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後漢書卷六十二

荀韓鍾陳列伝第五十二

荀淑は字を季和といい,潁川(郡)潁陰(県)の人で(也),荀卿十一世の孫である也.[一]若いころから高い行いを有し,博学にして而して章句を好まず,多為俗儒所非,而して州里は其の人を知るを称えた.

[一]荀卿の名は況,趙の人である也.楚の蘭陵令と為った.著書二十二篇,荀卿子と号した.宣帝の諱を避けたために,故に改めて曰く「孫」としたのである也.

安帝の時に,徴されて郎中を拝し,後に当塗の県長に再遷された.[一]職を去って郷里に還った.当世の名賢とされた李固、李膺等は皆之に師宗した.梁太后が臨朝するに及び,日食と地震の変が有った,公卿に賢良方正を挙げるよう詔が下り,光祿勳の杜喬、少府の房植が荀淑を挙げると(これに応えて)対策し,貴倖を譏刺したため,大将軍梁冀の忌む所と為った,出て朗陵侯相を補った.[二]事(視事?)するに理に明るく,神君と称えられた.この頃に,官して(官を去る?官を免じられる?文字化けで不明)帰り,閑居して志を養った.産業を増やす毎に,輒ち<すなわち>以て宗族を贍い<すくい>友を知った.年六十七,建和三年に卒した.李膺は時に尚書と為っていて,自ら師喪を表した.[三]二つの県は皆(どちらも)祠を立てた.[a]子が八人いた:儉,緄,靖,Z,汪,爽,肅,專であり,並んで有名を称えられた,時に人は[之を]「八龍」と謂った.[四]

[一]当塗は,県名である,故城は今の宣州に在る.

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[二]續漢書は曰く,荀淑は対策して梁氏を譏刺した,故に(外に)出されたのである也.

[三]禮記に曰く「師に事えて<つかえて>犯す無く隠れる無く,左右就いて養うに方無く,服し勤めるに至心なれば,心喪すること三年」也.

[a]二つの県とは、県長を務めた当塗県と、朗陵侯相を補ったときに赴任した朗陵(県)ではないだろうか。県令(県長)ではないが(恐らく)県侯の相であるため朗陵を治めたと考えられる。

[四]緄の音は昆.Zの音は道.汪の音は烏光反.説文は云う:「汪は,深広である也.」俗本は改めて「注」と作るが,そうではない.「專」は本は或いは「敷」と作る.

初め,荀氏の旧の里名は西豪であった,[一]潁陰の県令となった勃海出身の苑康が昔高陽氏に才有る子八人がいたことを以って,[二]今また荀氏も八子を有する,故に其の里を改めて曰く高陽里としたのである.

[一]今の許州城内西南に荀淑の故宅が在る,相伝えて云うに即ち旧西豪里である也.

[二]左伝に曰く:「昔高陽氏は才子八人を有す:蒼舒,隤敳,檮戭,大臨,尨降,庭堅,仲容,叔達である.」

荀靖は至行を有したが,仕えなかった,年五十にして終えた,号して曰く玄行先生.[一]

[一]皇甫謐の高士伝に曰く「荀靖は字を叔慈といい,若いころから俊才を有し,動くも止むも禮を以ってした.荀靖の弟である荀爽もまた当時に於いて才以って顯われた.或る人が汝南の許章に問いかけた、曰く:『荀爽と荀靖と孰れか賢なる?』許章曰く:『どちらも玉というもの也.慈明は外が朗らかで,叔慈は内が潤っている.』卒するに及び,学士が之を惜しみ,荀靖を誄しようとする者二十六人におよんだ.潁陰の県令となっていた丘禎は荀靖に追号した、曰く玄行先生」也.

荀淑の兄の子である荀cは字を伯條といい,荀曇は字を元智といった.荀cは沛相と為り,荀曇は広陵太守と為った.兄弟はどちらも身を正して疾悪したため,志は閹宦に除かれた.其支党賓客有在二郡者,纖罪必誅.荀cは後に大将軍竇武と共に中官を誅しようと謀り,李膺と倶に死んだ.荀曇もまた終身禁錮となった.

荀爽は字を慈明,一名に諝という.[一]幼くして而して学を好み,年十二にして,春秋、論語に能く通じた.太尉杜喬は見えると而して之を称えた,曰く:

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「可為人師.(人となりは師たるべきものだ)」荀爽は遂に経書に耽思して,慶弔行わなかった,徴命あったが応じなかった.潁川は之を為して語るに曰く:「荀氏の八龍,慈明こそ無双である.」

[一]音は息汝反.

延熹九年,太常の趙典が荀爽を至孝として挙げ,郎中を拝した.策に対し陳べ便じて宜べて曰く:

臣は師に於いて之を聞きました、曰く:「漢は火徳を為す,火は木に於いて生まれ,火に於いて木は盛んなる,故に其の徳は孝を為す,[一]其の象は周易の『離』に在る.」と、夫れは地に在っては火を為し,天に在っては日を為します.[二]天に在れば其の精を用い,地に在れば其の形を用いるものです.夏は則ち火の王であり,其の精は天に在っては,温暖之気となって,百木を養い生みますが,是は其の孝というものです也.冬時には則ち廃れ,其の形は地に在っては,酷烈之気となって,山林を焚き燒きますが,是は其の不孝というものです也.故に漢制は天下を使って孝経を誦じさせ,吏を選んで孝廉を挙げるのです.[三]夫れ親を喪い自盡するは,孝之終わりというものです也.[四]今の公卿及び二千石は,三年之喪,を得ないため即ち(官を)去りますが,殆非所以増崇孝道而克称火徳者也(,殆んど孝道を増崇し而して火徳者を克称する所以に非ざるものです也).往く者は孝文(帝)が労謙なさいましたが,行き過ぎたる乎<や>儉となります,[五]故に遺詔のなかで日易月を以ってするようなされたのです.此は当時の宜でありまして,万世に貫かれるべきものではありません.古今これ制というものは損益を有するもの(そのため時宜に適うよう改められるべきもの)ですが,而して諒闇之禮は未だ嘗て改移されておりません,以て天下に其の親を遺す莫れとお示しくださいますよう.[六]今、公卿百寮は皆政教するに瞻とする所,而して父母これ喪さんとするに奔り赴くを得ません.夫れ仁義の行うや,上より而して始めるもの;敦厚之俗は,以て応ずるに下において乎、とか.伝に曰く:「喪祭之禮闕けるは,則ち人臣之恩薄し,死に背き生を忘れる者はなる矣.」とありますし曾子には曰く:「人の未だ有せずして自ら致す者は,必ず也親の喪である乎!」とあります[七]春秋は伝えて曰く:「上これ為す所,民これ帰すなり也.」としています[八]夫れ上の為さざる所について而して民或いは之を為す,故に刑罰を加えるわけです;若し上之為す所について,民も亦た之を為さば,又何ぞ誅しえましょう焉?昔丞相翟方は進むに,自ら宰相を備えるを以ってし,而して敢えて踰制しませんでした.母憂するに遭うに至ると,三十六日(宰相の任にあって)而して

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除しました.[九]夫れ失禮の源であり,上より而して始めたものです.古には大喪三年、其の門を呼ばずとありますが,[一0]それは崇国厚俗篤化之道(国を崇め風俗を厚くし王化を篤くする道)である所以だったからであります也.事失すれば宜しく正すものです.過ぎたるは改めるを憚る勿れというもの.[一一]天下通喪は,旧禮に如かるべきです.[一二]

[一]火は,木之子である;夏は,火之位である.木は夏に至ると而して盛んとなる,故に孝を為すという.

[二]易説卦に曰く「離は火を為す,日を為す」也.

[三]平帝の時に,王莽が書八篇を作り子孫に戒めたが,学官に令して以て教授した,吏で能く誦する者は孝経に比した.音義に云う:「之を用いるは之を選挙で得ると言う也.」

[四]盡し謂うに盡其哀戚也.

[]易謙卦九三爻:「労謙君子,有終吉.」

[六]遺は,忘れるである也.

[七]事は論語に見える.致して猶も盡きる也,極である也.

[八]左氏伝での臧武仲の言である.

[九]前書に翟方は進んで丞相と為って,後に母が憂するに遭うと,服を行うこと三十六日して起って視事した,曰く:「敢えて国制を踰えない也.」

[一0]公羊伝の文である也.何休が注して云うに:「孝子之恩を重奪したものである.」

[一一]憚は,難である也.

[一二]禮記に曰く:「三年之喪は,天下之通喪である也.」

臣は聞きます、夫婦が有って然る後に父子が有り,父子が有って然る後に君臣が有り,君臣有って然る後に上下が有り,上下有って然る後に禮義が有ると.禮義備わって,則ち人は厝<サク/といし>する所を知るわけです矣.[一]夫婦は人倫の始めでありまして,王化の端であります(ここで言う端が発端と末端、どちらを示すか不明),故に文王は易を作ったおり,上経の首には乾、

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坤を,下経の首には咸、恆を記したわけです.[二]孔子は曰く:「天は尊く地は卑しくして,乾坤定まる矣.」としています。[三]夫婦の道は,所謂、順というものです也.堯典には曰く:「釐降二女於媯汭,嬪于虞.」とあります、降は下です也,嬪は婦です也.言うに帝堯の女<むすめ>と雖も,虞に於いて嫁に下れば,猶も屈體して降下し,婦道を勤め修めるものなのです.易には曰く:「帝乙帰妹,以祉元吉.(帝乙、妹を帰す,以って祉して元<おおいに>吉.)」とあります、[四]婦人が嫁ぐを謂うに曰く帰すとするものでして,言うに湯[王]は娶禮を以って其の妹を諸侯に於いて帰したということなのです也.春秋之義にも,王姫が斉に嫁ぐとき,魯主之尊きを使い,天子之尊きを以ってせず諸侯に於いて加えられました也.[五][a]今、漢は秦の法を承りまして,尚主之儀を設け,以って妻が夫を制して,以って卑しきが尊きに臨み,乾坤之道を違えて,陽唱之義を失わせております.[六]孔子は曰く:「昔聖人が易を作る也,仰ぎては則ち天に象を観,俯しては則ち地に法を察せり,鳥獣之文,與地之宜なり.近くは諸身に取り,遠くは諸物に取りて,以って神明之徳に通じ,以って万物之情に類せり.」としております。[七]今、天において法を観るに,則ち北極が至尊でありまして,四星が妃后であります.[八]地において法を察するに,則ち山象は夫たりて尊く,澤象は妻たりて卑しいものです.[九]鳥獣之文(鳥獣の生態を鑑みますと(「」は文字化けで訳せない今仮に『鑑みる』と訳す)),鳥は則ち雄が鳴鴝すれば,雌が能く順服し;獣は則ち牡が唱導を為せば,牝が乃ち相従うものです.近く諸身に取れば,則ち乾が人の首を為し,坤が人の腹を為しております.[一0]遠く諸物に取れば,則ち木実は天に属し,根荄は地に属しております.[一一]陽が尊く陰が卑しいのは,蓋し乃ち天性というものであります.且つ詩の初篇は実首関雎でありますし;禮は冠、婚に始まって,先ず夫婦を正します.[一二](このように)天地六経は,其の旨(ことごとく)一揆(一致の意か)しております.宜しく尚主之制を改められまして,以て乾坤之性を称えられますよう.遵法すること堯、湯のように,式是すること周、孔のようになさいますよう.[一三]天地に之を合わせれば而して謬りなく,鬼神に之を質せば而して疑いないものです.人事が此の如くなれば,則ち嘉瑞が天から降るでしょうし,吉符が地から出ることでしょう,五韙が咸じ備わって,各々其を以ってすることでしょう矣.[一四]

[一]易の序卦に語り見られる也.

[二]易は乾、坤が離れるに至って上経を為し,咸、恆が未だ濟せずに至って下経を為す.

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[三]易の繋辞である也.

[四]易の泰卦は六五爻辞である也.王輔嗣注に云う:「婦人謂嫁曰帰.泰者,陰陽交通之時,女処尊位,履中居順,降身応二,帝乙帰妹,誠合斯義也.」史記を案ずるに紂[王]の父の名が帝乙である,此の文は帝乙を以って湯[王]と為しているが,湯の名は天乙である也.

[五]公羊伝に曰く:「夏の単伯は王姫を逆しまにした.単伯とは何であるか?吾大夫で天子に命じられた者である.何をか以って使を称しないのか?天子が召して而して使うに之に逆らったのである.之に逆うとは何であるのか?我主を之に使うことである也.曷は我が主を之に使うことを為したのか?天子が諸侯に於いて女<むすめ>を嫁がせるに,必ず同姓の諸侯を之に主として使う.」何休は注して云う:「不自為主,尊卑不敵也.」

[a]春秋時代には「王」は地に一人あるのみで周王一人を指した。他は皆諸侯である。後に諸侯がそれぞれ王を称することとなり、遂に秦が全国を統一するに至って「皇帝」を号したのである。それを踏まえるとここで言われる「王姫」は周王の姫ということである。

[六]易緯に曰く「陽は唱し而して陰は和す」也.

[七]どれも皆易の繋辞の文である也.

[八]北極は,北辰である也.軒轅四星は,女主の象である也.

[九]猶も高いである也.易では艮下兌上が咸を為す.艮は山を為す,夫の象である也.兌は澤を為す,妻の象である也.咸は,感である也.山澤は通気し,夫婦これ相感するのである也.

[一0]易説卦の文である也.

[一一]荄の音は該.

[一二]儀禮では士は冠禮が始まりを為し,士は婚禮が之に次ぐ.

[一三]式は,法である也.

[一四]韙は,是である也.史記曰く:「休徴(公務を休む日は次の時に行われる):曰く肅,時雨若(豪雨時);曰く乂,時(陽)[暘]若(旱?時);曰く哲,時燠若(熱波?時);曰く謀,時寒若(寒波時);曰く聖,時風若(暴風時).」是の五つは来るのに備えないといけない,各以其也.

昔、聖人が天地之中を建てて而して之を禮と謂いました,禮は,福祥の本が興る所以でありまして,而して禍乱を止める源であります也.人が能く

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欲を枉げて禮に従うのは,則ち福が之に帰るものであります;情に順じて禮を廃するは,則ち禍が之に帰るものであります.禍福が応じる所を推しはかり,興廃が由来する所を知るのです也.禮之中では,婚禮が首を為します.故に天子は十二を娶るのです,天の数だからです也[a];諸侯以下はそれぞれ等差を有します,事之降るものです也.[一]陽性は純にして而して能く施し,陰體は順にして而して能く化<教化>すもので,禮を以って濟楽(楽を成り立たせ),節して其気を宣べるのです.[二]故に能く子孫之祥を豊かにすれば,老寿之福を致すわけです.(しかしそれがゆきすぎて)三代之季<とき>に及べば,淫にして而して節無しとなり,瑤台、傾宮のこととなって,妾数百を陳べることになるわけです.[三]陽は上に於いて竭すものですし,陰は下に於いて隔てるものです.故に周公はこれ戒めて曰く:「稼穡之艱難を知らず,小人之労を聞かず,耽楽之従うを惟えば,時に亦た罔し或いは克寿する.」是が其の明らかな戒めなのです.[四]後世の人は,福を好みますが其本を務めませんし,禍を悪<にく>みますが不易其軌(自分のよくない行いは改めようとはしません).伝に曰く:「趾適履すれば,孰れか其の愚を云うや?何をか斯人と與<与>せん,欲を追って軀を喪うとは?」とありますが誠に痛むべきものです也.[五]臣が窺い聞きますに後宮の采女は五六千人で,従官侍使は復た其の外<ほか>に在るとか.冬夏の衣服,朝夕の稟糧<食事>,費やされ消耗される縑帛のことを考えますと,府藏してあったものは空竭し,(あらたに)徴調すること増倍することになります,十にして而して税は一,不辜之民に空賦して,以って無用之女に供すれば,百姓は外に於いて困窮することになり,陰陽は内にて隔てられ塞がりましょう.故感動和気,災異屢臻(災異がしばしば到るでしょう).臣愚以為諸非禮聘未曾幸御者,一皆遣出,使成妃合.(臣は愚かしくも次のことを提案いたします、諸々の、礼で招聘したのでなく未だ御幸に会っていない(陛下が手をつけてない)者は,一度全員外に出してしまい,妃と成ったものを使って合わせてしまってはどうでしょうか.)一に曰く怨曠を通じて,陰陽を和ます.二に曰く財用を省き,府藏を実らせる.三に曰く禮制を脩め,綏眉が寿がれる.四に曰く配陽施,祈螽斯.[六][b]五に曰く役賦をェ<ゆる>やかにし,民を安黎させる.此は誠に国家の弘利,天人の大福とするものではないでしょうか也.

[a]十二は天の数:案ずるに一年を十二箇月とするためであろう。陰である月が十二回満ち欠けして時が巡れば概ね一年(陽たる天の年候)が経過したことが示されるからである。(おっと下で同じこと言ってたよ。)

[一]白武通曰く:「天子が十二を娶るのは,天に法ってのことである,則ち十二月を有すれば,百物畢生するのである也.」又曰く「諸侯は九女を娶る」也.

[二]左伝に曰く,昔晉侯に疾有り,醫和が之を視た,曰く:「疾は為すべからざる也.是は女室に近づくを為すためで,疾は蠱の如きもの,鬼に非ず食に非ず,惑わされて以って志を喪うものです.」公曰く:「女は近づけるべきでないというのか乎?」対して曰く:「之を節するということです.先王之楽が,百事を節する所以であったのです也.天は六気を有し,過は則ち災を為します.」是に於いて乎其気を節宣した也.

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[三]列女伝に曰く,夏の桀[王]は琁室、瑤台を為し,以って雲雨を臨んだ,紂[王]は傾宮を為した.桓帝紀に解見される也.

[四]事は尚書無逸篇に見える,其詞は此と微かに同じでない也.

[五]適は猶お従うである也.言うに喪身之愚,甚於趾也.

[六]螽斯は,蚣蝑のことである也,其性は不妒であり,故に能く子孫を多する.詩に曰く:「螽斯が羽するや,詵詵たる兮.宣爾子孫,振振たる兮.」

[b][六]を踏まえると、つまり『配陽施,祈螽斯』とは同じ姫妾と何度もヤって精を注ぎ(配陽施)、子供が沢山出来るよう祈念しましょう(祈螽斯)ということである。(えー、なんと言えばいいのだろうか。さすが!荀氏無双?荀爽って爽やかな笑顔で言う事えぐくない?)

夫れ寒熱晦明は,歳を為す所以であります;尊卑奢儉は,禮を為す所以であります:故に晦明寒暑之気,尊卑侈約之禮を以って其の節を為すのです也.易に曰く:「天地は節し而して四時成る.」とあり[一]春秋は伝えて曰く:「唯器與名不可以假人.」とあり[二]孝経に曰く:「安上治民,莫善於禮.」とありますが禮とは,尊卑之差,上下之制なのです也.昔季氏は庭に於いて八佾舞をおこないましたところ,人物に於いて傷害困を有するものではありませんでしたのに,而して孔子は猶も曰く「是は忍ぶべきであった也,孰れか忍ぶべからざる(それでも忍ばないことできなかったのか)」としたとか.洪範は曰く:「惟辟作威,惟辟作福,惟辟玉食.」としておりますが、凡そ此の三者は,君が独り行って而して臣が同じこと得ないことです也.今臣僭君服,下食上珍,所謂害于而家,凶於而国者也.古禮に依って尊卑之差を宜略し,董仲舒の制度の別に及び,[三]厳(篤)[督]有司,必行其命(有司を厳しく(篤く)監督して,其の命を必ず行わせましょう).此が則ち乱れを禁じ俗を善くし用を足るものとする要なのです.

奏が聞かれると,即ち官して去った.

[一]節卦彖辞の文也.

[二]杜預注左氏云:「器は謂うに車服,名は謂うに爵号.」

[三]前書董仲舒曰く:「王は法度之宜を正し,上下之序を別にし,以って欲を防ぐのである也.」

後に党錮に遭い,海上に隠れ,また漢濱に南遁した,積むこと十余年,著述を以って事を為し,遂に碩儒と称えられるようになった.党禁が解けると,五府が

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並んで辟招した,司空袁逢が有道に挙げたが,応じなかった.袁逢が卒すると,荀爽は制服すること三年,当世往往化以為俗.時の人は多くが妻服を行わず,雖在親憂猶有弔問喪疾者,又、其の君の父及び諸名士に私謚するに,荀爽はどれも大義に引いて拠り,之を正すに経典に拠ったため,悉くが変わるわけでなかったと雖も,亦た頗る改める有った.[一]

[一]喪服曰く:「夫為妻斉縗杖.」禮記曰く:「曾子は問うた:『三年之喪弔乎?』孔子曰く:『禮は以って情を飾るもの.三年これ喪して而して弔い哭する,亦た虚しからざるや乎!』」

後に公車で徴されて大将軍何進の従事中郎と為った.何進は其の至らざるを恐れ,迎え薦めて侍中と為した,何進が敗れるに及び而して詔命は途中で絶えた.獻帝が即立して,董卓が輔政すると,復して之に徴された.荀爽は命から遁れようと欲したが,吏が之を持して急がせたため,去ることができなかった,因って復して拝し平原相に就いた.行って宛陵に至ると,復た追って光祿勳と為った.視事すること三日,進んで司空を拝した.荀爽が徴命を被ってから台に登って司るまで,九十五日.因って長安遷都に従った.

荀爽が董卓を見るに忍暴滋甚であったため,必ず社稷を危うくすると見て,其の辟挙する所は皆才略之士を取って,将に共に之を圖もうとし,また司徒王允及び董卓の長史である何顒等と内に謀を為した.病に会って薨じた,年六十三.

禮、易伝、詩伝、尚書正経、春秋條例を著し,また漢事の成敗で鑒戒と為すべきものを集めた,之を謂うに漢語である.また公羊問及び弁讖を作り,它<他>所の論と併せて,題して新書と為した.凡そ百余篇,今では多くが亡缺する所である.

兄の子である荀悦、荀ケは並んで名を知られた.荀ケには自身の伝が有る.

論に曰く:荀爽、鄭玄、申屠蟠は倶に儒行を以って処士を為し,累徴されたが並んで病と謝して詣でなかった.董卓が朝に当たるに及び,復して禮を備えて之に召された.

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申屠蟠、鄭玄は竟<つい>に屈せず以てその高きを全うした.荀爽は黄髮に已むや矣,独り至る焉,未だ十旬ならずして而して卿相を取った.意者疑其乖趣舍,余竊商其情,(思う者はその乖趣舍を疑い,のこりの者は其の情について商なるを窺がうものだが),以為出処君子之大致也,平運則弘道以求志,陵夷則濡跡以匡時.(以って出処を為して君子の大いに致すや(也),平運(世が平穏で順風満帆な時)には則ち道を弘める、以って志を求めるのである,陵夷(世が蛮行で陵辱されているような時)には則ち跡を濡らす、以って時を匡すのである.)[一]荀公の急急として自ら勵するや,其の濡跡であるというのか乎?然らず,何ぞ貞吉に違えるを為して而して虎の尾を履かんとするのか焉?[二]其の遷都の議でおこなった遜言を観るに,以って楊、黄之禍<わざわい>を救わんとしたのである.[三]後に董氏を潛圖するに及んで,国命を幾振したが,所謂「大直若屈」というものであり,道は固より逶迤であったのである也.[四]

[一]濡跡は,崔駰伝に解見される.

[二]易履卦に曰く:「履道坦坦,幽人貞吉.」又曰:「履虎尾,不咥人亨.」王輔嗣注云:「履虎尾者,言其危也.」

[三]楊彪、黄琬のことである也.

[四]老子は云う:「大直は若し屈す,大巧は若し拙なる.」逶迤は,曲である也.

荀悦は字を仲豫といい,荀儉之子である也.荀儉は早卒した.荀悦は年十二にして,能く春秋を説いた.家は貧しく書が無かったため,人閧ノ毎之して,篇牘を見る所,一覧して多くは能く誦記した.性は沈静,美しい姿容であり,著述を尤好した.靈帝の時に閹官が権力を用い,士の多くが身を引いて処に窮した,荀悦は乃ち疾に託して隠居し,時人莫之識,雖従弟の荀ケ特称敬焉.初め鎮東将軍曹操府に辟招され,黄門侍郎に遷った.獻帝は頗る文学を好んだため,荀悦は荀ケ及び少府の孔融と禁中に侍して講じ,旦夕談論した.累遷して祕書監、侍中となった.

時に政は曹氏に移り,天子は己を恭しくして而して已みなんとした.荀悦の志は獻替に在ったが,而して謀は用いられる所無く,乃ち申鑒五篇を作った.其の論弁する所は,政体に通見しており,既成すると而して之を奏した.其の大略は曰く:

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夫れ道之本,仁義あって而して已まん矣.[一]五典は以って之を経とし,群籍は以って之を緯とする,之を詠み之を歌う,之を弦し之を舞う,前に監て既に明らかなる,後に復して之を申す.故古之聖王は,其の仁義に於いてを也,重く申し而して已まん.

[一]易に曰く:「立人之道曰仁與義.」

政を致す術は,先ず四患を屏し,乃ち五政を崇める.

一に曰く偽,二に曰く私,三に曰く放,四に曰く奢である.偽は俗を乱すこと,私は法を壊すこと,放は軌を越えること,奢は制に敗れることである.四者が除かれないなら,則ち政は(四者が)行われる由に末である矣.夫れ俗が乱れれば則ち道が荒れる,天地と雖も其の性を保つことができない矣;法が壊れれば則ち世は傾く,人主と雖も其の度を守ることができない矣;軌越えられるは則ち禮亡ぶ,聖人と雖も其の道を全うできない矣;制敗れれば則ち欲が肆じられる,四表と雖も其の求めるを充たすことできない矣.[一]是が四患と謂うのである.

[一]肆は,放である也.

農桑を興して以て其(性)[生]を養う,好悪を審らかにして以て其の俗を正す,文教を宣べて以て其の王化を章かにする,武を立て備えを立てるに秉を以ってし其の威を以ってする,明賞罰を明らかにして以て其の法を統一する.是が五政と謂うのである.

人が死を畏れなければ,罪を以って懼れさせることはできない.人が生を楽しまなければ,善を以って勧めることはできない.契を使って五教を布かせ,陶を使って士を作らせると雖も,政は行われないのである焉.[一]故に上に在る者は先ず人の財を豊かにして以て其の志を定めるのである,帝が籍田を耕し,后が蠶宮に桑を運ぶなら,[二]国に遊人無く,野に荒業無いものである,財が賈に用いられず,[三]力が妄りに加えられない,以って人事に周するのである.是が養生と謂うのである.[四]

[一]尚書に舜が契に謂いて曰く:「汝は司徒を作る,敬敷五教在ェ.」謂陶曰:「汝作士,明于五刑.」

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[二]籍田の事は,明紀に解見される.禮記に曰く:「季春之月,后妃は斉戒し,親しく東に向い桑する,以って蠶事を勧めるのである.」古では天子諸侯は必ず公桑蠶室を有した,川を近くして而して之を為したのである,宮仞は三尺を有する也.

[三]自足と言うのである也.

[四]周は,給ということである也.

君子が天地を動かし,神明に応じ,万物を正して而して王化を成す所以は,必ず乎真定して而して已むところにある.故に上に在る者は好醜を審らかに定めるのである焉.善悪要乎功罪,毀譽於準驗.聴言責事,挙名察実,無惑詐偽,以蕩心.故事無不覈,物無不切,善無不顯,悪無不章,俗無姦怪,民無淫風.百姓上下利害之存乎己也,故肅恭其心,慎修其行,内不回惑,外無異望,則民志平矣.是謂正俗.

君子は情を以って用い,小人は刑を以って用いる.栄辱は,賞罰の精華である也.故に禮教栄辱は,以って君子に加え,其の情を教化するのである也;桎梏鞭撲は,以って小人に加え,其の刑を教化するのである也.君子は辱められることを犯さない,況んや刑されることに於いてをや乎!小人は刑されることを忌まない,況んや辱められることに於いてをや乎!若し教化の廃れるは,中人を推して而して小人の域に堕とすにあり;教化の行われるは,中人を引いて而して君子の塗<みち>に納めるにある.是が章化と謂うのである.[一]小人の情というものは,緩ければ則ち驕り,驕れば則ち恣となり,恣となれば則ち怨み,怨めば則ち叛く,危うければ則ち乱を謀り,安んずれば則ち欲を思う,威し強いることないなら以て之を懲らしめることもできないのである.故に上に在る者は,必ず武を備える有って,以って不虞を戒め,以て寇虐を遏める<とめる>のである.安居には則ち之を寄せて内政し,有事には則ち之を用いて軍旅とする.[二]是が秉威と謂うものである.

[]章,明也.

-2061-

[]国語斉桓公問管仲曰:「国安可乎?」管仲曰:「未可.君若正卒伍,脩甲兵,則大国亦将脩之,小国設備,可作内政而寄軍令焉.」注云:「()[],国政也.言脩国政而寄軍令,鄰国不知.」

賞罰は,政の柄である也.[一]明賞必罰,信を審らかにして令を慎み,賞して以って善を勧め,罰して以って悪を懲らしめる.人主は妄りに賞しないが,徒に其の財を愛するからではない也,賞が妄りに行われれば則ち善は勧められないのである矣.妄りに罰しないのは,矜其の人を矜れむ<あわれむ>のではない也,罰が妄りに行われれば則ち悪が懲らしめられないのである矣.賞して勧められない、これが善を止めると謂う,罰して懲らしめられない、これが悪を縦<ほしいまま>とすると謂う.上に在る者は能く下が善を為すのを止めず,下が悪を為すのを縦にしない,そうすれば則ち国法が立つのである矣.是が法を統すると謂うことである.

[一]韓子曰:「二柄とは,刑、徳である也.殺戮する之を刑と謂い,慶賞する之を徳と謂う.」

四患が既に蠲じられ,五政がまた立ち,之を行うに誠を以ってし,之を守るに固きを以ってする,簡にして而して怠らず,疏にして而して失わず,為す無きが之を為して,自らを使って之を施す,事する無きが之を事し,自らを使って之を交わる.[一]肅せずして而して成りたち,厳しくなくして而して王化される,垂拱揖讓,而して海内は平らかなる矣.是が為政の方(方策)と謂うものである.

[一]老子曰く:「無為を為し,無事に事える.」また曰く「故に徳は交わり帰す」也.

また言う:

尚主之制は古に非ず.釐降二女とは,陶唐之典です.帰妹元吉とは,帝乙の訓したものです.王姫帰斉とは,宗周の禮です.以って陰が陽に乗じれば天に違え,以って婦が夫に陵すれば人に違うものです.天に違うは不祥,人に違うは不義というものです.また古には天子諸侯の有事には,必ず廟に告げたということです.朝は(我が漢の朝廷は)二史を有しています,左史は言を記し,右史は事を書しております.[一]事は春秋に為され,言は尚書に為されています.君が挙げるや必ず記し,善悪

-2062-

成敗,存しないものは無いものです焉.(それが)下は士庶に及ぶと,苟は茂異に有り,咸は載籍に在ることになります.或いは顯を欲して而して得ず,或いは隠を欲して而して名が章かとなる.得失は一朝のものですが,而して栄辱は千載なるものです.善人は勧められ焉,淫人は懼れるものです焉.[二]宜しく今に於いては史官を備え置き,其の典文を掌り,其の行事を記させますよう.歳盡す毎に,之を挙げて書を尚ぶことになさいますよう.以て賞罰を助け,以て法教を弘めることになります.

[一]禮記に曰「天子朝日于東門之外,聴朔于南門之外,閏月則闔門左扉,立于其中,動則左史書之,言則右史書之」也.

[二]淫は,過である也.左氏伝に曰く「或いは名を求めて而して得ない,或いは蓋を欲して而して名が章かなる,書は豹盜三叛人の名を斉くし,以て不義を懲らしめた」也.

帝は閲覧すると而して之を善しとした.

帝は典籍を好み,常に班固の漢書が文繁を以って難いため省みると,乃ち荀悦に令をくだして左氏伝に依って體して以って漢紀三十篇を為させ,尚書に詔して筆札を給わった.辞するに約し事は詳らかに,論弁は多く美しかった.其の序にこれ曰く:「昔在上聖,惟建皇極,経緯天地,観象立法,乃作書契,以通宇宙,揚于王庭,厥用大焉.先王光演大業,肆于時夏.[一]亦惟厥後,永世作典.夫立典有五志焉:一に曰く道義に達し,二に曰く法式を章かとし,三に曰く古今に通じ,四に曰く功勳を著し,五に曰く賢能を表す.是に於いて天人之際,事物之宜,粲然として顯著であり,罔不備矣.世は其軌を濟とし,其業を不隕とした.[二]損益盈虚,與時消息.臧否不同,其揆一也.漢は四百有六載となり,撥乱反正,統武興文(武をまとめ文を興し),永く祖宗之洪業を惟い,光啓かれる乎万嗣を思う.聖上は穆然たりて,文之恤を惟い,前を瞻<み>て後を顧み,是紹して是継ぐ,闡崇大猷,国典を立てるを命じられた.是に於いて綴旧書(旧書を綴りなおし?),以って漢紀を述べる.中興以前,明主賢臣のおこなった得失の軌跡,亦た以って観るに足れり矣.」

-2063-

[一]詩の周頌に曰く:「我は懿徳を求めて,時夏に肆する.」鄭玄注に曰く:「懿は,美である也.肆は,陳べるである也.我とは,武王のことである也.美徳の士を求めて而して之を任用する,故に是の夏に於いて陳べて而して之を歌ったのである也.」

[二]濟は,成である也.

また崇徳、正論及び諸論数十篇を著した.年六十二,建安十四年卒した.

韓韶は字を仲黄といい,潁川郡舞陽県の人である也.若いころから郡に仕え,司徒府に辟招された.時に太山の賊である公孫挙が偽号すること歴年にわたり,守令(太守や県令ら)は破り散らすこと能わず,多くが法に坐すことに為った.尚書が三府掾から能く劇を理める者を選ぶこととなり,乃ち韓韶を以って贏の県長と為した.[一]賊は其の賢を聞くや,相戒めて贏県の境に入らなかった.余県は多くが寇盜を被り,耕作や桑畑は廃され,其の人々が流入する県界では衣糧を求索する者が甚であった.韓韶は其の飢え困ったようすを愍れむと,乃ち倉を開いて之を賑ったため,稟贍する所となったのは万余戸となった.その仕事の主者は争って(開倉)すべきではないと謂った.韓韶は曰く:「長活溝壑之人(溝壑之人(今死に掛けている人)を長く活かすと),而して此を以って罪に伏すとは,笑みを含んで地に入ろうか矣(これはもう笑って死ぬしかないのかな).」太守は素より韓韶の名徳を知っていたため,竟に坐す所無かった.病を以って卒官した.同郡の李膺、陳寔、杜密、荀淑等は碑を立ててそれに頌を為した焉.

[一]贏は,県である,故城は今の兗州博城県東北に在る.

子の韓融は,字を元長という.若いころから能く理を弁じて而して不為章句学.声名は甚だ盛んであり,五府が並んで辟招した.[a]獻帝の初め,太僕に至った.年七十で卒した.

[a]「五府が並んだの」は可能性として二つの時期が考えられる。一つは何進在世の時である。何進の大将軍府、袁隗の太傅府(または何苗の車騎将軍府)、それに三公の府を合わせて五府である。もう一つは董卓が政権を得たころと考えられる。董卓の相国府、袁隗の太傅府、それに三公の府を合わせた五府である。この後の文章が献帝の初めと続くこともこれを補強すると考えられる。なお、六府となると李・郭政権が在った長安政権時のこととなる。

-2064-

鍾皓は字を季明といい,潁川長社の人である也.為郡著姓,世善刑律.鍾皓は若いころから篤行以って称えられ,公府に連ねて辟招されたが,二兄が未だ仕えていなかった為に,密山に避けて隠れると,[一]詩律を以って教授すること門徒千余人となった.同郡の陳寔は,年は鍾皓に及ばなかったが,鍾皓は引いて陳寔と友に為った.鍾皓は郡の功曹と為り,司徒府に辟招されることになったが,辞するに臨み,太守が問うた:「誰が卿に代わりうるだろうか?」鍾皓曰く:「明府が必ずや其人(私の代わり)を得ようと欲しておりますなら,西門の亭長をしております陳寔ということになりましょうか.」陳寔は之を聞いて,曰く:「鍾君似不察人,不知何独識我?(鍾君は人を察する人ではないようにみえますな,鍾君独りだけが私を識るに過ぎないと、なぜご存知でないのでしょう?)」鍾皓はこの頃自劾して去った.前後して公府に九度も辟招され,徴されて廷尉正、博士、林慮長と為ったが,皆就かなかった.時に鍾皓及び荀淑は並んで士大夫が帰慕する所と為っていた.李膺は常に歎じて曰く:「荀君は清識、尚ぶのは難しい,鍾君は至徳、師とすべきだ.」

[一]密は県(長社県)の山である也.

鍾皓の兄の子である鍾瑾の母は,李膺の姑であった也.鍾瑾は学を好み古を慕い,退讓の風を有し,李膺と同じ年で,倶に声名有った.李膺の祖である太尉李脩は,常言するに:「鍾瑾は我家の性に似ている,邦に道有れば廃れないし,邦に道無ければ刑戮に於いて免れるというもの.」復た李膺の妹を以って之を妻とした.[a]鍾瑾は州府に辟招されたが,未だ嘗て志を屈しなかった.李膺は之に謂いて曰く:「孟子は以為<おもえらく>『人に是非の心が無ければ,人に非ず也』と言葉を残したとか.[一]弟よ孟軻(孟子)と同じにしないのは何をか期してのことか邪?」[b]鍾瑾は常に李膺の言を以って鍾皓に白した.鍾皓曰く:「昔、国武子は昭人を好むに過ぎるものがあったため,以って怨みを致される本となった.[二]卒するにあたり身を保ち家を全うする,爾の<(お前の)その>道が為すに貴いというものだ.」其の訓を体して安んずる所は,多くが此の類であった也.

[一]孟子曰く:「人に惻隠之心無くば,人に非ず也.羞悪之心無くば,人に非ず也.辞讓之心無くば,人に非ず也.是非之心無くば,人に非ず也.」

[a] 鍾瑾の姉妹が既に李膺の妻であるのに、更に李膺の妹を鍾瑾の妻としたのである。異例のことと見なければならない。異例であると言うのはタブーを犯したと言うことではない、このとき既に鍾一族から鍾瑾の姉妹の一人を李膺の妻として迎えていたのに、李一族の長であった太尉李脩の判断で重ねて今度は李氏の側から、それも他ならぬ鍾瑾の姉妹を妻としている李膺の妹を、妻として鍾瑾の下へ嫁がせたことが異例なのである。一般的に古代氏族社会での婚姻は氏族間の関係強化を目的とした贈与・交易・交換のシステムとして理解できる。またその贈与・交易・交換は次の回(次の世代)に持ち越されて返礼されるのが原則である。この観点から見ると今回の婚姻は非常に無駄かつ無意味なのである。友好関係は既に結ばれているからである。鍾瑾・李膺の世代では鍾瑾の姉妹が李膺に嫁いでおり贈与は済んでいる。次の返礼としては鍾瑾・李膺の子の世代に李一族の側から鍾一族の方へ娘が嫁ぐというのが暗黙の了解だっただろう。李一族の長であった太尉李脩はその了解を圧してまでして李氏の娘を鍾瑾へ嫁がせたかったのである。これは一族の長である李脩がそれだけ鍾瑾を高く買っていたことを示す。また婚姻の原則を排除してまでして他の李氏の娘ではなく他ならぬ李膺の妹をこそ鍾瑾の妻にと押したことは、李膺が一族期待のホープであったこと、それゆえに李膺を(将来を嘱望される)鍾瑾とより強く、一族と一族の友好ではなく、殆ど鍾瑾と李膺二人の個人的関係として結び付けたがっていたことを示唆している。

[b] 同年と書かれているのに李膺が鍾瑾に向かい「弟」と呼びかけたのは自分の妹を妻としていたからである。なお、李膺が鍾瑾に向かい「兄」と呼んでいないことから、李膺が妻に貰った鍾瑾の姉妹は鍾瑾の姉だったのではないかと推測できる。姉さん女房萌え〜。ていうか友達の(めっちゃかわいい)妹が自分の妻にとか友達の(ちょーぜつ美人な)姉が自分の奥さんにとか、リアル古代中国はワンダホーランドでありますな。ていうかそう考えてしまえる俺の頭の中身がワンダホーランドなのでありますな。ていうかこんなのが後漢書注として残されてしまうネットなこの状況こそワンダホーランドなのかも知れんのですな。

[二]国武子は,斉の大夫である.斉の慶克が斉君之母と通じた,国武子は之を知ると而して慶克を責めた,夫人は遂に国武子を譖じて而して之を逐った.事は左伝に見える.

-2065-

年六十九,家で終わった.諸儒は之を頌して曰く:「林慮懿徳,非禮不処.悦此詩書,弦琴楽古.五就州招,九応台輔.逡巡王命,卒歳容與.」

鍾皓の孫が鍾繇である,建安中に司隸校尉と為った.[一]

[一]海内先賢伝に曰く:「鍾繇は字を元常といい,郡の主簿であった鍾迪の子である也.」魏志に曰く:「孝廉に挙げられて尚書郎と為り,三府に辟招されて廷尉正、黄門侍郎と為った.」

陳寔は字を仲弓といい,潁川郡許県の人である也.出身は単微であった(名も知れぬ卑賎の出であった).自為兒童(兒童と為って自り),戲弄に在ると雖も,等類帰す所を為した.若くして県吏に作されたが,常に廝役に給事していた,後に都亭(刺)の佐と為った.而して志を有し学を好み,坐立誦読した.県令のケ邵が試みに與<とも>に語って,之を奇としたため,太学に業を受けることが聴きいれられた.後に令あって復召されて吏と為ったが,乃ち避けて陽城山中に隠れた.時に殺人事件が有って,同じ県の楊吏が以って陳寔を疑い,県は遂に逮捕して獄に繋ぐと,考掠したが無実であったため,而して後に出ることができた.督郵と為るに及んで,乃ち許の県令から密託をうけると,(かつて自分を逮捕投獄した)楊吏を禮召した.遠近聞く者は,咸歎して之に服した.

家は貧しく,復して郡の西門亭長と為り,尋転して功曹となった.[a]時に中常侍侯覧が太守高倫に用吏のことを託し,高倫は(これに応えて)教署して文学掾と為した.陳寔は其人に非ざるを知ると(用いられた人物がその任に応えられないことを知ると),檄を懐いて見えることを請うた.[一]言いて曰く:「此人は用いるに宜しくありませんが,かといって侯常侍の意に違うこともできないでしょう.わたくし陳寔は外に従い署すことを乞います,不足あればこの塵を以って(塵のような私ですが微力を尽くして太守並びに郡の)徳を明らかにしましょう.」高倫は之に従った.[二]是に於いて郷論は其の非挙を怪しんだが,陳寔は終に言う所無かった(沈黙を守り通した).高倫が後に徴を被って尚書と為ると,郡中の士大夫は送って輪氏の伝舍に至った.[三]高倫は人に謂いて言うに曰く:「吾は前に侯常侍の為に用吏したことがあったが,陳君は密かに教えを持して還ると,而して外に於いて署を白した.比聞議者以此少之,此咎由故人畏憚強禦(比べ聞くと議では此れを以って之を少なしとしているようだが,此れは故人が強禦を畏れ憚る由を咎めてのことなのである),陳君は善あれば則ち君を称え,過ちあれば則ち己を称える者と謂えようか也.」陳寔は固より自ら愆を引いた,聞く

[a] 鍾皓のおかげと思われる。

-2066-

者は方歎息(方々で嘆息した),是由に天下は其の徳に服することとなった.

[一]檄は,板書である.謂うに以って高倫にこれ教えるに檄に於いて之を書き而して之を懐いたのは,事が洩れるのを懼れたのである也.

[二]外署之挙に従うを請うたのは,請託に於いて高倫を陥れようとは欲しなかったのである也.

[三]輪氏は,県名である,潁川郡に属する,今の故<もと>の高陽県が是である.

司空の黄瓊が辟招して理劇に選び,聞喜の県長を補った,旬月して,喪を以って官を去った.復た太丘の県長に再遷され除された.[一]修徳し清靜であったため,百姓は以って安んじた.鄰県の人戸で帰附した者がいたが,陳寔は輒ち訓導して譬え解くと,発して遣わし各々に令して本(もともと)の司官が行部するところへ還らせた.[二]吏で(還された民や本の司官などからの)訴訟を起こされることを慮る者がおり,建白して之を禁じようと欲した.陳寔は曰く:「訟すというのは以って直を求めてのことである,之(それぞれ戸籍を所部するところに還すこと)を禁じる理<ことわり>は将に何を申してのことであるのか?其の拘る所有る勿れ.」司官は聞くと而して歎息して曰く:「陳君が若し是と言う所を,豈有怨於人乎?(どうして人に於いて怨み有することあるだろうか?)」亦た竟に訴訟するものは無かった.沛相が賦斂違法なるを以って,印綬を解いて去るに及ぶと,吏人は之を追思した.

[一]太丘は,県である,沛国に属する,故城は今の亳州永城県西北に在る也.

[二]司官は謂うに主司之官である也.

後に党人が逮捕されるに及ぶと,事えて亦た陳寔も連なった.余人は多くが逃避して免れるを求めたが,陳寔は曰く:「吾は獄に就かない,無所恃.」乃ち囚われるを請うた焉.赦(大赦)に遭って出ることができた.靈帝の初め,大将軍の竇武が辟招して以って掾属と為した.時に中常侍の張讓の権が天下を傾けていた.張讓の父が死ぬと,潁川に帰葬したが,一郡畢至と雖も,而して名士で往く者は無かった,張讓は甚だ之を恥じたが,陳寔は乃ち独り弔った焉.乃ち後に復た党人が誅されたが,張讓は陳寔に感謝しており,故に多くが全く宥<ゆる>される所となった.

陳寔が郷閭に在ると,平心率物した.其の訟を争うのが有ると,輒ち正しい判断を求めたが,曲直を曉譬したため,退いて怨む者は無かった.至って乃ち歎じて曰く:「寧為刑

-2067-

罰所加,不為陳君所短.(寧為すに刑罰加える所は,陳君が短とする所で為さないものである.)」時に歳荒れて民は儉<つま>しくなった,盜賊が有って夜に其室へ入ると,梁上に於いて止まった.陳寔は陰ながら見ると(密かに盗賊に気づくと),乃ち起きて自ら整拂し,子や孫たちを呼び集めた,そこで顔色を正して之を訓じた、曰く:「夫れ人は自ら勉めないでいるべきではない.不善の人というものは未だ必ず本が悪というわけではないのだ,習うに以って性成るままとするため,遂に此に於いて至るのである.梁上の君子が是だろうか矣!」盗賊は大いに驚くと,自ら地に投げ出し,罪に帰すことを稽顙した.陳寔は徐ろに之を譬えて曰く:「君を視るにその状態や容貌など,悪人に似ていません(そのように見えません),どうか宜しく深く剋己して善に反ってください.然るに此(この行い)は当に貧困由なのでしょう.」(家人に)令すると絹二匹を遣わした.是<これ>自<よ>り一県(全体)で再び盗人が竊うことが無くなったのである.

太尉の楊賜、司徒の陳耽が,公卿に拝する毎に,百僚は畢賀した,楊賜等は常に陳寔が大位に未だ登らないことを嘆き,また之に先んじて(位について)しまったことを愧じた<はじた>.党禁が解け始めると,大将軍の何進、司徒の袁隗は人を遣わして陳寔を敦くし,[一] 特表して不次之位を以ってしようと欲した.陳寔は乃ち使者に謝すと曰く:「わたくし陳寔は久しく人事を絶っております,飾巾して終わりを待ち而して已みなんとしているのです.」時に三公は缺する毎に,議は之に帰り,徴命に累見する(重ねて見える)こととなったが,遂に起たなかった,門を閉じ車を懸け(その辺の壁にたてかけ(つまり車を使わないことを意味する)),繧ノ棲むと老を養った.中平四年,年八十四にして,家で卒した.何進は使者を使わすと弔祭した,海内で赴いた者は三万余人,衰麻の制をとった者は以って百を数えた.共に刊石して碑を立てた,謚して文範先生と為した.[二]

[一]敦は,勧めるである也.

[二]先賢行状に曰く:「将軍何進は官属を遣わすと弔祠し謚を為した.」

子が六人おり,陳紀、陳ェが最も賢かった.

陳紀は字を元方といい,亦た至徳を以って称えられた.兄弟は孝養し,閨門は廱和して,後進の士は皆(だれもが)其の風を推慕した.党錮に遭うに及んで,発憤して書を著すこと数万言,号して曰く陳子とした.党禁が解けると,四府から並んで(召)命あったが,屈して就く所など無かった.父の憂に遭うと,哀至る毎に,輒ち歐血して気絶した,雖衰

-2068-

服已除(服喪の際の制にある衰服の装いを(期間を終えても)除くを已め),而して積毀消瘠して,殆んど将に滅性せんばかりとなった.豫州刺史が其の至行を嘉して,尚書に表上すると,圖象すること百城(その肖像を描いて掲げる地方は百城にもなり),以って風俗を獅オた.董卓が洛陽に入ると,乃ち使って家に就けて五官中郎将を拝したため,已むを得ず(それを受けた),京師に到ると,侍中に遷った.出て平原相と為ったため,往って董卓に拝謁したが,時に(董卓は)都を長安へ徙そうと欲していた.乃ち董卓は陳紀に謂いて曰く:「三輔は平敞であり,四面は險固である,土地は肥え美く,号するに陸海を為すとか.[一]今関東に兵が起っている,洛陽には久しく居ることができないのではないかと危惧している.長安には猶も宮室が有るとのことだから,今西遷しようと欲するのだが何如かね?」陳紀曰く:「天下は有道でありまして,守りは四夷に在ります.[二]宜しく徳を脩めまして政し,以って附かないものを懐けたほうがよろしいかと.至尊を遷移なさることは,誠に計之末という者です.愚かしくも公は宜事なさるを以って公卿に委ね,外任に專精されてはどうでしょう.其が命に違うこと有れば,則ち武を以って之を威せばよろしいかと.今関東に兵起って,民は命に堪えません.若し謙遠朝政して,師を率いて討伐すれば,則塗炭之民,庶幾可全.若し万乗を徙して以って自ずと安んじようと欲するなら,将に累卵の危うき,崢エ之險有るというものです也.」[三] 董卓の意(気持ち)は甚だ忤だったが,而して陳紀の名行を敬い,復言する所無かった(その話を蒸し返さなかった).時に議は(会議・議論・衆議では)以って司徒と為そうと欲したが,陳紀は禍乱方作(過乱が方々に起きているの)を見て,不復弁厳,[四]即時之郡.璽書が追ってきて太僕を拝し,又徴されて尚書令と為った.建安の初め,袁紹が太尉と為ると,陳紀に於いて譲ったが;陳紀は受けず,大鴻臚を拝した.年七十一,卒於官(在官のまま亡くなった).

[一]前書曰く,東方朔は曰く:「三輔の地は,南に江、淮(長江・淮水)を有し,北に河、渭(黄河・渭水)を有し,汧、隴以東,商、洛以西(がその地ですが),厥壤肥饒,此所は天府陸海之地と謂うものです.」

[二]左伝に曰く,楚の沈尹戍曰く「古には天子は四夷を守在した.天子は卑しく,諸侯を守在したのである」也.

[三]累卵は,皇后紀に解見される.崢の音は士耕反.

[四]厳読は曰く装也.

子の陳羣は,魏の司空と為った.[一]天下は以って公は卿に劣り,卿は長に劣ると為した.

-2069-

[一]陳羣は字を長文という.魏志に曰く「魯国の孔融は才高く倨傲であった,年は陳羣、陳紀の閧ノ在った,先ず與[陳紀の友となり,後に與]陳羣と交わると,更めて陳紀を拝した,是由に顯名となった」也.

弟の陳ェは,字を季方という.陳紀と徳を斉しく行いを同じくし,父子並んで高名を著した,時に号して三君.宰府に辟召される毎に,常に同時に旌命され,羔鴈成□,[一]当世者靡不栄之(当世では之を栄えとしないことに靡いた).陳ェは早く終わった.[二]

[一]古には諸侯が天子に朝見すると,卿は羔を,大夫は鴈を,士は雉を執った.成■言多也.

[二]先賢行状に曰く:「豫州百城は,皆陳寔、陳紀、陳ェの形像を圖書した焉.」

論に曰く:漢は中世自り以下,閹豎が恣とし,故に(風)俗は遂に以って身を遁れ汲矯め放言すること高きを為すようになった.[一]士で此と談じない者が有ると,則芸夫牧豎已叫呼之矣.[二]故に時の政は彌惛となり,而して其の風は愈往した.唯一、陳先生のみ進退之節あったのは,必可度也.徳に於いて拠るため故に物は犯さない,仁に於いて安んじるため故に■を離れない,行いが身において(乎)成れば而して道が天下に訓じられる,故に凶邪は権を以っても奪うこと能わず,王公は貴きを以っても驕ること能わないのである,所以声教廃於上,而風俗清乎下也(声教が上に於いて廃される所以にして,而して風俗が下においてや清らかなる所以である).

[一]其言を放肆する,節制に拘らないことである也.論語は曰く:「隠居放言.」

[二]叫呼は,之を譏笑するである也.芸は,除草するである也.

贊に曰く:二李は荀淑を師とし,陳君は鍾皓を友とした.韓韶は就吏すると,贏寇して道を懐かせた.太丘は奧廣であり,模我彝倫というものである.是に会えば淵軌なって,薄夫は以って淳した.[一]慶基既に啓かれて,有蔚潁濱,二方は承則し,八慈は継塵した.[二]

[一]曾之言則也.

-2070-

[二]二方とは,元方、季方のことである也.荀淑の八子は,皆(どれも)慈を以って字と為した,荀氏家伝に見える也.