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後漢書卷四十五

袁張韓周列伝第三十五

【袁安伝】

袁安は字を邵公という,汝南汝陽の人である也.祖父は袁良といい,孟氏易を習い,[一]平帝の時に明経に挙げられて,太子舍人と為った;[二]建武の初め,成武(県)令に至った.[三]

[一]孟喜は字を長卿といい,東海の人である.易に明るく,丞相掾と為った.前書に見える.

[二]続漢志に曰く:「太子舍人は,秩二百石,定員は無い.」

[三]成武は,今の曹州県.

袁安は若いころから学問に伝良した.為人<ひととなり>は厳重で有威であり,州里に於いて敬われた.初め県の功曹と為ると,[一]檄を奉じて従事に詣でたが,従事は因って袁安に令に於いて書を致した.[二]袁安曰く:「公事は自ら郵驛を有すもの,私請は則ち功曹が持する所に非ざるものです.」辞して受けるを肯わなかった,従事は懼然として而して止めた.[三]後の孝廉に挙げられ,[四]陰平長、任城令に除された,[五]所在した吏人は畏れながらも而して之を愛した.

[一]続漢志は曰く:「県の功曹史は,選署功労を主とする.」

[二]続漢志曰:「州刺史毎に皆従事史を有する.」

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[三]懼の音は九具反.

[四]汝南先賢伝に曰く「時に大雪が地に積もり丈余りとなったため,洛陽令が身出して案行した,人家を見ると皆除雪に出ており,乞食者が有った.袁安の門に至ると,路を行くものが有ること無かった.袁安は己に死んだのだろうと謂うと,人に命令して雪を除かせて入戸した,すると袁安が僵臥しているのに見えた.何をか以って出ないのかと問いかけた.袁安曰く:『大雪には人は皆餓えるもの,不宜干人(干人に宜しくないものです).』以って賢を為すと令し,挙げて孝廉と為した」也.

[五]陰平は,県である,故城は今の沂州承県西南に在る.任城は,今の兗州県である也.

永平十三年,楚王英が謀って逆を為し,事は郡に下され覆考された.明くる年,三府が袁安を能く理劇するとして挙げると,拝して楚郡太守となった.是時(楚王)劉英の辞で連なる所及び繋がれた所となった者が千人を数えたため,顯宗は怒ること甚だしかった,(帝の怒りを気にしたため)吏は之を案ずるに急であり,(拷問の)痛みに迫られて自らを誣して,死んだ者は甚だであった.袁安は郡に到ると,府に入らず,先に案獄に往くと,其の驗の明らかでない者を理め,條上して之を出した.府丞掾史は皆叩頭して争い,以って為すに阿り附いて反って虜となったのは,法では同じ罪を与えるもの,不可です、とした.袁安曰く:「合わないことが有る如くなら,太守自らが当に之に坐すべきだろう,相及ぶなど以ってしない也.」遂に分別して具さに奏した.帝は感悟し,即ち許しを報いた,出ること得た者は四百余家であった.歳余し,徴されて河南尹と為った.政は厳明を号したが,然るに未だ曾て臧罪を以って人を鞠しなかった.常に称えて曰く:「凡そ学仕者というものは,高きは則ち宰相を望み,下は則ち牧守たるを希うものである.聖世に於いて人を錮するなど,尹は為すに忍びない所である也.」之を聞いた者は皆感激して自ずと勵んだ.在職すること十年,京師は肅然とし,名は朝廷に重んじられた.建初八年,太僕に遷った.

元和二年,武威太守の孟雲が上書した:「北虜は既に和み親しむこと已にしておりますが,而して南部は復た抄掠に往く(が行われている),北単于が謂うには漢は之を欺き,辺を犯そうと欲して謀っているとしています.宜しく其の生口を還し,以って之を安んじ慰めてくださいますよう.」詔あって百官が朝堂で議した.公卿は皆言うには夷狄は譎詐するもの,無猒を求め欲しているだけであろう,[一]既に生口を得れば,当に復た妄りに自ら大なるを誇るだろう,開許すべきではないとした.袁安は独り曰く:「北虜は使者を遣わして奉獻し和親してきております,辺に生口者を得ること有れば,輒ち以って漢に帰しておりますのは,此は明らかに其が威を畏れているからで,而して先んじて約を違えるに非ざるものです也.孟雲は以ってするに大臣に辺を典じさせていますが,戎狄に於いて信を負うに宜しからず,之を還して中国が貸に優れるを示すに足らせ,而して使って辺人に

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安きを得させる,誠に便じられますよう.」司徒の桓虞は議を改めると袁安に従った.太尉の鄭弘、司空の第五倫は皆之を恨んだ.鄭弘は因って大言して桓虞に激勵して曰く:「諸言では当に生口を還す者は,皆不忠を為しているな.」桓虞が之を廷叱すると,第五倫及び大鴻臚の韋彪は各作色變容(おのおの色をなして容貌を変えた),司隸校尉が挙奏したため,袁安等は皆印綬を上らせて謝った.肅宗は詔で報いて曰く:「久しく議は沈滞していたが,各々志す所が有ったためであろう.蓋し事は議を以って従い,策はを由<ゆえ>とし定めるもの,ァァ衎衎として,禮之容を得れば,[二]嘿を寝かせ心を抑えて,朝廷之福に非ざることを更<あらた>めるものである.君(たち)は何をか尤として而して深謝するのか?其れ各々(脱いで返した)冠を(元へ戻して)履くように.」帝は竟に袁安の議に従った.明くる年,第五倫に代わって司空と為った.章和元年,桓虞に代わって司徒と為った.

[一]譎とは亦た詐である也.

[二]ァァは,忠正の貌である.衎衎は,和楽の貌である.

和帝が即位すると,竇太后が朝に臨んだ,后の兄で車騎将軍の竇憲は北に匈奴を撃つことにしたため,袁安は太尉の宋由、司空の任隗及び九卿らと朝堂に詣でて上書して諫めた,以って為すに匈奴は辺塞を犯していないため,而して師を労して遠く渉らせる故が無く,国の用を損ね費やして,万里に徼功しようとするのは,社稷之計に非ざることであるとした.書が連ねられて上ったが輒ち寝かされた.宋由は懼れて,遂に敢えて復た署議しなかった,而して諸卿は稍(次第に)自ら引止(意見を撤回して黙することになった).唯袁安のみが独り任隗に与して正しさを守って移らず,至免冠朝堂固争者十上.太后は聴きいれず,皆為之危懼,袁安は正色自若としていた.竇憲が既に出ると,而して弟で衛尉の竇篤、執金吾の竇景が各々威権を専らにし,京師に於いて公は客を使い道を遮らせると人の財物を奪わせた.景又使乗驛施檄縁辺諸郡(竇景はまた乗驛を使って縁辺の諸郡に檄を施すと),突騎及び善く騎射するもので才力有る者を徴発し,漁陽、鴈門、上谷の三郡は各々吏将を遣わして竇景の第に送って詣でさせた.有司は畏れ憚って,敢えて言う者莫かった.袁安は乃ち竇景が辺兵を発し,吏人を驚かせ惑わした,二千石は符信(による確認)を待たず而して輒ち竇景の檄を承っている,当に顯誅に伏させるべきであるとして弾劾した.又奏上して司隸校尉、河南尹は貴戚に阿り附き,節を尽くそうとの義が無い,[一]免官して罪を案じさせることを請う、とした.並んで寝かされ報われなかった.竇憲、竇景等は日益しに横(暴)となり,盡して名のある都や大

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郡に於いて其の親党賓客を樹てると,[二]皆吏人に賦斂し,更めて相賂遺しあった,其の余りの州郡は,亦た復して風を望み之に従った.袁安は任隗と諸々の二千石について挙奏すると,又它に連なった所及び貶秩免官となった者は四十余人となり,竇氏は大いに恨んだ.但袁安、任隗は素より行い高かったため,亦た未だ以って之を害するもの有しなかった.

[一]続漢書に曰く,袁安は司隸鄭據、河南尹蔡嵩について奏上した.

[二]袁山松書に曰く,河南尹王調,漢陽太守朱敞,南陽太守満殷、高丹等は皆其の賓客であった.前書に曰く「十二万戸は大郡と為す」也.

時に竇憲は復た出ると武威に屯した.明くる年,北単于が耿夔に破れる所と為り,烏孫に遁走し,塞北の地は空しくなって,余部は属する所を知らなかった.竇憲は己の功を矜って曰く,北虜と恩を結ばんと欲す,乃ち上は降った者である左鹿蠡王の阿佟[一]を立てて北単于と為し,中郎将領護を置き,南単于の故事の如くせん.事は下されて公卿が議した,太尉の宋由、太常の丁鴻、光祿勳の耿秉等十人は議して許可すべきとした.袁安は任隗と奏すると,以って為すに「光武(帝)は南虜を招き懐かせましたが,内地を永く安んじることができたと謂うに非ず,正しくは権時之筭を以ってして,北狄から扞禦を得る可き故であります也.今や朔漠は既に定まりました,宜しく南単于に令しまして其の北庭に反えらせ,降を併せ領させますよう,復た更めて阿佟を立て,以って国の費えを増させるのは無縁のことです」.宗正の劉方、大司農の尹睦が袁安の議に同意した.事が奏されると,未だ以って時が定まっていないとされた.袁安は竇憲の計が遂に行われたのではと懼れて,乃ち独り封事して上すると曰く:「臣が聞きますに功有るとも図るは難く,豫見は不可能だということ;事が有れば断ずるのは易く,較然たること疑いないもの.伏して惟いますに光武皇帝が本々南単于を立てた所以とは,南を安んじて北を定めんと欲しての策であったのです也,(光武の)恩徳が甚だ備わっていたため,故に匈奴は遂に分かれ,辺境は患い無いこととなりました.孝明皇帝は先の意を奉じ承ると,敢えて失墜せず,赫然として将に命じられ,塞北を爰伐なさいました.章和之初めに至るや乎,降者は十余万人,議者は之を濱塞に置こうと欲し,東は遼東に至りました,[二]太尉の宋由、光祿勳の耿秉は皆以って為すに南単于の心を失っているため,不可であるとしましたが,先帝は之に従いました.陛下は洪業を奉じ承られ,疆宇を大いに開かれて,大将軍が遠くへ師して討伐し,北庭を席巻されました,此は誠に祖宗に宣明するもので,勳を弘げた者を崇立するものです也.宜しく其の終わりを審らかにし,以成厥初.伏して念じますに南単于が屯したのは,先父が挙して徳に帰したものでした,恩を蒙って以来より,四十余年となります.三帝が積

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累されて,以って陛下に遺されたものであるわけです.陛下は深く宜しく先志を遵述なさいまして,其業を成就なさったわけです.況んや屯首して大謀を唱えられ,北虜を空しく尽きさせんとするとは,輟して而して弗図し,更めて新たに降ったものを立てるは,一朝之計を以ってしたものであります,三世之規に違えるものでして,これまで養ってきた所の於ける信を失うもの,功無きに於いて(功績を)建て立てるものです.宋由、耿秉は実に旧議を知るものですのに,而して欲っするは先恩に背することであるようす.夫れ言行というものは君子之樞機であります,[三]賞罰は国を理める綱紀というものであります.論語では曰く:『言うに忠信,行うに篤敬,蛮貊と雖も行いはある焉.』としていますが、今若し一屯に於いて信を失うなら,則ち百蛮は敢えて復た誓いを保とうとはしないでしょう矣.また烏桓、鮮卑は新たに北単于を殺しております,凡人之情というのは,仇讎を咸畏するもの,今其の弟を立てれば,則ち二虜は(漢に)怨みを懐きましょう.兵、食は廃すことも可ですが,信こそ去ることはできません.[四]且つ漢の故事では,南単于に供給するのは費が直歳一億九十余万,西域では歳に七千四百八十万です.今北庭は彌遠であり,其費は倍に過ぎるでしょう,是は乃ち天下を空しく尽きさせて,而して建策之要に非ざるものです也.」詔が下され其が議された.袁安は又も竇憲と更めて相難じ折りあった.竇憲は險しく急で負埶,言辞は驕訐であって,[五]袁安を詆毀するに至ると,光武が韓歆、戴渉を誅した故事を称えたが,袁安は終に移らなかった.[六] 竇憲は竟に匈奴の降者である右鹿蠡王を除鞬に於いて立てると単于と為したが,[七]後に遂に反叛し,卒すること袁安の策した如きであった.

[一]徒冬反.

[二]濱は,辺である也.

[三]易に曰く:「言行とは,君子之樞機である.樞機の発するは,栄辱の主るものである也.」

[四]論語:「孔子曰く:『食が足り兵が足りる,人は之を信とする矣.』『必ず已むを得ずして而して去らんとす,斯に於いて三者は何をか先とせんか?』曰:『兵を去る.』曰く:『必ずや已むを得ずして而して去らんとす,斯に於いて二者は何をか先とせんか?』曰く:『食を去らん.古より皆死は有ったもの,人は信なくば立たず.』」

[五]訐は謂うに発揚人之惡.

[六]大司徒韓歆が帝に非ざるのに隗囂の書を読んだことに坐して,自殺した.大司徒載渉が太倉令を殺したことに坐して,獄に下され死んだ.

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[七]鞬音九言反.

袁安は天子が幼弱であることを以って,外戚が専権するため,朝会ある毎に進み見えると,及んで公卿と国家の事を言ったが,未嘗不噫嗚流涕.[一]天子から大臣に及んで皆之を恃ョとした.四年春,薨じると,朝廷は痛惜した焉.

[]噫音醫,又乙戒反.嗚音一故反.歎傷之貌也.

数月して後,竇氏が敗れると,帝は万機に親しむことを始め,前に議された者で邪正之節を追思すると,乃ち袁安の子を賞して郎と為した.策して宋由を免じ,以って尹睦を太尉と為し,劉方を司空と為した.尹睦は,河南の人である,位に於いて薨じた.劉方は,平原の人である,後に事に坐して免じられ(家に)帰ると,自殺した.

初め,袁安の父が没すると,母は袁安を使いとして葬地を訪ね求めさせた,道すがら三書生に逢うと,袁安に何之を問うた,袁安は言を為して其の故をいったところ,(書)生は乃ち一処を指差して,云うことには「此地に葬れば,当に世で上公と為ることができる」.須臾して見えなくなった,袁安は之を異とした.是に於いて遂に葬其所占之地(その場所に葬ることにした),故に累世に隆盛したのである焉.袁安の子の袁京、袁敞が最も名を知られた.

袁京は字を仲譽という.孟氏易を習い,難記三十万言を作った.初め郎中を拝し,稍遷して侍中となり,出て蜀郡太守と為った.

子は袁彭,字を伯楚という.若くして父の業を伝え,廣漢、南陽太守を歴任した.順帝の初め,光禄勳と為った.行いは至清であり,為吏麤袍糲食,議郎のまま終わった.尚書の胡廣等が其の清渠V美有るを追表し,前朝の貢禹、第五倫と比べた.[一]未蒙顯贈,当時は皆之を嗟歎した.

[一]貢禹は,元帝の御史大夫.経に明るく行いを修め,清汲ノして憂国するものであった也.

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袁彭の弟は袁湯,字を仲河という,若くして家学を伝え,諸儒は其節を称え,顯位を多く歴任した.桓帝は初め司空を為すと,以豫議定策封安国亭侯,食邑五百戸.累遷して司徒、太尉となったて,異を以って策で免じられた.卒すると,謚された曰く康侯である.[一]

[一]風俗通に曰く:「袁湯は時に年八十六,子が十二人有った.」

袁湯の長子が袁成で,左中郎[将]となった.早く卒したため,次子である袁逢が嗣いだ.

袁逢は字を周陽といい,以って累世に三公であった子で,ェ厚篤信であり,時に於いて著称された.靈帝が立つと,袁逢は太僕を以って議を預かり,三百戸に増封された.後に司空と為り,執金吾に於いて卒した.朝廷は袁逢を以って三老を嘗為し,特に優れて之を禮し,賜るに珠畫を以ってして特に祕器で詔を下した,[一]飯含珠玉二十六品,[二]五官中郎将に持節させて使いとして策を奉じ,贈るに車騎将軍の印綬を以ってして,号を加えて特進させた,謚して曰く宣文侯である.子の袁基が嗣ぎ,位は太僕に至った.

[一]前書に曰く,董賢が死ぬと,以沙畫棺.音義は云う:「以朱沙畫之也.」「珠」と「朱」は同じである.秘器とは,棺である也.

[二]穀梁伝に曰く:「貝玉は曰く含である.」

袁逢の弟である袁隗は,若くして顯官を歴任し,[一]袁逢に先んじて三公と為った.時に中常侍の袁赦は,袁隗之宗(族)であった也,中に於いて用事した.以って袁逢、隗は世に宰相の家であったため,(人々は)推崇して以って外援と為そうとした.故に袁氏は世に於いて貴寵となり,富奢ること甚だしく,不与它公族同.獻帝の初め,袁隗は太傅と為った.

[一]袁隗は字を次陽という.

袁成の子の袁紹,袁逢の子の袁術は,自分の伝を有する.董卓は袁紹、袁術が己に背いたことを忿<いか>り,遂に袁隗及び袁術の兄である袁基ら男女二十余人を誅した.

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袁敞は字を叔平という,若くして伝易経を教授され,父の任を以って太子舍人と為った.和帝の時に,将軍、大夫、侍中に歴位し,出て東郡太守と為り,徴拝されて太僕、光祿勳となった.元初三年,劉トに代わって司空と為った.明くる年,子が尚書郎の張俊と交わり通じ,省中で語られたことを漏洩したことに坐し,策あって免じられた.袁敞は廉勁であり権貴に阿らなかったため,ケ氏の旨を失い,遂に自殺した.

張俊とは,蜀郡の人である,才能有ったため,兄の張龕と並んで尚書郎と為り,年少にして鋒気を勵んだ.郎の朱済、丁盛は行いを立てるに脩めなかった,張俊は之を挙奏しようと欲した,二人は聞くと,恐れて,因って郎の陳重、雷義が往って張俊に請うたが,張俊は聴きいれなかった,そこで因って共に侍史に私賂すると,使って張俊の短を求めさせ,其の袁敞の子との私書を得ると,遂に之を封上したため,皆獄に下されて,当に死すべきとなった.張俊は獄中から獄吏に占って(口授して)上書し自ら訟し,[一]書が奏されると而して張俊獄已報.[二]廷尉が将に穀門から出て,刑を行うに臨もうとしていた,[三]ケ太后は詔して騎を馳せさせると以って死を減ずるよう論じさせた.張俊は名を假りて上書して謝して曰く:「臣孤恩負義,自ら重刑に陥りました,情断意訖,復た望む所無いのです.廷尉が鞠遣しており,歐[四]刀が前に在って,棺絮が後ろに在るわけで,魂魄は飛揚すれば,形容は已んで枯れたことでしょう.陛下が聖澤されたのは,臣が嘗て近密に在ったことを以ってしてのことですが,[五]其の状貌を識るに,其の眼目を傷つけ,心を留めて慮を曲げられ,特に覆を加えられました.喪車は復た還り,白骨(となったところ)は更めて肉となり,披棺発,起って白日を見ることとなりました.天地父母は能く臣張俊を生みましたが,使って臣張俊が当に死すべきを生に復すことは能わないのです.陛下の徳は天地に過ぎ,父母に恩重く,誠に臣俊が骸骨を破碎し,宗を挙げて腐爛しても,報いる所は万に一つもありません.臣俊が徒すや也,上書を得ず;死を去って生に就くに勝ることなく,驚喜踊躍し,觸冒して章を拝しているしだいです.」当時の皆は其文を哀した.

[一]占は口授を謂う也,前書に曰く「陳遵憑几口占書吏」とあるのが是である也.

[]謂奏報論死也.

[]穀門,洛陽城北面中門也.

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[]音一口反.

[]謂為尚書郎.

朝廷は此の由に袁敞の罪を薄めて而して其の死を隠し,三公の禮を以って之を葬ると,其官を復した.子は袁盱.[一]

[一]況于反.

袁盱は後に光祿勳に至った.時に大将軍梁冀が朝し,内外で阿り附かないものは莫かったが,唯袁盱と廷尉の邯鄲義のみは身を正して自ら守った.桓帝が梁冀を誅するに及ぶと,袁盱を使いとして持節させ其印綬を収めさせた,事は已に梁冀伝で具にしている.

袁閎は字を夏甫といい,袁彭の孫である也.少くして操行に励み,身を苦しめて節を修めた.父は袁賀,彭城相と為った.[一] 袁閎は往くと謁を省み,名姓を変えると,徒行無旅.既に府門に至ると,連日吏は通じるを為さなかった,阿母が出るに会い,袁閎を見ると驚き,[二]入って夫人に白すと,乃ち密かに呼んで見えた.既に而して辞去していたため,賀が遣わされ之を車送したが,袁閎は眩疾と称して乗るを肯んぜず,反って,郡界は知る者無かった.袁賀が郡で卒するに及び,袁閎兄弟は迎喪したが,賻贈を受けず,縗絰扶柩,冒犯寒露,禮貌枯毀,手足血流,見者莫不傷之.服闋,累徴聘挙召,皆不応.居処仄陋,耕学を以って業を為した.従父である袁逢、袁隗は並んで貴盛であったため,何度も之に饋したが,受ける所無かった.

[一]風俗通に曰く:「袁賀は字を元服という.祖父は袁京,侍中と為った.安帝の始めに元服を加え,百僚が会賀したが,臨荘垂出して而して孫が生まれるに適い,其の嘉会を喜び,因って名字としたのである焉.」

[二]謝承の書に曰く:「乳母従内出,見在門側,面貌省瘦,為其垂泣.閎厚丁寧:『此間不知吾,慎勿宣露也.』」

袁閎は時に險乱が方じられ,而して家門が富盛であることを見ると,常に兄弟に対して歎じて曰く:「吾が先公の福祚,後世は徳を以って之を守ること能わず,而して競って

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驕奢を為している,乱世に与して権を争うとは,此は即ち晉之三郤である矣.」[一]延熹末,党事が将に作られると,袁閎は遂に髮を散らして世を絶ち,欲投深林.以って母が老いているため遠くへ遁れるは宜しからずとして,乃ち土室を築き,庭に於いて四周すると,戸を為さず,自牖納飲食而已.旦には室中に於いて東に向かって母を拝んだ.母は袁閎を思い,時に往っては就視した,母が去ると,便自掩閉,兄弟妻子で見えるを得たものは莫かった也.母が歿するに及び,不為制服設位,時莫能名,或いは以って狂生を為しているとされた.身を潜めること十八年,黄巾賊が起って,郡県を攻め没すると,百姓は驚き散ったが,袁閎は誦経して移らなかった.賊は相約して語るに其閭に入らないこととしたため,卿人は袁閎に就くことで難を避け,皆全く免れることができた.年五十七にして,土室に於いて卒した.[二]二人の弟である袁忠、袁弘は,節操もつこと皆<どちらも>亞於袁閎(袁閎に次ぐようなものであった).

[一]三郤とは郤リ、郤g、郤至を謂う,皆晉の卿である也.それぞれが驕奢であり,詞が殺す所と為った.事は左伝に見える.

[二]汝南先賢伝に曰く:「袁閎は卒するに臨み,其子にして曰く:『殯棺を設ける勿れ,但著すに褌衫疏布単衣幅巾のみとせよ,親尸於板之上,以五百墼為藏.』」

袁忠は字を正甫という,同郡の范滂と友と為り,党事に倶證して釋を得た,語は范滂伝に在る.初平中に,沛相と為り,[一]葦車に乗って官に到った,清亮を以って称えられた.天下が大乱するに及ぶと,袁忠は官客会稽上虞.[二]太守王朗が徒従整飾しているのを一見して,心で之を嫌い,遂に病と称して自ら絶った.[三]後に孫策が会稽を破ると,袁忠等は海南に浮かんで交阯に投じた.獻帝が許に都すると,徴されて衛尉と為ったが,未だ到らないうちに,卒した.

[一]沛王jの相である也.劉jは,光武の八代の孫である也.

[二]県名である,城は今の越州余姚県西に在る.

[三]王朗は字を景興といい,王肅の父である也,魏志に伝が有る.謝承の書に曰く「袁忠は乗船して笠蓋を載せて王朗に詣でると,王朗の左右にいる僮従が皆青絳采衣を著し,其の奢麗に非ざるを見たため,即ち疾発しているとして辞し而して退いた」也.

袁弘は字を邵甫といい,其の門族が貴埶たるを恥じて,乃ち姓名を変え,徒歩師門,徴辟に応じず,家に於いて終わった.[一]

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[一]謝承の書に曰く:「袁弘は嘗て京師の太学に入ったが,其の従父である袁逢が太尉と為ると,袁弘を呼んで相見えた.袁逢が宴会で楽を作るに遇ったため,袁弘は伏して頭痛であると称して,(呼)[音]声を聴かず而して退くと,遂に復た往くことなかった.袁紹、袁術兄弟も亦た通じることなかった.」

袁忠の子は袁祕といい,郡の門下議生と為った.黄巾が起こると,袁祕は太守趙謙に従って之を撃った,軍が敗れると,袁祕は功曹の封観等七人とともに身を以って扞刃し,皆陳に於いて死んだ(がそのおかげで),趙謙は以って免れるを得た.詔あって袁祕等の門閭を号して曰く「七賢」とした.[一]

[一]謝承の書に曰く「袁祕は字を永寧という.封観は主簿の陳端、門下督の范仲禮、賊曹の劉偉徳、主記史の丁子嗣、記室史の張仲然、議生の袁祕等七人とともに刃を撰んで突陳し,戦って並んで死んだ」也.

封観という者は,志節を有し,当に孝廉に挙げられるべきであったが,以って兄の名と位が未だ顯れていなかったため,先に之を受けるを恥じ,遂に風疾を称して,喑じて言うを能わなくなった.封観の屋に火が起きたが,徐ろに出て之を避けた.忍んで而して告げなかった.後に数年して,兄が挙を得ると,封観は乃ち称損して而して郡に仕えた焉.[一]

[一]謝承書に曰く:「封観は字を孝起といい,南頓の人である也.」

論に曰く:陳平は多く陰謀すると,而して其後が必ず廃れることを知っていた;[一]邴吉には陰徳が有った,夏侯勝は其が当に封じられて子孫に及ぶことを識ったのである.[二]終に陳掌は侯ならず,而して邴昌は紹国された,類<たぐい>ならざることで有ると雖も,未だ致詰すべからず,其の大いに致すは然ることに帰すものである矣.袁公と竇氏の間は,乃ち情帝室,[三]引義雅正,王臣之烈を謂うべきだろうか.[四]其の楚獄を理めることに及び,未だ嘗て臧罪に於いて鞫人せず,其の仁心は以って覃する乎後に昆たるに足れり.[五]子孫の盛えたというのも,亦た宜ろしからずや乎?[六]

[一]丞相の陳平は高祖の謀臣と為った,出すこと六奇,歎じて曰く:「我は多く陰謀す,道家が禁ずる所である,吾の(後)世は即ち廃れよう,以って吾が多く陰謀したため禍となるのである也.」其後曾孫掌以氏親戚貴達,続封を得ようと願ったが,而して得ずして終わった也.

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[二]武帝の末に,戻太子が巫蠱の事を起こしたため,邴吉が廷尉監と為った.時に宣帝は年二歳,太子の事に坐して繋がれた.望気者は長安の獄中に天子の気が有ると言ったため,是に於いて上は使者を遣わして條中の都官を詔獄に分けると,繋がれた者は輕重一切を亡ぼすことにし皆之を殺させた.内部の者が郭穰に令して郡の邸獄に至らせた,邴吉は門を閉じて扞拒して曰く:「它人無辜猶不可,況親曾孫乎?」郭穰は入ることができず,還って以って聞かせた.上は曰く:「天が之を使いとしたのだ也.」因って天下に大赦した.曾孫ョ吉得立.宣帝が立つと,邴吉は丞相に為ったが,未だ封じられるに及ばないうちに而して病となった.上は邴吉が起たないことを憂いた,夏侯勝は曰く:「此は未だ死ぬものではありません也.臣が聞きますには陰徳が有る者は必ずや其の楽を饗して以って子孫に及ぶものであるとか.」後に邴吉の病は愈えたため,博陽侯に封じた.薨じると,子の邴顯が嗣いだ.甘露中に,削爵されて関内侯と為った.孫の邴昌に至って,復た博陽侯に封じられた.子に伝わり孫に至ったが,王莽が敗れたため乃ち絶えた.

[三]乃ち情は猶も竭情也.

[四]易曰く:「王臣蹇蹇たる,匪躬之故.」烈とは,業である也.

[五]爾雅に曰く:「覃は,延である也.」

[六]此論は並んで華嶠之詞である也.

【張酺伝】

張酺は字を孟侯といい,汝南細陽の人で,趙王張敖の後裔である也.[一]張敖の子の張壽は,細陽にあった池陽郷に封じられ,後に廃された,因家焉.

[一]張敖の父は張耳,楚が漢に降ってから,高祖が封じて趙王と為した.張敖が嗣いだが,後に罪有って,廃されて宣平侯と為った.

張酺は幼くして祖父の張充に従って尚書を受けると,能く其の業を伝えた.[一]また太常の桓栄に事<つか>えた.勤力して怠らず,聚徒すると以って百を数えた.永平九年,顯宗は四姓小侯を為すと南宮に於いて開学し,[二]五経師を置いた.張酺は以って尚書を教授し,御前に於いて何度も講義を行った.以って当

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意を論難し,叙任されて郎と為ると,車馬衣裳を賜り,遂令入授皇太子(遂に入宮して皇太子に学問を授けるよう令がくだった).

[一]東観記に曰く:「張充は光武と同門に学んだため,光武は即位すると,張充を求めて(居場所を)問うたが,張充は已に死んでいた.」

[二]小侯は,明紀に解見される也.

張酺の為人<ひととなり>は質直であり,経義を守り,毎侍講間隙(講義に侍って時間が空く毎に),何度か匡正之辞をすることが有った,以って厳しかったため見えるに憚られた.[一]肅宗が即位するに及び,張酺を擢んで侍中、虎賁中郎将と為した.数月して,出て東郡太守と為った.張酺自以嘗経親近,未悟見出,意不自得,(張酺は嘗経<経に詳しいこと>を以って親近であったことから,未だ外に出されたことを悟らず,意<きもち>は納得しなかった,)[二]上疏して辞して曰く:「臣は愚かにも経術を以って左右に給事し,少しも更職しませんでした,(臣は)文法に曉しません(政治を行う上での習慣や法律に詳しくありません),猥らに剖符し典郡するに当たり,千里を班政することになれば,必ずや負恩辱位之咎(それまでの恩を台無しにし位を辱めてそのことに対する咎め)が有りましょう.臣は私自らの分を窺い知っております,殊に城闕を出ることを慮りません,留められる恩を蒙ろうと冀います,託備官,僚所不安,耳目が聞見する所では,敢えて好醜を避けないとか.」詔が報われて曰く:「経は云う:『身は外に在ると雖も,乃ち心は王室を離れず.』[三]城を典じ民に臨むは,益して以って(その)效に報いる所である也.好醜は必ず上るもの,遠近在る(ため聞こえたり聞こえなかったりする)ものではない.[四]今裝錢三十万を,其の亟之官に賜る.」張酺は儒者であると雖も,而して性は剛断であった.下車して義勇を擢び用い,豪彊を搏撃した(捕縛し撃った).長安有殺盜徒者(長安には盗徒を殺す者が有ったため),張酺は輒ち之を案じると,以為令長受臧(以って長に令して仕事を請け負わせた),猶も死ぬに至らなかったが,盜徒は(殺されることを恐れて)皆飢寒(飢え凍えて)傭保することとなった,何ぞ其の法を窮めるに足らざるか乎!

[一]東観記に曰く:「太子の家の時に奢侈物を為したが,未だ嘗て諫め正さなかった,甚だ見えるに重かった焉.」

[二]悟は,曉である也.

[三]尚書康王之誥に曰く「爾の身は外に在ると雖も,乃心罔不在王室」也.

[四]好醜は善惡を謂う也.事之善惡を言えば,必ず以って上に聞こえる,此が即ち報效である,豈に外内に拘るものだろうか也.

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郡吏の王青なる者は,[一]祖父の翁,前太守の翟義と兵を起こして王莽を攻めた,翟義が敗れるに及ぶと,余りの悉く降ったが,翁は独り節を守って力戦したため,王莽は遂に之を燔燒した.(王青の)父は隆といい,建武の初めに都尉の功曹と為った,王青は小史と為った.父と倶に都尉に従って県を行くと,道で賊に逢った,王隆は以身全都尉(その身を以って都尉をかばい身を全うさせたため),遂に難に於いて死んだ;王青も亦た矢を被って咽を貫かれ,音声は流れて喝いた(咽をやられたため声が嗄れてしまった).[二]前の郡守は以って王青の身は金夷が有るとして,竟に挙げること能わなかった.[三][a]張酺は之を見ると,歎息して曰く:「豈有一門忠義而爵賞不及乎?(どうして忠義である一門が有るというのに而して爵も賞も及ぼされないままなのか?)」遂に擢んで用いて極右曹とし,[四]乃ち王青は三世の死節である(三世が節を守って死んだ一門である)と薦め,宜しく顯異を蒙らせたいと上疏した.奏が三公に下され,此の由<ゆえ>に司空が辟招する所と為った.[五]

[一]謝承の書に曰く:「王青は字を公然といい,東郡聊城の人である也.」

[二]「流」は或いは「嘶」と作る.喝の音は一介反.廣蒼曰く:「声がこれ幽することである也.」

[三]夷は,傷である也.

[a]王青の身は金夷を有する:(金は武器ということ。例:金瘡)王青は咽に傷があり、その為に声が嗄れてしまった。身体が損なわれたということである。身体を損なうこと、損なわれた身体を古代中国はなにより厭うた。また人材評価の基準の一つに「声が明るく大きくはっきりして心地好く聞こえること」があった。そのために前の太守は彼を功曹などに選ぶことをしなかったのである。

[四]漢官儀に曰く:「督郵、功曹は,郡の極位である.」(郡の官吏のなかでトップである)[b]

[b]ここから考えるに「極右曹」は督郵か功曹ということなのだろう。

[五]東観記に曰く「王青は此に従って歩兵司馬に叙任された.張酺は王青を傷んで遂にせず,復して其の子を孝廉に挙げた」也.[c]

[c]司空に辟招された王青だったが、歩兵司馬という出世から全く外されたような寒職にまわされた。やはり咽に大きな傷があり、声が嗄れた王青は人物評価を著しく下げられたのだろう。張酺は王青になされた処置に憤慨しまた王青に対して面目なく思ったようで、その子を孝廉に挙げて王青へ誠心を示した。それは同時にそうした処置をした中央の人事に対して猶も納得せず行動で抗ったといえる。

張酺が出て後より,帝は諸王の師傅に見える毎に,常に言った:「張酺は前に入って侍講し,屢には諫め正すこと有った,ァァ惻惻たりて,誠心に於いて出たものであった,史魚之風を有すると謂うべきだろう矣.」[一]元和二年,東に巡狩し,東郡に御幸すると,張酺及び門生並びに郡県掾史を引いて並んで庭中に会した.帝は先ず弟子之儀を備えて,張酺に尚書一篇を講義させてから,然る後に君臣之禮を修めた.[二]賞賜は殊に特され,沾洽ならざること莫かった.

[一]ァァは,忠正である也.惻惻は,懇切である也.史魚は,衛の大夫,名を,字を子魚という.孔子は曰く「直きかな哉史魚は,邦に道有れば矢の如し,邦が無道なれば矢の如し」也.

[二]東観記に曰く:「時に尚書令王鮪を使って張酺と相難じさせる(論戦させる)と,上は甚だ欣悦した.」

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張酺は視事すること十五年,和帝の初め,魏郡太守に遷った.郡の人である鄭據は時に司隸校尉と為ると,執金吾竇景を免じるよう奏した.竇景は後に復位すると,掾の夏猛を遣わして張酺に私謝して曰く:「鄭據は小人です,為すは侵冤とする所.(鄭據という)其の兒は吏に,放縱狼藉を為させていると聞きます.是を取るに曹子一人で,以って百を驚かすに足るものです.」張酺は大いに怒ると,即ち夏猛を収めて獄に繋ぎ,執金吾府に檄言するに,夏猛が鄭據の子と平らかでないため,卿の意を矯称し,以って私讎を報いようとしたのではないかと疑っているとした.会するに贖罪令が有ったため,夏猛は乃ち出ることができた.[一]この頃,徴されて入って河南尹と為った.竇景の家人が復撃して市卒を傷めたため,吏が之を捕え得た,竇景は怒り,緹騎の侯海等五百人を遣わすと市丞を歐傷させた.[二]張酺の部吏である楊章等が窮究して,侯海の罪を正し,朔方に徙した.竇景は忿怨し,乃ち書を移して楊章等六人を辟招して執金吾吏と為した,因って之に報復しようと欲したのである.楊章等は惶恐すると,入って張酺に白し,自ら罪を蔵していることにして(獄に)引かれ,以って竇景の命を辞したいと願った.張酺は即ち其の状況を上言した.竇太后は詔を報いた:「今から執金吾が吏を辟招するが,皆遣わすこと勿れ.」

[一]東観記に曰く「鄭據は字を平卿といい,黎陽の人である也.侍御史と為り,転じて司隸校尉となった」也.

[二]説文に曰く:「緹とは,帛で丹黄色のものである也.」漢官儀に曰く,執金吾は緹騎を有する.

竇氏が敗れるに及ぶと,張酺は乃ち上疏して曰く:「臣は実に愚惷でして,大體に及びません,[一]以って為すに竇氏は厥辜に伏すと雖も,而して罪刑は未だ著されておらず,後世は其事を見ずに,但其の誅を聞くのみで,以って国典に垂示し,之を将来に貽するに非ざる所であります.宜下して官に理めさせ,天下と之を平らかになさいますよう.[二]方ずるに竇憲等は寵貴でありまして,臣が阿り附いたのは唯及ばないことを恐れただけ,皆が言うには竇憲は顧命之託を受け,伊、呂之忠を懐き,[三]至るに乃ち文母に於いてケ夫人に復比するとのこと.[四]今や厳威(威厳)は既に行われ,皆は当に死すべしと言い,其の前後を復顧していず,考折厥衷しています.臣が伏して見ますに夏陽侯Dは,忠善を毎存し,前に臣に言を与えましたが,常に盡節之心を有し,賓客を檢して,未だ嘗て法を犯していません.臣が聞きますに王の政<まつりごと>というものは骨肉之刑には,三宥之義を有するものでして,厚きに過ぎようとも薄きに過ぎてはならないものです.[五]今議者は為D選厳能相,其の迫切を恐れ,必ずや免れるを完うしないでしょう,宜しく裁くにあたっては宥ということを加貸なさいまして,以って徳を崇厚されますように.」和帝は張酺の言に感じ,徙D

-1532-

封,就国而己.

[一]鄭玄は周禮に注して云うに:「惷愚とは,癡騃である也.」惷の音は陟降反.

[二]平之とは平論其罪を謂う也.

[三]臨終之命が曰く顧命である.

[四]臣賢案ずるに:ケ夫人は即ち穰侯ケ疊の母元である也.元は宮掖に出入して,共竇憲女郭挙父子同謀殺害,竇氏と同じく誅された,竇憲伝に語見される,故に張酺は論じるに竇憲兼及其党.ケ夫人を称えたのは,猶も前書で霍光の妻が霍顯を称えた如しであって,祁太伯母が祁夫人を号する之類である也.文母とは,文王之妻である也.詩に曰く:「既に烈考を有する,亦た文母を有する.」

[五]禮記に曰く「公族に罪有れば,獄が成る,有司は公に於いて讞して曰く:『某之罪に大辟在り.』公曰く:『之を宥<ゆる>せ.』有司はまた曰く:『大辟在り.』公はまた曰く:『之を宥せ.』有司はまた曰く:『大辟在り.』公もまた曰く:『之を宥せ.』及ぶこと三宥にして対せず,走って出ると,甸人にて刑を致した.公はまた人を使って之を追わせて,曰く:『然ると雖も,必ずや之を宥せ.』有司曰く:『及ぼすこと無し也.』公に於いて命を反す,公は素服すること其倫之喪の如し」である也.

永元五年,張酺を遷して太僕と為した.数月して,尹睦に代わって太尉と為った.[一]疾を以って身を乞わんとして何度も上疏し,魏郡太守徐防を自らに代わるとして薦めた.帝は許さず,中黄門を使って病を問わせ,加えるに珍羞を以ってして,錢三十万を賜った.張酺は遂に篤を称した.時に子の蕃は郎を以って侍講していたため,帝は因って小黄門蕃に令して曰く:「陰陽が和まず,万人が所を失っている,朝廷は公に得失を思惟し,国と心を同じくしてくれることを望んでいる,而して病に託して自汲オ,重任から去らんことを求めるとは,誰が当に吾と憂責を同じくする者であるべきだというのか?非有望於断金也(断金の故事をそこに望むことはできないのか).[二]司徒は固より疾んでいるとし,司空は年老いたという,[三]公其傴僂,勿露所.」[四]張酺は惶恐すると闕に詣でて謝り,還り復して視事することとなった.張酺は公位に在ると雖も,而して父が田里に常居していたため,張酺は職を遷ること有る毎に,輒ち京師に一詣した.嘗て来候張酺とされ,歳節に会うに適って,公卿が朝を罷めることとなると,張酺の府に倶に詣でて酒を奉じて上壽し,卒日を極歎した,人は皆之を慶び羨んだ.父が

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卒するに及び,既に葬られると,詔あって使いが遣わされ牛酒で齎させて釋服を為させた.

[一]漢官儀に曰く:「尹睦は字を伯師といい,河南鞏の人である也.」

[二]断金は,皇后紀に解が在る.

[三]時の司徒は劉方,司空は張奮であった也.

[四]傴僂とは言うに恭敬従命であることである也.左氏伝に曰く:「一命して而して僂,再命して而して傴,三命して而して俯.」

後に以って事えるに司隸校尉晏称と朝堂に於いて会ったおり,張酺は従容として晏称に謂いて曰く:「三府が吏を辟招するに,多くは其人に非ず.」晏称は帰るや,即ち奏して三府に令すると各々其の掾史の実を(査察)させた.張酺は本より私言を以ってしたのに,不意に晏称が之を奏したため,甚だ恨みを懐いた.復た共に闕下に謝すことに会うと,張酺は因って晏称に於いて讓るよう責めた.晏称は辞して順わないと言い,張酺は怒ると,遂に之を廷叱し,晏称は乃ち張酺は怨言を有すると劾奏した.天子は張酺を以って先帝の師であったことから,公卿、博士、朝臣に詔して会議を有させた.司徒の呂蓋が奏していうことに張酺は位は三司に居り,公門には儀を有することを知りながら,気を屏し躬を鞠すことなく須く詔命を以ってしたうえ,反って色を作り大言し,讓ることについて使臣を怨んだのは,以って四遠を示すべからざるものである、と.[一]是に於いて策あって免じられた.

[一]司隸校尉は大姦猾を督し,察せざる所無し,故に曰く使臣という也.

張酺は里舍に帰ると,謝して諸生を遣わし,門を閉じて賓客と通じなかった.左中郎将の何敞及び言事者が張酺の公忠を多く訟したため,帝は亦た之を雅重した.十(五)[六]年,復して拝して光祿勳と為った.数月して,魯恭に代わって司徒と為った.月余して薨じた.乗輿は縞素で臨弔し,賜塋地,賵贈された恩寵は它相に於けるものとは異なっていた.張酺は病にふせ危うきに臨むと,其子にして曰く:「顯節陵では埽地露祭とし,儉を以ってして天下を率いんことを欲した.[一]吾は三公と為るも,既に王化を宣揚すること能わず,吏人に制に従うよう令したが,豈に節約に務めないことできただろうか乎?其れ祠堂を起てること無いように,ノ蓋廡を作ることはいいだろう,

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其下に祭りを施して而して已ますように.」[二][a]

[一]顯節とは,明帝陵である也.明帝が廟に寝起きすること無いよう遺詔した,故に埽地して而して祭ったと言うのである也,故張酺は之を遵奉したのである.

[二]廡は,屋である也.

[a] 顯節陵での埽地して而して祭ったとあるのを真似ることで「制に従うように」との意思を表したものと思われる。

曾孫は張済,儒学を好み,[一]光和中に司空に至ったが,病で罷めた.卒するに及び,靈帝は旧恩を以って車騎将軍、関内侯の印綬を贈った.其年,張済の侍講で労有ったことを追って,子の張根を封じて蔡陽郷侯と為した.

[一]華嶠の書に曰く:「張蕃は張磐を生み,張磐は張済を生んだ.張済の字は元江という.靈帝の初め,楊賜が張済を明習典訓として薦め,侍講と為った.」

張済の弟は張喜,初平中に司空と為った.

【韓棱伝】

韓棱は字を伯師といい,潁川(郡)舞陽の人で,弓高侯穨当の後裔である也.[一]世で郷里の著姓を為した.父は韓尋といい,建武中に隴西太守と為った.

[一]穨当は,韓王信の子である.前書に見える.

韓棱は四歳にして而して孤りとなり,母や弟を養って以って孝友と称した.壮ずるに及び,推先父余財数百万与従昆弟,郷里益高之.初め郡の功曹と為った,太守の葛興は中風で,病んだため聴政すること能わなかった,韓棱は陰で葛興に代わって視事した,出入すること二年,令は違える者<こと>無かった.興子嘗発教欲署吏,韓棱は執を拒んで従わなかった,因って怨者に令して之を章にした.[一]事が案驗に下され,吏は以って韓棱が葛興の病を掩蔽し,郡職を專典していたとして,遂に禁錮に致した.

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顯宗は其の忠を知ると,後に詔して之を特に原した.是由に徴され辟招され,五遷して尚書令と為ると,僕射の郅壽、尚書の陳寵とともに,同じ時に倶に才能以って称えられた.肅宗が嘗て諸尚書にを賜ったおり,唯此三人のみ特に寶を以ってすると,自ら手づから其名を署して曰く:「韓棱は楚の龍淵,[二]郅壽は蜀の漢文,陳寵は済南の椎成である.」[三]時の論者が為した説では:以って韓棱は淵深にして謀を有する,故に龍淵を得るとする;郅壽は明達にして文章を有する,故に漢文を得るとする;陳寵は敦朴,善は外に見えない,故に椎成を得るとする.

[一]章とは謂うに令上章告言之.

[二]晉の大康記に曰く:「汝南の西平県には龍泉水が有る,可淬刀,特に堅くて利ろし.」汝南は即ち楚の分野である.

[三]椎の音は直追反.漢官儀では「椎成」は「鍛成」と作る.

和帝が即位すると,侍中の竇憲は人を使って斉殤王の子で都郷侯の劉暢を上東門に於いて刺し殺させた,有司は竇憲を畏れた,咸委疑於暢兄弟.詔遣侍御史之斉案其事.韓棱は上疏すると以って為すに賊は京師に在る,近きを捨てて遠きに問うは宜しからず,姦臣が笑う所と為るを恐れるとした.竇太后は怒り,以って韓棱を切責したが,韓棱は其の議に固執した.事が発覚するに及び,果如所言(果たして韓棱が言った通りのようなことであった).竇憲は惶恐すると,太后に白して出て北に匈奴を撃ち以って贖罪としたいと求めてきた.韓棱は復た上疏して諫めたが,太后は従わなかった.竇憲が功有るに及び,還って大将軍と為ると,天下に威震し,復た出て武威に屯した.帝が園陵に西祠することとなると,詔して竇憲に車駕を与えて長安で会うこととした.竇憲が至るに及び,尚書以下は議して之を拝さんと欲し,伏して万歳を称えた.韓棱は色を正すと曰く:「夫れ上は交わっても諂らず,下は交わっても黷せずという,[一]禮には人臣が万歳之制を称えられることは無いものだ.」議者は皆すると而して止めた.尚書左丞の王龍が私奏して竇憲に於いて牛酒を上らせることを記した,韓棱は王龍のことを挙奏すると,論じて城旦を為した.[二]韓棱は朝に在っては何度も良吏を薦め挙げた。応順、呂章、周紆等は,皆当時にあって有名であった.竇氏が敗れるに及び,韓棱は其事を典案すると,深竟党与,数月も休沐しなかった.帝は以って国を憂えるあまり家を忘れているとして,布三百匹を賜った.

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[一]易下繋之辞である也.

[二]前書音義に曰く:「城旦とは,輕刑の名である也.晝日には寇虜を司り,夜暮れれば長城を築く,故に曰く城旦と.」

南陽太守に遷った,特聴棱得過家上,郷里は以って栄えと為した.韓棱は姦盜を発擿したため,郡中は震え慄いた,政は厳平を号したのである.数歳して,徴されて入って太僕と為った.九年冬,張奮に代わって司空と為った.明くる年に薨じた.

子は韓輔,安帝の時に趙相に至った.[一]

[一]趙王良孫商之相也.

韓棱の孫の韓演は,順帝の時に丹陽太守と為り,政に能名有った.桓帝の時に司徒と為った.[一]大将軍の梁冀が誅を被ると,韓演も党に阿っていたことで坐して罪に抵したが,以減死論(死一等を減じると言う論議が為されたため),遣わされて本郡に帰った.[二]後に復徴して司隸校尉を拝した.

[一]韓演は字を伯南という.

[二]華嶠の書に曰く「梁皇后が崩じると,梁貴人が大幸し,将に立った,大将軍の梁冀は其の寵を分けられようと欲し,姓を冒すことを謀り貴人の父と為った,韓演は陰で許諾したため,梁冀が誅されて事が発覚するに及ぶと,韓演は坐して抵罪したのである」也.

【周栄伝】

周栄は字を平孫といい,廬江舒の人也.肅宗の時,明経に挙げられ,司徒袁安の府に辟招された.袁安は何度も彼と論議し,甚だ之を器とした.及んで袁安が竇景を挙奏したこと及び竇憲と北単于を立てる事で争ったことは,皆、周栄の具草する所だった.竇氏の客である太尉掾の徐齮は深くこれを悪み,周栄を脅して曰く:

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「子は袁公の腹心之謀を為し,奏して竇氏を排除しようとしているが,竇氏には悍士刺客が城中に満ちているのだ,(せいぜい)謹んでこれに備えたまえ!」周栄曰く:「このわたしは江淮の孤生,先帝に大恩を蒙り,以て二城を歴宰した.今また宰士の備えを得たのだ,[一]縱して竇氏に害される所となるは,誠に甘心とするところ.」故より常に妻子に語った,若し飛禍に遇って卒することがあるなら,殯斂を得る無し,[二]冀うは以て區區腐身し朝廷を目覚め悟らせん.竇氏が敗れるに及んで,周栄はこの由に顯名となった.郾の県令から擢ばれて尚書令となった.出て潁川太守となり,法に連座して,当に獄に下された,和帝は周栄の忠節を思い,左轉して共の県令とした.[三]歳余して,復して以て山陽太守となった.郡県を歴するところ,皆綱紀称えられるのを見た.老病を以って身を乞い,家で卒した,詔があって銭二十万が特賜され,子男(息子)が叙勲をうけ郎中となった.

[一]周栄は司徒府に辟招された,故に宰士を称えた.

[二]飛禍は倉卒して死すことを言う也.

[三]共は,県名,河内郡に属する,故城は今の衛州共城県東にある,即ち古の共国である.

周興は若いころ名譽有った,永寧(年間)中に,尚書陳忠が上疏して周興を薦めた、曰く:「臣が伏して古を惟ふに、帝王の号令あるところ,言は必ず弘雅,辞は必ず温麗,後世の垂範となり,典経に列挙されるものです.故に仲尼は唐虞之文章を嘉し,周室之郁郁に従ったのです.[一]臣が窺い見るに光祿郎の周興は,[二]孝友之行は,閨門に著わされ,清飼V志は,州里に聞こえています.蘊古今,博物多聞,[三]三墳之篇,五典之策,覽ないでおく所がありません.[四]属する文にも著わされた辞にも,観て採るべきものが有ります.尚書は帝命を出納するもの,王の喉舌を為すものです.[五]臣等は既に愚闇でありまして,而して諸郎の多くは文俗の吏で,雅才有るは鮮なく<すくなく>,毎為詔文,宣示内外,轉相求請,或以不能而專己自由,辞多鄙固.興抱奇懷能,隨輩栖縺C誠可歎惜.」詔があり乃ち周興を拝し尚書郎とした.卒した.周興の子は周景である.

[]論語孔子曰:「大哉堯之為君也,煥乎其有文章.」又曰:「周監於二代,郁郁乎文哉.吾従周.」

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[二]光祿主郎,故に曰く光祿郎.

[三]蘊は,藏也.は,匱也.

[四]伏羲、神農、黄帝之書が曰く三墳;少昊、顓頊、高辛、唐、虞之書が曰く五典也.

[五]尚書は王之喉舌を為す官也.李固は対策して曰く:「今陛下が尚書を有するのは,猶天が北斗を有するのと同じことです也.北斗は天の喉舌を,尚書はまた陛下の喉舌を為すのです也.」

周景は字を仲饗という.大将軍梁冀の府に辟招され,稍遷して豫州刺史、河内太守となった.賢を好み士を愛し,其の才を抜擢し善を薦めるようすは,常に及ばないことを恐れるようであった.歳時が至る毎に,延請挙吏入上後堂,これと共に宴会した,此の如きを数えること四つして,乃ち之を遣わした.什物を贈送したが,充たし備えないもの無かった.既に而して其の父兄子弟を選ぶと,事相優異.常に称えて曰く:「臣子は同貫,若し之何ぞ厚からざらん!」是に先んじて司徒の韓演が河内に在ったときに,志は無私に在ったため,吏を挙げて行うに当り,一辞して而して已み,恩も亦た其家に及ばなかった.曰く:「我が挙げしは可としたからだ矣,豈可令積一門!」故に当時の論者は此二人のことを議論した.

周景は後に徴されて入って将作大匠となった.梁冀が誅されるに及んで,周景は故吏であったため免官され禁錮となった.朝廷は周景が素より忠正を著わしていたため,これを頃し,復して引かれて尚書令を拝命した.[一]太僕、衛尉に遷った.六年,劉寵に代わって司空と為った.是時宦官は人を任ずるに及ぶや子弟で充たし列位を塞いだ.周景が初め視事するに,太尉楊秉と諸々の姦猾を挙奏し,将軍より牧守以下,免ぜられる者五十余人となった.遂に連なるに及んで中常侍である防東(出身?)の侯覽、東武陽侯の具瑗は,皆坐黜した.朝廷は之を称えないこと莫かった.視事すること二年,地震を以て策あって免じられた.歳余し,復して陳蕃に代わって太尉と為った.建寧元年に薨じた.以て靈帝を立てる策を定める議に預かったとして,追封され安陽郷侯となった.

-1539-

[一]蔡質の漢儀に曰く:「延熹中,京師は游俠者で順帝陵を盜發するものが有り,市で御物が売られた,市長は追捕したが得なかった.周景は以て尺一の詔で司隸校尉左雄を召して臺に詣でて対して難詰し,左雄は廷に伏して荅対された,周景は虎賁を使い左駿を頓頭させたため,(左駿の顔から)血が出て面を覆った,与って三日期して,賊は便擒された也.」

長子の周崇が嗣ぎ,甘陵相に至った.[一]

[一]甘陵王理の相である也.劉理は即ち章帝の曾孫である.

中子の周忠は,若くして列位に歴し,累遷して大司農となった.[一]周忠の子の周暉は,前に洛陽令となり,官を去って帰った.兄弟とも賓客を好み,江淮間の雄となり,出入する従車は常に百余乗となった.帝が崩ずるに及び,周暉は京師の不安を聞き,来候忠,董卓は聞いてこれを悪み,使兵して其兄弟を劫殺した.周忠は後に皇甫嵩に代わって太尉となり,録尚書事を得たが,災異を以て免じられた.復して衛尉となり,獻帝の洛陽東帰に従った.

[一]呉書に曰く,周忠は字を嘉謀といい,朱儁と共に曹陽で李傕に敗れた也.

贊に曰く:袁公は持重,誠に奉じた所は単<わずか>であった.[一]惟徳は忘れられず,延世して寵を承った(子孫までが(徳の)寵を承った).孟侯は経博,帝幙に侍り言した.韓棱、周栄は君に事えた,志は鸇雀に同じである.[二]

[一]単は,盡である也.

[二]左伝に曰く:「其君に見えるに礼無きは之を誅す,鷹鸇が鳥雀を逐うが如きである也.」