
NO73
「サムの息子」ことデイヴィッド・バーコヴィッツ
デイヴィッド・バーコヴィッツは1953年(6月1日)に生まれた。子供の時に捨てられ養子となって、わずかな自尊心を、
衝動的な嘘と自慢話(セックスの腕前についてのものだったが、逮捕時恐らく未経験)で、また女性に対する極度の
恥ずかしがりは20代の初め頃から始めた彼女たちへの攻撃で隠していた(養父への手紙で「他人が自分を憎んでいる」とか
「女の子がおれのことを醜いという」と書いている)。
彼の度胸は、いく度かの命にかかわらない突き刺し襲撃(ナイフで脅したり、15歳の少女には片肺に届く重傷を与えたが
命は取り留めた)で支えられ、バーコヴィッツは1976年に拳銃(44口径の大型拳銃)を買い、ニューヨーク市を麻痺させた
一連の衝動殺人を開始した。男女を問わず場当たり的に選ばれた犠牲者が玄関の階段や車の中に座っている所に近付き、
至近距離から撃った(1976年6月29日ドナ・ローリアとジョディ・バレンティに始まり、10月23日カール・デナーロと
ローゼマリー・キーナン、11月26日ドナ・デマッシュとジョアン・ロミーノ、1977年1月30日クリスチーヌ・フロイントと
ジョン・ディール、3月8日バージニア・ボスケリキアン。この時点で3人死亡4人重傷。ビーム市長は記者会見して
「このニューヨークにひとりの野蛮な殺人狂が野放しになっています」と公表した)。この恐怖の支配は、6人死亡、
7人重傷という結果を残して13ヶ月間続いた。警察は、犯行現場で(1977年4月17日アレグザンダー・エッサウと
バレンティーナ・スリアーニ殺害の現場)手紙を見つけるまでは、目撃者も、容疑者も、動機も全く掴めないでいた。
手紙(警察署長ジョセフ・ボレーリ宛だった)は部分的に次のように読めた。「……おれは怪物だ。おれは、サムの息子……
傷つけるのが大好きだ」。そして、彼の父親のサムが、彼を猛烈にののしった後に殺せと命じたと主張していた。
2番目の「サムの息子」の書付(意味の判然としない殴り書きだった)は新聞の寄稿作家ジミー・ブレスリン
(ジェイムズ・ブレスリン、社会評論家)によって受け取られた。(その次は1977年6月26日サルバトーレ・ルーポとジュディ・プラシード)
幸運が警察を犯人へと導いた。1977年7月の二重殺人(7月31日ロバート・ビオランテとステーシー・モスコビッツ)の後、
目撃者が、近くの、駐車違反チケットを受け取ったばかりの車に飛び乗った男を見ていた(日曜日のこの時間にこの地区で
発行された駐車違反チケットは4枚だけだった。この目撃者の言う消火栓の近くに駐車していた車は1台だけだった。
チケットの控えに車のナンバーが残されていた)。警察は車をつきとめ(フォード・ギャラクシー、持ち主はデイヴィッド・バーコヴィッツ)、
前部座席にある拳銃と「サムの息子」の筆跡(特徴のある大文字)で書かれた手紙に気付いた。彼らはバーコヴィッツを逮捕した
(張り込みの指揮者のティム・ダウド警部が「ハロー、デイヴィッド」と声を掛けると驚いたように見て「とうとうおれを捕まえたな」と言った)。
物静かでニタニタ笑った男(どう見ても「おつむの弱い小男」で、キャンディの盗み食いを見つかってしょげた子供という風だった。
恐怖の「サムの息子」とはとても思えなかった)で、ゴミと気違いじみた落書き(「この穴倉に魔王が住む」「おれの主なる者のために
殺す」「おれは子供を殺人者にする」などと書かれていた)に覆われた不潔なアパートに独りで住んでいた。
バーコヴィッツは警察に、彼の別名は、彼が憎んでいた養父の名前から取ったのではなく、その吠え声が毎夜彼を
寝かさないラブラドール犬の飼い主(サム・カー、この男に無署名で何通も警告の手紙を出している。
自分をいじめると信じ込んだ人物にも無署名の手紙を送り、かなりの回数に渡って「変な人」として警察に通報されていたが、
まさか「サムの息子」とは誰も思わなかった)から取ったのだと話した。精神異常を申し立て、彼は色々な声や、
その犬が彼に殺せと言っているのを聞いたといった(面会した精神科医は全くの嘘っぱちだと言った)。正気と判定され、
殺人で有罪となり、禁固365年の刑を宣告された(彼のアパートは名所になり、ドアの取っ手が盗まれ、カーペットは刻まれて
持ち帰られた。部屋のドアのペンキまで削り取られた。大家は住所表示を変更したが、そのビルの住人の4分の1は出て行った)。
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