漢書卷九孝獻帝紀第九

孝獻皇帝は諱を協といい、靈帝の中子である。[一]母の王美人は何皇后に害された。中平六年四月,少帝が即位したまい,帝により勃海王に封じられ,陳留王にうつされた。

[一]謚法に曰く:「聰明睿智を獻という。」協の字に合う。張璠記に曰く:「靈帝は孝獻皇帝が己に似ているので,故に名を協とした。」帝王紀に曰く:「劉協、字は伯和。」

九月甲戌(189年),皇帝に即位した,年は九歳。皇太后を永安宮に遷した。[一]天下に大赦した。年号を昭寧から改め永漢とした。

丙子,董卓は皇太后何氏を殺害した。

[一]董卓が皇太后を永安宮に遷したのである。洛陽宮殿を名づけていう:「永安宮は周囲六百九十八丈の大きさで,故の洛陽故城の中に基が在った。」

初めに下された令は侍中、給事黄門侍郎を各六人とし員数を満たすことであった。[一]公卿以下黄門侍郎に至るまで声をかけ賜り、一家に一人を郎と為し,以て宦官が所領するところの諸署を補い(これは先に袁紹らによって宦官が皆殺しにされたためである。),(彼らは)殿上に侍ることとなった。[二]

[一]続漢志に曰く:「侍中は,比二千石,定員はない。」漢官儀に曰く:「侍中は,左右貂,本は丞相の史として奏する役で,殿内を往来し,故に之を侍中と謂う。役目を分けて輿に乗り、服物する,時代が下って褻器虎子の属に至る。(前漢)武帝の時,孔安国が侍中となり,以其儒者,特聴掌御唾壺,朝廷栄之。東京に至った時,少府に属し,また定員は無かった。駕出するに,則ち一人伝国璽を負う,操って蛇■を斬り,*[參]*乗す。*(輿)**[與]*中官止禁中。」又曰く:「給事黄門侍郎は,六百石,定員はない。役目は(皇帝の)左右に侍従し、給事にあたり使いし,関を通って中外へ赴く。」応劭曰く:「黄門侍郎は日暮れごとに青瑣門に向かい拜礼する,そのため之を夕郎と謂う。」輿服志に曰く:「禁門は黄闥といい,人主(皇帝)のくぐる門であるところから,黄門令と号するようになった。」然るに則ち黄門郎は黄闥の内に給事し,故に黄門郎という。元々はじめから定員はなく,ここに於いて各六人と定めたのである。獻帝起居注に曰く:「黄門を誅してより後,侍中、侍郎は禁中を出入りし,機事を頗る露にした,そのため王允はこのことを奏上し、侍中、黄門は(禁中を)出入しないよう、賓客も通らないよう具申して,(自ら)此を始めた。」

注[二]靈帝*(建元)**[熹平]*四年,平准を改めて中准とし,宦者を使い令とした。それ以来、諸内署の令、丞は悉く閹人をもって任命された,(ここに到り)古今に並んで令は士人が代って領するところとなった。

乙酉,以て太尉の劉虞を大司馬とした。董卓は(自ら)太尉となり,鈇鉞、虎賁を加えられた。[一]丙戌,太中大夫の楊彪を司空とした。甲午,豫州牧の黄琬を司徒とした。

[一]礼記に曰く:「諸侯は鈇鉞を賜り然る後に專殺する。」説文に曰く:「鈇は莝刃のことである。」蒼頡篇に曰く:「鈇とは斧のことである。」鈇鉞を加えられた者は,專殺の権限を得たということである。

使者を遣わして故人となった太傅の陳蕃、大将軍竇武等を祀った。冬十月乙巳,靈思皇后の葬儀を行った。

白波賊が河東を寇したため,[一]董卓はその将牛輔を派遣して之を撃った。

[一]薛瑩書に曰く:「黄巾郭泰等が西河白波谷において起こり,時に之を白波賊と謂う。」

十一月癸酉,董卓は(自ら)相国となった。十二月戊戌,司徒の黄琬が太尉に,司空の楊彪が司徒に,光祿勳の荀爽が司空となった。

扶風都尉を省き,漢安都護を置いた。[一]

[一]扶風都尉は,比二千石,(前漢)武帝の元鼎四年に置かれ,(光武)中興しても改められなかったが,ここに至って羌が三輔を擾乱し,故に之を省いて都護を置き,令を下して西方を總統させたのである。

詔を下して光熹、昭寧、永漢の三つの年号を除き,中平六年に還復させた。

初平元年(190年)春正月,山東州郡が兵を起こし以て董卓を討とうとした。

辛亥,天下に大赦した。

癸酉,董卓は弘農王を殺害した。

白波賊が東郡を寇した。

二月乙亥,太尉黄琬と司徒楊彪が免職となった。

庚辰,董卓は城門校尉の伍瓊と、督軍校尉の周珌を殺害した。[一]光祿勳の趙謙を太尉に,[二]太僕の王允を司徒とした。

[一]珌の音は必。東観記に曰く:「周珌は,豫州刺史周慎の子である。」続漢書、魏志はともども「」と作る,音は秘。

[二]謝承の書に曰く:「趙謙は字を信といい,太尉趙戒の孫で,蜀郡成都の人である。」

丁亥,長安へ遷都した。董卓は京師に驅徙して百姓悉く西に入関させ,(自ら)は留まって畢圭苑に駐屯した。

壬辰,白虹が日輪を貫いた。

三月乙巳,車駕が長安に入り,未央宮に到着した。[一]

[一]未央宮は蕭何が造らせたものである。張璠記に曰く:「将に入宮した日,大雨で,晝晦し(?),翟雉が長安宮に飛び込んできた。」

己酉,董卓は洛陽宮廟と人家を焚いた。

戊午,董卓は太傅の袁隗、太僕の袁基を殺害し,その一族を処刑した。[一]

[一]袁隗は袁紹の叔父である。袁基は袁術の(同)母兄である。董卓は山東で兵が起ち,袁紹・袁術が依ってその主となったために,その親族を誅したのである。獻帝春秋に曰く:「尺口以上(の大きさの)男女五十余人,皆獄に下されて死んだ。」

夏五月,司空の荀爽が薨去した。六月辛丑,光祿大夫の種拂を司空とした。

大鴻臚の韓融、少府の陰修、執金吾の胡母班、[一]将作大匠の呉修、越騎校尉の王纓が関東の集まりを安んじるために遣わされ,後将軍の袁術、河内太守の王匡は彼らを殺害した,[二]唯、韓融のみが免れるを獲た。

[一]風俗通に云う:「胡母が姓,本は陳胡公の後裔である。公子完が斉に奔り,遂に斉国に有った,斉宣王は母弟を母に別封し,遠い本は胡公,近くに取るは母邑,故に曰く胡母氏と。」

[二]英雄記に曰く:「王匡は字を公節といい,太山の人である。財を軽んじて施しを好み,以て任侠を聞く,袁紹が河内太守とした。」

董卓は五銖錢を壊し小錢を鋳造させた。[一]

[一]光武中興して,王莽の用いた貨泉を除き,更に五銖錢を用いた。

冬十一月庚戌,天文に鎮星、熒惑、太白が尾に於いて合ったことが観測された。

是歳,有司が奏上して言うに,和、安、順、桓四帝は功徳無く,称宗に宜しからず,また恭懐、敬隠、恭愍三皇の後胤はいずれも並んで正嫡に非ず,称を合わせずして後,皆尊号を除くことを請う。制に曰く:「可。」[一]孫堅は荊州刺史の王叡を殺害し,[二]また南陽太守の張咨を殺害した。

[一]和帝は号して穆宗,安帝は号して恭宗,順帝は号して敬宗,桓帝は号して威宗。和帝の尊母たる梁貴人は曰く恭懐皇后,安帝の尊祖母たる宋貴人曰く敬隠皇后,順帝尊母たる李氏は曰く恭愍皇后。

[二]王氏譜に曰く:「王叡は字を通曜といい,晉太保の王祥の伯父である。」呉録に曰く:「王叡は素から(はじめに)孫堅を遇するに礼無く,孫堅はこの時王叡殺害を胸に期した。王叡が言うに:『我に何の罪がある?』孫堅が言うに:『知る所無く坐す。』王叡は窮迫し,金を削って飲み、死んだ。」

二年(191年)春正月辛丑,天下に大赦した。

二月丁丑,董卓は(自ら)太師となった。

袁術は将の孫堅を派遣し、董卓の将胡軫と陽人に於いて戦いが興った,[一]胡軫軍が大敗した。董卓は遂に洛陽諸帝陵を発掘した。

夏四月,董卓が長安に入った。

[一]陽人は聚名で,河南郡に所属する,故城は今の汝州梁県の西に在る。史記で秦が東周を滅ぼし,徙いて其君陽人に於いて聚まる,とあるのが即ちこの地である。

六月丙戌,地震があった。

秋七月,司空の種拂を免じ,光祿大夫で済南の淳於嘉を司空とした。太尉の趙謙が辞任し,太常の馬日を太尉とした。

九月,蚩尤旗が角、亢に於いて見えた。[一]

[一]天官書に曰く:「蚩尤旗は,彗に類して而して後曲がる,像旗である。」熒惑の精である。呂氏春秋に云う:「其色は黄上白下で,則ち王者が四方を征伐するときに見えものである。」角、亢は,蒼龍の星である。

冬十月壬戌,董卓が衛尉の張温を殺害した。

十一月,青州黄巾が太山を寇した,太山太守の応劭が之を撃破した。黄巾は転じて勃海を寇し,公孫瓚が東光に於いて戦い,復た之を大破した。[一]

[一]東光は,今の滄州県。

是歳,長沙に死んで経月して復活した人が有った。

三年(192年)春正月丁丑,天下に大赦した。

袁術は将の孫堅を遣わして劉表を襄陽に於いて攻めた,孫堅が戦歿した。

袁紹と公孫瓚が界橋で戦い,[一]公孫瓚軍が大敗した。

[一]今の貝州宗城県の東に古界城が有る,近くに漳水の枯れた跡がある,則ち界橋は此処に在ったのだろう。

夏四月辛巳,董卓が誅せられ,三族皆殺しとなった。司徒王允が録尚書事を兼ねて,朝政を束ね,使者張種を山東に遣わして慰撫した。

青州黄巾が兗州刺史劉岱を東平で撃殺した。東郡太守曹操が黄巾を寿張で大破し,之を降した。

五月丁酉,天下に大赦した。

丁未,征西将軍皇甫嵩を車騎将軍とした。

董卓の部曲の将である李、郭、樊稠、張済等が反し,京師を攻めた。六月戊午,長安城は陥落し,太常の種拂、太僕の魯旭、大鴻臚の周奐、[一]城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎が戦歿した,[二]吏民に死者が出てその数は万余人。李等はともども将軍を称した。

[一]三輔決録注に曰く:「周奐は字を文明といい,茂陵の人である。」

[二]頎の音は祈。

己未,天下に大赦した。

は司隸校尉の黄琬を殺害した,甲子,司徒王允を殺害し,その一族を皆滅ぼした。丙子,前将軍趙謙を司徒とした。

秋七月庚子,太尉馬日を太傅とし,録尚書事を兼ねさせた。八月,馬日と太僕の趙岐を遣わし,節を持たせて天下を慰撫させた。車騎将軍皇甫嵩を太尉とした。司徒の趙謙が辞任した。

九月,李は(自ら)車騎将軍に,郭は後将軍に,樊稠は右将軍,張済は鎮東将軍になった。張済は(外に)出て弘農に駐屯した。

甲申,司空の淳於嘉を司徒とし,光祿大夫の楊彪を司空とし,並んで録尚書事とした。

冬十二月,太尉の皇甫嵩を免じて光祿大夫周忠を太尉とし,録尚書事に参加させた。

四年(193年)春正月甲寅朔,日に食があった。[一]

[一]袁宏紀に曰く:「時は未晡八刻。太史令の王立が奏上して曰く:『晷<キ・ひかげ>というに過ぎず,異変というわけではありません(無変也)。』朝臣は皆(安堵して)慶賀した。帝令これを候(帝令候焉)とするや,未晡一刻になって食した(日食が起こった)。賈詡が奏上して曰く:『立司候は明らかでなく,上下ともに誤っているのではと疑います,(奏上したその)者に理由を付けさせて(根拠を明らかにさせて)いただきたい。』帝曰く:『天道は遠く,事験は難明であり,史官に咎を帰そうとするのは,また重ねて朕の不徳である。』」丁卯,天下に大赦した。

三月,袁術が楊州刺史陳温を殺害し,淮南を占領した。

長安宣平城門の外屋が自壊した。[一]

[一]三輔黄圖に曰く:「長安城東面にある北頭門のことである。」

夏五月癸酉,雲が無いのに雷が鳴った。六月,扶風に大風,雨雹があった。華山が崩れ裂けた。

太尉の周忠を免じ,太僕の朱儁を太尉とし,録尚書事とした。

下邳の賊闕宣が天下に自称した。[一]

[一]風俗通に曰く:「闕は,姓である,承闕黨童子の後裔である。縦横家に闕子有り、書を著す。」

雨水があった。侍御史裴茂を遣わし、詔獄して訊ねた,原輕系。六月辛丑,天狗が西北に行った。[一]

[一]前書の音義に曰く:「声有るを天狗とし,声無きを枉矢とする。」

九月甲午,儒生四十余人を試し,成績が上のものに郎中の官位を与え,成績が次いだものには太子舍人の官位を与え,成績の悪かったものは罷免した。詔に曰く:「孔子は『学之不講』を歎いた,[一]不講は則ち日に忘るを識る所である。今、耆儒は年六十を踰え,本土を去って,糧資を求め,專業を得ない。結童して入学し,白首にして空しく帰る,長く農を野に委ね,永く栄望を断つ,朕は甚だ焉を愍する。其の依科を罷めた者は,聴いて太子舍人とする。」[二]

[一]講は,習である。論語の文にある。

[二]劉艾の獻帝紀に曰く:「時に長安中が之を謠<うた>った。曰く:『頭白皓然,食不充徹。裹衣褰裳,當還故。聖主愍念,悉用補郎。捨是布衣,被服玄黄。』」

冬十月,太学が礼を行った,車駕が永福城門に御幸し,其の儀を臨み観た,博士以下それぞれに差をつけて賜りものをした。

辛丑,京師に地震があった。流星が天市にあった。[一]

[一]袁宏紀に曰く:「孛於天市とは,将に天子に従って都に移り,其後上東して之を遷し応じたのである。」

司空の楊彪を免じ,太常の趙温を司空とした。

公孫瓚が大司馬の劉虞を殺害した。

十二月辛丑,地震。

司空の趙温を免じ,乙巳,衛尉の張喜を司空とした。[一]

[一]獻帝春秋に曰く「喜」は「嘉」と作る。

是歳,琅邪王の劉容が薨去した。

興平元年(194年)春正月辛酉,天下に大赦した,改元して興平とした。甲子,帝が元服なされた。

二月壬午,追尊して謚し皇妣王氏を靈懐皇后とした,甲申,文昭陵に於いて改葬した。丁亥,帝が藉田を耕された。

三月,韓遂、馬騰が郭、樊稠と長平観で戦いを興し,韓遂、馬騰は敗績した,左中郎将劉范、前益州刺史種劭が戦歿した。[一]

[一]前書の音義に曰く:「長平は,阪の名である,観の上に有り,池陽宮の南に在る,長安を去ること五十里,今は水の南原、眭城がこれである。」袁宏紀に曰く:「是時、馬騰は李等が乱を專らにするため,以て益州刺史劉焉を宗室の大臣とし,使者を遣わし招引して共に李を誅しようとした。劉焉は子の劉范を遣わし将兵を馬騰に就けた。故涼州刺史種劭は,太常種拂の子である。種拂が李に害されたため,種劭は報仇を望み,遂にこの戦をしたのである。」

夏六月丙子,涼州の河西四郡を分けて廱州とした。[一]

[一]分けられたのは金城、酒泉、燉煌、張掖である。

丁丑,地震があった;戊寅,また地震があった。乙巳晦,日食があった,帝は正殿を避け,兵を寢かせた(?兵舎に休んだ?),不聴すること五日。

大蝗がおこった。

秋七月壬子,太尉の朱儁を免じた。戊午,太常の楊彪を太尉とし,録尚書事とした。

三輔が大旱となり,四月より是月に至っていた。帝は正殿を避けて雨を請い,使者を遣わして囚徒を洗った,原輕系。[一]是時谷一斛が五十万,豆麥一斛が二十万銭に高騰し,人が相食みあい,白骨が積むに任された。帝は侍御史侯汶を使って太倉の米豆を出させ,饑人の為に縻粥を作り与えた,経日したが死者が無くなることがなかった。帝は賦恤の虚有ることを疑い,乃ち親しく御坐の前に於いて量ったもので試みに糜を作らせ,そこで非実(不実な行いが行われていること)を知った,[二]侍中の劉艾を使い、有司(ある役人)を出譲させた(官から追い払った)。ここに於いて尚書令以下皆省閣に詣でて謝罪し(閣僚が不正を黙認し皇帝直々の確認で不正が発覚したからと思われる),侯汶を収め、考実するよう奏上した。詔に曰く:「未だ忍ばざる。理に於いて汶に致す,杖五十を加える。」これより後,多くが救済された。

[一]洗は蕩滌と謂う。

[二]袁宏紀に曰く:「時に敕を受けて侍中の劉艾が米豆五升を取り、御前で糜を作り,三盂に満ちるのを得た,ここに於いて尚書に詔して曰く:『米豆五升で,三盂の糜を得る,それなのに人が頓するに委<まか>されているのはどういうことか?』」

八月,馮翊の羌が叛いて,属県を寇した,郭、樊稠がこれを撃破した。

九月,桑が椹に復生し,人々はこれを得て食料とした。

司徒の淳於嘉が辞任した。

冬十月,長安市門が自壊した。

以て衛尉の趙温を司徒とし,録尚書事を加えた。

十二月,安定を分け、扶風を新平郡とした。

この歳,楊州刺史の劉繇が袁術の将の孫策と曲阿で戦い,[一]繇軍が敗績した,孫策は遂に江東に拠った。[二]

太傅馬日が寿春で薨じた。[三]

[一]孫策は字を伯符といい,孫堅の子である。曲阿は,今の潤州県である。

[二]呉志に曰く:「孫策は既に劉繇を破り,遂に兵を度<たく>して会稽に拠った,孫策は(自ら)会稽太守を領した。」

[三]寿春は,県名で,九江郡に属する,今の寿春県である。

二年春正月癸丑,天下に大赦した。

二月乙亥,李は樊稠を殺害し、而して郭と相い攻めあった。三月丙寅,李は帝を脅してその陣営に御幸させ,宮室を焚いた。

夏四月甲午,貴人伏氏を立てて皇后とした。

丁酉,郭は李を攻め,矢が御前に及んだ。[一]この日,李は帝を北塢に御幸させた(うつした)。[二]

[一]山陽公載記に曰く:「時に弓弩が並び発し,矢の下ること雨の如くにして,御所に及び、高樓・殿前・帷簾に突き刺さった。」

[二]服虔通俗文に曰く「営居は曰く塢,一に曰く庳城」である。山陽公載記に曰く:「時に帝は南塢に在り,李は北塢に在った。時に流矢が李の左耳に中ったので、帝を迎えて北塢に御幸させた。帝が従おうとしなかったので,無理強いした。」

大旱があった。

五月壬午,李は(自ら)大司馬となった。六月庚午,張済は(自ら)陝よりやって来て李、郭を和睦させた。

秋七月甲子,車駕が東帰した。郭は(自ら)車騎将軍となった,楊定は後将軍に,楊奉は興義将軍に,董承は安集将軍になり,並んで侍り、輿に乗って送った。張済は票騎将軍となって,陝の駐屯地へ還った。八月甲辰,帝は新豐に到着した。

冬十月戊戌,郭は其将伍習を使って夜半、帝が泊まっていた学舍を焼き討ちし,逼り脅して輿に乗せた。楊定、楊奉が郭と戦いを興し,之を破った。壬寅,華陰に到着した,道南に露営した(?)。是夜,赤気が有って紫宮を貫いた。[一]張済が復た反って,李、郭を連合させた。

十一月庚午,李、郭等は乗輿を追い,東澗で戦闘になった,王師は敗績し,光祿勳のケ泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、[二]歩兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射声校尉の沮儁が殺害された。[三]壬申,曹陽に到着した,田中に露営した。[四]楊奉、董承は白波賊の軍団を引き込んだ。胡才、李楽、韓暹及び匈奴の左賢王去卑は軍を率いて奉迎し,李等と戦いを興し,之を破った。十二月庚辰,車駕は進んだ。李等らが再び来寇して戦いとなり,王師は大敗した,宮人が殺略され,少府の田芬、大司農の張義等が皆戦歿した。進んで陝に到着し,夜に河を渡った。乙亥,安邑に到着した。

[一]獻帝春秋に曰く:「赤気が六七尺にわたって広がり,東は寅に至り,西は戌地に至る。」

[二]獻帝春秋は「播」は「璠」と作る。

[三]風俗通に曰く:「沮は,姓である。黄帝時の史官沮誦の後裔である。」音側余反。

[四]曹陽は,澗名で,今の陝州西南七里に在る,俗に之を七里澗と謂う。崔浩は云う:「南山より河に於いて北を通る。」

是歳,袁紹は将の曲義を遣わし公孫瓚と鮑丘で戦いを興し,[一]瓚軍は大敗した。

[一]鮑丘は,水名で,北を出て塞に中たり,南に流れ九荘嶺の東を経る,俗にこれを大河と謂う。また、東南は漁陽県故城の東を経る,是が公孫瓚の戦った処だろう。水経注に見える。

建安元年春正月癸酉,安邑で郊に上帝を祀り,天下に大赦した,建安に改元した。

二月,韓暹が衛将軍の董承を攻めた。

夏六月乙未,聞喜に到着した。秋七月甲子,車駕は洛陽に至り,故中常侍趙忠宅に到着した。丁丑,郊に上帝を祀り,天下に大赦した。己卯,太廟に拝謁した。八月辛丑,南宮の楊安殿に到着した。

癸卯,安国将軍張楊を大司馬とし,韓暹を(大)将軍とし,楊奉を車騎将軍とした。

是時,宮室は焼けた盡で,百官は荊棘を披<ひら>き,牆壁の閧ノ依る。州郡はそれぞれ強兵を擁し,而して輸送を委ねても至らず,僚は饑乏した,尚書郎以下(自ら)出て采■し,[一]或いは牆壁の閧ノ饑死し,或いは兵士の殺す所となる。

[一]■の音は呂。埤蒼曰く:「穭の自生するもの也。」■は穭と同じく興る。

辛亥,鎮東将軍曹操が司隸校尉を自領し,録尚書事を兼ねた。曹操は侍中の台(壺)崇、尚書の馮碩等を殺害した。[一]封じて衛将軍の董承を輔国将軍とし、伏完等十三人を列侯に封じた,故・沮儁に弘農太守を追贈した。

[一]風俗通に曰く:「金天氏の裔孫に曰く台駘,其後の氏がこれである。」山陽公載記に曰く「台」字は「壺」とつくる。[a]

[a] 山陽公載記の壺崇の記述が正しければ三国志『袁紹伝』に出てくる冀州牧壺寿と何か縁のある人物であろう。

庚申,許に遷都した。己巳,曹操の陣営に到着した。

九月,太尉の楊彪、司空の張喜を罷免した。冬十一月丙戌,曹操は(自ら)司空となり,行車騎将軍事を兼ね,百官を總<す>べて政事をおこなうことになった(?)。

二年春,袁術は天子を自称した。三月,袁紹は(自ら)大将軍となった。

夏五月,蝗。秋九月,漢水が溢れた。

是歳飢饉が起こった,江淮の閧ナ民が互いに相い食んだ。袁術が陳王寵を殺した。孫策が使者を遣わして貢を奉った。

三年夏四月,謁者裴茂を遣わし、中郎将段煨を率いさせて李を討ち,その三族を処刑した。[一]

[一]獻帝起居注に曰く「李の首が伝えられて許に到ると,詔があってその首を高懸した(高所に掲げ晒した)」と。

呂布が叛いた。

冬十一月,大司馬張楊が盜殺された。

十二月癸酉,曹操は呂布を徐州に撃ち,之を斬った。

四年春三月,袁紹は公孫瓚を易京に攻め,之を獲た。[一]

[一]公孫瓚は頻る利を失い,そこで易河に臨んで京を築き、守りを固めた,その拠点を号して易京という。其城は三重の城壁があり,周囲六里の大きさだった。今は内城の中の土京のみが残っている,幽州に在って義県の南に帰属している。爾雅に曰く:「驚くべき高さのものは之を京と謂う,人力に非ざるが之を丘と為す。」

衛将軍董承を車騎将軍とした。

夏六月,袁術が死んだ。

是歳,初めて尚書左右僕射を置く。武陵の女子が死んで十四日して復活した。[一]

[一]続漢志に曰く:「女子の李娥が,年六十余で死に,城外に埋めた。近くを歩いていた人が頤中に声がするのを聞き,家人に告げて彼女を外に出した。」

五年春正月,車騎将軍董承、偏将軍王服、越騎校尉種輯は密詔を受けて曹操を誅そうとして,事が洩れた。

壬午,曹操は董承等を殺し,その三族を処刑した。

秋七月,皇子馮を立てて南陽王とした。壬午,南陽王馮が薨去した。

九月庚午朔,日食があった。詔して三公は至孝二人を挙げさせ,九卿、校尉、郡国守相各一人を挙げさせた。

皆、封書して上奏し,靡有所諱。

曹操は袁紹と官度で戦いを興し,[一]袁紹が敗走した。

[一]裴松之北征記に曰く:「中牟は台下に汴水を臨み,是が官度となる,袁紹、曹操の壘<とりで>は尚ここに存する。」今の鄭州中牟県の北にある。

冬十月辛亥,流星が大梁に有った。[一]

[一]大梁は,酉の分野である。

東海王祗が薨去した。

是歳,孫策が死んで,[一]弟の孫権がその余業を継いだ。[二]

[一]許貢の食客に射たれた傷による。

[二]孫権は字を仲謀という。

六年春*(三)**[二]*月丁卯朔,日食があった。

七年夏五月庚戌,袁紹が薨去した。

国から馴れた象が献じられた。[一]

[一]馴れた象は人の意に随うと謂う。

是歳,越の男子が女子になった。

八年冬十月己巳,公卿は初めて北郊で冬を迎えた,[一]總章が始められ、復た八佾舞を備えた。[二]

[一]この礼は久しく廃れ,そのため初めてといったのである。

[二]袁宏紀に云う:「気を北郊に迎えて,始めて八佾を用いる。」佾は,列である。舞者の行列を謂う。往因乱廃し,今これを始めて備える。總章は,楽官名である。古の安代の楽である。

初めて司直官,督中都官を置く。[一]

[一]司直は,秩比二千石,武帝元狩五年に置かれ,役割は丞相の補佐,不法の検挙である。建武十一年に省かれ,今復たこれを置いた。

九年秋八月戊寅,曹操は袁尚を大破し,冀州を平らげ,(自ら)冀州牧を領した。

冬十月,流星が東井に流れた。

十二月,三公に已下の金帛を賜った。それぞれ差があった。これより三年に一度賜りものをし,それが常制となった。

十年春正月,曹操は青州に袁譚を破って,これを斬った。[一]

[一]魏書に曰く:「曹操は袁譚を攻めたが克たず,そこで自ら桴を執って鼓した,応えて時にこれを破る。」

夏四月,黒山賊張燕が觿<けい>を率いて降った。[一]

[一]魏志に曰く:「張燕は,本姓を褚といい,常山真定の人である。黄巾が起こると,燕は少年(若者)を合聚して盜となった,万余人がしたがい,博陵の人張牛角が頭目になった。牛角が死に,燕が代わって頭目になった,そこで姓を改めて張にした。張燕は剽悍で勇ましく,軍中では号して曰く張飛燕。觿は百万に至った,号して曰く黒山賊と。」

秋九月,百官のうち貧しい者に金帛の賜りものをし、それぞれ格差があった。

十一年春正月,流星が北斗に流れた。

三月,曹操が高幹を并州に破り,これを獲た。[一]

[一]典論に曰く:「上洛都尉王琰がこれを敗走させ,追ってその首を斬った。」

秋七月,武威太守張猛が雍州刺史邯鄲商を殺した。[一]

[一]袁宏漢紀では「雍州」は「涼州」と作る。

是歳,故琅邪王容の子、熙を立てて琅邪王とした。斉、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済*(陰)**[北]*、平原八国は皆除かれた。(封国が除かれた)

十二年秋八月,曹操は烏桓を柳城に大破し,その蹋頓を斬った。[一]

[一]蹋頓は,匈奴の王号である。柳城は,県名である,遼西郡に属し,今の営州県にあたる。

冬十月辛卯,流星が鶉尾に流れた。[一]

[一]鶉尾は,巳の分野である。

乙巳,黄巾賊が済南王贇を殺した。[一]

[一]河闕F王の五代孫にあたる。

十一月,遼東太守公孫康が袁尚、袁熙を殺した。

十三年春正月,司徒趙温が免官となった。

夏六月,三公の官を罷免して,丞相、御史大夫を置いた。癸巳,曹操は(自ら)丞相となった。

秋七月,曹操は劉表にむかい南征した。

八月丁未,光祿勳郗慮が御史大夫となった。[一]

[一]続漢書に曰く:「郗慮は字を鴻豫といい,山陽高平の人である。幼少のころ鄭玄に学問を受けた。」

壬子,曹操は太中大夫孔融を殺し,その家族を処刑した。

是月,劉表が卒し,少子(弟)の劉jが立った,劉jは荊州をもって曹操に降った。

冬十月癸未朔,日食があった。

曹操は舟師をもって孫権を伐した,孫権は将の周瑜をして烏林、赤壁で之を敗走させた。

十四年冬十月,荊州に地震があった。

十五年春二月乙巳朔,日食があった。

十六年秋九月庚戌,曹操は韓遂、馬超と渭南で戦いを興した,韓遂等は大敗し,関西は平らげられた。[一]

[一]曹瞞伝に曰く:「時に婁子伯が曹操に説いて曰く:『今、気候は寒く,沙を起こして築城できます,水をつかってこれを灌するなら,一夜にして成るでしょう。』公はこれに従って,紛れも無い城を立てた。超、遂は数<かぞ>えて戦いを挑むに利なしとし,曹操は縦<ほしいまま>に虎騎で夾撃し,これを大破した,馬超、韓遂は涼州に逃走した。」

是歳,趙王赦が薨去した。

十七年夏五月癸未,衛尉の馬騰を誅し、その三族を処刑した。

六月庚寅晦,日食があった。

秋七月,洧水、穎水が溢れた。螟がおこった。

八月,馬超が涼州を破り,刺史の韋康を殺害した。

九月庚戌,皇子熙を立てて済陰王とし,懿を山陽王,■を済北王,敦を東海王に立てた。[一]

[一]山陽公載記に曰く:「時に許靖が巴郡にいて,立諸王の儀を聞いて,曰く:『将にこれを歙さんと欲すれば,必ずこれを姑張せん;将にこれを奪わんと欲すれば,必ずこれを姑與せん。それは孟徳のことであろうか!』」

冬十二月,流星が五諸侯に流れた。[一]

[一]五諸侯は,星の名である。

十八年(213年)春正月庚寅,復禹貢九州(古の九州制度を復活させた)。[一]

[一]獻帝春秋に曰く:「時に幽、并州を省き,其の郡国を以て冀州に加える;司隸校尉と涼州を省き,其の郡国を以て雍州に加える;交州を省き,荊州、益州に加える。ここに於いて、兗、豫、青、徐、荊、楊、冀、益、雍の九州をもって天下となった。」九数と雖ども同じからず,禹貢は益州が無く梁州がある,然るに梁、益は同じ地である。

夏五月丙申,曹操は(自ら)立てられて魏公となり,九錫を加えられた。[一]

[一]案礼含文嘉曰く:「九錫は一に曰く車馬,二に曰く衣服,三に曰く楽器,四に曰く朱戸,五に曰く納陛,六に曰く虎賁士百人,七に曰く斧鉞,八に曰く弓矢,九に曰く秬鬯を謂う。」

大雨水があった。

趙王珪を博陵王に徙<うつ>した。

是歳,歳星、鎮星、熒惑が太微に入した。[一]彭城王和が薨去した。

[一]是年秋,三星が逆行して太微に入り,帝坐を守ること五十日に及んだ。

十九年,夏四月,旱。五月,雨水。

劉備が劉璋を破って,益州に拠<よ>った。

冬十月,曹操は将の夏侯淵を遣わして枹罕に宋建を討ち,これを獲た。[一]

[一]枹罕は,県の名で,金城郡に属する,今の河州県である。魏志に曰く:「夏侯淵は字を妙才といい,沛国譙の人である。」

十一月丁卯,曹操は皇后伏氏を殺し,その一族を滅ぼし、それは二皇子に及んだ。[一]

[一]山陽公載記に曰く:「劉備は蜀にあってこれを聞き,遂に喪を発した。」

二十年(215年)春正月甲子,貴人曹氏を立てて皇后とした。天下男子に爵を賜り,人は一級,孝悌、力田は二級とした。諸王侯公卿以下に谷を賜った。それぞれ差があった。

秋七月,曹操は漢中を破り,張魯が降った。

二十一年(216年)夏四月甲午,曹操は(自ら)位を進めて魏王を号した。

五月己亥朔,日食があった。

秋七月,匈奴南單于が来朝した。

是歳,曹操は琅邪王熙を殺害し,国は除かれた [一]

[一]坐謀して長江を渡ろうと望み,誅を被ったのである。

二十二年(217年)夏六月,丞相軍師華歆を御史大夫とした。

冬,流星が東北にあった。

是歳大疫がおきた。

二十三年(218年)春正月甲子,少府耿紀、丞相司直韋晃が兵を起こして曹操を誅したが克たず,その三族は処刑された。[一]

[一]三輔決録[注]に曰く:「時に京兆の全禕,字徳偉があって,(自ら)漢臣を自負していた,そこで発憤して,耿紀、韋晃とことを計り天子を挾<はさ>んで魏を攻め,劉備の南援をのぞんだ。事は敗れ,三族処刑された。」

三月,東方に流星があった。[一]

[一]杜預注左伝に云う「平旦,觿星は皆沒し,而して孛星の見える」,故不言所在之次。

二十四年(219年)春二月壬子晦,日食があった。

夏五月,劉備が漢中を取った。

秋七月庚子,劉備は漢中王を自称(自称)した。

八月,漢水が溢れた。

冬十一月,孫権が荊州を取った。

二十五年(220年)春正月庚子,魏王曹操が薨去した。[一]子の曹丕が位を襲った。[二]

[一]魏志曰く,曹操は字を孟徳という,薨じた時に年六十六であった。

[二]魏志曰く,曹丕は字を子桓といい,曹操の太子である。

二月丁未朔,日食があった。

三月,改元した。延康となる。

冬十月乙卯,皇帝は遜位し(位を譲り遜り),魏王曹丕が天子となった。[一]奉帝して山陽公とし,[二]邑一万戸,位は諸侯王に上し,奏事の際には臣礼をとることなく,受詔の際の拝礼もいらず,以て天子の車服、天地の郊祀を許され,宗廟祖、臘はすべて漢制のようにしてよいとされた,都は山陽の濁鹿城である。[三]封王されていた四皇子は,皆降って列侯となった。

[一]遜は,譲である。獻帝春秋に曰く:「帝は時に臣卿士を召し、祠と高廟に告げ,詔を下して太常張音に節を持たせ,策と璽綬を奉り,魏王に禪位した。すなわち繁陽故城に壇をもうけ,魏王が登壇し,皇帝の璽綬を受けた。」

[二]山陽は,県名である,河内郡に属し,故城は今の懐州修武県の西北にある。

[三]濁鹿は一名を濁城,またの名を清陽城といい,今の懐州修武県の東北にある。

明年,劉備は蜀において帝号を唱え,孫権もまた呉において(自ら)王とし,ここに於いて天下は遂に三分した。

魏の青龍二年三月庚寅,山陽公が薨去した。遜位してから薨去するに至るに,十有四年,年五十四,謚を孝獻皇帝という。八月壬申,漢朝の天子の礼儀を以て禪陵に葬られ,[一]園邑と(それを管理する)令丞が置かれた。

[一]続漢書に曰く:「天子の葬礼は,太僕が四輪輈に駕して賓車とし,大練を屋とする。中黄門虎賁各二十人が紼を執る。司空が土を擇し穿を造り,太史が日を卜して,将作が黄櫞を作る題湊便房,礼の如し。大駕は,大僕が御す。方相氏が黄金四目で,熊皮を蒙り,玄衣朱裳,戈を執って楯を揚げ,四馬に立乗し先■する。旗の長さは三刃,十有二旒が地を曳く,日升龍を畫<えが>く。旐に書いて曰く『天子之柩』。謁者二人が,六馬に立乗して続く。太常が跪き哭して,十五の(哭する)音を挙げ,それから哭を止める。漏上*[水]*を晝<えが>き,請発す。司徒河南尹が車轉を先引し,太常が曰請拜送する。車は白絲三糾で著し,紼の長さは三十丈,圍は七寸;六行,一つの行は五十人。公卿已下子弟凡そ三百人,皆素幘して,貌冠に委ね,衣は素裳,挽する。校尉三*(百)*人,皆赤幘して,冠せず,幢幡を持って,皆枚を銜える。羽林孤兒嬥歌者六十人,六列をなす。司馬八人,鐸を執る。陵の南羨門に至り,司徒は跪き下房に就いて請う,東園へ都導し、武士が奉って入房する,執事が明器を下にし,太祝が醴獻を進める。司空将校が復土する(埋めなおす)。」嬥音徒了反。帝王紀に曰く:「禪陵は濁鹿城の西北十里に在り,今の懐州修武県の北二十五裡の場所にある。陵高は二丈,周回して二百歩。」劉澄之地記に云う:「以漢禪魏,故以名焉。」

太子は早卒した,孫の劉康が立って五十一年,晉の太康六年に薨去した。子の瑾が立って四年,太康十年に薨去した。子の秋が立って二十年,永嘉中に胡賊に殺される所となって,国が除かれた。

論に曰く:伝称鼎之為器(伝称の鼎の器を為すは),小と雖も重く,故に神之寶する所となる,奪い移すべからざるものである。[一]至令負而趨者,このまた天命の窮まり帰る矣![二]天は漢徳の久しきに厭きる矣,山陽の何ぞ誅せられん焉![三]

[一]左氏伝王孫満の曰く:「桀は昏徳あって,鼎は商に遷る;商の紂王は暴虐,そのため鼎は周に遷った。徳之休明は,小と雖も,重なり;それ奸回昏乱なれば,大と雖も,輕なり。」故に言う、神の寶する所と,奪い移すべからざると。

[二]神器は至重と言う,人の負の被り而して趨走する者は,斯く亦た盡之運窮まり、この時に於いて帰る乎,言うにふたたび振るべからざる也。荘子に曰く:「壑に於いて舟を蔵す,澤に於いて山を蔵す,これを謂うに固なりと。然るに而有力者は之に負け、而趨,而昧者は知らず。」

[三]厭は,倦である;誅は,責である。漢の和帝以後,政教は陵■する,故に言う天は漢徳の久しきに厭きる矣。禍の来たる也,獨り山陽公の過に非ず,それ何ぞ誅責の所なるか?左伝宋子魚曰く:「天は既に商徳を厭う。」孔子曰く:「於予*(予)**[與]*何誅。」

贊に曰く:獻帝は不辰に生き,身は播国に屯せらる。[]終我四百,永作虞賓,[]

[一]辰は,時である。播は,遷である。言うに獻帝は生くるに時逢わず,身は既に播遷せり,国又屯するに難し。詩に曰く:「我生不辰。」左伝に曰く:「震盪播越。」

[二]春秋演孔圖曰く:「劉四百歳之際,■漢王輔,皇王以期,有名不就。」宋均注に曰く:「雖■族人為漢王以自輔,以當有応期,名見攝録者,故名不就也。」

虞賓とは舜が堯の子の丹朱を以て賓と為したことを謂う,*(商)**[虞]*書に曰く「虞賓在位」とは是である也。以て喩えるに山陽公は魏之賓と為った也。