずして舌先だけでドイツ包囲網を築いている。
これがディプロマシーなのだ。
○トルコとの外交
トルコとは1901年春のうちに黒海相互SOで話しがまとまる。
実はそれより前、当初ロシアは対土包囲網を狙っており、露墺伊で会談がもたれたのである。
その席でオーストリアは「レパントでトルコを攻めてほしい。ギリシャをイタリアに渡すが、それはロシアからルーマニアを受け取った後だ」と主張。
これが残る二国に受け入れられず、対土包囲網は不成立となった。
そこでロシアはトルコに黒海相互SOを提案。
この時点ではトルコとの同盟は成立していない。
その証拠にトルコは春のアンケートでガリシア進軍を知らなかった、と回答している。
同盟国なら事前に連絡しているはずである。
1901年春の段階ではトルコとの関係は好意的中立、という程度のものだったのだろう。
1901年秋になると露墺の対立が明白となったので、はっきりとロシアはトルコを取り込もうと外交攻勢を仕掛ける。
○遠交近攻
ロシアは遠交近攻の原則に忠実で、イタリアを重要な同盟国と考えていた。
そのイタリアはジャガーノート(露土同盟)を重大な脅威と考え、嫌っていた。
このためロシアはまず露墺伊に再度会談を呼びかけ、こう提案した。
「トリエステをイタリアさんに割譲すること。トリエステを得たイタリアさんは2海軍を作って3海軍体制とし、トルコ戦に2海軍以上を投入すること。ロシアはガリシアからルーマニアに進軍、黒海かアルメニアに進軍。」
これは春に呼びかけられた対土包囲網の焼き直しだが、ガリシアをロシアが押さえている秋の状況で、春よりはオーストリアに不利な条件になっている。
それでもロシアにとってはこの提案を受諾された方が内心嫌だったのではないだろうか。
これはイタリアに「うちは対オーストリア戦を決してやりたいわけではありませんよ」と主張するためのアリバイ作りのような提案だったからだ。
オーストリアは春に続いて秋のトルコ包囲網も拒否。
これでロシアはオーストリアを攻める大義名分を手に入れた。
オーストリアが和平を拒絶した以上、少なくともイタリアがロシアを非難することはできない。
次にロシアはトルコにギリシアの領有権を主張してみるよう勧める。
これは今のオーストリアの立場ならトルコにギリシアを譲るくらいはするだろう、という読みからだった。
ただし、トルコはギリシアについて交渉を「何もなかったです」と答えており、ロシアの勧めは空振りに終わっているのだが・・・・・・。
しかし結果的にはギリシアで墺土軍は衝突。
トルコは敗れギリシア確保はできなかったが、墺土軍の衝突はロシアにとって良いニュースである。
これでロシアの周辺国(英独と墺土)は全て互いに剣を交え、ロシアの対称国(仏伊)は一切ぶつからないという、ロシア必勝の国際情勢が見えてきた。
そして、こればかりは運の要素が大きいが、秋の移動でオーストリアの首都ウィーンを奪取。
ほぼ再起不能のダメージをオーストリアに与えることに成功したのである。
ドイツ
いきなり春に仏軍にBurに進駐され本国都市が危険にさらされたドイツ。
秋には英仏露全ての軍と衝突。
スウェーデン中立維持という最低目標は達したものの、オランダとベルギーをとれず国力4に留まることになった。
いったいどうして英仏露と対立することになってしまったのか。
図:1901年秋のドイツ軍。
Hol・Bel占領に失敗。
国力は1しか増えなかった。
○ツンデレ外交?
ドイツのアンケートによると「ツンデレ外交失敗です」とフランスのBur進軍を表現している。
ドイツはフランスとはツンデレ外交を展開したらしい。
そしてどうもBur不可侵の約束を取り付けたようなのだが、前述のロシアの策謀によりフランス軍はBurへと誘導された。
つまりロシア外交がツンデレ外交を上回ったのである。
○デンマーク問題
「スカンジナビア協定」の精神に基づき、ドイツは初手でデンマークに進軍しないよう、ロシアに求められた。
が、ドイツはこれを拒否する意向をロシアに伝えた模様。
この「Denに進軍するべからず」という要求が妥当であったかどうか、その正否はこの時点では判断できない。
ただ、明白に拒否の意志をロシアに伝えたため、ロシアがドイツに敵意を持ったことは事実だ。
そしてその敵意は英仏同盟という形でドイツに跳ね返った。
このデンマーク問題は、たとえ不当(に思える)要求であったとしても正面から断るのであれば相手国との交戦を覚悟しなくてはいけない、という戦訓にはなるだろう。
結果論からいえば、ロシア側の要求を断った時点でドイツは即座にロシア包囲網構築に動き出す必要があった。
実際、ロシアは直ちにドイツ包囲網構築に動いていたのである。
第一回戦のドイツは英仏独三国同盟を締結し速攻でロシアを沈めたが、第五回戦のドイツは逆にロシアに遅れをとってしまった。
敵国認定した後の行動の速さが興亡をわけた、というべきか。
○オーストリアとの同盟
ドイツはオーストリアとの同盟を志す。
これ自体はディプロマシーの定石ではある。
が、オーストリアとロシアの関係は1901春の時点で険悪になってしまった。
オーストリア領ガリシアはロシア軍の手に落ちる。
この露墺戦勃発を受け、ドイツはオーストリアの味方をすることを決意するのだが・・・・・・。
○中央三国同盟
ドイツはさらにイタリアにも外交攻勢をかけ、イタリアを味方とすることに成功する。
イタリアは「対仏包囲網」と「対土包囲網」を志していた。
が、ドイツの側から積極的に対仏で打ってでる気はなかったようだ。
ドイツがBurに進撃しイタリアがPieにて呼応する、といった対仏電撃戦が練られた形跡はない。
イタリアはあっさり東進してしまった。
これはドイツにとって痛かった。
春の移動でBurに進軍してきたフランスに対し、プレッシャーをかける存在がいなくなってしまったのである。
○それでもベルギーへ
Bur進軍をみたあとでもドイツは「フランスとMunでSOする気はありません」と本国都市であるミュンヘンに執着する様子がない。
その理由は「もし英仏での対独が望まれているのであればSOしても英が南下してくるだけ無駄ですし、後続が来なければ奪い返す事も可能です」と言われてみれば論理的である。
ただし、この思いきりの良い発想はフランスには理解できなかったようだ。
そもそも独仏間は意志疎通がうまくいっておらず、1901年春にドイツはベルギー領有をフランスから認められたと解釈しているのに対し、フランス側のアンケートにはそのような記載は全くない。
秋になってフランスがベルギー領有を主張したことに「フランスには付き合い切れない」「ジャイアニズム」と思い、イギリスと相談してSO覚悟でベルギー進軍を決意したのである。
○イギリスの予告外進軍
イギリスはドイツのオランダ領有を認めていたはずだったが「嘘をついた上でholでのSOを実施される事となりました」とのことである。
これはドイツ側の言い分で、イギリス側のアンケートには嘘をついたという記載はないが、イギリスが英仏同盟を意識してオランダに移動したのは間違いなさそうである。
これら英仏の動きは裏で糸を引いているのはロシアなのだが、ドイツのアンケートをみる限り黒幕・ロシアに気づいている記載はない。
「(オランダを)SOする事でドイツとしては対露の余裕がなくなった」「英仏がジャガーノート放置でどうする気なんでしょうね」と回答している。
ロシアの外交力、情報操作能力の高さを称えるべきであろう。
オーストリア
最初からロシアと対立することになってしまい、苦しい立ち上がりのオーストリア。
はたしてどれだけ多くの国を対露包囲網に巻き込むことができるか?
図:ウィーン陥落の瞬間。
読み合いに敗北。
○ロシアと破談
ロシアのアンケートによると、ロシアは当初対トルコ包囲網を狙っていた。
これはオーストリアにとって幸運だったと言って良い。
が、ロシアによるとオーストリアはガリシアに関してオーストリアは相互スタンド・オフを許さず、かといってガリシアに進軍しないことを告げるでもなく、ロシアを大いに不安にさせた。
オーストリア側のアンケートでは「(ガリシアは)オーストリアの保護地域ということで一時は合意していました」とあるので、オーストリアがガリシアに進軍するかどうかをロシアに伝える義務はどこにもない、という認識だったのだろうか。
両国のアンケートを読むと不幸な誤解があったとしか思えない。
○ドイツとの同盟をトルコに勘付かれる
一方でドイツとの同盟には成功したオーストリア。
イタリアをも巻き込む中央三国同盟となったため、これで西側からの攻撃に脅える必要はなくなった。
ここまでは良い。
問題は、ドイツとの同盟をあっさりトルコに悟られている点だ。
トルコのアンケートでは「ドイツと組んでいると思われるオーストリアよりもロシアに気持ちはよっています。(オーストリア&ドイツ&トルコで攻めた場合。ロシア滅亡後はオーストリア&ドイツVSトルコになりそうに感じましたので、初期から強い連携をオーストリアドイツに感じたのが危機感を感じました。)」とある。
実はロシアの方こそ英仏両国と組んでおり、トルコが独墺同盟に危機感を感じるのは見当外れなのだが、ここでのポイントは対トルコ情報操作の差である。
ロシアは英仏との連携をトルコに気付かせなかったのに、オーストリアはドイツとの連携をあっさりとトルコに見破られているのだ。
英仏露の連携をトルコが知っていれば、トルコは必ずしもロシア寄りの心境にはならなかったであろう。
が、それを知らなかったトルコは、ロシア寄りの姿勢になってしまった。
情報を流さなかったロシアと流したオーストリアとの差が、トルコの初期戦略決定に大きな影響を与えている。
結果的に、独墺連携を悟られたのはオーストリアにとって大きな失点となった。
○ガリシア陥落!
行軍ではガリシアにロシア軍の侵入を許してしまった。
1901年春は戦略的にも戦術的にもロシアの完勝である。
ガリシア進軍を受けて「ロシアさんからの謝罪及びガリシアからの撤退がなければ、対ロシア共同戦線をイギリスさん、ドイツさん、トルコさんらに呼びかけ、乾坤一擲の戦いに挑むつもりです。」とあるが、ロシアはガリシア進軍以前に既に英仏土に親善外交を仕掛け、独墺まとめて包囲する布石を打ってしまっている。
ロシア外交の素早さには驚嘆するしかない。
無論、ドイツはオーストリアの味方であり続けるだろうが、この状況から英仏土に対ロシア共同戦線を呼びかけるのは至難の技である。
ガリシア進軍以前に、ロシアは既に外堀を埋めてしまっていたのである。
オーストリアにとって苦難の時が来ようとしていた。
○信じられる? ロシアがトルコ包囲網の提案
1901年春の墺露伊三国会談ではトルコ包囲網の代わりにギリシアをイタリアに譲るよう提案され、オーストリアは断っている。
ギリシアを自力で確保したかったのかもしれない。
確かに露伊両国の圧力の元でギリシアをイタリアに譲らされるという展開は、オーストリアにとって望ましいものではないので、ルーマニアを代替地に求めたり断ったりする外交にはそれなりに理がある。
もしこれを断るのであれば、露伊連携を即時トルコに報告し墺土連携を試みるのも一つの手である。
あるいは中央三国同盟を活用して、ドイツに頼んで仏包囲網を提案してもらいイタリアを西へと誘導するという手もある。
そういう外交は回り道のように見えるが、ロシアなどはオーストリアと戦うために英仏露同盟を目指すという離れ業を演じているのである。
外交巧者のロシアと隣国になってしまったという不運は同情すべき点である。
ともかくも春のトルコ包囲案は破断し、ロシアのガリシア進軍という結果になった。
その上で、ロシアが再びトルコ包囲網を提案してきた。
これを信じられなかったオーストリアを責めることは誰にもできないだろう。
秋の段階ではオーストリアに残された手はほとんどなかったのも事実である。
トルコ
○先人の轍
第一回戦、第二回戦、第三回戦と同じく、第五回戦も露墺が最初から反目する展開となり、トルコにとっては漁夫の利を狙う1901年春となった。
図:01年終了時のトルコ。
慎重な滑り出しである。
第一回戦のトルコはドイツに誘われて黒海を奇襲したもののその後オーストリアに裏切られ没落した。
第二回戦のトルコはオーストリアと組んで黒海を奇襲したもののその後墺伊同盟の奇襲を受け本土を失いオーストリアの属国となった挙句に滅ぼされた。
第三回戦のトルコはロシアと組んだがイタリアの奇襲に始まる墺伊同盟の猛攻の前に心を折られ無政府となり滅んだ。
第五回戦のトルコは果たして先人の轍を踏まずに生き残っていけるだろうか・・・・・・?
○黒海SO
第五回戦のトルコは過去のトルコに比べると慎重だった。
黒海に関してはロシアと打ち合わせ、相互SOに成功。
第一、二回戦のトルコのように黒海奇襲し外交の選択肢を狭めることはしなかった。
この後もトルコはなるべく外交の選択権を手放さない方向で国を運営していくことになる。
目立たないかもしれないが、これはトルコのファイン・プレーだった。
○両睨みの態勢
トルコはロシアと正面対決を避けた。
かといってオーストリアと戦うわけでもない。
ギリシアの領有権については何の合意もできなかったが、「現時点ではどちらとも組める状態にあると思います」とあり、対露か対墺か明確にさせずにいることが示唆される。
「トルコとしてはオーストリアとロシアに組まれるのだけは避けたかったです」とある。
これをみる限りトルコの外交センスはかなり良い。
「ですのでそれぞれが言葉を濁して「今後どうする?」といってきた際にロシアをオーストリアを攻めるための連携をどうするか?と切り込んでいきました」と、初期外交のお手本のような手堅い外交を展開している。
一般に交渉事は先に相手に条件を出させ、それをこちらが修正していくという形にした方が有利である。
なぜなら最初に相手の主張を聴くことにより、その主張から相手の考えていることをおおまかに推測することができるからだ。
相手の考えていることが分かれば、そこから同盟のとっかかりとなる共通点を探せるかもしれないし、交渉のおとしどころがみえてくるかもしれない。
1901年のトルコは派手さはないかもしれないが、ディプロマシーの基本を忠実におさえ、結果として両睨みの態勢を維持することに成功した。
これが過去のトルコとの最大の違いである。
○ギリシア陥落
全てがうまくいったわけではない。
1901年秋、トルコはギリシアでオーストリア軍と戦い、敗北した。
ギリシアはオーストリアのものとなったのである。
慎重なトルコは「今回、立場をはっきりさせるのが早すぎたような気がします」と述べているが、これは結果的には早すぎた決断とはならなかった。
もし仮にトルコのBul陸軍が1901年秋に動かなければ、各国はトルコを「何を考えているかつかめない国」としてかえって不安視しただろう。
1901年秋にA Bul-Greするのは標準的なトルコの行動であり、その意図は分かりやすく納得しやすい。
ギリシア戦は戦術的には敗北だったが、戦略的には何も失ったものはないのだ。
イタリア
○いろんな条約を結んだが・・・・・・
イタリアは1901年春のうちに「独墺伊三国同盟、露墺伊対土同盟、墺伊不可侵条約」と様々な条約を諸国と締結した。
さらにフランスとも非武装地帯をもうけたことから、イタリアの最初の矛先は自然とトルコに向かうはずだったと予測される。
実際、ロシアも最初は対トルコを志向していたので、イタリアの目論見通りにトルコ包囲網が完成するはずだったのであるが、これは三国交渉の不調により、ご破算となる。
その結果の重大性は明らかだった。
ガリシアに進軍されたオーストリアはいきなり崩壊寸前で、対トルコ包囲網どころの話ではなくなったからだ。
○難しいオーストリアとの関係
1901年春終了時のイタリアほど、オーストリアとの関係に悩んだ国はないであろう。
初期構想の対トルコ包囲網は失敗した。
この上はイタリアには二つの選択肢がある。
一つは初心を貫徹し、オーストリアを助ける道。
この道を選んでオーストリア救助に向かったところで延命成功の保証はなく、自国の国力が増える見込みは全くない。
二つは、敵と味方を交換してオーストリアを攻める道。
この道を選ぶとTriはほぼ確実にイタリアのものとなり、うまく立ち回ればGreも手にすることができるが、オーストリア分割終了後の見通しが暗い。
オーストリア分割後、バルカン半島はロシア、イタリア、トルコの三すくみ状態となるが、ロシアがイタリアの味方をするかどうかは誰にも分からないのだ。
仮にジャガーノートが結成されれば、オーストリア分割終了後は、イタリア自身が分割されるという笑えない未来が待っているであろう。
オーストリアを守るか攻めるか、どちらの選択肢もイバラの道だが、局外中立を守るという選択肢はほぼ考えられない。
オーストリアとの関係をどうするか、誰がイタリアを担当しても悩む局面であった。
○フランスと相互不可侵
「当方はピエモンテ、ティレニア海の非武装、仏はピエモンテ、スペイン南岸の非武装です」と、フランスとは一応の相互不可侵条約が締結されている。
1901年の間、それは守られた。
多事多難のイタリアにとって、唯一の明るいニュースであったろう。
もっとも、通常フランスは1901年の間はスペイン、ポルトガルの確保に奔走するので、イタリアにいきなり攻めてくる可能性は低いのではあるが。
イタリアはフランス包囲網を画策しており、イギリス・ドイツから良好な返事をもらっていたようだが、ふたをあけてみると英独ともフランスに出兵せず、期待外れであった。
西部戦線はイタリアにとって楽観できるものでは全くなかったが、東部戦線の火事場に比べるとまだマシという程度のものであったろう。
いつの世も、イタリアは受難の運命のようである。
○幻のフランス包囲網
フランス包囲網については段取りをすべて英独に任せていたイタリア。
自らはフランスと不可侵条約を結んでおきながらフランス包囲網を狙うという複雑な戦略だったが、結果的には失敗した。
イギリスにはフランス包囲網に加担する気はなく、「対仏は02年以降に実施」と伊独に伝える一方でスチームローラー(英仏同盟)を密かに推進していたからだ。
イギリスは対仏包囲網を擬態していたと思われるが、英仏同盟のことはロシアがよく知っていたはずだ。
イタリアのアンケートをみる限り、ロシアからイタリアへの情報提供はなかったように思われる。
かくして秋の行軍で英仏による対独包囲網が炸裂し、イタリアは西側情勢に失望することとなる。
フランス
○Bur移動
フランスは最初にイギリスからスチームローラーをもちかけられ、それに乗ることを決意している。
ドイツとは対英についてかなり話し合ったが、まとまらなかった。
そしてロシアの勧めた作戦に乗って、ドイツには黙って1901年春にBurに進軍。
これでドイツとの信頼関係は期待できなくなったが、あまり気にした様子はない。
思いきりの良さはさすがである。
○イタリアとの交渉
イタリアとはピエモンテとチレニア海の不可侵を1年間の期限付きで約束。
「ピエモンテは1901春限定でも良いぐらいですが、チレニア海1年は意味ないよなぁと思っています」と春の時点ではラフな態度である。
が、秋になると、イタリアが不可侵条約の期限延長を拒否。
「イタリアさんの心の奥には対仏の炎が燃えたぎっている気がしてなりません…」と怯えることとなった。
イタリアは反仏包囲網を布いていたつもりだったので、この心配は当たっていたのだが、東欧でオーストリアが急落したことからイタリアの注意は東に向くことになった。
結果的にオーストリアのピンチが仏伊国境の平穏を呼んだことになる。
○ドイツに代わる陸軍大国への道
ドイツからは仏陸軍がミュンヘンを抜けてシレジア、ワルシャワまで行く案を提示されたが「有り得ない」とベルギー領有を求めたところ、拒絶された。
そこでフランスはドイツを倒して代わりに陸軍大国になる道を選択。
なんとドイツからのメールに返事をしないという外交を展開した。
交戦国とでも交渉を続けるしたたかさが求められるこのゲームで返事をしないという選択肢は通常はありえないのだが、交渉材料がない場合に下手にメールのやりとりをすると、世間話をしているうちにうっかり自分の考えを相手に漏らしてしまう恐れがあるのでむしろ有害、という考え方はありうる。
連絡をしないことでこちらの怒りを相手に伝える効果もある。
初心者には連絡封鎖というやり方はお勧めしないが、応用問題としては連絡封鎖というのもひとつの手である。
イギリス
○横綱相撲
イギリスは最初からスチームローラーを考え、親仏の姿勢で交渉。
次点で英独同盟を考えていたが、独墺の結びつきがあまりにも強固であったことから「交渉上手なドイツが中心となる独墺同盟が発展すると危険であると考え、中央3国VS周辺4国の図式が作れないかと考え」、以後のデザインを組み立てていく。
もちろん「中央三国+英の形も意識させる努力はしておりました」とあり、独墺伊との連携も選択肢の中にはある。
こうした中、独墺同盟を脅威に感じたロシアが西側に介入してきたことをきっかけに、英仏同盟を結成。
ベルギー問題については「ドイツには、ドイツの領土として認めるという話はしておりますが、反故にする予定」とドイツと戦う意思は十分である。
ふたをあけてみれば、1901年春と秋はロシアが黒幕として主導する形とはいえ、ほぼイギリスの望んでいたとおりの展開となった。
すなわちイギリスの仮想敵国である独墺が、叩かれ続ける展開である。
自らの手を汚さずに思い通りの展開に導いたイギリス外交は、横綱相撲といって差支えないだろう。
無論、それは1901年に限っての話であって、卓越した外交力を持つロシア相手に、いつまでも受け身の姿勢で対抗できるかどうかは不明である。
世界情勢
○ロシアが他国を圧倒的!
1901年の世界情勢の主軸は、ロシア対ドイツの外交戦争だった。
ロシアはオーストリアとの交渉がうまくいかないことを理由に対オーストリア戦を余儀なくされたが、そのロシアの前に立ちはだかり続けたのはドイツだった。
ドイツはオーストリアを救うことを目的に様々な抵抗を試みたのだ。
結局、英仏土がロシアの味方にまわり、ドイツは決定的に孤立。
独露外交戦争はロシアの圧倒的勝利に終わる。
1901年終了時点で、英独戦争、墺土戦争、仏伊友好とロシアにとって都合の良い3条件がそろい、世界はロシア完勝の態勢となりつつあった。
ここまで両者の差を分けたのは、他でもない、ドイツ自身の親オーストリア政策だった。
独墺同盟があからさまになっていたため、特にイギリスとトルコははっきりと独墺同盟を脅威に感じ、独墺同盟に対抗する形でロシアと手を組む結果となったのである。
独墺同盟という作用が、英仏露土連合という強烈極まる反作用を呼んだのだ。
ドイツとしては、オーストリアと組むのは良いとして、もう少し隠れて組むべきだったのかもしれない。
英仏はスチームローラーを検討しているが、ドイツ滅亡後でも結束を保てるだろうか? 結束したとしてもジャガーノートに勝てるだろうか?
トルコは強大なロシアと組めばひとまず生き残れるが、オーストリア滅亡後はどちらに進むべきだろうか?
イタリアはオーストリアを攻めるべきだろうか、守るべきだろうか?
ロシアが圧倒的に優位とはいえ、世界情勢はまだまだ定まっていない。
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