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後漢書志第十三

五行一

貌不恭、淫雨、服妖、雞禍、青眚、屋自壊、訛言、旱、謠、狼食人

五行の伝説及び其の占応について,漢書の五行志は之を詳かに録す矣.故の泰山太守である応劭、給事中の董巴、散騎常侍の譙周[一]は並んで建武以来の災異を撰んだ.今合わせて而して之を論じ,以って続前志と云う.

[一]蜀志に曰く:「周は字を允南といい,巴西西充国の人である也.治尚書となり,諸経及び図緯に兼ね通じた.州郡は辟請したが皆応じなかった.古に耽り学を篤くし,典籍を誦読して,欣然として獨り笑い,以って寝食を忘れた.蜀が亡ぶと,魏が徴したが至らなかった.」

五行は伝えて曰く:「田獵は宿せず,[一]飲食は享けず,[二]出入に節なくば,[三]民から農時を奪い,[四]姦謀が有るに及ぶのは,[五]則ち木は曲直せずということである.」[六]木が其の性を失えば而して災を為すと謂うことである也.又曰く:「貌の恭しからざるや,是れ不肅と謂う.[七]厥<そ>の咎めは狂,[八]厥の罰は恆雨,[九]厥の極まるは惡である.[一0]時に則ち服妖有り,[一一]時に則ち亀孽有り,[一二]時に則ち雞禍有り,[一三]時に則ち下體生上之痾が有り,[一四]時に則ち青眚、青祥が有るのは,[一五]惟うに金が木を沴ずるのであろう.」[六]説いて云うに:気が相あうこと之を沴と謂うのである.[一七]

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[一]鄭玄は尚書大伝に注して曰く:「不宿,不宿禽也.角は天兵を主<つかさど>る.周礼は四時に習兵するにあたり,因るに田獵を以ってした.礼志に曰く:『天子不合囲,諸侯不掩,過此則暴天物,為不宿禽.』角南に天庫、将軍、騎官が有る.」漢書音義に曰く:「遊田馳騁,不反宮室.」

[二]鄭玄は曰く:「享とは,獻ということである也.礼志に曰く:『天子諸侯は,無事なれば則ち歳に三田(三回狩猟を行う):一に為すは乾豆,二に為すは賓客,三に為すは充君之庖である.』周礼の獣人では,冬には狼を献じ,夏には麋を献じ,春秋には獣物を献ず,此が獻礼之大略である也.」五行に注す「鄭玄は曰く」と称すのは,皆出たところは大伝への注である也.漢書の音義に曰く:「獻享之礼が無い.」

[三]鄭玄は曰く:「角が天門を為し,房に三道が有るのは,出入之象である也.」

[四]鄭玄は曰く:「房、心は,農時之候である也.季冬之月(冬の終わりの月)には,農師に命じて耦耕の事を計らせる,是の時に房、心が晨中する.春秋は伝えて曰く:『辰が農祥を為すのは,后稷が経緯する所である也.』」

[五]鄭玄は曰く:「亢は朝廷を為す,房、心は明堂を為す,謀事出政之象である.」

[六]鄭玄は曰く:「君行が此の五者を行えば,為逆天東宮之政.東宮は地に於いて木を為す,木性は或いは曲がり或いは直かりしもの,人が器と為して用いる所のものである也.故無く生不暢茂,多折槁,是為木不曲直.木、金、水、火、土は之を五材と謂う,春秋は伝えて曰く:『天は五材を生み,民は並んで之を用いる.』其の政が逆なれば則ち神は怒り,神怒れば則ち材(五材)はその性を失い,民用を為さなくなる.其の他の変異は皆沴に属す,沴も亦た神怒である.凡そ神が怒るということは,日、月、五星が既に天にて適うに見えるのである矣.」洪範:「木は曰く曲直するものだ.」孔安国曰く:「木は揉んで以って曲直す可し.」

[七]鄭玄は曰く:「肅は,敬である也.君貌が恭しからずとは,則ち是は其の事を敬うこと能わずということである也.」洪範曰く:「貌曰恭.」

[八]鄭玄は曰く:「君臣が不敬であるなら,則ち倨慢すること狂える如し.」方儲が対策して曰く:「君が制度を失えば,下は承を恭しくせず,臣は淫慢を恣とするものです.」

[九]鄭玄は曰く:「貌は曰く木である,木は春を主<つかさど>り,春気が生じる;生気が失われれば則ち其節を踰る,故に常雨となる也.」管子に曰く:「冬に土功を作り,地蔵を発すれば,則ち夏には暴雨が多く,秋には雨霖が止まない.」淮南子に曰く:「金が收められないと則ち淫雨が多い.」

[一0]孔安国曰く:「醜陋.」

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[一一]鄭玄は曰く:「服,貌之飾也.」

[一二]鄭玄は曰く:「亀や蟲が水に於いて生じたり而して春に於いて遊ぶということは,木に属すのである.」

[一三]鄭玄は曰く:「雞畜で冠翼を有する者は也,貌に属する.」洪範は伝えて曰く:「妖というのは,敗胎ということである也,少小之類であり,其事之尚微を言う也.至孽,則牙孽也,至乎禍則著矣.」

[一四]鄭玄は曰く:「痾は,病である也,貌気失之病也.」漢書の音義に曰く:「若し梁孝王之時に,牛の足が反って背の上に出たことがある也.此が下のものが上のものを伐しようと欲する禍なのである.」

[一五]鄭玄は曰く:「青は,木色也.眚は此に於いて生える,祥は外来からである也.」

[一六]鄭玄は曰く:「沴は,殄である也.凡そ貌、言、視、聴、思、心,一事でも失えば,則ち人之心に逆らうことになる,人心えば則ち怨みあることとなり,木、金、水、火、土気は之が為に傷つけられる.傷つけられれば則ち衝勝来乗殄之,是に於いて神は人の怨みに怒り,将に禍乱を為さんとするのである.故に五行は先ず変異が見えるものだが,以って人に譴告しているのである也.妖、孽、禍、痾、眚、祥に及んでは皆其の気類である,暴作非常,為時怪者也.各以物象為之占也(各々は物象を以ってして之に占いを為す).」

[一七]尚書の大伝に曰く:「凡そ六沴之作は,歳之朝,月之朝,日之朝,則ち后王は之を受ける.歳之中,月之中,日之中は,則ち正卿が之を受ける.歳之夕,月之夕,日之夕は,則ち庶民が之を受ける.」鄭玄は曰く:「正月自四月まで<尽>は歳之朝と為す,五月自八月まで<尽>は歳之中と為す,九月自十二月まで<尽>は歳之夕と為す.上旬は月之朝を為し,中旬は月之中を為し,下旬は月之夕を為す.平旦から食時に至るまでが日之朝を為し,隅中から日が跌するに至るまでが日之中を為す,晡時から黄に至るまでが日之夕を為す.之を受けるのは,其の凶咎を受けることである也.」大伝も又云う:「其の二辰は以って相将いるに次ぎ,其の次は之を受ける.」鄭玄は曰く:「二辰とは曰、月のことを謂う也.つぎのように假令するものだが歳之朝については也,日、月が中なれば則ち上公が之を受け,日、月が夕なれば則ち下公が之を受ける;歳之中については也,日、月が朝なれば則ち孤卿が之を受け,日、月が夕なれば則ち大夫が之を受ける;歳之夕なるや也,日、月が朝なれば則ち上士が之を受け,日、月が中なれば則ち下士が之を受ける.其の余差は尊卑多少以って,則ち悉くす矣.」管子は曰く:「明王には四禁が有る:春には殺伐すること無かれ,大陵を割くこと,大木を伐ること,大山を斬ること,大火を行うこと,大臣を誅すること,穀や賦や錢を収めさせること無かれ;夏には水を遏すこと,名川を達すこと,大谷を塞ぐこと,土功を動かすこと,鳥獣を射ることをしない;秋には過ちを赦し,罪を釋し,刑を緩めることをしない;冬は爵賞祿をせず,五蔵を傷伐しない.故に春に政で禁じなければ,則ち五穀は成らない;夏に政で禁じなければ,則ち草木は栄えない;秋に政で禁じなれば,則ち

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姦邪が不勝する;冬に政で禁じなければ,則ち地気が蔵らない.四者倶に犯してしまえば,則ち陰陽は和せず,風雨は時せず,火は邑に流れ,大風が屋(根)を飄し,樹木を折り,地の草は夭する,冬に雷があり,草木は夏に落(葉、果)し,而して秋に蟲が蔵せず,宜しく死すべき者が生きることになり,宜しく蟄となるべき者が鳴くこととなり,螣}蟲が多くなる也.六畜は蕃せず(繁殖せず),民は多くが夭死し,国は貧しくなり法は乱れ,逆気が下生する.故に曰く台榭が相望むということは<者>,亡国之簾ということになるのです也;馳せる車で国が充ちるということは<者>,之を馬で追察するということなのです也;翠羽朱飾する者は,之を斧で斬生するということなのです也;五采纂組というのは<者>,蕃功之室です也.明主は其の然る知るため,故に遠ざけて而して近づけず,能く此れを去って彼を取る,則ち王道が備わるわけです也.」続漢書は曰く:「建武二年,尹敏が上疏して曰く:『六沴作見,若是供御,帝用不差,神則大喜,五福乃降,用章于下.若不供御,六罰既侵,六極其下.明供御則天報之福,不供御則禍災至.欲尊六事之體,則貌、言、視、聴、思、心之用,合六事之揆以致乎太平,而消除轗軻孽害也.』」

建武元年,赤眉の賊が樊崇、逢安等を率いて共に劉盆子を立てて天子と為した.然るに樊崇等が之を視るに小兒の如くであり,百事が自由であったため,初め恤録もしなかった也.後に正旦に至って,君臣が共饗しようと欲し,既に坐したが,酒食が未だ下らなかった,臣は更めて起つと,乱れてしまい整すことできなくなった.時に大司農の楊音が案じて怒して曰く:「小兒が戲れたとしても尚も此の如からず!」其後遂に破れ壊れ樊崇、逢安等は皆誅死した.唯だ楊音のみは関内侯と為り,寿を以って終わった(天寿を全うしたのである).

光武が崩ずると,山陽王の劉荊は哭しても哀しまず,飛書を東海王に作ると,乱を作ら使まんことを勧めた.明帝は劉荊が同母弟であることと,太后が在していたことを以って,故に之を隠した.後に王を広陵に徙したが,劉荊は遂に復謀反してことに坐して自殺した也.

章帝の時,竇皇后の兄の憲は皇后が甚だ上に於いて幸じられたことを以って,故に人人は竇憲を畏れないもの莫かった.竇憲は是に於いて沁水長公主の田を奪わんことを強く請うたため,公主は竇憲を畏れ,之に与えたところ,竇憲は乃ち之を賤顧するようになった.後に上が公主の田に幸じて,之を覚り,竇憲に問うと,竇憲は又之を借りているのだと上言した.上は后が(物)故したことを以って,但だ之に譴しただけで,其の罪を治めなかった.後に章帝が崩じて,竇太后が攝政すると,竇憲は機密に秉することとなった,忠直之臣で竇憲に忤<さから>っている者について,竇憲は之を多く害した,其の後に竇憲兄弟は遂に皆誅を被った.

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桓帝の時に,梁冀が秉政すると,兄弟は貴盛となり自ずと恣とした,驅馳を好むこと度を過ごし,至っては家に帰るに於いてや,猶も馳驅して入門したため,百姓は之を号して曰く「梁氏滅門驅馳」.後に遂に誅されて滅んだ.

 

【淫雨】

和帝永元十年,十三年,十四年,十五年には,皆<どれも>淫雨があり傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).[一]

[一]古今注に曰く:「光武の建武六年九月,大雨が月を連ねて,苗稼が更めて生え,鼠が樹上に巣をつくった.十七年,雒陽に暴雨があり,民の廬舍を壊し,人を壓殺し,禾稼を傷つけ害した.」

安帝元(年)[初]四年秋,郡国十に淫雨があり傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).[一]

[一]方儲が対策して曰く:「雨が時節になく(降る)のは,賞賜を妄りにしているからです也.」

永寧元年,郡国三十三に淫雨があり傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).

建光元年,京都及び郡国二十九に淫雨があり傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).是時羌が反して久しく未だ平らかにならず,百姓は戍に駐屯していたため,愁苦が解けなかった.

延光元年,郡国二十七に淫雨があり傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).[一]

[]案本伝陳忠奏,以為王侯二千石為女使伯榮獨拜車下,柄在臣妾.

二年,郡国五つに連雨あって傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).

順帝永建四年,司隸、荊、豫、兗、冀部に淫雨あって傷稼(植えつけられた作物を傷つけられた).

六年,冀州が淫雨で傷稼した(植えつけた作物を傷つけられた).

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桓帝の延熹二年夏,霖雨が五十余日にわたった.是時,大将軍の梁冀が秉政しており,上が幸じていた所のケ貴人の母の宣を害そうとの謀をした,梁冀は又議郎の邴尊を擅殺した.上は梁冀を誅そうと欲したが,其の権を持つこと日に久しく,威勢が強盛であることを懼れており,また命に逆らうこと有れば,害は吏民に及ぶと恐れ,密かに近臣である中常侍の単超等と其の方略を図った.其の年の八月,梁冀が卒して罪に伏し誅滅された.[一]

[一]公沙穆伝を案ずるに,永寿元年に霖雨あり,大水あって,三輔以東では湮沒しないところ莫かったとある.

靈帝の建寧元年夏,霖雨が六十余日にわたった.是時大将軍の竇武が中官を廃さんとの変を謀った.其の年の九月,長楽五官史の朱瑀等ら中常侍の曹節と共に兵を起こして,先んじて竇武を誅さんとして,兵を闕下に交え,(竇武らが)敗走したところを,追って竇武兄弟を斬った,死者は百人を数えた.[一]

[一]案ずるに竇武は死ぬと兄弟は無かった,兄の子が有った(のでそのことだろう).

熹平元年夏,霖雨が七十余日にわたった.是時は中(常)侍の曹節等が,共に勃海王の劉悝が謀反したと誣(曰)[白]すると,其の十月に劉悝を誅した.

中平六年夏,霖雨が八十余日にわたった.是時は靈帝が臣を新たに棄て(崩御され),大行は尚も梓宮に在った,大将軍の何進は佐軍校尉の袁紹等と共に謀って中官を誅して廃そうと欲した.下文陵畢,中常侍の張讓等が共に何進を殺すと,兵が京都で戦うこととなり,死者は千を数えた.

 

【服妖】

更始の諸将軍で雒陽を過ぎる者数十輩,皆幘して而して婦人の衣繡を衣して(着て)を擁した.時の智者が之を見て,以って為すに服が中でないのは(中庸を得ていないのは/中っていないのは),身之災いであるとするや也,乃ち辺郡に奔って入ると之を避けた.是が服妖であった也.其の後に更始(帝)は遂に赤眉が殺す所と為った.

桓帝の元嘉中に,京都の婦女が愁眉を作り、啼、墮馬髻、折要歩、齲歯笑をおこなった.所謂<いわゆる>愁眉とは,細く而して曲折したものである.

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啼とは,目下を薄く拭ったようすが,啼いた処の若きものである.墮馬髻とは,一辺を作る.[一]折要歩とは,足が體の下に不在であること.齲歯笑とは,歯が痛むが若きにて,楽しむこと欣欣としないことである.大将軍である梁冀の家が為す所自始まると,京都は歙然とし,諸夏は皆放效となった.此が近きにあった服妖である也.梁冀は二世に上将たりて,王室を媾し,威福を大いに作ると,将に社稷を危うくしたのである.天誡は若くに曰く:兵馬が将に往かんとして收捕えられ,婦女が憂愁して,踧眉啼泣する,吏卒が掣頓して,其の要脊を折る,令髻傾邪,雖強語笑,無復気味也.延熹二年に到って,宗を挙げて誅され夷された

[一]梁冀別伝に曰く:「梁冀の婦女も又有不聊生髻.」

延熹中,梁冀が誅された後,京都の幘は顔短く耳長く,上に短く下に長かった.時に中常侍の単超、左、徐璜、具瑗、唐衡が帝の左右に在って,其の姦慝を縦とした.海内は慍<うらむ,いかる>って曰く:一将軍が死して,五将軍が出でたり.家は侯を数えること有り,子弟は州郡に列布し,賓客は雜襲騰翥,上は短く下は長く,梁冀と同じ占いである.其の八年に到って,桓帝は日蝕の変に因って,乃ち故の司徒の韓寅を拝して司隸校尉と為すと,以って次々に誅鉏したため,京都は正清となった.[一]

[一]臣昭が案ずるに:本伝では,韓寅は左を誅し具瑗を貶めて,姦首を剋折したと雖も,閹は相蒙ったままで,京都は未だ正清に為らなかったとある.

延熹中,京都の長者は皆木屐を著した;婦女は嫁ぐにあたり<始>,至作漆畫五采為系(漆畫を作り、五采で糸を為すに至った).此が服妖であった也.九年に到ると,党事が始発し,黄門北寺に伝えられ,時に臨んで惶れ惑うことあり,信に天が任命すること能わず,逃走して考に就かない者が多く有り,九族は拘繋され,過歴する所は,長少婦女といえど皆桎梏を被るに及んだが,木屐之象に応じたということなのである也.

靈帝の建寧中に,京都の長者は皆葦の方笥を以って具を為した,下士も(それに倣って)尽く然るようにした.時に識者が有って竊言した:葦の方笥は,郡国が讞篋することである也;今や之を珍用している,此は天下の人が皆当に有罪であるとして理官に於いて讞されることである也.光和三年癸丑に到って赦令の詔書がでた,吏民で党に依って禁

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錮となった者は之を赦して除くとした,有不見文,他以類比疑者讞.是に於いて諸有党郡皆讞廷尉(諸々の党を有する郡では皆が廷尉に讞して),人名の悉くが方笥の中に入れられた.

靈帝は胡服、胡帳、胡、胡坐、胡飯、胡空侯、胡笛、胡舞を好んだ,京都の貴戚は皆競って之を為した.此が服妖であった也.其の後に董卓が胡兵を多く擁して,填塞街衢すると,宮掖から虜掠し,園陵を発掘した.

靈帝は宮中の西園に於いて四白驢に駕し躬して自ら轡を繰って,驅馳させて周旋し,以って大いに楽しむ為した.是に於いて公卿貴戚は転じて相放效することとなり,至って輜軿に乗って以って騎従と為すと,互いに相侵奪しあい,馬と賈が斉しくなった.易を案じると曰く:「時に六龍に乗り以って天を御す.」とあるが行天とは龍に若くは莫く,行地とは馬に如くは莫い.詩に云う:「四牡騤騤,載是常服.」「檀車煌煌,四牡彭彭.」とあるが夫れ驢は乃ち重きに服して遠くに致す,上下山谷,野人が用いる所であるのみ耳,何帝王君子にして而して之を驂服すること有るものだろうか乎!纉ン之畜であるのが,而して今や之を貴んでいる.天意は若し曰く:国は且つ大いに乱れ,賢愚が倒植する,凡そ執政者は皆驢の如きということであった也.其の後に董卓が王室を陵虐し,辺人を多く援けとして以って本朝を充たすこととなり,胡夷異種が,中国を跨蹈することになったのである.

熹平中に,省内で冠狗帯綬して,以って笑楽を為した.一狗が突出すること有り,走って司徒府の門に入った,或る之を見た者で,驚き怪しまないものは莫かった.[一]京房易は伝えて曰く:「君が正しからざれ,臣は簒奪せんと欲し,厥の妖狗は冠して出てくる.」後に靈帝は便嬖の子弟を寵用したため,永楽の賓客、鴻都小,伝えて相汲み引きあい,公卿牧守,比肩是也.又西(郷)[邸]に於いて御史を遣わして売官させ,関内侯は顧みること五百万として<者>,金紫を賜与した;詣闕上書占令長,隨県好醜,豊約有賈.強者は貪ること豺虎の如くであり,弱者は略すこと不類物とし,実に狗にして而して冠とした者であった也.司徒は古之丞相であり,国政を壹統するものである.天戒は若くこと曰く:宰相は多くが其の人に非,尸祿にして素餐である,能く正しきに拠って重きを持つもの莫く,意に阿って曲げて従っている;つまり今位に在る者は皆狗の如きである也,故に狗が走って其の門に入るのである.[二]

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[一]袁山松書に曰く:「光和四年,又西園に於いて狗を弄ぶに人を配するを以ってした也.」

[二]応劭は曰く:「靈帝数以車騎将軍過拜孽臣内孽,又亡き人に贈ったが,顯号が頑凶に於いて加えられたため,印綬が腐った屍に於いて汙すことになったのである.昔辛は睹被髮之祥を有して,其の戎と為るを知った,そこで今假に雲集と号す,亦宜しからずや乎!」

靈帝は何度も西園中に於いて遊び戯れ,後宮の采女に令して客舍主人と為し,身からは商賈の服を為した(着込んだ).行って舍に至るや,采女が酒食を下し,因って飲食を共にして以って戲れ楽しむことを為した.此が服妖であった也.其の後天下が大いに乱れたのである.[一]

[一]風俗通に曰く:「時に京師に賓嘉会あって,皆魁を作った,酒酣之後,以って挽歌が続けられた.」魁とは,喪家之楽である.挽歌とは,執紼相偶和之者.天戒若曰(天戒はつぎのように云っているのである):国家が当に殄悴となるを急ぐべく,諸貴楽が皆に死亡する也.靈帝が崩じて自後,京師は壊滅し,戸は屍を兼ねること有った(一家に複数の屍があるものも有った),蟲がわいて而して相食いあい,魁、挽歌がかなでられること,斯之乎(このような有様となった)?

獻帝の建安中に,男子之衣は,長躬を為して而して下が甚だ短いものが好まれた,女子は長裙を為して而して上は甚だ短いものを好んだ.時に益州従事莫嗣は以って為すに服妖であって,是は陽無下而陰無上也(陽が無下となり而して陰が無上となっている),天下は未だ平げられることを欲していないのだとした也.後に還ると,遂に大いに乱れたのである.[一]

[一]袁山松[書]に曰く:「魏に於いて禪位した.」

靈帝の光和元年に,南宮侍中寺にいた雌雞が欲して雄と化した,一身毛(だらけ)で皆雄に似ていた,但だ頭冠のみが尚も未だ変わらなかった.詔をくだして以って議郎の蔡邕に問うた.蔡邕は対して曰く:「貌が不恭でありますから,則ち雞禍が有ることでしょう.宣帝の黄龍元年に,未央宮で雌雞が化して雄と為りましたが,鳴きもせず距びもしませんでした.是の歳に元帝が初めて即位され,王皇后を立てられました.初元元年に至って,丞相史の家の雌雞が化して雄と為り,冠距鳴将.是の歳には后父禁が(平)陽[平]侯と為り,女<むすめ>が立てられて皇后と為りました.哀帝が晏駕するに至って,后は攝政され,王莽は后の兄の子を以って大司馬と為し,是ゆえに乱を為したのです.臣が

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之について竊い推しはかりますに,頭は,元首でして,人君之象であります;今雞が一身已にして変わったのに,未だ頭に於いて(変容が)至っておりません,而しながらお上は之を知っておりますから,是は将に其の事が有ったとしても而して遂に成らないという象でありましょう也.若し之に応じて不精であって,政が改める所無ければ,頭冠が或いは成ってしまい,患いは茲しく大きなものと為りましょう.」是後張角が作乱して黄巾を称し,遂に破壊した.四方は賦役に<於>疲れ,叛く者が多かった.上が政を改めなかったため,遂に天下が大乱するに至ったのである.

桓帝の永興二年四月丙午,光祿勳の吏舍の壁下に夜に青気が有ったため,之を視ると,玉鉤、玦各一を得た.鉤の長さは七寸二分,[玦]は周りが五寸四分,身中は皆雕鏤(鏤が彫られていた?).此が青祥であった也.玉は,金類であるためである也.七寸二分は,商数である也.五寸四分は,徴数である也.商は臣を為し,徴は事を為す,蓋し人臣で決事を引く者が不肅を為せば,将に禍が有るということなのだろう也.是の時には梁冀が秉政して專ら恣としていた,後に四歳して,梁氏は誅滅された也.

延熹五年,太学の門が故無く自壊した.襄楷が以って為すに太学が前に居る所を疑うと,[一]其の門が自壊した,文徳が将に喪われ,教化が廃されんとしているのではないか(とした)也.是の後に天下は遂に喪乱に至った.

[一]本伝にある襄楷の書には「前疑」之言が無い也.

永康元年十月壬戍,南宮の平城門内の屋が自壊した.金が木を沴じ,木が動いたのである也.其の十二月,宮車が晏駕した.

靈帝の光和元年,南宮平城門内の屋、武庫の屋及び外の東の垣屋が前後して頓壊した.蔡邕は対して曰く:「平城門は,正陽之門で,宮と連なっている,郊祀法駕が由に従い出る所で,門のなかで最も尊いものです也.武庫は,禁兵が所蔵されています.東垣は,庫之外障であります.

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易は伝えて曰く:『小人が位に在れば,上下は咸悖し,厥の妖として城門内が崩れる.』とあります潛かに潭巴は曰く:『宮の瓦が自ら墮ちるのは,諸侯が主に強陵する.』としておりますが此は皆小人が顯位にあって法を乱したことの咎であります也.」其の後黄巾賊が先ず東方に起こり,庫兵が大いに動かされた.皇后とは父を同じくする兄である何進が大将軍と為り,母を同じくする弟の何苗が車騎将軍と為って,兄弟が並んで貴く盛んとなって,皆兵を統めて京都に在ることになった.其の後に何進は中官を誅して廃さんと欲し,中常侍の張讓、段珪等に殺される所と為った,兵が宮中闕下に戦って,更めて相誅滅しあい,天下は兵が大いに起こることになったのである.

三年二月,公府の駐駕廡が自壊した,南北三十余間にわたった.

中平二年二月癸亥,広陽城門外の上屋が自壊した也.

獻帝初平二年三月,長安の宣平城門外の屋が故無く自壊した.三年夏に至って,司徒の王允が中郎将呂布を使って太師の董卓を殺し,夷三族をおこなった.[一].

[一]袁山松[書]に曰く:「李等が長安城を攻め破り,王允等を害した.」

興平元年十月,長安市の門が故無く自壊した.至二年春,李、郭が長安中でし,李は天子に迫って劫すると,李塢に移し置き,宮殿、城門、官府、民舍を尽く焼くと,兵を放って公卿以下を寇鈔した.冬,天子が雒陽に東還しようとしたところ,李、郭は上を追ってきて曹陽に到り,乗輿輜重を虜掠すると,光祿勳のケ淵、廷尉の宣璠、少府の田邠等数十人を殺した.

五行は伝えて曰く:「攻戦を好み,[一]百姓を軽んじ,[二]城郭を飾りたて,[三]辺境を侵すは,[四]則ち金が革めるに従わないということである.」[五]金が其の性を失えば而して災を為すと謂う也.又曰く:「之を言うに従わないとは,是が不乂であると謂う.[六]厥の僭を咎め,[七]厥の恆陽を罰し,[八]厥の憂を極める.[九]

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時に則ち詩妖が有り,[一0]時に則ち介蟲之孽が有り,[一一]時に則ち犬禍が有り,[一二]時に則ち口舌之痾が有り,[一三]時に則ち白眚、白祥が有るのは,惟うに木が金を沴じたということである.」介蟲は,劉歆伝では以って為すに毛蟲であるという.乂とは,治である也.

[一]鄭玄の注に曰く:「参、伐は武府を為す,攻戦之象である.」

[二]鄭玄の注に曰く:「之を軽んじるとは,民の命を重きとしないこと.春秋は伝えて曰く:『師出でるも反って正しからず,戦は勝つこと正しからず也.』」

[三]鄭玄の注に曰く:「昴、畢の間が天街と為る.甘氏経に曰く:『天街は保塞,孔塗道衢.』保塞とは,城郭之象である也.月令には曰く:『四鄙入保.』」

[四]鄭玄は曰く:「畢主辺兵.」

[五]鄭玄の注に曰く:「君行此四者,為逆天西宮之政.西宮は地に於いて金を為す,金の性は刑を従える,而革人所用為器者也,故無く(治)[冶]之不銷,或入火飛亡,或鑄之裂形,是為不従革.其他変異,皆属沴也.」洪範曰く:「従革作辛.」馬融曰:「金之性,従(人)[火]而更,可銷鑠也.」漢書音義曰:「言人君言不見従,則金鐵亦不従人意.」

[六]鄭玄は曰く:「乂とは,治である也.君言不従,則是不能治其事也.」

[七]鄭玄は曰く:「君臣不治,則僭差矣.」

[八]鄭玄は曰く:「金は秋を主<つかさど>る,秋の気は殺である,殺気が失われる,故に常陽というのである也.」春秋考異郵に曰く:「君行が是とするに非ざれ,則ち言が従うに見えない;言が従うに見えないとは,則ち下が治まらないことである;下が治まらないのは,則ち僭差して制度を過ぎること,奢侈驕泰であることである.天子が天を僭<か>りれば,大夫は人主を僭り,諸侯は僭上することとなって,陽は以って制すること無くなるものである.従心之喜びは,上は下を憂えれば,則ち常陽は之に従う.推設其跡,之で天意を考えれば,則ち大旱にして雨がふらなければ,而して民庶は大いに災いをうけ傷なわれるのである.」淮南子に曰く:「不辜を殺すは則ち国の赤地である.」

[九]鄭玄は曰く:「殺気失,故於人為憂.」

[一0]鄭玄は曰く:「詩之言志也.」

[一一]鄭玄は曰く:「蝝、螽、蜩、之類は,火に於いて生じ而して秋に於いて蔵する者である也,金に属す.」

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[一二]鄭玄は曰く:「犬畜之以口吠守者,属言.」

[一三]鄭玄は曰く:「言気失之病.」

 

【訛言】

安帝の永初元年十一月,民が訛言して相驚くと,司隸、并、冀州の民人が流れ移った.時にケ太后が專政していた.婦人が順を以って道を為した,故礼「夫死従子」之命.今專(王)[主]事,此不従而僭也.[一]

[一]古今注に曰く:「章帝の建初五年,東海、魯国、東平、山陽、済陰、陳留の民が訛言して相驚き賊が有った,捕えて京師に至ると,民は皆入城した也.」

 

【旱】

世祖の建武[一]五年夏,旱があった.京房伝に曰く:「徳の不用を欲するは,茲して張と謂う,厥災荒,其は旱あって陰雲あれど雨せず,変じて而して赤くなるのは四陰に因る.出して時を過ぎるは,茲して広と謂う,其は旱があって生えてこない.上下が皆蔽われる,茲して隔と謂う,其は旱があり天が赤くなること三月,時に雹が有って飛禽を殺す.上が縁って妃を求めんとする,茲して僭と謂う,其は旱が三月となり大いに温かくなって雲を亡.君が台府を高くする,茲して犯と謂う,陰が陽を犯す,其は旱があって万物が根死する,火災が有る.庶位が踰節する,茲して僭と謂う,其は旱あって澤が物枯れ,火が傷つける所と為る.」[二]是時天下で僭逆した者は未だ尽く誅されていず,軍が多く時が過ぎた.[三]

[一]古今注に曰く:「建武三年七月,雒陽に大旱があった,帝が南郊に至って雨を求めたところ,即日にして雨があった.」

[二]春秋考異郵に曰く:「国に大旱があれば,冤獄結ばれる.旱というのは<者>,陽気が移ったもので,精が施されていないこと,君上が制を失い,奢淫僭差したため,気が乱れて天を感じさせたのである,則ち旱は徴見なのである.」又云く:「陰厭陽移とは,君が淫し民が惡んでいること,陰精が舒さず,陽が偏って施しがないのである.」又云う:「陽が偏るのは,民が怨んでいる徴しである也.在所以感之者,上が奢って則ち求めること多い,求めること多ければ則ち下は竭けるもの,下が竭ければ則ち潰える,君が不仁であることである.」管子曰く:「春に枯骨を収めず枯木を伐して而して之を起て去らなければ,則ち夏には旱がある.」方儲が対策して曰く:「百姓が苦しみ,士卒が碎に煩っております,租税を責めること中を失い,師を外営に暴して,歴を経ること三時となっております,内には怨む女が有り,外では曠夫が有ります.王者が其の祥を熟惟し,天に於いて揆合して,之を図って情に事えれば,旱の災いは除かれる可きかと.夫旱というのは<者>日を天に過ぎることで,

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王に百姓に於ける意<きもち>が無く,恩徳が行われていないため,万民が煩擾しているのです,故に天がその無澤を以って応じるのです.」

[三]古今注に曰く:「建武六年六月,九年春,十二年五月,二十一年六月,明帝永平元年五月,八年冬,十一年八月,十五年八月,十八年三月,並んで旱であった.」

章帝の章和二年夏,旱があった.時に章帝が崩じられた後であり,竇太后兄弟が用事すること奢僭であった.[一]

[一]古今注に曰く:「建初二年夏,雒陽が旱となった.四年夏,元和元年春,並んで旱となった.」案ずるに:楊終伝では,建初元年に大旱があり,穀が貴ばれ,終に以為広陵、楚、淮陽、済南之獄徙者数万人,吏民怨曠,上疏して久しく旱であると云う.孔叢曰く:「建初元年に大旱があり,天子は之を憂えたため,侍御史の孔子豊が乃ち上疏して曰く:『臣が聞きますには不善を為せば而して災が報いとなって,其の応じるを得てしまい也;善を為せば而して災至るも,時の運に遭うもの(時の運によって救われるもの)也.陛下は即位されて日浅く,民を視ること傷の如し,而して不幸にして耗旱となったのは,時の運が会したものであるだけで耳,政教の致す所に非ざるものです也.昔成湯は旱に遭うと,因って自らを責め,省畋散積し,減御損食したところ,而して大いに有年でありました.(いま起こっていることの)意とは陛下が未だ成湯之事を為していないということでありましょう焉.』天子が其の言をれて而して之に従ったところ,三日して雨が即ち降った.(そこで孔子豊を)転じて黄門郎に拝すると,東観事を典じさせた.」

和帝永元六年秋,京都が旱となった.時に雒陽には冤囚が有ったため,和帝は雒陽寺に幸じて,囚徒を録すと,冤囚を理(牧)[收]令下獄抵罪(罪に抵触した(とわかった)ものを獄に下すよう令した).行って未だ宮に還らずして,澍雨が降った.[一]

[一]古今注に曰く:「永元二年,郡国十四が旱となった.十五年,(丹)[雒]陽の郡国二十二が並んで旱となり,或いは傷稼となった.」

安帝[一]永初六年夏,旱.[二]

[一]古今注に曰く:「永初元年,郡国八つに旱があったため,議郎を分けて遣わし雨を請わせた.」本紀を案ずるに二年五月に,旱があり,皇太后が雒陽寺に幸,囚徒を録したところ,即日にして降雨があった.六月,京都及び郡国四十に大水があった.旱をとり去って水を得たと雖も,救いが無く災いが為されたのである.

[二]古今注に曰く:「三年,郡国八つに,四年、五年夏,並んで旱があった.」

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七年夏,旱であった.

元初元年夏,旱であった.

二年夏,旱であった.[一]

[一]三年夏旱,時に西羌が寇乱し,軍が駐屯すること相継ぎ,十余年を連ねた.

六年夏,旱であった.[一]

[一]古今注に曰く:「建光元年,郡国四つに旱があった.延光元年,郡国五つに並んで旱があり,傷稼(作物が取れなかった).」

順帝の永建三年夏,旱があった.

五年夏,旱があった.

陽嘉二年夏,旱があった.時に李固が対策して,以って為すに奢僭あって致す所となっているのだとした也.[一]

[一]臣昭が案ずるに:本紀元年二月,京師に旱があった.郎伝:「人君の恩澤が民に於いて施されなければ,祿は公室を去って,臣下が專権して致す所となる也.」又周挙伝:「三年,河南、三輔に大旱があり,五穀が傷災した,天子は親しく自ら徳陽殿の東の廂に露坐して雨を請うた.」

沖帝の永(嘉)[熹]元年夏,旱があった.時に沖帝が幼崩されたまい,太尉の李固が太后(及び)兄の梁冀に嗣帝を立てるよう勧めた,年長にして徳有る者を擇べば,天下は之をョりとするだろうから,則ち功名は不朽となろう.年が幼ければ未だ知る可かざるため,後に不善となる如くなれば,悔いても及ぶ所無からんとした.時に太后及ち梁冀は貪らんとして年幼きを立てて,自らの專を久しいものにしようと欲し,遂に質帝を立てた,八歳であった.此は徳を用いないことであった.[一]

[一]古今注に曰く:「本初元年二月,京師に旱があった.」

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桓帝の元嘉元年夏,旱があった.是時梁冀が秉政し,妻子は並んで封を受け,寵あって踰節したのである.

延熹元年六月,旱があった.[一]

[一]京房占に曰く:「人君無施澤惠利於下,則致旱也.救わねば,必ずや蝗蟲あって穀を害う;其の救わんとするなれば也,貰は罰し,行いはェ大にして,兆民に恵み,功吏を労わることとする,賜が寡ければ,稟しても足りない.」陳蕃の上疏を案ずるに:「宮女が多く聚まって御さなければ,憂悲之感あって,以って水を致すため旱之困となる也.」

靈帝の熹平五年夏,旱があった.[一]

[一]蔡邕は伯夷叔斉の碑を作って曰く「熹平五年,天下が大旱となったため,名山に禱請して,荅応を求め獲んとした.時に処士である平陽出身の蘇騰,字を玄成というものが,首陽を夢陟すると,神馬之使いが道に在るのに有った.明らかに覚めて而して之を思うと,其の夢陟の状を以って上聞させた.天子は三府を開いて雨使者を請わせ,郡県の戸曹掾吏と登山して升祠した.手から要を書して曰く:『君況我聖主以洪澤之福.』としたところ天は雲を尋興させ,即ち甘雨を降らせた」也.

六年夏,旱があった.

光和五年夏,旱があった.

六年夏,旱があった.是時常侍、黄門が威福を僭作した.

獻帝興平元年秋,長安に旱があった.是時李、郭が権を專らにして肆を縦にした.[一]

[一]獻帝起居注に曰く:「建安十九年夏四月,旱があった.」

 

【謠妖】

更始の時に,南陽に童謠が有って曰く:「諧不諧,在赤眉.得不得,在河北.」是時更始は長安に在り,世祖が大司馬と為って河北を平定していた.更始の大臣は並んで僭じて專権していた,故に謠妖が作られたのである也.後に更始は遂に赤眉に殺される所と為ったが,是は更始之不

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諧が赤眉に在ったからであった也.世祖は河北より興った.

世祖の建武六年,蜀の童謠に曰く:「黄牛白腹,五銖当復.」是時公孫述が蜀に於いて僭号しており,時に人は竊い言うに王莽が黄を称したが,公孫述は之を継ごうと欲している,故に白を称したのだとした;五銖は,漢家の貨である,明らかに当に復すべきである也.公孫述は遂に誅滅された.王莽の末に,天水で童謠があって曰く:「呉門を出て,緹を望む.見一蹇人,言欲上天;令天可上,地上安得民!」時に隗囂が初めて兵を天水に於いて起こし,後に意は稍も広くなると,天子に為ろうと欲したが,遂に破滅した.隗囂は少なきとき蹇を病んだ.呉門は,冀郭門の名である也.緹,山名である也.

順帝之末,京都で童謠があって曰く:「直如弦,死道辺.曲如鉤,反封侯.」案ずるに順帝が即世して,孝質が短祚であり,大将軍の梁冀が樹を貪って幼を疏み,以って己が功を為そうとして,国を専らにして号令し,以って其の私を贍じていた.太尉の李固は以って為すに清河王は雅にして性が聰明であり,詩に敦礼を悦び,加えて又属親であったことから,長を立てて順に則り,善を置いて李固(の意見)に則らんとした.而しながら梁冀が太后に建白したため,策あって李固を免じ,蠡吾侯を徴ずると,遂に至尊に即<つ>けたのである.李固は是日に獄において<于>幽斃し,屍は道路に暴された,而して太尉の胡広は安楽郷侯に、司徒の趙戒は廚亭侯に、司空の袁湯は安国亭侯に封じられたと云う.

桓帝之初め,天下に童謠あって曰く:「小麥青青大麥枯,誰当穫者婦与姑.丈人何在西擊胡,吏買馬,君具車,請為諸君鼓嚨胡.」案ずるに元嘉中に涼州の諸羌が一時に倶に反し,南は蜀、漢に入り,東は三輔を抄し,延びて并、冀に及んで,大いに民に害を為した.将に命じて出させたが,戦う毎に常に負けたため,中国では甲卒を益発し,麥は多くが棄てるに委ねられ,但婦女が之を刈って獲るだけとなった也.吏買馬,君具車というのは,言うに調発が重く有秩者に及んだことである也.請為諸君鼓嚨胡というのは,敢えて公言せず,私ごとで咽語するだけであったということである.

桓帝之初め,京都で童謠あって曰く:「城上烏,尾畢逋.公為吏,子為徒.一徒死,百乗車.車班

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班,入河間.河間女工数錢,以錢為室金為堂.石上慊慊舂粱.梁下有懸鼓,我欲擊之丞卿怒.」此を案ずるに皆政を貪ったを為すいう也.城上烏,尾畢逋というのは,高きに処して獨り食を利し,下と共にせず,人主が斂を多く聚めることを謂う也.公為吏,子為徒とは<者>,蛮夷が将に畔逆し,父が既にして軍吏と為っているのに,其子も又た卒徒と為って往きて之を撃つことを言う也.一徒死,百乗車というのは<者>,前に一人が往って胡を討って既にして死んでいるのに矣,後ろで又百乗の車を遣わして往かせることを言う.[一]車班班,入河間というのは<者>,上将が崩じて,乗輿が班班として河間に入り靈帝を迎えたことを言う也.[二]河間女工数錢,[三]以錢為室金為堂というのは<者>,靈帝が既にして立つと,其の母である永楽太后は金を聚めるのを好んで以って堂を為したことを言う也.石上慊慊舂黄粱というのは<者>,永楽(太后)が金錢を積むと雖も,慊慊として常に不足に苦しみ,人を舂黄粱に使わして而して之を食(邑)とさせたことを言う也.梁下有懸鼓,我欲撃之丞卿怒というのは<者>,永楽(太后)が靈帝に教えを主<つかさど>って,売官して錢を受けさせ使祿す所が其の人に非ざるため,天下の忠篤之士が怨望し,懸けてある鼓を撃って以って見えんことを求めようと欲したことを言う,丞卿主鼓というのは<者>,亦復諂順,怒而止我也.

[]臣昭曰:志家此釋豈未尽乎?往徒一死,何用百乗?其後驗竟為靈帝作.此言一徒,似斥桓帝,帝貴任閹,參委機政,左右前後莫非刑人,有同囚徒之長,故言寄一徒也.且又弟則廃黜,身無嗣,魁然単獨,非一而何?百乗車者,乃国之君.解犢後,正膺斯数,繼以班班,尤得以類焉.

[二]応劭は此の句を釋して云う:「靈帝を徴したというのは<者>,輪班擁節入河間也.」

[三]一本作「妖女」.

桓帝之初め,京都に童謠があって曰く:「游平売印自有平,不辟豪賢及大姓.」案ずるに延熹之末に到って,ケ皇后が譴を以ってして自殺させられ,乃ち竇貴人を以って之に代わった,其の父の名が武で字は游平であった,城門校尉を拝した.太后が攝政するに及んで,大将軍と為り,太

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傅の陳蕃に与して心を合わせて戮力すると,惟徳是建し,印綬が加えられる所,其の人を咸得させた,豪賢大姓は,皆が絶望したことを言う矣.

桓帝之末,京都に童謠があって曰く:「茅田一頃中有井,四方纖纖不可整.嚼復嚼,今年尚可後年鐃.」[一]案ずるに易に曰く:「拔茅茹以其彙,征吉.」茅は賢を喩えたのである也.井というのは<者>,法ということである也.于時に中常侍の管霸、蘇康は海内の英哲を憎み疾むと,長楽少府の劉囂、太常の許詠、尚書の柳分、[二]尋穆、史佟、[三]司隸の唐珍等と,代わるがわる脣歯を作った.河内出身の牢川が闕に詣でて上書した:「汝、潁、南陽は,上は虚譽を采って,威福を作る専らにしています;甘陵には南北二部が有り,三輔が尤もしいようです.」是に由って考を黄門北寺に伝え,廃閣に見えることが始まったのである.茅田一頃というのは<者>,賢が多であることを言う也.中有井というのは<者>,阨窮であると雖も,其の法度を失っていないことを言う也.四方纖纖不可整というのは<者>,姦慝が大熾し,整理できなくなっていることを言う.嚼復嚼というのは<者>,京都飲酒相強之辞也.言食肉者鄙,不恤王政,徒耽宴飲歌呼而已也.今年尚可というのは<者>,但だ禁錮のみであったことを言う也.後年鐃というのは<者>,陳、竇が誅を被り,天下が大いに壊れたことを言う.

[一]風俗通では「」と作る.

[二]袁山松書に曰く,柳分権豪之党は,范滂が奏ずる所と為った者である.

[三]史佟は後に亦た司隸と為った.応劭は曰く,史佟は,左官が進した者である也.

桓帝之末,京都に童謠あって曰く:「白蓋の小車は何延延たるか.河間が来たりて合諧するよ,河間が来たりて合諧するよ!」案ずるに解犢亭が属した饒陽は河間県であった也.[一]居ること幾何も無くして而して桓帝が崩ずると,使者は解犢侯と皆して白蓋車で河間より<従>来たのである.延延たるとは,貌ということである也.是時御史の劉儵が議を建てて靈帝を立てたため,以って劉儵は侍中と為ったが,中常侍の侯覽が其の親近を畏れて,必ずや当に己を間する(遠ざけるだろう)とし,白して劉儵を拝して泰山太

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守とすると,因って司隸に令して迫って之を殺すよう促した.朝廷は(必)[少]長,思其功效,乃ち其の弟の劉郃を抜用し,位を司徒に致した,此が合諧を為したという也.

[一]臣昭が案ずるに:郡国志では饒陽涿(郡)に属しており,後に安平に属した.靈帝が既にして河間王の曾孫であることは是であるが,謠言では是より<自>徴が有った,無俟[明]河間之県為驗.

靈帝之末,京都に童謠あって曰く:「侯は侯に非,王は王に非,千乗万騎が北芒に上る.」案ずるに中平六年に到り,史侯が至尊に登躡したが,獻帝は未だ爵号を有さず,中常侍の段珪等数十人が執らわれる所と為り,公卿百官が皆其の後に随い,河上に到って,乃ち来還するを得た.此が侯に非王に非ず北芒に上るということ<者>なのである也.[一]

[一]英雄記に曰く:「京師の謠歌が咸言した『河臘叢進』は,獻帝が日を臘じて生まれたのである也.風俗通に曰く:『烏臘烏臘.』」案ずるに逆臣董卓は天を滔じて民を虐げ,窮凶極惡であったため,関東が挙兵して之を共に誅さんと欲したものの,轉じて相顧望しあって,先に進む肯んじるものが莫かった,処処に兵を停めること数十万,烏が蟲を臘する如くであり,相隨って之を横取りしあったのである矣.

靈帝の中平中に,京都で歌があって曰く:「承楽世董逃(楽世を承ったのに董は逃げたよ),遊四郭董逃(四郭に遊んで董は逃げたよ),蒙天恩董逃(天恩を蒙ったのに董は逃げたよ),帯金紫董逃(金紫を帯びながら董は逃げたよ),行謝恩董逃(謝恩を行って董は逃げたよ),整車騎董逃(車騎を整え董は逃げたよ),垂欲発董逃,与中辞董逃,出西門董逃(西門を出て董は逃げたよ),瞻宮殿董逃(宮殿を瞻じて董は逃げたよ),望京城董逃(京城を望んだのに董は逃げたよ),日夜絶董逃(日も夜も絶えたから董は逃げたよ),心摧傷董逃(心がくじけて董は逃げたよ).」[一]案ずるに「董」は董卓のことを謂う也,跋扈して,其の殘暴を縦にすると雖も,終には逃竄に帰して,滅族に於けるに至ると言うのである也.[二]

[一]楊孚の董卓伝に曰く:「董卓は改めて董安と為った.」

[二]風俗通に曰く:「卓以董逃之歌主為己発,大禁絶之,死者千数.」靈帝之末に,礼楽が崩壊して,賞と刑が中を失い,毀譽にも驗が無くなったため,競って偽服を飾り,以って典制を盪した,遠近は翕然として,咸名後生放声者為時人.有識者が竊言して:旧<もと>は曰く世人,次は曰く俗人,今更めて曰く時人,此は天が其の期を促したものである也.其間無幾(其の間に幾らも無く),天下は大いに壊れることになった也.

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獻帝が踐祚した初め,京都に童謠があって曰く:「千里草,何青青.十日卜,不得生.」案ずるに千里の草とは董を為す,十日卜は卓を為す.凡そ字を別にした體(かたち)であり,皆上に従って起ち,左右は離合し,無有従下発端者也.今二字が此の如きであったのは<者>,天意若曰:卓は下より<自>摩上するが,これは以って臣が君を陵(凌駕)することである也.青青というのは<者>,暴盛之貌である也.不得生というのは<者>,亦た旋って破亡することである.[一]

[一]獻帝の初めに童謠あって曰く:「燕の南垂,趙の北際,中央が合わさっていず大なること礪の如し,唯此の中に有れば世を避ける可し.」公孫瓚が以って為すに易の地こそまさに之に当たるべしとし,遂に焉に鎮を徙し,乃ち城を修めて穀を積みあげ,以って天下之変を待とうとした.建安三年,袁紹が公孫瓚を攻めると,公孫瓚は大いに敗れ,其の姊妹妻子を縊り(殺して),火を引いて自らを焚いたが,袁紹の兵が趣いて台に登ると之を斬りすてた.初め,公孫瓚は黄巾を破って,劉虞を殺すと,勝ちに乗じて南下して,斉の地を侵し拠った.雄威が大いに振るわれたが,而して遠図を開廓すること能わず,堅城を以ってして時を観ようと欲したものの,坐したまま囲まれ戮されるを聴きいれてしまった,斯くは亦易の地より<自>而して世を去ったのである也(世の中を避けたのである).

建安の初め,荊州に童謠あって曰く:「八九年間に始まって衰えを欲し,十三年に至って孑遺とて無くなってしまう.」言うに中興より<自>以来,荊州には破乱が無く,劉表が牧と為るに及び,[民]も又豊かとなり楽しんだ,此に至って逮すこと八九年.当に始衰とは<者>,劉表の妻が当に死して,諸将が並んで零落してしまったことを謂うのである也.十三年に孑遺とて無くなってしまうとは<者>,十三年に劉表も又当に死んでしまい,民は当に移されて冀州に詣でることになったのを言う也.[一]

[]干竇搜神記曰:「是時華容有女子忽啼呼云:『[荊州将]有大喪!』言語過差,県以為妖言,繋獄百余日,忽於獄中哭曰:『劉荊州今日死.』華容去州数()[百里],即遣馬吏驗視,[而劉]表果死.県乃出之.続又歌吟曰:『不意李立為貴人.』後無幾,曹公平荊州,以涿郡李立,字建賢,為荊州刺史.」

順帝の陽嘉元年十月中,望都蒲陰で狼が童兒九十七人を殺した.時に李固が対策し,京房易伝を引いて曰く「君が将に無道ならんとすれば,害は将に人に及ぶ,之を深山に去らんとすれば身を全うする[以って],厥<そ>の(災)[妖]とは狼が人を食うこと」.陛下は覚寤あそばされ,隱滞を求めるに比すなら,故より狼災は

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息つきましょう.[一]

[一]東観書に曰く:「中山相の朱遂が官に到ると,不出奉祠北嶽.詔に曰く:『災暴縁類,符驗虚しからず,政は厥中にあるを失ったため,狼災が為に応じたのである,至って乃ち孩幼を殘食したため,朝廷は愍悼をあらわし,咎徴のことを思惟して,其の故を博訪れさせ(探らせ)た.山嶽して靈を尊び,国所望秩,而して遂に比不奉祠,怠慢廃典,不務懇惻,刑(罰)に淫して濫を放(擲)し,害が孕婦に加えられて,毒流れて未だ生じなくなり,感和して災いを致した.其詳思改救,追復所失.有不遵憲,挙正以聞.』」

靈帝の建寧中に,狼数十頭が晉陽南城門に入って人を齧った.[一]

[一]袁山松書に曰く:「光和三年正月,虎が平楽観に見え,又た憲陵の上に見え,衛士を齧った.蔡邕が封事して曰く:『政に苛暴が有るため,則ち虎狼が人を食べたのです.』」