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後漢書志第十九

郡国一

河南、河内、河東、弘農、京兆、馮翊、扶風、

右(以上)が司隸である

漢書地理志は天下郡県の本末を記すが,それは山川の奇異に及び,風俗の由<ゆえん>とする所,にまで至る矣.今は但、中興以来の郡県の改異のみを記録し,春秋、三史が会同した征伐地名に及ぶことで,[一]以って郡国志と為そう.[二]凡そ前志に有る県名で,今載せない所の者は,皆世祖が併せ省いた所のものである也.前に無く今は有る者は,後に置かれた所である也.凡そ県名で(真っ)先に書かれる者は,郡が治める所である也.[三]

[一]臣昭案ずるに:志は猶も遺闕を有する,今書に載る所は,悉く記すことはできない.其の春秋土地,通儒が拠る所で而して未だ備えない者は,皆先ず列することにする焉.

[二]本志は唯郡県名のみが大書され,其山川地名は悉く細注と為っている,今進為して大字とする.新注證発するのは,臣劉昭が採集したものである.

[三]帝王世記に曰く:「自天地設闢(天地開闢より),未だ経界之制を有しない.三皇は尚ぶ矣.諸子は神農がこれ天下に王たるを称える也,地は東西九十万里,南北八十五万里.黄帝が受命するに及んで,始めて舟車を作り,以って不通を済したのである.乃ち推分星次し,以って律度を定めた.斗十一度から婺女七度に至る,一名に須女,曰星紀之次であり,辰に於いて丑に在る,之を謂うに赤奮若,律に於いて黄鍾を為す,斗建は子に在る,今の呉、越の分野である.婺女八度から危十六度に至る,曰玄枵之次である,一名に

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天黿,辰に於いて子<ね>に在る,之を謂うに困敦,律に於いて大呂を為す,斗建は丑に在る,今の斉の分野である.危十七度から奎四度に至る,曰豕韋之次である,一名に娵訾,辰に於いて亥に在る,之を謂うに大淵獻,律に於いては太蔟を為す,斗建は寅に在る,今の衛の分野である.奎五度より胃六度に至る,曰降婁之次である,辰に於いて戌に在り,之を謂うに閹茂,律に於いて夾鍾を為す,斗建は卯に在り,今の魯の分野である.自胃七度至畢十一度,曰大梁之次,辰に於いて酉に在り,之を謂うに作噩,律に於いて姑洗を為す,斗建は辰に在る,今の趙の分野である.自畢十二度至東井十五度,曰実沈之次,辰に於いて申に在り,之を謂うに涒灘,律に於いて中呂を為す,斗建は巳に在る,今の晋、魏の分野である.自井十六度至柳八度,曰鶉首之次,辰に於いて未に在り,之を謂うに洽,律に於いて蕤賓を為す,斗建は午に在り,今の秦の分野である.自柳九度至張十七度,曰鶉火之次,辰に於いて午に在り,之を謂うに敦牂,一名に大律,律に於いて林鍾を為す,斗建は未に在る,今の周の分野である.自張十八度至軫十一度,曰鶉尾之次,辰に於いて巳に在り,之を謂うに大荒落,律に於いて夷則を為す,斗建は申に在る,今の楚の分野である.自軫十二度至氐四度,曰壽星之次,辰に於いて辰に在る,之を謂うに執徐,律に於いて南呂を為す,斗建は酉に在る,今の韓の分野である.自氐五度至尾九度,曰大火之次,辰に於いて在卯,之を謂うに単閼,律に於いて無射を為す,斗建は戌に在る,今宋の分野である.尾十度より斗十度に至る百三十五分して而して終える,曰析木之次,辰に於いて寅に在る,之を謂うに攝提格,律に於いて応鍾を為す,斗建は亥に在る,今は燕の分野である.凡そ天は十二次を有する,日月がとする所である也;地は十二分を有す,王侯が国とする所である也.故に四方は七宿に方じられる,四七二十八宿である,合わせて百八十二星である.東方蒼龍三十二星,七十五度である;北方玄武三十五星,九十八度(四分度之一)である;西方白虎五十一星,八十度である;南方朱雀六十四星,百一十二度である.周天は三百六十五度四分度之一.一度は二千九百三十二里,分けて十二次を為す,一次は三十度三十二分度之十四,各々以って其の七宿閧附ける.距周天積百七万九百一十三里,徑三十五万六千九百七十一里.陽道は左行す,故に太歳は右轉す,凡そ中外官で常に明なる者は百二十四,可名者(名づけられるべきは)三百二十,合わせて二千五百星である.微星之数は,凡そ万一千五百二十星,万物が受ける所,咸系命焉.此は黄帝創制の大略である也.而して佗説は称するに日月が照らす所は三十五万里であるとのこと.諸子が載せる所を考えるに,神農の地は,日月之表を過ぎて,虚誕を為すに近づく.少昊氏の衰えるに及び,九黎乱徳,其制は聞くこと無し矣.洎顓頊が建てる所,帝嚳が受けて定めた,則ち孔子は称えて其地を北すれば幽陵に至り,南すれば交阯に暨し,西すれば流沙を蹈み,東すれば蟠木を極める,日月が照らす所,底とならざるは莫し焉,是は以って万国を建てて而して

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九州を制したのである.堯が洪水に遭うに至ると,分けて十二州を為したが,今の虞書(に書かれていること)が是である也.禹が水土を平らげるに及んで,九州を為すに還ったが,今の禹貢が是である也.是は其時を以って九州之地とした,凡そ二千四百三十万八千二十四頃,定墾者(開墾できた土地は)九百(一)[三]十万(八)[六]千二十四頃,不墾者(開墾されていない土地は)千五百万二千頃,民口数は千三百五十五万三千九百二十三人.至于塗山之会,諸侯は唐虞之盛んを承り,玉帛を執って亦た万国を有した.是が以って山海経が称えたところである禹が大章を使って東極から歩かせて,西垂に至らせた,二億三万三千五百里七十一歩.また豎亥を使って南極から歩かせて,北垂に於いて盡きさせること,二億三万三千五百里七十五歩.四海之内は,則ち東西二万八千里,南北二万六千里,出水するは八千里,受水するは八千里,[経]名山五千三百五十,(経)六万四千五十六里.銅を出す山は四百六十七,鉄を出す山は三千六百九.以って財用に供するに,儉(倹約)すれば則ち余り有り,奢れば則ち不足となる.男女を以って耕織,不奪其時,故に公家は有すること三十年之積,私家は有すること九年之儲け.夏の衰えるに及んで,棄稷弗務,有窮之乱,少康が中興して,乃ち禹に復した.孔甲之至桀行暴,諸侯相兼ね,逮湯受命,其能存者は三千余国,塗山に於いて方じたが,十にして損するは其七であった.民は毒政を離れて,将亦如之.殷は因るに夏に於いてから,六百余載,其閧フ損益,書策は存在せず,無以考之(そのため之を考じることはできない).又紂(王)の乱に遭い,周が商に剋つに至ると,五等之封を制すること,凡そ千七百七十三国,また湯(王)時には減って千三百となった矣.民之損,将亦如之.及び周公相成王,致治刑錯,民口は千三百七十一万四千九百二十三人,多くは禹の十六万一千人,周之極盛である也.其後七十余歳,天下は無事で,民彌以息(民はしばし息をついだ).昭王が南征して反らざるに及んで,穆王が失荒し,幽、飼V乱を以って加えると,平王が東遷して,三十余載,斉の桓公二年,周荘王の十三年に至って,五千里内に,天王九儐之御すもの非ず,世子公侯以下から庶民に於いて至るまで,凡そ千一百八十四万七千人,除有土老疾,定受田者は九百万四千人であった.其後諸侯が相并わせ,当に春秋の時(時代)となったが,尚も千二百国を有した.二百四十二年之中,君殺されること三十六,国亡ぶこと五十二,諸侯で奔走して保社稷を保ち得なかった者は,不可勝数(数えることができないほどであった).戦国において至るや,存する者は十余.是に於いて従横短長之説,時に於いて相奪い,残民詐力之兵,動以万計.故に崤には匹馬之禍が有り,宋には易子之急が有り,晋陽之(国)[圍],釜を懸けて而して炊く,長平之戦,血流が漂鹵した.周之列国は,唯、燕、衛、秦、楚が有るのみで而して已みなんとした.斉が三晋に及ぶと,皆以って簒乱することとなり,南面して王を称した.衛は存すること得ると雖も,不絶若.然るに蘇、張之説を考えると,秦及び山東六国に計ると,戎卒は尚も存すること五百余万,民口を推して数えると,尚当に千余万たるべきものであった.秦が諸侯を兼併するに及ぶと,

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三十六郡を置いたが,其の殺傷する所,三分して居ること二;猶も余力を以って,参夷之刑を行い,太半之賦を収め,北に長城を築くこと四十余万,南に五嶺を戍すること五十余万,阿房、驪山に七十余万,十余年閨C百姓は死沒し,路において相踵した.陳渉、項羽はまた其余烈を肆し,故に新安之坑をして,二十余万,彭城之戦では,睢水が流れなかった.漢祖が天下を定めるに至ったが,民之死傷するは,亦た数百万であった.是は以って平城之卒をして,三十万を過ぎず,之を六国に方ずるに,五損すること其二であった.孝恵(帝)より文、景(帝)に至るまで,民に休息を与えること,六十余歳,民大いに増えた,是が太倉を以て不食之粟を有らしめることとなり,都内には朽貫之錢が有ることとなった.武帝は其の資畜に乗じて,軍征すること三十余歳,地は万里に広がり,之を天下とすることになった(しかし)亦た半ばに減ずることとなった矣.霍光が秉政するに及ぶと,乃ち役を省くことに務めたため,孝平(帝?年間?)に至ると,六世が相承することとなった,時に征(遠征、征伐)が行われると雖も,大害となるには足らず,民戸はまた息をついたのである.元始二年,郡、国は百三,県、邑は千(四)[五]百八十七,地は東西に九千三百二里,南北に万三千三百六十八里,定められた墾田は八百二十七万五百三十六頃,民戸は千三百二十三万三千六百一十二,口数は五千九百一十九万四千九百七十八人となり,周の成王のときの四千五百四十八万五十五人よりはるかに多くなり,漢之極盛となった也.及んで王莽が簒位し,続いて以って更始、赤眉之乱となり,光武が中興するに至ると,百姓は虚耗(消耗)して,十有るなかで二が存するていどにまでなってしまった.中元二年,民戸は四百二十七万千六百三十四,口数は(三)[二]千一百万七千八百二十人.永平、建初之際には,天下は無事であったため,務めて養民在ることとした,孝和において迄,民戸は滋だ殖えた.及んで孝安の永初、元初之閧ノは,兵が飢えて苦しんだため,民人が復た損なわれた.孝桓に至って,頗る前より増した.永壽二年,戸数は千六百七万九百六,口数は五千六万六千八百五十六人,墾田も亦た多く,単師屢征であった(備えられた師旅もわずかで征伐もそうそう行われなかった).及んで靈帝が黄巾に遭い,獻帝が即位して而して董卓が乱を興し,宮廟を大いに焚き,御を劫して西遷した,京師は蕭條して,豪桀が並び争うと,郭、李傕之属は,残害すること又甚しかった,是が以って興平、建安之際となると,海内は凶荒し,天子は奔流し,白骨が野に盈<み>ち,故に陝津之難には,以って撮指を箕することとなり,安邑之東では,后裳が完うしないこととなり,遂に寇戎されること有って,雄雌未だ定まらず,庶民を割剥すること,三十余年にもなった.及んで魏武皇帝が天下を剋ち平らげ,文帝が(授)[受]禪すると,人之損は,万に一存有る程度となった.景元四年,蜀とあわせて通計した民戸は九十四万三千四百二十三,口数は五百三十七万二千八百九十一人.また案ずるに正始五年,揚威将軍朱照日くして上する所で呉之所領する兵戸は凡そ十三万二千,其民数を推すに,能く蜀に(くらべても)多からず矣.昔漢の永和五年には,南陽の戸数は五十余万,汝南の戸数は四十余万,之を方ずるに今に於いてや,三帝が鼎足すると,二郡を踰えず,加有食祿復除之民,凶年飢疾之難があり,役を供することが出来ると見ると,裁くこと若し一郡.以って一郡之人は,三帝之用に供されて,斯くは亦た勤めることとなった矣.禹から今に至るまで二千余載,

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六代が損益し,備えること茲に於いてであった焉.」臣昭が案ずるに:謐記が云うには春秋の時には千二百国が有り,未だ出る所を知らないとのことであった.班固が云うには周之始め,爵は五つ而して土は三つ,蓋し千八百国であった.転じて相呑滅して,数百年閨C列国は耗盡してきたが,春秋の時に至って,尚も数十を有した.

河南尹秦の三川郡である,高帝が更名した.世祖が洛陽を都とした,建武十五年に改めて曰く河南尹とした.[一]二十一城,永和五年の戸数は二十万八千四百八十六,口数は百一万八百二十七.

[一]応劭の漢官に曰く:「尹とは,正である也.郡府聴事壁諸尹畫贊,肇自建武,訖于陽嘉,注其清濁進退,所謂不隠過,不虚譽,甚得述事之実.後人是瞻,足以勸懼,雖春秋采毫毛之善,罰纖釐之悪,不避王公,無以過此,尤著明也.」

洛陽[一]周時には成周と号した.[二]狄泉が有る,城中に在る.[三]唐聚が有る.[四]上程聚が有る.[五]士郷聚が有る.[六]褚氏聚が有る.[七]榮リが有る[八]前亭が有る.[九]圉郷が有る.[一0]大解城が有る.[一一]/河南[一二]周公の時に城とした所で雒邑である也,春秋時は之を謂うに王城とした.[一三]東城門は名を鼎門,[一四]北城門は名を乾祭.[一五]また甘城が有る,[一六]蒯郷が有る.[一七]/は故は国である,伯翳の後である.[一八]霍陽山を有す.[一九]注城を有す.[二0]/熒陽には鴻溝水が有る.[二一]廣武城が有る.[二二]亭が有る,叔国である.隴城が有る.[二三]薄亭が有る.敖亭が有る.[二四](費)[熒]澤が有る.[二五]/[二六]には長城が有る,陽武を経て密に至る.[二七]垣雝城が有る,或いは曰く古衡雍である.[二八]扈城亭が有る.[二九]/原武/陽武[三0]/中牟[三一]圃田澤が有る.[三二]清口水が有る.[三三]管城が有る.[三四]曲遇聚が有る.[三五]蔡亭が有る./開封[三六]/菀陵には棐林が有る.[三七]

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制澤が有る.[三八]瑣侯亭が有る.[三九]/平陰/穀城ここからは瀍水が出ている.[四0]函谷関が有る.[四一]/緱氏[四二]鄔聚が有る.[四三]轘轅関が有る.[四四]/[四五]には尋谷水が有る.[四六]東訾聚が有る,今の名では訾城である.[四七]坎埳聚が有る.[四八]黄亭が有る.湟水が有る.[四九]明谿泉が有る.[五0]/成睪[五一]ここには旃然水が有る.[五二]瓶丘聚が有る.漫水が有る.水が有る.[五三]/[五四]/[五五]には大騩山が有る.[五六]梅山が有る.[五七]陘山が有る.[五八]/新城[五九]ここには高都城が有る.[六0]廣成聚が有る.[六一]鄤聚が有る,古の鄤氏であり,今の名では蠻中である.[六二]/匽師[六三]ここには尸郷が有る,[六四]春秋時には曰く尸氏であった.[六五]/新鄭は詩でいう鄭国,祝融墟である.[六六]//(?以上21城)

[一]摯虞曰く:「古の周南とは,今の洛陽である.」魏氏春秋に曰く:「委粟山が有り,陰郷が在る,魏の時に圓丘を営為した.」皇覽に曰く:「県東北山萇弘,県北芒山道西呂不韋.」

[二]公羊伝に曰く:「成周とは何か?東周である也.」何休は曰く:「周の道は成に始まる,王の都とした所である也.」帝王世記に曰く:「城は東西に六里十一歩,南北に九里一百歩.」晋元康の地道記に曰く:「城内は南北九里七十歩,東西六里十歩,地を為すこと三百(里)[頃]一十二畝有三十六歩.城の東北の隅に周威烈王がある.」

[三]左伝の僖二十九年に「盟于狄泉」とある,杜預曰く城の内に太倉があり西南に池水がある.或いは曰く本は城外に在った,定元年に成周を城とする(に城を築く)と乃ち之を繞いた.案ずるに:此水は晋の時には東(官)[宮]の西北に在った.帝王世記に曰く:「狄泉は本は殷之墓地である,成周の東北に在った,今城中に殷王が有るが是である也.又太倉の中に大がある,周の景王のものであるという也.」

[四]左伝で昭二十三年に「尹辛が劉師に唐にて敗れた」.

[五]古程国,史記に曰く重黎之後,伯休甫之国である也.関中更有程地.帝王世記に曰く「文王は程に居ったが,都を豊に徙した」,故に此が加為して上程となるのである.

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[六]馮異斬武勃(也)[地].

[七]左伝で昭二十六年「王宿褚氏」とある,杜預曰く県南に褚氏亭が有る.

[八]左伝で周の景王は「榮リ氏にて崩じた」とある,杜預曰く鞏県の西である.

[九]杜預曰く県の西南に泉亭が有る.即ち泉戎である也.

[一0]左伝昭二十二年に単氏が「東して圉を伐した」とある,杜預曰く県の東南に圉郷が有る.又西南に戎城が有る,伊雒之戎である.

[一一]左伝の昭二十三年に晋師が解にて次した,杜預曰く県西南に大解、小解が有る.

[一二]帝王世記に曰く:「城の西に郟鄏陌が有る,太康畋于有之表,今は河之南である.」本伝では(員)[負]犢山が有るとする.

[一三]鄭玄の詩譜に曰く:「周公は攝政すること五年,成王は雒邑に宅し,邵公を使って先ず相宅させた,既に成ると,之を王城と謂った.」博物記に曰く:「王城は万七百二十丈,郛方(七)[一]十里,南は水を望み,北は陝山に至る.」地道記に曰く雒城を去ること四十里.左伝で定八年に「単子が穀城を伐した」とある,杜預曰く県の西に在る.

[一四]帝王世記に曰く:「東南門は九鼎が従い入った所である.」又曰く:「武王は鼎を洛陽西南に定めたが,雒水の北にある鼎中観が是である也.」

[一五]左伝昭二十四年「士伯が乾祭に於いて立った」.皇覽に曰く:「城の西南に柏亭があり西周山上に周靈王がある,民は之を祠って絶やさなかった.」

[一六]杜預曰く県西南に甘泉が有る.

[一七]左伝では昭二十三年に尹辛が蒯を攻めたとある.晋地道記に曰く:「県西南に在る,蒯亭が有る.」

[一八]陽人聚が有る.史記に曰く:「秦が東周を滅ぼしたが,其祀を絶やさず,陽人の地を以って[周君に賜った].」

[一九]左伝哀四年「楚為一昔之期,襲梁及霍」.

[二0]史記に曰く魏の文侯は(四)[三]十二年に秦に注にて敗れた.博物記に曰く:「梁伯は土功を好んだ,今梁には多く城が有る.」

[二一]文穎曰く:「熒陽に於いて河を東南に下引して鴻溝を為した,即ち官度水である也.」

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[二二]西征記に曰く:「三皇山が有る,或いは三室山と謂う.山上には二城が有る,東のものは曰く東廣武,西のものは曰く西廣武といい,それぞれ山一頭に在る,相去ること二百余歩,其閧ヘ深澗に隔てられている,漢祖が項籍と語った処である.」

[二三]左伝文(三)[二]年「垂隴にて盟す」.

[二四]周宣王が敖にて狩した.左伝宣十二年「晋師が敖、鄗之閧ノ在った」.秦が立てて敖倉を為した.

[二五]左伝で宣十二年に楚の潘黨が魏のリ及び熒を逐った,杜預曰く県東にある熒澤である也.

[二六]左伝で成十年に晋鄭が脩澤で盟した,杜預曰く県東に脩武亭が有る.

[二七]史記には蘇秦が襄王を説いて曰く:「大王之地は,西は長城之界を有しています.」

[二八]史記で忌が魏王に謂いて曰く:「王は鄭地を有していますから,垣<つね>に雍することができます」者也.杜預曰く即ち是が衡雍である.また今は県の治所となっている城である.

[二九]左伝で荘二十三年「扈にて盟す」,杜預曰く県の西北に在る.

[三0]武彊城が有る.史記に曰く曹参が武彊を攻めた.秦始皇が東遊して陽武の博浪沙中に至ると,盜を為す所となり驚いた.

[三一]左伝で宣元年に諸侯が鄭を救い,北林にて遇った,杜預曰く県の西南に林亭が有る,鄭の北に在る.

[三二]左伝に曰く原圃.爾雅の十藪に,鄭には圃田が有る.

[三三]左伝で閔二年に清にて遇うとある,杜預曰く県には清陽亭が有る.

[三四]杜預曰く管国である也,京県東北に在る.漢書音義に曰:「故の管叔邑である.」

[三五]前書に曹参が楊熊を破ったとある.

[三六]左伝で哀十四年に「逢澤有介麋」,杜預曰く県東北に在るが,遠いため,[非ざること]ではないかと疑うものである.徐廣曰く逢池である也.

[三七]左伝で宣元年に諸侯が棐林にて会した,杜預曰く県東[南]に林郷が有る.徐斉民の北征記に曰く:「県の東南に大隧澗が有る,鄭の荘公が闕<か>いた所である.また大城

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は東に濮水を臨む,水は東して溱水が洧にて注ぐ,城の西に洧水を臨む.」

[三八]左伝で(宣)[成]十[六]年に諸侯が制田に於いて遷ったとある,杜預曰く県東に制(城)[澤]が有る.

[三九]左伝の襄十一年に諸侯之師が瑣にて次した,杜預曰く県東に瑣侯亭が有る.

[四0]博物記に曰く:「出潛亭山.」

[四一]西征記に曰く:「函谷の左右は絶岸すること十丈,中容車而已.」

[四二]左伝に曰く呂相が秦伯を絶った,「我が費、滑を殄滅せり」,杜預曰く滑国は費に於いて都とした,今の緱氏県である.本紀を案ずると,県には百坏山が有る.干寶の搜神記に曰く:「県には延壽城が有る.」

[四三]左伝で王が鄔、劉を取ったとある,杜預曰く鄔は県の西南に有る.

[四四]瓚に曰く:「險は道の名である,県の東南に在る.」

[四五]鞏伯国である.左伝に曰く「商湯には景亳之命が有る」,杜預曰く県の西南に湯亭が有る.帝王世記に曰く:「湯亭は偃師に[在る].」又曰く:「夏太康五弟,須于雒汭,在県東北三十里.」

[四六]左伝で昭二十三年に王師、晋師が鄩中を圍んだとある.史記(曰)張儀が[曰く]「下兵三川,塞什谷之口」,徐廣曰く県には尋口が有る.

[四七]左伝で昭二十三年「単子取訾」,杜預曰く県の西南に在る.晋地道記に曰く県之東に在る.

[四八]左(氏)[伝],周の襄王が出ると,国人が之を坎埳に納れた,杜預曰く県の東に在る.地道記では南に在るとする.

[四九]左伝で昭二十二年に「王子猛が皇にて居した」,杜預曰く黄亭が有る,県の西(北)[南]に在る.

[五0]左伝で昭二十(三)[二]年「賈辛軍于谿泉」.

[五一]史記に曰く,成睾の北門の名が(王)[玉]門である.左伝「燕師を北制にて破った」とある.杜預曰く「北制は,一名に虎牢という」,亦た即ち此県であろう也.穆天子伝に曰く:

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「七萃之士が,虎を生け搏って而して天子に献じた,命為柙,而して之を東に畜した,是が曰く虎牢である.」左伝に曰く鄭子皮が晋の韓宣子を索氏にて労った,杜預曰く県東に大索城が有る.尚書の禹貢に「至于大岯」とある,張揖は成睾の県山であると云う.また旋門が有る,県の西南十里である,東京賦(曰)に見える.

[五二]左伝に襄十八年に楚が鄭を伐し,次いで旃然したとある.

[五三]左伝に曰く周の襄王が鄭地にを処した.

[五四]鄭の共叔が居した所である,左伝が云うには「之を謂うに京城大叔」.応劭曰く:「索亭が有る.楚漢が京、索で戦ったものである.」北征記はまた索水が有るとする.

[五五]春秋時には曰く新城とされた,伝は曰く新密とする.僖六年に諸侯が新城を圍<かこ>んだとある,杜預曰く一名は密県である.

[五六]山海経に曰く:「大騩之山,其陰には鉄が多い,美堊が多い.草が有る焉,状は蓍にして而して毛の如し,青い華で而して白い実である,其の名を曰く()[]といい,服すれば夭せず.」

[五七]左伝に曰く襄十八年に楚が鄭を伐し,梅山を右に迴ったとある,(その梅山は)県の西北に在る.

[五八]史記に魏が襄王六年に楚を伐したが,之に陘山で敗れた.秦が魏を華陽で破ったとあるが,地は亦た(この)県に在る.杜預は遺令して曰く:「山上にが有る,或いは曰く子産,邪東北向新鄭城,本を忘れてはならない也.」

[五九]左伝に曰く文十七年に周が戎に邥垂にて敗れたとある,杜預曰く県の北に垂亭が有る.史記では秦が周公を西に遷すこと狐に於いてとしたとある,徐廣に曰く「陽人聚と相近い,洛陽の南百五十里のところ梁、新城之閧ノ在る」.

[六0]史記で蘇代が韓の相国に説いて以って都を周のものとおなじくらい高くさせた.

[六一]廣成菀が有る.

[六二]左伝で昭十六年に楚が鄤子を殺したとある,杜預曰く県の東南に蠻城が有る.また祭遵が張満を獲たものである也.

[六三]帝王世記に曰く:「帝嚳が都とした所,殷の盤庚が復た南に亳したが,是が西亳と為った.」皇覽に曰く「北に睾繇祠が有る」,又曰く「湯亭が有り,湯祠が有る」.

[六四]帝王世記に曰く:「尸郷は県の西二十里に在る.」

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[六五]左伝で昭二十六年に劉人が子朝之師に尸氏にて敗れたとある.前書で田横が自殺した処である.

[六六]皇甫謐は曰く:「古には熊国が有った,黄帝が都とした所である.」

河内郡高帝が置いた.洛陽から北へ百二十里である.十八城,戸数は十五万九千七百七十,口数は八十万一千五百五十八.

には隰城が有る.[一]/河陽[二]には湛城が有る./[三]原郷が有る.[四]湨梁が有る.[五]/には絺城が有る.[六]/沁水[七]/野王には太行山が有る.[八]射犬聚が有る.[九]邘城が有る.[一0]/は蘇子が都とした所である.濟水が出るところだが,王莽の時に大旱あって,遂に枯れて絶えた.[一一]//平睾には邢丘が有る,故の邢国で,周公の子が封じられた所である.[一二]李城が有る.[一三]/山陽は邑である.雍城が有る.[一四]蔡城が有る.[一五]/武徳/獲嘉は侯国である./脩武は故の南陽である,秦の始皇が更名した.南陽城が有る,[一六]陽樊、攢茅田がある.[一七]小脩武聚が有る.[一八]隤城が有る.[一九]は本々は国であった.淇水が出ている.[二0]汎亭が有る.[二一]/[二二]/朝歌[二三]は紂が都居した所で,[二四]南に牧野が有り,[二五]北に邶国が有る,南に寧郷が有る.[二六]/蕩陰には羑里城が有る.[二七]/林慮は故の隆慮である,殤帝が改めた.鉄を有する.[二八]/(以上十八城)

[一]左伝に曰く王が鄭の隰城を取ったとある,杜預曰く県西南に在る.伝にまた曰く卻が至って周と鄇田を争ったとある,杜預曰く県西南に鄇人亭が在る.

[二]左伝に曰く王が鄭と盟した,杜預曰く県の南が孟津である.

[三]左伝に曰く王以蘇忿生田向與鄭,杜預曰く県西北の地の名が向上である.

[四]左伝に曰く王は鄭に原を与えた,杜預曰く沁水の西北に原城が在る.

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[五]左伝に曰く襄十六年に諸侯が湨梁で会した.

[六]左伝に曰く王は鄭に絺を与えたとある,杜預曰く野王県の西南に在る.

[七]山海経では曰く沁水は井陘東に出る.

[八]山海経は曰く:「其上は金玉を有し,下は碧を有する.獣が有る焉,其状は麋の如きで而して四角,馬の尾に而して距を有する,其名は曰く驒還である.」酈食其が説いて曰く「杜太行之道」,韋昭曰く県北に在る.

[九]世祖が青犢を破った也.

[一0]史記に曰く紂(王)は文王、九侯、鄂侯を以って三公と為した,徐廣は曰く「鄂」は一つには「邘」と作る.武王の子の封(地)は県西北に在る.

[一一]皇覽に曰く:「県は東に濟水を郭し南にを有する.」

[一二]臣瓚に曰く:「丘名である也,国に非ず,襄国の西に在る.」

[一三]史記に曰く邯鄲李同秦兵,趙は其の父李侯を封じた,徐廣曰く即ち此の城である.

[一四]杜預曰く古の雍国で,県の西に在る.

[一五]蔡叔(の)邑が此である,猶鄭の管城の類であろうか乎?

[一六]左伝で僖四年に晋文公が南陽を圍んだとある.史記に曰く:「白起が韓の南陽を攻め,太行道絶之.」山海経は曰く:「太行之山は,清水が出る焉.」郭璞曰く:「脩武県の北の黒山が亦た清水を出す.」

[一七]服虔曰く:「樊仲山の居する所で,故の名は陽樊である.」杜預曰く県の西北に()[攢]城が有る.左伝に曰く定元年に魏獻子が大陸で田<かり>したとある,杜預曰く西北は呉澤也.

[一八]春秋は曰く寧とする.史記に曰く高祖は韓信の軍を小脩武で得た,晋灼は曰く(小脩武は)城の東に在る.

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[一九]左伝で隠十一年に「隤を以って鄭に与える」.

[二0]前志注に曰く水が北山に出る.博物記に曰く:「奧水が有る,淇水に流入する,穀|草が有る.」

[二一]凡伯邑である.

[二二]晋地道記に曰く銅関が有る.

[二三]鹿腹山が有る.

[二四]帝王世記は曰く紂(王)の糟丘、酒池、肉林は城西に在ったとする.前書注に曰く鹿台は城中に在った.

[二五]県を去ること十七里.

[二六]史記で旡忌が魏の安僖王に説いて曰く「通韓上黨於共寧」,徐廣曰く寧郷が有る.左伝に曰く襄二十三年「救晋,次雍榆」,杜預曰く県東に有る雍城が是である也.

[二七]韋昭曰く:「羑の音は酉.文王が拘(束に)処された所である.」

[二八]徐廣曰く:「洹水が出る所である.蘇秦が諸侯を合わせて盟した処である.」班叔皮の遊居賦に亦た曰く「漱余馬乎洹泉,嗟西伯於牖城」.

河東郡秦が置いた,洛陽から西北へ五百里である.[一]二十城,戸数は九万三千五百四十三,口数は五十七万八百三.

[一]博物記に曰く:「山澤の近くに塩が有る.沃土之民というものは不才である(才能のある人物がいないものである),漢が興ってから名を有する人は少ない,衣冠を大いにしても三世となれば皆衰絶している也.」

安邑[一]には鉄が有る,塩池が有る.[二/]には高梁亭が有る.[三]/平陽は侯国である.[四]鉄が有る.堯が都したのが此である.[五]/臨汾[六]には董亭が有る.[七]/汾陰[八]には介山が有る.[九]/には雷首山が有る.[一0]沙丘亭が有る.[一一]/大陽には呉山が有る,上は虞城を有し,[一二]下に陽城が有る,[一三]茅津が有る.[一四]顛軨

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が有る[一五]/[一六]には桑泉城が有る.[一七]臼城が有る.[一八]解城が有る.[一九]瑕城が有る.[二0]/皮氏には耿郷が有る.[二一]鉄が有る.冀亭が有る.[二二]/聞喜は邑である,[二三]本は曲沃であった.[二四]董池陂が有る,古の董澤である.[二五]稷山亭が有る.[二六]涑水が有る.[二七]洮水が有る./は邑である.[二八]翼城が有る.[二九]/永安は故の彘である,[三0]陽嘉二年に更名した.[三一]霍大山が有る.[三二]/河北は詩(に謳われている)魏国である.韓亭が有る./猗氏[三三]/には王屋山が有り,兗水が出ている.[三四]壺丘亭が有る.[三五]邵亭が有る.[三六]/襄陵[三七]/北屈[三八]には壺口山が有る.[三九]采桑津が有る.[四0]/蒲子[四一]/濩澤は侯国である.(祁)[析]城山が有る.[四二]/端氏[四三]

[一]帝王世記に曰く:「県の西に鳴條陌が有る.湯が桀を伐し,昆吾亭で戦った.左伝では昆吾は桀と同じ日に亡んだとある.」地道記では[巫]咸山が南に在るという.

[二]前志に曰く池が県の西南に在る.魏都賦注に曰く猗氏六十四里に在る.楊佺期の洛陽記に曰く:「河東の塩池は長さ七十里,廣さ七里,水気は紫色である.別に御塩が有り,四面に刻むこと印齒文章の如し,字は妙なるもので述べることは出来ない.」

[三]左伝に曰く僖(九)[二十四]年に晋の懐公が高梁で死んだとある,杜預曰く県の西南に在る.地道記では梁城が有るという,県を去ること五十里,叔嚮邑である也.

[四]左伝に曰く成七年に諸侯が馬陵で盟した,杜預曰く地である也,平陽の東南の地名が馬陵である.た説くに魏郡の元城が在ったとする.

[五]晋地道記に曰く堯城が有る.

[六]博物記に曰く賈郷が有る,賈伯の邑である.

[七]左伝に曰く晋が董にて蒐を改めたとある,杜預曰く県には董亭が有る.

[八]博物記に曰く:「古之綸で,少康の邑である.」

[九]県の西北に狐谷亭が有る.郭璞が爾雅に注して曰く:「県に水口が有る,車輪なること許の如し,濆沸涌出し,其の深さは無限,之を名づけて瀵と為した.」

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[一0]史記に曰く趙盾が首山で田<かり>して,桑下に憩いだ,有餓人祇彌明.県の南二十里に歴山が有る,舜が耕処した所である.また伯夷、叔斉が首陽山に於いて隠れた,馬融曰く(その場所は)蒲華山の北に在る,河曲の中である.

[一一]左伝に曰く文十二年に秦晋が河曲で戦った,杜預曰く県南に在る.湯が桀を伐したとされるのは,孔安国が曰く河曲之南である.

[一二]杜預曰く虞国である也.帝王世記に曰く:「舜は虞にて嬪した,虞城が是である也.」亦た謂うに呉城であると,史記で秦の昭王が魏を伐して呉城を取ったとあるが,即ち此の城である也.皇覽に曰く:「盜跖臨河[曲].」博物記に曰く傅巖在県北.

[一三]邑である,左伝で僖二年に虞、晋に滅ぼされた所である.県の東北三十里にある.

[一四]左伝に曰く「秦が晋を伐し,遂に茅津から濟した」,杜預曰く県の西に在る.南には茅亭が有る,即ち茅戎である.

[一五]左伝に曰く「顛軨から入った」.博物記に曰く県の塩池の東に在る,呉城之北で,今之呉である.杜預曰く県の東北に在る.

[一六]左伝に曰く咎犯與秦晋大夫盟於郇,杜預曰く県西北有郇城.博物記に曰く有智邑.

[一七]左伝で僖二十四年に晋の文公が桑泉に入ったとある,杜預曰く県の西二十里に在る.

[一八]左伝に曰く晋の文公が臼衰者を入って取った也.杜預曰く県の東南に在る.博物記に曰く:「臼季の邑である.県の西北が卑耳山である.県の西南には斉の桓公が西伐して登った所がある.」

[一九]左伝で僖十五年に晋侯が秦に賂し,内すると及んで梁城を解いたとある.

[二0]左伝で文十二年に秦が晋及び瑕を侵したとある,杜預曰く猗氏県東北に瑕城が在る.

[二一]尚書に祖乙徙耿とある.左伝で閔元年に晋が耿を滅ぼしたとある,杜預曰く県の東南に耿郷が有る.博物記に曰く耿城が有る.

[二二]左伝の僖二年に,晋の荀息が曰く「冀は不道を為した」,杜預曰く国,県の東北に在る.史記では蘇代が燕王を説いて曰く「下南陽,封冀.」

[二三]博物記に曰く県治涑之川.史記に曰く韓を伐して乾河に到る.郭璞曰く:「県の東北に乾河口が有る,但し故の溝処が有るのみで,無復水(水は存在しない).」左伝に曰く僖三十

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一年に「晋蒐清原」,杜預曰く県北に在る.

[二四]曲沃県の東北数里に在る,晋と相去ること六七百里である.毛詩譜注に見える.

[二五]左伝に曰く「改蒐于董」,「董澤之蒲」.

[二六]県の西五十里である.左伝に曰く宣十五年に「晋侯が稷にて兵を治めた」とある.

[二七]左伝に呂相絶秦,曰く「我が涑川を伐す」.

[二八]県西に絳邑城が有る,杜預曰く故の絳である也.

[二九]左伝の隠五年に曲沃が翼を伐したとある,杜預曰く県の東八十里に在る.

[三0]史記に曰く周の穆王が封造父趙城,徐廣曰く永安に在る.博物記に曰く呂郷が有る,呂甥の邑である也.

[三一]杜預曰く県東北有彘城.

[三二]爾雅に曰く:「西南之美とは,霍山に多くの珠玉が有ることである焉.」左伝に曰く閔元年に晋が霍を滅ぼした,杜預曰く「県の東北に霍大山が有る」.史記に曰く原過受神人書,称するに「余霍大山山陽侯天吏也」.又蜚廉於山得石,仍葬也.

[三三]地道記に曰く:「左伝で文十三年『・嘉処瑕』とあるが,県の東北に在る.」

[三四]史記に曰く:「魏の武侯二年,王垣に城する.」博物記に曰く:「山は東に在り,状は垣の如きである.」

[三五]左伝で襄元年に晋が宋の五大夫を討った,ゥ諸瓠丘,杜預曰く県東南に壺丘亭が有る.

[三六]博物記に曰く:「県の東九十里に郫邵之阨が有る,賈季が公子楽を陳にて迎え,趙孟が諸郫邵を殺したものである.」

[三七]晋地道記に曰く晋の武公が曲沃[自<から>]此に徙った.

[三八]左伝に曰く「二屈」,杜預曰く「二」は当に「北」と為すべきである.伝に曰く「屈産之乗」とある,駿馬を有する.

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[三九]禹貢に曰く:「壺口は梁及び岐を治める.」

[四0]左伝で僖八年に晋が狄に采桑にて敗れた,杜預曰く県の西南に采桑津が有る.

[四一]左伝に曰く晋の文公は蒲城に居ったとある,杜預曰く今の蒲子県である.

[四二]前志に曰く県西南に在る.

[四三]史記に曰く,趙、韓、魏が晋を分け,晋の端氏を封じた.

弘農郡武帝が置いた.其二県は,建武十五年に属したものである.洛陽の西南へ四百五十里である.九城,戸数は四万六千八百一十五,口数は十九万九千一百一十三.

弘農は故の秦の函谷関で,[一]燭水が出ている.[二]枯樅山が有る.[三]桃丘聚が有る,故の桃林である.[四]務郷が有る.[五]曹陽亭が有る.[六]/[七]は本<もともと>は仲国であった.[八]焦城が有る.[九]陝陌が有る.[一0]/黽池ここから穀水が出る.[一一]二崤が有る./新安ここから水が出る.[一二]/宜陽[一三]/陸渾は西に略地が有る.[一四]/盧氏には熊耳山が有る,[一五]伊水、清水が出ている.[一六]/は故は京兆に属した.[一七]閺郷が有る.[一八]/華陰は故は京兆に属した.[一九]太華山が有る.[二0](以上九城である)

[一]左伝に曰く「公が戎に桑田にて敗れた」,杜預曰く県の東北に桑田亭が在る.

[二]前志は(衡)[衙](山)嶺下谷から出ているとする.

[三]本伝に赤眉は鄭北に於いて盆子を立てた,古今注は曰く此の山の下に在るとする.

[四]左伝に曰く桃林之塞を守る,博物記に曰く湖県に休與之山が在る.

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[五]赤眉が李松を破った処である.

[六]史記に曰く,章邯が周章を曹陽にて殺すとある,晋灼は曰く(その場所は)県の東十三里である.また獻帝が東帰して敗れた処は,曹公が改めて曰く好陽としたところである.

[七]史記に曰く:「陝より以西は,邵公が之を主<つかさど>った;陝より以東は,周公が之を主<つかさど>った.」

[八]杜預曰くは上陽を都とした,県の東 [南] に在る.城が有る.

[九]故の焦国である,史記に曰く武王が神農之後(後裔)を焦に於いて封じたとある.

[一0]博物記:「二伯が分けた所である.」

[一一]前志に曰く穀陽谷を出る.

[一二]博物記に曰く:「西(の)漢水は新安を出て雒に入る.」また孝水が有る,潘岳西征賦に見える.

[一三]金門山が有る,山竹が律管を為している.

[一四]左伝で僖十五年に晋侯が秦に賂した,東盡略,杜預曰く河が曲がるに従い南に行き,而して東して盡きれば故のである

[一五]山海経に曰く:「其上は漆が多い,其上はが多い.浮豪之水が出ており焉,西北に流れてに注ぐ,其中には美玉が多い,人魚が多い.」

[一六]晋地道記:「伊の東北で雒に入る.」

[一七]前志では鼎湖が有るとする.

[一八]皇覽に曰く:「戻太子が南出し,葬られたところは闅郷の南に在る.」秦はまた改めて曰く寧秦とした.

[一九]史記に曰く魏の文侯三十六年に斉が陰晋を侵した.前志に曰く高帝が改めて曰く華陰とした.呂氏春秋で九藪が云うに「秦之陽華」であると,高誘は曰く「或いは華陰の西に在る」とする.高誘はまた曰く「桃林県の西にある長城が是である也」.晋地道記に曰く「潼関が是である也」.

[二0]左伝で晋が秦に賂し,南して華山に及んだ.山海経に曰く:「太華之山は,削成して而して四方,其高さは五千仞,其の廣さは十里,鳥獣が居すこと莫し.蛇が有る焉,名づけて曰く肥

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遺である,六足四翼で,これが見えれば則ち天下が大旱となる.」武王は馬牛を桃林墟に於いて放った,孔安国は曰く華山の東に在る.晋地道記では山は県の西南に在るとする.

京兆尹秦の内史である,武帝が改めた.其四県は,建武十五年に属すことになった.洛陽から西へ九百五十里である.[一]十城,戸数は五万三千二百九十九,口数は二十八万五千五百七十四.

[一]決録注に曰く:「京とは,大である也.天子は曰く兆民とする.」

長安は高帝が都とした所である.[一]鎬が上林菀中に在る.[二]細柳聚が有る.[三]蘭池が有る.[四]曲郵が有る.[五]杜郵が有る.[六]/霸陵には枳道亭が有る.[七]長門亭が有る.[八]/杜陵[九]ここには酆が西南に在る.[一0]/[一一]/新豊には驪山が有る,[一二]東に鴻門亭 [一三]及び戲亭が有る.[一四](嚴)[掫]城が有る./藍田からは美玉が出る.[一五]/長陵は故は馮翊に属した.[一六]/は故は弘農に属した.[一七]/上雒は侯国である.領山が有り,雒水が出ている.故は弘農に属した.[一八]菟和山が有る.[一九]蒼野聚が有る.[二0]/陽陵は故は馮翊に属した.(以上十城である)

[一]漢旧儀に曰く:「長安城は方(亦)[六]十三里,経緯は各々長さ十五里,十二の城門があり,九百七十三頃(の畑)がある.城中は皆長安令に属する.」辛氏三秦記に曰く:「長安の地は皆黒壤であるとされるが,城中のものは今は赤いこと火の如く,堅きこと石の如しである.父老が伝える所では,龍首山を盡鑿して城を為したからだという.」皇覽に曰く:「思后の葬は城の東南にある桐(松)[柏]園であった,今の千人聚が是である.」

[二]孟康曰く:「長安の西南に鎬池が有る.秦始皇が江神に反璧して曰く:『為吾遺鎬池君.』」古史考は曰く:「武王が鎬を遷したとあるが,長安の豊亭にある鎬池のことである也.」皇覽に曰く:「文王、周公の皆鎬聚の東の杜中に在る.」

[三]前書で周亞夫が屯処した所である.

[四]史記に曰く秦始皇は夜出を微行すると,蘭池で逢盜した(盗賊の被害に逢った).三秦記は曰く:「始皇は渭水を引いて長池を為した,それは東西二百里,南北三十里のもので,刻石して鯨魚二百

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丈を為した.」

[五]前書では高帝が黥布を征すにあたり,張良が送って曲郵に至ったとする.

[六]史記に曰く白起が死んだ処である.三秦記に曰く:「長安城の西に九嵕山が有り,西には杜山が有る.」杜預曰く「畢国が西北に在った.」

[七]前書で秦王子嬰が軹道の旁に於いて降ったとする,地道記に曰く霸水の西である.

[八]前書では文帝が長門を出ると,道の北に於いて若し見ること五人,立五帝

[九]杜預曰く古えの唐杜氏である也.

[一0]杜預曰く:「鄠県の東に在る.」決録注に曰く:「鎬は酆水の東に在る,酆は鎬水の西に在る,相去ること二十五里である.」

[一一]史記では商君鄭を黽池で殺したとする.鄭の桓公が此に於いて封じられたのである.黄圖が云うには:「下邽県も並んで鄭である,桓帝が西巡したおり之を復したのである.」

[一二]杜預曰く:「古の驪戎国である.」韋昭は曰く:「戎は此の山に来て居した,故に号して驪戎とするのである.」三秦記に曰く:「始皇の墓が山の北に在り,始皇祠が有る.斉戒せずに往けば,即ち疾風暴雨にあう.人理欲上,則杳冥失道.県の西に白鹿原が有る,周の平王の時に白鹿が出たのである.」関中圖を案ずるに,県の南には新豊原が有る,白鹿は霸陵に在ったのだろう.

[一三]前書では高帝が項羽に見えた処であるとする,孟康曰く「県の東七十里に在る,旧大道北下口名」.関中記は云うに始皇陵の北十余里に謝聚が有る.

[一四]周の幽王が死んだ処である,蘇林は曰く県の東南四十里である.

[一五]三秦記に曰く:「川が有る,方三十里で,其水は北に流れる.玉、銅、鉄、石が出る.」地道記では虎候山が有るとする.

[一六]蔡邕は樊陵頌を作って云うに:「前漢のときの戸数は五万,口数は有すること十七万,王莽の後には十に一も存しないこととなった.永初元年に,羌戎が虐げを作った.光和に至って,領する戸数は四千に不盈(満たなかった).園陵蕃粢盛之供,百役が出ることとなった焉.民用は匱乏し,其事に堪えられなかった.」

[一七]帝王世記は曰く:「契が封じられた所である也.」左伝で哀四年に「将通於少習」,杜預曰く少習とは,県の東の武関である.

[一八]山海経に曰く雒水が(護)[讙]舉之山から出ている.()[史]記を案じ云うに雒水は熊耳から出る.山海経に曰く雒は王城南から出て,至って相谷西し,東北に流れて,

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虎牢城の西四十里に去り,河口に注ぐ,之を謂うに雒汭である.

[一九]左伝で哀四年に,楚の司馬が菟和にて軍した.

[二0]左伝に曰く(昭)[哀]四年に楚の(左)[右]師が蒼野で軍したとある,杜預曰く県南に在る.

左馮翊秦の内史に属する,武帝が分けて,改名したのである.洛陽の西六百八十八里.[一]十三城,戸数は三万七千九十,口数は十四万五千一百九十五.[二]

[一]決録注に曰く:「馮は,馮である也.翊は,明である也.」

[二]潘岳関中記に曰く:「三輔の旧治は長安城中にある,長吏がそれぞれ其県に在って民を治めた.光武が東に都して後,扶風が出て槐里を治め,馮翊が出て高陵を治めることとなった.」

高陵/池陽[一]/雲陽[二]/祋祤は永元九年に復した./頻陽/万年[三]/蓮勺/重泉/臨晋は本は大荔といった.河水祠が有る.芮郷が有る.[四]王城が有る.[五]/郃陽は永平二年に復した.夏陽には梁山、[六]龍門山が有る.[七]/[八]/粟邑は永元九年に復したものである.(以上十三城である)

[一]爾雅十藪では,周には焦穫が有るとする,郭璞曰く県の瓠中が是である也.地道記では「山が有るが,それは北に在る.鬼谷が有る,生三所氏」.案ずるに:史記で鬼谷は潁川陽城に在る,與地記(この地道記)と同じでない.

[二]荊山が有る.帝王世記で曰く:「禹が鼎を荊山に於いて鋳造した,馮翊にある懐徳(の地)の南に在る,今では其は荊渠の下である也.」

[三]帝王世記に曰く「秦の獻公は櫟陽を都とした」とあるが是である也.

[四]古の芮国である,虞と相讓した者である.

[五]史記に曰く秦の視ア公が大荔を伐し,其の王城を取ったとあるが,即ち此の城である也.左伝で晋の陰飴の甥が秦伯と王城で盟したとある,杜預曰く後に改めて武郷と為った,県の東に在る.

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[六]詩は云う:「弈弈たるかな梁山.」県の西北に在る.公羊伝に曰く河上之山である也.杜預曰く古の梁国である.史記に曰く本は少梁といった.爾雅は曰く梁山とする,晋が望んだものである也.

[七]書に曰く河を導き石を積む,歴龍門かな.太史公は曰く「生龍門に遷った」,韋昭は曰く県北に在るとする.博物記に曰く:「韓原が有る,韓武子の采邑である.」

[八]左伝で文二年に晋が秦に彭衙にて敗れたとある.皇覽に曰く:「蒼頡が有る,利陽亭の南に在る,墳高は六丈である.」

右扶風秦では内史に属した,武帝が分けて,改名した.[一]十五城,戸数は万七千三百五十二,口数は九万三千九十一.

[一]決録曰く:「扶風とは,化ということである也.」

槐里は周の曰く犬丘である,[一]高帝が改めた./安陵[二]平陵/茂陵/[三]ここから豊水が出る.[四]甘亭が有る.[五]/には邰亭が有る.[六]/武功は永平八年に復した.太一山が有る,本<もともと>は終南であった.垂山は,本は敦物といった.[七]斜谷が有る.[八]/陳倉[九]/[一0]には呉嶽山が有る,[一一]本の名は汧といい,汧水が出ている.回城が有る,名を回中という.[一二]/渝麋は侯国である./[一三]は鉄が有る.[一四]/栒邑には豳郷が有る.[一五]/美陽には岐山が有る,[一六]周城が有る.[一七]/には漆水が有る.[一八]鉄が有る.[一九]/杜陽は永和二年に復した.[二0](以上十五城である)

[一]またの名を廃丘という,周の懿王、章邯が都とした所である.

[二]皇覽に曰く:「県の西北が畢陌,秦武王.」

[三]古の扈国である.

[四]左伝に曰く「康には酆宮之朝が有る」,杜預曰く靈台が有る,康王は是に於いて諸侯に朝したのである.

[五]帝王世記は曰く県の南に在るとする.夏啓が扈を伐して,甘にて大いに戦った.また南山には王季が有る

[六]史記に曰く棄を邰に於いて封じたとある,徐廣曰く今の斄郷である.また王忳伝を案ずるに,郿之斄亭,為鬼報戮故亭長者也.秦の是れ榮県である,後に省かれた.帝王世記では

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曰く:「秦は公を出して平陽に徙した.」新論は曰く:「邰は漆県に在る,其民有會日,以相與夜中市,如不為,則有災咎.」

[七]前志では県の東に在るとする.

[八]西征賦注に曰く:「斜谷は,長安の西南に在る.南口が,北口が斜である,長さ百七十里.其の水は南に流れる.」

[九]三秦記に曰く:「秦の武公は雍を都としたが,陳倉城が是である也.石鼓山が有る.将に兵(事)有れば,此の山は則ち鳴くという.」

[一0]爾雅(曰)十藪で,秦には楊紆が有る,郭璞曰く県西に在るという.

[一一]郭璞曰く:「別名を呉山という,周禮にある所謂嶽山である.」

[一二]来歙が道を開いた処である.

[一三]左伝にある邵穆公の采邑である,史記では鴻が有るとする

[一四]帝王世記では曰く秦徳公が徙都したものである.

[一五]鄭玄の詩譜に曰く:「豳とは,公劉が邰より而して出て,徙った所で戎狄之地名である.」また劉邑が有る.

[一六]左伝で椒舉が曰く:「成王は岐陽之蒐を有しております.」山海経に曰く:「其上には白金多く,其下には鉄が多い,城水が出ている焉,東南に流れて江へ注ぐ.」

[一七]杜預曰く城は県の西北に在る.帝王世記では曰く:「周太王が徙る所で,南には周原が有る.」

[一八]山海経に曰く:「()[羭]次之山,漆水が出る焉.」郭璞曰く:「漆水は岐山から出る.詩は云う『自土沮、漆.』」地道記に曰く水(その河川)は県の西に在る.皇覽に曰く:「師曠が有る,名づけて師曠山である.」

[一九]杜預曰く豳国は東北に在る.帝王世記では曰く豳亭が有るとする.

[二0]詩譜に曰く:「周原とは,岐山の陽(にあり),地は杜陽に属す,地形は險阻にして而して原田は肥えて美<うま>し.」

右(以上)が司隸校尉部,郡は七,県、邑、侯国は百六である.[一]

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[一]漢(書)旧儀に曰く:「司隸の治所には,故孝武廟(がある).」魏(志)略に曰く:「曹公は関中を分けて漢興郡を置き,游楚を(国に)[用いて]太守と為した.」獻帝起居注に曰く:「中平六年,扶風都尉を省いて漢安郡を置いた,鎮雍、渝麋、杜陽、陳倉、汧五県(を管轄地とした)也.」