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「礼儀」の範囲

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 韓国人は「礼儀」正しいと言われる。
 自らも「東方礼儀之国」を自認するし、日本人もそう見ている。むろん、その源泉は儒教だ。人間を上下関係で縛り上げ、忠孝でがんじがらめにする儒教精神は、形を変えつつ、今の韓国社会に幅広く根付いている。
 こういう観点から見ると、確かに韓国人は「礼儀」正しい。

 しかし、これとは正反対の韓国人評も存在する。
 公共マナーがなってないというものだ。これは、韓国人自身も、問題点として指摘すること。
 ソウルの交通マナーのひどさは、今更言うまでもない。列をつくらず、すぐ割り込むのも、マナー違反というよりは、「割り込むのが礼儀」くらいの感覚である。随分よくなったとはいえ、街中でのゴミのポイ捨てはまだまだ多い。正直、お行儀がいい、とは言い難い側面があるのも確かだ。

 礼儀正しさと礼儀のなさの同居。
 この両者は、一見すると両立しないようにも思える。しかし、「礼儀」の及ぶ範囲を考えると、この相反する道徳性は、きっちり成り立つのだ。

 問題となるのは、公共性の有無である。

 儒教を考えてみよう。韓国人が礼儀正しいと言われるとき、それは、直接利害関係のある人に対する場合である。親族についてはもちろん、学校や職場など、身内に対する礼儀に関しては、とことんうるさい。←ちなみに、日本は中途半端にうるさい(笑)
 一方、見ず知らずの人に対する礼儀に関しては、割と無頓着なところがある。公共マナーがなってない、というのは、そういう意味だ。直接的な利害が絡まいと、礼儀正しく振る舞う必要性が、極端に減少するのである。ボスの前では絶対にタバコを吸わない御仁が、街に出ると禁煙区域でもお構いなしにタバコを吸ってポイ捨てするという具合に。

 これは、「日本にもそういう人いるよ〜」という次元の問題ではない。
 日本の場合、「礼儀」として厳しくしつけられるのは、実はこれとは正反対の事柄である。 日本の場合、「礼儀」の軸になるのは、人様に迷惑をかけないようにという、非常に公共性の強い事柄である。筆者は、お世辞にも行儀がいいとは言い難い人間であるが、それでも、このことは、幼い頃からずっと言われてきた。むろん、筆者がその「行儀」を守れているかどうかは定かではないが(笑)、一応、心の片隅にはとどめているつもりである。

 一方、他人に迷惑を掛けない、という感覚が、理解できないのが韓国の人らしい。
 確かに、韓国の育児法を見ても、「人様に迷惑をかけないように」という意識が希薄だ。人前で悪ふざけしてる我が子を叱るのは、「死ぬ」と言って避けたりする。むしろ、人様に迷惑がかけられるくらい、ふてぶてしい子供に育てようとするのだ。

 上のコラムは、人に迷惑をかけないことを重視する日本に驚きの視線を向けたものだが、一方で、それと対照させつつ「自分の感情を自由に噴出でき、人の考えにも自由に干渉できる」のが韓国だとと書いている。しかし、韓国人でも、身内の目上には逆らえないし、まして自由に干渉など出来もしない。崩れつつあるとは言いつつ、それでも未だに、身内への「礼儀」には、バカみたいにうるさい。
 そして、これが外に向かうと一転して「親しき仲にしか礼儀なし」となるわけだ。

 むろん、日本には「他人が迷惑をかけるのも絶対に容認できないという考え」が強烈にあるのも確かだ。徐々にコリア化している筆者が帰国した時に感じることでもある。逆に韓国では、公共マナーの違反に関しては、概ね寛容的である。

 完全に「日本は〜〜で、韓国は〜〜だ」という二分法が正しいとは思わないが、全体としてそういう傾向があるのは確かだと思う。