-2246-

[一]漢官儀に曰く:「張温は字を伯慎といい,(南陽郡)穰の人である也,(玄)[互]郷侯に封じられた.太史は奏して言うに大臣で誅死する者が有るとしたため,董卓は張温を取って市に於いて笞殺し以て之を厭うたのである.」

何進は字を遂高といい,南陽(郡)宛の人である.異母女弟が選ばれて掖庭に入って貴人となり,靈帝から寵有った,何進は郎中を拝命し,再遷して虎賁中郎将となり,出て潁川太守となった.光和(二)[三]年,何貴人が立てられて皇后となり,何進は徴されて入ると,侍中、将作大匠、河南尹を拝命した.

中平元年,黄巾賊張角等が起ったため,以て何進をして大将軍とし,左右羽林五営の士を率いて都亭に駐屯させ,器械を修理させ,以て京師を鎮めさせた.張角の別党である馬元義が洛陽に謀起すると,何進がその姦計を発見したため(暴いたため),その功績で慎侯に封じられた.[一]

[一]慎は,県で,汝南郡に属する.

四年,滎陽で賊数千人が蜂起して,郡県を攻め焼き,中牟県令を殺害したため,詔あって何進の弟で河南尹の何苗を使ってこれを出て撃たせた.何苗は賊を攻め破り,平定して帰還した.詔あって使者が遣わされ成で何苗を迎えた,何苗は車騎将軍を拝命し,濟陽侯に封じられた.

五年,天下滋し乱れ,望気者は以為(おもえらく)京師、当に大兵有り,両宮流血せん(と言った).大将軍司馬の許涼、仮司馬の伍宕は何進に説いて曰く:「太公六韜に天子は兵を将いて事し,[一]以て威して四方を厭かしむべしと有る.」何進は以為(おもえらく)然りとし,これを帝に入言した.是において乃ち詔あって何進は四方の兵を大発し,平楽観下で講武した.大壇を起て,十二重の五采華蓋を上建した,高十丈,壇の東北に小壇をなし,また九重の華蓋を建てた,高九丈,歩兵,騎士数万人を列し,結営して陳とした.天子は親しく出て軍を臨み,大華蓋下に駐し,小華蓋下に進駐した.

-2247-

禮畢わると,帝は躬擐甲介馬し,[二]「無上将軍」を称え,陳三匝に御幸して還った.詔あって使者が遣わされ何進は悉く兵を領し観下に駐屯した.是時に西園八校尉が置かれた,小黄門蹇碩を上軍校尉に,虎賁中郎将袁紹を中軍校尉に,屯騎都尉鮑鴻を下軍校尉に,議郎の曹操を典軍校尉に,趙融を助軍校尉に,淳于瓊を佐軍校尉にし,また左右校尉があった.帝は蹇碩が壮健でしかも武略有るために,特にこれを親任し,以て元帥とし,司隸校尉以下を督させた,大将軍と雖もまた領属することになった焉.

[一]太公六韜の篇はつぎのようになっている:第一は霸典,文論;第二は文師,武論;第三は龍韜,主将;第四は虎韜,偏裨;第五は豹韜,校尉;第六は犬韜,司馬.龍韜に云う:「武王曰く:『吾欲令三軍之,親其将如父母,聞金聲而怒,聞鼓音而喜,為之柰何?』」

[]擐音宦.擐,貫也.介亦甲也.

蹇碩は中に於いて兵すると雖も,而して猶も何進を畏れ忌んだため,乃ち諸常侍は共に帝に説いて何進を遣わして辺章、韓遂を西に撃たせようとした.帝はこれに従い,兵車百乗,虎賁斧鉞を下賜した.何進は其の謀を陰ながら知ると,乃ち上するに袁紹を遣わして徐兗二州兵を東に撃たせようとし,須く紹還され,即ち戎事した,稽行を以って期したのである.

初め,何皇后は皇子辯を生み,王貴人は皇子協を生んだ.臣は立太子を請うた,帝は辯が軽佻で威儀無いため,人主にするべきでないとした,[一]然るに皇后は寵有って,且つ何進もまた重権を持って居た,故に久しく決まらなかったのである.

[一]字書曰:「佻は,軽である.」

六年,帝は疾篤く,蹇碩に皇子協を属させた.蹇碩は既に遺詔を受け,且つ素から何進兄弟を軽んじ忌んでいた,帝崩ずるに及び,蹇碩は丁度内に在った,そこで先ず何進を誅ししかる後に皇子協を(皇帝に)立てようと欲した.何進が従って外から入るに及び,蹇碩の司馬である潘隱が何進と早舊(古馴染み)であったため,迎えてこれに目した.何進は驚き,馳せて儳道に従い帰営した,

-2248-

兵を引きつれて百郡邸に入屯し,[一]因って疾を称えて入朝しなかった.蹇碩の謀は行われず,皇子辯が乃ち即位し,何太后が朝に臨むこととなり,何進は太傅袁隗とともに輔政し,録尚書事を得た.

[一]廣雅に曰く:「儳は,疾である也.」音仕鑒反.

何進は素より中官が天下の疾たる所を知っており,それに兼ねて蹇碩が己を圖んだことに忿っていた,朝政を秉するに及び,陰に規ってこれを誅そうとした.袁紹は亦た素より謀有ったことから,因って何進の親客張津にこれを勧めて曰く:「黄門常侍は権重して日久しく,また長楽太后とともにして專ら姦利に通じています,[一]将軍は宜しく更清して賢良を選び,天下を斉しく整え,国家から患いを除くようなさいませ.」何進は其言を然りとした.また袁氏は以て累世に寵貴たりて,海内の帰する所であった,[二]而も袁紹は素より善く士を養い,能く豪傑を得て用い,其の従弟である虎賁中郎将の袁術もまた気俠を尚んでいたことから,故に並んでこれを厚く待遇した.因って復た、智謀之士(龐)[逄]紀、何顒、荀攸等を博く徴し,與にして腹心とした.

[一]靈帝の母である董太后は長楽宮に居た.

[二]袁安は司徒、司空となり,孫の袁湯は司徒、太尉となり,袁湯の子の袁成は五官中郎将となり,袁成は袁紹を生む,故に云う「累代に寵貴たり」と.

蹇碩は自安しないことを疑い,中常侍趙忠等に書して曰く:「大将軍兄弟は国を秉し朝を專らにし,今天下党人と興して謀り先帝の左右を誅し,我曹を掃滅せんとす.但、わたくし蹇碩が禁兵を典じていることのみを以って,故に且つ沈吟しているのだ.今宜しく共に上閤を閉じ,急いで(何進を)捕えて之を誅さん.」中常侍郭勝は,何進と同郡の人である.太后及び何進が貴び幸じるところとなったため,郭勝は有力となった焉.故に郭勝は何氏に親信しており,遂に趙忠等と共議して,蹇碩の計に従わなかった,而して以て(蹇碩が何進を除こうと提案した)其の書を何進に示した.何進は乃ち黄門令を使って蹇碩を収めると,之を誅し,因って其の屯兵を領したのである.

袁紹は復た何進に説いて曰く:「前に竇武は内寵を誅しようと欲しましたが而して反って害される所となったのは,其の言い語ったことが漏泄し,而も五営の百官は中人に服し畏れていた故でした也.

-2249-

今将軍は既に元舅之重を有し,而して兄弟は並んで勁兵を領し,部曲将吏は皆英俊名士でありまして,楽盡力命(命じられれば喜んで力を尽す次第です),(まさに)事は掌握に在るわけで,此は天贊の時というものです也.将軍は宜しく天下に一為して患いを除き,後世に名を垂れられますよう(後世の垂範となられますよう).周の申伯と雖も,何ぞ道に足れる哉!(これほど条件が整ったことはなかったのですぞ!)[一]今大行在前殿(今や大行を目前に控えております),[二]将軍は(宜しく)受詔されまして禁兵を領するようなさったうえ,宜しく軽々しくも宮省に出入りなどなさいませんよう.」何進は甚だ之を然りとし,乃ち疾を称えて喪に陪席せず入らず,また山陵への(棺の)送りだしにも参加しなかった.遂に袁紹と籌策を定め,而して以って其計を太后に建白した.(しかし)太后は聴き入れず,曰く:「中官が禁省を統領するのは,古より今にまで及んでいることで,漢家の故事なのです,廃することはできません也.それに帝が天下を新なさるのに先だって,我も柰も何でまた楚楚として士人と対して事を共にしようというのです乎?」[三]何進は太后の意に違うこと難しく,且つ(宦官の中で)其の放縦な者を誅(するだけに)しようと欲した.袁紹は以為<おもえらく>中官は至尊に親しく近づき,出入り号令するため,今悉く廃しないなら,後に必ずや患いを為すだろう(と思った).而して太后の母である舞陽君及び何苗は何度も諸宦官から遣わされた賄賂を受け取っていたため,何進が之(宦官ら)を誅しようと欲していることを知ると,(そのため)何度も太后に建白し,其の障蔽を為した(障害となった).また言った:「大将軍は左右を專殺し,権して以て社稷を弱めようとしています.」太后は疑いはじめ(舞陽君及び何苗の言葉を)然りと思うようになった.中官で省闥に在る者は或いは数十年となっており,封侯されて貴寵であり,内外を膠固していた.何進は新たに重任に当たって,素より之を敬い憚っていたため,雖では大名を収めると雖も而して内では断じること能わず,故に事は久しく決まらなかった.

[一]申伯は,周の申后の父である也.詩の大雅に曰く:「維うに申及び甫は,周之翰を維う.」

[二]人主が崩じて未だ謚を有しないとき,大行と故称する也.前書音義に曰く:「大行とは,不反之辞である也.」

[三]楚詞に曰く「楚楚」は,容貌を鮮明にすることである也.詩に曰く:「衣裳楚楚.」

袁紹等はまた畫策を為し,四方の猛将及び諸豪傑を数多召しだし,並んで兵を引きつれて京城に向かうよう使いを出し,以って太后を脅そうとした.何進は之を然りとした.(その計画を知ると)主簿陳琳は入って諫めた、曰く:「易には『即鹿無虞』と称えられ,[一]諺には『掩目捕雀』と有ります.夫れ微物は欺くべからざるを尚んで以て志を得るのです,況んや国之大事,其の可とするに詐立を以ってするのですか乎?今将軍は皇威をまとめられ,兵要を握られており,その龍驤虎歩の様子は,高下在心(高きも低きも心を将軍に寄せる次第です),(それなのに猶もこうした策を講じようとなさる)此は猶も鼓洪して毛髮を爐燎する耳です.夫

-2250-

違經合道,天人所順,而して反って利器を委ね釋し,更徴外助なさるとは.大兵が聚まり会えば,彊者が雄を為します,所謂干戈を倒持して,人に以て柄を授けることです,[二]功は必ずや成らず,秖は乱階を為すことでしょう.」何進は聴き入れなかった.遂に西からは前将軍董卓を召しだして関中上林苑に駐屯させ,また(大将軍)府掾である泰山出身の王匡には東から其の郡(泰山郡)の強弩を徴発させ,併せて東郡太守橋瑁を召しだして城に駐屯させ,武猛都尉の丁原を使って孟津を焼き払わせた,火が城中を照らし出すと,[三]皆以て宦官を誅するのだと言を為した(それらのどの行動も理由は宦官を誅するためだと言うことであった).(しかし)太后は猶も従わなかった.

[一]易の屯卦六三の爻辞である也.虞は,山澤之官を掌る.即鹿猶従禽也.無虞言不可得.

[二]前書梅福の上書に曰く:「太阿を倒持して,楚に其柄を授けた.」

[三]武猛は武芸有って而して勇猛なる者を謂う.其の嘉名を取って,因って以て官の名としたのである也.

何苗は何進に謂いて曰く:「始め共に従って南陽から来たおりには,倶に以て貧賤であり,省内に依って以て貴富を致したのです.国家之事は,亦何で容易いものでありましょうか!覆水は収めようがないもの.宜しく之を深く思い,且つ省内と和みますよう也.」何進は意を更めて狐疑してしまった.袁紹は何進が計を変えてしまうことを懼れ,乃ち之を脅して曰く:「交搆は已に成り,形執は已に露となったのです,ここで中途半端に事を留めたなら変事が生じてしまいます,将軍は復た欲するに何を待って,而して之を早く決しないでいるのです乎?」是に於いて何進は袁紹を以て司隸校尉と為し,仮節をあたえて,撃断を專命した;また従事中郎の王允を河南尹と為した.袁紹は洛陽に使いをだして武吏を方略し宦者を司察し,而して董卓等を促し使いを馳せさせて上京するよう伝え,兵を平楽観に進めようと欲した.(ここにおいて)太后は乃ち恐れ,中常侍小黄門を悉く罷免し,使って里舍に還らせると,唯、何進をのみ留めたがそれは素より私人とする所であったからである,そこで以って省中を守った.諸常侍小黄門は皆何進のところに詣でると謝罪したが,唯、措置する所のみであった.何進は謂いて曰く:「天下が匈匈たるは,正に諸君に患う耳である.今や董卓が垂至したというのに,諸君は何でまた早くそれぞれの国に就かないのか?」袁紹は何進に此れに便乗して(物事を)之を決めるよう勧めたが,それは再三に至った.しかし何進は許さなかった.袁紹はまた書を為して諸州郡に告げたが,そこで何進の意を詐宣し,中官(とその)親属を捕らえて案じるよう使いをやった.

-2251-

何進は謀るに日を積んだため,(謀が)頗る泄れ,中官は懼れて而して変を思った.張讓の子の婦は,太后の妹であった也.張讓は子の婦に向かって叩頭して曰く:「老臣は罪を得ました,当に新婦と倶に私門に帰るべきです.惟ふに累世に恩を受けまして,[一]今当に宮殿を遠く離れるに,情懷くこと戀戀としております,願わくば復た一度だけ入直して,太后、陛下の顔色を暫し奉望いたしたく存じます,それが叶うなら然後退いて溝壑に就き,死んだとしましても恨みもありません矣.」子婦は(そのことを)舞陽君に言うと,太后の耳に届いた,乃ち詔あって諸常侍は皆復た入直した.

[一]惟は,思念である也.

八月,何進は長楽(宮殿)に入ると太后に建白し,諸常侍以下を盡誅し,三署の郎を撰んで宦官廬に入れて守らせることを請うた.諸宦官は相謂いて曰く:「大将軍は疾を称えて喪に臨まず,葬を送らなかったのに,今や欻して入省しております,[一]此の意は何を為そうとしてのことでしょう?竇氏の事は竟わったというのにそれが復た起こったのでしょうか邪?」また張讓等は人を使って潜み聴き,具さに其語を聞き出すと,乃ち常侍段珪、畢嵐等数十人を率い,兵を持して闥の側より窺い入ると,省中に伏せた.何進が出るに及んで,因って詐って太后の詔を以て何進を召しだした.省闥に入坐すると,張讓等は進を問い詰めた、曰く:「天下が憒憒たるは,亦た独り我が曹の罪に非ず也.[二]先帝は嘗て太后を不快に思い,ほとんど敗亡の憂き目に遭おうとしていた,[三]それを我曹は涕泣して救い解いた,それはそれぞれ家財千万を出して禮を為し,お上の意を和ませ悦ばせてのことであったのだ,(それだけのことをしたのだがそれは)但、卿の門戸に(将来を)託そうと欲しただけであったのだ耳.(それなのに)今や乃ち我曹種族を滅ぼそうと欲する,不亦太甚乎?卿は省内は穢濁であると言うが,公卿以下忠清なる者でことを為したのは(あの時卿ら兄妹を救おうとしたのは)誰であるか?」是に於いて尚方監の渠穆が嘉コ殿前に於いて拔して何進を斬った.張讓、段珪等は詔を為し,故の太尉樊陵を以て司隸校尉と為し,少府の許相を河南尹と為した.尚書は詔板を得ると,之を疑った,曰く:「大将軍を請い、出て共議いたします.」中黄門は以て何進の頭を尚書にむかって擲うつと,曰く:「何進は謀反し,已に誅に伏した矣.」

[一]欻の音は許物反.

[二]説文に曰く:「憒憒は,乱である也.」

-2252-

[三]陳留王劉協の母の王美人である,何后が之を鴆殺した,帝は怒り,廃后しようと欲したが,宦官が固く請うて止むを得たのである.

何進の部曲将だった呉匡、張璋は,素より親幸される所だったため(その場に同行しており),(門を隔てた)外に在って何進が害を被ったのを聞きつけ,兵を将いて入宮しようと欲したが,宮閤は閉ざされたままだった.袁術は呉匡と共に斫って之を攻め,中黄門は兵を持して閤を守った.日が暮れなずむと,袁術は因って南宮九龍門及び東西宮を焼き,以て脅して張讓等を出そうと欲した.張讓等は太后のところに入って建白し,大将軍の兵が反して,宮を焼き,尚書闥を攻めていると言い,因って太后、天子及び陳留王を将いると,また省内の官属らを劫致し,複道に従って北宮に走った.[一]尚書の盧植は閣道窗下に於いて戈を執ると,段珪にむかい何度も仰いだ.段珪等は懼れ,乃ち太后に釈明した.太后は投閣されて免れるを得た.

[一]複の音は福.

袁紹は叔父の袁隗とともに詔を矯めて樊陵、許相を召し,これを斬った.何苗、袁紹は乃ち兵を引きつれて朱雀闕下に駐屯し,趙忠等を捕らえ,これを斬った.呉匡等は素より何苗が何進と心を同じくしないことを怨んでおり,而も其が宦官と謀を同じくしているかと疑い,乃ち軍中に命令した、曰く:「大将軍を殺した者は即ち車騎将軍である也,士吏は能く報讎を為さん乎?」何進は素より仁恩有ったため,士卒は皆流涕して曰く:「願わくば死を致さん!」呉匡は遂に兵を引きつれて董卓の弟で奉車都尉の董旻とともに何苗を攻め殺し,苑中にその屍をした.袁紹は遂に北宮門を閉鎖すると,勒兵して宦者を捕らえ,少長の別無く皆之を殺害した.或いは須の有無で誤って死んだ者が出たため,自ら発露して(局部を曝け出して)然る後に免れるを得るものがでるに至った.[死]者は二千余人.袁紹は因って兵を進めて宮を排し,或いは門屋の上端から,以て省内に攻め込んだ.

張讓、段珪等は困迫し,遂に帝と陳留王数十人を将いて穀門から歩み出ると,小平津に奔った.[二]公卿は平楽観に並び出たが,従う者を得ること無かった,唯、尚書の盧植のみが夜間河上に馳せ,王允が河南中部掾閔貢を遣わして盧植の後に随わせた.閔貢が至って,手づから数人を斬すると,余りは皆河に身を投げて死んだ.明くる日,公卿百官は乃ち天子を奉迎して宮に還り,閔貢を以て郎中と為し,都亭侯に封じた.

-2253-

[]穀門,洛城北当中門也.

董卓は遂に帝を廃し,また迫って太后を殺害し,舞陽君を殺し,何氏は遂に亡び,而して漢室も亦た此より敗乱した.

論に曰く:竇武、何進は藉するに元舅之資あり,據って輔政之権を得て,内に倚するは太后臨朝之威,外に迎えるは英乗風之執といったふうであった,しかし卒して而して事は閹豎に敗れ,身は死して功は潰え,世の悲しむ所と為った,豈に智が不足し而して権に余り有る乎?[一]傳に曰く:「天の商を廃すること久しき矣,君は将に之を興さんとす.」斯くは宋襄公が泓に於いて敗れた所以である也.

[一]言うに智は不足に非ざる,権も亦た余り有り,蓋し天が敗る也.

[二]左傳に曰く,楚は宋を伐った,宋公将に戦わんとす.子魚は諫めて曰く:「天の商を廃すること久しき矣,公は将に之を興さんとする,不可なり.」宋公は従わず,遂に楚と戦いをおこし,泓に於いて大敗した也.

贊に曰く:竇武は蛇祥を生み,何進は自ら羊を屠った.[一]惟女惟弟,来儀紫房.上惛下嬖,人靈動怨.将糾邪慝,以合人願.道之屈矣,代離凶困.[二]

[一]何進は本は屠家の子である也.

[二]代は,更である也.