サクラ糞雑多文群
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糞雑文



何を語ればよいのだろう(01/09/12)

一日中ニュースを見ながら仕事をしていました。CNNは重くて重くて見にくかった。非常時の情報収集となると、インターネットは非常に弱い媒体であることは頭ではわかってるんだけれども。

乗客に日本人はいませんでした、いませんでした、いませんでした

イエモンのあの有名な歌についても語りつくされている。誰もがあの歌を思い出した、ひたすら日本人の安否のニュース。でもそれが真実だ。僕が真っ先に思ったのが高校時代の交換留学生のカレンさん。同じクラスだった。彼女はニューヨーカーだった。僕は少しでもかかわりがあった、彼女の安否が気になる。それが真実だ。僕らはひたすら気になる人たちの安否を気遣い、そしてその中の幾名かはもうすでに亡くなっている。でもまだ事実はわからない。それが真実だ。

もし同じことが日本に起こったら、僕は戦争に行く。僕の日常近くに生きていて僕にかかわっている人に同じ不幸が起こったら、僕は報復する。それが何も生み出さなくても報復の後何も残らなくても。その後の生に何の意味があるというのだろう。生きていること、それ自体に意味はない。何の意味もない。人間は別にいなくなってもいい。自滅でもなんでも。生命など消えてしまってもいい。特別な生命などない。絶滅する種族に人間は入っても別にいいのだ。人が生きていること自体に意味はない。


でも僕は僕の好きな人が死ぬのはいやだ。僕の好きな人が生きていることそれ自体に意味がある。





イエモンに始まってブルーハーツで終わるんですか。
こんな考えが今回の事件を起こす、そんなことはわかっているけれど。












そして僕は静かに唇を縫い合わせる。

祈りってなんなんでしょう。(01/08/24)

残鉄剣 で、つい最近『祈り』について書かれていました。病気の方のためにみんなで祈ろう!ってな感じです。

僕は『祈り』と聞くと低俗かもしれません、所詮そんな人間です、あるゲームを思い出します。
『MOTHER2』っていうゲームを思い出します。糸井重里さんが作られたゲームで現代を舞台にしたちょっと変わったRPGです。僕はこのゲームがとても好きで、当時遊び倒したものです。卵を買ってそれを温めて鶏にして売ったりだとか(お金が儲かるのです)、そのお金で高級料理を食べたりだとか、ヒント屋さんというゲームに行き詰ったときのお助け場に何度も無駄に足を運んだりだとか。端々がとても楽しいゲームでした。

このゲームで僕は2回泣きました。
一つは主人公が夢の世界に入っていったとき、(自分の中の世界かな?)、幼少の頃、いかに主人公が両親に愛されていたかを知ることができるエピソードで。(ゲームの最中、母親はいますが、父親は電話口でしか話すことができない実態のない存在でした。)

もう一つが最後の敵との戦いで。
このとき、僕は彼らのために祈りました。ゲームの中の子どもたちだけど、祈りました。必死に。
たかだかゲームなのに、祈りました。泣きながら。今思うと馬鹿みたいですが、今もう一度やっても祈ると思います。
どうしてゲームの中の虚構の子どもたちに祈ることができたのか?
それは、僕のなかで彼らに対して何らかの思い入れがあったからにすぎません。膨大な時間を割いて、彼らを使いゲームの世界観を楽しんだのです。僕にとって彼らはゲーム上のキャラクターでありましたが、でも涙を流しながら、彼らが無事に帰ってくることができるよう、祈ることができるべき関係の取れた存在だったのです。

僕にとって見知らぬ人に対して祈りをささげることは容易ではありません。
どうしてでしょう。僕は冷たい人間なんでしょうか。
僕はブラウン管の中の難病に苦しむ子どもに対しても祈りをささげることができません。
大変だなあ、とは思うのですが、直ってくれればいいな、程度です。祈ることはできません。
直ってくれればいいなあ、という思いを、祈り、に変換することはできません。
両者は決定的に違うものです。僕にとっては。

世界が平和になればいい、なんて願ったこともない。祈ったこともない。
いずれにせよ、祈りは強制されるべきものではない。強制した時点でそれは宗教になる。

知らない人に対して僕は涙を流すことができない。
それは単に僕の想像力不足なのでしょうが。

こんな考えを持っている人が他にもいるようなので安心したなあって感じです。
それだけ。