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後漢書卷七十四下

袁紹劉表列伝第六十四下紹子譚

袁譚は車騎将軍を自称し,黎陽に出軍した.袁尚は其の兵を少し与え,而して逢紀を使って之に隨わせた.袁譚は兵を益すよう求めたが,審配等がまた議して与えなかった.袁譚は怒り,逢紀を殺した.

曹操が度河して袁譚を攻めると,袁譚は袁尚に於いて急を告げた,袁尚は乃ち審配を留めて鄴を守らせると,自ら将いて袁譚を助けようとし,曹操と黎陽に於いて相拒んだ.九月から明くる年の二月に至るまで,大いに城下で戦い,[一] 袁譚、袁尚は敗退した.曹操が将に之を圍もうとしたので,乃ち夜に遁れて鄴に還った.曹操が軍を進めると,袁尚は逆に曹操を撃破したため,曹操軍は許に還った,袁譚は袁尚に謂いて曰く:「我が鎧甲は不精であったため,故に前は曹操に敗れる所と為った.今曹操軍は退き,人は懐いて帰志している,其の未だ済さずに及び,出兵して之を掩<おお>い,令して大いに潰す可きである,此策は失う可きではない也.」袁尚は疑ってしまい而して許さず,既に兵を益さなかったうえ,また甲を不易とした.袁譚は大いに怒ると,郭図、辛評は此に因って袁譚に謂いて曰く:「使って先公(袁紹)に将軍を(家の外に)出させて(先公の)兄の後と為したのは,皆是は審配が構じた所でした也.」袁譚は之を然り(なるほど)とした.遂に兵を引きつれて袁尚を攻めると,外門に於いて戦った.[二] 袁譚は敗れたため,乃ち兵を引きつれて南皮に還った.[三]

[一]郭縁生述征記に曰く:「黎陽城の西に袁譚城がある,城の南に又一城が有るが,是曹公袁譚を攻めたときに築いた所のものである.」

[二]郛郭之門.

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[三]南皮は,今の滄州県である也.章武に北皮亭が有る,故に此を曰く南皮という.

別駕の王脩が吏人を率いて青州から袁譚を救いに往かうと,袁譚は還って更に袁尚を攻めようと欲し,王脩に問うと曰く:「計将安出?」王脩曰く:「兄弟というものは,左右の手であります也.譬えるなら人が将にしようとして而して其の右手を断って,曰く『我は必ず勝つ若し』とするようなもの,是の如き者は可(できる)でしょうか乎?夫兄弟をして而して親しまない,天下に其の誰が之に親しみましょうか?属有讒人交其閨C以って一朝之利を求めようなど,願わくば耳を塞いで聴くこと勿れ也.若し佞臣数人を斬って,復相親しみ睦みあい,以って四方を御すなら,天下に(於いて)横行することも可能でしょう.」袁譚は従わなかった.袁尚は復自ら将いて袁譚を攻めた,袁譚は戦って大敗したため,嬰城固守(城に引篭もって固守した).[一] 袁尚が之を圍むこと急であったため,袁譚は平原に奔ると,而して潁川出身の辛毗を遣わして曹操に詣でさせ救いを請わせた.[二]

[一]前書で蒯通が曰く:「必ず将に嬰城して固守せん.」音義に曰く:「嬰は城を以って自繞するを謂う也.」

[二]魏志に曰く:「辛毗は,潁川(郡)陽翟(県)の人である也.袁譚が辛毗を使いとして太祖に詣でさせて和を求めさせた,辛毗は太祖に見えると袁譚の意(気持ち)を致した(説明した).太祖は悦ぶと,辛毗に謂いて曰く:『袁譚は信じる可きか,袁尚は必ず克つ可きか不か?』辛毗は対して曰く:『明公には信と詐を問うこと無く也,直(言)に当に其の埶をのみ論じるべきでしょう耳.袁氏兄弟であったのが相伐することとなっていますが,他人が能く其の閧ノ間することができると謂うのに非,乃ち天下は己に於いて定められる可きと謂うのです也.一旦明公に於いて救いを求めていますが,此は知っておく可きでしょう也.』」

劉表は書を以って袁譚を諫めて曰く:

天は災害を降し,禍難は流れを殷す,初め殊族と交わり,卒成して盟を同じくし,使って王室を震蕩させ,彝倫攸斁した.[一]是は智達之士を以ってして,入骨に心を痛ませないもの莫く,傷時に人は相忍ぶこと能わないものである也.然るに孤は太公と,志すに願い等を同じくした,[二]楚と魏は絶邈して,山河が遠き廻らしていると雖も,[三]戮力乃心し,共に王室を[四]使って非族盟を干しないようにし,異類好みを絶やさないようにしたが,此は孤が太公と貳之所致すこと無かったからである也.功績は未だ卒せずして,太公は殂隕されたため,賢胤が承統して,以って洪業を継いだ.奕世之徳を宜しくし,丕顯之

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祚を履いて,[五]鄴都に於いて厳敵を摧し,朔土に於いて休烈を揚げ,疆宇を顧みて定め,河外を虎視しよう,凡そ我ら盟を同じくすれば,景附しないものは莫いものだ.何ぞ青蠅が竿旌に於いて飛んでいることを悟ろうか,無忌は二壘に於いて遊ぶと,[六]股肱を使って二體を分成させ,匈膂は絶えて異身を為した.初めて此問を聞いたおりには,尚も然らずと謂ったものだが,信来(やってきた信書)を定聞すると(聞いて事柄がはっきり定まる=分かると),乃ち閼伯、實沈之忿が已に成ったことを知ったのである,親すれば即ち讎之計は已に決すもの,[七]中原に於いて旃交すれば,城下に於いて尸累を暴すものである.之を聞くや哽咽している,若し存し若し亡ぶからである.昔、三王、五伯から,下って戦国に及ぶと,君臣は相弑し,父子は相殺しあい,兄弟は相殘しあい,親戚は相滅ぼしあったが,蓋し時が之を有するものだったからである.然るに或いは以って王業を成そうと欲したのであり,[八]或いは以って功で霸を定めようと欲したのであるが,[九]皆謂う所は取り順うを守ったもので,而して一世に於いて富強を徼したのである也.未だ親を有しないなら即ち異とするものだが,兀其根本,而して長世者に於いて全うすること能うものなのである也.

[一]左伝に曰く:「震蕩播越.」書に曰く:「彝倫攸斁.」彝は,常である也.倫は,理である也.攸は,所である也.斁は,敗である也.

[二]太公とは之を尊んで言うもので,袁紹のことを謂う也.

[三]楚は,荊州のことである也.魏は,冀州のことである也.

[四]左伝に曰く:「同好惡,王室.」杜預曰:「,助也.」

[五]奕は,重である也,国語に曰く「奕代載徳」.

[六]詩小雅に曰く:「営営とするは青蠅か,榛に(于)止まる.人を讒るは罔極,我を構えるは二人.」史記で,費無忌が楚の平王に於ける寵を得ていたおり,太子建の少傅と為ったが,太子に於ける寵は無かった,(そのため)日夜太子を王に於いて讒り,太子を誅せんことを欲した.太子は宋に亡奔した.左伝は「無極」と作る.竿旌、二壘とは,袁譚、袁尚を謂う也.

[七]左伝で子産が曰く:「高辛氏には二子が有った,伯は曰く閼伯,季は曰く實沈,曠林に於いて居し,相能わず也,日干戈を尋ね,以って相征討す.」

[八]周公が管、蔡を誅した類の若しである.

[九]斉の桓公が子の糾を殺した若し也.

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昔斉の襄公は九世之讎に報い,[一]士は荀偃之事に卒した,是が故に春秋は其の義を美しとし,君子が其の信を称えたものなのである.夫れ伯游が斉に於いて恨んだもので,未だ太公が曹に於いて忿った若からざりきものである也;宣子之臣承業,未若仁君之継統也.(宣子の臣が業を承るのは,未だ仁君の統を継ぐ若くではないものである.)[二]且つ君子は難を違えて讎国するに適わざるもの,交わり絶って惡む声を出さないものである,[三]況んや先人之讎を忘れ,親戚之好みをして,而して万世之戒めと為すとは,同盟之恥を遺すものではないか哉!蠻夷戎狄にも将に誚讓之言が有るという,況んや我が族類においてや,而して心を痛めないものだろうか邪!

[一]公羊伝に曰く:「紀侯大去其国.大去とは何であるか?之を滅ぼすことである也.孰れか之を滅ぼすというか也?斉が之を滅ぼすのである.曷は為すに斉が之を滅ぼすとは言わないが?襄公の為に諱したのである也.春秋は賢者に諱を為す.何が襄公に於いて賢なるか?讎を復したことである也.何ぞ讎爾なるか?遠い祖である也.哀公が周に於いて烹<に>られたが,紀侯が之を譖ったからなのである.遠祖とは幾代(までなの)か?九代である矣.」史記に曰く,紀侯が斉の哀公を周に於いて譖し,周の夷王は哀公を烹た.其の弟靜が立って,是が胡公と為った.弟の獻公が立ち,子の武公が立ち,子の詞が立ち,子の文公が立ち,子の成公が立ち,子の荘公が立ち,子の釐公が立ち,子の襄公が八年して,紀が其邑を遷って去った,是で九代を為したのである也.

[二]荀偃は,晉の大夫である也.左伝に曰く,荀偃は中軍を将いて,士が之を佐<たす>け,斉を伐した.済河(黄河を渡ると),病して目が出たため,卒するに及んで,而して視ても不可唅となった.欒盈曰く:「其為未卒事於斉故也?」士は之を撫でて曰く:「主苟終,所不嗣事於斉有如河!」乃瞑受含.伯游は,荀偃の字である也.宣子とは即ち士のことである也,士燮之子で,士会之孫である.

[三]左伝に曰く,公山不狃曰:「君子違難不適讎国.」杜預曰:「違,奔亡也.」史記楽毅遺燕惠王書に曰く:「臣聞古之君子,交絶不出惡声.」

当時(当代)に於いて竹帛を立てんと欲し,一世に於いて宗祀を全うせんと欲するに,豈に宜しく生まれを同じくして分かれて謗るのか,得失を争校するのか乎?若し冀州は不弟之アを有し,[一]順之節が無いようである,仁君ならば当に志を降して身を辱めたとしても,済事を以って務めを為すものである.事が定まってから後に,使って天下に其の曲直を平らげさせるもの,亦たも義を高めることを為さないのか邪?今仁君が夫人に於いて憎しむを見れば,未だ鄭荘の姜氏に於けるかの若からざりし;昆弟之嫌が,未だ重華の象敖に於けるかの若からざりし.

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然るに荘公は卒するや大隧之楽に崇められ,象敖は終に有鼻之封を受けた.願わくば百痾を捐,舊義を追攝して,復して母子昆弟が初めの如く為らんことを.[二]今は士馬を整勒しつつ,鵠立つを瞻望しよう.

[一]左伝に曰く:「段不弟,故不言弟.」

[二]鄭武公は申に於いて娶った,曰く武姜である,荘公及び叔段を生んだ.荘公が寤生すると,姜氏を驚かせたため,遂に之を惡み,叔段を愛でて,之を立てようと欲した,武公は弗許した.荘公が立つに及び,姜氏は京を請うを為すと,使って之に居させた.叔段は甲兵を繕うと,将に鄭を襲わんとし,夫人が将に之に啓いた.荘公は遂に姜氏を城潁にてゥすると,而して之に誓って曰く:「黄泉に及ばず,相見えること無からん也.」既に而して之を悔いる.潁考叔は曰く:「君は何をか患うや焉?若し地を闕いて泉に及び,隧して而して相見えれば,其は誰が曰く然らざるとするでしょう!」之に従った.公は入って而して賦すと:「大隧之中,其楽也融融.」姜は出て而して賦した:「大隧之外,其楽也洩洩.」遂に母子は初めの如く為った.事は左伝に見える.史記には曰く,舜は名を重華という.父の瞽叟は盲にして而して舜の母は死んだため,瞽叟は更めて妻を娶ると,象を生んだ.瞽叟は後妻の子を愛で,常に舜を殺そうと欲した.舜は帝位を踐すると,弟の象を封じて諸侯と為した.孟子は曰く:「象は至って不仁なれ,有鼻に封諸した.仁人之於其弟也(仁人の其の弟に於いて),怒りを蔵さず焉,怨みを宿らせず焉,之を親愛して而して已む矣.」鼻国は永州営道県北に在る,今も猶ほ之を鼻亭と謂う.

又袁尚に書を与えて之を諫めたが,並んで従わなかった.[一]

[一]魏氏春秋は劉表が遺袁尚に遺した書を載せているが曰く:「變が辛、郭に起こるを知る,禍が同生を結び,閼伯、實沈之蹤を追い,常棣死喪之義を忘れさせ,干戈を親尋し,僵尸流血したとか,之を聞くに哽咽して,若存若亡するようである.昔軒轅は涿鹿之戦を有し,周公は商、奄之師を有したが,皆以って穢害を翦除して而して王業を定めんとする所であり,強弱之争い,喜怒之忿りにざるものである也.故に親を滅ぼすと雖も不尤であり,兄を誅したと雖も不傷であった.今二君は初めに洪業を承り,前軌を纂継したが,(これは)進んでは国家傾危之慮を有し,退いては先公遺恨之負を有するものであるといえよう.当唯曹是務,唯国是康.何者?金木水火剛柔相済し,然る後に剋って其の和を得て,能く人が用いる為す.今青州は天性峭急であり,曲直に於いて迷っている.仁君は度数えて弘広げ,綽然として余り有るもので,当に大を以って小を苞み,優を以って劣を容れ,先ず曹操を除き,以って先公之恨みを平らげる,事定まっての後に,乃ち曲直之評を議すのも,亦しからずや乎若し神を留めて図る遠ざけ,剋己復禮して,当に振旅長驅すべし,王室を共にそう.若し迷って而して返らず,遵じても而して改めること無ければ,則ち胡夷に将に誚讓之言有らん(かのようになろう),況んや我は盟を同じくしているのだ,復して仁君

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之役に能く戮力せん哉!此は韓盧、東郭が前に於いて自ら困じたもので,而して田父之獲者を遣わしたものである也.憤躍鶴望して,冀うは和同之声を聞くことである.若し其の泰するや也,則ち袁は其れ漢の升降と族するものではないか乎!其の否む如き也,則ち盟を同じくして望むこと無きこと永からん矣.」劉表の二書は並んで王粲集に見える.

曹操は遂に袁譚を救いに還り,十月に黎陽へ至った.袁尚は曹操が黄河を渡ったと聞くと,乃ち平原を釋して鄴に還った.袁尚の将であった呂曠、高翔は畔して曹氏に帰すと,袁譚は復陰ながら将軍の印を刻んで,以って呂曠、高翔に假した.曹操は袁譚が詐していることを知ると,乃ち子の曹整の娉に袁譚の女<むすめ>を以ってすることで以って之を安んじ,[一]而して軍を引きつれて還った.

[一]魏志に曰く,曹整は建安二十二年に郿侯に封じられ,二十三年に薨じた,子は無かった.黄初二年,追って進爵された,謚して曰く戴公である.

九年三月,袁尚は審配を使って鄴を守らせると,復た袁譚を平原に於いて攻めた.審配は袁譚に(於いて)書を献じて曰く:「わたくし審配が聞くに良薬は口に苦くとも而して病に(於いて)利しく,忠言は耳に逆らうも而して行いに於いて便ずるものだとか.[一]願わくば将軍は心を緩められ怒りを抑えられて,終にわたくしのこの愚辞を省みられんことを.蓋し春秋之義では,国君は社稷に死し,忠臣は君命に死すもの.[二]苟しくも宗廟に危うき図り,国家を剥乱するは,親の一つであります也.[三]是が以って周公が垂涕して以って管、蔡之獄を(斃)[蔽]させたもので,[四]季友が歔欷して而して叔牙之誅を行ったものであるのです.[五]何をか則らん?(なんで則る必要のあるものでしょうか?)義が重く人が輕いのは,事が已むを獲ない故であるのです也.昔先公が将軍を廃黜されて以って賢兄(の家)を續かせ,我が将軍を立てて以って嫡嗣と為したのは,上は祖靈に告げ,下は譜牒に書したもので,海内遠近,誰が備<つぶさ>に聞かなかったというのでしょう!何の意か凶臣郭図が,蛇足を妄畫し,[六]辞を曲げて諂い媚び,交乱懿親したのです.(そのように)至ると令して将軍に孝友之仁を忘れさせ,閼、沈之を襲わせ,兵を放って鈔突させ,城を屠り吏を殺させたことは,幽冥に於いて冤魂が痛み,草棘に於いて創痍を被ったものといえましょう.又乃ち(郭)図は鄴城を獲ようとして,賞を秦胡に許して,其の財物婦女を賜り,豫有分数.又云うに:『孤は老母を有すると雖も,趣いて身體を使って具えを完うさせ而して已みなん.』此言を聞いた者は,心を悼<いた>ませ涕を揮<ふる>ないもの莫かったのです,使って太夫人をして憂哀憤隔させてしまったもので,我州では君臣が監寐悲歎しております.誠に拱默するのは以って執事之図を聴きいれられることです,則ち懼れるのは春秋にある死命之節を違えること,太夫人に不測の患いを詒させること,先公がなさった不世之業を損なってしまうことです.我が将軍は辞して命を獲ず,以って館陶之役に及びました.[七]伏して惟いますに将軍は至孝たること蒸蒸なるもので,発するのは岐嶷に於いてであり,友于之性は,生じるのが自然に於いてであります,

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之を章らかとするに聰明を以ってし,之を行うに敏達を以ってしています,古今之挙措を覧るにが興敗する徴符は,糞土に於いて栄財を輕んじ,丘岳に於いて名が(高)[位]となる貴ぶことです.いったい何の意で奄然迷沈して,賢哲之操を堕とし,[八]怨みを積もらせて肆忿し,家を破るような禍を取ろうというのです!翹企し頸を延ばして,讎敵を待望し,虎狼之牙に(於いて)慈親を委ね,以って一朝之志を逞しくするなど,豈に痛まないことあるでしょうか哉!若し乃ち天啓尊心,革図易慮,則ち我が将軍は将軍の股掌之上に於いて匍匐として悲しみ号し,わたくし審配等も亦当に躬して體を布くべく以って斧鑕之刑を聴きいれるでしょう.如くに又悛せず,禍は将に之に及ぶことでしょう.願わくば熟れか吉凶を詳らかにし,以って環玦を賜られんことを.」[九]袁譚はれなかった.

[一]孔子家語に曰く:「忠言は耳に逆らうが行うに利し.」

[二]左伝で晏嬰は曰く:「君は社稷が死す為るなら則ち之に死し,社稷が亡ぶと為すなら則ち之に亡びるもの.」又晉解楊は曰く:「命を受けて以って出ずれば,死有ったとしても隕無いものである.死して而して命成るは,臣の祿というものである也.」

[三]左伝に曰く「天實剥乱」也.

[四]左伝に曰く,鄭子太叔曰く:「周公は管叔を殺し,蔡叔を放った.夫豈に愛さないものだろうか?王室の故なのである也.」

[五]公羊伝に曰く:「公子牙が卒した.何弟を以って称えさせなかったか?殺したからである也,為季子諱殺也.荘公が病むと,叔牙は曰く:『魯は一生一及,君は以って之を知っています.慶父存すと也.』季子曰く:『夫敢えてするや?是は将に乱を為さん!』和薬して而して之を飲むと,曰く:『公子は吾言に従い而して此れを飲む,則可以無為天下戮笑,必有後於魯国.』誅するに兄弟を避けなかったのは,君臣之義だったからである也.」

[六]戦国策に曰く:「楚に祠者が有った,其の舍人に酒一を賜ると,(彼らは)相謂いて曰く:『数人が之を飲めば足りない,一人が之を飲めば余り有る,請各畫地為蛇(それぞれが地に蛇を描こう),先に成った者が酒を飲むことにしよう.』一人の蛇が先ず成った,酒を引っぱり且つ飲んで,乃ち左手に酒を持ち,右手は蛇を畫き,曰く:『吾は能く之に足をも為す.』未だ成らないでいると,一人の蛇が成り,其のを奪って,曰く:『蛇は固より足が無い,子は安んぞ能く足を為さんと?』遂に酒を飲んだ.蛇に足を為したる者は終に其の酒を亡くした.」

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[七]詒は,遺である也.不世猶言非常也.獻帝春秋に曰く:「袁譚、袁尚は遂に干戈を尋ね,以って相征討しあった.袁譚軍が不利となり,平原にて保った,袁尚は乃ち館陶にて軍した.袁譚は之を撃ったが敗ると,袁尚は走って險を保った.袁譚は追って之を攻めると,袁尚は奇伏(奇兵・伏兵)を設けて袁譚軍を大いに破った,僵屍流血(のようす)は勝計できないものだった.袁譚は走って平原に還った.」

[八]墮の音は許規反.

[九]孫卿子曰く:「人を絶って以って玦す,人を反して以って環す.」

曹操は此に因って鄴に進攻した,審配の将の馮(札)[禮]が内応を為し,突門を開いて内から兵三百余人を繰りだした.[一]審配は之を覚ると,城上に従い大石を以って門を撃たせた,門は閉まり,入った者は皆死んだ.曹操は乃ち鑿ラして城を圍んだが,周回四十里,初め令して浅くさせ,越えられるような若きものとして示した.審配は望見すると,笑って而して出て利を争うことしなかった.曹操は一夜にして之を濬すると,広さ深さは二丈,漳水を引いて以って之を灌した.五月から八月に至ると,城中では餓死者が半ばを過ぎた.袁尚は鄴の急を聞いて,軍万余人を将いて城を救いに還ってきたため,曹操は逆撃して之を破った.袁尚は走ると曲漳に依って営を為した,[二]曹操が復た之を圍んだため,未だ合わないうちに,袁尚は懼れて,陰夔、陳琳を遣わして降ることを求めたが,聴きいれられなかった.袁尚が還って藍口に走ると,[三]曹操は復進んで,急に之を圍んだ.袁尚の将の馬延等が陣に臨んで降ったため,は大いに潰れた,袁尚は中山に奔った.尽く其の輜重を収め,袁尚の印綬節鉞及び衣物を得たので,以って城中に示すと,城中は崩沮した.審配は士卒に令して曰く:「堅守死戦するのだ,曹操軍は疲れている矣.幽州が方じて至れば,何主無きを憂うことあろう!」曹操は出て行くと圍んだため,審配は伏せていた弩で之を射て,幾らか中った.[四]以其兄の子の審栄は東門校尉と為っていた,審栄は夜に開門して曹操の兵を内にいれた,審配は城の中で拒み戦ったが,ついに生け獲られた.曹操は審配に謂いて曰く:「吾が近行して圍むと,弩何多也?(どうして弩はあれほど多かったのだ?)」審配曰く:「猶も其の少なきを恨むものだ.」曹操曰く:「卿の袁氏に於ける忠というのは,亦自ずと爾<なんじ、きみ>でなければ得られないものなのだろうな.」意は之を活かさんと欲していた.審配の意気は壮烈であり,終に撓辞すること無かったため,見者で歎息しないものは莫かった,遂に之を斬った.[五]袁尚の母妻子を全うし,其の財寶を還した.高幹は并州を以って降り,復して(并州)刺史と為った.

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[一]墨子の備突篇に曰く「城百歩で,一突門である.突門には車両輪を用い,以って其の上に木朿を塗って,突門内に維置しておく.度門広狹之,令人入門四尺,中置窐突,門旁為橐,充状,又置艾.寇すれば即ち入り,輪を下して而して之を塞ぐ,鼓橐梍V」也.

[二]漳水之曲.

[三]相州安(楊)[陽]県界に藍嵯山が有る,鄴とは相近い,蓋し藍山之口である.

[四]幾の音は祈.中の音は竹仲反.

[五]先賢行状に曰く:「是日先ず審配を縛って将に帳下に詣でようとしたとき,辛毗等が逆して馬の鞭を以って其頭を撃つと,之を罵って曰く:『奴,汝は今日真に死すのだ矣.』審配は顧みて曰く:『狗輩が!汝由に曹(曹操)が冀州を破ることになったのだ,恨むべくは汝を殺すを得ないことだ.』太祖は既に審配を活かそうという意<きもち>を有していたが,審配は撓辞すること無く,辛毗等が号し哭して已まなかったため,乃ち之を殺したのである.」

曹操が鄴を圍むや也,袁譚は復た之に背き,因って甘陵、安平、勃海、河閧略取すると,中山に於いて袁尚を攻めた.袁尚は敗れると,故安に走って袁熙に従い,而して袁譚は悉く其のを収めると,還って龍湊に屯した.

十二月,曹操は袁譚を討ち,其門に軍した.袁譚は夜に遁れて南皮に(奔り)[走り],清河を臨んで而して屯した.明くる年の正月,急に之を攻めた.袁譚は出て戦おうと欲したが,軍は未だ合せずして而して破れた.袁譚は被髮したまま驅馳すると,追った者は意非恆人,之に趨奔した.[一] 袁譚は馬から墯<お>ちると,顧みて曰く:「咄<むぅっ>,兒が我に過つか,我は汝を能く富貴にせしものを.」言うや未だ口を絶たないうちに,頭が已に地に断たれた.是に於いて郭図等は斬られ,其の妻子は戮されたのである

[一]趨の音は促.

袁熙、袁尚は其の将焦觸、張南に攻められる所と為り,遼西烏桓に奔った.焦觸は自ら幽州刺史を号して,諸郡を驅率すると太守令長は袁(氏)に背いて曹(氏)を向き,兵を陳べること数万となった.白馬を殺して盟すると,令して曰く:「違える者は斬る!」で敢えて仰視するもの莫く,各々は以って次歃した.(そうした事態に)至ると別駕で代郡出身の韓珩は,[一]曰く:「吾は袁公父子に厚恩を受けた,今其が破れ亡ぶにあたり,智は救うこと能わず,勇は死すこと能わず,義に於いて闕くことになってしまった矣.若し乃ち曹

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氏にむかい北面するなどということは,為すこと能わない所である也!」一坐は韓珩の為に色を失った.焦觸曰く:「夫大事を挙げんとするに,当に大義を立てるべし.事之済否については,一人を待つものではない,韓珩の志を卒す可きであり,以って君に試魔ウせるべきだ.」[二]曹操は韓珩の節を聞くと,甚だ之を高いものだとし,(韓珩を)屢辟したが至らなかった,家に於いて卒した

[一]珩の音は行.

[二]先賢行状に曰く「韓珩は字を子佩といい,代郡の人である,清粹にして雅量を有していた.くして父母を喪うと,兄姊を奉って養ったため,宗族は(その)悌を称えた」也.

高幹が復叛き,上党太守を執らえて,挙兵して壺口関を守った.[一]十一年,曹操は自ら高幹を征し,高幹は乃ち其の将を留めて城を守らせると,自ら匈奴に詣でて救いを求めたが,得られず,独り数騎と亡んで,荊州へ南奔しようと欲した.上洛都尉が捕えて之を斬った.[二]

[一]潞州の上党県に壺山口が有る,其險に因って而して関を置いたのである焉.

[二]典論に曰く:「上洛都尉王琰が高幹を獲て,その功以って侯に封じられた.其の妻は室に於いて哭したが,以って王琰が富貴を為したため将に更めて妾媵を娶ろうとした故であった也.」

十二年,曹操は遼西を征し,烏桓を撃った.袁尚、袁熙は烏桓と与して曹操軍に逆らい,戦ったが敗れて走った,乃ち親兵数千人と遼東に於いて公孫康のところへ走ったのである.袁尚は勇力を有していたため,先に袁熙と謀って曰く:「今遼東に到ったが,公孫康は必ず我に見えよう,我は独り兄の手と為って之を撃ち,且つ其の郡に拠れば,猶も自らを以ってして広げることも可能だろう也.」公孫康も亦心に規るに袁尚を取って以って功を為そうとしており,乃ち先ず廄中に於いて精勇を置き,然る後に袁尚、袁熙を請うた.袁熙は疑うと進む欲しなかったが,袁尚が之を彊いたため,遂に倶に入った.未だ坐すに及ばずして,公孫康は伏兵に之を禽えるよう叱したため,(囚われて)凍地に於いて坐すこととなった.袁尚は公孫康に謂いて曰く:「未だ死なない閧ヘ,寒くて忍ぶことできない,相(われわれ二人に)席を与えてくれるべきではないか.」康曰:「卿の頭は顱方して万里を行くのだ,何の席を為せというか!」遂に首を斬ると之を送った.

公孫康は,遼東の人である.父は公孫度.初め吏を避けて玄兔の小吏と為り,稍仕(わずかな間仕えた).中平元年,還って本郡の(太守)守と為った.職に在ると敢えて殺伐し,郡中の名豪で己に夙を与えて恩無かった者について,遂に百余家を誅滅した.因って東に高句驪を撃ち,西に烏桓を攻め,威行すること海畔であった.時に王室は方

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乱していたため,公孫度は其の地の遠き恃んで,陰ながら独り幸せんことを懐いた.襄平の社に大石が生えたことがあった(高さは)丈余,下は三つの小石が有って足を為していた,公孫度は以って己に瑞を為すものだとした.[一]初平元年,乃ち遼東を分けて遼西、中遼郡を為し,並んで太守を置くと,海を越えて東萊諸県を収め,営州刺史を為し,[二]自立して遼東侯、平州牧と為って,父の公孫延に追封して建義侯と為した.漢の二祖廟を立てた.承制して襄平城の南に於いて墠を設けると,天地を郊祀し,藉田して兵を理,乗鸞輅九旒旄頭羽騎.建安九年,司空曹操が(上)表して奮威将軍と為し,永寧郷侯に封じた.公孫度が死ぬと,公孫康が嗣ぎ,故に遂に遼土に拠ったのである焉.

[一]襄平は,県で,遼東郡に属する,故城は今の平州盧龍県西南に在る.魏志に曰く:「時に襄平の延里社に大石が生えた,或(或る人)が公孫度に謂いて曰く:『此は漢の宣帝(が受けた)冠石の祥であり也,里名は先君と同じであります.社は土地を主<つかさど>るもの,明らかに当に土地を有して,三公の輔を有すべしということでしょう也.』公孫度は益すます喜んだ.」

[二]為すに猶置くである也.

劉表は字を景升といい,山陽高平の人で,魯の恭王の後である也.[一]身長は八尺余,姿貌は温偉であった.同郡の張儉等と倶に訕議を被り,号されて「八顧」と為された.捕案党人を捕らえ案じるとの詔書あったため,劉表は亡走して免れる得た.党禁が解けると,辟招されて大将軍何進の掾となった.

[一]恭王は,景帝の子で,名を余という.

初平元年,長沙太守の孫堅が荊州刺史の王叡を殺したため,[一]詔書あって劉表を以って荊州刺史と為した.時に江南は宗賊が大いに盛んであり,[二]また袁術が兵を阻んで魯陽に屯していたため,劉表は至ること得ること能わず,乃ち単馬で宜城に入ると,[三]南郡の人である蒯越、襄陽の人である蔡瑁に請うて與