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右(以上)は兗州刺史に所属する,郡、国は八,県、邑、公、侯国は八十ある.

東海郡(高帝が置いた.雒陽の東千五百里にある).は十三城,戸数は十四万八千七百八十四,口数は七十万六千四百一十六である.

郯が本国であり,刺史の治めるところである.[一]蘭陵には次室亭が有る.[二]戚、朐[三]は鉄を有する.伊盧郷が有る.[四]襄賁、昌慮には藍郷が有る.[五]承、陰平、利城、合(城)[郷][六]、祝其には羽山が有る.[七]春秋時には曰く祝其といった,夾谷の地である.[八]厚丘[九]、贛、榆琅邪に属した,建初五年に復した.[一0]

[一]博物記に曰く:「勇(王)[士]亭が有る,即ち勇士(万)[菑]丘欣のことである.」

[二]地道記に曰く:「故の魯は室邑に次ぐ.」列女伝に漆室之女が有る,或いは「次室」と作る.

[三]山海経に曰く:「都州は海中に在す,一に曰く郁州と.」郭璞曰く:「県界が在る.世俗は此を伝えていう山が蒼梧に有り徙って来た,上は皆南方の樹木を有する.」博物記では:「県の東北の海辺は植石されている,秦所立之東門.」

[四]史記に曰く,鍾離昧の家が伊盧に在った.

[五]左伝の昭三十一年に謂う邾の黒肱が以て濫来をして奔る,杜預曰く県の治所がある,城の東北に郳城が有る.郳とは,小邾国である也.

[六]漷水は此より南して湖陸に至る.

[七]殛渠V山.杜預曰く県の西南に在る.博物記に曰く:「東北は獨居山,西南には淵水が有る,即ち羽泉である也,俗に謂うには此山が懲父山を為したという.」

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[八]左伝の定十年に斉侯が夾谷するにあたり,孔子が相した

[九]左伝の成九年に「城中城」とある,杜預曰く県の西南に在り,有中郷城(中に郷城を有する).

[一0]左伝「斉が莒を伐ると,莒子は紀鄣に奔った」,杜預曰県東北有紀城.地道記曰:「海中去岸百五十步,有秦始皇碑,長一丈八尺,廣五尺,厚八尺三寸;一行十二字.潮水至加其上三丈,去則三尺見也.」

琅邪国(秦が置いた.建武中に城陽国を省いたとき,以て其県をして属させた.[一]雒陽の東一千五百里にある.)十三城,戸数は二万八百四,口数は五十七万九百六十七.

[一]本紀を案ずるに,永壽元年に置かれた,都尉が治める.

開陽[一]東海に属する,建初五年に属した.東武、琅邪[二]、東莞には鄆亭がある.[三]邳郷が有る.公来山が有る,或いは曰く古浮来と.[四]西海[五]、諸[六]、莒が本国である,故は城陽に属した.[七]鉄がある.崢エ谷が有る.東安城陽に属した.陽都城陽に属した.牟台が有る.[八]臨沂東海に属した.叢亭が有る.[九]即丘侯国は,故は東海に属した,春秋に曰く祝丘と.曙国は,故は東海に属した.概亭が有る.[一0]姑幕[一一]

[一]杜預曰く古の鄅である.左伝の哀三年に城啓陽とある,杜預曰く開陽である.

[二]山海経が云うに琅邪台が有る,勃海の間,琅邪の東に在る.郭璞曰く:「琅邪は海辺に臨み,山が有り嶕嶢特起し,その様状は高台のようである.此が即ち琅邪台である.」斉景公曰く:「吾は海に循して而して南す,放つ乎琅邪.」越絶に曰く:「句踐は琅邪に徙ると,観台を起てた,台周は七里,以て東海を望む.」史記に曰く秦始皇は黔首三万戸を琅邪台下に徙した.伝に勞山が有る.

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[三]左伝曰く「公処鄆」.

[四]左伝隠公八年に浮来で盟約す,杜預曰く邳来山の間であり,号して曰く邳来と.荘公九年に鮑叔が管仲を受け,堂阜に及び而して之を脱する.杜預曰く:「東莞の蒙陰県の西北に夷吾亭が有る,或いは曰く鮑叔が夷吾の縛を此で解き,因てそう名づけたのである.」即ち古の堂阜である也,東莞は後に(名)[郡]と為った.

[五]東観書に曰く勝山が有る.博物記では:「太公呂望が出た所が,今の東呂郷に有る.また棘津に釣りした,其の浦は今も存る.」

[六]左伝荘公二十九年に「城諸」とある,杜預曰く諸県は城陽郡に在った.また隠公四年に「莒人伐,取牟婁」とある,杜預曰く県の東北に婁郷が有る.

[七]左伝成公八年に申公が巫臣会渠丘公,杜預曰く県は蘧丘里に有る.

[八]左伝宣公元年に平州で会った,杜預曰く県の西に在る.

[九]左伝隠公六年に艾で盟をおこなった,杜預曰く県の東南に艾山が有る.七年「城中丘」とある,杜預曰く県東北に中丘亭が有る.博物記曰く:「県の東界は次睢で大叢社が有る,民は之を謂うに食人社と,即ち次睢之社である.」

[一0]左伝荘公九年に蔇で盟をおこなった,杜預曰く県北に在る.

[一一]左伝昭五年「莒牟夷以牟婁及防茲来奔」,杜預曰県東北有茲亭.博物記曰淮水入.城東南五里有公冶長墓.

彭城国(高祖が楚の為に置いた,章帝が改めた.雒陽東千二百二十里にある.)八城,戸数は八万六千一百七十,口数は四十九万三千二十七.

彭城[一]は鉄を有す.武原と傅陽に柤水が有る.[二]呂留[三]、梧菑丘、廣戚は故<もと>は沛(国)に属した.

[一]古の大彭邑である.北征記では城の西二十里に山が有る,山には楚の元王の墓が有る.伏滔の北征記に曰く:「城の北六里に山が有る,臨泗には,宋桓魋石槨が有る,皆青石で,隠公が亀龍鱗鳳之象を起てたのである.」

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 [二]左伝の襄公十年に偪陽を滅ぼしたとある,杜預曰く即ち此県である也.

[三]西征記に曰く城中に張良廟が有る.

廣陵郡(景帝が江都として置いた,武帝が更名した.建武中に泗水国を省き,其県を以って属させた.雒陽東一千六百四十里にある.)十一城,戸数は八万三千九百七,口数は四十一万百九十.

廣陵[一]には東陵亭が有る.[二]江都には江水祠が有る.高郵平安淩泗水に属した.東陽臨淮に属した.長洲澤が有る,呉王濞太の倉が此処に在る.[三]射陽臨淮に属した.[四]鹽瀆臨淮に属した.輿侯国は,故は臨淮に属した.堂邑臨淮に属した.鉄が有る.春秋時には曰く堂と.海西東海に属した.

[一]呉王濞の都した所は,城の周りが十四里半である.

[二]博物記曰く:「女子杜姜は,左道を行い神に通じたため,県は以て妖と為し,獄に閉じ込めて桎梏を嵌めた,卒變形莫知所極.その状況が以て上され,因って以って其処に廟祠を為すことになった,号して曰く東陵聖母である.」

[三]県は多麋.博物記に曰く:「千千為,草根を掘って食べる,其処は泥から成っている,名づけて曰く麋oである.民人は此oに随って種稻し(種を蒔き),耕さずして而して穫る,其の收める(収穫)や百倍である.」又扶海洲上に草が有る名づけて,其の実は之を食べること大麥の如し,従って七月には稔り熟す,民は斂しくして穫て冬に至って乃ち訖す,名づけて曰く自然穀,或いは曰く禹余糧.

[四]梁湖が有る.地道記曰く博支湖が有る.

下邳国(武帝が臨淮郡として置いた,永平十五年に更為して下邳国とした.雒陽東千四百里にある.)十七城,戸数は十三万六千三

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百八十九,口数は六十一万一千八十三.

下邳東海に属する.[一]葛嶧山,本嶧陽山が有る.[二]鉄が有る.徐が本国である.樓亭が有る,或いは曰く古蔞林と.[三]僮侯国.睢陵、下相、淮陰[四]、淮浦、盱台、高山、潘旌、淮陵.取慮には蒲姑陂が有る.[五]東成、曲陽侯国は,故は東海に属する.司吾侯国は,故は東海に属する.良成東海に属する.春秋時には曰く良と.[六]夏丘沛に属する.

[一]戴延之西征記に曰く:「沂水が有る,城西から西南にむけて泗水に注ぐ,(またそれとは)別に城の南を下に迴って,亦泗水に注ぐ.旧くは橋を有した処であり,それは張良が黄石公と此橋で会ったという.」

[]山出名桐,伏滔北征記曰今槃根往往而存.

[三]杜預曰く僮県東南に在る.伏滔北征記に曰く:「県の北に大が有る,徐君の墓である,延陵解之処.」

[四]下郷は南昌亭を有する,韓信が寄食した処である.

[五]左伝の昭十六年に斉は師して蒲隧に至るとある,杜預曰く県の東に蒲姑陂が有る.

[六]左伝の昭十三年に晉は良に於いて呉と会った(会盟した?).

右(以上)は徐州刺史に所属する,郡国は五つ,県侯国は六十二である.[一]

[一]魏氏春秋に曰く:「初平三年,琅邪﹑東海を分けて城陽﹑(新)[利]城﹑昌慮郡を為した.建安十一年,昌慮を省き東海と併せた.」