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後漢書卷六十五

皇甫張段列伝第五十五

【皇甫規伝】

皇甫規は字を威明といい,安定(郡)朝那の人である也.祖父は皇甫棱といい,度遼将軍であった.父は皇甫旗,扶風都尉であった.

永和六年,西羌が三輔を大寇し,安定を囲むと,征西将軍馬賢が諸郡の兵を将いて之を撃ったが,克つこと能わなかった.皇甫規は布衣に在ったと雖も,馬賢が軍事に不卹であると見,其が必ず敗れることを審らかにし,乃ち上書してその状況を言った.尋ねて而して馬賢は果たして羌の為に没する所となった.郡将は皇甫規が兵略を有していることを知り,乃ち命じて功曹と為すと,使って甲士八百を率いさせ,羌と交戦させたところ,斬首すること数級,賊は遂に退卻した(卻に退いた).(そこで)皇甫規を上計掾に挙げた.其後羌が大いに合わさり,隴西を攻め焼いて,朝廷は之に患った.皇甫規は乃ち上疏して求めて自らを乞うと,曰く:「臣は比年以来,何度も便宜を陳べました.羌戎は未だ動かず,其の将に反せんことを策すと,馬賢が出る始め,頗る必敗を知ったのです.誤中之言,在可考校.臣は毎々惟いますが、馬賢等がを擁して四年となるのに,未だ功成ること有らず,懸師之費(軍に費やした費用)且つ百億計は,[一]出るのに平人に於いてでありますのに,回って姦吏に入っています.[二]故に江湖之人は,為して盗賊となり,青、徐は荒れて飢え,襁負流散しているのです.夫れ羌戎が潰叛するのも,平げるを承った由ならず,皆由は辺将が綏御するに於いて失ったことにあるのです.乗常守安,則君侵暴,苟しくも小利を競えば,則ち大害を致す,微勝は則ち虚しく首級を張るもので,軍は敗れて則ち隠匿して言わない.軍士は労して怨み,猾吏に於いて困じ,進んでは快戦を得ずして以って功を徼され,退けば温飽を得ずして以って命を全うしたとする,溝渠に餓死し,中原に骨を暴す.王師之出ずるに見えんとして徒るも,振旅之声を聞かない.[三]酋豪は血に泣き,驚懼生変.是が以って

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久しく能わないことに安んじ,敗れて則ち年を経たものである.臣が以って搏手叩心して而して歎きを増す者とする所である也.願わくば臣に両営二郡に,[四]屯列する坐食之兵五千をお假しください,其の不意に出て,護羌校尉趙沖と共に相首尾します.土地山谷は,臣が曉習とする所;兵が巧便を埶すれば,臣は已に之を更めましょう.可不煩方寸之印,尺帛之賜,高可以滌患,下可以納降.若<けだ>し臣は年少にして官が軽いため,用いるに不足な者だと謂うことですが,凡そ諸敗将は,官爵が高くなく,年歯之不邁に非ざるものです.[五]臣は至誠に勝るものではありませんが,死に没して自ら陳べます.」時に帝は用いること能わなかった.

[一]懸猶停也.

[二]平人は,斉人である也.

[]振,整;旅,也.穀梁伝曰「出曰治兵,入曰振旅」也.

[四]両営は馬賢及び趙沖等を謂う.二郡は,安定、隴西である也.

[五]邁,往也.

沖質之間,梁太后が臨朝されると,皇甫規は賢良方正に挙げられた.対策して曰く:

伏して惟いますに孝順皇帝は,初め王政に勤められ,紀は四方に綱じたため,幾らか以って安きを獲ました.後に姦偽に遭い,威が近習に分けられると,[一]貨を畜え馬を聚め,戲謔すること是を聞くことになりました;又因縁嬖倖,賂を受けて爵を売り,賓客を軽使して,其間を交錯させたため,天下は擾いに擾え,乱に従うこと帰すが如きでした,[二]故に毎有征戦有る毎に,挫かれ傷つけられないこと鮮なく,官民は並んで竭し,上下は虚しきに窮まったのです.臣が関西に在りましたおり,風声を窺い聴きますに,未だ国家が先後する所を有し,[三]而して威福之来たるや,権倖に咸帰したことを聞きませんでした.陛下は體は乾坤を兼ねられまして,聡哲なることは純に茂きものであります.攝政之初め,忠貞を抜擢登用され,其余は維綱して,多くが正しきに改められる所となりました.遠近は翕然として,太平を望み見たのです.而して地震之後には,霧気が白濁し,日月は光らず,旱魃が虐げを為し

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[四]大賊が従横して,地が流れて野を丹にしました,庶品は安んじず,譴いは誠に累するに至り,殆んど以って姦臣が権重之致す所となってしまいました也.其常侍の尤なること無状なる者は,亟便黜遣して,[五]凶党を披埽するとして,財賄を収め入れ,以って痛怨を塞ぎ,以って天誡を荅しました.

[一]近習とは,諸佞倖親近小人である也.禮記に曰く:「雖有貴戚近習.」

[二]左伝曰「人は王之無厭に患うや也,故に乱に従うこと(王化に)帰すが如し」也.

[]先後謂進退也.言国家不妄有貶進退,而権倖之徒反為禍福也.

[四]詩大雅に曰く:「旱魃が虐げを為すこと,惔の如し焚の如し.」魃は,旱神である也.

[五]無状とは,善状無きを謂う.

今大将軍の梁冀、河南尹の不疑は,周、邵之任を処し,社稷之鎮めと為って,加えて王室と世に姻族を為して,[一]今日立号雖尊可也,[二]実宜増脩謙節,輔けるに儒術を以ってして,遊不急之務めを省き去って,廬第無益之飾りを割減なさいますよう.夫れ君とは舟であります也,人は水であります也.[三]臣は舟に乗る者でありまして也,将軍兄弟はを操る者であります也.若し能く平志畢力し,以って度すに元元なれば,所謂福というものであります也.其の怠たる如きは,将に波濤に淪するでしょう.慎しまないではいられましょうか乎!夫れ徳とは祿を称えないもの,猶も墉之趾を鑿って,以って其の高きを益すものです.豈に力を量り功を審らかにして固め之道を安んじえましょうか哉?凡そ諸宿猾、酒徒、戲客は,皆耳に邪声を納れ,口は諂言を出すものです,甘心が逸遊すれば,不義を唱造いたしましょう.亦た宜しく貶斥なさって,以って不軌を懲らしめられますよう.梁冀等に令しまして深く得賢之福,失人之累をを思わせくださいますよう.又在位素餐,尚書は職を怠り,有司は違いに依って,糾察を肯うこと莫く,故に陛下を使って諂諛之言を専ら受けさせることとなっていますが,戸牖之外を聞かないこととなっています.臣は誠に阿諛には福が有り,深言には禍が近づくことを知っています,(そういう状況ですのに)豈に敢えて心を隠して以って誅を避けようとするのを責められましょうか乎!臣は辺遠に生長し,紫庭に渉らんことを希いました,

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守りを失うのを怖慴しておりまして,言うに心を尽くさないしだいです.

[一]梁商の女<むすめ>が順帝の后と為った,后の女弟も又桓帝の后と為った.梁冀は即ち梁商の子である,故に曰く代姻なのである也.

[二]可猶宜也.

[三]家語孔子曰く:「夫れ君とは舟である也,人は水である也.水は舟を載せる可く,亦た以って舟を覆さん.君は此を以って危うきを思えば,則ち知る可きである也.」

梁冀は其の己を刺すことに忿ると,皇甫規を以って下第と為したため,郎中を拝した.疾に託して免じられて帰ると,州郡は梁冀の旨を承り,幾らもたたず再三にわたって死者へと陥れられた.遂に詩、易を以って教授し,門徒三百余人となり,積もること十四年となった.後に梁冀が誅を被ると,旬月之間に,禮命(礼を尽くした命)が五つも至ったが,皆就かなかった.

時に泰山の賊である叔孫無忌が郡県を侵し乱したため,中郎将の宗資が之を討ったが未だ服さなかった.公車で皇甫規を特徴すると,泰山太守を拝した.皇甫規は官に到ると,広く方略を設けたため,寇賊は悉く平らげられた.延熹四年秋,叛いた羌の零吾等が先零の別種と与して関中を寇鈔したため,護羌校尉の段熲が坐して徴された.[一]後に先零諸種が陸梁し,営塢を覆し没した.[二] 皇甫規は素より悉羌事,志自奮,乃ち上疏して曰く:「臣は任を受けてより,志は竭して愚鈍であり,実にョんだのは兗州刺史牽之清猛であり,中郎将宗資之信義でありました,節度を承るを得て,幸いにも咎も誉れも無くすみました.今や猾賊は滅びに就き,泰山は略平されました,復して聞きますに羌が並んで皆反逆したとか.臣は邠岐に生長しまして,年は五十有九となります,昔郡吏と為って,叛羌を再更しましたおり,籌に其事を豫りましたが,中に誤り之言が有りました.臣は素より固疾有り,犬馬の歯が窮まるを恐れ,大恩に報いないのを恐れます,願わくば冗官を乞い,単車一介之使を備えて,三輔を労わり来て,宣国威澤(国威を宣揚し),地形兵埶を習う所を以ってして,諸軍を佐助したいとおもいます.臣は孤危之中に窮居して,郡将を坐して観ること,已に数十年となります矣.鳥鼠から東岱に至るまで,其の病は一つです也.[三]猛敵を力求するは,清平に如かず;勤めて呉、孫を明るくするも,未だ法を奉じることない若きです.[四]前の変は未だ遠からず,臣は誠に之を戚としております.[五]是は以って職を越え,其の區區を尽くすものです.」

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[一]段熲が羌を撃ったが,涼州刺史郭閎が兵を留めて進まなかったことを為したことに坐して獄に下された.

[二]説文に曰く:「塢は,小障である也.一に曰く庳城である也.」音は烏古反.

[三]郡将とは,郡守のことである也.鳥鼠は,山名である,今の渭州西に在る,即ち先零羌が寇鈔した処である也.東岱とは泰山を謂う,叔孫無忌が反した処である也.皆郡守由に綏撫を加えなかったため,使って反叛させるを致した,其疾は同じなのである也.

[四]呉起は,(春秋戦国時代の)魏の将である也.孫武は,(春秋戦国時代の)呉の将である也.猛(敵)[将]を求める若くは,青平之政を以ってして撫するに如かずと言うことである;兵書を明習するは,郡守が法を奉じるに如かず,之を使えば反する無し也(そうすればもともと反することはおきないのである).

[五]戚は,憂である也.前の変とは羌が反したことを謂う.

冬に至って,羌は遂に大いに合わさり,朝廷は為に憂えた.三公は皇甫規を挙げて中郎将と為した,(皇甫規は)持節して関西の兵たちを監ると,零吾等を討ち,之を破った,斬首すること八百級であった.先零諸種の羌は皇甫規を威信により慕ったため,相勧めあって降った者十余万となった.明くる年,皇甫規は因って其の騎を発する(徴発する)と共に隴右を討ったが,而して道路は隔絶しており,軍中に大疫でて,死者は十に三四ともなった.皇甫規は親しく菴廬に入ると,将士を巡視したことから,三軍は感悦した.東羌は遂に使いを遣わして降ることを乞い,涼州は復た通じることとなった.

是に先んじて安定太守の孫受取し狼籍し,属国都尉の李翕、督軍御史の張稟が降った羌の多くを殺し,涼州刺史の郭閎、漢陽太守の趙熹は並んで老弱で職を任されるに堪えなかったのに,而して皆倚恃権貴(権力や富貴を恃んで),法度を遵守しなかった.皇甫規は州界に到ると,悉く條じて其の罪を奏したため,或いは免じられ或いは誅された.羌人は之を聞いて,翕然として善に反った.沈氐の大豪である滇昌、飢恬等の十余万口は,復た皇甫規を詣でると降った.

皇甫規は出身すること数年,持節して将を為し,を擁し功を立てると,郷里に還督したが,既に它に私惠無く,而して多くが挙奏する所となり,又宦官を悪み絶たんとしたが,交わり通じることに与しなかった,是に於いて中外は並んで怨み,遂に共に皇甫規を貨賂羌(羌との間で贈賄している)と誣したため,令其文降.[一]天子璽書誚讓相属.皇甫規は免れざるを懼れ

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,上疏して自ら訟すると曰く:「四年之秋<とき>,戎醜が蠢し,[二]爰自西州は,侵及び陽,[三]旧都は懼駭し,朝廷は西顧されました.明らかな詔あって以って臣を愚駑となさらず,軍を急使して道に就かせました.[四]幸いにも威靈を蒙りまして,遂に国命を振るわせ,羌戎諸種は,大小が稽首して,輒ち移書営郡し,以訪誅納,[五]省く所となった費は,一億以上です.忠臣之義を為すことを以ってするに,敢えて労を告げることはしませんでした,[六]故恥以片言自及微.然比方先事,庶免罪悔.[七]前に州界を踐じましたときには,先ず郡守孫,次いで属国都尉李翕、督軍御史張稟のことを奏するに及びました;師を旋らせ南征すると,また涼州刺史郭閎、漢陽太守趙熹のことを上し,其の過惡を陳べて,執拠大辟.凡そ此の五臣は,党を支えて国を半ばとし,其の余りの墨綬について,下は小吏に至るまで,連なり及んだ所の者は,復た有すること百余となりました.吏は将之怨みに報いんことに託し,子は父之恥を復さんことを思い,贄を載せて車を馳せさせ,糧を懐いて歩み走り,豪門と交搆して,謗讟を競って流し,臣が諸羌に私報して,其の銭貨を謝したと云っているのです.[八]若し臣が私財を以ってするなら,則ち家には擔石無かったでしょう;物が出たのは官に於いての如きなれば,則ち文簿にて考じること易いことです.臣愚を惑いに就かせたのは,前世で尚も匈奴に宮姫を以って遣わし,[九]烏孫を公主を以って鎮めた,と言うが如きを信じたからです.[一0]今臣は但費千万のみで,以って叛いた羌を懐かせたのです.則ち良臣之才略でありまして,兵家之貴ぶ所です,将に何の罪が有るのでしょう,義に負し理を違えてはいないでしょうか乎?永初より以来,将が出るは少なからず,軍が覆されたことは五つを有し,動いた資は巨億となります.有旋車完封,寫之権門(車を旋して封を完うするを有し,之を権門に寫し),[一一]而して名成って功立てば,爵封を厚く加えるものでしょう.今臣は本土を還督しておりまして,諸郡をY挙し,交わりを絶って親しい関係のものを離しております,旧故を戮辱しているわけで,謗あって陰ながら害うものでありますが,固より其は宜<うべな>うものです也.臣は汙穢と雖も,廉汲ヘ聞かず,今や覆没に見えて,恥と痛みは実に深いものです.伝が称えるのは『鹿は死して音を擇さず』,謹しんで昧略を冒して上するしだいです.」[一二]

[一]文簿を以ってして虚降させる,真心に非ず也.

[二]蠢は,動である也.は,乖である也.

[三]県名である,安定郡に属する,其の故城は今の原州平源県南に在る也.

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[四]就猶上也.

[五]訪は,問うである也.皇甫規が羌種は既に服したため,臣は即ち軍営及び郡に,誅殺と納受多少之数目を併せて勘問するよう移書したと言ったことである也.

[六]詩の小雅に曰く:「密かに従事する勿れ,敢えて労を告げず.無罪無辜,讒口あってたり.」

[七]先の事とは前の輩の敗将を謂う也.

[]謝猶讎也.

[]元帝賜呼韓邪単于待詔掖庭王嬙為閼氏也.

[一0]武帝は江都の王建の女<むすめ>である細君の妻を以ってして烏孫王昆莫の為に夫人とした也.

[一一]言うに覆軍之将は,師を之に旋らして日く,珍寶を多く載せ,完全に封印して,権門に便入せん.

[一二]左伝曰く「鹿死不擇音,挺而走險,急何能擇」也.

其年冬,徴されて還ると議郎を拝した.論功で当に封じられるべきとなった.而して中常侍の徐璜、左は欲従求貨,賓客を何度も遣わして功状を問うに就いたため,皇甫規は終に荅しなかった.徐璜等は忿怒すると,前の事を以って陥れると,吏に於いて之を下した.官属は賦斂を欲して謝を請うたが,皇甫規は誓うや而して聴きれず,遂に以って余寇が絶えなかったために,坐して廷尉に繋がれ,論じられて左校に輸された.[一]諸公及び太学生の張鳳等三百余人が闕に詣でて之を訟した.赦しに会い,家に帰った.

[一]漢官儀に曰く,左校署は将作大匠に属する也.

徴されて度遼将軍を拝し,営に至って数月すると,上書して中郎将張奐を薦めて以って自らの代わりとした.曰く:「臣が聞きますに人には常俗無く,而して政は乱を治めることに有ると;兵には強弱無く,而して将の能否が有るのだと.伏して見ますに中郎将の張奐は,才略は優れたものを兼ねておりまして,宜しく元帥に正して,以って望に従われますように.若し猶も愚臣のことを宜しく軍事を充たす者と謂いますなら,願わくば冗官を乞いまして,以って張奐を副と為してくださいますよう.」朝庭は之に従うと,張奐を以って代えて度遼将軍と為し,皇甫規は使匈奴中郎将と為った.

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張奐が遷って大司農となるに及び,皇甫規は復して代わって度遼将軍と為った.

皇甫規はその為人<ひととなり>は多意筭したが,以って大位に連なり在ってより,身を退きたいと欲して第を避け,何度も病を上したが,聴きいれることに見えなかった.友人で上郡太守の王旻が喪で還ることに会うと,皇甫規は縞素して越界し,下亭に到って之を迎えた.客が并州刺史胡芳に密告したため,因って令するに皇甫規は軍営を遠し,禁憲を公に違えたと言って,当に急に挙奏した.胡芳曰く:「威明<皇甫規のあざな>は塗に仕えたのに第を避けようと欲した,故に我を激発しただけである耳.[一]吾が当に為すべきは朝廷が才を愛することだというのに,何ぞ能く此の子の計を申すものだろうか邪!」遂に問う所無かった.党事が大いに起つに及んで,天下の名賢は多くが逮に染まるに見えたが,皇甫規は名将と為ったと雖も,素より誉れは高くなかった.自以西州豪桀(自ら西州の豪傑を以ってしていたため),豫ること得なかったことを恥じると,乃ち先ず自ら上言した:「臣は前に故大司農張奐を薦め,是が附党に附きました也.又臣は昔左校に論輸された時,太学生の張鳳等が上書して臣を訟してくれましたが,是は党人が附く所と為ったものです也.臣は宜しく之に坐そうとおもいます.」朝廷は知っていたが而して不問とした,時の人は以って皇甫規を賢と為した.

[一]言うに第に帰るのは宦之塗に仕えるを避けんと欲したのである也.

事に在ること数歳,北辺は威に服した.永康元年,徴されて尚書と為った.其夏に日食あり,詔あって公卿は賢良方正を挙げることとされ,得失を下問された.皇甫規は対して曰く:「天の王者に於けるは,如君が臣に於けるかの如し,父が子に於けるかの如しです也.災妖を以ってして誡めとし,使って福祥に従わせようとされているのです.陛下は八年之中,大獄を三断なさいました,[一]一つは内嬖を除したもので,[二]再びは外臣を誅したものでした.[三]而して災異が猶も見え,人情が未だ安んじないのは,殆んど賢愚が進退し,威刑が加えられる所に,其の理に非ざるものを有しているからです也.前の太尉の陳蕃、劉矩は,[四]忠謀たること世に高かったのに,里巷に在ることを廃されました;劉祐、馮緄、[五]趙典、尹勳は,正直であったため多くに怨まれ,家門を流放されることとなりました;李膺、王暢、孔翊は,身を潔く禮を守りましたが,終に宰相之階を無くしました.至って鉤党之釁に於いてや,事は端無きに起こり,[六]賢を虐げ善を傷つけ,哀は無辜に及んでいます.今や改めて善政を興すなら,易きこと手を覆すに於けるようなものですのに,而して臣は杜口(口を閉ざし),鑒して前の害を畏れ,互いに相瞻顧して(互いに陥れられまいかと疑心暗鬼となって),言を正すこと肯うもの莫いようすです.伏して願いますに陛下には暫らく聖明を留めおきくださり,謇直を容受なさいますよう,そうすれば則ち前の責も弭する可く,後の福が必ずや降ることでしょう.」対奏したが,省みられなかった.

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[一]謂うに梁冀を誅し,ケ万、ケ会を誅し,李膺等党事を誅したことである也.

[二]無徳而撼H嬖とは,謂うにケ皇后を廃したことである也.

[三]桂陽太守任胤を殺し,南陽太守成メ、太原太守劉質等を殺したことである也.

[四]漢官儀に曰く:「劉矩は字を叔方という.」

[五]古本反.

[六]鉤は,引である也.謂うに李膺等の事である也.

皇甫規を遷して弘農太守とし,封じて壽成亭侯とした,邑二百戸であったが,封を讓って受けなかった.再び護羌校尉に転じた.熹平三年,疾を以って召還され,未だ至らないうちに,穀城にて卒した,年は七十一であった.著した所の賦、銘、碑、讚、禱文、弔、章表、教令、書、檄、牋記は,凡そ二十七篇あった.

論に曰く:孔子は称える「其言之不怍,則其為之也難」.[一]皇甫規之言を察すると,其心は不怍というものである哉!夫れ其の己を審らかにして則ち祿を干し,賢に見えれば則ち位を委ねる,故に祿を干しても貪りを為さず,而して位を委ねても讓を求めなかった;己を称えるに伐を疑わず,而して人に讓るに情を懼れること無かった.故に能く戎狄に於いて功成って,身は邦家に於いて全うしたのである也.

[一]怍,也.

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【張奐伝】

張奐は字を然明という,敦煌(酒)[淵]泉の人である也.[一]父は張惇,漢陽太守と為った.張奐は少くして三輔に遊び(遊学し),太尉の朱揩ノ師事すると,歐陽(学派の)尚書を学んだ.初め,牟氏の章句は浮辞繁しく多く,[二]四十五万余言を有していたが,張奐は減らして九万言と為した.後に大将軍梁冀の府に辟招され,乃ち桓帝に上書し,其の章句を奏すると,詔が東観に下された.疾を以って官を去り,復して賢良に挙げられると,対策で第一となり,擢ばれて議郎を拝した.

[一](酒)[淵]泉は,県名である,地には泉水が多い,故城は今の(陽)[瓜]州晉昌県東北に在る也.

[二]時に牟卿は張堪に於いて書を受けると,博士と為った,故に牟氏章句を有するのである.

永壽元年,安定属国都尉に遷った.初め職に到ると,而して南匈奴の左薁鞬台耆、且渠伯徳等七千余人が美稷を寇し,東羌も復して種を挙げて之に応じた,而して張奐は壁となるのに唯二百許人を有するのみであったが,聞くや即ち兵を勒して而して出た.軍吏は以って為すに力は敵わないとして,叩頭して争って之を止めようとした.張奐は聴きいれず,遂に進んで長城に屯すると,兵士を収め集めると,将の王を遣わして東羌を招き誘わせると,因って亀茲に拠り,[一]使って南匈奴に東羌と交わり通じることを得させなかった.諸豪は遂に相率いて張奐と和親すると,薁鞬等を共に撃ち,連戦して之を破った.伯徳は惶恐すると,其を将いて降ったため,郡界は以って寧んじた.

[一]亀茲の音は丘慈,県名で,上郡に属する.前書の音義に曰く「亀茲国の人が来て之に降ったため,因って以って県の名とした」也.

羌(族)の豪帥は張奐に恩徳を感じ,馬二十匹を上らせてきた,先零(羌の)酋長も又金鐻八枚を遣わしてきた.張奐は並んで之を受けると,[一]而して主簿を諸羌前に於いて召すと,酒を以って地に酹して曰く:[二]「馬を使うに羊の如くして,以って入れ;金を使うに粟の如くして,以って懐に入れず.」悉く金馬を以って之に還した.[三]羌は性は貪にして而して吏が清いことを貴ぶもので,前に有八都尉が率いて財貨を好むと,患い苦しむ所を為したが,及んで張奐が身を正して己を汲ュしたため,威化が大いに行われた.

[一]郭璞は山海経に注して云うに:「鐻の音は渠,金(食)[銀]器の名である.」未だ形制は詳らかでない也.

[二]酒を以って地を沃すこと之を酹と謂う.音は力外反.

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[三]羊の如し粟の如しとは,多いことの喩えである也.

遷って使匈奴中郎将となった.時に休屠各[一]及び朔方の烏桓が並んで反叛を同じくし,度遼将軍の門を焼くと,[二]引屯赤阬,火相望.兵大いに恐れ,各自亡去せんことを欲した.張奐は帷中に坐して安んじると,弟子と講誦して自若としていたため,軍士は稍して安んじた.(そこで)乃ち潜かに烏桓を誘い陰ながらこれと和み通じると,遂に使って屠各渠帥を斬らせると,其のを襲って破った.諸胡は悉く降った.

[一]屠の音は直於反.

[二]時に度遼将軍が五原に屯していた.

延熹元年,鮮卑が辺を寇したため,張奐は南単于を率いて之を撃ち,斬首すること数百級となった.

明くる年,梁冀が誅を被ると,張奐は故吏であることを以って免官となり禁錮とされた.張奐は皇甫規と友善していた,張奐は既に錮(禁錮)を被っていたが,凡そ旧交していた諸々のひとたちは敢えて言を為すもの莫かった,唯皇甫規のみは薦挙すること前後七上となった.家に在ること四歳,復して武威太守を拝した.徭賦を平らに均しくし,率試U敗,常に諸郡で最たるものと為った,河西は是由に而して全うすることとなった.其の俗は妖忌が多く,凡そ二月、五月に産子で父母と同月に生れるに及んだ者は,悉く之を殺した.張奐は示すに義を以ってして方じ,賞罰を厳しく加えたため,風俗は遂に改められ,百姓は生まれると立祠を為した.尤異に挙げられて,遷って度遼将軍となった.数載の間,幽、并は清静であった.

九年春,徴されて大司農を拝した.鮮卑は張奐が去ったと聞くと,其夏,遂に南匈奴、烏桓を招き結んで数道から塞に入るに,或いは五六千騎,或いは三四千騎でおこない,縁辺九郡を寇掠すると,百姓を殺略した.秋,鮮卑は復た八九千騎を率いて塞に入り,東羌を誘い引きつれるとこれと共に盟詛した.是に於いて上郡の沈氐、安定の先零など諸種が共に武威、張掖を寇したため,縁辺は大いに其の毒を被ったのである.朝廷は以って憂いを為したために,張奐を復して拝すると護匈奴中郎将と為し,九卿の秩を以って幽、并、涼三州及び度遼(度遼将軍)、烏桓(烏桓校尉)の二営を督させ,[一]刺史、二千石の能否を兼察させた,(張奐への)賞賜は

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甚だ厚かった.匈奴、烏桓は張奐至るを聞くや,因って相率して還って降ったが,それは凡そ二十万口となった.張奐は但、其の首惡を誅するのみとし,余りは皆之を慰め納れた.唯一鮮卑のみは塞を出て去った.

[一]明帝永平八年,初めて度遼将軍を置くと,五原郡曼県に駐屯させた,漢官儀に曰く「烏丸校尉は上谷郡ィ県に駐屯する」,故に曰く二営なのである.

永康元年春,東羌、先零の五六千騎が関中を寇して,祋を圍<かこ>み,雲陽を掠した(掠奪した).夏,復た両営を攻め没とすと,千余人を殺した.冬,羌(族の)岸尾、摩等が[一]同種を脅して復た三輔を鈔した(荒らしまわった).張奐は司馬の尹端、董卓を遣わすと並んで撃ち,大いに之を破ると,其の酋豪を斬り,首虜すること万余人となったため,三州は清定された.論功あって当に封じられるべきであったが,張奐は宦官に事<つか>えなかったため,故に賞は遂に行われなかった,唯銭二十万のみを賜り,家の一人が叙任をうけて郎と為った.(しかし)並んで辞して受けず,而して弘農(郡)の華陰に属して徙ることを願いでた.旧制では辺人が内に移ることは出来なかったが,唯張奐のみは功績に因って特に聴きいれられ,故に始めに弘農の人と為ったのである焉.

[一]の音は必薛反.

建寧元年,振旅して而して還った.時に竇太后が臨朝されており,大将軍竇武は太傅陳蕃と宦官を誅することを謀っていたが,事は泄れ,中常侍の曹節等らは中に於いて乱を作ると,以って張奐を新しく徴したが,(張奐は)本より謀を知らずにいた,(曹節等らは)制を矯めると張奐を使って少府の周靖とともに五営の士を率いさせて竇武を圍ませた.竇武は自殺し,陳蕃は因って害に見えた.張奐は少府に遷り,また大司農を拝すると,功以って侯に封じられた.張奐は曹節に(恩を)売る所と為ったことを深く病み,上書して固く讓ると,印綬を封還し,卒不肯当.

明くる年の夏,青蛇が御坐の軒前に於いて見え,[一]また大風雨雹,霹靂が樹を引き抜いたため,詔が使いされて百僚に各々災いが応じたところを言わせた.張奐は上疏して曰く:「臣が聞きますに風が号令を為すと,動物は気を通じるとか.[二]木が火に於いて生まれれば,相須く乃ち明らかとなるもの.蛇は能く屈申して,龍に配され騰蟄するものです.[三]順うは休徴を為すに至り,逆うは殃咎を為すが来るとか.陰気が専ら用いられると,則ち凝精して雹を為すのです.故の大将軍竇武、太傅陳蕃は,或いは志したのは社稷を寧んじようとすることで,或いは方じたのは回らざるを

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直そうとしたものでしたが,前には以って讒(言)が勝ったために,並んで誅戮に伏してしまい,海内は默默として,人は震憤を懐いたものでした.昔周公が葬られたとき禮するに如かずとすると,天は乃ち威を動かされたのです.[四]今や竇武、陳蕃が忠貞である(ことは明らかとなっておりますのに),未だ明らかな宥しを被っておりません,妖眚が来たるのは,皆此が為すものなのです也.宜しく急ぎ改葬を為して,家属を徙還なさいますよう.其の禁錮に従坐したものにつきましても,一切蠲除されますように.また皇太后は南居に居ると雖も,而して恩禮には接しておりません,朝臣には言うもの莫く,遠近は失望しております.宜しく大義を思って之を復して報い顧みられんことを.」[五]天子は張奐の言を深く納れると,以って諸黄門常侍に問うた,左右は皆之を惡んだが,帝は自ら従うを得なかった.

[一]軒,殿檻闌板也.

[二]翼氏風角に曰く:「凡そ風というものは天の号令であり,譴を以って人君に告げる所の者である也.」

[三]易に曰く「龍蛇の蟄するや,以って身を存せんとす也.」慎子曰く「騰蛇は霧に遊び,飛龍は雲に乗る,雲罷めて霧散すれば,蚯蚓と同じとなる」也.

[四]尚書大伝:「周公が薨じるや,成王は之を葬るに成周に於いてを欲したが,天は乃ち雷雨するに風を以ってし,禾即尽偃,大木斯拔,国人大恐.王は周公を畢に葬り,敢えて臣ならざるを示した也.」

[五]顧は,旋視である也.復は,反覆である也.小雅に曰く:「父や兮我を生む,母よ兮我を鞠す,我を顧みて我を復し,我を腹に出し入れる.」

張奐を転じて太常とした,尚書の劉猛、刁韙、良と同じく王暢、李膺を薦めると三公之選に参じさせる可きだとしたが,而して曹節等は其言を彌疾し,遂に詔を下して之を切責した.張奐等は皆自ら廷尉に囚われ,数日して乃ち出るを得たが,並んで以って三月の俸贖罪となった.司隸校尉の王寓は,宦官に於いて出た(出世した),(王寓は)公卿に寵を借りようと欲し,以って薦挙を求めると,百僚は畏れ憚って,許諾しないものは莫かった,唯張奐のみが独り之を拒んだ.王寓は怒ると,此れに因って遂に党罪を以って陥れたため,(張奐は)禁錮となり田里に帰った.

張奐は前に度遼将軍と為ったおり,段熲と羌を撃つのを争ったことがあっため,相平らかでなかった.及んで段熲が司隸校尉と為ると,張奐を逐って敦煌に帰そうと欲して,将に之を害さんとした.

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張奐は憂懼すると,記を奏じて段熲に謝して曰く:「小人は不明で,州を将いるに過ぎるを得,千里に命を委ねられて,情を以って相帰しました.[一]足下は仁に篤く,其の辛苦を照らされ,人を使うに未だ反せず,復して郵書を獲ました.恩は分明を詔しまして,前には寫白を以ってし,而して州は切促を期して,郡県は惶懼し,屏営は企みを延ばし,側待して帰命しました.父母は朽ちて骨となり,孤は魂を相託し,若しャ憐を蒙りまして,壹惠咳唾,則ち黄泉に澤流し,施しては冥寞に及びましたこと,この張奐が生死で報いを塞ぐを能う所ではありません.夫れ毛髮之労は無く,而して人に丘山之用を求めんと欲する,此は淳于髠が拍髀して天を仰ぐと而して笑う者とした所以であります也.[二]誠知言必見譏,然猶未能無望.何者?(どういうことでしょうか?)朽ちた骨は人に於いて益すること無いのに,而して文王は之を葬りました;[三]死んだ馬は復して用いる所の無いものなのに,而して燕の昭(公)は之を寶いました.[四]党は文、昭之徳と同じくするもの,豈に大ならざるものでしょうか哉![五]凡そ人之情というものは,冤れれば則ち天を呼び,窮まれば則ち心を叩くものです.今天を呼べど聞かれず,心を叩けど益無いなら,誠に自ずと傷み痛みましょう.聖世を倶に生き,獨り人に匪ざるを為す.[六]孤が之を人に微すれば,告訴する所無いものです.如不哀憐,便為魚肉.[七]企心東望,無所復言.」段熲は剛猛と雖も,書を省みると之を哀れみ,卒して忍ばなかった也.時に禁錮となった者は多くが静かに守ること能わず,或いは死し或いは徙らん.張奐は門を閉じて出でず,徒千人を養い,尚書に記すこと難じて三十余万言を著した.

[一]漢官儀に曰く:「司隸は河南の雒陽を州部し,三輔、三河、弘農七郡を管轄とする.」張奐が段熲に於いて屈した所以であり,称えるに曰く「州将」である焉.

[二]拍の音は片百反.髀の音は歩弟反.史記では,楚が兵を発して伐斉を伐した,斉の威王は淳于髠を使って百金,車馬十駟を齎させると,之で趙に救いを請わせた.淳于髠は天を仰ぐや大いに笑うと,冠纓索絶した(使者として誂えた装束をその場で解いてしまった).王曰く:「先生は之を少いというのですか乎?」髠曰く:「今者臣が東方に来たるに従ったおり,見道の傍らに禳田を有する者に見えました,一豚を操じ,一盂の酒をして,而して祝して曰く:『甌婁なること篝を満たせよ,汙する邪、車を満たせよ,五穀よ蕃く熟せよ,穰穰として家を満たせよ.』臣は其の所持する者が狹いのに,求める所の者が奢っているのを見ました,故に笑ったのです.」是に於いて王は乃ち益すに黄金千鎰、白璧十雙、車馬百駟を以ってした也.

[三]新序に曰く:「文王は靈台を作らんとするに,掘ると死人の骨を得たため,吏は以って聞こえさせた.文王曰く:『之を葬らん.』吏曰く:『此は主無きなり矣.』文王曰く:『天下を有する者は,天下之

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主ということになろう也;一国を有する者は,一国之主であろう也.寡人は固より其の主であろう焉.』吏に令すると棺を以って之を葬らせた.天下は之を聞くや,曰:『文王は賢たり矣,澤して及んで朽骨する,又況んや人においてや乎.』」

[四]新序曰く:「燕の昭王が即位すると,身を卑くして賢を求めた.郭隗に謂いて曰く:『斉は孤国之乱に因って而して燕を襲い,然して賢士を得てこれと国を共にした,以って先王之醜を雪<すす>がんとするは,孤之願いである也.先生視可者(先生は物事の道理が見えるお方である),得身事之.』隗曰く:『臣が聞いたことには古之人君に,千金を以って千里の馬を求めさせた者が有りましたが,三年しても得ませんでした,涓人が君に於いて言うに之を求めるを請わせんとしましたため,君は遣わしました焉.三月して,千里の馬を得るも,馬は已に死んでいたため,乃ち五百金を以って其の首を買い以って報じたそうです.君は大いに怒って曰く:「求めた所の者は生ける馬である,安んぞ死んだ馬を市して而して五百金を損なうや乎?」対して曰く:「死んだ馬でも且つ之を市しました,況んや生ける馬においてや乎?天下は必ずや以って王に能く馬を市に為させん,馬は今にも至りましょう矣.」年を出でずして,千里の馬で至った者は二つにもなったとのこと.今王は誠に必ず士を致さんと欲するなら,この隗より始めるに従いなさいませ.隗にして且つ事えるに見えるならば,況んや賢なること隗に於ける者はどうでしょう乎?』是に於いて王は郭隗の為に宮を築かせ而して之を師とした.楽毅が魏自<よ>り往き,鄒衍が斉自り往き,劇辛が趙自り往くこととなり,士は争って燕に帰した焉.」

[五]党音佗朗反.

[六]詩の小雅に曰く「哀しきかな我は夫を征かせ,独り為して人に匪ざる」也.

[七]言将為人所呑噬也.

張奐は少なくして志節を立て,嘗て士友に言って曰く:「大丈夫は処世するに,当に辺境に功を立て国家を為すべきだ.」及んで将帥と為ると,果たして勳名を有すこととなった.董卓は之を慕うと,使って其の兄に縑百匹を遣わした.張奐は董卓の為人を惡むと,絶って而して受けなかった.光和四年卒した,年七十八であった.遺命して曰く:「吾は仕進して前後,十要銀艾したが,[一]光に和むこと能わず塵を同じくし,讒邪して忌む所を為してしまった.[二]通塞命する也,始めと終わりは常なるものである也.但地厎冥冥,長無曉期,而復纏以\|,牢以釘密,為不喜耳.幸有前窀,朝殞夕下,措屍靈,幅巾而已.奢非晉文,[三]儉非王孫,[四]推情従意,庶無咎吝.」諸子は之に従った.武威には多くの

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祠が立てられることに為り,世世絶えなかった.銘、頌、書、教、誡述、志、対策、章表など著した所のものは二十四篇あった.

[一]銀印克のことである也,艾草を以って之を染める,故に曰く艾とする也.

[二]老子曰く「其光に和み,其塵を同じくす」也.

[三]陸翽鄴中記に曰く:「永嘉末,斉の桓公の墓を発すると(発掘すると),水銀の池に金蠶数十箔,珠襦、玉匣、上\を得たが数えるを勝ることできなかった.」左伝に曰く:「晉の文公が王に朝するや,隧せんことを請うた.王は許さなかった,曰く:『王は章らかである也,未だ徳を代わること有さずして而して二王を有するが,亦た叔父之惡む所である也.』」晉文既に臣たるに,王禮を用いんことを請うた,是は其の奢りである也.

[四]武帝の時に,楊王の孫が死ぬと,誡其子為布囊盛屍,入地七尺,脱去其囊,以身親土.

長子は張芝,字を伯英といい,最も名を知られた.[一]張芝及び弟の張昶,字は文舒は,並んで草書を善くした,今に至るまで之を称え伝えられている.

[一]王愔文志曰:「張芝は少なくして操を高く持ち,名臣の子を以って学に勤めて,文は儒宗を為し,武は将表を為した.太尉が辟招すると,公車が道に徴されること有ったが,皆至らなかったため,張有道と号した.草書を尤好し,崔、杜之法を学び,家の衣帛は,必ず書して而して後に練られた.池に臨んでは書を学び,水を墨と為した.筆を下せば則ち楷則を為した,号不暇草書,為世所寶,寸紙も遺さなかった,韋仲将は之を謂うに『草聖』とした也.」

初め,張奐が武威太守と為ると,其の妻は懐孕したが,夢で張奐が印綬を帯びて樓に登り而して歌うのをみた.之を占者に訊ねると,曰く:「必ずや将に男を生むでしょう,復た茲邦に臨んで,命は此に数えて終えるでしょう.」既に而して生まれた子は張猛,建安中に以って武威太守と為り,刺史の邯鄲商を殺すと,州兵は之を圍むこと急であったため,張猛は擒われに見えるを恥じて,乃ち樓に登ると自焼して而して死んだ,卒したのは占いが云う如しであった.

論に曰く:郷之封より,中官は世に盛んとなり,[一]暴すること数十年間を恣としたため,四海之内で,切歯憤盈しないもの莫く,兵を其族に於いて投げいれんことを願わないもの莫かった.陳蕃、竇武は義を奮わせて謀を草し,天下に徴会したため,名士は共に聞く所を識るを有した也,而して張奐は豎子に欺かれるに見え,戈を揚げて以って忠

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烈を断ってしまった.[二]毒を恨んだことが心に在ったと雖も,爵を辞し咎を謝った.詩は云う:「其の泣を啜る矣,何をか嗟するに及ばん矣!」[三]

[一]宦者の鄭郷侯に封じられた也.

[二]張奐は曹節等の矯制を被り,五営の士を使って率いると陳蕃、竇武等を圍んで殺した.

[三]詩の国風である也.啜は,泣貌である也,音は知劣反.

【段熲伝】

段熲は字を紀明といい,武威(郡)姑臧(県)の人である也.其先出鄭共叔段,西域都護であった会宗之従曾孫である也.[一]段熲は少くして弓馬を便習したが,尚も遊俠にふけると,財を軽んじて賄いした,長じては乃ち折節して古学を好んだ.初め孝廉に挙げられると,憲陵園の丞、陽陵の令と為り,[二]在した所では[有]能く政あった.

[一][会]宗は字を子松といい,天水(郡)上邽(県)の人である,元帝の時に西域都護と為った.死ぬと,城郭諸国は為すに喪を発して祠を立てた.

[二]憲陵は,順帝陵である;陽陵は,景帝陵である.漢官儀に曰く「丞は秩三百石,令は秩六百石である」也.

遷って遼東属国都尉となった.時に鮮卑が塞を犯したため,段熲は即ち所領を率いて馳せて之に赴いた.既に而して恐賊は驚き去ったため,乃使驛騎詐齎璽書詔熲(乃ち段熲を詔するようにとの璽書を詐ってもうけると騎に驛させたうえで),段熲は道に於いて偽って退くと,還る路に於いて潜めて伏(兵)を設けた.(偽の璽書を騎で運んでいた使者を獲たため)虜は以って為すに信に然りとして,乃ち入って段熲を追った.段熲は因って大いに兵を縦にして,悉く之を斬獲した.璽書を詐したことで(罪に)坐して重刑に伏したが,以って功有ったとして司寇に論じさせることとなった.刑が竟ると,徴されて議郎を拝した.

時に泰山、琅邪の賊の東郭竇、公孫挙等は聚すること三万人となり,郡県を破壊したため,兵を遣わして之を討つことにしたが,年を連ねても克たなかった.永壽二

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年,桓帝は詔をくだして公卿に将に文武を有する者を選ばせようとし,司徒の尹(訟)[頌]が段熲を薦めたため,[一]乃ち拝して中郎将と為った.竇、挙等を撃つと,大いに破って之を斬り,獲首すること万余級となり,余党は降散した.段熲を封じて列侯と為し,銭五十万を賜ったほか,一子を叙任して郎中と為した.

[]漢官儀曰:「()[]字公孫,鞏人也.」

延熹二年,護羌校尉に遷った.焼当、焼何、当煎、勒姐等の八種羌が[一]隴西、金城の(城)塞を寇する事態に会ったため,段熲は兵及び湟中義従羌万二千騎を将いて湟谷から出ると,之を撃破した.追討して南に度河したが,それには軍吏の田晏、夏育を使って(兵を)募らせると先ず登らせ,索<ロープ>を懸けて相引かせ(て渡河し)た,羅亭に於いて復た戦い,之を大いに破り,其の酋豪以下二千級を斬り,生口万余人を獲た,虜は皆奔走した.

[一]姐の音は紫且反.

明くる年の春,余りの羌が復して焼何の大豪に与して張掖を寇し,鉅鹿塢を攻め没すと,属国の吏民を殺すとともに,又同種の千余落を招いて,兵を併せて段熲の軍に晨奔した.段熲は下馬して大いに戦い,日中に至ると,刀折れ矢は尽きたが,虜は亦も引き退いた.段熲は之を追うと,且つし且つ行き,晝夜(日夜を問わず)相攻め,肉を割いて雪を食らい,四十余日,遂に河首積石山に至った,塞を出ること二千余里である,焼何の大帥を斬り,虜五千余人を首にした.又兵を分けて石城羌を撃ち,斬首溺死者千六百人とした.焼当種の九十余口が段熲に詣でて降った.又雜種羌が白石に屯聚していたため,[一]段熲は復た進撃し,虜三千余人を首にした.冬,勒姐、零吾種が允街を圍み,[二]吏民を殺略したため,段熲は営を排して之を救うと,(勒姐、零吾種の)数百人を斬獲した.

[一]白石は,山である,今の蘭州狄道県東に在る.

[二]允の音はチ.街の音は階.

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四年冬,上郡の沈氐、隴西の牢姐、烏吾などの諸種羌が并涼二州を共に寇したため,段熲は湟中義従を将いて之を討った.涼州刺史の郭閎が其功を共に貪ろうとして,段熲軍を稽固して(猶も停め留めると),使って進むを得させなかった.[一]義従は役して久しく,郷旧を恋しがり,皆悉く反叛してしまった.郭閎が段熲に(於いて)その罪を帰したため,段熲は(罪に)坐して徴されて獄に下され,左校で輸作することとなった(労役に就いた).羌は遂に梁に陸すると,営塢を覆し没し,転じて相招結して,諸郡に唐突した,是に於いて吏人は闕を守って段熲を訟すること(無実と刑の軽減を訴えること)以って千を数えることなった.朝廷は段熲について郭閎が誣した所と為ったのを知り,其状を詔問した.段熲は但たんに謝罪するのみで,敢えて枉げたことを言わなかったため,京師では称えて長者と為した.(そうして)徒中に於いて起つと,復して議郎を拝し,遷って并州刺史となった.

[一]稽固は猶も停留するである也.

時に滇那等の諸種羌五六千人が武威、張掖、酒泉を寇すると,焼人廬舍した.六年,寇は埶して転じ盛んとなると,涼州は幾亡せんばかりとなった.冬,復た段熲を以って護羌校尉と為し,乗驛之職とした.明くる年の春,羌の封僇、良多、滇那等[一]の酋豪三百五十五人は三千落を率いて段熲に詣でてくると降った.当煎、勒姐種は猶も自らを屯に結んでいた.冬,段熲は万余人を将いて之を撃破すると,其の酋豪を斬り,虜四千余人を首にした.

[一]僇の音は良逐反,又力救反.

八年春,段熲は復た勒姐種を撃ち,斬首すること四百余級,降者二千余人とした.夏,軍を進めて当煎種を湟中に於いて撃ったが,段熲の兵は敗れ,圍を被ること(逆に囲まれること)三日,隠士の樊志張の策を用いて,師を潜ませて夜出ると,鼓を鳴らして還って戦い,大いに之を破り,首虜数千人とした.段熲は遂に窮追すると,山谷の間を展転とし,それは春から秋に及び,戦わない日は無く,虜は遂に飢えて困じるや敗れ散った,武威(郡)の間を北略しきったのである.

段熲は凡そ西羌を破って,斬首すること二万三千級,獲た生口は数万人,馬牛羊は八百万頭,降った者は万余落となった.段熲は都郷侯に封じられた,邑五百戸であった.

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永康元年,当煎の諸種が復た反し,合わさって四千余人となると,武威を攻めようと欲したため,段熲は復た鸞鳥に於いて追撃すると,之を大いに破り,[一]其の渠帥を殺害し,斬首すること三千余級,西羌は此に於いて弭定されたのである.

[一]鳥の音は爵,県名で,武威郡に属する,故城は今の涼州昌松県北に在る也.

而して東羌先零等は,征西将軍馬賢を覆没してから(自)後,朝廷には討つこと能わなかったため,遂に三輔を何度も寇擾させた.其後は度遼将軍の皇甫規、中郎将の張奐が(懐柔策に出て)連年にわたり之を招いてきたが,既に降っても又叛くありさまであった.桓帝は段熲に詔問して曰く:「先零東羌は反逆を造惡している,而して皇甫規、張奐は各々強を擁したのに,輯ち定まる時はなかった.段熲には兵を移して東を討ってもらいたいと欲するが,未だ其の宜しきを識らない,術略を参思できないだろうか.」段熲は因って上言すると曰く:「臣が伏して見ますに先零東羌は何度も叛逆したと雖も,而して皇甫規に於いて降ったのは,已に二万許落となっておりまして,善惡は既に分かたれたものです,余寇は幾らも無いでしょう.今、張奐が躊躇して久しく進まないでいるのは,当に慮は外では離れていても内では合しているため,兵が往けば必ずや驚かすだろうからです.且つ冬より春まで踐えて,屯を結んで散らないでおりまして,人畜は疲羸しています,自亡之埶というものです,そこで徒って更めて招降(降伏を呼びかければ)すれば,坐して強敵を制するのみとなりましょう耳.臣が以って為しますに狼の子は野に心あるもの,恩を以って納めるのは難しいものです,[一]埶窮して服したと雖も,兵が去れば復た動くでしょう.唯当に長矛で脅しを挟み,白刃を頸に加えるべきであるだけです耳.計りますと東種の余す所は三万余落,塞内の近くに居り,路は險折無く(険阻でも屈折しているわけでも無く),燕、斉、秦、趙の従横之埶を有するに非ず,而して久しく并、涼を乱し,累ねて三輔を侵しましたが,西河、上郡では,已に各々が内に徙り,安定、北地が,復して単独で危うきに至っております,雲中、五原から,西して漢陽に至るまでの二千余里については,匈奴、種羌が,並んで其地をしており,是が為に眼sして疾に伏せているわけです,脅して下すことに留め滞らせて,誅を加えざるが如しとし,滋大に転じ就きましょう.今若し騎五千,歩万人,車三千両を以ってして,三つの冬と二つの夏をかけたうえ,破り定めるを以ってするには(それに)足して,無慮用費為銭五十四億(銭五十四億の費用がかかることを度外視しなければなりません).[二]此の如くすれば,則ち令して羌を破り尽くし,匈奴を長く服させ,郡県を内に徙して,本土に反するを得させることも可となりましょう.伏して計りますに永初中に,諸羌が反叛したのは,十有四年となり,二百四十億を用いました;永和之末には,復た七年を経て,八十余億を用いました.費が耗するのは此の若しで,猶も誅し尽くせず,余孽は復た起ち,于茲は害を作りました.今、暫くとはいえないあいだ人を疲れさせても,

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則ち永寧は期すこと無いものなのです.臣は庶竭にして駑劣であります,伏して節度を待つしだいです.」帝は之を許し,悉く聴きいれたがそれは上する所の如きものをであった.

[一]左伝で晉叔向母は曰く「狼子野心」也.

[二]無慮,都凡也.

建寧元年春,段熲は兵万余人を将いて,十五日の糧を齎えると,彭陽に従い高平を直指し(彭陽から高平を直接目指し),[一]先零諸種と逢義山に於いて戦った.虜兵は盛んであり,段熲の恐れた.段熲は乃ち軍中に令して鏃を張らせ刃を利<とが>せると,長矛三重,挾むに強弩を以ってして(長矛の三重陣で強弩部隊を防護すると),軽騎を列して左右の翼と為した.兵に涙怒して将いて曰く:「今や家を去ること数千里,進めば則ち事は成り,走れば(逃げ出せば)必ずや尽きて死なん,努めて力し功名を共にせん!」因って大呼すると,皆応じて騰赴した,段熲は傍らに於いて騎を馳せさせるや,突して而して之を撃った,虜大いに潰え,斬首すること八千余級,獲た牛馬羊は二十八万頭となった.

[一]彭陽,高平は,並んで県名である,安定郡に属する.彭陽県は即ち今の原州彭原県である也.高平県は今の原州である也.

時に竇太后が臨朝し,詔を下して曰く:「先零東羌は歴載して患いを為していた,段熲は前に状(状況)を陳べると,必ず埽滅せんことを欲した.霜雪を渉り履き,晨夜に兼行し,身は矢石に当って,吏士を感獅ウせた.曾未浹日,凶醜は奔破され,[一]尸を連ね俘を積んで,掠獲したものは無筭となった.百年にわたって被った逋負を洗い雪いだものであり,以って忠将らの之亡き魂を慰めるものである.[二]功用は顯著であり,朕は甚だ之を嘉する.須く東羌は尽きて定められた,当に功勤を併せて録するべし.今且つ段熲に銭二十万を賜り,家の一人を以って郎中と為すことにする.」中藏府調金銭綵物,軍費を増し助けた.段熲を拝して羌将軍とした.

[一]浹は,である也.浹の音は子牒反.十二辰を謂う也.

[二]東観記に曰く,太后は詔して云うに「此は以って光、馬賢等の亡き魂を慰めるものである」也.

夏,段熲は復た羌を追って橋門を出ると,走馬水上に至った.[一]尋ねて虜が奢延澤に在することを聞くと,[二]乃ち軽兵を将いて兼行すること,一日一夜にして

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二百余里をゆき,晨して賊に及ぶと,之を撃破した.余りの虜は走って落川に向うと,復た相屯を結んだ.段熲は乃ち騎を分遣すると司馬の田晏に五千人を将いさせて其の東に出させ,假司馬の夏育に二千人を将いさせて其の西を繞させた.羌は六七千人を分けて田晏等を攻圍したが,田晏等は戦うと,羌は潰走した.段熲は急進し,田晏等と共に之を令鮮水上に於いて追った.[三]段熲の士卒は飢え渇いていたため,乃ち勒して奪其の水を奪うことを推方させると,[四]虜は復た散って走った.段熲は遂に(味方と)相連ね綴ると,且つ且つ引くこと,靈武谷に於けるにまで及んだ.[五]段熲は乃ち甲を被ると先んじて登ったが,士卒で敢えて後ろとなる者は無かった.羌は遂に大敗し,兵して而して走った.之を追うこと三日三夜,士は皆重繭した.[六]既に陽に到ると,[七]余寇の四千落は,悉くが散って漢陽(郡)の山谷間に入った.

[一]東観記では段熲は(曰く)伝えて[曰く]「橋門谷を出た」とある也.

[二]即ち上郡の奢延県界である也.

[三]令鮮は,水名である,今の甘州張掖県界に在る.一名に合黎水といい,一名に羌谷水という也.

[四]推方とは方頭競進(頭の方にむけて競って進むこと)を謂う也.

[五]靈武は,県名である,谷が有る,今の靈州懐遠県西北に在る.

[六]繭は,足下傷起形如繭也.淮南子に曰く「申包胥曾繭重胝」也.

[七]県名である,安定郡に属する.

時に張奐が上言した:「東羌は破ると雖も,余種は尽くすこと難き,段熲は性は軽果,慮が負敗すること常なるに難し.宜しく且つ恩を以って降らせ,後悔無いようにす可きです.」詔書が段熲に下された.段熲は復た上言した:「臣は本より東羌を知っていますと雖も,而して弱なれば制すること易いものです,愚慮を比べ陳べた所以でありまして,永寧之筭を思為したものでした.而して中郎将張奐は,虜の強きは破るに難いと説き,宜しく招降を用いるようにとしています.聖朝は明らかに監て,信じて瞽言を納めました,故に臣の謀は行われるを得て,張奐の計は用いられなかったのです.事(にあたり)は相

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反するを埶れば,遂に猜恨を懐くものです.信<まこと>に叛羌之訴は,辞意を飾って潤しているもので,臣に云うには兵は折累ねて見ています,[一]又言うに羌は一気に生れる所で,誅し尽くすこと不可能とか,[二]山谷は広大でして,空静とするには不可能です,血が汙野に流れれば,和を傷つけて災いを致すでしょう.臣が伏して念じますことは周秦之際に,戎狄が害を為し,中興以来,羌が最も盛んに寇しまして,之を誅すること尽くせず,降ったと雖も復た叛いたことです.今先零雜種は,累ねて以って反覆し,県邑を攻没し,人物を剽略し, 発して尸を露にし(陵墓を発掘して尸を露にし),禍は生死に及び(生けるものにも死んだものにも及び),上天は怒りに震え,手を假して誅を行わせてくれています.[三]昔邢が無道を為したため,国が之を伐しましたが,師が興るや而して雨となりました.[四]臣が兵を動かして夏に渉りましたが,獲を連ねても甘澍であり,歳時は豊かな稔りで,人には疵疫無いようすです.(これは)上に天心を占えば,災傷を為さず;[五]下に人事を察すれば,和み師克つというもの.[六]橋門から以西,落川から以東で,故は(宮)[官のものであった]県邑は,更めて相通じて属してきており,深險絶域之地を為すに非ざることとなって,車騎は安行して,折に応じること無いようすです.案じますに張奐は漢吏と為って,身は当に武職たるべく,駐軍すること二年となりますが,寇を平らげること能わず,虚しく修文戢戈せんことを欲し,_敵を招き降らせようとの,[七]空説を誕辞しているのです,僭して而して徴無いのです.何をか之を言うを以ってするのでしょう?昔先零が寇を作りましたおり,趙充国が徙して内に居るよう令し,[八]煎当が辺を乱すと,馬援が之を三輔に遷しました,[九](しかしどちらも)始め服せど終に叛き,今に至って鯁を為しているのです.[一0]故に遠識之士は,以ってするに深く憂えるを為さんとするもの.今傍郡の戸口は単少であり,羌に何度も創毒を為された所です,それなのに而して降徒を之と与して雜居するよう令しようと欲する,是は猶も良田に於いて枳棘を種つけ,室内に於いて虺蛇を養うものです也.故より臣は大漢之威を奉じて,長久之策を建て,其の本の根を絶って,使って殖えることできないようにしようと欲しているのです.[一一]本より規ったのは三歳之費であり,五十四億の用でした,今や年に適い,耗する所は未だ半ばならずして,而して余寇は殘燼されようとしています,将に殄滅に向かわんとしているのです.[一二]臣は詔書を奉ずる毎に,軍にあっては内が御すものではない(と思っております),[一三]願わくば斯くの言を卒し,一に以って臣にお任せくださいますように,臣は時に宜しく量り,権便を失わないようにいたします.」

[一]傷敗は曰く,音は女六反.

[二]言うに羌亦稟天之一気所生,誅之不可尽也.

[三]假は,借である也.尚書に曰く「皇天は災いを降らせ,手を我に假して命を有させんとす」也.

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[四]左伝曰く「衛に大旱あった,山川に於いて有事を卜すると,不吉とでた.ィ荘子曰く:『昔周は飢えましたが,殷に克つと而して年は豊かでした.今邢は方ずるに無道です,天は衛が邢を伐ることを欲しているのでしょうか乎?』之に従って,師が興ると而して雨となった(そして大旱はおさまった)」也.

[五]占は,候である也.

[六]克つは,勝つである也.左伝曰く「師が克つは在り和むは不在」也.

[七]_は,惡である也,音は谷猛反.

[八]宣帝の時に,充国が西羌を撃ち,金城郡に於いて之を徙した也.

[九]遷して天水、隴西、扶風に置いた,西羌伝に見える也.

[一0]「鯁」と「梗」は同じである.梗は,病いである也.大雅は云う:「今に至って梗を為す.」

[一一]殖は,生である也.左伝に曰く:「国家を為さんとする者は,惡を見ること農夫が務めて草を去るが如く焉,其の本の根を絶つもの,使って殖えること能わせること勿れ.」

[一二]杜預は左伝に注して曰く:「燼は,火が木を余したものである也.」

[一三]御は,制御である也.淮南子に曰く「国にあっては外の理に従う可からず,軍にあっては中の御に従う可からず」也.

二年,詔あって謁者の馮禪が遣わされて漢陽の散羌を降らせるよう説かせた.段熲は春を以って農することとし,百姓が野に布かれたが,羌は暫く降ったと雖も,而して県官には廩無いため,必ず当に復して盗賊を為すはずだとし,虚に乗じて兵を放つに如かず,埶えれば必ずや殄滅せんとした.夏,段熲は自ら営を進めて,羌が屯する所を去ること凡そ亭山の四五十里,田晏、夏育を遣わして五千人を将いさせて其の山上に拠らせた.羌は悉く之を攻すると,声を獅ワして問うて曰く:「田晏、夏育は此に在らずや?湟中義従羌は悉く何に面するに在るのか?今日死生を決さんと欲す.」軍中は恐れ,田晏等は兵士を勧激すると,殊死せんとして大いに戦うと,遂に之を破った.羌潰えて,東に奔り,復た射虎谷で聚まると,兵を分けて諸谷の上下門を守った.段熲は規<はか>って一挙に之を滅ぼさんとしたが,復た令して散って走ることを欲せず,乃ち西県に於いて千人を遣わして木を結わえて柵を為させた,広さ二十

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歩,長さ四十里で,之で遮ることとした.[一]田晏、夏育等を分けて遣わすと七千人を将いさせ,枚を銜えさせて夜に西山に上らせると,営を結んで塹を穿ち,虜を去ること一里に許した.また司馬の張ト等を遣わして三千人を将いさせて東山に上らせた.虜は乃ち之を覚ると,遂に田晏等を攻め,分けて汲水の道を遮った.段熲は自ら歩騎を率いて水上に進撃すると,羌は走したため,因って張ト等とともに東西の山から挟み,兵を縦にして之を撃破したため,羌は復たも敗れて散ることになった.段熲は追って谷の上下門に至ると山の深谷之中を窮めて,処処で之を破り,其の渠帥以下万九千級を斬り,獲た牛馬驢騾氈裘廬帳什物は,数えるに勝ることできないほどであった.馮禪等が招いて降らせた所は四千人であり,分けて安定、漢陽、隴西三郡に置いた,是に於いて東羌は悉く平らげられたのである.

[一]西県は天水郡に属する,故城は今の秦州上邽県の西南に在る也.

凡そ百八十戦して,三万八千六百余級を斬り,牛馬羊騾驢駱駝四十二万七千五百余頭を獲て,(かかった)費用は四十四億,軍士死者は四百余人.更めて新豊県侯に封じられ,邑万戸となった.段熲は軍に仁愛を行い,士卒で病に疾んだ者には,親しく自ら瞻省し,手づから裹創を為した.辺に在ること十余年,未だ嘗て一日として蓐寝しなかった.[一]将士と苦しみを同じくしたため,故に皆楽しんで死戦を為した.

[一]郭璞曰く:「蓐とは,席である也.」身は自ら安んじないことを言う.

三年春,徴されて京師に還るおり,秦胡歩騎五万余人,及び汗血千里馬,生口万余人を将いていった.詔あって大鴻臚が持節して鎬に於いて慰労するために遣わされた.[一]軍が至ると,侍中を拝した.転じて執金吾、河南尹となった.盗(賊)が馮貴人のを発掘することが有り,(それに)坐して左転して諫議大夫となり,司隸校尉に再遷された.

[一]鎬は,水名で,今の長安県西に在る.

段熲は宦官に意を曲げて,故に其の富貴を保つを得たため,遂に中常侍王甫の党として,中常侍鄭颯、董騰等を枉げて誅し,四千戸を増封され,

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前と併せて万四千戸となった.

明くる年,李咸に代わって太尉と為ったが,其冬に病で罷め,復して司隸校尉と為った.数歳して,潁川太守に転じ,徴されて太中大夫を拝した.

光和二年,復して橋玄に代わって太尉と為った.在位すること月余して,日食に会ったため自劾し,有司が挙奏して,詔あって印綬を収め,廷尉に詣でた.時に司隸校尉の陽球が王甫を誅さんことを奏し,それは并わせて段熲に及んだ,獄中に就くと之を詰責し,遂に鴆を飲ませて死なせた,家属は辺に徙された.後に中常侍の呂強が上疏し,段熲の功を追訟したため,靈帝は詔して段熲の妻子を本郡に還した.

初め,段熲は皇甫威明、張然明と,並んで名を知られ顯達したため,京師は称えて「涼州三明」と為したと云う.

贊に曰く:山西は猛きもの多く,「三明」は儷蹤であった.[一]戎驂が糾結して,河、潼を塵斥した.[二] 皇甫規、張奐は策を審らかにして,亟遏囂凶した.文会志比,更相為容.段熲は両狄を追いはらい,馬を束ねて鋒を県けた.紛紜して騰突すると,谷は静まり山は空になった.

[一]儷は,偶である也.前書で班固が曰く:「秦漢以来,山東は相を出し,山西は将を出す.」若し白起、王翦、李広、辛慶忌の流れは,皆山西の人である也.

[二]潼は,谷名である.谷は水を有する,曰く潼水である,即ち潼関である.