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後漢書志第十五

五行三

大水、水変色、大寒、雹、冬雷、山鳴、魚孽、蝗

五行に伝えて曰く:「宗廟を簡し,禱祠せず,[一]祭祀を廃し,[二]天の時に逆らえば,[三]則ち水が下を潤さない.」[四]に水が其の性を失って而して災を為すことを謂う也.[五]又曰く:「之を聴いても聰らない,是ぞ不謀と謂う.[六]厥の咎めること急であり,[七]厥の罰すること恒寒であり,[八]厥の極まるところ貧しくなる.[九]時に則ち鼓妖が有り,[一0]時に則ち魚孽が有り,[一一]時に則ち豕禍が有り,[一二]時に則ち耳痾が有り,[一三]時に則ち黒眚、黒祥が有るのは,惟うに火が水を沴じるということであろう.」魚孽は,劉歆伝では以って為すに介蟲之孽で,蝗の属とされている也.[一四]

[一]鄭玄は注して曰く:「虚、危が宗廟を為す.」

[二]鄭玄曰く:「牽牛は祭祀之牲を主<つかさど>る.」

[三]鄭玄曰く:「月が星紀に在ったおり,周が以って正と為した,月が玄枵に在ったおり,殷が以って正と為したが,皆四時之正しきを得ないもので,天の時に逆らったという象であった也.春秋の定十五年『夏五月辛(卯)[亥]郊』,譏運卜三正,以至失時,是其類也.」

[四]鄭玄曰く:「君で此の四者を行うのは,天に逆らい北宮之政を為すのである也.北宮は地に於いては水を為す.水の性は下流を浸し潤すもの,人が灌漑に用いる所の者である也.故無くして源流が竭絶すれば,

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川澤は以って涸れはてる,是が下を潤わさないことである.其他の変異は皆沴に属す.」

[五]太公の六韜に曰く:「人主が名山を破壊し,大川を壅塞し,名水を決(壊)させ通じさせる好めば,則ち歳に大水が多く,五穀が成らない也.」

[六]鄭玄曰く:「君が聴いても聰らなければ,則ち是其の事を謀ること能わず也.」洪範曰く:「聰は謀を作る.」孔安國曰く:「謀る所必ず成当する.」馬融曰く:「上聰ければ則ち下は其の謀を進める.」

[七]鄭玄曰く:「君臣が謀らざれ則ち急ならん矣.」易は伝えて曰く:「誅罰が理を絶やせば,下に云わず也;顓事に知が有れば,謀を云わず也.」

[八]鄭玄曰く:「聴くは曰く水,水は冬を主,冬は気が藏<おさ>められ,藏められた気は失われる,故に常に寒いのである.」

[九]鄭玄曰く:「藏気が失われる,故に人に於いて貧しく為るのである.」

[一0]鄭玄曰く:「鼓聴之應也.」

[一一]鄭玄曰く:「魚,蟲で水に生じて而して水に於いて游ぶ者である也.」

[一二]鄭玄曰く:「豕,畜之居閑而聴者也,属聴.」

[一三]鄭玄曰く:「聴気失之病.」

[一四]月令章句:「介とは<者>,甲である也.亀蟹之属を謂う也.」古今注に曰く:「光武の建武四年,東郡以北が傷水した.七年六月戊辰,雒水が盛んとなり,溢れて津城門に至った,帝は自ら行水すると,弘農都尉治(折)[析]が水の為に漂い殺される所となり,民は溺れ,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた),廬舍を壊した.二十四年六月丙申,沛國の睢水で逆流があり,一日一夜して止まった.章帝の建初八年六月癸巳,東城下の池水が赤く変じて血の如くなった.」臣昭案ずるに:諸史で光武之時に,郡國が亦嘗て水災が有ったが,而して志は載せていない.本紀にある「八年秋大水」,又云う「是歳は大水であった」(というのがそれである),今は杜林之伝に拠り,之を孝和之前に列する.東観書に曰く:「建武の八年閨C郡國は大水に比すと,涌泉が盈たされ溢れた.杜林は以って為すに倉卒の時に兵が権作威したため,張氏は皆降散したと雖も,猶も遺脱が有るのを尚ぶがごとくであり,長吏は(それを)制御せんとしても術が無い,令して熾を復すを得させれば,元元たること侵陵之所致となるとした也.上疏して曰く:『臣が聞きますに先王には二道が無く,聖を明らかにして用いて而して治めました.惡を見ると農夫が務めて草を焉<これ>とり去らんとするが如くであり,芟夷が之に蘊崇すると,其の本

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根を絶やし,能く殖えさ使こと勿らしめたのは,其の易き畏れてのことでした也.古今道を通じ,其の法が根に有るに於けることを伝えています.狼子野心(狼の子は野性の心をもつもの),奔馬は善く驚くものです.成王は其の終卒之患いを深く知っておりました,故に殷氏の六族を以ってして伯禽に分け,七族は康叔に分け,懐姓の九宗は唐叔に分け,其の姦宄を撿押し,又其の余を成周に於けるに遷し,旧地の雑俗は,旦夕にして拘録したのですが,(それは)其の強御之力を挫き,其の驕恣之節を詘さんとする所以でありました也.漢が初め興るに及び,上は旧章を稽ふると,符を合わせて規を重んじ,斉の諸田(斉の大族である諸々に枝分かれした田氏一族),楚の昭、屈、景(の諸氏),燕、趙、韓、魏之後を徙<うつ>しましたが,以って六國を稍も弱め宗(族)を強めんとしたのです.(その結果)邑里には営利之家など無く,野澤には兼并之民など無く,万里之統まり,海内は安きにョることになったのです.後に因って輒ち衰麤之痛むや,送終之義を以ってして脅し,故に遂に相率いて而して園陵に陪(席)し,反顧之心が無くなりました.往法を追って観ますに,政というものには皆神道設教があります,幹強め枝弱め,本支えることが百世之要なのです也.是以って皆が康寧之福を永らく享けさせるもの,怵タ之憂いを無くし,嗣継ぎ業承り,己を恭しくして而して治まるは,蓋し此が助けるものなのでしょう也.其の被災害民軽薄無累重者(其の災害を被った民で軽んじられていて(富の)薄い累重の無い者)については,両府は吏を遣わして饒穀之郡に護送するものとしましょう.或るいは懼らくは死亡し,(倉)卒に傭賃と為り,亦消散を以ってして其の口が救われるとする所は,贍じて其の性命を全うさせることとしましょう也.昔魯の隠(公)は賢行を有するも,将に桓公に於いて國を致さんとし,乃ち位に留まり連なり貪って,早退すること能わなかったのです.況んや草創においてや兵が長ずると,(倉)卒にも徳能を無くし,直すのに擾乱を以ってするもの,時に乗じて権をし,作威し玉食らい,(狃)[狙]猱之意や,徼幸之意が,曼延して足ること無くなるものでして,張歩之計が是であります也.小民負縣官不過身死,負兵家滅門殄世.陛下は昭然として成敗之端を独り見て,或るいは諸侯を官府に属させましたが,元元として挙首仰視を得ること少なく,而して遺脱を尚ため,二千石は制御之道を失いました,令得復昌熾従.比年大雨があり,水潦が暴長し,涌泉が盈たされ溢れ,災が城郭や官寺,吏民の廬舍を壊したため,徙った離処が潰え,成った坑坎が潰えたとか.臣が聞きますに水は,陰の類です也.易の卦に「地上有水比」とありますが,性が相害しあわない,故に曰く楽とすると言っています也.而るに猥りに相毀墊しあい淪失しあい,常に百姓の安居を敗れさす.殆んど陰が下って相為して蠹賊となり,小大勝負が斉<ひと>しからざることが有り,均しくせんとするのが其の所を得ない,侵陵之象というものです也.詩は云うに:「天之威を畏れよ,時において<于>之を保て.」とあります。唯ただ陛下におかれては(精)神を留めて明察され,懼思を往来させていただければ,天下は幸甚なことにございます.』」謝承の書に曰く:「陳宣子興(子興は字か?)は,沛國蕭の人である也.剛猛にして性は毅,博学であり,魯詩に明るかった.王莽が位を簒(奪)するに遭うと,隠処<隠居>して仕えなかった.光武が即位すると,徴されて諫議大夫を拝した.建武十年,雒水が出て津を造ったため,城門校尉が奏上して之を塞がんと欲した,そこで陳宣は曰く:『昔周公は雒を卜して以って宗廟を安んじ,万世の基と為しました,水は当に城門に入れるからず.災異を為すが如きは,人主の過ちでありまして而して辞す可からざるもの,之を塞がんとて益など無いのです.昔東郡の金堤が大いに決(壊)いたしまして,水が郡を(水)没させんと欲したため,令、吏、民は散りぢりに走りにげました;太守の王尊が身を亡ぼしてし以って住立して動かなかったところ,水が時に応じて自ずと消えさりました.王尊は人臣ですが,尚も正を修めて災いを弭しました,豈に況んや朝廷の中興の聖主においてや,天が挺授する所なのですから,水は必ずや入らないでしょう.』言が未だ絶えないうちに,水は去った.上は其の言を善しとした.後に乘輿が出ると,陳宣は在前に列引された,行縺C乘輿欲驅,鉤宣車蓋使疾行,御者が車の下に墮ちた.陳宣は前にでて諫めて曰く:『王者は天を承って地を統めるもの,動くには法度を有するものですから,車は則ち和鸞とし,歩けば則ち

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玉を佩びます,その動靜は天に応じたものなのです.昔孝文の時,邊方から千里の馬を献じてきた者が有りましたが,還して而して受けませんでした.陛下には宜しく上は唐虞のことを稽えられ,下は文帝を以ってして法と為してくださいますよう.』上は其の言をれると,遂に徐ろに行くことにして轡を按じた.遷って河堤謁者と為ったが,病を以って免じられ,家に於いて卒した.」

 

【大水】

和帝の永元元年七月,郡國九つに大水があり,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).[一]京房易伝に曰く:「顓事に知ることが有る,誅罰が理を絶つと,厥<そ>の災いは水となる.其の水たるや也,(而)[雨]が人を殺し,隕霜(霜が降り),大風あって,天が黄色になる.飢えても而してわざる,泰と茲謂する,厥水(の現象)は水が人を殺すものである.有徳を辟し遏める,狂と茲謂する,厥の水とは水流が人を殺すものである,水が已めば則ち地は蟲を生ず.獄に帰して解かない,非を追うと茲謂する,厥の水は寒くして人を殺す.追誅して解かない,不理と茲謂する,厥の水は五穀が收められない.大敗して解かない,皆陰と茲謂する,厥の水は國邑に流れ入り,隕霜(霜が降りて)穀を殺す.」[二]是時和帝は幼く,竇太后が攝政しており,其の兄の竇憲が幹事をし,及んで竇憲の諸弟が皆貴顯となり,並んで作威して虣虐した,怨恨とする所を嘗し,輒ち(食)客に任せて之を殺した.其の後竇氏は誅滅されたのである.[三]

[一]穀梁伝に曰く:「高下に水災が有るのを曰く大水という.」

[二]春秋考異郵に曰く「陰監臣逆,民悲しんで情発せられると,則ち水が出て河が決(壊)する」也.

[三]東観書に曰く:「十年五月丁巳,京師に大雨があり,南山の水が流れ出て東郊に至り,民の廬舍を壊した.」

十二年六月,潁川に大水があり,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).是時和帝はケ貴人を幸じられ,陰ながら陰后を廃さんと欲するの意を有していた,陰后も亦た恚り怨みを懐いた.一曰,是より先に恭懷皇后が葬禮されたが闕けること有った,竇太后が崩じられて後,乃ち梁后と改殯し,西陵に葬ると,舅三人を徴して皆列侯と為すと,位特進とし,賞賜は千金を累ねた[一]

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[一]廣州先賢伝に曰く:「和帝の時に策問あって陰陽が不和であり,或いは水があり或いは旱があった,方正である鬱林出身の布衣の養奮,字を叔高というものが,対して曰く:『天は陰陽を有し,陰陽は四時を有す,四時には政令が有ります.春夏は則ち予恵であるから施しを布いてェ仁をおこない,秋冬は則ち剛猛であるから威を盛んにして刑を行う.賞罰殺生については各々其の時に応じるものとすれば,則ち陰陽は和み,四時は調えられ,風雨が時をえて,五穀が升ことでしょう(稔り豊かとなるでしょう).今は則ち然らざるもので,長吏は多くが時令を行うのを奉じず,為政や挙事が天気に干逆しています,上は下に卹さず,下は上に忠ならず,百姓は困乏しているのに而して哀を卹さず,そのため怨が鬱積し,故に陰陽が和まず,風雨が時をえず,災害が類に縁るのです.水というのは<者>陰の盛んであること,小人が位に居って,公に依りながら私ごとを営み,讒言が上に誦ぜられるのです.雨が漫溢するということは<者>,五穀が升らざること有るというのに而して賦税が減ること為されず,百姓が虚しくなり竭けてゆき,家に愁心が有るということです也.』」

殤帝の延平元年五月,郡國三十七で大水があり,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).董仲舒曰:「水というのは<者>,陰気が盛んである也.」是時帝が襁抱に在って,ケ太后が專政していた.[一]

[一]臣昭が案ずるに:本紀では是年の九月に,六州で大水があった.袁山松書に曰く:「六州の河、済、渭、雒、洧水が盛長となり,泛溢して秋稼(秋の作付け)を傷つけた.」

安帝の永初元年冬十月辛酉,河南の新城で山水が虣出し,民田を突き壊した,壊れた処から泉水が出て,深さ三丈となった.是時司空の周章等はケ太后が皇太子勝を立てず而して清河王の子を立てたことを以って,故に謀して廃置せんと欲したのである.十一月,事が(発)覚し,周章等は誅を被った.是年郡國四十一で水が出て,民人を漂沒させた.[一]讖曰く:「水というのは<者>,純陰之精である也.陰気が盛んに洋溢するというのは<者>,小人が專制権し,賢者を妒疾し,公に依って私ごとを結び,君子を侵し乗じ,小人が席勝り,失懷得志,故に涌水があって災いを為すのである.」

[一]謝沈書に曰く:「死者は以って千を数えた.」

二年,大水があった.[一]

[一]臣昭案ずるに:本紀では京師及び郡國四十に(有)[大]水があった.周嘉伝では是が夏旱となったため,周嘉は客死した骸骨を収めて葬ったところ,時に応じて澍雨があり,その歳には乃ち豊かに稔り,則ち水は災を為さなかったのである也.

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三年,大水があった.[一]

[一]臣昭案ずるに:本紀では京師及び郡國四十一に雨水があったという.

四年,大水があった.[一]

[一]臣昭案ずるに:本紀では三郡と云っている.

五年,大水があった.[一]

[一]臣昭案ずるに:本紀では郡國八つとしている.

六年,河東で池水が変色し,皆赤いこと血の如くとなった.[一]是時ケ太后が猶も政を専らにしていた.[二]

[一]水変.占に曰く:「水が化して血と為るというのは<者>,好任殘賊し,不辜を殺戮し,延びること親戚に及ぶと,水が当に血と為るのである.」

[二]古今注に曰く:「元初二年,潁川の襄城で(臨)[流]水が化して血と為って,[流れなかった].」京房占に曰く:「流水が化して血と為ると,兵が且つ起こる,以日辰占與其色.」博物記に曰く:「江河の水が赤くなった.占いに曰く,泣血が道路となり,渉蘇於何以処.」

延光三年,大水があり,民人を流殺し,苗稼を傷つけた.是時安帝は江京、樊豊及び阿母の王聖等の讒言を信じ,太尉の楊震を免じ,皇太子を廃した.[一]

[一]臣昭案ずるに:左雄伝で順帝の永建四年,司冀二州に大水があり,禾稼を傷つけた.楊厚伝で永和元年夏,雒陽で暴水があり,(十)[千]余人を殺した.

質帝の本初元年五月,海水が楽安、北海に溢れて,人や物を溺れさせ殺した.是時帝は幼く,梁太后が政を専らにしていた.[一]

[一]春秋漢含孳に曰く:「九卿が党に阿り,正直<せいちょく>を擠排し,驕奢僭害すれば,則ち江河が潰え決(壊)する.」方儲が対策して曰く:「民が悲しみ怨めば則ち陰類が強まります,河が決(壊)し海が澹じ,地が動いて土が涌くのです.」

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桓帝の建和二年七月,京師に大水があった.年を去ること冬にして,梁冀が故<もと>の太尉李固、杜喬を枉殺した.

三年八月,京都に大水があった.是時梁太后が猶も專政した.

永興元年秋,河水が溢れ,人や物を漂害した.[一]

[一]臣昭案:朱穆伝に云う「漂害は(千)[十]万戸を数えた」.京房占に曰く:「江河が溢れるというのは<者>,天の有する制度であり,地の有する里数であって,水澤を懐かせ容れ,万物を浸漑するものである.」今溢れるというのは<者>,在位している者が任に勝らないこと也,三公之禍ちが容れること能わないこと也,法を率執する者が刑罰に利して,常法を用いないことが明らかであるからだ.

二年六月,彭城で泗水が増長し,逆流した.[一]

[一]梁冀別伝に曰く:「梁冀が專政すると,天が異を見える為した,災が並んで湊し,蝗蟲が滋しく生じ,河水が逆流し,五星が次を失い(序列を失い),太白が天を經て,人民が疫に疾んだ,出入すること六年,羌戎が叛き戻り,盜賊が平[民]を略したが,皆梁冀(の政治)が致した所であった.」敦煌実録にある張衡の対策に曰く:「水とは<者>,五行之首,滞り而して逆流するというのは<者>,人君之恩が下り及ぼされること能わず而して教えが逆になるということである也.」潛潭巴は曰く:「水が逆らうのは<者>,命に反すること也,宜しく徳を修めて以って之に応じられますよう.」

永壽元年六月,雒水が溢れて津陽城門に至り,人や物を漂流させた.[一]是時梁皇后の兄の梁冀が秉政しており,忠直を疾<にく>害し,威権は主を震わせた.後に遂に誅滅された.

[一]臣昭が案ずるに:本紀も又南陽に大水があったとしている.

延熹八年四月,済北で[河]水が清くなった.九年四月,済陰、東郡、済北、平原で河水が清められた.襄楷が上言した:「河というのは<者>諸侯之象です,清くなるのは<者>陽明之徴<しるし>です,豈独諸侯有規京都計邪?(どうして諸侯が独り京都の計を規<はか>こと有るというのでしょうか?)」其の明くる年,宮車が晏駕し,解犢亭侯が徴されて漢嗣と為り,尊位に即いた,是が孝靈皇帝と為ったのである.

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永康元年八月,六州に大水があり,勃海で海が溢れ,人を沒殺した.是時桓帝は奢侈におぼれ淫祀していた,其十一月崩じられ,嗣が無かった.

靈帝の建寧四年二月,河水が清くなった.[一]五月,山水が大いに出て,廬舍五百余家を漂壊させた.[二]

[一]袁山松書に曰く:「禱于龍=D」

[二]袁山松書に曰く是は河東の水が暴出したことである也.

熹平二年六月,東萊、北海で海水が溢れ出て,人や物が漂い沒した.

三年秋,雒水が出た(洪水となった).

四年夏,郡國三つに水があり(洪水があり),秋稼(秋の作付け)を傷つけ害った.

光和六年秋,金城で河が溢れ,水出ること二十余里となった.

中平五年,郡國六つで水が大いに出た.[一]

[一]臣昭案ずるに:袁山松書に曰く「山陽、梁、沛、彭城、下邳、東海、琅邪」,それが則ち是の七郡である.

獻帝の建安二年九月,漢水が流れ,民人を害った.是時天下が大いに乱れた.[一]

[一]袁山松書に曰く:「曹操が政を専らにした.十七年七月,大水があり,洧水が溢れた.」

十八年六月,大水.[一]

[一]獻帝起居注に曰く:「七月,大水があり,上は親しく正殿を避けた;八月、以って雨が止まなかったため,且つ殿に還った.」

二十四年八月,漢水が溢れ流れて,民人を害った.[一]

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[一]袁山松書曰「明くる年に魏において<于>禪位した」也.

庶徴之恒寒.

靈帝の光和六年冬,大いに寒く,北海、東萊、琅邪の井中が冰<こおり>つき厚さは尺余となった.[一]

[一]袁山松書曰:「是時賊が起ち,天下は乱れ始めた.讖に曰く:『寒というのは<者>,小人が暴虐し,権を專らにして位に居り,無道なのに位に有って,罰を適えるに法が無く,又無罪のものを殺す,其の寒は必ずや暴殺ゆえである.』」

獻帝の初平四年六月,風が寒いこと冬の時の如くであった.[一]

[一]袁山松書に曰く:「時に帝は流遷し失政していた.」養奮は対策して曰く:「当に温たるべき而して寒いのは,刑罰が慘いからです也.」

 

【雹】

和帝の永元五年六月,郡國三つに雨雹(雹が雨ふった),大きさは雞子の如し.[一]是時和帝は酷吏の周紆を用いて司隸校尉と為していたため,刑誅は深刻なものであった.[二]

[一]春秋考異は郵して曰く:「陰気が精を専らにして凝り合わさると雹を生ずる.雹が言を為すは合である也.妾を以ってして妻と為し,大いに尊び重んじる,九女之妃闕が而して御されず,坐して前を離れず,由ること無く相去るという心,同輿參駟,房之内,歓欣之楽,專政夫人,施して而して博なく,陰精が凝って而して(滅)[成]を見る.」易讖に曰く:「凡そ雹というのは<者>,由<ゆえ>を過ごして人君が其の過ちを聞くことを悪,賢を抑えて揚げず,内は邪人と通じ,財利を取って,賢を蔽い,之(邪人)に施す,(それらを行えば)並んで当に雨が雨ふらず,故に反って雹が下るのである也.」

[二]古今注に曰く:「光武の建武十年十月戊辰,楽浪、上谷に雨雹(雹が雨ふった),傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).十二年,河南の平陽に雨雹があり,大きさは杯の如く,吏民の廬舍を壊し敗した.十五年十二月乙卯,鉅鹿に雨雹があり,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).永平三年八月,郡國十二で雨雹があり,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).十年,郡國十八で或いは雨雹か,蝗があった.」易緯に曰く:

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「夏の雹というのは<者>,道を治めるのに煩苛で,繇役が急ぎ促され,教令が何度も変わり,常法が有ること無いしるしである.不救為兵(兵を為して救わず),強臣が逆謀すれば,蝗蟲が穀を傷つける.之を救わんとすれば,賢良を挙げて,功(績)有るものに爵をあたえ,ェ大に務めて,誅罰を無くす,そうすれば則ち災は除かれる.」

安帝の永初元年,雨雹があった.二年,雨雹があった,大なること雞子の如くであった.三年,雨雹があった,大なること鴈子の如く,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).劉向は以って為すに雹は,陰が陽を脅かしているとした也.是時ケ太后が以って陰ながら陽政を専らにしたのである.

元初四年六月戊辰,郡國三つに雨雹があり,大なること杅杯及び雞子の如く,六畜を殺した.[一]

[一]古今注に曰く:「楽安にふった雹は杅の如くで,人を殺した.」京房占に曰く:「夏にある雨雹は,天下で兵が大いに作られるということである.」

延光元年四月,郡國二十一に雨雹があり,大なること雞子の如くで,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).是時安帝は讒(言)を信じたため,無辜で死んだ者が多かった.[一]

[一]臣昭案ずるに:尹敏伝では是歳河西に大いに雨雹がふった,斗の如きものであったという.安帝は孔季彦に見えると,其の故を問うたところ,対して曰く「此皆陰が陽に乗じるという徴<しるし>です也.今貴臣が権し,母后の党が盛んとなっております,陛下には宜しく聖徳を修められまして,此二者を慮られますように」也.

三年,雨雹があった,大なること雞子の如きであった.[一]

[一]古今注に曰く:「順帝の永建五年,郡國十二に雨雹があった.六年,郡國十二に雨雹があり,傷秋稼(秋に植えつけた作物を傷つけた).」

桓帝の延熹四年五月己卯,京都に雨雹があった,大なること雞子の如し.是時桓帝は誅殺すること差を過ごし,又小人を寵(愛)した.

七年五月己丑,京都に雨雹があった.是時皇后ケ氏が僭侈し,驕って恣となって幸を専らにした.明くる年廃され,憂を以って死に,其の家は皆誅された.

靈帝の建寧二年四月,雨雹があった.

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四年五月,河東に雨雹があった.

光和四年六月,雨雹があり,大なること雞の子の如きであった.是時常侍、黄門が権(柄)を用いた.

中平二年四月庚戌,雨雹があり,傷稼(植えつけた作物が傷つけられた).

獻帝に初平四年六月,右扶風に斗の如き雹があった.[一]

[一]袁山松の書に曰く:「雹が人を殺した.前後して雨雹があったのだが,此が最も為すこと大きかった,時に天下は潰乱した.」

 

【冬雷】

和帝の元興元年冬十一月壬午,郡國四つに冬雷があった.是時皇子は何度も不遂となったため,皆之を民閧ノ隠した.是歳,宮車が晏駕し,殤帝が生まれて百余日したため,立てて以って君と為した;帝の兄には疾が有ったため,封じて平原王と為したが,卒した,皆夭であり嗣が無かった.[一]

[一]古今注に曰く:「光武の建武七年,遼東に冬雷があり,草木が実った.」

殤帝の延平元年九月乙亥,陳留に雷があり,有石隕地四(隕石が四つ地に落ちた).[一]

[一]臣昭が案ずるに:天文志の末に已に石隕(隕石)を載せているのに,未だ此の篇に重ねて記してある所以を解せないでいる.石(以)[與]雷隕は倶になる者,九月の雷は未だ異と為さない,桓帝も亦此の隕が有ったが,後不兼載,於是為(長)[常].古今注に曰く:「章帝の建初四年五月戊寅,潁陰で石が天より<従>墜ちてた,大なること鉄鑕の如く,色は黒かった,始下時(落ちてきたときの)声<音>は雷の如くであった.」

安帝の永初六年十月丙戌,郡六つに冬雷があった.[一]

[一]京房占に曰く:「天が冬雷すると,地は必ず震える.」又曰:「教令擾.」又曰:「雷が十一月を以ってしてあると黄鍾を起てる,二月は大声,八月は闔藏する.此以春夏殺無辜,不須冬刑致災.蟄蟲が出行しても,之を救わなければ,則ち冬に風が温む,其を以ってして來年は疾病となる.其の救わんとするや也,幼孤に恤し,不足に振るまい,獄刑を議し,貰謫罰,

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災則消矣.」古今注に曰く:「明帝永平七年十月丙子,越巂雷.」

七年十月戊子,郡國三つに冬雷があった.

元初元年十月癸巳,郡國三つに冬雷があった.

三年十月辛亥,汝南、楽浪に冬雷があった雷.

四年十月辛酉,郡國五つに冬雷があった.

六年十月丙子,郡國五つに冬雷があった.

永寧元年十月,郡國七つに冬雷があった.

建光元年十月,郡國七つに冬雷があった.

延光四年,郡國十九に冬雷があった.是時太后が攝政し,上は与す所とて無かった.太后が既にして崩じられると,阿母の王聖及び皇后の兄である閻顯兄弟が更めて威権を秉したため,上は遂に万機に親しまず,従容としてェ仁し臣下に任せたのである.[一]

[一]古今注に曰く:「順帝の永和四年四月戊午,雷震が高廟、世祖廟の外にあ槐の樹を撃った.」

桓帝の建和三年六月乙卯,雷震が憲陵の寢屋にあった.是より先に梁太后が兄の梁冀が李固、杜喬を枉殺するのを聴きいれていた.

靈帝の熹平六年冬十月,東萊で冬雷があった.

中平四年十二月晦,雨水があり,大いに雷電があり,雹があった.

獻帝の初平三年五月丙申,雲が無いのに而して雷があった.

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四年五月癸酉,雲が無いのに而して雷があった.

 

【山鳴】

建安七八年中に,長沙醴陵縣で大山が常に大鳴すること牛の呴声の如きことが有り,積むこと数年となった.後に豫章の賊が醴陵縣を攻め沒とし,吏民を殺略した.[一]

[一]干宝に曰く:「論語摘輔像に曰く:『山が(亡び)[土が]崩れ,川が閉塞し,漂淪移,山が鼓して哭き,閉衡夷,庶桀合,兵王作.』時に天下は尚も乱れており,豪桀が並んで争っていた:曹操は河北に於いて二袁に事えており;孫呉は江の外に於いて基を創らんとしていた;劉表は乱を阻むと襄陽に於いて,南は零、桂を招き,北は漢川を割き,又黄祖を以って爪牙と為した,而して黄祖は孫氏と讎みを深く為し,兵革が歳ごとに交えられた.十年,曹操は袁譚を南皮に於いて破った;十一年,袁尚を遼東に於いて走らせた.十三年,呉は黄祖を禽えた.是歳,劉表が死んだ.曹操は荊州を略して,当陽に於いて劉備を逐った.十四年,呉が曹操を赤壁に於いて破った.是の三雄者は,(倉)卒に共にして天下を三分し,帝王之業を成した,是が所謂<いわゆる>『庶桀合,兵王作』というものである<者>也.十六年,劉備は入蜀し,呉と再び荊州を争った,時に於いて四分五裂之地で戦争し,荊州は為に劇した,故に山鳴之異が其の域に作られたのである也.」

 

【魚孽】

靈帝の熹平二年,東萊の海に大魚が二枚出た,長さ八九丈,高さ二丈余.明くる年,中山王の劉暢、任城王の劉博が並んで薨じられた.[一]

[一]京房易伝に曰く:「海が巨魚を出すと,邪人が進み,賢人が疏んじられる.」臣昭は謂うが此占符靈帝之世,巨魚之出るは,是に於いて徴<しるし>と為ったのだが,寧んぞ独り二王之妖だけということがあろう也!

 

【蝗】

和帝永元四年,蝗がわいた.[一]

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[一]臣昭が案ずるに:本紀で光武の建武六年に詔が稱され「往く歳に水旱蝗蟲が災を為した.」とある。古今注に曰く:「建武二十二年三月,京師、郡國十九に蝗がわいた.二十三年,京師、郡國十八に大蝗があった,旱があり,草木が尽きた.二十八年三月,郡國八十に蝗がわいた.二十九年四月,武威、酒泉、清河、京兆、魏郡、弘農に蝗がわいた.三十年六月,郡國十二に大蝗があった.三十一年,郡國に大蝗があった.中元元年三月,郡國十六に大蝗があった.永平四年十二月,酒泉に大蝗があり,塞外より<従>(中に)入ってきた.」謝承の書に曰く:「永平十五年,蝗が泰山に起ち,兗、豫に彌行した.」謝沈書鍾離意譏起北宮表云:「未だ年を数えずして,豫章は蝗に遭い,穀(物)は収められず.民は飢えて死に,縣数千百人.」

八年五月,河内、陳留に蝗がわいた.九月,京都に蝗がわいた.九年,蝗が夏より<従>秋に至った.是より先に西羌が何度も反したため,将軍を遣わし北軍五校を将いさせて之を征した.

安帝の永初四年夏,蝗がわいた.是時西羌が寇乱し,軍征距,連なること十余年となった.[一]

[一]讖に曰く:「主が禮を失って煩苛となれば,則ち之に旱し,魚螺が変じて蝗蟲と為る.」

五年夏,九州に蝗がわいた.[一]

[一]京房占に曰く:「天は万物百穀を生じさせ,以って民用に給わった.天地之性は人が貴き為すもの.今蝗蟲が四(方)で起こっているのは,此が為しているのは國に邪人が多く,朝(廷)に忠臣が無いためで,蟲が民と食を争い,位に居って祿を食むこと蟲の如きであるということである矣.救わなければ,兵が起つに致される;其が救わんとするや也,有道を挙げて位に於いて置き,諸侯に命じて明經を試させる,此が災いを消すのである也.」

六年三月,蝗を去った処に復蝗の子が生じた.[一]

[一]古今注に曰く:「郡國四十八に蝗がわいた.」

七年夏,蝗がわいた.

元初元年夏,郡國五つに蝗がわいた.

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二年夏,郡國二十に蝗がわいた.

延光元年六月,郡國に蝗がわいた.

順帝の永建五年,郡國十二に蝗がわいた.是時鮮卑が朔方を寇してきたため,を用いて之を征した.

永和元年秋七月,偃師に蝗がわいた.年を去ること冬,烏桓が沙南を寇したため,を用いて之を征した.

桓帝の永興元年七月,郡國三十二に蝗がわいた.是時梁冀が秉政して謀憲が無く,苟しくも権を貪って作虐した.[一]

[一]春秋考異郵に曰く:「貪擾が蝗を生じさせる.」

二年六月,京都に蝗がわいた.

永壽三年六月,京都に蝗がわいた.

延熹元年五月,京都に蝗がわいた.[一]

[一]臣昭が案ずるに:劉歆伝では「皆天の時に逆らうとは,聴いても聰らないという禍がある也」.養奮が対策して曰く:「佞邪が不正を以ってして祿を食み饗が致される所である.」とした謝沈の書に曰く「九年,揚州の六郡で連水、旱、蝗害があった」也.

靈帝の熹平六年夏,七州に蝗がわいた.是より先に鮮卑が前後して三十余も塞を犯し,是歳は護烏桓校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻が南單于以下を将いて,三道より並んで出て鮮卑を討った.大司農は經用が不足であるとして,郡國から殷斂すると,以って軍糧を給した.三将は功(績)無くして,還ってきた者は少半(四分の一程度であった).

光和元年に詔策あって問うて曰く:「連年蝗蟲あって冬踊するに至っているが,其の咎めは焉ぞ在るのか?」蔡邕が対して曰く:「臣が聞きますのは易伝に曰く:『大作が

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時ならざれ,天は災いを降らす,厥の咎めとして蝗蟲が来る.』とのことです河圖祕徴篇に曰く:『帝が貪れば則ち政が暴となり而して吏が酷くなる,酷くなれば則ち誅深きこと必ず殺さんとして,蝗蟲を主.』とあります蝗蟲は,貪苛之致す所です也.」是時百官は遷徙しており,皆私上禮西園が以って府と為っていた.[一]

[一]蔡邕が対して曰く:「蝗蟲が出ずれば,不急之作を息つかせ,賦斂之費を省かれ,清仁を進めて,貪虐を黜し,損を分けて安き承らす,(居)[屈]省別藏,以って國用を贍じさせれば,則ち其が救いとなりましょう也.易に曰く『臣を得ても家が無い』とは,言有天下者何私家之有!」

獻帝の興平元年夏,大蝗がおこった.是時天下は大いに乱れた.

建安二年五月,蝗があった.