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後漢書巻六

孝順孝沖孝質帝紀第六

孝順皇帝は諱を保といい,[一]安帝之子である也.母は李氏といい,閻皇后に害される所と為った.永寧元年,立てられて皇太子と為った.延光三年,安帝の乳母の王聖、大長秋の江京、[二]中常侍の樊豊が太子の乳母の王男、廚監の邴吉を譖じたため,之を殺したが,太子は何度も歎息を為した.王聖等は後に禍有ることを懼れて,遂に樊豊、江京と共に太子を搆陷したため,太子は坐して廃され済陰王と為った.明くる年の三月,安帝が崩じられて,北郷侯が立つと,済陰王は以って廃黜されて,上殿を得ずして梓宮に親臨した,悲号して食わなかったため,内外の僚で之を哀しまないものは莫かった.北郷侯が薨じるに及ぶと,車騎将軍の閻顯及び江京は,中常侍の劉安、陳達等と太后に建白し,祕して喪を発せず,而して更めて諸国の王子を徴して立てようとし,乃ち宮門を閉ざすと,兵を駐屯して自ら守った.

[一]謚法に曰く:「慈和服は曰く順.」伏侯の古今注には曰く:「之を保つという字は曰く守である.」

[二]前書に曰く:「長秋とは,皇后につく官である,本は秦の官で将行というものであった也,景帝が更名して大長秋とした.或いは中人を用い,或いは士人を用いた.秩は二千石.」中興してからは常に宦者を用いた.

十一月丁巳,京師及び郡国十六で地震があった.是の夜,中黄門の孫程等十九人が[一]共だって江京、劉安、陳達等を斬ると,徳陽殿の西鍾下に於いて済陰王を迎え,[二]皇帝に即位した,年は十一.近臣尚書以下,輦を従えて南宮に到ると,

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雲台に登って,百官を召した.尚書令の劉光等が奏言した:「孝安皇帝は聖徳明茂であらせられましたが,天下より早なさいました.陛下は正統でありますからには,当に宗廟を奉じるべきであります,而しながら姦臣が交搆して,遂に陛下のような龍であるおかたを蕃国に潜めるよう令したため,[三]僚遠近で失望しないものは莫かったのです.(とはいえ)天命は有常であります,北郷は永からずして,漢の徳は盛んなほど明らかとなり,福祚は孔章となりました(甚だ明らかとなりました).[四]近臣は策を建て,左右が扶翼し,内外は心を同じくして,神明について稽合いたします.陛下は踐祚なさったからには,鴻緒を奉遵されて,郊廟の主と為り,祖宗の窮まること無き烈しさを承続され,上は天心に当たられ,下は民望に猒されんことを.而して即位は倉卒でありまして,典章には缺けるもの多いようすです,そこで礼儀を條案されんことを請うて,分別具奏するしだいです.」制あって曰く:「可.」乃ち公卿百僚を召して,虎賁、羽林の士を使って南、北宮諸門に駐屯させた.[五]閻顯兄弟は帝が立ったことを聞くと,兵を率いて北宮に入ってきた,尚書(郎)の[郭]鎮はかれらと鋒刃を交え,遂に閻顯の弟で尉の閻景を斬った.戊午,使者を遣わして入省させると,璽綬を奪い得て,乃ち嘉徳殿に御幸し,侍御史に持節させて遣わすと閻顯及び其の弟で城門校尉の閻耀、執金吾の閻晏を収めさせ,並んで獄に下して誅した.己未,開門し,兵の駐屯を罷めた.壬戌,司隸校尉に詔勅をくだした:「惟だ閻顯、江京の近親のみ当に辜に伏して誅すべし,其の余りは崇ェに務めて貸しとするよう.」壬申,高廟に謁した.癸酉,光武廟に謁した.

[一]十九人とは,孫程伝に見える.

[二]漢官儀には曰く「崇賢門内の徳陽殿」である也.

[三]太子が廃されたことに従い王と為った,故に曰く龍が蕃国を潜めさせたとあるのである.

[四]孔とは,甚だということ也.章とは,明らかということである也.

[五]漢官儀には曰く:「書では『虎賁三百人』と称するが,其の猛く怒ること虎が奔赴するが如きを言ってのことである也.孝武の建元三年に初めて期門として置かれ,平帝の元始元年に更名して虎賁郎となった.」又:「武帝の太初元年に初めて建章営騎を置いた,後に更名して羽林となった.天には羽林之星が有ることを以って,故にその名を取ったのである焉.又従軍して事に死んだものの子孫を取って羽林官で養い,以って五兵を教えた,号して曰く羽林孤兒である.光武が中興したおり,征伐之士で労苦した者を以って之を為した,故に曰く羽林士とする.」

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乙亥,益州刺史に子午道を罷めて, 斜路を通じさせるよう詔した.[一]

[一]子午道は,平帝の時に王莽が之を通ったものである.三秦記には曰く,子午とは,長安の正南ということである.山名は秦領谷,一名に樊川という.斜は,漢中の谷名である.南の谷がと名づけられ,北の谷が斜と名づけられた,首尾七百里である.

己卯,少帝を葬るのに諸王の礼を以ってした.司空の劉授が免じられた.[一]公卿以下に銭穀を賜ったが各々差が有った.十二月甲申,少府で河南出身の陶敦を以って司空と為した.[二]

[一]東観記には曰く:「悪逆に阿附して,其の人に非ざるを辟召したことを以って,策あって罷めたのである.」

[二]陶敦は字を文理という,京県の人である也.

(其)郡国の守相で視事すること未だ歳を満たさない者でも,一切に孝廉吏を挙げるよう令した.[一]

[一]漢の法では,視事すること歳を満たしてから乃ち挙げることを得た.今帝は新たに即位したため,恩恵を施すため,未だ歳を満たさないと雖も,人を挙げるよう令すること得たのである.

癸卯,尚書が奏するに有司に下し,收め還して延光三年九月丁酉に皇太子を以って済陰王と為すよう詔書あるよう請うてきた.奏は可とされた.

京師に大疫あった.

辛亥,公卿、郡守、国相に詔をくだし,賢良方正、能く直言極諫する士を各一人挙げさせた.尚書令以下輦に従って南宮に御幸した者は,皆秩を増し布を賜ったが各々に差が有った.

永建元年春正月甲寅,詔に曰く:「先帝は聖徳であった,しかし祚を享けて未だ永からずして,早鴻烈してしまった.姦が縁間に慝われ,人が怨讟を庶<こいねが>ったため,

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上は和気を干し,疫癘が災を為した.朕は大業を奉承したが,未だ能く寧済できないでいる.蓋し至理之本とは,稽私徳恵し,宿惡を蕩滌するにある,与人と(共に)更始せんとし,其れ天下に大赦する.男子には爵を賜る,人は二級,父後、三老、孝悌、力田と為った[人]は三級,流民欲自占者は一級である;また、寡、孤、獨、篤、貧であるもので自ら存すること能わない者には粟を,人(一人当たり)五斛;貞婦には帛を,人(一人当たり)三匹賜ることとする.法に坐して当に徙されるべきものは,徙ること勿れ;亡徒で当に伝とされるべきものは,伝とされること勿れ.[一]宗室については以って罪を絶やし,皆籍に復属させる.其の閻顯、江京等と交わり通じた者については,悉く考ずる勿れ.厥<そ>の職に勉め修め,以って我が民を康んじるように.」

[一]徒囚で逃亡して当に伝捕されるべき者は,之を放って捕えること勿れ(ということである).

辛未,皇太后の閻氏が崩じられた.

辛巳,太傅の馮石、太尉の劉熹、司徒の李郃が免じられた.[一]

[一]馮石は字を次初という.東観記には曰く:「馮、劉は権貴に阿党したことを以って,李郃は人に多く疾疫あったことを以って免じられた.」

二月甲申,安思皇后を葬った.

丙戌,太常の桓焉が太傅と為った;大鴻臚の朱寵が太尉と為り,録尚書事に参じた;長楽少府で九江出身の朱倀が司徒と為った.[一]百官で輦に随いに宿したもの及び拝除された者に布を賜ったが各々差が有った.

[一]朱寵は字を仲威といい,京兆杜陵の人である.朱倀は字を孫卿といい,寿春の人である也.倀の音は丑良反.

隴西の鐘羌が叛いたため,護羌校尉の馬賢が討って之を破った.

夏五月丁丑,幽、并、涼州刺史に詔をくだし,使各実二千石以下黄綬に至るまで,[一]年老いて劣弱であるため軍事を任せられない

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者について,名を上げさせた.厳障塞,屯や備えを繕い設けると,立秋之後,戎馬を簡習した.

[一]実とは之を驗実することを謂う也.二千石とは,太守のことである也.黄綬とは,丞、尉のことである也.前書に曰く「比二百石以上は,銅印黄綬である」とある也.

六月己亥,済南王錯の子の顯を封じて済南王と為した.

秋七月庚午,衛尉の来歴が車騎将軍と為った.

八月,鮮卑が代郡を寇し,代郡太守の李超が戦歿した.

九月辛亥,初めて三公、尚書に入って奏事するよう令した.

冬十月辛巳,詔あって死罪を減じて以って徙辺(辺境への強制移住)に下すようにとした;其の亡命は贖わせたが,各々差が有った.

丁亥,司空の陶敦が免じられた.

鮮卑が辺を犯した.庚寅,黎陽の営兵を遣わして中山の北界に出屯させた.幽州刺史に告げて,其れ縁辺の郡に歩兵を増置し,塞下に列屯させるよう令した.五営に弩師を調え,郡に五人を挙げさせると,戦射を教え習わせるよう令した.[一]

[一]調は,選である也.五営とは,五校である也,長水、歩兵、射声、(胡)[屯]騎、(車)[越]騎等の五校尉のことを謂う也.

壬寅,廷尉の張皓が司空と為った.

甲辰,詔をくだして疫癘や水潦があったことを以って,人に今年の田租は半輸とするよう令するようにとした;傷害すること什に四以上については,責を収めさせること勿れとした;それに満たない者は,実を以って之を除くものとするとした.

十二月辛巳,王、主、貴人、公卿以下に布を賜ったが各々差が有った.

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二年春正月戊申,楽安王鴻が来朝した.

丁卯,常山王章が薨じた.

二月,鮮卑が遼東、玄菟を寇した.

甲辰,詔をくだして荊、豫、兗、冀四州に流した貧人に稟貸して,所在安業之(之を業に安んじさせるようにとした);疾病には醫薬を致すようにとした.

護烏桓校尉の耿曄が南単于を率いて鮮卑を撃つと,之を破った.

三月,旱,使者を遣わして囚徒を録させた.

疏勒国が使いを遣わして奉獻してきた.

夏六月乙酉,皇妣の李氏に謚を追尊して恭愍皇后と為し,恭北陵にて葬った.

西域長史の班勇、敦煌太守の張朗が焉耆、尉、危須三国を討って,之を破ったところ;並んで子を遣わして貢獻してきた.

秋七月甲戌朔,日食が有った.

壬午,太尉の朱寵、司徒の朱倀が罷めた.庚子,太常の劉光が太尉と為り,録尚書事をえた;光祿勳の許敬が司徒と為った.[一]

[一]劉光は字を仲遼という,即ち太尉である劉矩の弟である.許敬は字を鴻卿という,平輿の人である.

辛丑,下邳王成が薨じた.

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三年春正月丙子,京師に地震があり,漢陽の地が陷(没)して裂けた.甲午,詔をくだし傷害を実覈した者で,年七歳以上には銭を賜った,一人につき二千である;一家で被害をうけたものは,郡県が收斂を為すようにとした.乙未,詔あって漢陽では今年の田租、口賦を収めさせること勿れとした.

夏四月癸卯,光祿大夫を遣わして漢陽及び河内、魏郡、陳留、東郡に案行させ,貧しい人たちに稟貸した.

六月,旱があった.使者を遣わして囚徒を録させ,理軽繋.

甲寅,済南王顯が薨じた.

秋七月丁酉,茂陵園が寝したため,帝は縞素して正殿を避けた.[一]辛亥,使って太常の王龔に持節させ茂陵に告祠した.

[一]爾雅に曰く「縞は,である也」,諸V精白な者を曰く縞とする.

九月,鮮卑が漁陽を寇した.

冬十二月己亥,太傅の桓焉が免じられた.[一]

[一]東観記には曰く:「清介で無いのに辟召したため,策あって罷めることになったのである.」

是の歳,車騎将軍の来歴が罷めた.

四年春正月丙寅,詔に曰く:「朕が託すのは王公之上であるが,渉道は日に寡<すくな>く,政は厥<そ>の中を失し,陰陽の気は隔たって,寇盜が肆暴し,庶獄が彌(ことに)繁っており,憂悴永歎し,疢ずること首を疾む如きである.詩に云うことに:『君子如祉,乱庶遄已.』とある[一]三朝之会にあって,この朔旦立春に,

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海内と嘉しあって心を洗い自ずから新たにする.そこで其れ天下を赦す.甲寅に従って赦令するがこれ已来秩や属籍を復すように,三年正月已来還贖するように.其の閻顯、江京等について知識したり(知り合いであったり)婚姻していたため禁錮となっていたものは,一原して之を除くものとする.[二]ェ和に務め崇め,敬しんで時令に順うよう,典を遵び苛を去るように,以って朕の意を称するものである.」

[一]解見章紀(章帝紀に解き見られる).

[二]妻父は曰く婚,父は曰く姻.一猶皆也.

丙子,帝は元服を加えられた.[一]王、主、貴人、公卿以下に金帛を賜ったが各々差が有った.男子爵及び流民で占を欲する人に一級を,父後、三老、孝悌、力田に為った人には二級を賜った;、寡、孤、獨、篤[貧]にして自ら存すること能わざるものには帛を,[人]一匹(一人につき一匹賜った).

[一]冠也.

二月戊戌,詔あって以って民が入山して石を鑿って,藏気を発洩させているため,有司に当に禁絶する所を檢察するようさせるものであるが,それは建武、永平の故事の如くとした.

夏五月壬辰,詔に曰く:「海内には頗る異が有るという,朝廷は政を修め,太官は膳を減らし,珍玩は御さないよう.而して桂陽太守の文礱は,[一]惟だ忠を竭するだけでなく,本朝を宣暢したため,而して遠くから大珠が献じられてきた,以って幸媚を求めてきたのである,今封じて以って之を還させる.」

[一]音力公反.

五州に雨水があった.秋八月庚子,使いを遣わして死亡したものを実覈し,收斂して稟賜することにした.

丁巳,太尉の劉光、司空の張皓が免じられた.[一]

[一]東観記には曰く:「陰陽が不和であることと,久しく病に託していたことから,策あって罷めることとなった.」

九月,安定、北地、上郡を復して旧土に帰した.[一]

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[一]安帝永初五年に徙したもので,今之を復すのである.

癸酉,大鴻臚の龐参が太尉と為り,録尚書事をえた.太常の王龔が司空と為った.

冬十一月庚辰,司徒の許敬が免じられた.[一]

[一]東観記には曰く:「為陵轢使(官)[者]策罷,以千石祿終身.」

鮮卑が朔方を寇した.

十二月乙卯,宗正の劉崎が司徒と為った.[一]

[一]劉崎は字を叔峻といい,華陰の人である也.

是歳,会稽を分けて呉郡を為した.拘彌国が使いを遣わして貢獻してきた.

五年春正月,疏勒王が侍子を遣わし,及び大宛、莎車王は皆使いに奉じさせて貢獻してきた.

夏四月,京師に旱があった.辛巳,郡国に詔をくだして貧人で被した者,勿收責今年過更.京師及び郡国十二で蝗があった.

冬十月丙辰,郡国の中都官に詔をくだして死罪となって繋がれていた囚(人)は皆一等を減罪し,北地、上郡、安定戍に詣でさせるようにとした.

乙亥,定遠侯の班始が其の妻である陰城公主を殺したことに坐して,腰斬となった,[一]産まれを同じくするものは皆市された.

[一]班始は,班超の孫である也,順帝の姑である陰城公主を尚んだのである.東観記には曰く:「陰城公主の名は賢得である.」

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六年春二月庚午,河間王開が薨じられた.

三月辛亥,伊吾の屯田を復して,[一]伊吾司馬一人を復置した.

[一]章帝の建初二年に罷めたものである也.

秋九月辛巳,太学を繕起した.

護烏桓校尉の耿曄が兵を遣わして鮮卑を撃ち,之を破った.

丁酉,于闐王が侍子を遣わして貢獻してきた.

冬十一月辛亥,詔に曰く:「年を連ねて潦あったが,冀部が尤も甚だしい.比蠲除実傷,贍恤窮匱,而して百姓は猶も業を有するも,流亡は絶えない.郡県が用心するのに怠惰であり,恩澤するに宣しくないものあったのではないかと疑っている.易は『上を損ねても下に益としる』ことを美としている,書は『民を安んじるに則ち恵む』と称える.[一]其の令するに冀部からは今年の田租、芻ノを収めさせること勿れ.」

[一]易の益卦に曰く:「損上益下,人悦無疆.」恵むとは,愛でるである也.尚書には曰く:「人を安んじるとは則ち恵むことである,黎人は之に懐くのである.」とある

十二月,日南が外葉調国、撣国が使いを遣わして貢獻してきたと徼してきた.[一]

[一]東観記には曰く:「葉調国王が師会を使いに遣わして闕に詣でさせ貢獻してきた,そこで師会を以って漢帰義葉調邑君と為し,其の君に紫綬を賜った,及び撣国王の雍(田)[由]にも亦た金印紫綬を賜った.」撣音

壬申,客星が牽牛に出た.

于闐王が侍子を遣わして闕に詣でさせ貢獻してきた.

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陽嘉元年春正月乙巳,皇后梁氏を立てた.爵を賜わるにあたり,人は二級,三老、孝悌、力田は三級,爵が公乘を過ぎるなら,子や若しくは産まれを同じくするもの、産まれを同じくするものの子に移し与えること得られるものとする,民無名数及流民欲占著者人一級;、寡、孤、獨、篤、貧にして自ら存すること能わない者には粟を,人(一人につき)五斛賜った.

二月,海賊の曾旌等が会稽を寇し,句章、鄞、鄮三県の長を殺し,[一]会稽東部都尉を攻めた.詔あって海に縁した県に各々兵戍を駐屯させた.

[一]三県は皆会稽郡に属する.鄮県は今の越州県である也.句章の故城は今の鄮県西に在る.鄞の故城は鄮県東南に在る.鄞の音は銀.鄮の音は茂.

丁巳,皇后は高廟、光武廟に謁すると,甘陵の貧人に稟するよう詔したが,大小口には各々差が有った.

京師が旱となった.庚申,郡国二千石各禱名山岳瀆,大夫、謁者を遣わして嵩高、首陽山を詣でさせ,河、洛を并わせて祠り,雨を請うた.[一]戊辰,雩.

[一]首陽山は洛陽東北に在る也.

冀部では年に比べて水が潦しており,民の食が不贍であることを以って,稟貸を案行し,農功を勧め,乏絶に賑うよう詔をくだした.

甲戌,詔に曰く:「政は厥<そ>の和を失い,陰陽はあるいは隔たりあるいは并わさり,冬には宿る雪が鮮なく,春には澍雨が無い.分禱して祈請するも,靡神は不禜であった.[一]深く恐れるのは『如在』之義を慢<あなど>り違える所在ることである,[二]今侍中の王輔等を遣わして,持節させて岱山、東海、滎陽、河、洛に分けて詣でさせる,心を尽くして祈るように焉.」[三]

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[一]説文には曰く:「禜は,|蕞を設けて営を為す,以って旱のときに水(がくるよう)祈るものである.」禜の音は詠.詩に曰く:「靡神は挙げず.」

[二]論語に曰く:「祭神如神在.」

[三]済水は,四瀆の一つである,河南に至って溢れて滎澤を為す,故に滎陽に於いて祠があるのである焉.

三月,楊州六郡で妖賊の章河等が四十九県を寇し,長吏を殺傷した.

庚寅,帝臨辟雍饗射,天下に大赦した,改元して陽嘉とした.詔して宗室で絶えた属籍の者は,一切を復籍した;冀州で尤も貧しい民に稟して,今年の更、租、口賦を収めること勿れとした.

夏五月戊寅,阜陵王恢が薨じた.

秋七月,史官が始めて候風の地動銅儀を作った.[一]

[一]時に張衡が太史令と為って,之を作ったのである.

丙辰,太学が新成したことを以って,試明経(経典に明るいかどうかを試みて)下第した者は弟子に補い,甲、乙の科員を各十人増した.[一]郡国の耆儒九十人を除して郎、舍人を補った.

[一]前書音義に曰く:「甲科謂作簡策難問,列置案上,(在)[任]試者意投射取而荅之,謂之射策.上者は甲と為され,次[者]は乙と為される.若し政化の得失を録し,顯らかにせんとして而して之を問う,之を対策と謂う也.」

九月,郡国の中都官に詔をくだして繋いでる囚(人)は皆死一等を減じ,亡命者は贖わせることとしたが,(その値には)各々差が有った.

鮮卑が遼東を寇した.

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冬十一月甲申,望都、蒲陰で狼が女子を殺すこと九十七人にもなったため,[一]詔をくだして狼を殺す所となった者には銭を,人三千賜ることとした.

[一]望都は,県名で,中山国に属する,今の定州県である也.章帝が曲逆を改めて蒲陰と為したが,亦た中山に属した,望都とは相近く,故城は今の定州北に在る.東観記でも亦た「蒲」と作る,本は多くが「満」(満)字と作っていたがそれは,誤りである也.東観も又た云う:「為不祠北岳所致.詔曰『政失厥中,狼為応,至乃残食孤幼.博訪其故,山岳尊靈,国所望秩,而比不奉祠,淫刑放濫,害加孕婦』也.」

辛卯,初令して郡国に孝廉を,年四十以上に限って挙げさせた,諸生は章句に通じ,文吏は能く牋奏すれば,乃ち選に応じること得られた;其の茂才異行有ること,顔淵、子奇の若きは,年齒に拘らないこととした.[一]

[一]史記曰:「顔回は,魯の人で,学を好み,年二十九にして髮は尽く白く,早死にした.」新序に曰く:「子奇は年十八にして,斉君が之を使って阿を王化することにした.阿に至ると,其の庫兵を鑄させて以って耕器と為し,倉廩から出させて以って貧窮に賑わせたため,阿県は大いに化すところとなった.」

十二月丁未,東平王敞が薨じた.

庚戌,玄菟郡に屯田六(郡)[部]を復置した.

閏月丁亥,令諸以詔除為郎,年四十以上は課試すること孝廉に科すが如しとし,参廉選を得たら,歳に一人を挙げることとした.

戊子,客星が天苑に出た.

辛卯,詔に曰く:「間者以来,吏は政するに勤めない,故に咎屢臻,盜賊が多く有ることになったのだ.退き省みる所由<ゆえん>は,皆以って選挙が不実であるため,官は其人に非ざるためである,是が以って天心が未だ得られず,人情が多く怨みあるところなのである.書は股肱を歌い,詩は三事を刺す.[一]今刺史、二千石之選は,三司に帰任するものである.[二]其れ先後を簡序して,高下,歳月之次ぐもの,文武之宜しきものを精覈し,務めて厥衷に存すようにせよ.」

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[]尚書益稷篇帝作歌曰:「元首明哉!股肱良哉!」詩小雅曰「三事大夫,莫肯夙夜.邦君諸侯,莫肯朝夕」也.

[二]三司,三公也,即太尉、司空の、司徒也.帰猶委任也.

庚子,恭陵百丈廡[]

[一]恭陵は,安帝陵である也.廡は,廊屋である也.説文には曰く「堂下周屋は曰く廡である」也.

是歳,西苑を起て,宮殿を修飾した.

二年春二月甲申,詔をくだして呉郡、会稽が飢え荒んでいることを以って,人に種糧を貸すことにした.

三月,使匈奴中郎将の王稠が左骨都侯等を率いて鮮卑を撃ち,之を破った.

辛酉,京師の耆儒で年六十以上のもの四十八人を除して(叙任して)郎、舍人及び諸王国の郎を補った.

夏四月,隴西南部都尉官を復置した.[一]

[一]武帝元朔四年,隴西臨洮県に於いて南部都尉を初めて置いた,中興以来廃されていたが,此に至って之を復置したのである也.

己亥,京師に地震があった.五月庚子,詔に曰く:「朕は不徳を以ってして,鴻業を統め奉じたため,以って乾坤を奉順すること無く,陰陽を協序すること無く,眚屢見すること無かった,そのため咎徴が仍ち臻されてしまった.地が動いたという異は,京師自り発した,矜矜として祗畏れ,裁く所を知らない.公卿士は将に何を以って不逮を匡輔し,戒異を奉荅してくれるのか?異は設けること空しからざれば,必ずや応ずる所有るもの,其れ各々悉心して厥の咎について直言するように,靡有所諱.」

戊午,司空の王龔が免じられた.六月辛未,太常で魯国出身の孔扶が司空と為った.[一]

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[一]扶は字を仲淵という.

勒国が師子、封牛を献じてきた.[一]

[一]東観記には曰く:「勒王盤遺使文時詣闕.」師子は虎に似ており,正黄で,耏を有する,尾の端の茸毛は大なること斗の如し.封牛は,其の領上の肉が隆起すること若し封然とする,因って以って之を名としたのである,即ち今之牛である.

丁丑,洛陽の地が陷(没)した.是月に,旱があった.

秋七月己未,太尉の龐参が免じられた.八月己巳,大鴻臚で沛国出身の施延が太尉と為った.[一]

[]延字君子,蘄県人也.

鮮卑が代郡に寇した.

冬十月庚午,行礼辟雍,奏応鍾,始復黄鍾,作楽器隨月律.[一]

[一]子為黄鍾,律長九寸,声有軽重長短,度量皆出黄鍾.隨月律謂月令「正月律中太蔟,二月律中夾鍾,三月律中姑洗,四月律中仲呂,五月律中蕤賓,六月律中林鍾,七月律中夷則,八月律中南呂,九月律中無射,十月律中応鍾,十一月律中黄鍾,十二月律中大呂」.東観記には曰く:「元和以来,音戻不調,修復如旧典.」蔟音湊.

三年春二月己丑,久しく旱であったことを以って詔をくだし,京師の諸獄は軽きも重きも無く皆且つ考ずること勿れとし竟わったところ,須く澍雨を得た.

三月庚戌,益州の盜賊が令長を劫質し,列侯を殺した.

-264-

夏四月丙寅,車師後部司馬が後部王加特奴等を率いて匈奴を掩撃して,之を大いに破ると,其の季母を獲た.

五月戊戌,制詔に曰く:「昔我が太宗には,丕顯之徳があり,假すこと上下に于いて,儉するに恤民を以ってしたため,政は康乂を致したのである.朕は秉事したものの不明であり,政は厥<そ>の道を失い,天地が譴怒して,大いなる変が仍ち見えることとなった.春夏にわたって旱が連なり,寇賊が彌だ繁り,元元として害を被ったこと,朕は甚だ之を愍ずるものである.海内と嘉し心を洗い更めて始めようとおもう.其れ天下に大赦する,自殊死以下謀反大逆諸犯不当得赦者(殊死以下謀反大逆から諸々の犯罪で当に赦しを得るべからざる者について),皆赦して之を除くものとする.民で年八十以上には米を,[人]一斛,肉二十斤,酒五斗を賜る;九十以上には賜帛を加え,人につき二匹,絮三斤を賜る.」

秋七月庚戌,鍾羌が隴西、漢陽を寇した.冬十月,護羌校尉の馬続が之を撃破した.

十一月壬寅,司徒の劉崎、司空の孔扶が免じられた.乙巳,大司農で南郡出身の黄尚が司徒と為った,光祿勳で河東出身の王卓が司空と為った.[一]

[一]黄尚は字を伯といい,河南郡邔人である也.王卓は字を仲遼といい,河東(郡)解の人である也.邔音は求紀反.

丙午,武都の塞上に屯している羌及び外羌が屯官を攻め破ると,人畜を驅略した.

四年春二月丙子,初聴あって中官は養子を以って後を為し,封爵を世襲すること得られることになった.

冬が去って自り旱であり,是月に至った.

謁者の馬賢が鍾羌を撃って,之を大いに破った.

夏四月甲子,太尉の施延が免じられた.[一]戊寅,執金吾の梁商が大将軍と為り,前の太尉であった龐参が太尉と為った.

-265-

[一]東観記には曰く「以って貪汚を選んで挙げたため策あった罷めることになったのである」也.

六月己未,梁王の劉匡が薨じた.秋七月己亥,済北王の劉登が薨じた.

閏月丁亥朔,日食が有った.

冬十月,烏桓が雲中を寇した.十一月,度遼将軍の耿曄が蘭池に於いて囲まれたため,[一]諸郡の兵を徴発して之を救ったところ,烏桓は退走した.

[]続漢志曰:「雲中郡沙南県有蘭池城.」

十二月甲寅,京師に地震があった.

永和元年春正月,夫余王が来朝した.

乙卯,詔に曰く:「朕は秉政したものの不明であった,眚屢臻.典籍が忌む所,震食が重きを為す.今日変が遠くに方じて,地が京師を搖らした,[一]咎徴は虚しからざるものである,必ずや応じる所有るものである.公百僚は其れ各々が封事を上らせ,得失を指し陳べるように,靡有所諱.」

[一]東観記には曰く:「陽嘉四年詔に曰く『朕は不徳を以ってしたため,天にて謫見あった,零陵では日食があったと言ってきたが,京師は覚らなかった』.」故に此が言に日く変が遠くに方じたということだろう.

己巳,明堂に宗祀して,靈台に登ると,永和と改元し,天下に大赦した.

秋七月,偃師に蝗がわいた.

冬十月丁亥,承福殿に火(災)があったため,帝は御雲台に(身を)避けた.

十一月丙子,太尉の龐参が罷めた.

-266-

十二月,象林の蛮夷が叛いた.

乙巳,前の司空である王龔を以って太尉と為した.

二年春正月,武陵蛮が叛き,充県を圍み,又夷道を寇した.[一]

[一]充県は武陵郡に属す,故城は澧州崇義県東北に在る.充の音は衝.夷道は南郡に属す也.

二月,広漢属国都尉が白馬羌を撃破した.

武陵太守の李進が叛いた蛮を撃ち,之を破った.

三月辛亥,北海王翼が薨じた.

乙卯,司空の王卓が薨じた.丁丑,光祿勳で馮翊出身の郭虔が司空と為った.[二]

[一]郭虔は字を君賢といい,池陽の人である.

夏四月丙申,京師に地震があった.

五月,日南の叛いた蛮が郡府を攻めた.

秋七月,九真、交阯二郡の兵が反した.

八月庚子,熒惑が南斗を犯した.[一]

[一]熒惑は,火星である也.南斗は,北方之宿である也.前書の音義に曰く:「犯とは七寸内で光芒が相及ぶことを謂う.」

-267-

江夏の盜賊が邾の県長を殺した.[一]

[一]邾は,県で,江夏郡に属する,故城は今の復州竟陵県東に在る.邾の音は朱.

冬十月甲申,長安に行幸し,過ぎる所で、寡、孤、獨、貧にして自ら存ること能わざる者に粟を,人五斛(一人につき五斛)賜った.庚子,未央宮に御幸して,三輔の郡守、都尉及び官属と会い,労って賜り楽を作った.十一月丙午,高廟に祠した.丁未,遂に十一陵に事えること有ることになった.丁卯,京師に地震があった.十二月乙亥,長安自り至った.

三年春二月乙亥,京師及び金城、隴西で地震があり,二郡の山岸が崩れ,地が陷った.戊子,太白が熒惑を犯した.

夏四月,九江の賊である蔡伯流が郡界,及び広陵を寇すと,江都の長を殺した.

戊戌,光祿大夫を遣わして金城、隴西に案行させると,壓死者で年七歲以上に銭を,人二千(一人につき二千)賜った;一家で皆害を被ったものは,之を收斂するように為した.今年の田租を除き,尤も甚しかった者については口賦を収めること勿れとした

閏月,蔡伯流等がを率いて徐州刺史応志に詣でると降った.[一]

[一]続漢書に曰く:「応志は字を仲節といい,汝南(郡)南頓の人である也.曾祖父は応順.」

己酉,京師に地震があった.

五月,呉郡の丞である羊珍が反して,郡府を攻めた,太守の王衡が破って之を斬った.

六月辛丑,琅邪王遵が薨じた.

-268-

九真太守の祝良、交阯刺史の張喬が日南の叛うた蛮を慰誘して,之を降したため,嶺外は平げられた.[一]

[一]続漢書に曰く:「祝良は字を邵卿といい,長沙(郡)臨湘の人である.」

秋七月丙戌,済北王多が薨じた.

八月己未,司徒黄尚が免じられた.九月己酉,光祿勳で長沙出身の劉寿が司徒と為った.[一]

[一]劉寿は字を伯長といい,臨湘の人である也.

丙戌,大将軍、三公は各々故の刺史、二千石及び見令、長、郎、謁者、四府掾属で剛毅武猛にして謀謨を有し将帥を任せられる者各二人を,特進、卿、校尉は各一人を挙げるよう令した.

冬十月,焼当羌が金城を寇したため,護羌校尉の馬賢が之を撃破したが,羌は遂に相招きあうと而して叛いた.

十二月戊戌朔,日食が有った.

四年春正月庚辰,中常侍の張逵、蘧政、楊定等が有罪になり誅され,[一]弘農太守の張鳳、安平相の楊がそれに連なり及んで,獄に下されて死んだ.

[一]事は梁商伝に見える也.

三月乙亥,京師に地震があった.

夏四月癸卯,護羌校尉の馬賢が焼当羌を討って,之を大いに破った.

-269-

戊午,天下に大赦した.民に爵及び粟帛を賜ったが各々差が有った.

五月戊辰,故済北恵王寿の子の劉安を封じて済北王と為した.

秋八月,太原郡に旱があり,庶民が流した.癸丑,光祿大夫を遣わして案行させて稟貸し,更めて賦を除いた.

冬十月戊午,上林苑で校獵し,函谷関に歴して而して還った.十一月丙寅,広成苑に御幸した.

五年春二月戊申,京師に地震があった.

夏四月庚子,中山王弘が薨じた.

南匈奴左部で句龍の大人吾斯、車紐等が叛くと,美稷を圍んだ.[一]

[一]美稷は,県で,西河郡に属す也.

五月,度遼将軍の馬続が吾斯、車紐を討って,之を破り,使匈奴中郎将の陳亀が南単于に迫って殺した.

己丑晦,日食が有った.

且凍羌が三輔を寇し,令長(県令や県長)を殺した.[一]

[一]且音子余反.

丁丑,令死罪以下及亡命贖,各々差が有った.

九月,扶風、漢陽に令して隴道に塢を三百所築かせ,屯兵を置いた.

-270-

辛未,太尉の王龔が罷めた.

且凍羌が武都を寇すると,隴関を焼いた.[一]

[一]隴山之関である也,今の名は大震関,今の隴州源県西に在る也.

壬午,太常の桓焉が太尉と為った.

丁亥,西河郡を徙して離石を居とし,[一]上郡は夏陽を居とし,朔方は五原を居とした.

[一]離石は,県名である,郡南五百九里に在る,西河の本の都は平定県で,此に至って徙って離石に於けることになったのである.

句龍の吾斯等が東に烏桓を引きつれ,西に羌胡を収めて,上郡を寇し,車紐を立てて単于と為した.冬十一月辛巳,使匈奴中郎将の張耽を遣わして之を撃破したところ,車紐が降った.

六年春正月丙子,征西将軍の馬賢と且凍羌が射姑山にて戦ったところ,馬賢は軍が敗れて沒し,安定太守の郭璜が獄に下されて死んだ.

詔貸王、侯国租一歲.

閏月,鞏唐羌が隴西を寇し,遂に三輔に及んだ.

二月丁巳,有星孛于営室(流れ星が営室に孛するということが有った).

三月,武(都)[威]太守の趙沖が鞏唐羌を討って,之を破った.

-271-

庚子,司空の郭虔が免じられた.

(丁)[乙]巳,河間王政が薨じた.

丙午,太僕の趙戒が司空と為った.[一]

[一]戒は字を志伯といい,蜀郡成都の人である也.

夏五月庚子,斉王無忌が薨じた.

使匈奴中郎将の張耽が烏桓、羌胡を天山に於いて大いに破った.[一]

[一]東観記には曰く:「張耽は吏兵を将いると,繩索して相懸けると,上って天山を通った.」

鞏唐羌が北地を寇した.

秋七月甲午,詔假民有貲者戸銭一千.

八月丙辰,大将軍の梁商が薨じた;壬戌,河南尹の梁冀が大将軍と為った.

九月,諸種の羌が武威を寇した.

辛亥晦,日食が有った.

冬十月癸丑,安定の居を扶風に,北地の居を馮翊に徙した.

十一月庚子,執金吾の張喬を以って行車騎将軍事とし,兵を将いらせて三輔に駐屯させた.

-272-

漢安元年春正月癸巳,明堂に宗祀し,天下に大赦した,改元して漢安とした.

二月丙辰,大将軍、公、卿は賢良方正、能く探賾索する隠者各一人を挙げるよう詔した.[一]

[一]賾は,幽深である也.索は,求めるである也.

秋七月,始置承華[]

[一]東観記には曰く:「時以遠近獻馬多,園充満,始置承華令,秩六百石.」

八月,南匈奴左部の大人である句龍吾斯が薁鞬台耆等と反叛した.[一]

[一]薁の音は於六反.鞬の音は居言反.

丁卯,侍中の杜喬、光祿大夫の周挙、守光祿大夫の郭遵、馮羨、欒巴、張綱、周栩、劉班等八人を遣わして分けて州郡に行かせると,風化を班宣させ,挙実臧否.

九月庚寅,広陵の盜賊である張嬰等が郡県を寇した.

冬十月辛未,太尉の桓焉、司徒の劉寿が免じられた.甲戌,行車騎将軍の張喬が罷めた.十一月壬午,司隸校尉の趙峻が太尉と為り,大司農の胡広が司徒と為った.[一]

[]峻字伯師,下邳徐人也.

癸卯,詔大将軍、三公は武猛を選んで試用し有效驗任為将校者各一人.

是歳,広陵の賊である張嬰等が太守の張綱に詣でて降った.

-273-

 

二年春二月丙辰,鄯善国が使いを遣わして貢獻してきた.

夏四月庚戌,護羌校尉の趙沖は漢陽太守の張貢と焼(当)[何]羌を参に於いて撃つと,之を破った.[一]

[一]参は,県である,安定郡に属する.の音は力全反.

六月乙丑,熒惑が鎮星を犯した.

丙寅,立南匈奴守義王兜樓儲為南単于.

冬十月辛丑,令郡国中都官繋囚殊死以下出縑贖,各々差が有った;其不能入贖者,遣詣臨羌県居作二歲.

甲辰,百官の奉を減じた.丙午,禁沽酒,又貸王、侯国租一歳.

閏月,趙沖が焼当羌を(河)[阿]陽に於いて撃つと,之を破った.[一]

[一]阿陽は,県で,(天水)[漢陽]郡に属す,故城は今の秦州隴城県西北に在る.

十一月,使匈奴中郎将の馬寔が人を遣わして句龍吾斯を刺し殺させた.

十二月,楊、徐の盜賊が城寺を攻め焼き,吏民を殺略した.

是歳,涼州の地が百八十(回)も震えた.

-274-

建康元年春正月辛丑,詔に曰く:「隴西、漢陽、張掖、北地、武威、武都は,去年九月已来自り,地は百八十も震え,山谷は坼裂し,城寺が壊れ敗れ,庶民が殺害された.夷狄が叛逆して,賦役は重きを数え,内外は曠く怨むことになった,ただ咎を惟って歎息するだけである.其れ光祿大夫を遣わして案行させ,恩澤を宣暢させて,此を恵んで民に下す,煩い擾いを為すこと勿れ.」

三月庚子,沛王広が薨じた.

領護羌校尉の琚が叛いた羌を追討して,之を破った.[一]

[一]琚の音は居である.

南郡、江夏の盜賊が城邑を寇掠したため,州郡が之を討ち平らげた.

夏四月,使匈奴中郎将の馬寔が南匈奴左部を撃って,之を破ると,是に於いて胡羌、烏桓は悉く馬寔に詣でて降った.

辛巳,皇子炳を立てて皇太子と為し,年を建康に改めると,天下に大赦した.人に爵を賜ったが各々差が有った.

秋七月丙午,清河王延平が薨じた.

八月,楊、徐の盜賊である范容、周生等が城邑を寇掠したため,御史中丞の馮赦を遣わして州郡の兵を督させて之を討たせた.

庚午,帝は玉堂前殿にて崩じられた,時に年は三十.遺詔があり廟で起寝すること無いよう,斂するに故服を以ってするよう,珠玉玩好は皆下すこと得ないようにとのことであった.

論に曰く:古之人君は,離幽放而反国祚者有矣,莫不矯鑒前違,審らかに情偽を識れば,在外之憂いを忘れること無いもの,[一]故に能く其の業を中興したのである.夫れ順朝之政を観るや,殆んど然らず(納得できない)とはできないではないか乎?何其傚僻之多与?[二]

-275-

[一]離は,遭である也.矯は,正である也.左伝には曰く:「晉侯は外に在ること十九年して矣,險阻艱難備嘗之矣,人之情偽尽知之矣.」

[二]殆は,近である也.順帝は前之僻を傚したが,改め正すこと能わざりしことを言う也.

 

【孝沖皇帝炳】

孝沖皇帝は諱を炳といい,[一]順帝之子である也.母は曰く虞貴人である.

[一]謚法に曰く:「幼少で在位するを曰く沖という.」司馬彪は曰く:「沖は幼くして早夭すること,故に謚して曰く沖とするのである.」伏侯の古今注に曰く:「炳之字は曰く明である.」

建康元年皇太子と為して立てると,其の年の八月庚午,皇帝に即位した,年は二歳.皇后を尊んで曰く皇太后とした.太后が臨朝された.

丁丑,太尉の趙峻を以って太傅と為した;大司農の李固が太尉と為り,録尚書事に参じた.

九月丙午,孝順皇帝を憲陵にて葬った,[一]廟は曰く敬宗である.

[一]洛陽の西十五里に在る,陵の高さは八丈四尺,周りは三百歩である.

是日,京師及び太原、鴈門に地震があり,三郡では水が涌いて土が裂けた.

庚戌,三公、特進、侯、卿、校尉に,賢良方正、幽逸修道之士各一人を挙げるよう,百僚には皆封事を上げるよう詔した.

己未,九江太守の丘騰に罪有って,獄に下されて死んだ.[一]

[一]東観記には曰く「丘騰は知罪法深大,懐挾姦巧,稽留道路,獄に下されて死んだ」也.

楊州刺史の尹耀、九江太守のケ顯が賊の范容等を歴陽に於いて討ったが,軍は敗れ,尹耀、ケ顯は賊の為に歿する所となった.

-276-

冬十月,日南の蛮夷が城邑を攻め焼いたが,交阯刺史の夏方が招き誘うと之に降った.

壬申,常山王儀が薨じた.

己卯,零陵太守の劉康が無辜を殺したことに坐して,獄に下されて死んだ.

十一月,九江の盜賊である徐鳳、馬勉等が「無上将軍」を称すると,城邑を攻め焼いた.

己酉,郡国の中都官に令して繋囚は死一等を減じ,辺に徙すことにした;謀反は大逆であるため,此の令は用いられなかった.

十二月,九江の賊である黄虎等が合肥を攻めた.

是歳,盜が憲陵を発掘した.護羌校尉の趙沖が叛羌を鸇陰河に於いて追,戦歿した.[一]

[一]涼州の姑臧県東南に鸇陰県の故城が有る,水に因って以って名と為したのである.

(嘉)[]元年春正月戊戌,帝は玉堂前殿にて崩じられた,年は三歳.清河王の蒜が徴されて京師に到った.

 

【孝質皇帝】

孝質皇帝は諱を纘といい,[一]肅宗の玄孫である.曾祖父は千乘貞王の伉であり,祖父は楽安夷王の寵であり,父は勃海孝王の鴻であった,母は陳夫人である.沖帝は豫らず,大将軍の梁冀が帝を徴したため洛陽都亭に到った.沖帝が崩じるに及んで,皇太后が梁冀と禁中に策を定め,丙辰,使って梁冀に持節させると,王の青蓋車を以って帝を迎えて南宮に入れた.丁巳,封じて建平侯と為すと,其の日に皇帝に即位した,年は八歳である.

-277-

[一]謚法:「忠正にして邪無きを曰く質という.」古今注に曰く:「纘之字は曰く継である.」

己未,孝沖皇帝を懐陵にて葬った.[一]

[一]洛陽の西北十五里に在る,伏侯の古今注に曰く:「高さは四丈六尺,周りは百八十三歩である.」

広陵の賊である張嬰等が復た反し,堂邑、江都の長を攻め殺した.[一]九江の賊である徐鳳等が曲陽、東城の長を攻め殺した.[二]

[一]堂邑は,県である,広陵郡に属す,今の揚州六合県である也.

[二]曲陽は,県である,九江郡に属し,淮曲之陽に在る,故城は今の豪州定遠県西北に在る.東城は,県である,故城は定遠県東南に在る也.

甲申,高廟に謁し,乙酉,光武廟に謁した.

二月,豫章太守の虞続が贓に坐して,獄に下されて死んだ.

乙酉,天下に大赦した,人に爵及び粟帛を賜ったが各々差が有った.王侯に削った所の戸邑を還した.

彭城王道が薨じた.

叛いた羌が左馮翊の梁並に詣でて降った.

三月,九江の賊である馬勉が「黄帝」を称した.九江都尉の滕撫が馬勉、范容、周生を撃つと大いに破って之を斬った.[一]

[一]東観記には曰く:「伝勉頭及所帶玉印、鹿皮冠、黄衣詣洛陽,詔懸夏城門外,章示百姓.」

夏四月壬申,雩.

庚辰,済北王安が薨じた.

-278-

丹陽の賊の陸宮等が城を囲むと,亭寺を焼いたため,丹陽太守の江漢が之を撃破した.

五月甲午,詔に曰く:「朕は以って不徳であったため,母に天下を託したが,布かれた政は明らかでなく,毎々厥の中を失ったものであった.(そのためか)春から夏に渉って,大旱が炎赫して,心京京として憂うることとなった,[一]故に禱祈を得て祀を明らかとし,潤澤を蒙らんことを冀わん.前には雨を得たと雖も,而して麥を宿して頗る傷ねられた;比日(いつもと比べて)雲が陰り,還復開霽.寤寐して永歎し,重く慘結を懐くものである.[二]将に二千石、令長がェ和を崇めず,暴刻之為があるのだろうか乎?其れつぎのように令をくだす、中都官にあっては罪あって繋囚となったものの殊死に非ざるもので考が未だ竟らない者は,一切出るに任せるように,これは須く立秋を以っておこなうものとする.[三]郡国に名山大澤で能く雲雨を興す者が有るならば,二千石長吏は各々巨トして禱を請い,誠(実)に謁して礼を尽くすように.又兵役が年を連ね,死亡したものがあり流離したものがあり,或いは支えられた骸が斂されず,或いは停められた棺が收められること莫く,朕は甚だ愍ずるものである焉.昔文王は枯れた骨を葬り,人は其の徳を頼ったという.[四]今使者を遣わして案行させる,若し家属が無いもの及び貧しく資無い者は,宜しく賜卹に随うように,以って孤魂を慰めるものである.」

[一]爾雅に曰く:「京京とは,憂うことである也.」

[二]寤とは,覚るである也.寐は,臥せるである也.詩に曰く:「寤寐永歎,唯憂用老.」

[三]任は,保つである也.

[四]呂氏春秋に曰く:「周の文王は人を使って地を掘らせると,死人の骸を得た.文王曰く:『更めて之を葬ろう.』吏曰く:『此には主がおりません.』文王曰く:『天下を有する者は,天下之主である,今我は其の(骸の)主ではないというのかね邪?』遂に吏に令すると衣棺を以って之を葬った.天下は之を聞くや,曰く:『文王は賢なり矣.澤するのは枯れた骨にまで及ぶ,又況んや人においてや乎!』」

是月,下邳の人である謝安が応募して徐鳳等を撃つと,之を斬った.

丙辰,詔に曰く:「孝殤皇帝は永からずして祚を休ませてしまったと雖も,而して即位して踰年したうえは,君臣の礼は成ったといえよう.孝安皇帝は統業を承襲されたが,而して前の世では遂に恭陵が康陵之上に在るよう令してしまった,先と後が相踰したうえ,其の次序を失っている,以って宗廟之重を奉じ,無窮之制を垂れる所に非ざることである.昔定公は追って

-279-

祀について順を正し,春秋は之を善しとした.[一]其れ恭陵は康陵に次ぎ,憲陵は恭陵に次ぐよう令する,以って親秩を序し,万世にわたっての法と為さん.」

[一]魯の閔公は立つこと二年して而して薨じ,次いで僖公が立った,僖は是れ閔の庶兄であると雖も,然るに嘗ては閔の臣と為っていたのだ,位次いだとしても当に閔下に在るべきである.後に文公が即位すると,乃ち僖公の神位を進めて閔之上に居らせた,そのため左伝に曰く:「躋僖公,逆祀也.」とあるのである定公八年の経書には「従祀先公」とある.従とは,順である也.順祀とは僖の神位を閔下に於けるよう退けたことを謂う.穀梁には曰く:「従祀先公,貴正也.」とある

六月,鮮卑が代郡を寇した.

秋七月庚寅,阜陵王代が薨じた.

廬江の盜賊が尋陽を攻め,又盱台を攻めたため,[一]滕撫は司馬の王章を遣わして之を撃破した.

[一]音は吁夷,今の楚州県である也.

九月庚戌,太傅の趙峻が薨じた.

冬十一月己丑,南陽太守の韓昭が贓に坐して獄に下されて死んだ.[一]

[一]東観記には曰く:「賦一億五千万を強いたため,檻車で徴されて獄に下された.」

丙午,中郎将の滕撫が広陵の賊である張嬰を撃って,之を破った.

丁未,中郎将の趙序が事に坐して市(棄市?)された.[一]

[一]東観記には曰く:「取銭縑三百七十五万.」

歴陽の賊の華孟が「黒帝」を自称し,九江太守の楊岑を攻め殺した,滕撫は諸将を率いて華孟等を撃つと,大いに破って之を斬った.

-280-

 

本初元年春正月丙申,詔に曰く:「昔堯は四子に命じて,以欽天道,[一]鴻範九疇,休咎有象.[二]夫れ瑞とは和を以って降るもの,異は逆感に因るもの,微かなことを禁じれば大となって応じるものだとは,前聖が重んじた所である.[三]頃者(近頃は),州郡は憲防を軽んじ慢<あなど>り,競って残暴を逞しくし,科條を造設しては,無罪(のもの)を陥れ入れている.或いは喜怒を以って長吏を驅逐し,私とする所を恩にきせそれに阿り,仇隙のあいてには枉げてまでして罰し,守闕に訴訟するよう令するに至って,それが前後して絶えることがない.故きを送って新しきを迎えいれれば,人は其の害から離れるものである,怨気が和を傷つけるなら,以って眚を致させよう.書では云っている:『徳を明らかとし罰を慎む.』と[四]方春東作(時は春、東に作らんとしてここに詔勅をくだすにあたり),微かなものから育み始めんことを敬うものとする.其れ有司にする,罪となっても殊死に非ざるは,且つは案驗すること勿れ,崇を以ってェに在らしむるものである.」[五]

[一]四子とは羲仲、羲叔、和仲、和叔を謂う也.尚書には曰く:「乃ち羲、和に命じて,昊天を欽若させた.」

[二]尚書には曰く:「天は乃ち禹に洪範(と)九疇を賜った.」孔安国注云:「洪とは,大である也.範とは,法である也.疇とは,類である也.言うに天が禹に与え,洛が書を出し,神亀が文を負い而して出てきた,列於背,有数至于九,禹は遂に因ると而して之を第とし,以って九類を成したのである.」其の八に曰く徴を庶<こいねが>えば,休徴、咎徴之応が有る.休とは,美ということ也.咎とは,惡ということ也.徴は,驗ということである也.人君が善政を行うや,則ち百穀は用成(大いに成り),家は平康を用いる,是が休徴ということである也.政に乖失有れば,則ち百穀は用不成(全く成らず),家は不寧を用いる,是が咎徴ということである也.休之与咎(休徴や咎徴は),皆人君之政を象ってのことである,故に「休咎には象が有る」と言うのである也.「象」は或いは「家」と作る.

[三]言君の政が純和すれば則ち瑞気が降る,若し時令に逆らえば則ち異感がされる.禁じる所は微かと雖も,其の応じるや乃ち大である.前聖の重くする所とは,即ち謂唐堯欽若昊天,箕子休咎之応.

[四]眚は,過である也.「明徳慎罰」とは,尚書での康誥之言である.

[五]言うに東作之時には,須く細微を育み養うが,これは敬事之始めである.礼記の月令には:「孟春之月には,無殺[孩]蟲胎夭飛鳥,無麛無卵.慶賜遂行,無有不当.」書に曰く:「五教を敬敷する,五教はェに在る.」とある

壬子,広陵太守の王喜が賊を討たなければならないのにそれを逗留しつづけていたことに坐して,獄に下されて死んだ.

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二月庚辰,詔に曰く:「九江、広陵二郡は数離寇害(寇害を何度も被っており),残夷が最も甚だしい.[一]生者は其の資業を失い,死者は尸を原野に委ねられたままである.昔之為政では,一物が其の所を得ないなら,若し己が之を為す,[二]況んや我は元元たり,嬰此困毒(嬰児が此れ毒に困っているではないか).方春戒節(春を方じて節を戒め),乏に賑って済<救済>せよ,掩骼埋胔之時というものである.[三]其調比郡見穀(其れ比べて穀物を見いだす郡から調えて),出稟窮弱(出して窮弱に稟し),枯れた骸を收め葬い,埋卹を加えるよう務めよ,それを以って朕の意と称す.」

[一]比年は張嬰が広陵を寇し,華孟が九江を寇したことを謂う也.

[二]尚書には曰く:「一夫弗獲,則曰時予之辜.」

[三]月令では:「孟春之月には,慶を行い恵みを施す,下は兆人に及ぶ.」又曰く:「掩骼埋胔.」鄭玄は注して曰く:「為死気逆生気也.」骨が枯れたのは曰く骼,肉が腐ったのは曰く胔.

夏四月庚辰,郡国に令して明経を挙げさせ,年五十以上、七十以下は太学に詣でさせることにした.大将軍自り六百石に至るまで,皆子を遣わして業を受けさせ,歳満ちれば試みを課し,高第五人を以って郎中を補い,次ぐ五人は太子舍人とした.又千石、六百石、四府掾属、三署郎、四姓小侯で先に能く通経する者には,各々家法に随うよう令し,[一]其の高第となった者は牒に名を上らせ,当てるに賞進を次ぐのを以ってした.

[一]四府の掾属とは大将軍府の掾属二十九人,太尉府の掾属二十四人,司徒府三十一人,司空府二十九人を謂う.漢官では:「左、右中郎将は,皆秦の官であった也,比二千石,三署の郎は皆属す焉.」三署とは五官署,左、右署を謂う也.儒生で詩を為す者は之を詩家と謂う,礼者は之を礼家と謂う,故に各々家法に随って言うのである也.四姓小侯は,明(帝)紀に解見される也.

五月庚寅,楽安王を徙して勃海王と為した.

海水が溢れた.戊申,謁者を使って案行させると,楽安、北海の人で水の為に漂沒して死す所の者を收めて葬い,又貧羸に稟給した.

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庚戌,太白が熒惑を犯した.

六月丁巳,天下に大赦し,民に爵及び粟帛を賜ったが各々差が有った.

閏月甲申,大将軍の梁冀が鴆弑を潛めて行い,帝は玉堂前殿にて崩じられた,年は九歳である.

丁亥,太尉の李固が免じられた.戊子,司徒の胡広が太尉と為り,司空の趙戒が司徒と為って,梁冀とともに録尚書事に参加した.太僕の袁湯が司空と為った.

贊に曰く:孝順が初めて立つや,時髦允集であった.[一]砥ぐに匪ず革めるに匪ず,終に嬖習に淪すことになった.[二]阿りを保ったまま土を伝えたため,后家が世に及んだのである.[三]沖は未だ識らずして夭(夭折)し,質は聡きを以って弑された.陵折するは運に在り,天は三つの終わりを緒したということだろう.[四]

[一]爾雅に曰く:「髦は,俊である也.」郭璞は注して曰く:「士中之俊,猶毛中之髦.」時に張、王龔、龐參、張衡、李郃、李固、黄瓊之儔である也.

[二]砥は,礪である也.革は,改である也.淪は,沒である也.順帝が初め天位に升ると,又賢が總集した,不能因茲自礪,前非を改革したが,而して終には私嬖近習に於いて溺れることとなったことを言う也.孫程等十九人を封じて侯と為し,又詔で中官の養子が,封爵之類を襲うことを聴きいれたことを謂う.

[三]保は,安である也.阿は,倚である也.倚に依る可きに安きを取るを以ってするは,傅姆之類であると言う也.伝土とは阿母である山陽君の宋娥が更めて相貨賂し,邑土を増してくれるよう求めたことを謂う也.后家とは后父である梁商を拝して大将軍と為し,梁商が薨じると,仍ち子の梁冀を拝して大将軍と為し,弟の梁不疑を河南尹と為したことを謂う.

[]言陵纎折,在於時運,所以天之胤緒,頻致三終也.

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