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後漢書卷七十三

劉虞公孫瓚陶謙列伝第六十三

【劉虞伝】

劉虞は字を伯安といい,東海郯の人である.[一]祖父は劉嘉,光祿勳だった.劉虞は初め孝廉に挙げられ,稍遷して幽州刺史となった,民夷は其徳に感じ化し(王化され),鮮卑、烏桓、夫余、穢貊之輩は,皆時に随い朝貢し,敢えて辺境で擾乱する者は無く,百姓はこれを歌い悦んだ.公事で官を去った.中平の初め,黄巾が乱を作り,冀州諸郡を攻め破った,劉虞は甘陵相を拝命し,綏撫荒余,以て蔬儉して下を率いた.宗正に遷った.

[一]謝承書曰く:「劉虞の父の劉舒は,丹陽太守となった.劉虞は五経に通じ,東海(王)恭[王]之後である.」

後に車騎将軍張温が賊の辺章等を討つに際し,幽州烏桓三千突騎を徴発したところ,軍糧が続かず逋懸したため,皆畔って本国に還った.[一]前の中山相張純は前の泰山太守張挙に私謂して曰く:「今烏桓既に畔し,皆願って乱を為す,涼州には賊起こり,朝廷は禁ずるあたわず.又洛陽の人の妻が両頭の子を産んだとか,此れ漢祚が衰え尽きて,天下に両主之徴<しるし>ある也.子若し吾とことを興し共に烏桓之を率いて以て兵を起こさば,庶民はこれを幾会とし大業定めるも可ならん.」挙げて因ってこれに然った.四年,張純等は遂にことを興し、烏桓大人と共に連盟し,薊下を攻め,城郭を燔焼し,百姓を虜略し,護烏桓校尉箕稠、右北平太守劉政、遼東太守陽終等を殺害した,その率いられる集団は十余万に至り,肥如に駐屯した.[二]張挙は「天子」を称し,張純は「彌天将軍安定王」を称し,州郡に(これを)移書し,云うに張挙は当に代漢たり,天子に告ぐ、位を避けよ,公卿は奉迎せよ、と.張純は又

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烏桓峭王等[三]歩騎五万を使って,青冀二州に入らせ,清河、平原を攻め破り,吏民を殺害した.朝廷では劉虞の威信が素より著わされ,北方に恩積あるを以って,明くる年,復して幽州牧とした.劉虞は薊に至ると,屯兵を罷めさせ省き,務めて広く恩信をあらわした.使者を遣わして峭王等に告げ、以て朝恩ェ弘をして,善路を開き許した.また賞を設けて張挙、張純らを購った(賞金首とした).張挙、張純らは走って塞を出て,余りは皆降り散じた.張純は其の食客王政に殺される所となり,首は送られ劉虞のところに届いた.靈帝は使者を遣わし就拝して太尉とし,容丘侯に封じた.[四]

[一]前書音義に曰く:「牢は,賈直である.」稟は,食である.軍糧が続かないことを言う.

[二]肥如は,県である,遼西郡に属する,故城は今の平州にある.

[三]峭の音は七笑反.

[四]容丘は,県である,東海郡に属する.

董卓が秉政するに及び,使者を遣わし劉虞に大司馬を授け,進んで襄賁侯に封じた.初平元年,復徴されて袁隗に代わり太傅となった.道路が隔塞していたため,王命はついに達するを得なかった.旧幽部は荒外に応接していたため,資は費やすこと甚だ広く,歳常に青、冀の賦調二億有余を割き,以て給してこれを足らしむ.時に処処断絶し,輸を委ねても至らず,而して劉虞はェ政に務め存し,農植を勧め督し,上谷を開いて胡市之利を得,漁陽を通じて鹽鉄之饒を得,民は悦び年登り,穀石三十となった.青、徐の士と庶民は黄巾之難を避けて劉虞に帰す者百余万口,皆収めて温恤を視て,生業を安んじ立てさせたため,流民は皆其の遷り徙いたことを忘れた.劉虞は上公と為ったと雖も,天性節約であり,敝衣して繩履し,食は兼肉すること無かったため,遠近の豪俊夙僭奢者は,操を改めないこと莫く、而して心帰した焉.[一][a]

[一]夙は猶も旧いである.

[a]豪俊夙僭奢者:豪族、俊英、夙(長老格)、僭主、富に奢る者、つまり遠近で名声や権力があるもの、名を知られたもの全てということである。

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初,詔令あって公孫瓚は烏桓を討ち,劉虞から節度を受けることになった.公孫瓚は但務会徒以自強大,而して部曲を縦<ほしいまま>に任せ,頗る百姓を侵擾したが,而して劉虞は仁愛で政を為し,物で民を利すことを念(思った)じた,是由に公孫瓚とは漸(次第に)相平らがないようになった.二年(191年),冀州刺史韓馥、勃海太守袁紹及び山東諸将が謀議し,朝廷は幼沖であり,董卓の圧迫を受けている,[一]遠く隔たって関は塞がり,存否を知らない,劉虞は宗室の長者であるとして,立てて主としようと欲した.乃ち故楽浪太守張岐等を遣わして齎議し,上して劉虞に尊号させようとした.劉虞は張岐等に見えると,顔色を厳しくしてこれを叱り曰く:「今天下は崩乱し,主上は塵を蒙っている.[二]吾は重恩を被り,未だ能く清雪ならざるを国に恥としている.諸君はそれぞれ州郡に拠っているのだ,宜しく共に力を併せ[三]王室に心を尽くさなければならないというのに,反って以て相垢誤して逆謀を造ろうというのか邪!」固くこれを拒んだ.韓馥等はまた劉虞が尚書事を領し,承制して封拝すること(爵位・官職の授受を行うこと)を請うたが,復た聴かなかった.遂に収めて使者を斬った.是に於いて掾である右北平出身の田疇、従事の鮮于銀を撰んで[四]蒙險間行,長安に奉使した.獻帝は既に東帰を思っていたため,田疇等に見えると大いに悦んだ.時に劉虞の子の劉和は侍中となっていたため,此れに因り劉和を遣わし潜め従って武関を出て,劉虞に告げて兵を将いて<ひきいて>来て迎えるよう告げさせた.道するに南陽を経由したところ,後将軍袁術はその状況を聞いて,遂に劉和を質とし,使いをやって劉虞へ倶に西に兵を遣わそうと報せた.劉虞は乃ち数千騎を劉和に就けて天子を奉迎しようとして使いさせたが,袁術はついにこれを遣わさなかった.

[一]時に獻帝は年十歳だった.

[二]左伝に曰く,周襄王は鄭に出奔した,魯の臧文仲曰く:「天子は外で蒙塵した.」

[三]説文に曰く:「力は,并力である.」左伝に曰く:「力同心.」音は力凋反,又音六.

[四]魏志に曰く:「田疇は字を子春,右北平無終の人である.読書を好み,撃を善くした.劉虞は署におき従事とした.太祖が烏桓を北征したとき,田疇に命令し将いて徐無を上り((止)[上]),盧龍を出て,平剛を歴し,白狼堆を登った.柳城を去ること二百余里,虜乃ち驚き,太祖は戦いを興し,大いに斬獲した,論功して田疇を封爵した.田疇は上疏して自ら陳べ,太祖は夏侯惇に命令してこれを諭した.田疇曰く:『豈可売盧龍塞以易賞祿哉?(どうしてよく盧龍塞を売ったことで以って賞録を易そうなどできるだろうか?)』」

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初め,公孫瓚は袁術が詐して(騙して)いることを知るため,劉虞が兵を遣わすことを固く止めたが,劉虞が従わなかった,公孫瓚は乃ち陰で袁術に劉和を執ることを勧めると,使って其兵を奪わせた,是より公孫瓚との仇怨が益々深まったのである.劉和は尋ねて袁術から逃れるを得ると北に還ったが,復た袁紹が留める所と為った.公孫瓚は既に袁紹に累ねて<かさねて>敗れる所となっており,而して猶も之を攻めるのを已めず,劉虞は其の黷武を患いとし,[一]且つ慮得志不可復制(志を得て再び制すること出来なくなるのではと慮ると),固く行うを許さず(行動を禁止し),而して其の稟假を稍節(少し節する)した.公孫瓚は怒ると,屢違節度(節度を違えて:劉虞の節度(命令)に違反して),また再び百姓を侵犯した.劉虞所賚賞典当胡夷,[二]瓚数抄奪之(劉虞が胡夷<異民族>に当てて与えた褒賞などについて,公孫瓚は何度もこれを略奪して奪った).積もって禁ずること能わなくなり,乃ち遣驛使奉章陳其暴掠之罪(驛使を遣わして章を奉ると(公孫瓚の)其の暴掠之罪を陳べた<のべた>),瓚亦上劉虞稟糧不周(公孫瓚のほうでも劉虞が糧をけちりこちらにまわさないと上表してその罪を責めた),二つの奏が交わり馳せて,互相非毀(互いに互いの非を論って<あげつらって>責めた),朝廷が(言い分の)違いに依ったため而して已んだ.公孫瓚は乃ち薊城に於いて京を築くと以って劉虞に備えた.[三]劉虞は何度も公孫瓚を請うたが,輒ち病と称して応じなかった.劉虞は乃ち密かに謀って之を討とうとし,以って東曹掾で右北平出身の魏攸に告げた.魏攸は曰く:「今や天下は引領するに,以って公が為すに帰るものです,謀臣爪牙は,不可無也(これをいらなというわけにはいきません).公孫瓚の文武才力は恃むに足るものです,小悪を有すると雖も,宜しく固く容忍なさいませ.」劉虞は乃ち止めた.

[一]黷は猶も慢である也,数である也.尚書曰く「黷于祭祀」也.

[二]当の音は丁浪反.

[三]京は,高い丘である也,言うに丘壘を高く築いて以って劉虞に備えたのである焉.獻帝紀に解見される.

この頃魏攸が卒すると,而して積忿は已まなかった.四年冬,遂に自ら諸屯兵合わせて十万人を率いると以って公孫瓚を攻めた.将に行かんとすると,従事で代郡出身の程緒が免冑(甲冑を脱いで)而して前にきて曰く:「公孫瓚は過悪を有すると雖も,而して罪名は未だ正されておりません.明公は先ず曉使に告げさせて行いを改めるのを得させることをなさらない,(そんな状態で)而して兵が蕭牆に起っても,国之利に非ざるものです.勝敗を加えて保つのは難しいもの,駐兵するに如かず,武を以って之に臨めば,公孫瓚は必ずや禍を悔いて謝罪してきましょう,所謂<いわゆる>戦わずして而して人を服させる者であります也.」劉虞は程緒を以って事に臨んで議を沮しているとして,遂に之を斬ると以って徇じた.軍士を戒めて曰く:「無傷余人,殺一伯珪而已.(余人は傷つけないように,殺すのは伯珪一人、そうすれば已む(終わることな)のだ)」時に州従事の公孫紀という者がおり,公孫瓚は同姓であることを以って之を厚く待遇していた.公孫紀は劉虞が謀<はかりごと>を知ると而して夜公孫瓚に告げた.公孫瓚は時に部曲が外に在って放たれ散っていたため,倉卒として自ずと(破滅となる事態を)免れないことを懼れ,乃ち掘東城欲

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走(城の東に穴を掘ってそこから逃走しようと欲した).劉虞の兵は戦を習わず(習熟しておらず),また愛人が廬舍していたため,(劉虞)は(公孫瓚が篭る城を)焚焼することを聴きいれず,急に攻圍したが(公孫瓚は)下らなかった.公孫瓚は乃ち鋭士数百人を簡単に募集すると,風に因って火を縦にすると,直に之に衝突した.劉虞は遂に大敗し,官属とともに居庸県へ向けて北に奔った.[一]公孫瓚は追って之を攻めると,三日にして城は陷ち,遂に劉虞を執るとその妻子と併せて薊に還ったが,猶も州の文書を使領していた.天子が使者として段訓を遣わして劉虞の封邑を増し,督六州事とし;公孫瓚を拝して前将軍とし,易侯に封じ,假節を与え幽、并、(司)[青]、冀を督させることとなった.公孫瓚は乃ち劉虞は前に袁紹等と尊号を称えようと欲していたと誣して,段訓を脅すと劉虞を薊市に於いて斬らせた(斬った).先ず坐すと而してして曰く:「若し劉虞が応じて天子に為る者なら,天は当に風雨して以って相救うだろう.」時に旱が埶って炎盛であったため,遂に斬った焉.首が京師に伝えられると,故吏の尾敦が路に於いて劉虞の首を劫し(奪い去り)之を帰葬した.[二]公孫瓚は乃ち段訓を上表して幽州刺史と為した.劉虞は恩厚きを以ってを得ていたため,(彼の徳を)懐き被った北州では,百姓は旧に流れ,痛み惜しまないものなど莫かった焉.

[一]居庸県は上谷郡に属す,関が有る.

[二]尾敦は,姓名である.

初め,劉虞が儉素を以って操を為すと,冠敝不改,乃就補其穿(冠は敝しても(ボロボロになっても)改めず,乃ち就くに其の穿<あな>を補った(穴を繕ってまだまだ使用した)).害に遇うに及んで,公孫瓚の兵が其の内を捜すと,而して妻妾の服は羅紈であり,綺飾で盛んにしていたため,時の人は此を以って之を(劉虞の以前の儉素を)疑った.劉和は後に袁紹に従って公孫瓚に報いをしたと云う.

公孫瓚は字を伯珪といい,遼西令支の人である也.[一]家は世に二千石の家柄であった.公孫瓚は母が賤しかったため,遂に郡の小吏に為った(小吏にしか為れなかった).為人<ひととなり>は姿貌美しく,声は大きく,事を言うに辯慧であった.[二]太守は其才を奇とし,女<むすめ>を以って之を妻とした.[三]後に涿郡出身の盧植に従って緱氏の山中に於いて学び,書伝を略見した(書は尚書、伝は左伝であろう).上計吏に挙げられた.太守劉君が事に坐して檻車で徴されると,官法は吏下(部下)にあったもの親近であったものを聴かないとのことであったが,公孫瓚は乃ち容服を改めると(顔つきも服装も改めると),詐称して侍卒し,身執して