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後漢書志第二十四

百官一

太傅太尉司徒司空将軍

漢之初めに興るや,承継は大いに乱れ,兵は戢に及ばず,法度の草創するや,秦の制を略すかそれに依り,後嗣は循に因った.景帝に至り,呉楚之難を感じ,始めて諸侯王を抑え損ねた.武帝に至るに及んで,多くの所が改め作られ,然るに而して奢廣して,民用は匱乏となった.世祖が中興すると,務めて節約に従い,官を併せて職を省き,費を減らすこと億計,以て復た殘缺を補った所であるが,身に及んでは未だ改まらず,而して四海は(その)風に従い,中国は安楽であった也.

昔周公は周官を作り,職を分けて明を著し,法度は相持して,王室は微と雖も,猶能く久しく存す.今其の遺された書は,以て周室を観るに牧民之徳が既至した所のものであり,又其は有益であり来るべき事への典範であって,殆んど未だ窮する所有らざるものなのである也.故新汲令王隆は小学漢官篇を作り,諸文倜説を,較略したが究めなかった.[一]唯、班固のみが百官公卿表を著し,漢承け秦置いた官の本末を記したのである,王莽において訖わり,條貫に差有った;皆孝武の奢廣之事を然りとし,また職分は未だ悉らなかったのである.世祖の節約之制は,宜しく常憲と為すがよく,故に其の官簿に依り,職分に粗注し,以て百官志を為すことにした.[二]凡そ官を置く本は,中興に及んで省く所にある,因って復見する者が無い,既に漢書百官表が在ることから,(官の全てを)復悉く載せるということはしない.

[一]案ずるに:胡廣注は隆此篇,其論之注で曰く:「前の安帝の時に,越騎校尉劉千秋校書東観,好事者樊長孫與書曰:『漢家の禮儀は,叔孫

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通等が草創する所であり,皆律令に随い理官に在った,几閣に蔵したが,記録は無く,久しく令した二代之業は,闇のなかにあって而も彰かでなかった.誠に宜しく撰び次いで,周禮に擬して依り,位を定めて職を分け,各々條序有った,人に令して愚智を無くさせ,入朝するに惑わなくなった.君は公族を以って元老とし,正丁其任ずる焉可以已!』劉君は甚だ其言を然りとし,與邑子通人郎中張平子參議未定,而劉君遷為宗正、衛尉,平子為尚書郎、太史令,各務其職,未暇恤也.至順帝時,平子為侍中典校書,方作周官解説,乃欲以(漢)[漸]次述漢事,會復遷河闡梶C遂莫能立也.述作之功,独不易矣.既感斯言,顧見故新汲令王文山小学為漢官篇,略道公卿外内之職,旁及四夷,博物條暢,多所發明,足以知舊制儀品.蓋法有成易,而道有因革,是以聊集所宜,為作詁解,各隨其下,綴續後事,令世施行,庶明厥旨,廣前後憤盈之念,搶風哲多聞之覽焉.」

[二]臣昭曰く:本志は既に久しく是に注して曰く百官簿とし,今昭は又異同を採って,倶して細字を為す,或いは相冒すが如し,兼応注本注,尤須分顯,故凡是舊注,通為大書,稱「本注曰」,以て其の異を表す.

太傅は,上公の一人である.[一]本注に曰く:職掌は善導を以って,常職ではない.世祖が以て卓茂をして太傅と為した,薨じたため,因って省いた.其後は帝ごとに初め即位してから,輒ち太傅を置き録尚書事とし,(太傅が)薨じれば,輒ち省くようになった.[二]

[一]大戴記に曰く:「傅は,傅之徳義である也.」応劭の漢官儀に曰く:「傅は,覆である也.」賈生曰く:「天子が先聖之徳に於いて喩えず,君民之道を知らず,禮義之正しきを見ず,詩書は無宗,学業は不法である,此は太師之責であります也,古えには斉の太公が之を職としました.天子が庶民に恵まず,大臣に礼せず,折獄に中らず,百官に経無く,喪で哀せず,祭で敬わず,齊戒せず,事に於いて信じない,此は太傅の責であります也,古えには周公が之を職しました.天子が位に処するに端なく,業を受けるに不敬であり,言語が不,音聲が不中であり,その進退升降の際に以て禮せず,俯仰周旋するに節無い,此は太保の責であります也,古えには燕の召公が之を職しました.天子が燕業するに其学に反し,左右之習いに其師を詭し,諸侯を荅し,大臣を遇するに,文雅之辞,已語之適を知らず,簡聞小誦するに,博なく習ってもいない,此は少師の責であります也.天子が居処

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出入するに以て禮ならず,衣服冠帯は以て制ならず,御器列側は以て度ならず,采服従好は以て章ならず,忿スするに以て義せず,與奪するに以て節せず,此は少傅之責であります也.天子が居処するに燕私し,安ずるに而して易く,楽するに而して耽じ,飲食するに時ならず,醉飽するに節せず,寢起するに早晏の常無く,玩を好んで器を弄ぶに制無し,此は少保之責であります也.此れは古の天子が自ら輔弼之禮としたのです也,自ら天子と為って而も賢智之を維う,故に能く慮って失計すること無く,挙げて過事無く,身を終えるに中を得たのです.」

[二]胡廣の注に曰く:「猶古には宰總己之義也.」案ずるに:靈帝之初め,以て陳蕃を太傅としたが,陳蕃は誅され,胡廣を以って代えた,(太傅が)一人に止まらないのはこれに始まるのである也.董卓が長安に在ったとき,また自尊して太師と為し,位は太傅の上に在った.応劭の漢官儀に曰く:「太師は,古の官である也.平帝元年,孔光が太傅を以って見え,詔を授かったが,太師は朝に無かった,十日に一度餐を賜り,靈壽杖を賜る,省中で施坐するに几を置く.太師が入省中は杖を用いた,是より而して闕(した/となった).」又漢官に云うに:「太傅長史は一人,秩千石,掾属は二十四人,令史、御属は二十二人.」荀綽の晉百官表の注に曰く:「漢の太傅は掾属十人,御属一人,令史十二人を置く,長史を置くのは,漢(の制度)と異なる.」

太尉は公である,一人である.[一]本注に曰く:職掌は四方の兵事を功課する,歳盡すれば即ち其の殿に奏じて最而して賞罰を行う.凡そ郊祀之事では,亞獻を掌る;大喪にあっては則ち南郊に謚を告げる.凡そ国に大造大疑有れば,則ち司徒、司空と通じて而して之を論じる.国に過事有れば,則ち二公と通じて之を諫め争う.世祖が即位すると,大司馬を為した.[二]建武二十七年,改めて太尉と為した.[三]

[一]応劭曰く:「上自下を安んずるは曰く尉であり,武官は悉く以て為稱する(「尉」の名をつけて称する).」前書に曰く「秦の官」である,鄭玄の注では月令に亦曰く「秦の官」であると.尚書中候が云うに舜が太尉を為し,東拠る、秦の官ではない,此を以って追難玄焉.臣昭曰く:緯候の書では,宗は貴く神は詭なり,出没隠顯,動挾誕怪.該覈陰陽,徼迎起伏,或いは先に徴有れば,時は能く後驗する,故守寄構思,雜稱曉輔,通儒達好,時略文滞.公輸、益州,具於張衡之詰;無口漢輔,炳乎尹敏之諷.圖讖紛偽,其俗多矣.太尉の官は実に天を司る,虞舜は宰を作り,璇衡賦政,将是拠後位以書前,非唐官之実号乎?太尉の職とする所は,即ち

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舜の掌った所である,遂に同じ掌を以って太尉と追称したのであって,乃ち中候之妄は(中候の言うことは妄言であり),蓋し官これ謬りを為すに非.康成は淵博であり,自ら中候に注したのであるが,裁して禮に注するに及んで而して舜の位を忘れたなど,豈に其の実なる哉!(どうしてそんなことが実のことなど言えるだろうか!) 此は是が中候に於いて誹り(譏)を発せず,而も月令に於いて之を正そうとしてのことなのだろう也.廣微之誚は,未だ碩意を探しだせない.説菀に曰く「当に堯之時,舜が司徒と為った」.新論に曰く「昔堯は大麓者に於いて試みて,録天子事を領させたのは,今の尚書官の如くであった矣」.古史考に曰く「舜は百揆に居って,百事を總領した」.説者は以て百揆をして堯が初め別置したものとするが,周に於いて(それは)宰と更名しているのであり,斯く其れ然るものである矣.

[二]漢官儀に曰く:「元狩六年に太尉を罷めて,法は周制とし司馬を置いた.時に議者は以て漢軍を為す官に候、千人、司馬が有ったため,故に『大』を加えて大司馬と為したのである,大小の司馬之号はその所以が別であり異なるものである.」

[三]蔡質漢儀に曰く:「府は闕を開く,王莽が初めに大司馬を起て,後に神器を簒盜したため,故に遂に其の闕を貶去した.」漢官儀に曰く:「張衡が云うに:『明帝は以て司馬、司空府を[為し] [已に栄えると], (復)太尉府を更[治]しようと欲した.時に公は趙であった也.西曹掾安鄭均は,素より名節を好んでいたため,以て朝廷をして北宮を新たに造らせようとして,整飭官寺していることについて,旱魃が虐げを為しており,民は命に堪えません,かつて殷の湯王には六事無く,周は雲漢之辞を宣られました.今、府(の置かれているところ)館陶公主の第舍であり,員職は既に(元々)少なく,相受けること自ら足りております(として中止するよう意見を述べた).趙が(鄭均らの意見を受容れて)表して之を陳べたところ,即ち聴許された([見]聴許).其の冬,[帝は] 臨辟雍(辟雍に臨んだ,雍に臨辟した),二府に歴して,その壮麗を光観した,而も太尉[の府]は独り卑陋していた(と云う).顯宗は東顧すると歎息して曰く:「椎牛縱酒(牛を潰して酒を振舞うように),乞兒(乞食)に宰を為さしむること勿れ.」時に趙子の趙世は侍中と為っていて,驂乘していたことから,帰って具に之を白したところ,趙以て恨みを為し,頻る鄭均を譴責したため(譴はせめる、責も責める、ともに非難するの意味),鄭均は自劾して去り,道で病を発して亡くなった.』」古今注に曰く「永平十五年,太尉、司徒、司空の府は開陽城門内に更作った」とあり,此と同じでない.」臣昭が案ずるに:劉虞が大司馬と為って,而して太尉と並置されたのである焉.

長史は一人,千石である.[一]本注に曰く:諸曹事を署す.

[一]盧植の禮注に曰く:「周の小宰の如し.」

掾史属は二十四人である.本注に曰く:漢舊注東西曹掾比四百石,余り(残りの)掾は比三百石,属は比二百石,故に曰く公府掾は,比古元士三命者也.或いは曰く,漢の初めには掾史は辟し,皆之を上言した,故に秩は命士に比すこと有ったのである.其の言わざる所は,

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則ち百石属と為した.其の後皆自ら辟除し,故に通じて百石を為すと云う.[一],西曹は府史の署用を主とする.東曹は二千石の長吏の遷除及び軍吏を主とする.戸曹は民戸、祠祀、農桑を主とする.奏曹は議事の奏上を主とする.辞曹は辞訟の事を主とする.法曹は郵驛科程の事を主とする.尉曹は卒徒轉運の事を主とする.賊曹は盜賊の事を主とする.決曹は罪法の事を主とする.兵曹は兵事を主とする.金曹は貨幣、鹽、鉄の事を主とする.倉曹は倉穀の事を主とする.黄閤主簿は録省事にかかわる.[二]

[一]漢書音義に曰く:「正が曰く掾,副が曰く属である.」

[二]応劭漢官儀に曰く:「世祖は詔した:『今の選挙を方じるに,賢佞朱紫が錯用されている.丞相の故事,四科取士をする.一に曰く徳行高妙にして,志節清白なもの;二に曰く学に通じ行を修めたもの,經は博士に中る;三に曰く法令に明達し,以て決疑するに足り,能く章案じ問い覆すもの,文は御史に中る;四に曰く剛毅多略であり,事に遭って惑わず,以て決するに足るに明らかなるもの,才は三輔(地域の諸県)の令に任じられる:皆(どれも)孝悌廉公之行有るものとする.今より以後,四科を審らかにして辟召せよ,刺史、二千石に及んでは茂才を察するに孝廉之吏で尤も異なる(抜きん出た)ものとせよ,務めて実覈を盡し,選擇するに縣邑に於いて英俊、賢行、廉求A平端なものとすること,務めて授試して以て職をあたえるものとする.其人に非ざる有って,計に臨んで署に過ぎ,官事を習うに便じず,疏を書するに端正でなく,詔書(されたとおり)に如かざるなら,有司は罪名を奏上し,併せて挙げた者を正せ.』又舊河隄謁者,世祖は三府の掾属を以って謁者と為して之を領させるよう改め,遷超すれば御史中丞、刺史となり,或いは小郡を為した.黎陽を謁者に監察させて,世祖は幽、并州の兵騎を以て天下を定めた,故に黎陽に於いて営を立て,謁者を以て之を監(督)させた,その兵騎千人は,復除すること甚だ重かった.謁者は任輕であり,多放情態であったため,順帝は公が解いた(解任した)府の掾で清名威重有る者を改めて用い,牧守を超えて遷した焉.」漢官目録に曰く:「建武十二年八月乙未詔書あり,三公は茂才各一人を,廉吏各二人を挙げること;光祿は茂才四行について各一人を歳挙し(年に一度挙げる),廉吏三人を察すること;中二千石は廉吏各一人を歳察すること(年に一度察する),廷尉、大司農は各二人である;兵を将いる将軍は廉吏各二人を歳察すること;監察御史、司隸、州牧は茂才各一人を歳挙すること.」

令史及び御属は二十三人.本注曰く:漢舊注には公の令史は百石,中興より以後,注は石数を説かない.御属は公御を為すのを主とする.[一]閤下令史は閤下の威儀の事を主とする.記室令史は上章表報書記を主とする.門令史は府門を主とする.其の

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余りの令史は,各々曹の文書を典じる[二]

[一]荀綽の晉百官表の注に曰く:「御属は録事の如し也.」

[二]応劭漢官儀には官騎三十人が有る.

司徒は,公で一人である.[一]本注に曰く:人民の事を掌る.凡そ民に孝悌、遜順、謙儉を教え,養生送死之事は,則ち其の制を議し,其の度を建てる.凡そ四方の民事を功課し,歳盡して則ち其の殿に奏上し最而して賞罰を行う.凡そ郊祀之事では,牲を省き濯を視ることを掌る,大喪では則ち安梓宮を奉じることを掌る.凡そ国に大疑大事有れば,太尉と同じはたらきをする.世祖が即位して,大司徒を為したが,[二]建武二十七年に,「大」を取去った.[三]

[一]孔安国曰く:「主徒,教以禮義.」

[二]漢官儀に曰く:「王莽の時に,議して漢は司徒官を無くしたため,故に三公を定め之を号して曰く大司馬、大司徒、大司空としたのである.世祖が即位すると,因って而改めなかった.」蔡質漢儀に曰く:「司徒府は蒼龍闕と対しており,尊者に於いて厭われ,敢えて府を号しなかった.」応劭曰く:「此は然らざる.丞相舊位して長安に在った時,府には四出門が有り,隨時事を聴いた,明帝が本は欲して之に依り,太尉、司空に於いて迫ったが,但東西門を為す耳であった.国に大議有る毎に,天子の車駕は親しく其の殿に御幸した.殿の西には王侯以下更衣が併存した.毎歳州郡は長吏が臧否した民の疾苦する所を聴き採り,還條して之を奏上した,是為之挙謠言者也(これを為すのがつまり挙謠言者である).頃者挙謠言者,掾属令史都會殿上,主者大言某州郡行状云何,善者同聲稱之,不善者各爾銜枚.大較皆取無名勢,其中或有愛憎微裁黜陟之闇昧也.若乃中山祝恬,踐周、召之列,当軸処中,忘謇諤之節,憚首尾之譏,縣囊捉撮,無能清澄,其與申屠須責ケ通,王嘉封還詔書,邈矣乎!」周禮有外朝,干寶注曰:「禮,司徒府中有百官朝會殿,天子與丞相決大事,是外朝之存

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者.」

[三]漢舊儀に曰く:「哀帝元壽二年,丞相を以て大司徒と為した.郡国守長史は上計して事が竟ると,遣公して出庭し,上は親しく百姓の疾苦する所を問うた.記室掾史一人が畢を大音讀し,遣曰:『詔書殿下禁吏無苛暴.丞史帰告二千石,順民所疾苦.急去殘賊,審擇良吏,無任苛刻.治獄決訟,務得其中.明詔憂百姓困於衣食,二千石帥勧農桑,思稱厚恩,有以賑贍之,無煩撓奪民時.今日公卿以下,務飭儉恪,奢侈過制度以益甚,二千石身帥有以化之.民冗食者請謹以法,養視疾病,致醫藥務治之.詔書無飾廚養,至今未變,又更過度,甚不稱.帰告二千石,務省約如法.且案不改者,長吏以[聞].官寺郷亭漏敗,牆垣阤壞不治,無辦護者,不勝任,先自劾不応法.帰告二千石聴.』十年,相国と更名した.」獻帝の方を案ずるに,董卓は太尉から進んで相国と為り,而も司徒は省かれなかった.建安末に及んで,曹公が丞相と為り,郗慮が御史大夫と為って,則ち三公の官を罷めたのである.荀綽の晉百官表注に曰く:「漢の丞相府の門は蘭が無い,鈴を設けず,警鼓しない,其の深大闊遠を言うのである,節に限り無し(限りない権限が与えられている)ということである也.」

長史は一人,千石である.掾属は三十一人.[一]令史及び御属は三十六人.本注に曰く:世祖が即位すると,武帝の故事を以て,司直を置いた,丞相府に居して,諸州を録することを助督した,建武十八年に省かれた也.[二]

[一]漢官目録は曰く三十人.

[二](漢)[獻]帝起居注に曰く:「建安八年十二月,司直を復して置いたが,司徒には属さなかった,中都官を督することを掌り,諸州は領しなかった.九年十一月,詔あって司直は司隸校尉に比し,同じ席に坐すときには上座に在るとして,假の伝を置いた,従事三人,書佐四人である.」

司空は,公で一人である.[一]本注曰く:水土事(国家の土木工事)を掌る.凡そ城を造営し邑を起て、溝洫を浚渫し、墳防を修築する事にかかわり,則ち其の利を議し,

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其の功を建てる.凡そ四方の水土(事)を功課し,歳盡して則ち其の殿に奏上し最而も賞罰を行う.凡そ郊祀之事にあっては,掃除楽器を掌り,大喪にあっては則ち将校復土を掌る.凡そ国に大造大疑有れば,諫め争うことは,太尉と同じである.[二]世祖が即位して,大司空を為し,[三]建武二十七年,「大」を取去った.[四]

[一]馬融曰く:「職掌は城郭を造営することで,主司空土以居民.」

[二]韓詩の外伝に曰く:「三公これ得るは何か?曰く司馬、司空、司徒である也.司馬は天を主とし,司空は土を主とし,司徒は人を主とする.故に陰陽が和せず,四時が節せず,星辰が度を失い,災變が非常であるのは,則ち司馬の責任である.山陵が崩阤し,川谷が通じず,五穀が植さず(稔らず),草木が茂らないのは,則ち司空の責任である.君臣が正しからず,人道が和まず,国に盜賊多く,民が其の上を怨むのは,則ち司徒の責任である.故に三公は其の職を典,其の分を憂い,其の辨を挙げ,其の得るを明らかにする,此れ之を謂うに、三公之事と.」

[三]応劭漢官儀に曰く:「綏和元年,御史大夫の官を罷めて,周制に法り,初めて司空を置いた.議者はまた以て官獄司空と道を縣けるとして,故に覆して『大』を加え,大司空と為したのである,亦た大小之文を別にした所以である.」

[四]漢舊儀に曰く:「御史大夫上計丞長史曰く:『詔書殿下布告郡国:臣下承宣無状,多不究,百姓不蒙恩被化,守長史到郡,與二千石同力為民興利除害,務有以安之,稱詔書.郡国有茂才不顯者言[上].殘民貪污煩擾之吏,百姓の苦しむ所,務めて任用する勿れ.方察不稱者,刑罰務於得中,悪を悪むのは其身に止める.選挙民侈過度,務有以化之.問今歳善惡孰與往年,対上.問今年盜賊孰與往年,得無有輩大賊,対上.』」臣昭が案ずるに:獻帝の建安十三年,また司空を罷めて,御史大夫を置いた.御史大夫の郗慮である,郗慮が免じられると,補を得なかった.荀綽の晉百官表の注に曰く:「獻帝は御史大夫を置いた,職は司空の如きであったが,侍御史を領しなかった.」

属は長史が一人,千石である.掾属は二十九人.[一]令史及び御属は四十二人である.

[一]漢官目録が云うに二十四人である.

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将軍は,常置しない.本注に曰く:職掌は背叛を征伐する.公(三公)に比肩する者は四つ:第一に大将軍,次に驃騎将軍,次に車騎将軍,次に衛将軍である.また前、後、左、右将軍がある.[一]

[一]蔡質の漢儀に曰く:「漢が興ると,大将軍、驃騎を置き,位は丞相に次いだ,車騎、衛将軍、左、右、前、後は,皆金紫(の綬)で,位は上卿に次いだ.京師兵衛を典,四夷に屯して警戒する.」

初め,武帝は衛青を以て何度も征伐させ功あったことから,以て大将軍とし,これを尊寵しようと欲した.古より尊ばれる官は唯、三公のみだった,皆将軍は秦、晉より始まり,以て卿号を為したが,故は大司馬を置き官号はこれを以て冠したのである.其の後の霍光、王鳳等は皆然る.成帝の綏和元年,大司馬に印綬を賜り,将軍官を罷めた.世祖が中興すると,呉漢が大将軍を以て大司馬となり,景丹が驃騎大将軍となり,位は公の下にあった,前、後、左、右雑号将軍に及んでは多であり,皆主に征伐を職掌とし,事が訖れば(終われば)皆罷めたのである.[一]明帝の初め即位して,弟の東平王劉蒼が賢才を有することから,以て驃騎将軍とした;王である故をもって,位は公の上にあったが,数年後に罷めた.章帝即位し,西羌が反乱した,故に舅の馬防をもって行車騎将軍とし之を征し,還って後に罷めた.和帝即位し,舅の竇憲をもって車騎将軍とし,匈奴を征し,位は公の下にあった;還り復して功有り,遷って大将軍となり,位は公の上に在った;復して羌を征西し,還って免官となり,罷めた.安帝即位して,西羌が寇乱したため,復して舅のケ騭をもって車騎将軍としこれを征し,還って大将軍に遷ったが,位は竇憲のときのようであり,数年してまた罷めた.安帝より政治は衰缺し,始めから嫡舅耿寶をもって大将軍とし,京都に常在した.順帝が即位すると,また皇后の父、兄、弟をもって相続けて大将軍とし,三公のようにした焉.[二]

[一]魏略曰く:「曹公は都護軍中尉を置き,護軍将軍を置いた,亦皆比二千石であった,軍を旋わすや並んで止め罷めた.」

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[二]梁冀別伝に曰く:「元嘉二年,又梁冀に禮儀を加えた.大将軍が来朝し,端門若龍門に到ると,謁者が将引した.掾属、舍人、令史、官騎、鼓吹各十人を増した.」

(属官として)長史、司馬は皆一人,千石である.[一]本注に曰く:司馬は主に兵事に関わり,太尉に似ている.従事中郎は二人,六百石である.本注曰く:職は謀議に参加する.[二]掾属二十九人.[三]令史及び御属三十一人.本注曰く:此れはどれも府の員職である.また騎三十人,及び鼓吹に官を賜る.[四]

[一]東観書曰く:「竇憲は大将軍を作り,長史、司馬を置き員吏を官属とした,位は太傅に次いだ.」

[二]東観書曰く:「大将軍が出征するに,中護軍一人を置く.」

[三]本伝を案ずるに,東平王は驃騎を作り,掾史四十人とした.

[四]応劭漢官儀に曰く:「鼓吹は二十人,非常員である.舍人は十人.」

其の領する軍は皆部曲を有する.大将軍は五部を営する,部には校尉一人を充て,比二千石とする;軍司馬は一人とし,比千石とする.部の下には曲がある,曲は軍候一人を有し,比六百石とする.曲の下に(純)[屯]が有り,(純)[屯]長一人を置き,比二百石とする.其の校尉を置かない部は,但し軍司馬一人が束ねる.また軍は假司馬、假候を有し,皆副貳と為す.其の別営領属は別部司馬と為す,其兵の多少は各々時宜に随う.門には門候が有る.其余りの将軍は,征伐の時々で置く,無員職(定員が無い)である,それもまた部曲、司馬、軍候を有し以て兵を領する.其の職は吏部集各一人,営事に知悉しまとめることである.兵曹掾史は主に兵事器械を司る.稟假掾史は主に稟假禁司を司る.また外刺、刺姦を置き,主に罪法を司らせる.

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明帝は初めて度遼将軍を置いて,以て南単于を衛させたが新たに降った者には二心有るものがいたため,後に何度か不安を醸したことがあった,そこで遂に常守と為った.[一]

[一]応劭漢官儀に曰く:「度遼将軍は,孝武皇帝が初めて范明友を用いた.明帝(十)[永平]八年,行度遼将軍事である;安帝の元初元年,真職として置いた.銀印青綬,秩二千石.長史、司馬六百石.」東観書が云うには司馬二人である.