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「イムコッチョン」で再起を夢みる
「ロボット・テコンv」総監督 キム・チョンギ
【この人の人生】アニメを愛して30年

キム・ヒギョン 自由寄稿家

 走れ走れロボットよ…
 この国で70〜80年代に幼年時節をすごした人なら誰でも、この歌に宿る幼年の郷愁を記憶しているだろう。『マジンガーZ』と『メカンダーV』のような日本産ロボットアニメが空前の人気をあつめていた70年代中盤、彗星のごとく登場した『ロボット・テコンV』のキム・チョンギ監督(57)。

 『ロボットテコンV』は国内最初の劇場用アニメ『洪吉童』(67年シン・ドンホン作)以後わが国の創作アニメが9年ぶりに送り出した豪快な結実だった。

 ワイドスクリーンで動くマンガを楽しむという事実自体がまだ堅苦しいことでしかなかった当時、この作品は、76年12月13日公開され、3週間だけで28万5千名の観客を動員する邦画史上前無後無の記録をうちたてた(興行記録年鑑集計)。3千席を超える大きな映画館の客席は、立錐の余地なく埋められ、最短日時最多観客動員記録をたてて全国同時公開に突入、全国的に『テコンV』熱風を巻き起こしたのだ。

 『トリ将軍』『ウレメ』シリーズは、『ロボットテコンV』シリーズの名声をうけついで70年代後半韓国アニメ製作ブームを主導した。「ひでり」状態だった国産アニメ市場に可能性を提示した映画だった。

捲土重来のため漫画村の山間
 全北ワンヂュ郡ドンサン面シンウォル里166マダンモク。四方がすべて山に囲まれた深い山奥である、この場所でキム・チョンギ監督が、彼の専属アニメ会社『ストーンベル(StoneBell)』メンバー70余名と寝食をともにし、作業に没頭しているアニメ村だ。

 全体敷地1千9百余坪になるこの場所では、フィルム現像と編集ダビングを除外した演出・原画・動線画・彩画・背景作業・レイアウト、おまけに撮影までの全工程を消化できるシステムと専任チームが構成され、一糸不乱に動いている総合アニメスタジオ(1百80坪)がある。「ストーンベル」というなまえは、時流に雷同せず、石のような心を持とうという意味で、民譚「ドルヂォン話」からとってきた。

 今年の夏の公開を前にして、仕上げの製作に奔走したストーンベル社のプロジェクトは、『イムコッチョン』。ここに初めて場所を定めた95年6月に作業を開始、もう、全体工程の30%程度を残すだけだ。

――91年『バイオマン』の興行失敗以後の近況を知りたがっている人も多いんですが、どのようにされていたのですか?

5〜6年間、製作の第一線から事実上手を引いて企画の仕事をしていました。事業に失敗して落郷した、とでも言うのかな。ここ数年間つらかったりもしたが、心機一転して製作意欲を取り戻すという覚悟で、故郷であるこの地にやって来ました。ここマダンモクは、知りあいが紹介してくれた空間で、製作にぴったりの条件をもっていて、新人のころに戻った気分で製作に没入しています。

 『イムコッチョン』は純粋アニメとしてはキム督の通算32番目の作品。

――再起作品を『イムコッチョン』にした特別な縁由といったものはあるのですか?

『イムコッチョン』『ホンギルドン』は、アニメの永遠のテーマです。行蹟自体がドラマティックなだけでなく、迫進感もあり、英国(訳注:?)のルパンのように公共の善のために存在した人物だというメッセージも健康的でしょう。93年度にシナリオを完成し、シルム(韓国相撲)選手イ・マンギさんを主人公に、実写映画として作ろうとしてたんですが、うまくいかなった。その後、しばらくほっておいたが、また作業するようになりました

 アニメ『イム・コッチョン』は小説やドラマとは全く違うものになっている。原作の大きな流れだけを使い、漫画的な状況で全てが脚色されたものだ。原作にない暗行御使が登場するかと思えば、家族用映画として興味本意の煽情的エピソードが整理され、子供たちのために、キャラクラー「黒いし」も登場する。まめつぶを口にくわえ、ぺっと吐き出し、トキも的中させて撃ち落とす、みなが好む要素をことごとく兼ね備えた人物だ。

――ストーリー創案だとかコンテ作業のために専業作家を別に置いていらっしゃるのですか?

全て一人で作業しています。『テコンV』のときはチ・サンハクさんと共同作業したことを除けば、『トリ将軍』『テコンV2弾』『ウレメ』まで、一人で作りました。漫画の属性、特徴を知り、直接絵を描くことができますから。漫画をわかっているシナリオ作家もほとんどいないですし。漫画特有の誇張法、夢などを適切に知ってなければならず、ドラマ技術だけで描いては駄目だから。ただ、助手たちの中で若い世代が多く、コンテが出たら複写して回し見するなど、いくつかの方法でモニタリングをします。まるで考えもしてなかった部分、新鮮な創案も少なからず出てきます。私は、伝統的なルールだけ利用しようと努力しますが、彼らは、思いもよらないアイデアやエピソードをやたらにぶちあげます。

 彼は、単行本作家として漫画界に入門した。ソラボル芸大で油画を専攻し、卒業後5年あまり『カンカンスウォルレ(韓国の伝統的な踊り)』『三銃士』のような作品をえがいた。イ・ボムギ、キム・サノなど国産漫画1世代たちが、当時彼といっしょに活動していた。

マンガ作家から監督に
 これらの漫画作家から、監督として作家生活をしていた60年代中ごろ、映画館でウォルトディズニーのアニメ『ピーターパン』と『白雪姫』を見ながらものすごい感興と衝撃をうけたという。

あまりに幻想的でことばで形容できない世界でした。頭の中をぐるぐるまわる神妙な想像力が画面に描き出されていて、それらが指先でかもしだすファンタジーは、本当にすごかった。私の人生でこんな映画を必ず作らなければ、と決心したんですよ。

 その時まで彼は、いつも「ヤッ!」「ピッ!」「チャン!」のような効果音を言葉で書いて表現したり、動きのリアリティを最大限に強調するために、間線や効果線などの代用物を利用していたが、その全てのものを「一挙に処理してしまう」アニメは、彼に「かっこいい新世界」そのものだった。

 当時、TBCで『黄金バット』などのアニメ製作システムができ、いっしょ単行本作業をしていた同僚といっしょに、キムさんは、アニメの世界へ入っていった。しかし、日本のフジTV『黄金バット』の製作に参与したキムさんは、3ヶ月で、当時としては指折りの職場だった東洋放送に辞表を出して、辞めてしまった。

 おもしろくなかったんです。日本の原画をそのままもってきて国内下請業の動画作業を経てTVに送り出すわけですが、仕事自体に対する懐疑が大きかったです。現実のようにリアルな感情表現だとか、動作、アクションを描けば、絵のカットがたくさんいるようになりますが、何枚かで終えなければならないという条件があり、好きなだけ描くこともできず、苦労して描きあげても、結局、そこは使われず…。
 あ、そうじゃないな、これは演技でもアニメでもない、ただの機械漫画だという気がしてたんですよ。

 室内用映画ではない、ワイドスクリーンの魅力を捨てることができなかったキムさんが移っていった先は、アニメ製作会社である世紀商事。ここで彼は、『洪吉童』の後続作として『孫悟空』『宝物島』『黄金鉄人』のような映画を作った。

 いつでも下請作業を出来たのですが、はした金を稼ぐためにその作業を継続するということは、自尊心が許しませんでした。観客の反応も知ることができない、他国の作品を描く理由はなかったし、作品を作りたっかんですよ。はっきり言わせてもらえば、メシさえ食べられれば、外国作品はしたくないですよ。

 彼がこのような決心を固めていた70年代初め、スティーブ・ハンとネルソン・シンなどの在米アニメーターや日本からガンガンはいってる下請アニメの物量は、瘠薄な国産アニメ市場を蚕食しており、あっという間に、全体規模の80%以上が下請システム化されるようになった。無数の技能職人が量産され、「この状況下で1年だけ原画を描けば、家住み、田んぼを買える」という言葉まで出回る程で、製作社が好景気を謳歌する間、国内アニメ業界は、急速に保税加工基地化する道を突っ走っていった。

 国内下請作品1号である『黄金バット』と『妖怪人間』以来、最近の『銀河鉄道999』至るまで、アメリカと日本の「注文工場兼代理店」という汚名をきせられるようになったこと、『洪吉童』の後続作が、新らしい面を見せられずに消えてしまい、テレビ普及とともにTV用アニメ製作ブームに火がつき、映画館景気が急激に退潮、劇場用アニメは70年代に入り事実上中断されるまでになった。キムさんが映画メカニズムに対ヘして集中的に苦悶し研究していたのが、この時期だ。

「テコンV」をやる直前まで、何年間か文化映画社に入り映画修業をし、京釜線記録映画現場を尋ね歩いたかと思えば、ロッテ「ラーメンタン」や参星製薬「パント」のような商業用アニメフィルムも作りました。ユ・ヒョンモク監督の小型映画同好会にも参加し、映画修業に対する研究もして…。

つぎの文書に続く

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