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後漢書志第二十三

郡国五

漢中 巴郡 広漢 蜀郡 犍為 牂牁 越雟 益州 永昌

広漢属国 蜀郡属国 犍為属国

右(以上)が益州である

隴西 漢陽 武都 金城 安定 北地 武威 張掖 酒泉 敦煌

張掖属国 張掖居延属国

右(以上)が涼州である

上党 太原 上郡 西河 五原 雲中 定襄 鴈門 朔方

右(以上)が并州である

涿郡 広陽 代郡 上谷 漁陽 右北平 遼西 遼東 玄菟

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楽浪 遼東属国

右(以上)が幽州である

南海 蒼梧 鬱林 合浦 交趾 九真 日南

右(以上)が交州である

【益州部】

漢中郡秦が置いた.洛陽西千九百九十里である.九城,戸数は五万七千三百四十四,口数は二十六万七千四百二.(4.66口/戸)

南鄭[一]/成固には媯墟が西北に在る.[二]/西城[三]/[四]/沔は鉄を有する.[五]/安陽/は錫を有する,春秋時には曰く錫穴であった.[六]/上庸は本は庸国であった./房陵[七]/

[一]華陽国志に曰く:「池水を有し,従旱山来.」

[二]前書が云うには西城が在る.帝王世記に亦た云うには姚墟が西北に在り,舜祠が有るという.

[三]巴漢志が云うには漢末に以って西城郡を為したという.

[四]華陽国志に曰く唐公(防)[房]祠が有る.

[五]華陽国志に曰く定軍山が有る.博物記に曰く県北に丙穴が有る.巴漢志に曰く:「県には度水が有る,水は二原を有し,一つは曰く清檢,二つめは曰く濁檢.」

[六]左伝の文十一年,楚が麋を伐し,錫穴に至る.

[七]巴漢志に曰く:「建安十三年に新城郡に別属した.維山を有する,維水が出る所で,東して瀘に入る.」

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巴郡秦が置いた.洛陽西三千七百里である.[一]十四城,戸数は三十一万六百九十一,口数は百八万六千四十九.(3.5口/戸)

[一]譙周巴記に曰く:「初平(六)[元]年,趙穎が巴を分けて二郡と為した,巴を旧名で得ようと欲したのである,故の郡は墊江を以って治所と為し,安漢は以下為永寧郡(永寧郡と為した).建安六年,劉(綽)[璋]が巴を分けて,永寧を以って巴東郡と為し,墊江を以って巴西郡と為した.」蜀都賦注に云うには:「銅梁山が巴東に在る.」干寶搜神記に曰く:「澤水を有す,民が謂うには神龍がいるので,其傍で鼓を鳴らしてはならない,(鼓を鳴らせば)即ち大雨を使うとのことである.」蜀都賦に曰く:「沮澤に(於いて)は龍蟠が潜んでおり,鼓が鳴るのに応じて而して雨を興す.」

江州[一]/宕渠鉄を有する./朐[二]/閬[三]/魚復[四]扞水には扦関が有る.[五]/臨江/[六]/涪は丹を出す[七]/墊/安漢/平都[八]/充国永元二年に閬中から分けて置かれた.[九]/宣漢[一0]/漢昌永元中に置かれた.[一一]

[一]杜預曰く巴国である也.塗山,禹娶塗山が有る.華陽国志に曰く:「帝禹之廟銘が存する焉.清水(の沸く)穴が有り,巴人は此を以って粉を為す,則ち膏(暉)[澤]は鮮芳,京師に粉を貢ぐ,因って粉水と名づける.」

[二]巴漢志に曰く:「山有大小石城(勢者).」

[三]本伝を案ずるに兪水が有る.巴漢志に曰く:「彭池、大澤、名山、靈臺が有る,孔子内讖に見える.」

[四]古の庸国である,左伝の文十[六]年魚人が楚師を逐ったとあるのが是である也.

[五]史記に曰く,楚の肅王は扞関で為すに以って蜀を拒んだ.

[六]史記で蘇代が曰く:「楚は枳を得て而して国亡ぶ.」華陽国志に有る明月峽、広徳嶼が是である也.

[七]巴記に曰く:「靈帝が涪陵を分けて永寧県を置いた.」巴漢志に曰く:「涪陵は,巴郡の南鄙である(南にある鄙都である),枳に従って南して折丹に入れば涪水である,本は楚と商が之地に於いて接していた.漢の時に赤(田)[甲]軍が其民から常に取られた.」

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[八]巴記に曰く:「和帝が枳を分けて置いた.」

[九]巴記に曰く:「初平四年,復た分けて南充国県と為した.」

[一0]巴漢記に曰く:「和帝が宕渠之東を分けて置いた.」

[一一]巴記に曰く:「宕渠之北を分けて而して之を置く.」

広漢郡高帝が置いた.洛陽から西すること三千里である.十一城,戸数は十三万九千八百六十五,口数は五十万九千四百三十八.(3.64口/戸)

(州)刺史が治める./新都[一]/|竹[二]/什邡/涪[三]/梓潼[四]/白水[五]/葭萌[六]/郪/広漢には沈水が有る./徳陽[七]

[一]華陽国志に曰く:「金堂山が有り,水(河川)が巴(漢)に通じている.」

[二]地道記曰:「紫巖山が有る,|水が出る所である焉.」

[三]巴漢志に曰く:「孱水が孱山から出ている.」

[四]地道記「五婦山があって,馳水が出ている」.建安二十二年,劉備が以って郡を為した.

[五]山海経に曰く白水が蜀から出て而して東南にむかって江<長江>に入る,郭璞曰く今も県に在る.

[六]華陽国志:「水が有り漢川に通じている,金銀が有り,民は洗って之を取る.」

[七]華陽国志に曰く:「閣道が有る,三十里で,至って險しい.」

蜀郡秦が置いた.洛陽から西すること三千一百里である.十一城,戸数は三十万四百五十二,口数は百三十五万四百七十六.(4.49口/戸)

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成都[一]/郫/江原//広都[二]/臨邛[三]鉄を有する./湔氐[四]岷山が西に在って外に徼している.[五]/汶江道[六]/八陵/広柔[七]/|虒道[八]/

[一]蜀都賦注に曰く:「武帝元鼎二年,成都に郭十八門を立てた.」

[二]任豫の益州記に曰く:「県には望川源が有る,鑿石すること二十里,引取郫江水灌広都田,云後漢所穿鑿者.」

[三]博物記に曰く:「火井が有る,深さ二三丈,県の南百里に在る.以って竹木を投げいれて火を取る,後に人が火燭を以って井中に投げると,火は即ち滅んで絶え,不復然(二度と元に戻らなかった).」蜀都賦注に曰く:「火井は其火を出そうと欲する,先ず家火を以って之に投げ入れると,須臾許隆隆如雷声(須臾許して隆隆たること雷声の如し),爛然とてい天に通じ,光耀十里(光輝き広がること十里),竹筒を以って之を盛るが,其光に接しても而して無炭(炭にならない?)也.井火を取って還り,煮井水(井水を煮るとor井で水を煮ると),一斛の水から四五斗の塩を得る,家の火で之を煮れば,二三斗の塩を得る耳に過ぎない.」

[四]蜀王本紀に曰く:「県前に両石が対して闕の如きようすのものがあった,号して曰く彭門である.」

[五]山海経に曰く:「岷江は,江水が出る焉,東北にむかい海に注ぐ.中は良亀多い,其上<上流>は金玉が多く,其下<下流>は白が多い,其獣(そこに生息する獣)は犀、象、夔が多い.」郭璞曰く:「今蜀山の中に大牛が有る,重さ数千斤,曰く夔である.」蜀都賦注に曰く:「岷山には特に薬が多い,其椒<はじかみ>は(これを)特に多く好む者は,天下之好者に於いて異を絶つとのことである(ここの椒は通に言わせれば天下の絶品であるとのことである).」

[六]華陽国志に曰く:「濊水、駹水が出る焉,多く冰寒であり,盛夏でも凝凍して釋しない.孝安延光三年に復た之を立てて以って郡と為した.」

[七]帝王世記に曰く禹が石紐から生まれた.県には石紐邑が有る.華陽国志に曰く:「夷人が其地を営む,方百里,敢えて居牧しない.過有れば,其の野の中に逃がして敢えて追わない,云うに禹神を畏れるとのことである;能く藏すること三年,人を為して得る所,則ち之を共原とする,云うに禹神が之に靈祐したのだと.」

[八]華陽国志に曰く:「玉壘山が有り,璧玉を出す,湔水が出る所である.」

犍為郡武帝が置いた.洛陽から西へ三千二百七十里である.劉璋が分けて江陽郡を立てた.九城,戸数は十三万七千七百一十三,口数は四十一万一千三百七十八.(2.99口/戸)

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武陽には彭亡聚が有る.[一]/資中/牛鞞/南安[二]魚(泣)[涪]津が有る.[三]/僰[四]/江陽[五]/(荷)[符]節/南広/漢安/

[一]岑彭が死んだ処である.南中志に曰く:「県から南して二十里が彭望山である.」益州記に曰く:「県には王喬仙処が有る.王喬祠が今も在県している,下には彭祖が有る,上には彭祖祠が有る.」

[二]蜀都賦注に曰く:「県之南に五屼山が有る,一山は而して五里,越嶲との境界が有る.」

[三]蜀都賦注に曰く:「魚符津は数百歩である,県北三十里に在る.県は大江に臨み,岸は山嶺を便して相連なっている,益州郡を経る(ための),道が有り広さは四五尺,深さは或いは百丈,之を斬鑿した跡が今も存する,昔唐蒙が造った所である.」博物記:「県の西百里に牙門山が有る.」華陽国志に曰く:「県の西に熊耳峽が有り,南に峨眉山が有る,県を去ること八十余里である.」

[四]華陽国志に曰く:「治馬湖江会,水が越雟に通じている.旧くは本は僰人が有った.荔枝、薑蒟を有する.有[蜀]王(岳)[兵]蘭.李冰燒之崖は五色を有する,赤白映水玄黄.魚は楚に従って来るが,此に至って而して止む,崖が其水に映るがそれを畏れる故だという也.」

[五]華陽国志に曰く:「江、雒が会う,有方[山]蘭祀,江中には大闕小闕が有る.」蜀都賦注が云うには:「沱、潛は既道である,従って県南から流れて漢嘉県に至ると大穴に入り,中は剛山の下を通り抜け,因って南から潛み出る,今の名で復出水が是である也.」

牂牁郡武帝が置いた.洛陽から西へ五千七百里である.十六城,戸数は三万一千五百二十三,口数は二十六万七千二百五十三.(8.48口/戸)

故且蘭[一]/平夷/鄨[二]/毋斂/談指では丹を出す.[三]/夜郎では雄黄、雌黄が出る.[四]/同並/談ノ/漏江/毋単/宛温[五]/鐔封[六]/漏臥

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句町[七]/進乘/西隨[八]/(以上十六城である)

[一]地道記に曰く:「(沈)[沅]水が有る.」

[二]地道記に曰く:「不狼山は,鄨水が出る所である.」

[三]南中志に曰く:「不津江が有る,江には瘴気が有る.」

[四]本伝を案ずるに竹王三郎祠が有る.

[五]南中志に曰く:「県北三百里には盤江が有る,広さは数百歩,深さは十余丈.此江には毒気が有る.」

[六]華陽国志に曰く:「温水が有る.」

[七]本伝を案ずるに譏P木が有る.地道記には文水が有るとある.

[八]地道記に曰く:「麋水は,西すれば受けて徼外する,東は麋泠に至り,尚龍谿に入る.」

越雟郡武帝が置いた.洛陽から西へ四千八百里である.十四城,戸数は十三万一百二十,口数は六十二万三千四百一十八.(4.79口/戸)

邛都では南山で銅が出る.[一]/遂久[二]/靈関道[三]/臺登では鉄が出る.[四]/青蛉には禺同山が有る,俗に謂う金馬碧雞が有る.[五]/卑水[六]/三縫[七]/会無では鉄が出る.[八]/定莋[九]/[一0]//大莋/莋/姑復[一一]/

[一]南中志に曰く:「県の東南数里には水(河川)が有る名は邛広都河,広さは二十里程度,深さは百余丈である,魚がいるがその長さは一二丈,頭が特に大きい,遙かに視ると鉄釜を載せている状態の如しである.」華陽国志に曰く:「河には唪雋山が有る,又温水(の沸く)穴が有る,冬も夏も常に熱い.」

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[二]華陽国志に曰く:「繩水が有る.」広志に曰く:「縹碧石が有る,黒ノを有する.」

[三]華陽国志に曰く:「銅山が有る,又利慈が有る.」

[四]華陽国志に曰く:「孫水が有る,一つには曰く白沙江.山には砮が有り,火燒すれば鉄と成る.」

[五]華陽国志に曰く:「塩官が有る.濮水が出る.」

[六]華陽国志に曰く:「水(河川)が馬湖に通じている.」

[七]華陽国志に曰く:「寧州に道が通じており,瀘を度<たく>すれば(渡れば)[蜻]蛉県を得る(に行くことができる).有長谷石時坪,中に石豬を有する,子母は数千頭,長老が伝えて言うには夷が昔此に於いて豬を牧していたが,一朝にして豬が化して石と為ったため,今にいたる迄夷は敢えて牧に往かない(牧畜を行おうとしない).」

[八]郭璞曰く,山海経が称えるには県の東山から碧が出る,亦た玉類も出る.華陽国志に曰く:「故は濮人の邑であった也.今有濮人不閉戸,其中に多くの珠があるが,人が取るべきものではない,之を取るのは不祥なのである.(元)[天]馬河が有る.(元)[天]馬は日く千里を行く.県には(元)[天]馬祠が有る.民居家馬牧山下(民は自分の馬を山下に放牧する),或いは駿駒を産むと,云うに(元)[天]馬の子であるとする也.今(其)有(元)[天]馬逕,厥存焉.河中には銅船が有る,今在,祠以羊可取也(それは今も在る,祠するに羊を以って取らせている).河中に(子が)[存るのが]見える.土地特産好()[犀]牛.東山からは青碧が出る.」

[九]華陽国志:「県は郡の西に在る.瀘水を度<たく>し(渡り),賓岡徼白摩沙夷有塩坑,薪を積み,以斉水灌而後焚之(以って斉しく水に灌してから而して後に之を焚くと),白い塩が成る,漢末には夷等が皆之を錮<ふさ>いだ.」

[一0]華陽国志:「故の邛人の邑である,邛都城を治めた.」

[一一]地道記:塩池澤が南に在る.

益州郡武帝が置いた.故の滇王国である.洛陽から西へ五千六百里にある.諸葛亮の表には耽文山、澤山、司彌瘞山、婁山、辟龍山が有る(ことが触れられているが),此等は並んで皆(どれも)所在する県が未だ詳らかでない.十七城,戸数は二万九千三十六,口数は十一万八百二.(3.81口/戸)

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滇池では鉄が出る.池澤が有る.[一]北には黒水祠が有る.[二/]勝休[三]/俞ここの装山には銅が出る.[四]/律高ここの石室山には錫が出る.町山からは銀、鉛が出る./賁古ここの采山からは銅、錫が出る.[五]羊山からは銀、鉛が出る.[六]/(母掇)[毋棳][七]/建伶/穀昌/牧靡[八]//昆澤/同P[九]/同労/雙柏では銀が出る./連然/梇[一0]/秦臧/(以上十七城)

[一]澤は県の西に在る,前書に見える.南中志に曰く;「池の周りは二百五十里である.」

[二]華陽国志に曰く水は是温泉である.また白蝟山を有し,(淮)[惟]は蝟を有する.

[三]南中志に曰く:「大河が有る,従広百四十里(広さはおおよそ百四十里程度),深さは数十丈である.」地道記に曰く「水は東して(母掇)[毋棳]に至ると,橋水に入る.」

[四]華陽国志では河の中洲の上に在る.

[五]前書では曰く県の北に在る.

[六]在県西.地道記に曰く:「南烏山からは,錫が出る.」

[七]地道記に曰く:「橋水が有る,橋山から出ている.」

[八]李奇曰:「靡の音は麻.」出升麻.

[九]地道記に曰く:「銅虜山は,米水が出る所である.」

[一0]地道記:「連山は,無血水が出る所である.」

永昌郡明帝が永平[十]二年に益州から分けて置いた.洛陽から西へ七千二百六十里である.[一]八城,戸数は二十三万一千八百九十七,口数は百八十九万七千三百四十四.(8.18口/戸)

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[一]広志曰く:「永昌一郡,見龍之燿,日月相属.」

不韋では鉄が出る.[一]/雟[二]/比蘇/楪榆[三]/邪龍/雲南[四]/哀牢は永平中に置かれた,故の牢王国である./博南は永平中に置かれた.南界(南の境界)からは金が出る.[五]/(以上八城)

[一]華陽国志に曰く:「孝武(帝)が不韋県を置くと,南越相呂嘉の子孫宗族が徙って之に居したため,因って不韋と名づけた,以章其先人之惡.」

[二]本は西南夷である,史記では曰く古は雟、昆明を為す.古今注では曰く:「永平十年に益州西部都尉を置き,雟唐,鎮尉哀牢人楪榆蠻夷を治めさせた.」華陽国志に曰く;「有(同)[周]水従徼外来.」

[三]河を有する.広志に曰く:「弔鳥山が有る,県の西北八十里に,阜山(固有名詞ではなく一般名詞.表層が土で覆われた山)が在って,鳥が千百共会し,鳴呼啁哳<めいこしゅうせつ>する,毎歳七月、八月晦には望至(やって来るのが見られ),集まること六日して則ち止む,歳に凡そ六至(年に凡そ六度ほどある).雉雀が来弔すると,特に悲しむ.其方人夜然火伺取(そうなると人が夜に然火して掴まえにやってくるが),無嗉不食者以為義鳥(嗉無く食餌しない者(鳥)は以って義鳥と為して(みなして)),則ち取らない也.俗に言うには鳳皇は此山に於いて死ぬのだという,故に鳥が弔に来るのだとされる.」地道記では澤が有るという,県の東に在る.

[四]南中志に曰く:「県の西に高山が相連なり,大泉水が有る,周旋すること万歩,名づけて馮河である.県の西北百数十里に山が有る,山之中では特に高く大きく,状(状態)は扶風(にある)太一(山)の如しである,鬱然として高く峻しく,雲気と相連なり結んで,因って之を視るに見えない.其山は固より陰沍寒であり,五月の盛りで暑い(気候)と雖も(山中では)熱くない.」広志曰く:「五月でも霜雪あって皓然としている.」

[五]華陽国志に曰く:「西の山は高さ三十里,越[山]は蘭滄水を得ている,金沙が有り,洗い取って融すれば金と為る.光珠穴が有る.」広志では曰く:「虎魄が有って地中に生まれる,其上及び旁では草が生えない,深いのは(者)四五八九尺,大は斛の如し,外皮を削り去ると,中は虎魄が升の如く成っている,初めは桃膠の如きが凝り堅くなり成るのである也.」

広漢属国(都尉)故は北部都尉である,(蜀)[広漢]郡に属したが,安帝の時に以って属国都尉と為り,三城を別領することとなった.戸数は三万七千一百一十,口数は二十万五千六百五十二.(6.9口/戸)

陰平道/甸氐道[]/剛氐道[]/(以上三城)

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[一]華陽国志に曰く:「白水が有る,徼外に出て,漢に入る.」

[二]華陽国志に曰く:「涪水が出る所である,金銀が有る.」

蜀郡属国故は西部都尉に属した,延光元年に以って属国都尉と為り,四城を別領することとなった.戸数は十一万一千五百六十八,口数は四十七万五千六百二十九.(4.26口/戸)

漢嘉は故の青衣である,陽嘉二年に改められた.[a]蒙山が有る.[一]/嚴道には邛僰九折者が有り,邛(刻)[郵]が置かれる.[二]/[三]/旄牛[四]/(以上四城)

[a]劉備在世中の蜀漢の人材向挙<しょうきょ>が青衣侯であったが此処に封侯されたのであろう.向挙は三国志の蜀志『先主伝』に見える.劉備が皇帝に即位するよう初めに群臣が上表した文に名が載っている.

[一]華陽国志に曰く:「洙水が有り,邛に従い来て岷江に出る,また岷山に従って西から来て(岷?)江に入る,郡下で青衣江と合わさり大江に入る,土地は多くが山である.」蜀都賦に曰く「廓靈は関にして而して門を為す」,注に曰く山名である也.(その)地は県南に在る.

[二]山海経に曰く「崍山,江水出焉」,郭竅i郭璞?)曰「中江出る所である也」.華陽国志に曰く:「道至險,有長嶺若棟,八渡之難,楊母閣之峻,昔楊氏倡造作閣,故名焉.邛崍山本名邛莋,故邛人、莋人界也.巖阻峻,迴曲九折,乃至山上,凝冰夏結,冬則劇寒,王陽行部至此退.」

[三]華陽国志に曰く:「丹砂、雄雌黄、空青、青碧が出る.」

[四]華陽国志に曰く:「旄は,地(名)のことである也,邛崍山表(南側のことか?)に在る.邛人が蜀に入ってから,此山を度<たく>する(渡る)に甚だ險難であり,南人は之を毒した,故名は邛崍.鮮水、若水が有る,一名に洲江という.」

犍為属国故は郡の南部都尉であったが,永初元年に以って属国都尉と為し,二城を別領することとなった.戸数は七千九百三十八,口数は三万七千一百八十七.(4.68口/戸)

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朱提[一]山から銀、銅が出る.[二]/漢陽/(以上二城)

[一]南中志に曰く:「県には大淵池水が有る,名づけて千頃池である.西南二里に堂狼山が有る,毒草が多く,盛夏之月には,飛鳥が之を過ぎると,(ここを飛び越えることが)得ること能わずに去る.」蜀都賦注に曰く:「靈池が有るが県の南数十里に在る,周四十七里である.」

[二]前書を案ずるに,朱提の銀は重さ八両を以って一流と為す,直一千五百八十である,他の銀は一流が直一千である.南中志に曰く:「旧は銀窟が何箇所にもあった.」諸葛亮が書して云うには:「漢嘉の金,朱提の銀,採之不足以自食.」

右(以上)が益州刺史部,郡、国は十二,県、道[一]は百一十八.[一]

[一]本は梁州である.袁山松書に曰く:「建安二十年復置漢寧郡,漢中之安陽、西城郡,分錫、上庸為上庸郡,置都尉.」

【涼州部】

隴西郡秦が置いた.洛陽の西二千二百二十里である.十一城,戸数は五千六百二十八,口数は二万九千六百三十七.(5.26口/戸)

狄道/安故/氐は養水が此処から出ている.[一]/首陽には鳥鼠同穴山が有る(鳥と鼠が穴を同じくする山がある,「鳥鼠同穴山」が固有名詞の可能性もあるためカッコ内に別訳した),[二]渭水が出る.[三]/大夏/襄武には五雞聚が有る./臨洮には西頃山が有る.[四]/枹罕は故<もと>は金城に属した./白石は故は金城に属した./鄣/河関は故は金城に属した.積石山が西南に有り,河水が出ている.

[一]巴漢志に曰く:「漢水には二つの源があり,東の源は県の養山から出るため,養(水)と名づけられる.」南都賦注に曰く:「漢水の源は隴西から出て,武都を経て武関山に至る,歴南陽界(南陽の境界を歴し),沔口から出て江(長江?)に入る.」巴漢志に曰く:「西漢(漢水の西の水源?)は,隴西嶓山(から出て/がその水源地であり),白水と会合し葭萌を経て漢(水)に入る.始源は曰く沔(と言う),故に曰く漢沔というのである.」

[二]爾雅に曰く:「其鳥はミを為す.其鼠は鼵を為す,人家の鼠の如くにして而して尾が短い.ミは鵽に似て而して小さく,黄黒色である.穴地は入って三四尺ほど,鼠が内に在り,鳥が外に在る.」孔

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安国(が)尚書に伝えて曰く:「共に雌雄を為す.」張氏の地理記が云うには牝牡を為すのではないとのことである.山海経には曰く:「山は白虎、白玉が多い.」

[三]地道記に曰く:「三危が有る,三苗が処す所である.」

[四]前志曰く県の西に在る.本伝は(県に)馬防が索西城を築いたという.

漢陽郡武帝が置いた,(そのときは)天水と為したが,永平十七年更名した.洛陽から西へ二千里に在る.[一]十三城,戸数は二万七千四百二十三,口数は十三万一百三十八.(4.74口/戸)

[一]秦州記に曰く:「中平五年,南安郡を分置した.」獻帝起居注に曰く:「初平四年十二月,已に漢陽、上郡を分けて永陽と為していたが,郷亭を以って県に属させる.」とある

[一]には朱圄山が有る.[二]緹山が有る.雒門聚が有る.[三]/望恒/阿陽/略陽には街泉亭が有る.[四]/勇士/成紀[五]/は(州)刺史が治める.[六]大が有って隴坻と名づけられている.[七]豲坻聚は秦亭を有する.[八]/豲[九]/蘭干/平襄/顯親/上邽は故は隴西に属した.[一0]/西は故は隴西に属した.嶓山,西漢水が有る[一一]./(以上十三城)

[一]史記曰く:「秦の武公が冀戎を伐した,県である.」

[二]前志に曰く県南に在る.

[三]来歙が隗囂を破った処である.

[四]街(水)[泉]は故は県であったが,省かれた.

[五]帝王世記に曰く:「庖犧氏が成紀に於いて生まれたのである.」

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[六]漢官は云う:「洛陽を去ること二千一百里である.」

[七]三秦記:「其九迴,その高さ幾許かを知らず,上ろうと欲する者は七日して乃ち越す.高い処には可容百余家(百余家が生活している?),清水四注下(清水が四方へ向かい下へ注いでいる).」郭仲産秦州記に曰く:「隴山は東西百八十里.山嶺を登れば,秦川を東望すること四五百里,極目泯然なものである.山東の人で行役(に来て)此れを升<のぼ>って而して顧みて瞻(望)する者は,悲しみ思わないものは莫い.故に歌って曰く:『隴頭より流れる水は,四下に分かれ離れる.念ずるは我が行役,飄然なるはこの曠野.高きに登り遠きを望み,涕零して雙墮つ.』汧、隴を度<たく>すれば,蠶桑も無い,八月には乃ち麥がある,五月には乃ち凍解する.」

[八]秦が先に封じられ起ったのは此に於いてである.

[九]史記では秦の孝公が西に戎王を斬ったという.

[一0]秦州記に曰く:「県の北に利山が有る,川の中にある平らな地には土が堆積しているところが有る,高さは五丈,細竹が生え,翠茂すること殊常である.二楊樹大数十圍,百姓は之を祀る.」

[一一]史記に曰く:「申命和仲居西土.」徐広曰く:「今の西県である.」鄭玄曰く:「西は隴西[之<の>]西に在る,今之を謂うに(人)[八]充山であると.」

武都郡武帝が置いた.洛陽から西へ一千九百六十里である.七城,戸数は二万一百二,口数は八万一千七百二十八.(4.06口/戸)

下辨[]/武都道[]/上祿/故道[]/河池[]/水出東狼谷./羌道/(以上七城)

[一]赤亭が有る.

[二]華陽国志に曰く:「天池澤が有る.」

[三]干寶搜神記に曰く:「(奴)[怒]特祠が有る,秦が置いた旄頭騎起とは此である.」

[四]地道記に曰く:「泉街水が有る.」

金城郡昭帝が置いた.洛陽から西へ二千八百里である.十城,戸数は三千八百五十八,口数は万八千九百四十七.(4.9口/戸)

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允吾[一]/浩亹[二]/令居/枝陽/金城/榆/臨羌には昆崙山が有る./破羌/安夷/允街/(以上十城)

[一]西羌伝では唐谷が有る.秦州には牢北山が有り,その傍に三窟が有る.

[二]雒都谷が有る,馬武が羌を破った処である.

安定郡武帝が置いた.洛陽から西へ千七百里である.八城,戸数は六千九十四,口数は二万九千六十.(4.77口/戸)

[一]/高平には第一城が有る.[二]/朝那[三]/烏枝には瓦亭が有り,[四]薄落谷に出る.[五]/三水[六]/陰盤[七]/彭陽/鶉觚は故は北地に属した./(以上八城)

[一]謝承の書に曰く「宣仲が長史と為ると,民が扳留したため,改めて曰く宜民とした」,李固伝に見えるが,而して志では此が改められて無い,豈承之妄乎?(どうして之を妄りに承けたのであろうか?)

[二]高峻所拠.

[三]湫淵が有る,方四十里,停まっていて流れていない,冬も夏も増減しない,草木も生えない.郭璞が山海経に注して曰く:「水が県西の(丹)[]頭山から出ており,渭水に入る.」

[四]牛邯は軍処である.

[五]本伝では龍池山が有る,地道記に曰く烏水が出ている.

[六]左谷が有る,盧芳が居る所である.

[七]旧には陰密県が有ったが,并わせた所は未だ詳らかでない.杜預曰く:「定安の陰密県は,古の密須国である.」史記に曰く,秦は白起を陰密に遷した.山海経に曰く:「温水が崆峒山から出ている,臨汾の南に在って河に入る,華陽の北である.」郭璞曰く:「(その)水は常に煖(温かい).」

北地郡秦が置いた.洛陽西千一百里.六城,戸数は三千一百二十二,口数は万八千六百三十七.(5.97口/戸)

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富平/泥陽には五柞亭が有る.[一]/弋居は鉄を有する./[二]/は故は安定に属した.[三]/靈州/(以上六城)

[一]地道記に曰く:「泥水出郁郅北蠻中.」

[二]前志では卑移山が西北に在る.

[三]青山が有る.謝沈の書では:「属国には降った羌胡数千人がおり,山に居して田畜している(田<狩猟>や牧畜をしている).」

武威郡故は匈奴休屠王の地であった,武帝が置いた.洛陽から西へ三千五百里である.十四城,戸数は万四十二,口数は三万四千二百二十六.(3.4口/戸)

姑臧[一]/張掖/武威/休屠/揟/鸞鳥//媼圍/宣威/倉松[二]/は故は安定に属した./は故は安定に属した./顯美は故は張掖に属した./左騎千人官がおかれている./(以上十四城)

[一]地道記:「南山は,谷水が出る所である.」

[二]地道記に曰く:「南山は,松陝水が出る所である.」

張掖郡故は匈奴昆邪王の地であった,武帝が置いた.洛陽から西へ四千二百里である.獻帝が西郡を分置した.八城,戸数は六千五百五十二,口数は二万六千四十.(3.97口/戸)

觻得/昭武/刪丹からは弱水が出ている./氐/屋蘭/日勒/驪靬/番和/(以上八城)

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酒泉郡武帝が置いた.洛陽から西へ四千七百里である.九城,戸数は万二千七百六.(口数不明のため口/戸は不明.但し、一戸あたり約4.5〜5.5口とすると五万七千〜七万弱である.一戸あたりの口数はこの西域の郡はおよそ4.5〜5.5口/戸程度になるとした.属国や道などはこれに当てはまらない.環境が厳しいのであろう.)

福祿/表氏/楽涫/玉門/会水/沙頭/安彌は故は曰く(緩)[綏]彌であった./乾斉/延壽[一]/(以上九城)

[一]博物記に曰く:「県の南に山が有り,石が泉水を出している,大如筥,地に注いで溝を為している.其水は有肥,如煮肉洎,羕羕永永,如不凝膏,然之極明,食べることはできない,県人が謂うには之は石漆(石が出す漆)だとのことである.」

敦煌郡武帝が置いた.洛陽から西へ五千里である.[一]六城,戸数は七百四十八,口数は二万九千一百七十.(40口/戸:何かの間違いではないか?)

[一]耆旧記に曰く:「国当乾位,地列艮墟,水は県泉之神を有し,山は鳴沙之異を有し,川には蛇虺無く,澤には兕虎無く,華戎(文明と野蛮)が交わる所であり,一都会である也.」

敦煌は古は瓜州といわれた,美瓜を出す(美味い瓜が生産されている)./冥安/效穀/拼/広至/龍勒には玉門関が有る./(以上六城)

張掖属国武帝が属国都尉を置き,以って蠻夷の降者を主<つかさどらせた>.安帝の時に,五城を別領することとなった.戸数は四千六百五十六,口数は万六千九百五十二.(3.64口/戸)

候官/左騎/千人/司馬官/千人官/(以上五城)

張掖居延属国故は郡都尉であったが,安帝が一(郡)[城]を別領させた.戸数は一千五百六十,口数は四千七百三十三.(3.03口/戸)

居延には居延澤が有る,古の流沙である.[一]/(以上一城)

[一]獻帝が建安の末に,立てて西海郡を為した.

右(以上)が涼州刺史部,郡(国)は十二,県、道、候官は九十八である.[一]

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[一]袁山松書に曰く:「興平元年,安定の鶉觚、右扶風の漆を分けて新平郡を置いた.」

【并州部】

上党郡秦が置いた.洛陽から北へ千五百里である.十三城,戸数は二万六千二百二十二,口数は十二万七千四百三.(4.86口/戸)

長子[一]/屯留では絳水が出ている.[二]/銅鞮[三]/[四]/には閼與聚が有る.[五]/襄垣[六]/壺関には黎亭が有る,故の黎国である.[七]/泫には長平亭が有る.[八]/高都[九]/潞本国.[一0]/猗氏[一一]/陽阿は侯国である./穀遠[一二]/(以上十三城)

[一]山海経に曰く:「発鳩之山が有り,(章)[漳]水が(そこから)出ている焉.」上党記に曰く:「関城は,都尉が治める所である.令狐徴君が城の東の山中に隠れた,(それは)郡を去ること六十里(のところであった),(それから)即ち壺関の三老である令狐茂が上書訟戾太子者也(上書して太子を戻した者を訴訟した),令狐茂は即ち其山に葬られた.」

[二]上党記には曰く:「鹿谷山が有る,濁漳が出る所である.余吾城が有る,県の西北三十里に在る.」

[三]上党記には曰く:「(春秋戦国時代の)晋の別宮である墟関は猶存している,北城に有る,晋宮を去ること二十里,羊舌が邑とした所である.」左伝の成九年に晋が鄭伯を執らえたとあるが此に於いてである.

[四]山海経に曰く:「少山が有る,其上は金玉を有し,其下は銅を有する.」郭璞が云うには沾に在るという.

[五]史記に曰く,趙奢が秦兵を閼與に破った.山海経は云う:「謁戻之山は金玉を有す,沁水が出ている焉,南に流れて河(黄河)に注ぐ.」郭璞曰く涅に在る.

[六]上党記には曰く:「邑は山林を帯び,(よく)茂った(生育した)松が生えている焉.」

[七]文王が戡黎したのが即ち此である也.上党記には曰く:「東山は城の東南に在る,晋の申生が伐した所である,今の名は平睾である.」

[八]史記曰く,白起は趙を長平で破った.上党記に曰く:「城が郡の南山の中百二十里に在る.」

[九]前志に曰く天井関が有る.戦国策に曰く桀(王)が天井に居った,即ち天門である也.博物記に曰く:「県南の地名は即ち垂である.」

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[一0]左伝の哀四年に斉が晋を壺口に伐った,杜預曰く:「(路)[潞]県の東に壺口関が有る.」上党記には曰く:「潞は,濁漳のことである也.県城が潞を臨んでいる.晋の荀林父が曲梁を伐ったが,(その場所は)城の西十里に在る,今の名は石梁である.また東北八十里に黎城が有り,壺口関に臨んでいる,建安十一年に至って,洶河口に従って潞河に鑿入させた,名づけて泉州梁,以って海に通じさせた.」

[一一]漢書音義に県は鶡を出したとある.

[一二]上党記には曰く:「羊頭山が有り,沁水が出ている所である.」

太原郡秦が置いた.十六城,戸数は三万九百二,口数は二十万一百二十四.(6.47口/戸)

晋陽は本は唐国である.[一]龍山が有る,晋水が出る所である.[二]刺史が治める.[三]/界休には界山が有る,|上聚が有る.[四]千畝聚が有る.[五]/榆[六]には鑿壺が有る.[七]/中都[八]/于離/茲氏/狼孟/鄔[九]/[一0]/平陶/京陵は春秋の時の九京である.[一一]/陽曲/大陵は鉄を有する.[一二]//慮虒/陽邑には箕城が有る.[一三]

[一]毛詩譜に曰く堯が始めた都は此に於いてである,後に河東の平陽に遷ったのである.

[二]山海経に曰く:「懸甕之山が有る,其上は玉が多く,其下は銅が多い,其獣は閭麋が多い,晋水が出ている焉,東南にむかい汾(水)に注ぐ.」郭璞曰く県が在る.左伝に曰く:「実沈を大夏に遷す.」賈逵曰く:「陶唐之胤劉累也.」杜元凱は曰く:「今の晋陽県である.」

[三]漢官に曰く:「南には梗陽城が有る,中行獻子が巫皋に見えたところである.」

[四]左伝曰く晋の文公は以|上為介之推田.界山,推焚死之山,故太原俗有寒食.([a]介之推の故事)

[五]左伝曰く「晋が千畝之戦を為した」,県南に在る.

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[六]左伝は塗水と謂う.

[七]史記曰く,韓魏が智伯を殺し,埋めたのが鑿壺之下に於いてである.

[八]左伝では昭二年に陳無宇を中都に於いて執らえたとある,杜預曰く界休県の南にある中都城が是である也.

[九]史記では韓信が鄔[東]に於いて夏説を破った,徐広曰く音は於庶反.

[一0]晋大夫(孟)[盂]丙の邑である.

[一一]禮記に曰く趙武は九京に於いて先の大夫に従った,鄭玄曰く「晋卿大夫之墓地である.『京』は,字これ誤ったもので,当に『九原』と為すべきである」.

[一二]史記曰く趙肅侯が大陸に游ぶとき,鹿門に於いて出た.即ち大陵である.

[一三]左伝の僖三十三年晋が箕で狄に敗れた.

上郡秦が置いた.十城,戸数は五千一百六十九,口数は二万八千五百九十九.(5.53口/戸)

膚施/白土/漆垣/奢延/雕陰/髣ム/定陽/高奴/亀茲属国/候官/(以上十城)

西河郡武帝が置いた.洛陽から北へ千二百里也.十三城,戸数は五千六百九十八,口数は二万八百三十八.(3.66口/戸)

離石/平定/美稷/楽街/中陽//平周/平陸/益蘭/圜陰//圜陽/広衍/(以上十三城)

五原郡秦が置いて九原と為したが,武帝が更名した.十城,戸数は四千六百六十七,口数は二万二千九百五十七.(4.92口/戸)

九原/五原/臨沃/()[]/()[]/武都/宜梁/曼柏/

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成宜/西安陽は北に陰山を有する.[一]

[一]徐広曰く:「陰山は河南に在る,陽山が河北に在る.」史記曰,蒙恬が臨洮に長城を築いたとき,延袤すること万里余り,度河するに陽山に拠った.

雲中郡秦が置いた.十一城,戸数は五千三百五十一,口数は二万六千四百三十.(4.94口/戸)

雲中/咸陽/箕陵/沙陵/沙南[一]/北輿/武泉/原陽/定襄は故は定襄に属した./成楽は故は定襄に属した./武進は故は定襄に属した./(以上十一城)

[一]案ずるに:烏桓は蘭池城を有した,烏桓之圍耿曄処(烏桓がこれ耿曄を圍<かこ>んだ処である).

定襄郡高帝が置いた.五城,戸数は三千一百五十三,口数は万三千五百七十一.(4.3口/戸)

善無は故は鴈門に属した./桐過/武成//中陵は故は鴈門に属した./(以上五城)

鴈門郡秦が置いた.洛陽から北へ千五百里である.十四城,戸数は三万一千八百六十二,口数は二十四万九千.(7.8口/戸)

陰館[一]/繁畤/樓煩/武州[二]/汪陶/劇陽/崞/平城[三]//馬邑[四]/鹵城は故は代郡に属した.[五]/広武は故は太原に属した.夏屋山が有る.[六]/原平は故は太原に属した.[七]/彊陰/(以上十四城)

[一]史記曰く漢蘇意軍句注,応劭曰く山險の名である也,県に在る.爾雅八陵西隃鴈門が是である也.郭竅i郭璞?)曰く即ち鴈門山である.山海経に曰く,鴈門山とは,鴈がその間から飛び出すからである.

[二]前書では武帝が匈奴を誘い武州塞に入った.

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[三]前書で高帝が被圍白登(白登で囲まれることになった),服虔曰く県を去ること七里である.

[四]干寶搜神記に曰く:「昔秦人が武州に於いて築城し塞内で以って胡に備えた,城は成ったが而して崩れること数度矣.馬がある地を馳走することが有った,周旋しては反覆し(てそれを繰り返した),父老は之を異とすると,因って依るに以って築城すると(そこでその異なことを理由として其処に依って築城すると),城は乃ち崩れなかった,そこで遂に之を名づけて馬邑と為した.」

[五]山海経に曰く:「(秦)[泰]戲之山,草木は無く,金玉が多い,呼沱之水出焉.(呼沱水が之から出ている).」郭竅i郭璞?)曰,今の呼沱河が[出ているのは]県の武夫山である.周禮:「并州,其川は呼沱である.」魏志曰く:「建安十年に鑿渠して呼沱(水)より汾(水)へ入れた,名づけて平虜渠である.」

[六]史記曰,趙襄子が夏屋山を北に登り,銅斗を以って代王を殺した.郭璞曰く,爾雅では山中に獣が有る,形は菟の如く,相負うて共に行く,土俗は之をと名づける.

[七]古史考曰く:「趙衰居原,今の原平県である.」

朔方郡武帝が置いた.六城,戸数は千九百八十七,口数は七千八百四十三.(3.95口/戸)

臨戎/三封/朔方/沃野/広牧/大城は故は西河に属した./(以上六城)

右(以上)が并州刺史部,郡九,県、邑、は侯国である九十八.[一]

[一]古今注曰く:「建武十一年十月,西河上郡属(魏).」魏志曰く:「建安二十年に雲中、定襄、五原、朔方を省き,一県を置いて其民を領させ,合わせて以って新興郡と為した.」

【幽州部】

涿郡高帝が置いた.洛陽から東へ北千八百里.七城,戸数は十万二千二百一十八,口数は六十三万三千七百五十四.(6.2口/戸)

涿迺は侯国である.[一]/故安易水が出る,雹水が出る.[二]/范陽は侯国である./良郷/

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新城には汾水門が有る.[三]/方城は故は広陽に属した.臨郷が有る.[四]督[亢]亭が有る.[五]/(以上七城)

[一]史記では漢の武帝が鳴澤に至ったとある,服虔曰く県の北界に在る.

[二]本紀を案ずるに,永元十五年に県の鉄官を復置した.

[三]史記曰く,趙與燕汾門.

[四]故の県であるが,後に省かれた.惠文王が燕と楽に臨んだ.

[五]劉向別録に曰く:「督亢は,膏腴之地である.」史記では荊軻が督亢圖を奉じて入秦している.

広陽郡高帝が置いて,燕国を為したが,昭帝が更名して郡と為したのである.世祖が省き上谷と併せたが,永(平)[元]八年に復した.五城,戸数は四万四千五百五十,口数は二十八万六百.(6.3口/戸)

は本は燕国である.刺史が治める.[一]/広陽/昌平は故は上谷に属する./軍都は故は上谷に属する./安次は故は勃海に属する./(以上五城)

[一]漢官曰く:「洛陽から東へ北二千里.」

代郡秦が置いた.洛陽から東へ北二千五百里.[一]十一城,戸数は二万一百二十三,口数は十二万六千一百八十八.(6.27口/戸)

[一]古今注に曰く:「建武二十七年七月に幽州に属した.」

高柳/桑乾/道人/当城/馬城/班氏/狋/北平邑は永元八年

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復した./東安陽/平舒/[一]/(以上十一城)

[一]干寶の搜神記に曰く:「代城は築城を始めて,板幹を立てたが,一旦西南の板が亡んだ((地盤が軟弱なため)板築が亡んだ/失われた),四五十里於澤中自立(澤中に於いて四五十里ほど自立しているところがあったため),葦を結んで外門を為し,因って就いて営築した焉,故<もと>の其城は周圓三十五丈,九門を為している,故城がある処は之を呼ぶに以って東城と為す.」

上谷郡秦が置いた.洛陽から東へ北三千二百里.八城,戸数は万三百五十二,口数は五万一千二百四.(4.95口/戸)

沮陽潘永元十一年復.//居庸/雊瞀/涿鹿[一]/下落/[a]

[a]電網データでは上記太字部分を県城としているが、文字化けで正確な区切りが不明であると共にその区切りに疑問がある.沮陽/(←県名と考えられる.後に続く年号は永元と考えられるためだ.)永元十一年復./(←ここが二つに区切られるのでは?)/居庸/雊瞀/涿鹿[一]/下落/(これで八城となるハズ)

[一]帝王世記に曰く;「黄帝が都とした所,蚩尤城、阪泉地、黄帝祠が有る.」世本が云うには(鼓)[彭]城の南に在るとし,張晏は曰く上谷に在るとする.于瓚案禮五帝位云うには黄帝が赤帝と阪泉之野にて戦ったとあるが,涿鹿は不在である,是は蚩尤を伐った地であろう.

漁陽郡秦が置いた.洛陽から東へ北二千里.九城,戸数は六万八千四百五十六,口数は四十三万五千七百四十.(6.36口/戸)

漁陽は鉄を有する./狐奴/潞/雍奴/泉州は鉄を有する./平谷/安楽/傂/_平/(以上九城)

右北平郡秦が置いた.洛陽から東へ北二千三百里.四城,戸数は九千一百七十,口数は五万三千四百七十五.(5.83口/戸)

土垠/徐無/俊靡/無終/(以上四城)

遼西郡秦が置いた.洛陽から東へ北三千三百里.五城,戸数は万四千一百五十,口数は八万一千七百一十四.(5.77口/戸)

陽楽/海陽/令支には孤竹城が有る.[一]/肥如/臨渝[二]/(以上五城)

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[一]伯夷、叔斉の本国である.

[二]山海経に曰く;「碣石之山は,(綱)[繩]水が出ている焉,其上は玉を有し,其下は青碧が多い.」水経では曰く県南に在る.郭璞は曰く:「或いは曰く右北平驪(城)[成]県海辺山に在る也.」

遼東郡秦が置いた.洛陽から東へ北三千六百里.[一]十一城,戸数は六万四千一百五十八,口数は八万一千七百一十四.(1.27口/戸:数値に間違いないのなら、この郡は大変貧しいか、災害直後の統計か、民を掌握できていないか、戸数に水増しがあるのではないだろうか)

[一]本紀を案ずるに,和帝の永元十六年に郡は西部都尉官を復し置いた.

襄平/新昌/無慮/望平/候城/安巿/平郭は鉄を有する./西安平[一]/汶/番汗/沓氏/(以上十一城)

[一]魏氏春秋に曰く:「県北に小水が有る,南に流れて海に入る,句驪とは別種である,因って之を名づけるに小水貊である.」

玄菟郡武帝が置いた.洛陽から東へ北四千里.六城,戸数は一千五百九十四,口数は四万三千一百六十三.(27.1口/戸:なにかの間違いではないか.官吏の能力に問題があるのではないか.それとも妥当な理由があるのだろうか)

高句驪には遼山があり,遼水が出ている.[一]/西蓋(鳥)[馬]/上殷台/高顯は故は遼東に属した./候城は故は遼東に属した./遼陽は故は遼東に属した.[二]/(以上六城)

[一]山海経に曰く:「遼水は白平の東に(から)出る.」郭璞曰く:「塞外を出て白平山を(銜える)[].遼山は,小遼水が出る所である.」

[二]東觀書では安帝が即位した年に,三県を分けて来属させた.

楽浪郡武帝が置いた.洛陽から東へ北五千里.十八城,戸数は六万一千四百九十二,口数は二十五万七千五十.(4.18口/戸)

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朝鮮//浿/含資/占蟬/遂城/増地/帯方/駟望/海冥/列口 []/長岑/屯有/昭明/鏤方/提奚/渾彌/楽都/(以上十八城)

[一]郭璞は山海経に注して曰く:「列は,水名である.列水は遼東に在る.」

遼東属国故の邯郷で,西部都尉があった,安帝の時に以って属国都尉と為し,六城を別領することとなった.洛陽から東へ北三千二百六十里.(統計データが存在しない.名のみの統治か、別領とされた県城は民がいない城塞だけの存在だったのか)

昌遼は故の天遼,遼西に属した.[一]/賓徒は故は遼西に属した./徒河は故は遼西に属した./無慮には醫無慮山が有る./險瀆[二]//(以上六城)

[一]何法盛晋書では青城山が有る.

[二]史記曰く,王險,満所都.

右(以上)が幽州刺史部,郡、国は十一,県、邑、侯国は九十である.

【交州部】

南海郡武帝が置いた.洛陽から南へ七千一百里.七城,戸数は七万一千四百七十七,口数は二十五万二百八十二.(3.5口/戸)

番禺[一]/博羅[二]/中宿/龍川/四会/揭/増城には労領山が有る./(以上七城)

[一]山海経(注)「桂林八樹,賁禺の東に在る」,郭璞が云うには今の番禺である.

[二]羅浮山が有る,会稽から浮かんで往くと博(羅)山である,故は博羅県が置かれていた.

蒼梧郡武帝が置いた.洛陽から南へ六千四百一十里.十一城,戸数は十一万一千三百九十五,口数は四十六万六(4.13口/戸)

-3531-

千九百七十五.

広信[]/謝沐/高要/封陽/臨賀/端谿/馮乘/富川//猛陵[]/[]/(以上十一城)

[一]漢官曰:「刺史が治める,洛陽を去ること九千里.」

[二]地道記に曰く:「龍山,合水が出る所である.」

[三]永平十四年に置かれた.

鬱林郡秦の桂林郡である,武帝が更名した.洛陽から南へ六千五百里である.十一城.[a]

[a]戸数や口数は分からなかったのだろうか.それほど掌握できていなかったのだろうか.

布山/安広/阿林/広鬱/中溜/桂林/潭中/臨塵/定周/増食/領方/(以上十一城)

合浦郡武帝が置いた.洛陽から南へ九千一百九十一里.五城,戸数は二万三千一百二十一,口数は八万六千六百一十七.(3.75口/戸)

合浦/徐聞[]/高涼[]/臨元/朱崖/(以上五城)

[一]交州記には曰く:「出大呉公,皮以冠鼓.」

[二]建安二十五年,孫権が高梁郡を立てた.

交趾郡武帝が置いた,即ち安陽王国である.洛陽から南へ万一千里.十二城.(戸数、口数データがない)

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龍編[一]/[二]/(定)安[定][三]/苟漏[四]/麊泠/曲陽/北帯/稽徐/西于/朱e/封谿は建武十九年に置かれた.[五]/望海は建武十九年に置かれた./(以上十二城)

[一]交州記には曰く:「県の西にある帯江は,仙山を有すること数百里,三湖を有し,注、二水を有する.」

[二]地道記に曰く:「南越侯織が在ったのが此である.」

[三]交州記には曰く:「越人が銅で鋳造して船を為した,在江潮退時見.(江が干潮で退いた時が在れば見える)」

[四]交州記には曰く:「有潛水牛上岸共,角軟,還復出.」

[五]交州記には曰く:「有隄防龍門,水深百尋,大魚登此門化成龍,不得過,曝鰓點額,血流此水,恆如丹池.有秦潛江,出嘔山,分為九十九,流三百余里,共会於一口数は.」

九真郡武帝が置いた.洛陽から南へ万一千五百八十里.五城,戸数は四万六千五百一十三,口数は二十万九千八百九十四.(4.51口/戸)

胥浦/居風[]/咸懽/無功/無編/(以上五城)

[一]交州記には曰く:「金牛が出る山が有る,往き往きて夜見えると,光曜すること十里.山には風門が有り,常に風が有る.」

日南郡秦の象郡である,武帝が更名した.洛陽から南へ万三千四百里.五城,戸数は万八千二百六十三,口数は十万六百七十六.(5.51口/戸)

西卷/朱吾[]/盧容[]/象林[]/比景[]/(以上五城)

[一]交州記には曰く:「其民は海際に依って居し,米を食べない,止資魚.」

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[二]交州記には曰く:「有採金浦.」

[三]今の林邑国である.

[四]博物記に曰く:「日南には野女が出る,行しても夫に見えず,其状はs且つ白,裸袒にして衣襦無し.」

右(以上)が交州刺史部,郡は七,県は五十六である.[一]

[一]王範の交広春秋に曰く:「交州の治は羸県であったが,元封五年に治を蒼梧広信県に移した,建安十五年は番禺県を治とする.詔書は州が辺遠であることを以って,使持節(を与え),七郡皆<すべて>を併せて鼓吹を授け,重威を以って鎮めさせる.」とある

漢書地理志では秦から承ったおりには三十六郡,県邑数百であった,後に稍して分析し,孝平に至って,凡そ郡、国は百三,県、邑、道、侯国は千五百八十七となった.世祖が中興すると,官多く役煩しいことを惟い,乃ち命じて并合し,省かれた郡、国は十,県、邑、道、侯国は四百余所となった.[一]明帝に至って郡一つを置き,章帝は郡、国二つを置いた,和帝は置くこと三つ,安帝がまた命じて属国に別領させて郡に比すようにしたのが六つ,また県を省いた所は漸時復し分置したため,孝順に至ると,凡そ郡、国は百五,県、邑、道、侯国は千一百八十,[二]民の戸数九百六十九万八千六百三十,口数は四千九百一十五万二百二十となった.[三]

[一]応劭漢官に曰く:「世祖が中興すると,海内人民は可得而して数えると(海内の人民で得られたものを数えると),裁つこと十(に)二三.辺陲は蕭條し,孑<ひとり>遺されたものが靡有することとなり(わらわらと涌き出るようになり),鄣塞は破壊され,亭隊は絶滅した.建武二十一年,始め中郎将馬援、謁者を遣わして,分けて烽候を築かせ,堡壁を稍興させると,郡県十余万戸を立てた,或いは太守、令、長を空置して,人民を招還した.上は笑って曰く:『今や辺境は無人であるのに而して長吏を設けて之を治めている,難しいこと春秋素王の如きものがあるな矣.』乃ち三営を建立し,屯田殖穀し,刑を弛めて謫徒し以って之を充実させた.」

[二]東觀書に曰く:「永興元年,郷は三千六百八十二,亭は万二千四百四十二.」

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[三]応劭の漢官儀に曰く:「永和中,戸数は千七十八万,口数は五千三百八十六万九千五百八十八に至った.」また帝王世記では,永嘉(二)[元]年に戸数は則ち多くして九十七万八千七百七十一,口数は七百二十一万六千六百三十六であったという.応載極盛之時(極盛の時に応じて載せたものであるのに),而所殊甚(而して(この戸数口数は)殊に甚だ少ない所である),永嘉(年間)は多く舍し,永和(年間)は少なく取っているとは,良しとするには不可解である.皇甫謐が校覈で精審したのであるから,復た謬記に非ず,未詳孰是(これがどういうことか未だ詳らかになっていない).豈に此れ是が順朝の時の書であるか,後史は即ち本と為すのか乎?伏忌所記(文字化け),帝が崩ずる毎に,輒ち最戸口及んで墾田大いに数えたという,今列するのは(その)後のものなのだろう,以見滋減之差焉(そのため滋減之差に見えるのだろう).([a])光武中元二年,戸数は四百二十七万九千六百三十四,口数は二千一百万七千八百二十であった.明帝永平十八年,戸数は五百八十六万五百七十三,口数は三千四百一十二万五千二十一であった.章帝章和二年,戸数は七百四十五万六千七百八十四,口数は四千三百三十五万六千三百六十七であった.和帝永興元年,戸数は九百二十三万七千一百一十二,口数は五千三百二十五万六千二百二十九,墾田七百三十二万一百七十頃八十畝百四十歩であった.安帝延光四年,戸数は九百六十四万七千八百三十八,口数は四千八百六十九万七百八十九,墾田六百九十四万二千八百九十二頃一十三畝八十五歩.順帝建康元年,戸数は九百九十四万六千九百一十九,口数は四千九百七十三万五百五十,墾田六百八十九万六千二百七十一頃五十六畝一百九十四歩.沖帝永嘉元年,戸数は九百九十三万七千六百八十,口数は四千九百五十二万四千一百八十三,墾田六百九十五万七千六百七十六頃二十畝百八歩.質帝本初元年,戸数は九百三十四万八千二百二十七,口数は四千七百五十六万六千七百七十二,墾田六百九十三万一百二十三頃三十八畝.

[a]以下、光武から以降の戸口数の推移を記録している。途中で墾田が始まるとそのデータも併せて載せている。墾田は一人当たりの割当て数量が決まっているはずだからそれで割れば墾田に移されて戸口の記録から外れた数が判る道理である。注で案じている者の迫力が伝わる部分である。)

[b]ここ郡国志五でのデータを見ると、辺境で生活の厳しいところほど一戸当たりの口数が少ないことが分かる。古典では一戸当たり五口を標準としているが、経験知としてまずまずの生活状態であればその程度の数値となることが知られていたのだろう。となるとそれを基にすれば各郡の生活状態の良否が推し量れることになる。そうしてみると意外なことに幽州中央部(基幹部)は6口/戸程度でかなり生活が楽だったのではないかということが窺える。後漢書劉虞伝では幽州はよその州郡から歳費をいつも補填して貰っていたことが描かれているが、州郡の運営はともかく、この一戸当たりの口数データからは民には苛政を敷かず、むしろ手厚い保護を加えていたのではないかということが見えてくる。それと似たようなデータが益州南方の牂牁郡、永昌郡である。ここは一戸当たり8人強で幽州基幹部の郡より更に高い数値を示している。瘴癘の地とされる南蛮の地だが、この二郡は数値上は非常に豊かであったとして差し支えないようだ。また広漢属国も6.9口/戸という高い値を示している。ここは陰平道/甸氐道/剛氐道の三城を管理するだけなのだが、この三城は蜀西北の異民族地帯への道であり、軍事的な緩衝地帯であった。北辺の幽州基幹部と同じように扱われていたのだろうか? しかしこの異民族地帯への道というのは同時に彼らとの交易ルートでもあるということだ。そのルートを維持するために寛大な統治で安定させておくことが必要だったのだろう。牂牁郡、永昌郡などは貴重な鉱物資源も色々と産出している。豊かさの背景にはこうしたものを失いたくない王朝がこれらの要地を豊かなまま押さえておくために寛大な施策を行ったことなどがあったのだろう。そうしてみるとそれらの郡に隣接してそれらの郡の盾となって(犠牲に供されて)いる形の辺境の郡の貧しさが見ていてちょっと泣けてくる。

贊に曰く:(皇?)は安んじ后は載せる,政は洽<あまね>く區分される;侯が守列を罷めれば,民には常君無いものである.称号は遷り隔たり,封は割かれて糾紛となる;略されるもの存(続)するもの減らされるもの益されるもの,證<あかし>の多くは前に聞くものである.