-3291-

後漢書志第十四

五行二

災火、草妖、羽蟲、孽、羊禍

五行は伝えて曰く:「法律を棄てて,[一]功臣を逐い,[二]太子を殺し,[三]妾を以って妻と為せば,[四]則ち火あって炎上しない.」[五]火が其の性を失い而して災いを為すことを謂う也.又曰く:「之を視ようとしても明らかでない,是が不セと謂うのである.[六]厥<そ>の咎めは舒,[七]厥の罰は常燠,[八]厥の極まりは疾となる.[九]時に則ち草妖が有り,[一0]時に則ち蠃蟲之孽が有り,[一一]時に則ち羊禍が有り[一二]時に則ち赤眚、赤祥が有るのは,惟うに水が火を沴ずることであろう.」蠃蟲は,劉歆伝では以って為すに羽蟲としている.

[一]鄭玄は尚書大伝に注して曰く:「東井は法令を主<つかさど>る也.」

[二]鄭玄曰く:「功臣制法律者也.或曰,喙主尚食、七星主衣裳,張為食廚,翼主天倡.經曰:『帝曰:臣作朕股肱耳目,予欲左右有民,汝翼.予欲観古人之象,日、月、星辰、山、龍、華蟲,作繢宗彝,藻、火、粉、米、黼、黻、絺繡,以五采章施于五色作服,汝明.予欲聞六律、五聲、八音,在治忽,以出納五言,汝聽.』是則食与服樂,臣之所用為大功也.七星の北には酒旗が有り,南には天廚が有る,翼の南には器府が有る.」

-3292-

[三]鄭玄曰く:「五行では火は土を生ず,天文以參繼東井,四時では秋を以って夏に代える,太子を殺すという象である也.春秋伝に曰く:『夫れ千乘之主,将に正しきを廃して而して正しからざるを立てんとすれば,必ずや正しきを殺さん也.』」

[四]鄭玄曰く:「軒轅が后妃を為すと,南宮に属させた.其の大星が女主之位である.女御が前に在るのは,妾が妻と為るという象である也.」

[五]鄭玄曰く:「君が此の四者を行うと,為逆天南宮之政.南宮は地に於いては火を為す,火の性とは炎上である,然るに行人所用烹者也,無故因見作熱,燔熾すれば害を為す,是が火を為すとも炎上しないということである.其の他の変異は,皆沴に属す.」春秋考異郵曰:「火とは<者>,陽之精である也.人が天気や五行や陰陽に合わせてみると,極陰は陽に反る,極陽は陰を生ず,故応人行以災不祥,在所以感之,萌応轉旋,從逆殊心也.」

[六]鄭玄曰く:「視とは,瞭である也.君が視ても不明であれば,則ち是不能瞭其事也.」洪範曰く:「視は曰く明ということ.」

[七]讖曰:「君が舒怠すれば,臣下に倦を有す,白と黒が別とならず,賢と不肖が並べられれば,不能憂民急,気為之舒緩,草不搖.」鄭玄曰く:「君と臣とが不瞭であれば則ち舒緩である矣.」

[八]鄭玄曰く:「視曰火,火は夏を主<つかさど>る.夏気長,長気失,故常燠.」

[九]鄭玄曰く:「長気失,故於人為疾.」

[一0]鄭玄曰く:「草,視之物可見者,莫於草.」

[一一]鄭玄曰く:「蠶螟蟲之類.蟲之生於火而藏於秋者也.」

[一二]鄭玄曰く:「羊畜之遠視者也,屬視.」

 

【災火】

建武中に,漁陽太守の彭寵が徴を被った.書が至ると,明くる日に潞県で火があり,災いが城中に起って,城外に飛び出し,千余家を燔き,人を殺した.京房易は伝えて曰く:「上が不儉,下が不節なれば,火が盛んとなって何度も起ち,宮室を燔く.」儒では火は以って明らかとなして徳を為し而して禮を主<つかさど>る.時に彭寵は

-3293-

幽州牧の朱浮との関係が冷却していたため<有隙>,朱浮によって浸譖に見えたのではないかと疑い,故に意は狐疑し,其の妻が徴に応ずること無かれと勧めたために,遂に反叛して朱浮を攻め,(倉)卒に誅滅されることになった.[一]

[一]古今注に曰く:「建武六年十二月,雒陽の市に火があった.二十四年正月戊子,雷雨あって霹靂し,高廟北門が火災にみまわれた.明帝の永平元年六月己亥,桂陽で火が飛来するのが見られ,城寺を焼いた.章帝の建初元年十二月,北宮に火があって壽安殿が焼け,延(焼)して右掖門に及んだ.元和三年六月丙午,雷雨があり,火があって北宮の朱爵西闕が焼けた.」

和帝永元八年十二月丁巳,南宮の宣室殿に火があった.是の時和帝は北宮に御幸しており,竇太后が南宮に在った.明くる年,竇太后が崩じられた.

十三年八月己亥,北宮盛饌門閤に火があった.是の時和帝はケ貴人のところに御幸していた,陰后への寵が衰えて怨恨があったため,上には之を廃そうと欲する意が有ったのである.明くる年,陰后が偽道を挟んだという事が得られるに会い,遂に廃されて桐宮に<于>遷された,憂を以って死んだため,ケ貴人を立てて皇后と為した.

十五年六月辛酉,漢中城の固南城門に災があった.此は孝和皇帝が将に世を絶たれんとする象であった也.其の後二年して,宮車が殤帝及び平原王のところへ晏駕することとなったが,皆早く夭折し,和帝の世(系譜)が絶えたのである.

安帝の[一]永初二年四月甲寅,漢陽の(河)[阿]陽城中に失火あって,三千五百七十人が焼き殺された.是より先に和帝が崩じられていた,皇子二人が有った,皇子勝のほうは長じていたが,ケ皇后は殤帝の少なきに貪らんとし,自ら之を立てて養い長じさせようと欲したのである.延平元年,殤帝が崩じられた.勝には厥疾が有ったもののそれは篤くはなかったため,臣は咸じて之を立てようと欲したが,太后は以って前に既にして勝を立てなかったことから,遂に清河王の子を更めて立てた,是が安帝と為ったのである.司空の周章等は心不(掩)[厭]服(心の中では服する気が無かったため),謀ってケ氏を誅し,太后、安帝を廃すると,而して更めて勝を立てようと欲した.元年十一月,事が(発)覺し,周章等は誅を被った.其の後に涼州では叛羌が害を為すこと大いにしく,涼州の諸郡は治を馮翊、扶風の界に寄せた.太后が崩ずるに及び,ケ氏は誅を被った.

-3294-

[一]古今注に曰く:「永初元年十二月,河南郡県に火があり,百五人を焼き殺した.二年,河南郡県に又たも失火あって,五百八十四人を焼いた.」

四年三月戊子,杜陵園に火があった.

元初四年二月壬戌,武庫に火があった.[一]是の時は羌が叛き,大いに寇害を為したため,天下から兵を(徴)発して以って之を攻禦しようとした,十余年を積んでも未だ已まなかったため,天下は兵役に厭苦することになった.

[]東観書曰:「燒兵物百()[]十五種,直千万以上.」

延光元年八月戊子,陽陵園の寝殿に火があった.凡そ災が発するのが先陵において<于>であれば,此は太子が将に廃されようという象なのである也.若<けだ>し曰く:不当廃太子以自翦,如火不当害先陵之寝也.明くる年,上は讒言を以ってして皇太子を廃して済陰王と為した.後二年して,宮車が晏駕した.中黄門の孫程等十九人が殿省に兵を起こして,賊臣を誅し,済陰王を立てた.

四年秋七月乙丑,漁陽城の門樓に災あった.

順帝の永建三年七月丁酉,茂陵園に寝災あった.[一]

[一]古今注に曰く:「二年五月戊辰,守宮が失火し,宮が藏していた財物が尽く焼かれた.四年,河南郡県に失火があり,人六畜を焼いた.」

陽嘉元年,恭陵の廡に災あり,東西莫府に火がつくに及んだ.[一]太尉の李固が以って為すに奢僭が致す所だとした.陵が初めに造られるに,禍は枯骨に及び,規廣治之尤飾.又上は宮室を更めて造り,台観を益そうと欲した,故に火が莫府に起こり,材木を焼いたのである.

[一]古今注に曰く:「十二月,河南郡國に火があって廬舍を焼き,人を殺した」也.

永和元年十月丁未,承福殿に火があった.[一]是より先に阿母の宋娥に爵号があって山陽君と為っていた;后の父の梁商は本より國侯であり,

-3295-

梁商の封が多く益された;梁商の長子である梁冀が当に梁商の爵を継ぐべきであったが,以って梁商が生在していたため,復た梁冀をめて封じて襄邑侯と為し;后の母を追号して開封君と為した:皆過ぎたもので差があって非禮であった.[二]

[一]臣昭が案ずるに楊厚伝に是の災がある.

[二]古今注に曰く:「六年十二月,雒陽の酒市が失火して,肆を焼き,人を殺した.」

漢安元年三月甲午,雒陽の劉漢等百九十七家が火の為に燒かれる所となり,[一]後四年して,宮車が比すこと三ど晏駕することとなり,建和元年に君の位が乃ち定まったのである.

[一]東観書曰く:「其の九十家は自存せず,詔あって錢賜り穀を廩した.」古今注に曰く:「火或從室屋阨ィ中,不知所從起,数月乃止.十二月,雒陽失火.」

桓帝の建和二年五月癸丑,北宮掖庭中の徳陽殿に火があり,左掖門に及んだ.是より先に梁太后の兄である梁冀が姦枉を挟んでいた,以って故の太尉の李固、杜喬は正直であったため,(梁冀は彼らに)其の事で害されることを恐れ,人に令して李固、杜喬を誣奏して而して之を誅滅した.是の後に梁太后が崩ずると,而して梁氏は誅滅されたのである.

延熹四年正月辛酉,南宮の嘉徳殿に火があった.戊子,丙に署に火あった.二月壬辰,武庫に火があった.五月丁卯,原陵の長壽門に火があった.是より先に亳后が因って賤人が幸を得て,貴人を号し,后と為った.上は后の母の宣を以って長安君と為すと,其の兄弟を封じ,愛寵は隆崇となって,又功も無いのに封じられた者が多かった.年春を去るにあたり,白馬令の李雲が直諫したことに坐して死んだ.此に至って彗(星)が心、尾に除され,火が連作したのである.

五年正月壬午,南宮の丙署に火があった.四月乙丑,恭北陵の東闕に火があった.戊辰,虎賁掖門に火があった.五月,康

-3296-

陵園に寝火あった.甲申,中藏府承祿署に火があった.七月己未,南宮承善闥の内に火があった.

六年四月辛亥,康陵東署に火があった.七月甲申,平陵園に寝火があった.

八年二月己酉,南宮嘉徳署、黄龍、千秋万歳殿に皆火があった.四月甲寅,安陵園に寝火があった.閏月,南宮の長秋、和歡殿の後鉤盾、掖庭朔平署におのおの火があった.十一月壬子,徳陽前殿の西閤及び黄門北寺に火があり,人を殺した.[一]

[一]袁山松書に曰く:「是時月を連ねて火災が有り,諸(官)[宮]寺が或るいは一日に再三発した.又夜に訛言が有り,鼓を撃って相驚いた.陳蕃、劉(智)[矩、劉]茂は上疏して諫めて曰く:『古之火は皆君が弱く臣が強かったため,極陰之変であったのです也.前には春が始まったのに而して獄刑が慘しく,故に火があっても炎上しないのです.前に春節に入っても寒さが連なり,木冰(木が凍りつき)あって,暴風が樹を折りました,又八九の州郡が並んで隕霜あって菽を殺したと言ってきました.春秋では晉が季孫行の父を執らえると,木は之が為に冰<こおり>ついたとあります.夫気は弘なれば則ち景星が見えるもの,(王)化が錯(綜)すれば則ち五星が開き,日月が蝕まれるものです.災為が已に然ることとなり,異(怪異)が為って来たらんと方じているのは,恐らくは(倉)卒に変が有ること,必ずや三朝に於いてでありましょう,唯善政だけが以って之を已ませることできるのです<可>.願わくば臣の前言を察せられて,この愚忠を棄てられませんように,そうすれば則ち元元として幸甚なことでございます.』書が奏されたが省みられなかった.」

九年三月癸巳,京都で夜に火光が轉行することが有り,民が相驚譟しあった.[一]

[一]袁山松書に曰く:「是時宦豎が朝を専らにし,党事が起こったことに鉤じた,上には跡継ぎが無く<尋無嗣>,陳蕃、竇武は曹節等が害する所と為った,天下には復紀綱が無くなったのである.」

靈帝の熹平四年五月,延陵園に災いがあった.

光和四年閏月辛酉,北宮東掖庭永巷署に災があった.[一]

[一]陳蕃は諫めて云った:「楚女が悲しめば而して西宮が災いあるといいます,宮女を御さないでいるために,怨みが致す所となっているのです也.」

五年五月庚申,徳陽前殿の西北から門内に入ったところにある永樂太后の宮署に火があった.

-3297-

中平二年二月己酉,南宮雲台に災があった.庚戌,樂(城)[成]門に災があった,[一]延(焼)して北闕に及び,道を西へ[度って]嘉徳、和歡殿を焼いた.案ずるに雲台之災は上より<自>起こり,榱題は百を数えた,時を同じくして並んで然ることとなった,若就県華鐙,其の日に燒き尽くされ,延(焼)して白虎、威興門、尚書、符節、蘭台に及んだであろう.夫雲台というのは<者>,乃ち周家之造る所である也,図書、術籍、珍玩、寶怪は皆藏在する所である也.京房易伝に曰く:「君が道を思わなければ,妖火が宮を焼くことを厥す.」是時には黄巾が天常を変乱せんことを作り慝い,七州二十八郡で時を同じくして倶に発したため,命将出,禽える所頗る有ったと雖も,然るに宛、廣宗、曲陽は尚も未だ破壊されず,役は起こされ海を負い,杼柚は空懸したため,百姓で死傷するもの已に半ばを過ぎた矣.而して靈帝は曾て克己せず復た禮もせず,虐侈すること滋甚となったため,尺一も雨が布かれ,騶騎が電激した,官は其の人に非,政は賄を以って成りたち,内は鴻都を嬖し,並んで封爵を受けた.京都は之を語って為すと曰く:「今は諸侯を茲する歳である也.」天は戒めて若し曰く:賢を放りだし淫を賞する,何旧典を以って為しているといえようか?故に其の台門祕府が焚かれたのである也.其の後三年して,靈帝が崩ずるに暴され,続けて以って董卓之乱があった,火は三日も絶えなかったため,京都は丘墟と為ったのである矣.[二]

[一]南宮中門.

[二]魏志に曰く:「魏の明帝の青龍二年に,崇華殿に災があり,詔あって太史令の高堂隆に問いがあった:『此は何の咎めであるか?禮に於いて寧んぞ祈禳之義が有ったというのか乎?』対して曰く:『夫れ災変之発するは,皆教誡を明らかにせんとする所以であります也,唯だ禮を率いて徳を修めることだけが以って之に勝つことできすのです<可>.易は伝えて曰く:「上が不儉,下が不節なれば,孽火が其の室を焼く.」又曰く:「君が其の台で高からんとすれば,天の火が災いを為す.」此は人君が苟くも宮室を飾っているのに,百姓が空しく竭けていることを知らない,故に天が之に応じて以って旱となし,火が高殿より<従>起こるわけです也.上天が監を降し,故に陛下に譴告されているのです,陛下には宜しく人道を増し崇め,以って天意に荅わせられんことを.昔太戊には桑穀が朝に於いて生ずることが有り,武丁には雊雉が鼎に<於>登ったことが有ったため,皆災を聞いて恐懼し,身を側めて徳を修めたところ,三年之後に,遠くの夷が朝貢してきました,故に号して曰く中宗、高宗とされたのです.此が則ち前代之明鑒というものでしょう也.今旧占を案じますに,災火之発するは,皆台榭宮室を以ってして誡めと為しているのです.然るに今宮室の充たし廣げんとする所以というのは<者>,実に宮人が猥りに多い故に由るものです,宜しく其の淑懿を簡し擇んで留めることとし,周之制の如くとして,其の余りは罷め省かれますよう.此が則ち祖己が高宗に訓とした所以,高宗が遠号を享けた所以なのです也.』詔あって高堂隆に問われた:『吾は漢の武帝の時に柏梁に災いがあったために,而して宮殿を起てて以って之を厭だと聞いているが,其の義は何を云っているのか?』対して曰く:『臣が聞いておりますのは西京で柏梁が既に災いあった,越の巫である陳方が,章を建てて営(造営)を是としたのですが,

-3298-

それは火祥を厭うを以ってしました,(しかしそれについては)乃ち夷越之巫が為した所であって,聖賢之明訓には非ざるものです也.五行志に曰く:「柏梁に災があった,其の後に有江充巫蠱太子事.」志之言の如くであれば,越巫建章無所厭也.孔子に曰く:「災いとは<者>,修類応行,精祲相感,以って人君を戒めるものである.」是以聖主災責躬,退いては以って徳を修めて,以って之を消復させるものです.今は宜しく民役を罷散させるべきです,宮室之制務は約節<節約>に従い,内は風雨を待(遇)するを以って足れりとし,外は禮儀を講ずるを以って足れりとし,災之処した所を清掃し,不敢於此有所立作(此れに於いて立作する所有るを敢えてしなければ),莆嘉禾(※瑞祥を著わす植物)が,必ずや此地に生じましょう,それは以って陛下の虔恭之徳に報いたものであるのです.民之力を疲れさせ,民之財を竭かせるのは,実に符瑞を致し而して遠人を懐ける所以に非ざるものです也.』」臣昭曰く:高堂隆之言う災いとは,其が天心を得たというのだろうか乎!本志とは明らかに同じからざる所であると雖も,靈帝之時にも焉が有った,故に其の言を載せ,災異を広げるものである也.

獻帝の初平元年八月,霸橋に災いがあった.其の後三年して,董卓が殺されるに見えた.[一]

[一]臣昭が案ずるに:劉焉伝で,興平元年,天火が其の城府輜重を焼き,延(焼)して民家に及び,館邑には余すところとて無くなったという也.

庶徴之恆燠するは,漢書では冬温かいことを以って之に応じたとした.中興以来,亦冬温かいことが有ったが,而して記は録していないと云う.[一]

[一]越絶(書で)范蠡は曰く:「春が燠で而して生じないというのは<者>,王者の徳が完うしないからである也.夏寒くて而して長じないというのは<者>,臣下が主の令を奉らないからである也.秋暑くて而して復となるのは<者>,百官の刑が断たれないのである也.冬温かく而して泄れるというのは<者>,府庫を発して功が無いのに賞するからである也.此四者は,邦之禁である也.」管子に曰く:「臣が君の威に乗じれば,則ち陰が陽を侵す,盛夏には雪が降り,冬には池が冰<こお>らない也.」

 

【草妖】

安帝の元初三年,瓜で本が異なるのに共生するものが有った,(一)[八]瓜で蔕が同じなのは,時に以って為すに嘉瓜であるとした.或るひとが以って為すに瓜というのは<者>外へ延びるもの,本を離れて而して実るものであるから,女子が外属するという象である也.是の時閻皇后が初めて立たれたばかりであった,後に閻后は外親の耿寶等と共に太子を譖じて,廃して済陰王と為し,更めて外で済北王の子の犢を迎えて之を立てることがあった,草妖であったのだ也.[一]

[一]古今注に曰く:「和帝の永元七年三月,江夏県の民の舍柱に両枝が生えた,其の一つは長さが尺五寸,分かれて八枝を為した,其の一つは長さが尺六寸,分かれて五枝を為した,皆

-3299-

青かった也.」

桓帝の延熹九年,雒陽城の局にある竹柏の葉に傷ついた者が有った.占いに曰く:「天子に凶である.」

靈帝の熹平三年,右校の別作中に両樗樹が有った,皆高さは四尺の所であり,其の一株は宿夕にして暴長し,長さ丈余,大なること一囲みとなった,胡人の状を作っており,頭目鬢鬚髮が具さに備わっていた.京房易は伝えて曰く:「王の徳が衰え,下人が将に起たんとするに,則ち木が人の状となって生えることが有る.」[一]

[一]臣昭が以ってするに木が人の状(態)を生じさせるとは,下人が将に起たんとするのであろう,京房之占いは證験を以ってして,貌は胡人に類していると雖も,猶も未だ辨了しなかった.董卓之乱では,実に胡兵を擁し,李、郭之時には,充たし斥けること尤もしかった,遂に宮嬪を間にして窺い,百姓を剽虐した.鮮卑之徒が,畿封を踐藉したため,胡之害は深くなった,亦已に毒された矣.

五年十月壬午,御所の居殿の後ろにある槐樹,皆六七圍,自ずと拔けた,倒豎根在上.[一]

[]臣昭曰:「槐是三公之象,貴之也.靈帝授位,不以徳進,貪愚是升,清賢斯黜,槐之倒植,豈以斯乎?」

中平元年夏,東郡,陳留(郡)の済陽、長垣,済陰の冤句、離狐県界で,[一]草が生えることが有った,其の莖靡纍腫れて大なること手指の如く,状(態)は鳩雀や龍蛇や鳥獸之形に似ており,五色あっておのおの其の状(態)の如く,毛羽頭目足翅が皆具えられていた.[二]草妖に近いものである也.是歳黄巾賊が始まり起った.皇后の兄の何進,異父兄の朱苗が,皆将軍と為って,兵を領した.後に朱苗は済陽侯に封じられ,何進、朱苗は遂に威権を秉して,國柄を持つこととなり,漢は遂に微弱となったのだが,それは此より<自>焉に始まるのである.[三]

[一]風俗通に曰く:「西は城皇陽武の城郭の路邊に及ぶ.」

[二]風俗通に曰く:「亦作人状,操持兵弩,万万備具,非但仿佛,類良熟然也.」

[三]応劭曰く:「關東の義兵は先ず宋、之郊に於いて起った,東郡太守の橋瑁が負って怙乱し,同盟を陵蔑し,同類を忿嫉すると,以って厥<そ>の命を殞した.陳留、済陰が迎えて助けたが,徳を離れ,好みを棄てて戎に即いたと為したと謂われ,吏民が之を殲(滅)した.草妖之興るや,豈に或いは信ならざるといえようか!」

-3300-

中平中,長安城の西北六七里に空ろとなった樹の中に,人面をした鬢が生えた.[一]

[一]魏志に曰く:「建安二十五年正月,曹公が雒陽に在って,建始殿を起てたおり,濯龍樹を伐りとると而して血が出た.又梨を掘って徙したところ,根が傷ついて而して血が出た.曹公は之を惡むと,遂に寝疾し,是月に薨じたのである.」

獻帝の興平元年九月,桑が椹に復生し,可食(食べる事が出来た).[一]

[一]臣昭曰:桑が椹に重ねて生えたのは,誠に是は木異であるが,必ずや済民に在るのであって,安んぞ瑞(兆)に非ざることだと知ることできようか乎?時に蒼生が死敗し,周、秦は殲(滅)されて尽きはて,餓えた魂が餒鬼となったこと,言うに勝る可からず,此の重椹を食せば,危うい命を大いに拯したであろう,連理が枝を附けると雖も,亦及ぶこと能わないのである.若し以って怪を為したとするなら,則ち建武(のころに)野に穀が旅生したのも(夥しく生えたのも),麻菽が尤盛となったのも,復是は草妖であったというのであろうか邪?

安帝の延光三年二月戊子,五色の大鳥が南台に集まり済むことが有った,十月,又新豊に集まったため,時に以為<おもえら>鳳皇であるとした.或るひとが以為<おもえら>鳳皇は陽明に応じたものであるから,故に明主に非ざれ,則ち隱れて見えないものだ.凡そ五色の大鳥で鳳に似ているというのは<者>,多くは羽蟲之孽であろう.是の時安帝は中常侍の樊豊、江京、阿母の王聖及び外属の耿寶等の讒言を信じ,太尉の楊震を免じ,太子を廃して済陰王と為したため,不セ之異があったのである也.章帝の末に,鳳皇を号するもの百四十九が見えた.時に直臣の何敞が以為<おもえら>く羽孽は鳳に似ているから,殿屋を翔すれば,察しようがないとした也.[一]記した者は以って為すに其の後に章帝が崩じられたことから,以ってその験れと為した.案ずるに宣帝、明帝の時にも,五色の鳥が殿屋を翔したため,賈逵は以って為すに胡が降ってくる徴<しるし>だとした也.帝は善政が多かったため,過ちが有ったと雖も,衰缺に至るに及ばず,末年には胡が降ること二十万口となった,(爾)[是が]其の験れであったのだ也.帝之時,羌胡は外で叛き,讒慝が内で興こっていた,まさに羽孽之時であった也.樂図徴が説くことに五鳳は皆五色であるが,瑞を為すのは<者>一つだけで,孽を為すのは<者>四つであるという.[二]

[一]臣昭曰く:已に之を何敞伝に於いて論じている.

-3301-

[二]図徴に曰く:「鳳に似たものが四つ有るが,並んで妖を為す:一に曰く鷫,鳩喙にして,圓目であり,義を身として信を戴せて礼を嬰し仁を膺して智を負う,至れば則ち旱役之感がある也;二に曰く発明,烏喙にして,大頸,大翼,大脛であり,仁を身として智を載せ義を嬰として信を膺し禮を負う,至るのは則ち喪之感である也;三に曰く焦明,長喙にして,疏翼,圓尾であり,義を身として信に載り仁を嬰として智を膺し禮を負う,至るのは則ち水之感である也;四に曰く幽昌,兌目,小頭にして,大身,細足であり,脛は鱗葉の若きである,智を身として信に戴り禮を負う仁を膺す,至れば則ち旱之感である也.」國語に曰く:「周之興るや也,鸑鷟が鳴岐した.」説文に曰く:「五方に神鳥あり:東方は曰く発明,南方は曰く焦明,西方は曰く鷫,北方は曰く幽昌,中央が曰く鳳皇である.」

桓帝の元嘉元年十一月,五色の大鳥が済陰の己氏に見えた.時のひとは以って為すに鳳皇であるとした.此時政治は衰缺し,梁冀が秉政して阿り枉がっていた,上は亳后に御幸したが,皆羽孽の時であった也.[一]

[一]臣昭が案ずるに:魏朗が,桓帝の時に雉が太常、宗正府に入ったことに対策したことがある.魏朗が説いたことは本伝の注に見える.

靈帝の光和四年秋,五色の大鳥が新城に<于>見えた,鳥が之に隨っていたため,時のひとは以って為すに鳳皇であるとした.時に靈帝は政事を恤せず,常侍、黄門が権を専らにしていた,羽孽之時であったのだ也鳥之性は,見非常班駮,好聚観之,至於小爵希見梟者,虣見猶聚.

中平三年八月中,懷陵の上に万余爵が有り,先極悲鳴,已因乱相殺,皆断頭,懸著樹枝枳棘.到って六年して,靈帝が崩じ,大将軍の何進が内寵を以ってして外嬖となり,惡を積むこと日久しかった,欲悉糾黜,以隆更始政,而して太后が持疑したため,事は久しく決しなかった.何進は中より<従>出ると,省内に於いて殺されるに見え,是に因って有司が盪滌虔劉,後祿而尊厚者無余矣.夫陵というのは<者>,高大之象である也.天戒若曰:諸々の爵祿を懐いて而して尊厚である者は,自らに還って相害しあって滅亡に至るという也.[一]

-3302-

[一]古今注に曰く:「建武九年,六郡八県で鼠が稼を食した.」張璠紀に曰く:「初平元年三月,獻帝が初めて未央宮に入ると,翟雉が未央宮に飛び入ってきたため,之を獲た.」獻帝春秋に曰く:「建安七年,五色の大鳥が魏郡に集まった,鳥数千が之に隨った.」魏志に曰く:「二十三年,禿鶖が鄴宮の文昌殿の後池に集まった.」

桓帝の建和三年秋七月,北地で雨肉が廉したが羊肋に似ており,[一]或るいは大なること手の如きであった.赤祥が近づいたのである也.是の時梁太后が攝政しており,兄の梁冀が権を專らとしていて,漢の良臣であった故の太尉の李固、杜喬を枉げて誅したため,天下は之をした.其後梁氏は誅滅された.

[一]説文に曰く:「肋とは,脅骨のことである也.」