-3341-

後漢書志第十七

五行五

射妖、龍蛇孽、馬禍、人痾、人化、死復生、疫、投蜺

 

五行は伝えて曰く:「皇の極まらざる,是は不建と謂う.[一]厥<そ>の咎めは眊であり,[二]厥の罰は恒<つね>に陰となる,[三]厥の極まりは弱となる.[四]時に則ち射妖が有り,[五]時に則ち龍蛇之孽が有り,[六]時に則ち馬禍が有り,[七]時に則ち下人がお上を伐するという痾が有り,[八]時に則ち日月の乱行,星辰の逆行が有る.」[九]皇は,君である也.極は,中である也.眊とは,不明である也.説いて云う:此は沴天である也.沴天と言わないというのは<者>,至尊之辞である也.春秋で「王師敗績」とあるのは,自ら敗れしを以ってして文と為している.

[一]尚書の大伝で「皇」は「王」と作る.鄭玄は曰く:「王とは,君である也.不名體而言王者,五事象五行,則王極象天也.天は変化して陰と為り陽と為って,五行を覆成する.経に曰く:『暦象日月星辰,敬授民時.』論語に曰く:『為政は徳を以ってする,譬えるなら北辰の如し.』是が則ち天の人政に於ける道なのである也.孔子は春秋に説いて曰く:『政が以って王に由らずして出ずるは,為政を得ず.』則ち王君が出政之号なのである也.極は,中である也.建は,立つである也.王が天を象るとは,情性を以ってして五事を覆成し,中和之政を為すことである也.王の政が中和せず<和に中らなければ>,則ち是は其の事を立てること能わないのである.」古文尚書:「皇極とは,皇建其有極(皇が建てた其のなかに極を有するものをいう).」孔安國は曰く:「大中之道とは,其の中有る大いに立てることで,九疇之義を行うことを謂う.」馬融は対策して曰く:「大中之道は,天に在っては北辰を為し,地に在っては人君を為す.」

-3342-

[二]尚書大伝が作るには「瞀」である.鄭玄は曰く:「瞀与思心之咎同耳,故[子駿]伝に曰く眊.眊とは,乱れるである也.君臣が立たず,則ち上下が乱れる矣.」字林に曰く:「目すに精が少ないのを曰く眊という.」

[三]鄭玄は曰く:「王極は天を象る,天は万物を陰養する,陰気が失われるは,故より常陰であるという.」

[四]鄭玄は曰く:「天が為すは剛徳,剛気が失われると,故に人に於いて弱と為る.易は亢龍之行を説いて曰く:『貴いのに而して位が無く,高いのに而して民が無く,賢人が下位に在って而して輔けること無い.』此之謂うに弱である.或云懦,不(敬)[毅]也.」

[五]鄭玄は曰く:「射は,王極之度である也.射人が将に矢を発さんとするや,必ず此に於けるに先んじて之を儀す,(ゆえに)発すれば則ち彼に於いて中<あた>る矣.君が将に政を出さんとするや,亦朝廷に於けるに先んじて之を度<はか>る,(だからこそ)出れば則ち民心に於いて応じたものとなるのである.射は,其の象である也.」

[六]鄭玄は曰く:「龍は,蟲の淵に於いて生ずるもの,行うに[於]形無し,天に於いて遊びたる者であり也,天に属す.蛇は,龍之類である也,或るひとは曰く龍で角の無いもの<者>が曰く蛇なのである.」

[七]鄭玄は曰く:「天行健.馬は,畜之疾行者であり也,王極に属す.」

[八]鄭玄は曰く:「夏侯勝が説くに『伐』は宜しく『代』と為すべき,書も亦或いは『代』と作る.陰陽之神は曰く精気という,情性之神は曰く魂魄という,君の行うのが常に由らず,張して度無ければ,則ち是が魂魄の傷であり也,王極の気が失われるという病なのである也.天の不中之人に於いて,恒耆其[味,厚其]毒,増以為病,将以開賢代之也,春秋が伝えるところである所謂<いわゆる>『奪伯有魄』者が是である也.不名病とは<者>,身體に於いて著わされない病のことである也.」

[九]鄭玄は曰く:「乱謂薄食並見,逆謂[贏]縮反明,経天守舍之類也.」太公六韜に曰く:「人主が武事兵革を好めば,則ち日月は薄まり蝕まれ,太白は行を失う.」

恒陰は,中興以来録する者が無かった.[一]

[一]臣昭案ずるに:本伝で陽嘉二年,郎が上書して云った:「正月以来,陰闇なること日を連ねています.久しく陰であるのに雨していません,気が乱れているのでしょう也.賢を得ても用いなければ,猶も久しく陰であるのに雨しないのです也.」

-3343-

 

【射妖】

靈帝の光和中に,雒陽の男子である夜龍が以って弓箭で北闕を射たため,吏が收めて考問した,辞に「貧しきに居って責めを負うており,聊生する所とて無く,因って弓箭を買って以って射たのです」.これが近くにあった射妖である也.[一]其の後に車騎将軍の何苗が,兄の大将軍何進の部兵と還って相猜疑しあい,対して相攻撃しあい,闕下に於いて戦った.何苗は死に兵は敗れて,殺されたのは数千人となり,雒陽の宮室内の人は焼き尽くされた.[二]

[一]風俗通に曰く:「夜龍の従兄の夜陽が臘銭を求められ,夜龍が假取すること繁数え,頗る之を厭い患った,夜陽は銭千を与えたが,夜龍の意<きもち>は満たされず,夜陽の家を破ろうと欲し,因って弓矢を持つと玄武の東闕を射たのである,三発したところで,吏士が呵して<どなりつけて>縛首して服させた.是に因って中常侍、尚書、御史中丞、直事御史、謁者、衛尉、司隸、河南尹、雒陽令を遣わして悉く会させ発所.わたくし劭は(応劭は)時に太尉議曹掾と為っていた,白公ケ盛(公のケ盛に白した):『夫れ禮設けられ闕観られるは,門を飾らんとする所以でして,章が至尊に於けるのは,諸象魏を懸けて,民に禮法を示さんとするものです也.故に車で過ぎる者は下り,歩で過ぎる者は趨くのです.今龍が乃ち敢えて闕を射たというのは,意は慢り事は醜く,次ぐこと大逆に於けるものでしょう.宜しく主者を遣わして参問変状.』公曰く:『府は盜賊を主<つかさど>らない,当に諸府と相候すべきものだ.』応劭曰く:『丞相の邴吉は以って為すに道路で死傷あれば,既にして之に往く事,京兆、長安の職が窮め逐う所である,而して住車して牛が喘いで舌を吐きだしているのを問うところ<者>は,豈に人を軽んじて而して畜を貴ぶものでしょうか哉,頗る陰陽が和まざれば,必ずや害される所有らんと念じた(懸念した)のです.掾史爾乃悦服,漢書は其の大體に達したことを嘉しています.令するに龍が犯した所は,然中外奔波,邴吉防患大豫,況於已形昭晰者哉!明公は既にして宰相の大任に処しておられ,加えて兵戎之職を掌られております,凡そ荒裔が在るについては,之を大事と謂うものでしょう,何有近目下而致逆節之萌者?孔子が魯の司寇を攝ると,常卿に非ざるものでした也.僭溢之端を折りとり,纖介之漸を消し,政してより<従>三月して,惡人は境へ走りさり,邑門は闔しなくなりました,外では強斉が侵した地を収め(取り戻し),内では三桓之威を虧しました.區區たる小國でありましても,尚も趣舍に於けるものでした,それなのに大漢之朝は,焉ぞ無かる可けんか乎?明公は恬然として己(のなすこと)に非ずと謂っておられます.しかし詩は云っております:「儀刑文王,万國作孚.」当に人に為さんとするなら法を制(定)するべきです,何必取法於人!』是に於いて公の意は大いに悟るものがあり,遣令史謝,申以鈴下規応掾自行之,還ると具さに條奏した.時に靈帝は詔で報いられ,惡を惡<にく>むは其身に止める,龍については以って之を重ねて論ずることとし,陽は(夜龍の罪に)坐すことないものとした.」

[二]応劭は曰く:「龍というのは<者>陽の類であり,君之象である也.夜というのは<者>,不明之応である也.此は其象であろう也.」

-3344-

【龍蛇孽】

安帝の延光三年,済南で黄龍が歴城に見えたと言ってきた,琅邪で黄龍が諸で見えたといってきた.是時安帝は讒(言)を聴きいれて,太尉の楊震を免じ,楊震は自殺した.又帝は独り一子を有し,以って太子と為していたが,讒(言)を信じて之を廃した.是皇不中,故に龍孽を有したのである,是時は佞媚が用いられること多く,故に以為<おもえらく>瑞応したのであろう.明くる年正月,東郡でも又黄龍二つが濮陽で見えたと言ってきた.

桓帝の[一]延熹七年六月壬子,河内の野王にある山上で龍の死(体)が有った,長さは数十丈たる可ものであった.[二]襄楷は以為<おもえら>龍とは<者>帝王の瑞(兆)を為すもので,易は大人を論じている.天鳳中に,黄山の宮に死んだ龍が有ったが,漢兵が王莽を誅して而して世祖が復興された,此は易代之徴<しるし>(王朝の代が易わる徴候)である也(此の易は之に代わる徴である).建安二十五年に至って,魏の文帝が漢に代わった.[三]

[一]干寶の搜神記に曰く「桓帝が即位すると,大蛇が徳陽殿の上に見えたことが有った,雒陽の市の令であった淳于翼は曰く:『蛇が鱗を有するのは,甲兵之象である也.省中に於いて見えたのは,将に椒房の大臣で甲兵之誅を受けるものが有るのだろう也.』乃ち官を棄てて遁れ去った.延熹二年に到り,大将軍梁冀が誅されると,宗属を捕治するために,兵が京師に揚げられたのである」也.

[二]袁山松の書に曰く:「長さ百余丈たる可.」

[三]臣昭曰く:夫(龍は)屈申躍見して,変化無方である,非顯死之體(顯らかに死んでいた体ではなく),横強之畜(身を横たえていた畜であろう).易は況や大聖であり,実に君道に類す.野王之異(河内郡野王県で見られた異祥)は,豈に桓帝が将に崩れんとするの表れであったというのか乎?妖等の占は殊なものであって,其の例は斯くとしている.苟欲附会以同天鳳,則ち帝は三主を渉り,年は五十(年)を踰えたのだから,此は迂闊を為したというものであり,将に恐らくは徴に非ざるのであろう矣.

永康元年八月,巴郡で黄龍が見えたと言ってきた.時の吏である傅堅は郡を以ってして上言せんと欲し,内白事以為走卒戲語,不可.太守は聴きいれなかった.嘗て傅堅に見えて語って云うに:「時の民が以って天が熱いからと,池で浴すに就こうと欲し,池水が濁っているのを見て,因って戲れて相恐れ『此中に黄龍有り』とし,語ったものが遂に人間に行われたのであろう.聞けば郡は欲するに以って美と為そうとしているとか,故に言うのである.」時の史が以って帝紀に書した.桓帝の時には政治が衰缺しており,而るに在所では瑞応を言ってくるのが多かったのだが,皆此の類であろう也.又た先儒の言にあるが:瑞が時に非ざるのに興るのは則ち妖孽を為しているのである,而るに民は訛言して龍が生まれたと語るが,皆龍孽である也.

-3345-

熹平元年四月甲午,青蛇が御坐の上に見えた.是時靈帝は任を宦者に委ねており,王室は微弱となっていた.[一]

[一]楊賜は諫めて曰く:「皇極が建ざれ,則ち龍蛇之孽が有る.詩は云う:『惟虺惟蛇,女子之祥.』宜しく皇甫之権を抑え,豔妻之愛を割くべきです,(そうすれば)則ち蛇変も消える可こと<者>でしょう也.」張奐伝を案ずるに,建寧二年夏,青蛇が御坐の軒前に見えた.張奐は上疏した:「陳蕃、竇氏は未だ明宥を被っておりません,妖眚が来たったのは,皆此が為なのです也.」敦煌実録は曰く:「蛇の長さは六尺,夜になり御前に於いて当に軒にあたり而して見えた.」

 

【馬禍】

更始二年二月,雒陽を発して,長安に入ろうと欲していた,司直の李松が奉引すると,車は奔り,北宮の鉄柱門に觸して,三馬とも皆死んだ.馬禍である也.時に更始は失道し,将に亡びんとしていた.

桓帝の延熹五年四月,驚いた馬と逸象が宮殿に突入した.近くにあった馬禍である也.是時桓帝の政は衰缺していた.

靈帝の光和元年,司徒長史の馮巡の馬が人を生んだ.[一]京房易伝に曰く:「上が天子を亡ぼさんとし,諸侯が相伐すると,厥の妖たるや馬が人を生む.」後の馮巡は甘陵相に遷り,黄巾が初め起こると,為に殘殺される所となり,而して國家も亦四面より敵を受けた.其後関東の州郡は各々が義兵を挙げ,卒相攻伐(倉卒に相攻め伐しあい/兵卒は相攻め伐しあい),天子は西に移り,王政は隔て塞がれた.其の占は京房(易のそれ)と同じであった.

[一]風俗通に曰く:「馮巡の馬が胡子を生んだ,馬を養っていた胡(人)の蒼頭に問うてみると,乃ち此馬を好んで以って子を生ませたのだという.」

光和中,雒陽水の西橋の民の馬が逸走し,遂に人を齧り殺した.是時公卿大臣及び左右は何度も誅を被る者が有ったという.

 

【人痾、人化、死復生】

安帝の永初元年十一月戊子,民が転じて相驚き走り,什物を棄て,廬舍を去った.

-3346-

靈帝の建寧三年春,河内の婦(人)が夫を食い,河南の夫が婦(人)を食った.[一]

[一]臣昭曰く:此の二食を案ずるに,夫妻は同じでない,在河南北,見死異,斯豈怪妖復有徴乎?河(黄河)というのは<者>,天を経て地へ亙<わた>という水<河川>である也.河内は,河之陽である也.夫婦は陰陽を参配し,判じ合わせて體を成すのである.今夫之尊き以ってして,河之陽に在らしめるもの,而して陰ながら體卑を承り,尊き陽を呑み食らう,これは将に君道が弱であるに非,居に剛之徳が無く,遂に陰細之人の為に能く消毀する所となりえようか乎?河南は,河之陰である.河は諸侯を視るもの,夫た惟家之主である,而して自ら正内之人を食らう.時に宋皇后が将に立てられんとしていたのだが,而して靈帝は閹官(のいうこと)を一えに聴きいれ,厝心する所とて無かった.夫れ宮房之愛惡を以ってして,亦不全中懷抱,宋后は終に廃され,王甫は姦を挾み,陰ながら列侯に中った,実に厥位に応じたものであった.天戒若くに曰く,徒らに嬖豎之意に随うは,夫が其の妻に噉すものではないだろうか乎?

熹平二年六月,雒陽の民が訛言して虎賁寺の東壁中に黄人が有るとしてきた,形容鬚眉良是,観た者は万を数え,省内が悉く出たため,道路は断絶した.[一]中平元年二月に到って,張角兄弟が兵を冀州に起こし,黄天を自ら号すると,三十六方,四面より出和し,将帥が星布され(星のごとく布かれ)たが,吏士外属は,其の疲に因って,牽いて而して之に勝った.[二]

[一]応劭は時に郎と為っていた.風俗通に曰く:「わたくし応劭は故に往きて之を視たが,何其れ有人が在らんか(その中に人が有ったなどということが在ろうか)也!走漏汙処,膩赭流漉,壁には他に剥れた数寸の曲折が有るのみであった耳.わたくし劭も又之に通じて曰く:(六月である)季夏は土黄にあたる,中行用事,又壁中に在ったというのは,壁も亦土である也.以って見えたのが虎賁寺に於いてであったということは<者>,虎賁は國之祕兵であり,難を扞し侮りを禦ぐものである.必ずや(是れ)[示されるのは]東に於いてのことだろう,東が<者>動くや也,当に出師行将すべきことがあって,天下が搖動しようと言っているのだ也.天が類を以ってして人に告げるばあい,それが影響することに於いて甚だしいものがあるのだ也.」

[二]物理論に曰く:「黄巾は被服するに純黄,尺兵を将いず,肩長衣,翔行舒歩し,郡県に至る所従わないもの無かった,是が日天が大いに黄たれということである也.」

光和元年五月壬午,何人が白衣で徳陽門に入ろうと欲し,辞すことに「我は梁伯夏,我に教え上殿して天子と為らん」.中黄門の桓賢等が門吏僕射を呼びつけて,何人を收縛らんと欲した,吏が未だ到らずして,須臾のうちに還り走りさってしまい,求め(捜)索しても得られず,姓名もわからなかった<知ることできなかった>.時に蔡邕が以って成帝の時に男子の王絳衣して入宮し,上前殿非常室,曰く「天帝が我に此れに居るよう令したのだ」としたため,後に王莽が位を簒(奪)したという.今此は成帝の時と相

-3347-

似ているが而して異なるところも有る,被服が同じでない,又未だ雲龍門に入らずして而して(発)覚した,称して梁伯夏としたが,皆言に於いて軽いものであった.以往況今(かつてのことを以って今を況やとすると),将に狂狡之人が有り,王氏之謀を為さんと欲して,其事が成らなかったのであろう.其の後に張角が黄天を称して乱を作り,竟に破壊された.[一]

[一]風俗通に曰く:「光和四年四月,南宮の中黄門寺に一男子が有った,長さ九尺,服は白衣であった.中黄門の解歩が呵して問うた:『汝は何の等人か?白衣で妄りに宮掖に入るとは.』曰く:『我は梁の伯夏の後(裔)である,天は我を使て天子と為さんと.』解歩は前にすすみ收取らんと欲したが,因って忽不見(忽然と見えなくなった).応劭曰く:尚書、春秋左伝に曰く,伯益が禹を佐けて治水し,梁に於いて封じられた.飂叔安には裔子が有った曰く董父である,実に甚だ龍を好み,龍は多くが之に帰したため,帝舜は之を嘉して,姓を賜り董氏としたのである.董氏之祖は,梁と焉<これ>同じく.光熹元年に到って,董卓が外より<自>入り,間に因って釁に乗じ,帝を廃し后を殺した,百官は己に總められ,号令すること自由であり,殺戮も前で決し,威が重いこと主に於けるようであった.梁本もと安定の(出身)であり,而して董卓は隴西の人で,倶に涼州であった也.天は戒め若いて曰く,卓不当專制奪矯,如白衣無宜蘭入宮也.白衣が黄門寺に見えたことは,董卓之末,中黄門は誅滅之際に及んだのをみると,事の類すること此の如くである,無かりしと謂う可けんや乎?」袁山松は曰く:「案ずるに張角は一時狡乱したが,此は大妖を致すには足りない,斯くは乃ち曹氏が漢を滅ぼしたという<之>徴<しるし>であろう也.」応劭が述べし所を案ずるに,志と或いは同じからざるものが有る,年月が舛異である,故に倶に焉を載せたのであろう.臣昭は注して曰く:檢観前通,各有未直.梁について尋ねてみるに即ち魏地之名である,伯夏が中夏に於けるのは明らかであって,溥天之称には非,内臣の孫を以ってして(夫)[未だ]王を称する得ない,これは徴驗には応ずるものが有ること,符契の若きものが有るということなのだ.復云うに「伯夏は我に天子と為るよう教えた」とのことだが,後に曹公曰く「若し天命が吾に在れば,吾は周の文王と為らん矣」とした,此は乃ち魏の文帝が我を受けて策を成し而して帝位に陟ったものである也.風俗通は云う「見中黄門寺曹騰之家」,其の證たることが尤見される.

二年,雒陽上西門の外で女子が兒を生んだ,両頭で,異肩共i,倶に前を向いていたため,以って不祥と為し,地に墮として之を棄てた.此より<自>の後には,朝廷が乱し,政が私門に在ることとなり,上下に別が無く,二頭之象のようになった.後に董卓が太后を戮すにあたり,不孝之名を以って被らせた,また天子を放りだして廃し,後に復た之を害した.漢元以来,禍が此れを踰えること莫かったのである.

四年,魏郡の男子の張博が鉄盧を送って太官に詣でると,張博は上書して室殿山居屋後宮禁,落屋讙呼.上は收め縛しめて考問したところ,辞すに「忽不自覚知」.[一]

-3348-

[一]臣昭曰く:魏人が入宮した,既に漢之徴を奪っていたのである,後宮に至って而して讙しく呼びつけた,終に亦禍が母后を廃したのである.

中平元年六月壬申,雒陽の男子である劉倉が上西門外に居った,妻が男を生んだところ,両頭共身であった.

靈帝の時,江夏の黄氏之母が,浴したところ而して化して黿と為り,深淵に<于>入り,其後も時に出見した.初め浴したおり一銀釵を簪していたが,(黿と為って)見えるに及んで,猶も其の首に在った.[一]

[一]臣昭曰く:黄とは<者>,代漢之色である.女人とは,臣妾之體である.化して黿と為ったとあるが,黿とは<者>元ということである也.深淵に<于>入りては,水は実<まこと>に火を制すものである.夫君の徳が尊陽なれば,利は九五に見え,飛んで天に<于>在れば,乃ち光盛を備える.俯等亀黿,有愧潛躍;首従戴釵,卑弱未尽.後帝者(三)[王],不專権極,天徳雖謝,蜀猶傍纘.推求斯異,女為曉著矣.

獻帝の初平中,長沙で姓を桓氏という人が有った,死んで,棺が斂められて月余し,其の母が棺の中に声を聞いたため,之を発(掘)したところ,遂に生きてでてきた.占に曰く:「陰に至れば陽と為る,下人が上と為ろう.」其の後曹公が庶士由<よ>起った.

建安四年二月,武陵の充県の女子李娥は,年六十余であり,物故したため,其の家の杉木を以ってして槥斂すると,城の外数里の上に於いて瘞した,已むこと十四日して,行くものが有って聞其の中に声が有るのを聞いたため,便じて其の家のものに語った.家のものが往きて視みて声を聞いたため,便じて発(掘)して出したところ,遂に活きかえったのである.[一]

[一]干寶の搜神記に曰く:「武陵の充県の女子である李娥は,年六十余であった,病死して,城外に於いて埋められること,已にして十四日となった.李娥の比舍に蔡仲というものが有った,李娥の富を聞いており,殯には当に金寶が有らん,盜発して棺を剖せんと謂った.斧が何度か下されると,棺中に於いて李娥は言いて曰く:『蔡仲,汝は我が頭を護れ.』驚き遽って,便じて出て走った.吏に見つかる所と為るに会し,遂に收治されて,法に依って当に棄市すべしとされた.李娥の兒が聞いて,来たりて李娥を迎え出すと将に去った.武陵太守は李娥が死してから復生きかえったと聞き,召して見えると事状を問うた.李娥は対して曰く:『司命が召した所を為して謬<あやま>ったと聞かされ,遣わされて出されること得るに到ったのです,西門を過ぎると,

-3349-

外兄の劉伯文に見えるに適い,為に相労問し,涕泣し悲しみ哀しんだ.李娥は語って曰く:「伯文よ,一日だけ誤って召されるに見えたが,今や遣わされ帰る得たのだが,既にして道を知らず,又独り行くこと能わず,我が為に一伴すること得られないだろうか<不>?又我は召されるに見えて此に在るが,已にして十余日となった,形體も又当に埋藏されるに見えただろう,帰らんとするに当に那得自出(どこから出ていったらいいだろうか)?」伯文曰く:「当に之に問うこと為さん.」即ち門卒と戸曹に遣わして相問わせた:「司命が一日誤って武陵の大女である李娥を召してしまった,今遣わされ還ること得られた.しかしわたくし娥は此に在って日を積んでしまい,尸喪も又当に殯斂されてしまっただろう,当作何等得出?又女は独り行くに弱し,豈に当に伴うこと有らんか邪?是吾が外妹なれば,幸いにも便じて之を安んずる為したい.」荅わせて曰く:「今武陵の西の男民である李黒が,亦遣わされ還ること得られたから,便じて伴と為す可し.」輒<すなわ>李黒に過ごすよう令し,娥比舍蔡仲,令発出娥也.是に於いて娥は遂に出ること得られ,伯文と別れることになった.伯文曰く:「一封を書し以って兒佗に与えん.」娥は遂に李黒と倶に帰ると,此の如き状を事えたのである.』太守は慨然として嘆じて曰く:『天下の事は真に知る可からざりき也!』乃ち表して以って為すに『蔡仲は発したと雖も,(それは)鬼神が為に使われし所であった,発(掘)すること無からんことを欲したとしても,勢いからして已むを得なかったろう.宜しくェ宥を加えるべきである.』詔書が報われ可とされた.太守は語の虚実を驗<あらた>めんと欲し,即ち西界に於いて馬吏を遣わして李黒が之を得たことを推問させた.李黒は語協(協力したと語ると),乃ち伯文の書を致して(兒)佗に与えた.兒佗は其の紙を識と,乃ち是父が亡くなった時に箱の中に送った文書であるといった也.表の文字が猶も在るや也,而して書は曉らかになる可からず(書を読むことができなかった).そこで乃ち費長房に請い之を読んでもらった,曰く:『佗に告ぐ:当に府君に従い案行に出るべし,当に八月八日の日中の時を以って,武陵城の南にある溝水が畔頓しようから,汝は是時には必ず往くように.』期に到ったため,悉く大小を将いて城南に於いて之を待った.須臾にして果たして至ったが,但だ人馬の隱隱とした<之>声を聞くのみであったため,溝水に詣でたところ,便じて呼びつける声が有るのを聞くことになった曰く:『佗が来た!汝は我が寄こせし所の李娥の書を得たのか不か邪?』曰く:『即ち之を得た,故に来たりて此に至るのだ.』伯文は以って次ぎに家中の大小を呼びつけて之を問いだし,悲しみ傷んで断絶した.曰く:『死と生とで路を異なって,何度も汝の消息を得ること能わない.吾が亡びし後は,兒孫乃爾許人!』良く久しく佗に謂いて曰く:『来春には大病があろう,此に一つの丸薬を与えよう,以って門戸に塗れば,則ち来年の妖獅辟すだろう矣.』言うと訖忽去(忽然と去っていき),竟<つい>に其形を見ること得なかった.春を前にするに至り,武陵では果たして大いに病があり,白日に鬼を見るようになった,唯伯文之家だけは,鬼が敢えて向かおうとしなかった.費長房は薬を視て曰く:『此方相臨也.』」博物記に曰く:「漢末に関中が大いに乱れると,前漢の宮人のを発(掘)した者が有ったが,宮人は猶も活きていた.既にして出てくると,平復すること舊の如しであった.魏の郭后が之を愛しがり念じ,宮内に録置すると,常に左右に在らせた.漢時の宮中の事を問うと,之を説(明)すること了了としており,皆次緒を有した.郭后が崩ずると,哭し泣き哀しみ過ぎて,遂に死んでしまった.漢末,范明友の奴を発(掘)したことがあったが,奴は猶も活きていた.明友は,霍光の女婿である.霍光の家の事を説(明)し,廃立之際のことについては,多くが漢書と相応じていた.此の奴は常に(且)[遊]走居民間(庶民の中に遊び走り居り),無(正)[止]住処(住む処を一つの所に止めなかったため),遂に所在が知られなくなってしまった.」

七年,越で男が化して女子と為ることが有った.時に周が上言し,哀帝の時にも亦此異が有ったが,将に易代之事が有らんとしたのだとした.至って二十五年,獻帝が山陽に<于>封じられた.

-3350-

建安中,女子が男を生んだが,両頭共身であった.

 

【疫】

安帝の元初六年夏四月,会稽で大疫があった.[一]

[一]公羊伝に曰く:「大災というのは<者>何であるか?大瘠である也.大瘠とは<者>何か?である也.」何休曰く:「民が疫に疾むや也,邪乱之気が生ずる所である.」古今注は曰く:「光武の建武十三年,揚徐部で大いに疫を疾み,会稽の江左がしかった.」伝を案ずるに,鍾離意が督郵と為った,建武十四年に会稽で大疫があったという.此を案ずるに則ち頻るこの歳なのであろう也.古今注は曰く:「二十六年,郡國七つで大疫があった.」

延光四年冬,京都で大疫があった.[一]

[一]張衡は明くる年に封事を上らせた:「臣が竊い見ますに京師が為害兼所及(為に害されて及ぶところ兼ねることとなり(害が重ねて及んだということか?)),民は多くが病死し,(上并猥)死有滅戸(死して戸が亡んだところも有るとか).人人は恐懼し,朝廷は燋心し,以って至憂を為すこととなりました.臣の官(職)は変や禳や災を考えるに於けるに在ります,思(在)[任]防救(変や禳や災を防ぎそれらから救うを任とすることを思うに),未だ由る所を知らず,夙夜に征営するしだいです.臣が聞きますには國之大事は祀に在るとか,祀では天を郊じ祖を奉ずるに於けるより大なるは莫いものです.今を方ますに道路流言(道々に流言がながれ),僉曰く『孝安皇帝が南巡すると路が崩れ,駕に従っていた左右行慝之臣は諸國王子を徴することを欲したため,故に喪を発せず,衣車は宮に還り,(優)[偽って]大臣を遣わし,並んで禱して命を請うた』とあります.臣は外官に処しており,其の審らかなるを知りませんが,然るに靈を尊び罔を見ながら,豈に能く怨みごとが無いということありましょうか!且つは凡(夫私)[大祀]小有不蠲,猶も譴を為すものです,況んや大穢を以ってして,禮を郊廟に用いんとてや?孔子曰く:『曾謂泰山不如林放乎!』天地が明察し,禍を降し災いを見えさせるのは,乃ち其の理です也.又間者,有司が正すに冬至之後を以ってして,奏開恭陵神道.陛下は至[孝]でありますから,逆を距<こば>むに忍び,或るいはを発(掘)して尸を移したのでしょう.月令では:『仲冬には土事は作すこと無からん,慎んで発蓋すること無からん,大を起てるに及んでは,以って固くし而して閉ざすべし.地気が上へ泄れる,是天地之房を発すと謂う,諸蟄が則ち死すから,[民は必ずや]疫(病)を疾<や>まん,又喪を以って隨うこととなろう.』とありますから視Cが未だ息せざるは,恐らく其れ殆んど此の二(年)[事]となるでしょう,欲使知過改悔(過ち知り悔い改めさせ使ことを欲します).五行は伝えて曰く:『六沴作見,若時共禦,帝用不差,神則不怒,五福乃降,用章于下.』臣が愚かしくも以って為すに公卿を使て議に処さし可きです,以って術陳べ過ち改めさせる所とし,媚や神や祇を取ることとすれば【a】,自ずから福多き求められましょう也.」

a】媚は魔術を行使する巫女のこと。或いは魔術的な儀式を施されて超越的存在として儀式に供される巫女のこと。神は天に属する精霊(カミ, super nature)。祇は地に属する精霊(カミ, super nature)。天神地祇という。

 

-3351-

桓帝の元嘉元年正月,京都で大疫があった.二月,九江、廬江でも又疫があった.

延熹四年正月,大疫があった.[一]

[一]太公の六韜に曰く:「人主が賦役を重くし,宮室を大きくし,臺遊を多くするのを好めば,則ち民に病温が多い也.」

靈帝の建寧四年三月,大疫があった.

熹平二年正月,大疫があった.

光和二年春,大疫があった.

五年二月,大疫があった.

中平二年正月,大疫があった.

獻帝の建安二十二年,大疫があった.[一]

[一]魏文帝は書して呉質に与えて曰く:「昔年疾疫があり,親故多離其災.」魏の陳思王は常に疫気のことを説いて云った:「家家には強尸之痛みが有り,室室には号泣之哀が有る,或るところは闔門して而して殪し,或るところは族を挙げて而して喪う者.」

 

【投蜺】

靈帝の光和元年六月丁丑,黒気が北宮の温明殿の東庭中に墮ちることが有った,黒きこと車蓋の如くして,起って(身を?)奮訊させた,身は五色,頭を有し,體長は十余丈,形貌は龍に似ていた.上が蔡邕に問われたところ,対して曰く:「所謂<いわゆる>天が投げうった蜺者なのでしょう也.足や尾が見えませんから,龍と称することを得ません.易は伝えて曰く:『蜺之比無徳,以色親也.』潛潭巴は曰く:『虹が出るのは,后妃が陰ながら王者を脅しているのである.』とあります又曰く:『五色が迭至して,

-3352-

宮殿を<于>照らすは,兵革之事有らん.』演孔図は曰く:『天子が外で兵に苦しみ,威が内で奪われ,臣に忠が無ければ,則ち天は蜺を投げいれる.』とか[一]変は空しからずして生ずるもの(変が生ずるには理由があり),占も空しからずして言うものです(占いでそうした言となるのは理由があるものです).」[二]是より先に皇后に何氏を立てたのだが,皇后が斉<斉戒>し,当に祖廟に謁す毎に,輒ち変異が有って謁すること得なかった.中平元年,黄巾賊の張角等が立つこと三十六方におよび,兵を起こして郡國を焼くと,山東の七州処処が張角に応じた.兵を遣わして外は張角等を討たせ,内は皇后の二兄を使て大いに兵を将統させた.其年,宮車が宴駕して,皇后が攝政し,二兄が秉権した.帝母の永樂后を譴讓すると,令して自殺させた.陰ながら并州牧の董卓呼びつけ中官共に誅そうと欲したが,中官が逆に大将軍の何進を殺し,兵が相攻め討ちあって,京都で戦った者が道を塞いた.皇太后母子は遂に太尉となった董卓等に廃黜される所と為り,皆死んだ.天下之敗れるや,兵が先ず宮省に於いて興り,外へむかい海内に延びること,二三十歳となったのだが,其の殃禍は何氏より<自>起こったのである.[三]

[一]案ずるに蔡邕集は称えて曰く:「演孔図に曰く:『蜺とは<者>,斗之精である也.失度投蜺見態,主が毀誉に於いて惑わされているのである.』合誠図曰:『天子が外で兵に苦しむということ<者>である也.』」

[二]蔡邕は対して又曰く:「意者陛下樞機之内,衽席之上,独有以色見進,陵尊踰制,以昭変象.若臣有所毀誉,聖意低迴,未知誰是.兵戎未息,威権漸移,忠言不聞,則虹蜺所在生也.抑内寵,任中正,決毀誉,分直邪,各得其所;勒守衛,整武備,威権之機不以假人,則其救也.」

[三]袁山松の書に曰く:「是年七月,虹晝が御坐から玉堂後殿の前の庭中に見えた,色は青赤である也.」