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後漢書志第二十一

郡国三

陳留、東郡、東平、任城、泰山、済北、山陽、済陰

右(以上)が兗州である

東海、琅邪、彭城、広陵、下邳

右(以上)が徐州である

【兗州部】

陳留郡武帝が置いた.洛陽の東五百三十里である.十七城,戸数は十七万七千五百二十九,口数は八十六万九千四百三十三.

陳留には鳴鴈亭がある.[一]/浚儀大梁という.[二]/尉氏[三]/雍丘は本国であった.[四]/襄邑には滑亭が有る.[五]承匡城が有る.[六]/外黄[七]には葵丘聚が有る,斉の桓公が此で会<会盟>したのである.城中に曲棘里が有る.[八]繁陽城が有る./小黄[九]/[一0]/済陽[一一]/平丘には臨済亭が有る,田儋が

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此で死んだ.匡が有る.[一二]黄池亭が有る.[一三]/封丘[一四]には桐牢亭が有る,或いは曰く古蟲牢である.[一五]/酸棗[一六]/長垣は侯国である.匡城を有する.[一七]蒲城を有する.[一八]祭城を有する.[一九]/己吾には大棘郷が有る.[二0]首郷が有る.[二一]/考城は故の菑である,[二二]章帝が更名した.故は梁に属した.[二三]/淮陽に属した.高陽亭が有る.[二四]/扶溝淮陽に属した.(以上十七城である)

[一]左伝で成十六年にが鄭(の)鳴鴈を伐したとある,杜預曰く[雍丘]県西北に在る.陳留志には曰く:「桐陵亭が有る,古の桐丘である.」

[二]帝王世記では曰く:「禹避商均浚儀.」晋地道記:「儀封人は,此県である也.」通俗文に曰く「渠が浚儀に在る,曰く莨蕩である」也.

[三]陳留志には曰く:「陵樹郷が有る,北に澤が有り,澤には天子菀囿が有る,秦楽が有る,漢の諸帝は(ここで)以って猛獣を馴養した.」

[四]陳留志には曰く:「城内に神井が有り,能く霧雹を興す.」案ずるに:徐斉民北征記に曰く:「呂祿台が有る,高さは七丈.酈生祠が有る.」曹植の禹廟讚に曰く:「禹祠が有る,(わたくし)植は其城に移った,城名を城という.」

[五]左伝で荘三年に次于滑,杜預曰く県西北に在る.

[六]地道記には曰く県の西に在る.左伝で文十一年に会晋郤缺于承匡.桐門亭が有り,黄門亭が有る.襄元年に鄫と会した,杜預曰く県の東南に鄫城が有る.

[七]左伝「惠公季年,宋の師に黄にて敗れた」,杜預曰く宋邑である,県の東に黄城が有る.

[八]左伝の昭二十五年「宋公佐が曲棘で卒した」.

[九]漢旧儀に曰く:「高祖の母が兵を起こした時に県北で死んだ,陵廟を小黄に於いて作る為した.」

[一0]陳留志には曰く:「故戸牖郷には陳平祠が有る.」

[一一]武父郷を有する.左伝で桓十二年に「武父にて盟す」とある,杜預曰く県の東北に武父城が有る.県の東南に戎城が有る.県の都郷には行宮が有る,(そこで)光武(帝)が生まれた.

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[一二]匡人の亭である,曹公が袁術を破った処である.

[一三]陳留志は云う:「黄亭には封丘が在る.」左伝で哀十三年に黄池で盟すとある,杜預曰く[封邱(は)]県の南に在る.伝に曰く「呉囚子服景伯以還,及戸牖」,然るに即ち黄池は戸牖の西に在る.或いは外黄県を為すに東溝を以ってしたとあるが,非である也.

[一四]博物記では狄溝が有るという,即ち長丘にて狄に敗れたとあるのが是である也.

[一五]左伝の成五年に諸侯が蟲牢に会した.陳留志:「鞠亭が有る,古の鞠居である.」

[一六]左伝に鄭太叔が廩延にて至るとある,杜預曰く県北に延津が有る.襄五年に城棣で会したとある,杜預曰く県の西南に棣城が有る.東には烏巣の地が有る,曹公が袁紹を破った処である.陳留志には曰く:「城内には韓王故宮闕が有る.」

[一七]陳留志には曰く:「孔子が此れに(囚われた)[圍]まれた.」北征記に城の周りは三里とある.左伝で僖十五年に牡丘で会し,次いで匡にてとあるが,杜預曰く匡は県の西南に在る.昭十三年に平丘に会すとあるが,杜預曰く県の西南に平丘城が有る.

[一八]左伝で成九年に蒲にて会すとある,杜預曰く県の西南に在る.史記では曰く孔子が匡から蒲を過ぎたとする.陳留志が云うには「子路の祠が有る.」

[一九]杜預曰く鄭祭封人仲邑.陳留志は曰く:「蘧伯玉墓及び祠が有る.」また西南には宛亭が有る.左伝で僖二十八年に人が宛濮で盟すとある,杜預曰く濮水の近くである.

[二0]左伝で宣二年に鄭が宋師を大棘で破ったとある,杜預曰く襄邑県の南に在る.

[二一]左伝で(桓八)[僖五]年斉侯(の師)が首止にて[会]すとある,杜預曰く襄邑の東南に在る,首(止城)[郷]が有る.

[二二]陳留志に曰く:「古の戴国の地名である.」杜預曰く:「戴は外黄の東南に在る.」爾雅に曰く:「木立死曰菑.」呂氏春秋:「草鬱即為菑.」

[二三]陳留志には曰く:「箕子の祠が有る.穀亭が有る.古の句瀆の丘である.」本伝を案ずるに蒲亭が有る.

[二四]陳留志には曰く:「万人聚が有る,王邑破翟義積尸処(王邑が翟義を破り尸を積んだ処である).」前書では「今の高陽である」とある.文穎曰く:「高陽は,聚邑の名で,県の西に在る.」

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東郡秦が置いた.洛陽を去ること八百余里である.十五城,戸数は十三万六千八十八,口数は六十万三千三百九十三.

濮陽は古の昆吾国で,[一]春秋の時に曰く濮となった.鹹城が有る,或いは曰く古の鹹国である.[二]清丘が有る.[三]鉏城が有る./南燕国であった.雍郷を有する.[四]胙城が有る,古の胙国である.平陽亭を有する.[五]瓦亭が有る.[六]桃城が有る.[七]/白馬には韋郷が有る.[八]頓丘[九]/東阿[一0]には清亭が有る.[一一]/東武陽からは濕水が出ている./には秦亭が有る.[一二]/臨邑には(沛)[泲]廟が有る.博平/聊城には夷儀聚が有る.[一三]聶(戚)[城]が有る.[一四]発干/楽平は侯国である.故は清といった,章帝が更名した.陽平は侯国である.莘亭が有る.[一五]岡成城が有る.[一六]/公国である.本は観といい故は国で,姚姓であった,光武が更名したのである.河牧城が有る.[一七]竿城が有る.[一八]穀城は春秋時には小穀といった.[一九]巂下聚が有る.[二0](以上十五城である)

[一]杜預曰古也.帝王世記では曰く:「顓頊は窮桑してから商丘に徙った.」左伝に曰く「は,顓頊之墟である」,杜預曰く帝丘は,昆吾氏が之に因った,故に曰く昆吾之墟と,県城内に顓頊が有る.皇覽に曰く:「城門外の広陽里中に在る.」博物記に曰く:「桑中は其中に在る.」

[二]左伝で僖十三年に鹹にて同会した.

[三]左伝に曰く宣十二年に清丘で盟すとある,杜預曰く県の東南である.

[四]謝沈の書に曰く,赤眉が雍郷を攻めた.

[五]左伝では哀十六年に「侯飲孔悝酒於平陽」.

[六]左伝曰く定八年に瓦にて会す,杜預曰く県の東北である.

[七]史記に曰く春申君が秦を説いて曰く「王又挙甲拔桃入邢」とあるのが是である也.

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[八]杜預曰く:「県の東南に韋城が有る.古の豕韋氏の国である」.

[九](白虎通)[皇覽]に曰く「帝嚳在城[南]台陰野[中]」とあるのが是である也.

[一0]左伝で桓十年に桃丘にて会すとある,杜預曰く県の東南に桃城が有る.襄十四年に孫林父が侯に阿澤にて敗れたとある,杜預曰く県の西南にある大澤である.魏志では渠丘山が有るとしている.

[一一]左伝の隠四年に「遇于清」とあるが是である也.

[一二]左伝の荘三十一年に「築台于秦」とある.地道記では県西北に在るとする.

[一三]左伝の僖元年に「邢遷于夷儀」とある.

[一四]左伝曰く「聊攝以東」.

[一五]杜預注伝に曰く作新台在県北.殺公子伋之地,故に曰く「待諸莘」.

[一六]秦は蔡澤を封じて岡成君と為したが,未だ詳らかではない.

[一七]左伝の文元年に戚にて会す,鄭が晋の中行氏を救い,晋は鄭(の)鉄(というところ)で敗れたとある,杜預曰く戚城の南に鉄丘が有る.

[一八]前書での故の発干(県)[城]である.

[一九]左伝の荘三十二年に「城小穀」とある,杜預曰く城中に管仲井が有る.また伝では曰く埋長狄榮如首於周首之北門,杜預曰く県東北に周首亭が有る.

[二0]左伝で僖二十六年に斉師を追って酅に至ったとある,杜預曰く県の西に酅下という地名が有る.皇覽は曰く:「県の東十五里に項羽が有る.」とする

東平国故の梁である,景帝が分けて済東国と為し,宣帝が改めた.洛陽から東へ九百七十五里である.七城,戸数は七万九千一十二,口数は四十四万八千二百七十.

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無鹽<無塩>宿国といい,任姓であった.[一]章城を有する.[二]/東平は陸で六国時には曰く平陸であった.闞亭を有する.[三]堂陽亭が有る.[四]/富成//壽張は春秋では曰く良である,漢は曰く壽良としたが,光武が改めて曰く壽張とした.堂聚を有する,故の聚は東郡に属す.[五]須昌東郡に属す.[六]致密城が有る,古の中都である.陽穀城が有る.[七]/寧陽は故泰山に属した.(以上七城である)

[一]左伝で昭二十五年に臧会奔郈,杜預曰く県の東南に郈郷亭が有る.

[二]古の国である.左伝に荘三十年,斉が鄣を取ったとある.

[三]左伝で桓十一年に闞にて会すとある,杜預曰く須昌県の東南に在る.闞城が有る,博物記が云うには即ち此の亭が是である.

[四]故の県である,後に省かれた.

[五]地道記には曰く:「蚩尤祠が有る,狗城である.」皇覽に曰く:「蚩尤県の闞[郷]城の中に在る,高さは七丈.」

[六]杜預曰く:「須句は,古の国である,西北に在った.」

[七]左伝で僖三年に陽穀で会すとある,杜預曰く県北に在る.

任城国章帝の元和元年に,東平から分けて任城を為した.洛陽から東へ千一百里である.三城,戸数は三万六千四百四十二,口数は十九万四千一百五十六.

任城任国であった.桃聚が有る.[一]/亢父[二]/(以上三城である)

[一]光武(帝)が龐萌を桃郷に於いて破った.

[二]左伝で襄十三年に「取邿」とある,杜預曰く県に邿亭が有る.哀六年に「城邾瑕」とある,杜預曰く県北に邾瑕城が有る.

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泰山郡高帝が置いた.洛陽の東千四百里である.十二城,戸数は八千九百二十九,口数は四十三万七千三百一十七.

奉高には明堂が有る,武帝が造った.[一]/には泰山廟が有る.岱山が西北に在る.亀山が有る.[二]龍郷城が有る.[三]/梁甫は侯国である.菟裘聚が有る.[四]/鉅平は侯国である.亭禪山が有る.[五]陽関亭が有る.[六]/嬴は鉄を有する./山茌は侯国である./萊には原山が有る,潘水が出ている.[七]/からは沂水が出る.[八]/南武陽は侯国である.顓臾城を有する./南城東海に属した.東陽城が有る.[九]は侯国である,[一0]故は東海に属した.祊亭が有る.[一一]台亭が有る.[一二]/は故国であった.(以上十二城である)

[一]前書曰く県の西南四里に在る.左伝で昭八年に「紅にて大蒐あり,商、に至る」とある.紅亭は県西北に在る,杜預曰く接宋、である也.

[二]左伝で定十年に斉が帰亀陰之田,杜預曰く田は山北に在る.琴を操して孔子は亀山之操を作った.

[三]左伝で成二年に斉が龍を圍<かこ>んだとある,杜預曰く県西南に在る.史記では「隆」と作る.また楚には蜀之役が有った,杜預曰く県西北に蜀亭が有る.

[四]左伝で隠公が「使営菟裘,吾将老焉」,杜預曰く県南に菟裘城が有る.

[五]即古所禪亭亭者也.

[六]左伝で襄十七年に「陽関から師す」とある.桓六年に成にて会すとある,杜預曰く県の東南である.成城は即ち孟孫の邑である.

[七]杜預曰く汶水が出ている.

[八]左伝に防にて会すとある,杜預曰く県東南に在る,防城を有する.

[九]呂氏春秋夏孔甲遊田于東陽萯山.左伝哀八年に「東陽に克つ」とある.襄十九年に武城を城<きず>くとある,杜預曰く南城県である.哀十四年に司馬[牛]が丘輿に葬られた,杜預曰く県西北に輿城が有る.

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[一0]曹騰が費に封じられたが是は酇県の費亭であり,此国ではない.

[一一]左伝の隠八年に鄭が祊に帰したとある,杜預曰く県東南に在る.閔二年に莒人が共仲及び密に帰したとある,杜預曰く県に密如亭が有る.

[一二]左伝の襄十二年に莒が台を圍<かこ>んだとある,杜預曰く県南に台亭が有る.

済北国和帝の永元二年に,泰山から分けて置いた.[一]洛陽の東千一百五十里である.五城,戸数は四万五千六百八十九,口数は二十三万五千八百九十七.

[一]臣昭が案ずるに:済北は,前漢の旧国である,此は是が泰山に併せられたのを経て復分けられたことを指すのだろう.

[一]には平陰城が有る.防門が有る.[二]光里が有る.景茲山が有る.[三]敖山が有る.[四]清亭が有る.[五]長城が有って東海にまで至っている.[六]/蛇丘には遂郷が有る.[七]下讙亭が有る.[八]鑄郷城が有る.[九/]は本国であった.[一0]/茌は本東郡に属した./.[一一](以上の五城である)

[一]左伝の隠三年に斉鄭が尋盧之盟,杜預曰く今でいう県の故の城である.邾山が有る,県北に在る.成二年に封鋭司徒女石窌,杜預曰く県東に石窌の地名が有る.

[二]左伝で襄十八年に斉が晋を平陰で禦<ふせ>いだ,ラ防門,杜預曰く県の北に在る.また斉は巫山に登って以って晋師を望んだとある,杜預は曰く(巫山は)県の東北に在る.

[三]杜預曰く県の東南に在る.

[四]左伝に曰く「先君獻、武は二山を廃した」,即ち敖山、具山である.

[五]左伝哀十[一]年,斉が魯及び清を伐したのが是である也.

[六]史記で蘇代が燕王に説いて曰く「斉は長城、巨防を有しています」とある.巨防が即ち防門である.

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[七]古の遂国である,左伝で荘十三年に斉人が遂を滅ぼしたとある.

[八]左伝で桓三年に姜氏を讙にて送ったとある.

[九]周の武王未だ下車するに及ばず,堯の後を鑄に於いて封じた.左伝では棘地を有するとある,成公三年に叔孫僑が圍む所と如く.杜預曰く汶水の北の地に棘郷が有る.東観書では芳陘山が有る.

[一0]左伝「師が郕に入った」,杜預曰く東平の剛父県の西南に郕郷が有る.

[一一]左伝で哀八年に斉が闡を取ったとある,杜預曰く県北に在る,闡郷が有る.

山陽郡故の梁である,景帝が分置した.洛陽から東へ八百十一里である.十城,戸数は十万九千八百九十八,口数は六十万六千九十一である.

昌邑は刺史が治める.梁丘城が有る.[一]甲父亭が有る.[二]/東緡は春秋時には曰く緡であった.[三]/鉅野[四]は大野澤を有する.[五]/高平は侯国である.故の橐で,章帝が更名した.[六]茅郷城が有る.[七]/湖陸湖陵といった,章帝が更名した.[八]/南平陽は侯国である.漆亭を有する.[九]閭丘亭を有する.[一0]/方與は武唐亭を有する,[一一]魯侯が魚台を観たところである.[一二]泥母亭が有る,或いは曰く古ィ母とされる.[一三]/瑕丘/金郷[一四]/防東(以上十城である)

[一]左伝で荘三十二年に梁丘にて遇うとある,杜預曰く梁丘郷が県の西南に在る.

[二]杜預曰く甲父とは,古の国の名である,県の東南に在る.左伝で隠十年に「取防」とある,杜預曰く県の西に防城が有る.

[三]左伝で僖二十三年に斉が緡を圍んだとある.

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[四]左伝で桓七年に「咸丘を焚いた」とある,杜預曰く県の西に咸亭が有る.

[五]春秋のときに西に狩して麟を獲た所である.爾雅の十藪,魯に大野が有る.杜預曰く県の西南に()[郥]亭が有る.定十三年に斉が晋を伐した所である.

[六]前漢志で王莽が改めて曰く高平とした,章帝は王莽がつけた此の号を復したのである.左伝で隠(九)[元]年に費伯が郎に城(を築いた)したとある,杜預曰く県の東南に郁郎亭が有る.

[七]杜預曰く茅郷は昌邑の西南に在る.

[八]前漢志に王莽が改めて曰く湖陸としたと在って,章帝が其号を復したのである.博物記は曰く苟水が出るとする.地道記では県西に費亭城が有り,魏武帝が初めに封じられた所であるとする.[a]

[a]つまり魏武(曹操)の祖父である曹騰が費亭侯に封じられたところでもあるのだろう。

[九]左伝には漆に城を築いたとある.

[一0]左伝で襄二十一年に「邾庶其以漆、閭丘來奔」,杜預曰く県の東北に漆郷が有る,西北には顯閭亭が有る.哀七年に囚邾子負瑕,杜預曰く県西北に瑕丘城が有る.

[一一]左伝で桓二年に唐にて盟すとある,杜預曰く西南に在る.

[一二]春秋経では隠五年に矢魚于棠(棠にて矢で魚を漁った).[b]

[b]原始的な漁獲法で魚を弓矢で射て漁るものがあるがそのことだろうか。

[一三]左伝で僖七年にィ母で盟すとある,杜預曰く県東に在る.三十一年臧文仲宿重館,杜預曰く県西北に重郷城が有る.

[一四]晋地道記には曰く:「県には山が多い,金山との名で治める所である.山の北には鑿石が有ってを為している,深さは十余丈,隧長は三十丈,傍入為堂三方,云うに白兔を得て葬らず,更めて南山に葬って,鑿したところ而して金を得た,故に曰く金山とするのである.故今も在る.或いは云うに漢昌邑が作る所であるとし,或いは云うに秦の時のものであるとする.」

済陰郡故の梁である,景帝が分置した.洛陽から東へ八百里である.十一城,戸数は十三万三千七百一十五,口数は六十五万七千五百五十四である.

定陶曹国であった,[一]古の陶で,堯が居した所である.[二]三鬷亭が有る.[三]/冤句には棗城が有る.[四]/成陽には

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、靈台が有り,雷澤が有る.[五]/乗氏は侯国である.[六]泗水を有する.鹿城郷を有する.句陽には垂亭が有る.[七]/鄄/離狐東郡に属した./廩丘東郡に属した.高魚城が有る.運城が有る.[八]/単父は侯国である,故は山陽に属した./成武は故山陽に属した.[九]郜城が有る.[一0]/己氏は故梁に属した.[一一](以上十一城である)

[一]郭璞曰く:「城中に陶丘が有る.」皇覽に曰く:「伯楽県の東南一里の所に有る,高さ四五丈である.」

[二]帝王世記では曰く:「舜陶河濱,県の西南にある陶丘亭が是である.」

[三]湯(王)が三鬷を伐したとあるが,孔安国曰く(そこは)今の定陶である.

[四]史記で蘇秦が魏の襄王に説いて曰く:「大王之地は,東に淮、潁、煮棗を有しております.」

[五]禹貢に曰く:「雷夏は既に澤す.」帝王世記では曰く:「舜は歴山を耕し,雷澤に漁したとある,済陰に歴山が有る.」

[六]博物記は曰く古の乗丘であるとする.

[七]左伝で隠八年に垂にて遇ったとある.史記で忌が魏の安僖王を説いて曰く:「文台は墮ち,垂都は焚けました.」徐広曰く:「県には垂亭が有る.」

[八]左伝で襄二十六年に「斉の烏余が廩丘を以って晋に奔った」とある,杜預曰く今の県の故城が是である.また「襲羊角取之」について,杜預曰く今の県が城として治めている所である.また襲我高魚とあるのについては,杜預曰く県の東北に在る.

[九]左伝で隠七年に「戎が凡伯を楚丘に於いて執らえた」とあるが,杜預曰く県の西南に在る.

[一0]左伝で隠十年に「郜を取った」とある,杜預曰く県の東南に郜城が有る.地道記では秺城が有るという.

[一一]皇覽曰く平和郷が有る,郷には伊尹が有る

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右(以上)は兗州刺史に所属する,郡、国は八,県、邑、公、侯国は八十ある.

【徐州部】

東海郡(高帝が置いた.洛陽の東千五百里にある).は十三城,戸数は十四万八千七百八十四,口数は七十万六千四百一十六である.

国であった,刺史の治めるところである.[一]/蘭陵には次室亭が有る.[二]//朐[三]は鉄を有する.伊盧郷が有る.[四]襄賁/昌慮には藍郷が有る.[五]/陰平/利城/合(城)[郷][六]/祝其には羽山が有る.[七]春秋時には曰く祝其といった,夾谷の地である.[八]/厚丘[九]/贛榆琅邪に属した,建初五年に復した.[一0]

[一]博物記に曰く:「勇(王)[士]亭が有る,即ち勇士(万)[菑]丘欣のことである.」

[二]地道記に曰く:「故の魯は室邑に次ぐ.」列女伝に漆室之女が有る,或いは「次室」と作る.

[三]山海経に曰く:「都州は海中に在す,一に曰く郁州と.」郭璞曰く:「県界が在る.世俗は此を伝えていう山が蒼梧に有り徙って来た,上は皆南方の樹木を有する.」博物記では:「県の東北の海辺は植石されている,秦所立之東門.」

[四]史記に曰く,鍾離昧の家が伊盧に在った.

[五]左伝の昭三十一年に謂う邾の黒肱が以て濫来をして奔る,杜預曰く県の治所がある,城の東北に郳城が有る.郳とは,小邾国である也.

[六]漷水は此より南して湖陸に至る.

[七]殛渠V山.杜預曰く県の西南に在る.博物記に曰く:「東北は獨居山,西南には淵水が有る,即ち羽泉である也,俗に謂うには此山が懲父山を為したという.」

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[八]左伝の定十年に斉侯が夾谷するにあたり,孔子が相した

[九]左伝の成九年に「城中城」とある,杜預曰く県の西南に在り,有中郷城(中に郷城を有する).

[一0]左伝「斉が莒を伐ると,莒子は紀鄣に奔った」,杜預曰県東北有紀城.地道記には曰く:「海中去岸百五十步,有秦始皇碑,長一丈八尺,広五尺,厚八尺三寸;一行十二字.潮水至加其上三丈,去則三尺見也.」

琅邪国(秦が置いた.建武中に城陽国を省いたとき,以て其県をして属させた.[一]洛陽の東一千五百里にある.)十三城,戸数は二万八百四,口数は五十七万九百六十七.

[一]本紀を案ずるに,永壽元年に置かれた,都尉が治める.

開陽[一]東海に属する,建初五年に属した./東武/琅邪[二]/東莞には鄆亭がある.[三]邳郷が有る.公来山が有る,或いは曰く古浮来と.[四]/西海[五]/[六]/莒は本<もともと>は国であった,故は城陽に属した.[七]鉄がある.崢エ谷が有る./東安は故城陽に属した./陽都は故城陽に属した.牟台が有る.[八]/臨沂は故東海に属した.叢亭が有る.[九]/即丘は侯国で,故は東海に属した,春秋に曰く祝丘と./は侯国で,故は東海に属した.概亭が有る.[一0]/姑幕[一一](以上十三城である)

[一]杜預曰く古の鄅である.左伝の哀三年に城啓陽とある,杜預曰く開陽である.

[二]山海経が云うに琅邪台が有る,勃海の間,琅邪の東に在る.郭璞曰く:「琅邪は海辺に臨み,山が有り嶕嶢特起し,その様状は高台のようである.此が即ち琅邪台である.」斉景公曰く:「吾は海に循して而して南す,放つ乎琅邪.」越絶に曰く:「句踐は琅邪に徙ると,観台を起てた,台周は七里,以て東海を望む.」史記に曰く秦始皇は黔首三万戸を琅邪台下に徙した.伝に勞山が有る.

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[三]左伝曰く「公処鄆」.

[四]左伝隠公八年に浮来で盟約す,杜預曰く邳来山の間であり,号して曰く邳来と.荘公九年に鮑叔が管仲を受け,堂阜に及び而して之を脱する.杜預曰く:「東莞の蒙陰県の西北に夷吾亭が有る,或いは曰く鮑叔が夷吾の縛を此で解き,因てそう名づけたのである.」即ち古の堂阜である也,東莞は後に(名)[郡]と為った.

[五]東観書に曰く勝山が有る.博物記では:「太公呂望が出た所が,今の東呂郷に有る.また棘津に釣りした,其の浦は今も存る.」

[六]左伝荘公二十九年に「城諸」とある,杜預曰く諸県は城陽郡に在った.また隠公四年に「莒人伐,取牟婁」とある,杜預曰く県の東北に婁郷が有る.

[七]左伝成公八年に申公が巫臣会渠丘公,杜預曰く県は蘧丘里に有る.

[八]左伝宣公元年に平州で会った,杜預曰く県の西に在る.

[九]左伝隠公六年に艾で盟をおこなった,杜預曰く県の東南に艾山が有る.七年「城中丘」とある,杜預曰く県東北に中丘亭が有る.博物記曰く:「県の東界は次睢で大叢社が有る,民は之を謂うに食人社と,即ち次睢之社である.」

[一0]左伝荘公九年に蔇で盟をおこなった,杜預曰く県北に在る.

[一一]左伝昭五年「莒牟夷以牟婁及防茲来奔」,杜預曰県東北有茲亭.博物記曰淮水入.城東南五里有公冶長墓.

彭城国(高祖が楚の為に置いた,章帝が改めた.洛陽東千二百二十里にある.)八城,戸数は八万六千一百七十,口数は四十九万三千二十七.

彭城[一]は鉄を有す./武原/傅陽には柤水が有る.[二]//[三]//菑/広戚は故<もと>は沛(国)に属した.(以上八城である)

[一]古の大彭邑である.北征記では城の西二十里に山が有る,山には楚の元王の墓が有る.伏滔の北征記に曰く:「城の北六里に山が有る,臨泗には,宋桓魋石槨が有る,皆青石で,隠公が亀龍鱗鳳之象を起てたのである.」

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[二]左伝の襄公十年に偪陽を滅ぼしたとある,杜預曰く即ち此県である也.

[三]西征記に曰く城中に張良廟が有る.

広陵郡(景帝が江都として置いた,武帝が更名した.建武中に泗水国を省き,其県を以って属させた.洛陽東一千六百四十里にある.)十一城,戸数は八万三千九百七,口数は四十一万百九十.

広陵[一]には東陵亭が有る.[二]/江都には江水祠が有る./高郵/平安/淩泗水に属した./東陽は故臨淮に属した.長洲澤が有る,呉王濞太の倉が此処に在る.[三]/射陽は故臨淮に属した.[四]/鹽瀆は故臨淮に属した./輿は侯国で,故は臨淮に属した./堂邑は故臨淮に属した.鉄が有る.春秋時には曰く堂と./海西は故東海に属した.(以上十一城である)

[一]呉王濞の都した所は,城の周りが十四里半である.

[二]博物記曰く:「女子杜姜は,左道を行い神に通じたため,県は以て妖と為し,獄に閉じ込めて桎梏を嵌めた,卒變形莫知所極.その状況が以て上され,因って以って其処に廟祠を為すことになった,号して曰く東陵聖母である.」

[三]県は多麋.博物記に曰く:「千千為,草根を掘って食べる,其処は泥から成っている,名づけて曰く麋oである.民人は此oに随って種稻し(種を蒔き),耕さずして而して穫る,其の收める(収穫)や百倍である.」又扶海洲上に草が有る名づけて,其の実は之を食べること大麥の如し,従って七月には稔り熟す,民は斂しくして穫て冬に至って乃ち訖す,名づけて曰く自然穀,或いは曰く禹余糧.

[四]梁湖が有る.地道記には曰くく博支湖が有る.

下邳国(武帝が臨淮郡として置いた,永平十五年に更為して下邳国とした.洛陽東千四百里にある.)十七城,戸数は十三万六千三

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百八十九,口数は六十一万一千八十三.

下邳東海に属する.[一]葛嶧山,本嶧陽山が有る.[二]鉄が有る.は本<もともと>は国である.樓亭が有る,或いは曰く古蔞林と.[三]は侯国である./睢/下相/淮陰[四]/淮浦/盱/高山/潘旌/淮陵./取慮には蒲姑陂が有る.[五]/東成/曲陽は侯国で,故は東海に属す.司吾は侯国で,故は東海に属す./良成東海に属する.春秋時には曰く良と.[六]/夏丘沛に属する.(以上十七城である)

[一]戴延之西征記に曰く:「沂水が有る,城西から西南にむけて泗水に注ぐ,(またそれとは)別に城の南を下に迴って,亦泗水に注ぐ.旧くは橋を有した処であり,それは張良が黄石公と此橋で会ったという.」

[二]山からは名桐が出る,伏滔の北征記に曰く今も槃根往往にして而して存す.

[三]杜預曰く僮県の東南に在る.伏滔の北征記に曰く:「県の北に大が有る,徐君墓,延陵解之処.」

[四]下郷は南昌亭を有する,韓信が寄食した処である.

[五]左伝の昭十六年に斉は師して蒲隧に至るとある,杜預曰く県の東に蒲姑陂が有る.

[六]左伝の昭十三年に晋は良に於いて呉と会った(会盟した?).

右(以上)は徐州刺史に所属する,郡国は五つ,県侯国は六十二である.[一]

[一]魏氏春秋に曰く:「初平三年,琅邪﹑東海を分けて城陽﹑(新)[利]城﹑昌慮郡を為した.建安十一年,昌慮を省き東海と併せた.」