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後漢書卷五十六

張王陳列伝第四十六

【張

字を叔明といい,犍為(郡)武陽の人である也.六世の祖が張良で,(彼は)高帝の時に太子少傅と為り,留侯に封じられた.[a]張少なきより京師に遊学し,(初)永元中に,帰って州郡に仕え,大将軍ケ騭の府に辟招され,五遷して尚書僕射となり,職に事えること八年,出て彭城相と為った.[一]

[a]項羽と劉邦が争った楚漢攻防の時に活躍した漢三傑の一人、張良のことである。

[一]明帝の子で彭城王であった劉恭の相である也.

永寧元年,徴されて廷尉を拝した.張法家に非ざると雖も,而して心を刑断に留め,何度も尚書と疑獄を辯正したが,多くは以詳当見従.[一]時に安帝は皇太子を廃して済陰王と為すと,張は太常の桓焉、太僕の来歴と之を廷争したが,得ること能わなかった.事は已に来歴伝で具さにしてある.退いて而して上疏すると曰く:「昔賊臣の江充は,讒逆を造構すると,戻園に令して兵を興すに至り,終に禍難に及びました.[二]後に壺関三老が一言するや,上は乃ち覚悟なさいました,前失を追うと雖も,之を悔いるに何ぞ逮でありましょう![三]今皇太子は春秋方始すること十歳でありまして,未だ九徳之義を保傅するに見えておりません,[四]宜しく賢を簡して輔となさって,聖質が成るようお就かせください.」書が奏じられたが省みられなかった.

[一]詳審にして而して平当である也.

[二]趙の人である江充は,字を次倩という.武帝の時に,直指繡衣と為った,太子の家吏が馳道の中を行ったことを劾した(弾劾した)ため,(江充は)太子に誅される所と為るのを恐れた,見上年老,意多所惡(江充がお上を見るに年老いて,気持ちの多くが(太子を)悪む所となったようであったため),因って左右に言うに皆

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巫蠱が為されているとした.上は乃ち江充を使って捕えさせると巫蠱を案じさせた.(江充は)既に上の(疑いの)意が太子にあると知っていたため,乃ち宮中に蠱の気が有ると言うと,遂に太子宮から蠱を掘りだし,桐の木人を得た.時に上は疾んで甘泉宮に在ったため,太子は自ら明らかとすること能わざるを懼れ,江充を収めて之を斬ると,兵を発して丞相の劉屈と氂戦し,敗れて,湖に亡走すると,自殺した.後に太子の孫である宣帝が即位すると,太子に追謚して曰く戻とし,湖に於いて園邑を置き祠を奉った,故に曰く戻園という.

[三]逮とは,及ぶである也.太子の死後に,壺関三老の令狐茂が上書して太子の冤(罪)を訟すると,武帝は感寤し,太子が無辜であったことを憐れんで,乃ち江充を族滅に処し,思子宮を作り,為帰来望思之臺於湖,天下は聞くと而して之を悲しんだ.事は前書に見える.

[四]尚書繇は九徳を陳べて,曰く「ェにして而して栗,柔にして而して立つ,愿にして而して恭,乱にして而して敬,擾にして而して毅,直にして而して温,簡にして而して廉,剛にして而して塞,彊にして而して誼」也.

順帝が即位するに及んで,張司空に拝したが,事に在って多くが薦達される所となり,天下は其の推士を称えた.時に清河出身の趙騰が災變を上言し,朝政を譏刺したため,章が有司に下され,趙騰を収めて繋いで考じると,党輩八十余人が引かれる所となり,皆誹謗を以ってして当に重法に伏すべきことになった.張上疏して諫めて曰く:「臣が聞きますに堯舜は敢諫之鼓を立てかけ,三王は誹謗之木を樹え,春秋は善を採って惡を書し,聖主は芻蕘を罪にしないものだとか.[一]趙騰等はお上にたいして法を犯したと雖も,言う所は本は忠を尽くして正諫しようと欲したものであります.当に誅戮すべき如きなれば,天下は杜口し(口を閉ざし)てしまい,諫爭之源を塞ぐこととなりまして,昭徳を以ってして後(世)に示すに非ざる所となりましょう也.」帝は乃ち悟ると,趙騰の死罪を一等減じ,余りは皆司寇(の刑)とした.[二]四年,陰陽が和んでいないことを以って策あって免じられた.

[一]左氏伝に曰く:「春秋之称えるや,微にして而して顯らか,志にして而して晦,惡を懲らしめ而して善を勧める,聖人に非ざれば誰が能く之を修めようか.」

[二]前書の音義に曰く:「司寇とは,二歳刑のことである也.」輸作司寇は,因るに名を以ってしたものである焉.

陽嘉元年,復して廷尉と為った.其年に卒官した(官にあったまま卒した),時に年八十三.使者を遣わして弔祭し,葬地が賜られたがそれは河南県に於いてであった.子は張綱である.

張綱は字を文紀という.少なきより経学に明るかった.公子と為ったと雖も,而して布衣之節に獅オた.孝廉に挙げられたが就かなかった,司徒が高第に辟招し[侍]御

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史と為った.時に順帝は宦官に(政事を)委ねて縦とさせたため,有識者は心を危うくした.張綱は常に感じて激し,慨然として歎じて曰く:「穢惡が朝に満ち,身を奮って命を出されて国家之難を埽くことも能わず,生きていると雖も(それは)吾が願うものではない也.」退くと而して上書して曰く:「詩に曰く:『不愆不忘,率由旧章.』とあります[一]尋ねるに大漢が初め隆り,中興之世に及んで,文、明二帝によって,徳化は尤も盛んとなりました.為して其の理めるを観れば,循ずるに易く見えるに易く,但恭儉守節にいそしんで,身を約して徳を尚び<とうとぶ>而して已むものでした(そのようにして徳化が大いに盛んとなったのでした).中官や常侍は両人に過ぎません,近倖賞賜裁滿数金,惜費重人,故家給人足.夷狄は中国が優れて富んでいると聞いていますが,それは信に任せて徳を道としているからで,姦謀が自ら消え而して和気感応する所以であるのです.而して頃者(近頃は)以来,旧典を遵ばず,功が無いのに小人は皆官爵を有して,之で富し之に驕り而して復して之を害しておりますが,人を愛し器を重んじるに非ざるもの,天を承り道に順うに非ざる者でありましょう也.[二]伏して願いますは陛下におかれましては少しく聖思を留められまして,左右を割損されて,以って天心に奉じられますように.」書が奏じられたが省みられなかった.

[一]詩の大雅である也.愆は,過である也.率は,循也.言うに成王は徳を令したが,旧典之文を循用するに過ぎなかったという.

[二]器とは車服のことを謂う也.功無き小人には妄りに授けるべからずと言う也.左伝に曰く「唯器と名だけは以って人に仮すべからず」也.

漢安元年,選ばれて八使が使わされて風俗を徇行することとなった,皆耆儒にして名を知られ,多くが顯位を歴任したことがあった,[一]唯張綱のみが年少で,官次も最微であった(最も官位が低く賎しかった/取るに足りない官位であった).余人受命之部(他の人々は然るべき場所で受命したのであるが),而して張綱は(官が賎しかったためそうした場所に出席できず?)独り其の車輪を洛陽都亭に於いて埋め,曰く:「豺狼が路に当たるなかで,安んぞ狐狸のことを問うものだろうか!」[二]遂に奏じて曰く:「大将軍の梁冀,河南尹の不疑は,外戚之援を蒙り,国を荷って恩を厚くし,芻蕘之資を以ってして,阿衡之任に居りますが,五教を敷揚すること能わずして,日月を翼讚し,而して專ら為すのは封豕長蛇,其の貪叨を肆して,[三]心を甘やかして貨を好み,縱恣にすること(縦にすること,恣にすること)底無しのありさま,多くが諂諛を樹てて,以って忠良を害しております.誠に天威が赦しようのない所であります,不辟所宜加也.謹しんで其の無君之心(君を蔑ろにする心をもっている証拠の)十五事を條します,斯くは皆臣子が切歯する所の者であります也.」[四]書が御されると,京師は震竦した.[五]時に梁冀の妹が皇后と為っており,内寵は方じるに盛んであって,諸々の梁(氏の)姻族が朝を満たしていたため,帝は張綱の言直を知ると雖も,終に用いるに忍びなかった.

[一]周挙伝に曰く:「詔されて八使が使わされて風俗を巡行した,同時に倶拝,天下は号して曰く『八俊』とした.刺史、二千石で臧罪を有する者は,之を馬上で驛し,墨綬は已下便

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收;其の清勤忠惠にして宜しく異を表す者は,状聞した.」八使の名は順帝紀に見える.

[二]前書にある京兆の督郵である侯文の辞である.

[三]左伝で申包胥曰く「吳は封豕長蛇を為し,上国を荐食する」也.

[四]左伝に曰く「無君之心を有すれば,而して後に動くのは惡に於いてである」也.前書で鄒陽が蓋侯王長君に謂いて曰く:「太后怫鬱泣血,切齒側目於貴臣矣.」

[五]御は,進むである也.

時に広陵の賊である張嬰等はすること数万人となり,刺史、二千石を殺し,揚州徐州の閧寇乱して,積むこと十余年となっていたが,朝廷は討つこと能わなかった.梁冀は乃ち尚書に諷じさせると,張綱を以って広陵太守と為した,因欲以事中之(誰も解決できないこの難事に当たらせて失脚させようと欲したのである).前に遣わされた郡守は,率いるに多くの兵馬を求めたが,張綱は独り単車を請うとこれ職した.既に到ると,乃ち吏卒十余人を将いて,張嬰の壘に徑造すると,以って之を慰安し,長老に相見えんことを求め得ると,国恩について申しわたし示した.張嬰は初め大いに驚いたが,既に張綱に見えると誠に(国恩を授けて罪を赦すという沙汰について)信<まこと>であるとし,乃ち出ると拝謁した.張綱は上坐に延置されると,疾苦する所を問うた.乃ち之を譬えて曰く:「前後の二千石は多くが貪暴を肆しました,[一]故に公等は致されると憤りを懐いて相聚まったのでしょう.二千石は信<まこと>に罪有るものですが矣,之を為すを然れりとする(者)のも又義に非ざるものです也.今主上は仁聖であって,文徳を以ってして叛いたものを服させようと欲しておられます,故に太守を遣わし,爵祿を以って相榮えんことを思われ,刑罰を以って相加えんことを願っていないわけです,今や誠に禍転じて福と為すの時というものです也.若し義は服さないものと聞きます,天子が赫然として震怒し,荊、楊、兗、豫から大兵が雲のように合わさったうえは,豈に危うからざるや乎?若し彊弱を料らざるは,明に非ざるもの也;善をして惡を取るとは,智に非ざるもの也;順を去って逆しまに效ずるは,忠に非ざるもの也;身は血嗣を絶やすは,孝に非ざるもの也;[二]正に背き邪に従うは,直に非ざるもの也;義を見て為さざるは,勇に非ざるもの也:この六つは成敗之幾であって,利害が従う所のものです,公は其これを深く計られよ.」張嬰は聞くと,泣き下って,曰く:「(わたしは)荒裔にして愚人でありましたため,自ら朝廷に通じること能わず,侵枉に堪えずして,遂に復して偷生を相聚めましたが,若し魚が釜中に遊ぶようなもの,須臾の閧ノ息を喘がせることとなっただけでした耳.今や明府之言を聞いて,乃ちこの嬰等は更生之(晨)[辰](更生の辰となりましょう)也.既に不義に陥ったために,実に

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投兵之日(兵を投げ捨てて投降した日がきたとき)に,孥戮を免れざるを恐れていました.」張綱は之に約するに天地を以ってし,之に誓うに日月を以ってしたため,張嬰は深く感悟し,乃ち辞すと営に還った.明くる日,所部している万余人と妻子を将いて面縛して帰し降った.張綱は乃ち単車で張嬰の壘に入ると,大いに会し,酒を置いて楽を為すと,部を散り遣わして,之を従う所に任せた;親為卜居宅,相田疇(卜占を為して居宅を定めさせると,それぞれに田を開墾させた?);[三]子弟で吏に為りたいと欲する者については,皆引いて之を召すことにした.人情は服することを悦び,南州は晏然としたのである.朝廷は論功して当に封ぜんとしたが,梁冀が遏絶したため,乃ち止めた.天子は(その)美しきを嘉して,徴じて張綱を擢び用いようと欲したが,而して張嬰等が上書して留まらんことを乞うたため,乃ち之を許した.

[一]二千石とは太守のことを謂う也.

[二]凡そ祭には皆牲を用いる,故に曰く血嗣という.

[三]相は,視である也.田並びに畔は曰く疇という.

張綱は郡に在ること一年,年四十六で卒した.百姓老幼は相攜して,府に詣でて赴いて哀する者は数えようがないほどであった(不可勝数).張綱が疾を被って自り,吏人は咸じて祠祀を為して福を祈り,皆言うに「千秋万歳,何時復見此君(千年が経ち万年が過ぎようとも,此の君(のような郡守)に再び見えるなど何時になるだろうか)」.張嬰等五百余人は制服して喪を行い,(張綱の遺体を)送って犍為に到ると,土を負うて墳(墓)を成した.詔に曰く:「故の広陵太守である張綱は,大臣之苗であった,符を剖いて務めを統め,身を正して下々を導いた,その徳信を班宣して,集まっていた劇賊の張嬰ら万人を降し,干戈之役を息つがせ,蒸庶之困を済ませたのだ,未だ顯爵に升らずして,不幸にして早卒した.張嬰等は縗杖して,考妣を喪ずるかの若きであったが,朕は甚だ(それを)愍するものである焉!」張綱の子である張續を拝して郎中と為し,錢百万を賜った.

【王龔伝】

王龔は字を伯宗といい,山陽(郡・国)高平の人である也.世々に豪族を為した(家である).初め孝廉に挙げられ,稍遷して青州刺史となり貪濁なる二千石

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数人を,劾奏したため,安帝は之を嘉し,徴して尚書を拝することとなった.建光元年,擢ばれて司隸校尉と為り,明くる年に汝南太守に遷った.政は温和を崇め,才を好み士を愛した,郡人の黄憲、陳蕃等を引き進めた.黄憲は不屈であり,陳蕃は遂に吏に就かなかったと雖も(郡人の黄憲、陳蕃等を引き進めた).陳蕃は性気は高明であった,初め到ると,王龔は不即召見之(即座に見えて召そうとはしなかったため),乃ち記を留めると病であると謝して去った.王龔は怒り,使って其の録を除かせた.功曹の袁閬が見えんことを請うと,言いて曰く:「之を伝に聞きますに曰く『人臣が君に於いて察するに見えずんば,朝に於いて敢えて立たず』とか.陳蕃は既に賢を以ってして引くに見えましたのに,非禮を以ってして退けるのは宜しくないでしょう.」王龔は容貌を改めると謝して曰く:「是は吾が過ったものだった也.」乃ち復して之を厚遇し待らせた.是由に後進知名之士で帰心しないものは莫かった焉.袁閬は字を奉高という.何度も公府之命を辞し,異操を修めず,而して当時において名を致した.

永建元年,王龔を徴して太僕と為し,太常に転じた.四年,司空に遷ったが,地震を以って策あって免じられた.

永和元年,拝されて太尉となった.位に在っては恭しく慎しみぶかく,自非公事(公事に非ざる自り),州郡の書記に通じなかった.其の辟命する所は,皆海内の長者であった.王龔は宦官が専権していることを深く疾<にく>んでおり,志は匡正することに在ったため,乃ち上書して其の状況を極言し,放斥を加えんことを請うた.諸黄門は恐懼すると,それぞれが賓客を使って王龔の罪を誣奏させたため,順帝は自実を亟するよう命じられた.[一]前の掾であった李固が時に大将軍梁商の従事中郎と為っており,乃ち梁商に於いて記を奏すると曰く:「今旦に下に聞くに太尉の王公が自実するよう令されたとか,未だ其の事を深淺として審らかにしないのは何如なものでしょう.王公は脩を束ねて節に獅オて,楽に敦く文に芸あるかた,苟しくも得ようと求めず,苟しくも行いを為さず,[二]但、堅貞之操のみを以ってして,俗に違えてを失う,横為讒佞所構毀,人は聞き知るや,歎慄しないものは莫いようす.夫れ三公とは尊く重く,天を承り極を象るものでありますのに,未だ訴冤之義を理めようと詣でるもの有しないようです.[三]纖微感,輒ち決を引き分ける,是は以って旧典をして大罪に有らざれば,重問には至らないとあるものです.[四]王公は沈靜にして内明るく,理に非ざるものを以って(刑罰を)加えるべきではありません.卒するなら它變(他の変)を有することになります,則ち朝廷は害賢之名(賢人を害したと言う汚名)を獲てしまうのです,臣には救護之節が無いようですが矣.昔絳侯が罪を得ると,袁盎は其の過ちを解き,[五]魏尚が戻を得ると,馮唐が其の冤(罪)を訴えました,[六]時の君は之を善しとしたこと,書伝に列在しております.今将軍は内では至尊に倚し,外は国柄を典じられ,言は重く信は著われ,指ヒするに違うこと無いものです,宜しく表を加えられて,王公之艱難を救済ください.[a]語に曰く:『善人に患い在れば,飢えても餐に及ばず.』とありますが斯くは其

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時なのです也.」梁商は即ち帝に於いて之を言ったため,事は乃ち釋されるを得たのである.

[一]亟とは,急である也,音は紀力反.

[二]前書に曰く,楊子雲は曰く:「蜀は厳湛冥不作苟見,不為苟得.」

[三]三公は承って天子を助ける,位は三台を象る,故に曰く承天象極という.哀帝の時に,丞相の王嘉に罪が有り,召して詔獄に廷尉を詣でることになった.主簿曰く「将相不對理陳冤,相踵以為故事,君侯宜引決」也.

[四]大臣が重(罪)で獄にくだされる,故に曰く重問という.成帝の時に,丞相の薛宣、御史大夫の翟方進が罪有った,上使五二千石雜問(上は五人の二千石を使って雑問させた).音義は云う:「大獄は重い,故に二千石五人を以ってして同じに之を問わせるものである.」

[五]文帝の時に,丞相である絳侯の周勃が免じられて国に就くことになると,人が以って反を為さんとしていると告げたが,諸公で敢えて言を為そうとするもの莫かった,唯郎中の袁盎のみが絳侯は無罪であると明らかにしただけであった.絳侯が釋されるを得たのは,袁盎に力(功績)が有るのだ也.

[六]馮唐は,安陵の人で,文帝の時に郎署長と為った.上は與(彼と)将帥について論じると,馮唐は曰く:「臣が聞きますに魏尚は雲中守と為ると,坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之.臣愚以為陛下法太明,罰太重.」文帝悦,捨尚復官也.

[a]原文では『宜加表救,済王公之艱難.』とあるが、『宜加表,救済王公之艱難.』の方が分かりがよいと判断し、それに基いて訳した。

王龔は位に在ること五年,老病を以って骸骨を乞うと,家に於いて卒した.子は王暢である.

論に曰く:張、王龔は,(雅)[推]士を為すと称えられたが,若し其の好みは善を汲むに通じるにあった,明發升薦というのは,仁人之情である也.夫れ士は進めば則ち世は其の器を収め,賢用いれば即ち人は其能を献じるものである.能獻既已厚其功,器收亦理兼天下.[一]其の利は甚だ博くして,而して人莫之先,豈同折枝於長者,以不為為難乎?[二]昔柳下惠見抑於臧文,[三]淳于長受称于方進.[四]然則立徳者以幽陋好遺,顯登者以貴塗易引.故に晨門には抱関之夫が有り,[五]柱下には朱文

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之軫が無いのである也.[六]

[一]賢人が用いられるに見えれば,則ち人は競獻其の能くする所を競って献ぜんことを言う.但有能であるだけなら即ち獻じるのみ,動けば必ずや功有らん,功多ければ賞厚し,故に已に其功厚しと言う.才器有れば必ずや收用を被らん,用いられれば則ち海内は福を蒙る,故に曰く理は天下を兼ねるとする.

[二]為さざるを以ってして難きを為すとは,不之難を言うのである也.進賢達士は,同折枝之易(小枝を折り取ることの易きに同意したとしても),而して之を為さないことを謂う.孟子は斉の宣王に謂いて曰く:「今や恩が足ることは以って禽獸に及ばんとしていますが,而して百姓に於いて(その恩を)加えること能わないとはいったい何ででしょうか?非力であるために能わない,是が為さないということです也.」王曰く:「為,二者謂何也?(為すことには二つのものがあるというがそれはどういうことだろうか?)」孟子曰く:「夫れ太山を挟んで以って北海を超えんとす,王は能くするや乎?」王曰く:「能わず.」「長者と為って枝を折りとる,王は能くするや乎?」曰く:「能わず也.」孟子曰く:「夫れ太山を挟んで以って[北]海を超える,是は実に能わざること,彊いるべからざるもの也.長者と為って枝を折りとるは甚だ易し,而して王は為さざるは,能わざるに非ず也.吾が老いしを老いたりとするは,人の老いしに及ぶを以ってする,吾が幼きを幼いとするは,人の幼きに及ぶを以ってする,天下は諸掌に運ぶ可きもの,何ぞ百姓に於いて(徳を)加えるのを能わずと為すや乎?」劉熙は孟子に注して曰く:「析枝とは,若し今之案摩である也.」

[三]柳下惠は姓を展,名を禽,字を獲という,食邑が柳下に於けるもので,謚が曰く惠であった(ために柳下恵というのである).臧文仲は,魯の大夫である,姓は臧孫,名は辰.左伝で仲尼が曰く:「臧文仲は不仁であったことが三つある,展禽を下したこと,六関を廃したこと,織蒲を妾としたことである.」言うに文仲は柳下惠の賢を知っていたのに而して使って下位に在させた,故に曰く之を抑えたという.

[四]成帝の時に,定陵侯の淳于長は太后が子を姊んでいることを以ってして九卿と為った.翟方進は丞相と為ると,独り淳于長と交じわり,称えて之を薦めた.

[五]論語:「子路が石門に於いて宿す.晨門曰く:『奚自?』」注で云うには:「石門とは,魯城の外門のこと也.晨は,主守門で,晨夜に開閉するものである也.」史記,侯嬴,夷門抱関者.守門必抱関,故兼言之.

[六]神仙伝に曰く:「老子は,周の宣王の時に柱下史と為った.」朱文は,畫車が文を為したのをいう也.軫とは,車の後ろの横木である也.貧賤な人のことを言い,多くが淪を被った,所以晨門之下必有抱関之賢,柱下之微永無朱文之轍也.

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【王暢伝】

王暢は字を叔茂という.少なきより清実を以って称と為し,党に交わる所無かった.初め孝廉に挙げられると,病として辞して就かなかった.大将軍の梁商が特辟して茂才に挙げると,四遷して尚書令となり,出て斉相と為った.[一]徴されて司隸校尉を拝し,転じて漁陽太守となった.在する所では厳明を以って称を為した.事に坐して免官となった.是時政事は多くが尚書に帰しており,桓帝は三公に特に詔をくだすと,高選庸能するよう令した.[二]太尉の陳蕃は王暢を清方公正であるとして薦めたが,犯すべからざるの色を有し,[三]是ゆえに復して尚書と為った.

[一]斉王喜之相である.

[二]庸とは,功である也.

[三]禮記曰:「介冑之士,則有不可犯之色.」

尋拝して南陽太守となった.前後の二千石は帝の郷であることから貴戚を逼懼し,多くが職を称えなかった.王暢は之を深く疾み,下車すると奮肢ミ猛(二千石の権力を大いに奮ったため),其の豪党で釁穢を有する者で,糾發されないものは莫かった.(摘発された豪党は)赦しに会ったため,事は散るを得た(王暢の行った事は無意味になってしまった).王暢は之を追恨すると,更めて為して法を設け,諸々の受臧すること二千万以上の不自首実者は,尽く財物を入れた(没収した);若し其の伏を隠したものは,吏を使って屋を発し樹を伐り,堙井夷(井戸を壊し?を夷してまでして財物を没収する挙に出たため),豪右は大いに震えた.功曹の張敞が奏記して諫めて曰く:「五教がェに在るというのは,これ経典に著されたものです.湯(王)は三面をとり去ったため,八方が仁に帰しました.[一]武王が殷に入ると,先ず炮格之刑をとり去りました.[二]高祖は秦を鑒つと,唯三章之法を定めただけでした.孝文皇帝は一緹縈に感じられ,肉刑を蠲除されました.[三]卓茂、文翁、召父の徒は,皆惡を疾むこと厳刻なものでしたが,温厚であることに務崇しました.[四]仁賢の政というものは,後世にまで流れ聞こえるものです.夫れ明哲の君とは,網かけても呑舟之魚を漏らすものです,[五]然ればこそ後には三光が上に於いて明らかとなって,人物が下に於いて悦ぶわけです.言之若迂,其效甚近.[六]發屋伐樹(屋根をひっぺがして庭の樹木を伐りとるなど),将に為すことは厳烈であります,惡を懲らしめんと欲すると雖も,以って遠くに聞こえるのは難しいでしょう.明府を以ってお上は智之才,日月之曜(としております),[七]仁惠之政を敷けば,則ち海内は改めて観るでしょう,実有折枝之易,而無挾山之難(実に枝を折りとるのは易く,而して山を挟むのは難しいものです).郡は旧の都侯甸

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之国を為しておりまして,園廟は章陵に於いて出ております,[八]三后は新野からお生まれになり,[九]士女は教化に沾し,黔首して風流を仰いでいます,中興より以来,功臣将相が,継世して而して隆っております.愚以為懇懇用刑,不如行恩(以って為すに懇々として刑を用いるは愚かしく,恩を行う如きではありません);孳孳として姦を求めるなど,未だ禮賢の若きではありません.舜が陶を挙げると,不仁の者は遠のいたとか.[一0]隨会為政,晉盜奔秦.[一一]虞、芮が境に入るや,讓心が自ずと生まれたとか.[一二]化人在徳(人を教化するのは徳に在るのであって),刑を用いるのに在るのではありません.」王暢は張敞の諫めを深く納れると,更めてェ政を崇めて,刑を慎み罰を簡としたため,教化が遂に行われることになった.

[一]史記に曰く,湯(王)は夏の方伯と為ると,征伐を専らとするを得た.出て野に見えると(祝は)四面に網を張っていた,祝曰く:「天下の四方自り,皆吾が網に入らん.」湯曰く:「嘻,之盡きなん矣!其の三面を去らんか!」祝曰く:「左を欲すれば左とし,右を欲すれば右とし,命を用いず,乃ち吾が網に入らん.」諸侯は聞くと曰く:「湯の徳は禽獸にまで至れるか!」是に於いて諸侯は畢服した.嘻の音は僖.

[二]列女伝では:「紂(王)は銅柱を為すと,以って膏を之に塗り,炭之上にかけ加え,使って有罪のものを縁におかせた焉,(彼らの)足が滑べって跌墯すると,紂(王)は妲己とともに笑って以って楽しむを為し,名づけて曰く炮格之刑といった.」臣賢が案ずるに:史記及び帝王代紀では皆文王が西伯と為ると,洛西之地を献じて,炮格之刑を除かんことを請うたと言っている.今云うところのものは武王であるとしてあり,此と同じでない.

[三]文帝の時,太倉令であった淳于公は有罪となって当に刑されることになった.淳于公には男(系の子)が無く,五にんの女<むすめ>が有った,其の女<むすめ>を罵って曰く:「女を生んで男を生まない,緩急は有益に非ざるなり也.」其の少女は緹縈して自ら傷むと悲しみ泣き,父に随って長安に至った,上書して沒官(官に身を没収されんこと)を請い婢と為って以って父を贖わんとした.文帝は其の意<きもち>を悲憐におもい,為に肉刑に除した(死罪を減じて肉刑で済ませた).

[四]景帝の時に,文翁が蜀郡守と為ると,仁愛でもって教化をおこなった.宣帝の時に,信臣を召して南陽太守と為したが,人を視ること子の如きであったため,其の(王)化は大いに行われた.

[五]韓詩の外伝に曰く:「夫れ舟を呑むほどの魚は,潛澤に居らず.」前書では曰く「高祖は法三章を約すと,号して呑舟の魚を(取り)漏らすほどの(ゆるい法で)網を為したとされた」也.

[六]迂とは,遠ということである也.

[七]莊子に曰く「智を飾るのに愚かなものを驚かすことを持ってし,身を修めるのにを明らかにするのを以ってする,昭昭なるかな乎日月を揭げて而して行くが若き」也.

[八]五百里は甸服,千里は侯服.南陽は洛を去ること千里,故に曰く侯甸.南頓君以上四廟在焉.

[九]光烈皇后,和帝の陰后、ケ后は,並んで新野の人である.

-1825-

[一0]論語での子夏の辞である也.

[一一]左伝,晉命隨会将中軍,且為太傅,晉国之盜奔秦也.

[一二]史記に曰く,文王は西伯と為って,陰に善化を行ったため,諸侯は皆来て決平した.是に於いて虞、芮の人は獄有って決まらず,乃ち周の如くせんとした.界に入って,耕者に見えると畔を譲りあっており,少なき者は長に譲っていた.虞、芮の二人は西伯に見えずして,すると而して相謂いて曰く:「吾らが爭う所は,周人が恥とする所である,曷為して辱しめを取らんや?」遂に倶に讓ると而して還った也.

郡中の豪族は多くが奢靡を以ってして相尚んだが,王暢は常に布衣皮褥(の装い)で,車馬は羸敗としており,以って其の敝を矯めた.同郡の劉表は時に年十七であったが,王暢に従って学(問)を授かっていた.進んで諫めて曰く:「夫れ奢ることは僭上であるのではなく,倹(約)とは下に逼るものではないでしょう,[一]循道行禮するとは,可否之閨i=中庸)に処すを貴ぶことです.蘧伯玉は独り君子と為るを恥じました.府君は孔聖の明訓を希うことなく,而して伯夷叔斉の末操を慕っておりますが,[二]無乃皎然自貴於世乎?(ここ訳せず;無なれば乃ち皎然として自ずと貴ばれんこと世に於いてや?)」王暢曰く:「昔公儀休が魯に在ったとき,(庭)園の葵を抜きさり,織婦を去った;[三]孫叔敖が楚に相たりしとき,其の子は裘を被って薪を刈った.[四]夫れは約失之鮮なきを以ってしてのことであった矣.[五]伯夷之風を聞くとは,貪夫が廉ならんとし,懦夫が志を立てんことを有するものである.[六]不徳を以ってすると雖も,敢慕遺烈(敢えて先人の遺した烈しさを慕わん).」

[一]禮記に曰く「君子は上にあっては僭上せず,下にあっては下に逼<せま>らず」也.

[二]論語に孔子曰く:「奢れば則ち不遜となり,儉すれば則ち固まる.」言うに仲尼は奢儉之中を得,而して伯夷と叔斉は飢え死にした,是が末操ということである也.

[三]史記に曰く,魯の相であった公儀休之其家,帛を織っているのを見ると,怒って而して其の婦を(外に)出し,舍に於いて食するに而して葵を茹でると,慍而拔其葵,曰く:「吾は食祿に已みなん,又園夫女子の利を奪わんや乎?」

[四]史記に曰く,孫叔敖が楚相と為り,且つ死なんとするに,其子を属して(そばによせて)曰く:「我死せば,汝は貧困たり,往きて優孟に見え,孫叔敖の子であると言うがよい也.」居ること数年,其子は貧しく,薪を負うて優孟に逢った.優孟は王に於いて之を言い,之を寢丘に封じて四百戸とした也.

[五]論語での孔子の辞である也.儉を言えば則ち失うこと無し.

-1826-

[六]孟子之辞.

後に徴されて長楽尉と為った.建寧元年,司空に遷った,数月して,水災を以って策あり免じられた.明くる年,家で卒した.

子の王謙は,大将軍何進の長史と為った.王謙の子が王粲であり,文才以って名を知られた.[一]

[一]王粲は字を仲宣という.蔡邕は見えるとこれを奇とした.時に蔡邕は才学顯著であり,朝廷で彼は貴重であり,車騎は填門し,賓客は盈坐していた.それなのに王粲が門に見えたと聞くと,倒れんばかりに屣ってこれを迎えた.王粲が既至すると,年は幼く,容状は短小で,一座は盡して驚いた.蔡邕は曰く:「王公之孫で,異才が有る,吾の及ぶところではないのだ也.」太祖は王粲を辟招して丞相掾と為した,後に侍中と為った.博物多識であり,問われて対しないこと無かった.嘗て人と行ったおり,道の辺らにあった碑を読んだ,人が「卿は能く闇記する乎」?と問うと因って使背して(後ろを向かせて)而して之を誦したが,一文も失わなかった.観人圍碁,粲為覆之,ソ者は信じず,帊を以って之に蓋すると,更めて它局を以って之を為したが,一道も誤らなかった.年四十で卒した.魏志に伝が有る.

【种<ちゅう>ロ伝】

种ロは字を景伯といい,河南洛陽の人であり,仲山甫之後である也.父は定陶の(県)令となり,財を有すること三千万.父が卒すると,种ロは悉く宗族及び邑里之貧者に賑卹した.其有進趣名利,皆不與交通.始為縣門下史.時に河南尹田歆の外甥王ェは,人の名をよく知っていた.[一]田歆はかれに謂いて曰く:「今当に六孝廉を挙げるべく,多くは貴戚の書命を得る,相違うは宜しからざるも,自ら一名士を用い以て国家に報いんと欲す,爾、我を助けこれを求めよ.」明日,王ェは大陽郭で客を送るなか,遙かに种ロを見ると,これを異とした.還って田歆に白して曰く:「尹と為って孝廉を得る矣,近く洛陽門下の史だったか也.」田歆は笑って曰く:「当に山澤隠滯に得んとするに,(近)[迺]くの洛陽の吏だというのか邪?」王ェ曰く:「山澤に必ずしも異士有るわけでなく,異士は必ずしも山澤に在るわけでもないでしょう.」田歆は即ち庭に种ロを召すと,職事を辯詰した.种ロは辞し対するに序有った,田歆は甚だこれを知ると,召して主簿に署し,遂に

-1827-

孝廉に挙げ,太尉府に辟招され,高第に挙げられた.

[一]有知人之名也.

順帝末,侍御史となった.時に八使として光祿大夫杜喬﹑周挙等,が遣わされる所となり多所で糾奏された,而して大将軍梁冀及び諸宦官は互いに請救を為し,事は皆寝遏を被った.种ロは自ら職に主たるを以って周挙を刺すと,姦違を志案した,乃ち復劾して(諸為し)八使が挙げた所の蜀郡太守劉宣等の罪惡を露に章かとしたため,劉宜は歐刀に伏した.又奏請四府條挙近臣父兄及知親為刺史﹑二千石尤残穢不勝任者,免遣案罪.帝は乃ち之に従った.(また帝は)种ロを撰ぶと承光宮に於いて監太子とした.中常侍高梵は従中しており単駕で出て太子を迎えたことがあった,時に太傅杜喬等は疑って従おうと欲しなかったが,惶惑して為す所を知らなかった(だからといってどうしていいか分からなかった).种ロは乃ち手当車,曰く:「太子は国之儲副であり,人命の係する所です.今常侍が来たというのに詔信が無い,何を以て姦(謀略)に非ざるを知るのか邪?今日死有り而して已なん.」高梵は辞して屈し,敢えて対せず,馳命して之を奏した.詔報あって(このことに対する詔が返ってきて高梵が皇帝の指示で行動したことが分かったため),太子は乃ち去るを得た.杜喬は退くと而して歎息し,种ロは事に臨んで惑わないと(比べて自分を)愧じた.帝は亦た其の持重たるを嘉し,善者良久なりと称えた.

出て益州刺史と為った.种ロは素より慷慨とし,功を立て事を立てることを好んだ.在職三年,宣しく遠夷に恩あり,開曉殊俗し,岷山の雑落は皆、漢の徳に懐き服した.其の白狼﹑槃木﹑唐菆﹑﹑僰諸国は,[一]前の刺史朱輔の卒後より遂に(交わりが)絶えていたが;种ロが至るや,乃ち復して種を挙げて王化に向かった.時に永昌太守は黄金を冶鑄して文蛇を為し,以て梁冀に献じたため,种ロは糾発して逮捕し,(使者を)馳せて伝え上言したが,二府は(梁冀に係わることだからと)畏懦し,敢えてこれを案じなかった,梁冀は是ゆえに种ロへの怒りを銜えることになった.巴郡の人である服直が(その地で)数百人を聚党し,「天王」を自称する事態となると,[二] 种ロと太守の応承はこれを討捕したが,克たず,吏人が多く傷つき害されてしまった.梁冀は此に因って之を陥れ,伝えて种ロ、応承を逮捕した.太尉の李固が上疏して救った、曰く:「臣が伏して聞きますに討捕して傷ついた所は,种ロ﹑応承の本意ではありません,実に県吏が法を懼れ罪を畏れての由でありまして,迫逐すること深く苦しみ,此が不詳を致した次第でありましょう.比べて盜賊は処処に起しており,未だ絶やされておりません.种ロ﹑応承は首を以て(その身を賭けて)

-1828-

大姦を挙げましたのに,而して相隨って罪を受けております,臣が恐れますのは州県が糾発しようとする意を沮傷させ,更共飾匿(更めて共に表面を飾り立てて実情を秘匿し),二度と心を尽くそうとはしなくなることです.」[三]梁太后は奏を省みると,乃ち种ロ﹑応承の罪を赦し,官を免じて而して已んだ.

[一]菆の音は側留反.

[二]「直」は或いは「宜」と作る.

[三]言うにそれぞれ偽りで飾りたてて辞をなし,真状を隠匿することである也.

後に涼州の羌が動いたため,种ロを以って涼州刺史とした,甚だ百姓の歓心を得た.徴を被って当に遷されようとしたため,吏人は闕に詣でて留任を請うた,太后は歎じて曰く:「未だ刺史の人心を得るに是の若きを聞きません.」乃ちこれを許した.种ロは復して留まること一年,遷って漢陽太守となった,戎夷の男女が送られ漢陽の境界に至った,种ロは(彼らと)與に相い揖し謝すこと千里,車に乗ってゆくことが出来なかった.及んで郡に到ると,王化は羌胡に行き渡り,侵掠が禁止された.使匈奴中郎将に遷った.時に遼東烏桓が反叛したため,復して遼東太守に転じたところ,烏桓は風を望んで率いて服し,(遼東の)境界上で迎え拝した.事に座して免じられ帰った.

後に司隸校尉は种ロを賢良方正に挙げたが,応じなかった.徴じられて議郎を拝命し,遷って南郡太守となり,入って尚書となった.匈奴が并涼二州を寇する事態に遭うと,桓帝は种ロを擢んで度遼将軍とした.种ロは営所に至ると,先ず恩信を宣べ,諸胡を誘降した,其の服しないものが有ると,然る後に討伐を加えた.羌虜先時有生見獲質於郡縣者,悉く遣わして之を還した.誠心もて懷撫し,信賞は分かつに明たりて,是ゆえ羌胡﹑龜茲﹑莎車﹑烏孫等は皆来たって順い服した.种ロは乃ち烽燧を取り去り,候望を除いたため,[一]辺方(辺境)は晏然として警戒の必要が無かった.

[一]晝は烽を挙げ,夜は燧を燔す.光武紀に解見される.

入って大司農となった.延熹四年,遷って司徒となった.名臣橋玄﹑皇甫規等を推達し,職相との称えを為した.在位すること三年,

-1829-

年六十一で薨じた.并﹑涼の辺境にいた人は咸じて為すに哀を発した.匈奴は种ロが卒したと聞くと,国を挙げて傷み惜しんだ.単于は入朝祝賀するたびに,墳墓を望見し,輒ち哭泣して祭祀した.子は二人:种岱,种拂である.

种岱は字を公祖という.学を好み志を養った.孝廉﹑茂才に挙げられ,公府に辟招されたが,皆就かなかった.公車で特徴されたが,病で卒した.

初め,种岱は李固の子の李燮とともに同じく議郎に徴されたため,李燮は种岱が卒したと聞くと,痛惜すること甚だしく,乃ち上書して种岱に礼を加えることを求めた.曰く:「臣は聞きます、仁義が興れば則ち道徳は昌ん<さかん>となり,道徳が昌んなれば則ち政化は明らかとなり,政化が明らかなれば而して万姓が寧んじると.伏して見ますに故(亡き)処士种岱は,淳和達理でありまして,詩書に耽悦し,富貴不能回其慮(富貴というものにはまるで考慮をはらわず),万物が其心を(世俗の煩いで)擾することできませんでした.稟命して永からず,奄然として殂殞いたしました.若不槃桓難進,等輩皆已公卿矣.[一]昔、先賢が既に沒すると,加贈之典が有りました,[二]周禮が徳を盛んとするのに,銘誄之文が有りました,[三]而して种岱は生まれるに印綬之栄え無く,卒するに官謚之号無いようすです.未だ建忠效用ならずと雖も,而して聖恩の拔う所を為し,遐邇具瞻,宜しく異賞有ってくださいますよう.」朝廷は竟に(結局)従うことできなかった.

[一]易屯卦に曰く:「槃桓,利居貞.」

[二]春秋隠公五年,臧僖伯卒,隠公葬之加一等.杜預曰:「加命服之一等.」

[三]周禮司勳曰:「凡有功者,銘書於王之太常.」又曰「卿大夫之喪,賜謚誄」也.

种拂は字を穎伯という.初め司隸従事となり,宛の県令を拝命した.時に南陽郡吏は休沐を好み,因って市里に游戲して,百姓の患う所となっていた.种拂は出てこれと逢うと,必ず下車して公謁し,以って其心を愧じさせた,是より敢えて出る者はなかった.政で能名を有し,累遷して光祿大夫となった.初平元年,

-1830-

荀爽に代わって司空となり.明年,地震を以て策もて免じられ,復して太常となった.

李傕、郭之乱あって,長安城は潰れ,百官は多くが兵衝を避けた.种拂はを揮うと而して出て曰く:「為国大臣,不能止戈除暴,致使凶賊兵刃向宮,去欲何之!(国を為す大臣が戈を止めることも暴を除くこともできず、凶賊を致使して兵刃を宮に向けさせてしまうとは。何をか欲して之を取り去らん!)」遂に戦って死んだ.子は种劭.

种劭は字を申甫という.若くして名を知られた.中平末,諫議大夫となった.

大将軍何進は将に宦官を誅そうとし,并州牧董卓を召して,澠池に至らせた,而して何進は意を更して狐疑し,种劭を遣わして詔を宣べてこれを止めた.董卓は受けず,遂に前に出て河南に至った.种劭はこれを迎え労わると,因って譬令して軍を還そうとした.董卓は変有るを疑い,其の軍士を使って兵以て种劭を脅した.种劭は怒り,詔を称えて大呼しこれを叱った,軍士は皆披せられ,[一]遂に前に出て董卓の責任を質した.董卓は辞して屈し,乃ち軍を夕陽亭に還した.[二]

[一]披音芳靡反.

[二]夕陽亭は河南城の西に在る.

何進が敗れるに及んで,獻帝が即位すると,种劭は拝して侍中となった.董卓は既に権すると,而して种劭を悪んで彊力したため,遂に議郎に左轉した(左遷された),出て益涼二州の刺史となった.父の种拂が戦死するに会うと,竟不之職.服が終わると,徴されて少府、大鴻臚となったが,皆辞して受けなかった.曰く:「昔我先父以身徇国,吾為臣子,不能除残復怨,何面目朝覲明主哉!」遂に馬騰、韓遂及び左中郎劉範、諫議大夫馬宇らと事を興し共に李傕、郭を攻め,以て報仇せんとした.郭と長平観下で戦って,[一]軍は敗れ,种劭等は皆死んだ.馬騰は遂に涼州へ還った.

[一]長平は,阪の名である也.観が有る,長安の西十五里に在る也.

-1831-

【陳球伝】

陳球は字を伯真といい,下邳(郡・国)淮浦(県)の人である也.歴世に名を著した.[一]父は陳亹,広漢太守となった.[二]陳球は少年のころから儒学を渉り,律令を善くした.陽嘉中(年間)に,孝廉に挙げられ,稍(しばらく)して繁陽令に遷った.[三]時に魏郡太守が県に諷じて貨賄を納めるよう求めたが,陳球はこれに與<くみ>せず,太守は怒ると而して督郵を撾って<うって>,令して陳球を逐う<おう>ことを欲した.[四]督郵は肯ず,曰く:「魏郡十五城のなか,独り繁陽にのみ異政が有るのです,今命を受けて之を逐えば,将に天下に於いて議を致させることになるかと矣.」太守は乃ち止めた.

[一]謝承書に曰く:「祖父は陳屯という,令名有った.」

[二]亹の音は尾.

[三]繁陽は,魏郡の県である.

[四]撾は,撃つ也.

復た公府に辟招され,高第に挙げられ,侍御史を拝した.是時,桂陽の黠賊である李研等が聚して寇鈔した,陸梁荊部,州郡は懦弱で,禁ずること能わなかったため,太尉の楊秉が表して陳球を零陵太守と為した.陳球は到ると,方略を設け,月間すると,賊は虜とされ消散した.而して州兵の朱蓋等が反(乱)し,桂陽の賊である胡蘭ら数万人と(組んで)転じて零陵を攻めてきた.零陵は下溼であり,木を編んで城と為していたため,守備することが不可能とされ,郡中は惶れ恐れた.掾史が遣わして家々を避難させようと建白したが,陳球は怒って曰く:「太守は分国虎符(国を分けて虎符を与えられ),一邦を受任しているのだ,[一]豈顧妻孥而沮国威重乎?(どうしてまた妻子を顧みて而して国の威重を沮す(台無しにする)ことができるというのか?)復た言う者は斬る!」乃ち内にいた吏人老弱悉くで,共に城を守ることとした,大木を弦にして弓を為し,矛に羽をつけて矢と為し(巨大な強弩を作ると),機(機械仕掛け)に引かせて之を発すると,遠く射ること千余歩,多く殺傷する所となった.賊が復た激

-1832-

流で城を灌水させると,陳球は輒ち内に於いて地勢に因って反って逆に決水させて賊のほうへ淹れた.相拒むこと十余日,(賊は)下すこと能わなかった.中郎将度尚が救いの兵を将いて至る事態となったため,(内外呼応して逆襲に転じることとして)陳球は士卒を募ると,度尚と共に朱蓋等を破り斬った.賜った銭は五十万,子の一人が拝されて郎と為った.魏郡太守に遷った.

[一]文帝は初め郡守に銅の虎符を分けて与えた.

徴されて将作大匠を拝し,桓帝の陵園を作ったが,省く所巨万以上であった.南陽太守に遷り,以って豪右を糾し挙げたところ,執られた家が謗る所を為したため,徴されて廷尉に詣で罪に抵触した.赦免に会って,家に帰った.

(復た)[徴されて]廷尉を拝した.熹平元年,竇太后が崩じられると.太后は南宮雲台の本のところに遷った,[一]宦者は竇氏に怨みを積もらせており,遂に以って衣車に后の尸<しかばね>を載せると,城の南市の舍に置くこと数日.中常侍曹節、王甫は貴人の體殯を用いようと欲したが,帝曰く:「太后は朕の躬<み>を親しく立て,(そのため朕は)大業を統承できたのだ.詩は云う:『徳無くば報いず,言無くば酬いず.』[二]豈宜以貴人終乎?(どうして宣べるに貴人の扱いで終わらせることができようか?)」是に於いて喪が発せられ禮が成った.将に葬せんとするに及んで,曹節等は復たも太后を(先帝に副えず)別葬にしようと欲し,而して馮貴人を以って(先帝に)配祔しようとした.[三]詔が下って公卿が朝堂に大会すると,令して中常侍趙忠に議を監させた.太尉李咸は時に病に伏せていたが,乃ち輿から扶助されて而して起つと,擣椒自隨(椒<はじかみ>の杖をついてこれに寄りかかりながら),妻子に謂うに曰く:「若し皇太后が桓帝との配食を得なければ,吾は生きて還りはしない矣.」既に議ははじまったが,坐者数百人は,各々中官を瞻望して(中官のことが気がかりで),良く久しく先に言うを肯うもの莫かった(誰もが先に言い出すことを承知せず長い間じっとしていた).趙忠曰く:「議して当に時定めるべきです.」公卿以下は怪しみ各々相顧みて望んだ.[a]陳球曰く:「皇太后は以って盛徳でありまして良家であります,母として天下に臨まれました,宜しく先帝に配されますよう,是は疑う所の無いものです.」趙忠は笑って而して言うに曰く:「陳廷尉、宜しく筆を操って便じてください.」陳球は即ち下して議して曰く:「皇太后は椒房に在ったころより,聰明であり母儀之徳を有しておりました.時に遭って造らず,聖明を援立され,宗廟の承継をはかられました,その功は烈しく至重であります.先帝が晏駕されたまい,因って大獄に遇われ,居を遷され宮を空しくされ,不幸にして早世されましたことにつきましては,家は罪を獲たと雖も,事は太后にあったわけではございません.今若し別葬とするならば,誠に天下之望を失うというものです.且つ馮貴人墓被発,骸骨が暴され露わにされ,賊と尸を併せられて,魂靈が汙染<汚染>されることです,[四]且つ国に於いて功が無い,何ぞ宜しく至尊と配すよう上(表)

[a]中官(宦官)が議を監査していたため、百官は皇帝の意を図りかねてそれぞれ立場を表明しなかったのである。喪が発せられた時の皇帝の宣旨から考えれば皇帝は竇氏を皇后として葬礼したいのは明らかで、一方、中常侍曹節、王甫は竇氏が桓帝と一緒の陵へ入ることは反対であった。しかしその皇帝が議論の監査役として中常侍趙忠を送り込んできたため、中常侍趙忠が皇帝に添うものか同じ中常侍曹節、王甫らに添うものとして送り込まれたのか或いは皇帝が先の意志を撤回してしまったことを表しているのか百官らは判らなくなったのである。その空気を読まずに迂闊に発言すれば自分の身どころか自分の一族三族にまで破滅が波及するだけに考えるところではあったのだろう。文章はこの後、趙忠は『顔色を変えると』陳球を『蚩って』曰くと続くがその趙忠の態度が示された後、それまで緊迫していた会議の空気が緩み、陳球の発言が是として百官の賛同を得て採択されることになる。このあたり、前後の状況から判断するにこの部分の文脈は恐らく『顔色を変えて』は『打ち解けた様子で』と、『蚩って』は『晴れやかな笑顔で』と捉えるのがよいかと思われる。そう捉えたとき初めてこの後に出てくる李咸が陳球を絶賛する発言とそれに対する他の百官の恥じ入りぶりがズレなくすっきり繋がるのである。なお、宦官に対する描写がどれほど偏ったものであるかについては石井仁・著『魏の武帝、曹操』で(宦官側の人物である)王吉に対する酷さなど例として挙げられているので興味が有れば一読しておくとよいだろう。

-1833-

することができましょうか?」趙忠は陳球の議を省みると,作色俛仰し,陳球を蚩って曰く:「陳廷尉が建てた此の議は甚だ健やかなものですな!」[a]陳球曰く:「陳べさせていただきますが、竇(氏)は既に(罪を)冤じられました,皇太后は故無く幽閉されたのでありまして,臣は常に心痛み,天下は憤歎しておりました.今日之を言い,退いて而して罪を受ける(ことになりましょうが),宿昔之願いというものです.(かねてからの宿願というものです)」公卿以下,皆陳球の議に従った.李咸は始め敢えて先に発しなかったが,陳球が辞して正すを見ると,然る[後に]大言して曰く:「臣は本より謂うのであるが宣なるかな爾<なんじ>は,誠に臣と意(気持ちが)合っていた.」会者<そこにいた者>は皆為すにこれ愧じた.曹節、王甫は復た争うと,以って為すに梁后の家は悪逆を犯したゆえ,懿陵に別葬された,(また)武帝が后を黜廃されたおりには,而して李夫人を以って配食された.[五]今竇氏は罪深く,豈得合葬先帝乎?(どうして先帝と合葬を得ることができようか?)とした。李咸は乃ち闕に詣でて上疏して曰く:「臣は伏して竇后の章徳(なると)恭懷皇后の虐害(の沙汰)を惟います,安思閻后の家は悪逆を犯しましたが,而して和帝は葬之議に異とすること無かったのです,順朝無貶降之文(順朝(朝廷が安定しており正義が行われている状態)には貶降之文が無いものだとか).后に於かれるに至っては,孝武皇帝の身は廃されようとする所でありましたわけで,それを以って比べるべきではありません.今長楽太后は尊号され在身されており(今現在身分を落とされた状態にあるわけではなく),嘗て称制に親しまれまして,坤として天下を育まれ(天下を坤育され),[六]且つ聖明を援立されて,皇祚を光隆なさいました.太后は陛下を以ってお子とされましたからは,陛下は豈得不以太后為母?(どうして太后を母としないでおれましょうか?)子は母を黜すること無く,臣は君を貶めること無いもの,宜しく宣陵に合葬されて,一に(ひとえに)旧制の如くなさいますよう.」帝は奏を省みると,曹節等に謂いて曰く:「竇氏は不道を為すと雖も,而して太后は朕に於いて徳有ったのだ,降黜のことは宜しくない.」曹節等は復言すること無かった,是に於いて議は乃ち定まった.李咸は字を元貞といい,汝南の人である.州郡に累経されて,廉幹以って名を知られた;朝に在っては清忠であり,権倖は之を憚った.

[一]太后の父の竇武は陳蕃に与して宦官を誅する謀をしたが,反って中常侍曹節が詔を矯めて竇武、陳蕃を殺し,太后を遷すことになってしまった焉.

[二]大雅の抑詩である也.

[三]祔謂新死之主祔於先死者之廟,婦祔於其夫,所祔之妾祔於妾祖姑也.

[四]段熲は河南尹と為っていたが,馮貴人盜発されたこと(盗掘で暴かれたこと)に坐し,諫議大夫に左遷された.

[五]戾太子皇后共太子斬江充,自殺.武帝が崩じると,霍光は雅意を縁上し,李夫人を以って配食した也.

-1834-

[六]周易に曰く:「坤は母を為す.」

六年,陳球を遷して司空としたが,地震を以って免じられた.光祿大夫を拝し,復して廷尉、太常と為った.光和元年,太尉に遷ったが,数月して,日食を以って免じられた.復して光祿大夫を拝した.明くる年,永楽少府と為り,[一]乃ち潜んで司徒で河間出身の劉郃に与して宦官を誅しようと謀った.

[一]桓帝の母の孝崇皇后の宮が曰く永楽である,太僕、太府が置かれた.

初め,劉郃の兄で侍中の劉儵は,大将軍竇武に与して同じ謀をして(竇武と)倶に死んだ,故に劉郃は陳球に与して相結んだのである.事が未だ発するに及ばないうちに,陳球は復た書を以って劉郃に勧めて曰く:「公は出自は宗室であり,位は台鼎に登っているわけで,天下が瞻望するものです,社稷鎮,豈得雷同容容無違而已?今曹節等は放縱で害を為し,而して(主君の)左右に久しく在しています,また公の兄であった侍中(劉儵)は曹節等に害を受けましたが,永楽太后は親しく知る所でした也.今や尉の陽球を徙して司隸校尉と為すよう(上)表すべきです,以次(それを以って次に)曹節等を収めて之を誅するのです.政が聖主から出ることになれば,天下太平となります,可翹足而待也.」又尚書劉納は以って正直であったため宦官に忤<さから>い,出て歩兵校尉と為っていたが,亦た劉郃にたいし深く勧めた.劉郃曰く:「凶豎は耳目多い,(私は)事が未だ会わないうちに,先に其の禍<わざわい>を受けることを恐れている.」劉納曰く:「公は国を為す棟梁でしょう,傾危は持たず(待たないもの),焉用彼相邪?(彼を焉用して相せんや?)」[一]劉郃は許諾すると,亦た陽球と結謀した.

[一]論語での孔子の辞である也.

陳球の小妻は,程璜の女<むすめ>だった,程璜は宮中に用事した,所謂程大人である也.曹節等は頗る聞き知るを得ようとして,乃ち程璜にたいし重く賄賂し,且つ之を脅した.程璜は迫られるのを懼れ,陳球が謀をしているのを以って曹節に告げ,曹節は因って共に帝に白した(建白して)曰く:「劉郃等は常に藩国と交わり通じ,悪意を有しています.何度も永楽の声埶を称え,狼籍を受取しています.歩兵校尉の劉納及び永楽少府の陳球、尉の陽球は交わり通じて書疏し,不軌を謀議しています.」帝は大いに怒ると,策して劉郃を免じ,劉郃と陳球及び劉納、陽球は皆獄に下されて死んだ.陳球は時に年六十二であった.

-1835-

子の陳瑀は,呉郡太守となった;陳瑀の弟の陳jは,汝陰太守となった;弟の子の陳珪は,沛相に;陳珪の子の陳登は,広陵太守となったが:並んで名を知られた.[一]

[一]謝承書曰:「陳瑀は孝廉に挙げられると,公府に辟招され,洛陽市長となった;後に太尉府に辟招されたが,未だ到らなかった.永漢元年(189年9月),議郎を就拝し,呉郡太守に遷ったが,不之官.陳球の(兄)[弟]の子の陳珪は,字を漢瑜という.孝廉に挙げられて,劇(県)令となったが,官を去った;茂才に挙げられて,済北相となった.陳珪の子は陳登,字を元龍という.学んでは今古に通じ,身を処すに循禮であり,法に非ざるは行わず,性は文武を兼ね,雄姿異略を有し,広陵太守を一領した.」魏志に曰く,陳登が広陵に在ったとき,威名を有し,功有ったため伏波将軍を加えられた,年三十九で卒した.後に許は劉備と並んで荊州に在ったが牧である劉表の坐で,劉備と共に天下の人を論じた,許は曰く:「陳元龍は淮海之士ですが,豪気で除しません.」劉備は許に問うて曰く:「君は豪と言うが,寧有事邪?」許曰く:「昔乱に遭って下邳に過ごしたおり,元龍に見えましたが客主之意無く,相ともに語せず,自ら上となると大臥し,客をして臥下.」劉備曰く:「君は国士之名を有しています.今天下は大乱し,帝王が所を失っていまして,君(子)は須く国を憂いて家を忘れ,救世之意を有すべきです.乃ち田を求め舍を問う,采るべき無きを言うとは,是は元龍が諱む所です也,何ぞ縁あって当に君と語るべきか?我の如きは自らは百尺の樓上に臥して,君を地下に於いて臥させん,何ぞ但上下之間だけであるだろうか哉!」劉表は大いに笑った也.

贊に曰く:儲を安んぜんとすれば譖に遭う,張卿は有請であった.[一] 便佞を龔糾するに,直を以って眚を為す.[二]二子は正しきに過ぎ,車は埋まり井戸は堙がった<ふさがった>.[三]种公は自微(自ずと徴され),官に臨むに威を以ってした.陳球は議を専らとし,桓思同じきに帰した.

[一]張は廷尉と為った,故に曰く卿である.

[二]眚は,過である也.

[三]張綱は埋輪,王(龔)[暢]は堙井.孟子曰く:「矯枉は正しきに過ぎるものである.」