-3327-

後漢書志第十六

五行四

地震、山崩、地陥、大風抜樹、螟、牛疫

五行は伝えて曰く:「宮室を治めんとするに,台榭を飾りたて,内で淫乱となり,親戚を犯して,父兄を侮れば,則ち稼穡は成らず.」土が其の性を失い而して災を為すことを謂う也.又曰く:「心を思えど容れず,是が不聖と謂う.厥の咎めは霿(霧),厥の罰は恒風,厥の極まるは凶短折.時に則ち脂夜之妖が有り,時に則ち華孽が有り,時に則ち牛禍が有り,時に則ち心腹之痾が有り,時に則ち黄眚、黄祥が有るのは,惟うに金、水、木、火が土を沴ずるのであろう.」華孽は,劉歆伝では蠃蟲之孽と為しており,螟の属であると謂う也.

【地震、山崩、地陥】

世祖の建武二十二年九月,郡國四十二に地震があり,南陽が尤もしかった,地が裂けて圧し人を殺した.其の後武谿蛮夷が反して,寇害を為し,南郡に至ったため,荊州の諸郡兵を(徴)発して,武威将軍の劉尚を遣わして之を撃たせたが,夷に圍まれ所と為ったため,復兵を(徴)発して之に赴かせたが,劉尚は遂に沒する所と為った.

章帝の建初元年三月甲(申)[寅],山陽、東平で地震があった.

-3328-

和帝の永元四年六月丙辰,郡國十三で地震があった.春秋漢含孳に曰く:「女主が盛んとなり,臣が制命すると,則ち地が動いて坼し,畔が震え起ち,山が崩れ淪す.」是時竇太后が攝政しており,兄の竇憲が専権していた,将に是を以ってして禍を受けたのである也.後れること五日して,詔があって竇憲の印綬が収められ,兄弟は就國することとなり,逼迫されて皆自殺したのである.

五年二月戊午,隴西で地震があった.儒説民安土者也,将に大いに動かんとするに,行えば大いに震えるとした.九月,匈奴の単于が除(難)鞬に於いて叛いたため,使いを遣わし辺郡の兵を(徴)発して之を討たせた.

七年九月癸卯,京都で地震があった.儒説では官を奄<おお>って陽施が無いこと,婦人の猶しとした也.是時和帝は中常侍の鄭と竇氏の権を奪わんとする謀をしていたため,之を徳とし,因って之を任用した,幸が常侍の蔡倫に及び,二人は始めて並んで権を用いたのである.

九年三月庚辰,隴西で地震があった.閏月,塞外の羌が塞を侵すと,吏民を殺略したため,征西将軍の劉尚を使わして之を撃たせた.

安帝永初元年,郡國十八で地震があった.李固曰く:「地とは<者>陰である也,法は当に安静にすべし.今乃ち陰之職を越えて,陽之政を専らにしている,故に応じて以って震動したのである.」是時ケ太后は政攝って事専らにしていた,訖建光中,太后が崩じられて,安帝は乃ち政を制すること得られた,是に於いて陰類が並び勝り,西羌が夏を乱すこと,十余年を連ねた.

二年,郡國十二で地震があった.

三年十二月辛酉,郡國九つで地震があった.

四年三月癸巳,郡國四つで地震があった.

五年正月丙戌,郡國十で地震があった.

-3329-

七年正月壬寅,二月丙午,郡國十八で地震があった.

元初元年,郡國十五で地震があった.

二年十一月庚申,郡國十で地震があった.

三年二月,郡國十で地震があった.十一月癸卯,郡國九つで地震があった.

四年,郡國十三で地震があった.

五年,郡國十四で地震があった.

六年二月乙巳,京都、郡國四十二で地震があった,或るいは地に坼裂がはしり,涌水があって,城郭、民の室屋を壊し敗れさせ,人を圧した.冬,郡國八つで地震があった.

永寧元年,郡國二十三で地震があった.

建光元年九月己丑,郡國三十五で地震があった,或るいは地に坼裂がはいり,城郭や室屋が壊され,圧あって人を殺した.是時安帝は明察すること能わず,宮人及び阿母の聖等の讒(云)[言]を信じ,ケ太后の家を破壊した,是に於いて専ら聖及び宦者のいうことを聴きいれ信じるようになり,中常侍の江京、樊豊等が皆権を用いること得られた.

延光元年七月癸卯,京都、郡國十三で地震があった.九月戊申,郡國二十七で地震があった.

二年,京都、郡國三十二で地震があった.    

三年,京都、郡國二十三で地震があった.是時は讒(言)を以ってして太尉の楊震が免じられ,太子が廃された.

-3330-

四年十[一]月丁巳,京都、郡國十六で地震があった.時に安帝が既にして崩じられ,閻太后が攝政していた,兄弟の閻顯等が並んで用事しており,遂に安帝の子を斥けると,更めて諸國王の子を徴したのだが,未だ至らずして,中黄門が遂に閻顯兄弟を誅した.

順帝の永建三年正月丙子,京都、漢陽で地震があった.漢陽で屋(根)が壊れて人を殺し,地が坼けて涌水が出た.是時順帝の阿母である宋娥及び中常侍の張ム等が権を用いた.

陽嘉二年四月己亥,京都で地震があった.是時は宋娥に爵号して山陽君となした.

四年十二月甲寅,京都で地震があった.

永和二年四月(庚)[丙]申,京都で地震があった.是時は宋娥が姦を構えて誣罔していた,五月になり事が(発)覚し,印綬を収められて,田里に帰された.十一月丁卯,京都で地震があった.是時太尉の王龔が以って中常侍の張ム等が國権を専らにし弄しているからとして,之を誅するよう奏上しようと欲した,時に王龔の宗親が以って楊震が事を行うからとして之に止まるよう諫めることが有ったと云う.

三年二月乙亥,京都、金城、隴西で地が震え裂け,城郭、室屋の多くが壊れた,人を圧し殺した.閏月己酉,京都で地震があった.十月,西羌二千余騎が金城の塞に入りこみ,涼州に害を為した.

四年三月乙亥,京都で地震があった.

五年二月戊申,京都で地震があった.

建康元年正月,涼州(都)[部]郡六,で地震があった.去年九月より<従>以来四月に至るまで,凡そ百八十(日)[地]震があり,山谷が坼裂し,城寺が壊れ敗れ,人や物を傷つけ害った.三月,護羌校尉の趙沖が叛胡に殺される所と為った.九月丙午,京都に地

-3331-

震があった.是時順帝が崩じられたため,梁太后が攝政していたが,順帝の為に陵を作らんと欲し,制度は奢廣となって,吏民のを壊すこと多かった.尚書の欒巴が事を諫めたところ,太后は怒り,癸卯,詔書をくだして欒巴を収めて獄に下すと,之を殺そうと欲した.丙午に地震があった,是に於いて太后は乃ち欒巴を(獄舎から)出すと,免じて庶人と為した.

桓帝の建和元年四月庚寅,京都で地震があった.九月丁卯,京都で地震があった.是時梁太后が攝政しており,兄の梁冀が権を持っていた.和平元年に至って,太后が崩じられたが,然るに梁冀は猶も秉政して事を専らにするがごとくであったため,至ること延熹二年,乃ち誅滅されたのである.

三年九月己卯,で地震があった,庚寅又震があった.

元嘉元年十一月辛巳,京都で地震があった.

二年正月丙辰,京都で地震があった.十月乙亥,京都で地震があった.

永興二年二月癸卯,京都で地震があった.

永壽二年十二月,京都で地震があった.

延熹四年,京都、右扶風、涼州で地震があった.

五年五月乙亥,京都で地震があった.是時桓帝は中常侍の単超等と謀して梁冀を誅し除かんとして,之を聴きいれ,並んで事を用いさせ専権させ使こととした.又ケ皇后は本より小人であって,性行に恒<つね>なることが無かった,苟しくも顔色を有したため,立てられて以って后と為ったのである,後に(倉)卒に左道を執っていたことに坐して廃され,以って憂死したのである.

八年九月丁未,京都で地震があった.

靈帝建寧四年二月癸卯,で地震があった.是時中常侍の曹節、王甫等が皆専権していた.

熹平二年六月,で地震があった.

-3332-

六年十月辛丑,で地震があった.

光和元年二月辛未,で地震があった.四月丙辰,で地震があった.靈帝の時には宦者が専ら恣にしていた.

二年三月,京兆で地震があった.

三年秋より<自>明くる年春に至るまで,酒泉の表氏の地が八十余も動き,涌水が出て,城中の官寺民舍が皆頓たため,縣では処を易えて,更めて城郭を築いた.

獻帝初平二年六月丙戌,で地震があった.

興平元年六月丁丑,で地震があった.

和帝の永元元年七月,会稽の南山が崩れた.会稽は,南方の大名山である也.京房易伝に曰く:「山が崩れるのは,陰が陽に乗じ,弱が強に勝つからである也.」劉向は以って為すに山陽は,君である也;水陰は,民である也;君道が崩壊し,百姓が所を失ったのであるとした也.劉歆は以って為すに崩れるのは(地が)[弛む]猶しであるとした也.是時竇太后が攝政しており,兄の竇憲が専権していた.

七年七月,趙國易陽の地が裂けた.京房易伝に曰く:「地が裂けるというのは<者>,臣下分離,不肯相従也.」是時南単于乖離,漢軍が追討した.

十二年夏,閏四月戊辰,南郡の秭帰にある山が高さ四百丈,崩れて谿を填<う>め,百余人を殺した.明くる年冬,(至)[巫]の蛮夷が反するに(至ったため),使いを遣わし荊州の吏民万余人を募ると之を撃った.

-3333-

元興元年五月癸酉,右扶風の雍で地が裂けた.是後西羌が涼州を大いに寇した.

殤帝の延平元年五月壬辰,河東の(恒)[垣]山が崩れた.是時ケ太后が専政していた.秋八月,殤帝が崩じられた.

安帝の永初元年六月丁巳,河東の楊で地が陥(没)した,東西百四十歩,南北百二十歩,深さ三丈五尺であった.

六年六月壬辰,豫章の員谿(にある?)原山が崩れ,各六十三(ヶ)所になった.

元初元年三月己卯,日南で地が坼れた,長さ百八十二里.其後の三年正月,蒼梧、鬱林、合浦で盜賊が起して,吏民を劫略した.

二年六月,河南の雒陽新城の地が裂けた.

延光二年七月,丹陽で山が崩れること四十七所になった.

三年六月庚午,巴郡の閬中で山が崩れた.

四年十月丙午,蜀郡の越巂山が崩れ,四百余人を殺した.丙午,天子が会日した也.是時閻太后が攝政していたのである.其十一月,中黄門の孫程等が江京を殺して,順帝を立てると,閻后兄弟を誅した,明くる年,閻后が崩じられた.

順帝の陽嘉二年六月丁丑,雒陽宣徳亭の地が坼れた,長さ八十五丈,郊地に近づいた.時に李固が対策し,以って為すに「陰類が専ら恣になっている,将に分離之象が有らんとしている,所以附郊城者,(事)[是は]上帝が象を示し以って陛下を誡められているのだ也」とした.是時宋娥及び中常侍が各々権を用いて分かれて争っていた,後に中常侍の張逵、蘧政が大将軍の梁商と権を争って,梁商の為の飛語を作り,之を陥れようと欲した.

桓帝の建和元年四月,郡國六つで地が裂け,水が涌き出し,井がれ,寺屋を壊して,人を殺した.時に梁太后が攝政されており,兄の梁冀が

-3334-

李固、杜喬を枉殺した.

三年,郡國五つで山が崩れた.

和平元年七月,廣漢の梓潼で山が崩れた.

永興二年六月,東海の朐<く>で山が崩れた.冬十二月,泰山、琅邪で盜賊が起した.

永壽三年七月,河東の地が裂けた,時に梁皇后の兄の梁冀が秉政していた,桓帝は自由になろうと欲し,内で之を患いとしていたのである.

延熹元年七月乙巳,左馮翊の雲陽で地が裂けた.

三年五月(戊申)[甲戌],漢中の山が崩れた.是時上は中常侍単超等を恣に寵(愛)した.

四年六月庚子,泰山、博尤来山が判解した.

八年六月丙辰,緱氏の地が裂けた.

永康元年五月丙午,雒陽の高平永壽亭、上党の泫[一]氏で地が各々裂けた.是時朝臣は中常侍の王甫等が専ら恣にしていることに患った.冬,桓帝が崩じられた.明くる年,竇氏等が常侍、黄門を誅そうと欲したが,果たせず,更めて誅される所と為った.

[一]工玄反.

靈帝の建寧四年五月,河東で地が裂けること十二処,裂けたところは長さを合わせると十里百七十歩,廣いところ<者>は三十余歩,深さは底が見えないほどだった.

-3335-

 

【大風抜樹】

和帝の永元五年五月戊寅,南陽で大風があり,樹木がひき抜かれた.

安帝の永初元年,大風で樹が抜けた.是時ケ太后が攝政しており,清河王の子が年少であったことを以って,号精耳,故に之を立て,是が安帝と為ったのである.皇太子の勝を立てず,以って為すに安帝は賢いとし,必ずや当にケ氏に徳してくれようとしたのである也;後に安帝は讒に親しんで,ケ氏を廃して免じ,郡縣に令すること迫切としたため,死者は八九人,家が破壊されるに至った.此が為に瞉霧したのである也,是後西羌が亦涼州を大いに乱れさせること十有余年となった.

二年六月,京都及び郡國四十で大風があって樹がひき抜かれた.

三年五月癸酉,京都に大風があり,南郊の道にあった梓の樹九十六枚がひき抜かれた.

七年八月丙寅,京都に大風があり樹がひき抜かれた.

元初二年二月癸亥,京都で大風があり樹がひき抜かれた.

六年夏四月,沛國、勃海で大風があり,樹をひき抜くこと三万余枚となった.

延光二年三月丙申,河東、潁川で大風があり樹がひき抜かれた.六月壬午,郡國十一で大風があり樹がひき抜かれた.是時安帝は讒(言)に親しみ,曲直が分けられなかった.

三年,京都及び郡國三十六で大風があり樹がひき抜かれた.

靈帝の建寧二年四月癸巳,京都で大風があり雨雹あって(雹を雨ふらして),郊道にある樹で十圍已上もあるもの百余枚がひき抜かれた.其の後の晨に黄郊で迎気せんとしたところ,雒水西橋に於ける道で,暴風雨に逢い,道鹵簿車或発蓋,百官は霑濡<びしょぬれとなり>,還ることとなって郊に至らなかったため,有司を使て禮を行わせた.西郊で迎気しようとすると,亦た壹なること此の如くとなってしまった.

-3336-

中平五年六月丙寅,大風があり樹がひき抜かれた.

獻帝初平四年六月,右扶風で大風があり,屋(根)を発して(徴発して/むりにひっぺがして)木をひき抜いた.

 

【脂夜之妖】

中興以来,脂夜之妖についてそれを(記)録する者が無かった.

 

【螟】

章帝の七八年閨C郡縣では大いに螟がわいて傷稼(作付けを傷つけた),語は魯恭伝に在る,而しながら(帝)紀には(記)録されていない也.是時章帝は竇皇后の讒(言)を用いて,宋、梁二貴人を害し,皇太子を廃したのである.

靈帝の熹平四年六月,弘農、三輔で螟蟲がわいて害を為した.是時靈帝が中常侍である曹節等の讒言を用い,海内の清英之士を禁錮すると,之を党人と謂ったのである.

中平二年七月,三輔で螟蟲がわいて害を為した.

 

【牛疫】

明帝の永平十八年,牛疫死(牛が疫病で死んだ).是歳には竇固等を征西域に遣わして,都護、戊己校尉(西域都護、西域戊己校尉のこと)を置いた.竇固等が還るに適うと而して西域は叛き,都護の陳睦、戊己校尉の関寵を殺した.是に於いて(竇固等は面子を潰されて)大いに怒り,復た発興討(兵を徴発して兵を興しこれを討とうとした),秋になって明帝が崩ずるに会ったため,是思心不容也.(この思い/考えを是とする心は容れられなかった)

章帝の建初四年冬,京都で牛が大疫にあった.是時竇皇后は宋貴人の子を以ってして太子と為していたが,寵幸,人に令して貴人の過ちや隙を伺い求めさせ,讒(言)を以ってして之を毀した.章帝は竇太后の不善を知らなかったため,厥の咎めは霧となった也.或曰(或るひと曰く),是年六月馬太后が崩じられたのは,土功非時

-3337-

興故也(土功が時に非ざるのに興された故であるということである).