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後漢書卷四十二

光武十王列伝第三十二

光武皇帝には十一子がいた:郭皇后は東海恭王彊、沛獻王輔、済南安王康、阜陵質王延、中山簡王焉を生んだ,許美人は楚王英を生み,光烈皇后は顯宗、東平憲王蒼、広陵思王荊、臨淮懐公衡、琅邪孝王京を生んだ.

【東海恭王劉彊】

東海恭王彊.建武二年,母の郭氏が立てられて[皇]后となり,劉彊は皇太子となった.十七年に郭后が廃されたため,劉彊は常に慼慼として自ずと安んじなかった,数えるに因って左右及び諸王が其の懇誠を陳述したため,蕃国に備わりたいと願った.光武は忍び回者数歳,乃ち許した焉.十九年,封じられて東海王と為り,二十八年,国に就いた.帝は劉彊を以て廃するに過ぎるを以ってせず,去就するに礼有ったということで,故に優であるとして以て大封したのである.魯郡を食として兼ね,合わせて二十九県であった.虎賁旄頭を賜り,宮殿には鐘虡之県を設け(ことが許され),乗輿を(帝室に)擬せられた.[一]劉彊は国に就くに臨んで,幾度も上書して讓って東海を還し,又因って皇太子は固辞した.帝はそれを許さず,之を深く嘉し歎じ,劉彊の章を以って公卿に宣示した.初め,魯の恭王は宮室を好み,靈光殿を起て,甚だ壮麗であり,是時も猶

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存していた,[二]故に劉彊に詔を下して都を魯とさせたのである.中元元年に入朝し,徙って泰山に封じられ,因って京師に留まった.明年春,帝が崩じられた.冬,帰国した.

[一]虎賁、旄頭、鍾虡のことは光武紀に解見される.県の音は玄.

[二]恭王の名は余,景帝の子である.宮殿は今の兗州曲阜城中に在る,故の基は東西二十丈,南北十二丈,高さは一丈余である也.

永平元年,劉彊は病となり,顯宗が遣わして中常侍で鉤盾令将の太醫乗驛視疾,詔を沛王輔、済南王康、淮陽王延に下し魯に詣でさせた.薨じるに及び,命(尽きる)に臨んで上疏して謝して曰く:「臣は恩を蒙り蕃を備えるを得て輔けとし,特に二国を受け,宮室の礼楽など許されること,事事殊に異なりました,(それを思うと)巍巍無量であり,(我が生涯を)訖える(終える)にあたり称に報いることなく,而も自ら脩身するに謹みありませんでした,連年疾を被り,為に朝廷を憂念させてしまいました.皇太后、陛下は臣彊を哀れみ憐れんで,感動発中(心を様々に動かされまして),何度も使者太醫を遣わされ方伎道術のことを令丞くださいまして,絡驛は絶えませんでした.臣は伏して厚恩を惟い(おもい),言うところを知りません.臣は内に自省して視るに,気力は羸劣であり,日夜浸困し,[一]終に再び闕庭を望見することなく,帷幄を奉承することもありませんでした,孤は重恩を負って,黄泉で銜恨するしだいです.[二]身は既に夭命孤弱であり,復皇太后、陛下の憂慮と為ること,誠に悲しむべきことであり誠にすべきことであります.息子の政(劉政)は,小人です也,猥(愚息)が当に臣の後を襲位すれば,必ずや全うを以って之を利しとする所にはならないでしょう也.誠に願わくば東海郡を還したいとおもいます.天恩が愍哀をおぼしめすなら,以て臣には男系が無かったとしてその故に,[三]臣の三女を小国侯に処してくださいますよう,[四]此は臣の宿昔からの常計でございました.[五]今、天下は新しく大憂に罹っており,[六]惟いますに陛下は皇太后と共に養生を加えられますよう,何度も御餐をお進めします.臣彊は困劣でありまして,言うことは盡意するに能わず.願わくば諸王に不意永不復相見のことを並び謝りたいとおもいます也(諸王には意図せずにこのように今生での永別となってしまったことをそれぞれに謝りたい).」天子は書を閲覧して悲しみ慟哭し,太后を従えて津門亭に出幸され哀を発せられた.[七](大)司空に持節させて使者とし喪事を護らせ,大鴻臚を副とし,宗正、将作大匠が喪事を視た,殊礼を以って,升龍、旄頭、鸞輅、龍旂、虎賁百人を贈った.[八]詔を楚王英、趙王栩、北海王興、館陶公主、比陽公主及び京師の親戚四姓夫人、小侯に下し皆会葬した.[九]帝は劉彊が謙儉に深執していたことを追惟されたまい,厚葬は其の意に違うことで欲していないと考えられ,是に於いて特に詔を中常侍杜岑及び東海傅相に下して曰く:「王は恭謙で礼を好んだ,徳を以って自ら終えたのだ,送り物を遣わすにあたり,務めて約

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省に従うよう,衣足は斂形とし,茅車瓦器を用い,物は制によって減らし,以てその独行之志を王の卓と爾に彰らかにするよう.[一0]将作大匠は留まって陵廟を起てよ.」

[一]浸は,漸である也.

[二]杜預注の左伝に云う:「地中の泉,故に曰く黄泉.」

[三]無男は,無多男である也.

[四]即ち婦人の封侯である也,若し呂后の妹呂須が封じられて臨光侯と為った,蕭何夫人が封じられて酇侯と為った、その類である.

[五]私が天恩に計り,敢えて忘れないということである也.

[六]光武が崩じられたのである也.

[七]津門は,洛陽南面の西頭門である也,一名に津陽門.門ごとに皆亭が有る.

[八]解くのは光武及び明帝紀に並見される.

[九]四姓小侯,明帝紀に解見される.夫人は,蓋し小侯之母である也.

[一0]前書に曰く:「卓者,河間獻王近之矣.」

劉彊は立つこと十八年,年は三十四であった.子の靖王政が嗣いだ.劉政は淫欲にして薄行であった.後に中山簡王が薨じられたとき,劉政は中山に詣でて会葬したが,簡王の姫である徐妃を私取し,また掖庭に出される女を盗み迎えた.豫州刺史、魯相が奏上して劉政を誅することを請うたため,詔が有って薛県を削られた.

立つこと四十四年で薨じた,子の頃王肅が嗣いだ.永元十六年,劉肅の弟二十一人を封じて皆列侯と為した.劉肅は性謙儉であり,恭王の法度を循守した.永初中に,西羌が未だ平げられていないことを以って,銭二千万を上した.元初中に,縑万匹を復上し,以て国費の助けとした,ケ太后があると下詔してこれを納めさせた.

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立つこと二十三年して薨じ,子の孝王臻が嗣いだ.永建二年,劉臻の二人の弟劉敏、劉儉を封じて郷侯と為した.劉臻及び弟の蒸郷侯劉儉は並んで篤行有った,母が卒すると,皆吐血して毀眥した.[一]練紅を復するに至り,兄弟は幼小の折に初め父を喪ったことを追念し,哀礼して闕に有った,因って復重行喪制.[二]劉臻は性敦厚にして恩有り,常に租秩賑給を諸父昆弟に分けた.国相籍以って状聞を具にしたため,順帝は之を美とし,大将軍、三公、大鴻臚に制詔して曰く:「東海王劉臻は近蕃の尊き以って,若い頃に王爵を襲位し,多いに福を膺受して,未だ艱難を知らない,それなのに能く克己して礼を率い,孝敬すること自然であり,親に事する(仕える)に盡し愛し,送るに終に竭哀する,降儀従士して,寝苫すること三年.[三]兄弟は和み睦まじく,孤弱(身寄りのない孤児)を恤養し,至孝は純備され,仁義は兼弘されており,朕は甚だ嘉する焉.夫善を勧めて俗を獅オ,国の為るに先んじる所である.曩者は東平孝王敞の兄弟は孝を行い,喪母にあって礼の如くしたため,増戸之封有ったという.詩は云う:『永世克孝,念茲皇祖.』[四]今、劉臻の封を増して五千戸,劉儉を五百戸とする,光が土宇に啓かれたのだ,酬を以て厥徳する.」

[一]眥は或いは瘠と為す.

[二]既に祥之後に而して服練する也.礼記に曰く:「練衣黄裏縓緣.」縓は即ち紅である也.縓の音は七絹反.鄭玄注周礼に曰く:「淺絳也.」

[三]左氏伝に曰く:「晏桓子が卒すると,晏嬰は麤衰斬,苴絰帯,杖,菅屨,食粥,居倚廬,寝苫枕草.其家老が曰く:『大夫の礼に非ざる也.』」杜預注に云う:「時の士及び大夫の衰服は各有するに同じでない.」

[]詩周頌之文.克,能也.

立つこと三十一年して薨じた,子の懿王祗が嗣いだ.初平四年,子の劉琬を遣わして長安に至らせ章を奉じさせた,獻帝は劉琬を封じて汶陽侯とし,拝して平原相と為した.

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劉祗は立つこと四十四年して薨じた,子の劉曹ェ嗣いだ.二十年,魏が受禅したために,以て崇徳侯と為った.

【沛獻王劉輔】

沛の獻王劉輔は,建武十五年に封じられて右(馮)翊公となった.十七年,郭后が廃されて中山太后と為った,故に劉輔を徙して中山王と為し,常山郡を食(邑)に併せた.二十年,復徙して沛王に封じられた.

時に禁網尚疏,諸王は皆京師に在って,名譽を修めることを競い,四方の賓客を礼することを争った.寿光侯劉鯉は,更始(帝)の子である也,劉輔に於いて幸いを得た.劉鯉は劉盆子が其の父を害したことを怨んでいた,因って劉輔は客と結び,盆子の兄を殺して報いた故式侯恭,劉輔は坐繫させられて詔獄され,三日して乃ち出ることが出来た.是から後,諸王の賓客は多くが刑罰に連座することとなり,各々法度を循守するようになった.二十八年,国に就いた.中元二年,劉輔の子の劉寶を封じて沛侯と為した.永平元年,劉寶の弟劉嘉を封じて僮侯と為した.[一]

[一]僮は,県である,臨淮郡に属する,故城は今の泗州宿預県西南に在る.

劉輔は矜厳にして法度有り,経書を好み,京氏易、孝経、論語伝及び圖讖を善く説き,五経論を作り,時に之を号して沛王通論と言った.国に在って謹節し,終始一(はじめ)の如くしたため,称えて賢王とされた.顯宗は重く敬い,何度も賞賜を加えられた.

立って四十六年して薨じ,子の釐王定が嗣いだ[一]元和二年,劉定の弟十二人を封じて郷侯と為した.

[一]釐の音は僖である,下は皆同じ.

劉定は立つこと十一年して薨じた,子の節王劉正が嗣いだ.元興元年,劉正の弟二人を封じて県侯とした.

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劉正は立って十四年して薨じた,子の孝王広が嗣いだ.固より疾あった.安帝は劉広の祖母周に詔を下して王家の事を領させた.(姓不明)周は明正にして法礼有り,漢安中に薨じた,順帝は下詔して曰く:「沛王の祖母太夫人周は,秉心淑慎,王を導くに仁を以ってした,光祿大夫を使者として妃印綬を贈る.」

劉広は立つこと三十五年して薨じた,子の幽王栄が嗣いだ.立つこと二十年して薨じた,子の孝王jが嗣いだ.薨じて,子の恭王曜が嗣いだ.薨じて,子の契が嗣いだ;魏が受禅したため,以て崇徳侯と為った.

【楚王劉英】

楚王英は,建武十五年の封爵を以って封じられて楚公と為り,十七年進爵して王と為り,二十八年国に就いた.母の許氏には寵無く,故に劉英の国は最も貧しく小さかった.三十年,臨淮(郡)の取慮、須昌二県を以って楚国に益した.[一]顯宗が太子と為った時から,劉英は常に独り太子に帰附した,太子は特に之を親愛した.即位するに及び,何度も賞賜を受けた.永平元年,特に劉英の舅子を許昌に封じて龍舒侯とした.[二]

[一]取慮は,県である,故城は今の泗州下邳県西南に在る.案ずるに:臨淮には須昌が無く,昌陽県が有る,蓋し誤りであろう也.取慮の音は秋閭.

[二]龍舒は,県である,廬江郡に属する,故城は今の廬州廬江県西に在る也.

劉英は若い頃は遊侠を好み,賓客と交わり通じた,晚節になってから更めて黄老を喜び,学んで浮屠と為り祭祀を斉戒した.[一]八年,詔令あって天下の死罪となったものは皆縑を入れさせ贖わせた.劉英は郎中令奉黄を遣わして白紈三十匹を縑して国相に詣でて曰く:「託在蕃輔,過悪累積,歎喜大恩,奉じて縑帛を贈り,以て愆罪を贖うよう.」国相は以て聞いた.詔報して曰く:「楚王は黄老之微言を誦え,浮屠之仁祠を尚,巨トすること三月,神に誓いを為す,何嫌い何疑う,当に悔吝の有る?其の還贖して,以て助けて伊蒲塞桑門之盛饌とした.」[二]因って以って班示して諸国中に

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傅えた.劉英は後に遂に大いに方士と交わり通じ,金亀玉鶴を作り,文字を刻んで以て符瑞と為した.

[一]袁宏漢紀では:「浮屠は,佛である也,西域天竺国に佛道があった焉.佛者は,漢言で覺である也,将に以て覺悟して生するからである也.其教は脩善慈心を以って主と為し,殺生せず,專ら清静に務める.其精者は沙門と為る.沙門は,漢言で息である也,蓋し息の意は欲を去り而して無為に帰す.また以て人は死せ精神は不滅であると為す,隨って復して受形し,生まれる時に善悪皆報応する有る,故に貴行して善く修道し,以て精神を錬る,以て無に至り生まれて而も佛と為るを得る也.佛は長丈六尺,黄金色で,項中に日月光を佩し,変化は無方,無は不入する所であり,而大済生.初め,明帝が夢に金人を見た。それは長大で,項に日月光を有し,以て問臣した.或いは曰く:『西方に神有り,其名を曰く佛.陛下の夢みた所,得無是乎?(是だったのではないでしょうか?)』是に於いて天竺に使者を遣わし,其の道術を問い、さらに其の形像を圖ませた焉.」

[二]伊蒲塞は即ち優婆塞である也,中華が翻って近住を為すと,言受戒行堪近僧住也.桑門は即ち沙門である.

十三年,男子燕広は劉英に告げて漁陽(出身の)王平、顏忠等と圖書を造作させ,逆謀有ったため,事が案驗に下された.有司は次のように奏上した、劉英は聚を招いて姦猾し,圖讖を造作し,官秩と相して,諸侯王公将軍二千石を置いた,大逆不道であり,之を誅することを請う、と.帝は親親を以って忍び,乃ち(死罪とはせず)劉英を廃して,丹陽県に徙<うつ>し,[一]湯沐邑五百戸を賜る.[二]大鴻臚を遣わす、持節して護送せよ,使われた伎人奴婢(妓士)[工技]鼓吹は悉く従え,輜軿に乗り,[三]兵弩を持ち,道を行くに射獵してよい,極意は自娛である.男女で侯主と為った者は,食邑は故のとおりとする.楚太后は璽綬を上する勿れ(返還してはならない),楚宮に留まって住んでよい、とした.

[一]今の宣州県である也.

[二]湯沐は,皇后紀に解見される也.

[三]軿は猶屏である也,自隠蔽之車.蒼頡篇に曰く:「衣車である也.」

明年,劉英は丹陽に至ると,自殺した.立つこと三十三年,国は除かれた.詔あって光祿大夫持節が遣わされ祠を弔った,贈賵するに法の如くした,

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列侯の印綬を加賜し,諸侯の礼を以ってに葬られた.中黄門が遣わされ其の妻子を占護した.[一]楚の官属は悉く出て辞語する者は無かった.制詔して太后を許して曰く:「国家は始め楚の事を聞き,其の不然<然らざる>を幸いとした.既に審らかに実は知られており,悼灼を懐用したのも,庶欲宥全王身(それは宥めて王がその身を全うせんことを欲したものであり),令保卒天年(天の与えた年数を保って卒する<寿命を終える>よう令を下したのである),而して王は太后を顧みることを念じず<思いもせず>,竟に自ら免れなかった.此は天命である也,無可柰何!(太后、あなたに何ができただろうか!)太后は其の幼弱を保ち養い,勉めて強いて飲食するように.王の富貴を願うことを諸許する,人情である也.已に有司に詔を下し,其の有謀者を出させ,令して田宅に安んじさせる.」是に於いて燕広に封じ折姦侯と為す.楚の獄されたことは遂に年を累ねるに至り,其の辞語は相連なり,京師より親戚諸侯州郡豪桀及び考案吏が,阿附して互いに陥れあい,坐して死んだ者や徙された者は以て千を数えた.

[一]占護は猶守護である也.

十五年,帝は彭城に御幸され,許太后及び劉英の妻子と内殿に見えて,悲しみ泣いて,左右を感動させた.建初二年,肅宗は劉英の子[种]を楚侯(种)に封じ,その五人の弟は皆列侯と為り,並不得置相臣吏人.元和三年,許太后が薨じられた,光祿大夫持節が再び遣わされて祠を弔い,因って留まって喪事を護り,銭五百万を賻した.また謁者が遣わされ王の官属が劉英の喪を迎えるのに備えた,彭城に改葬し,王に赤綬羽蓋華藻を加え,嗣王の儀の如くし,[一]追爵し,楚詞と謚した.章和元年,帝は彭城に御幸したまい,劉英の夫人及び六子と見え,厚く賜を加増した.

[一]續漢輿服志に曰く:「諸侯王は赤綬四采,その長さ二丈一尺.皇子は安車で,青蓋に金華藻とする.」

劉种は後に徙って六侯に封じられた.[一]卒すると,子の劉度が嗣いだ.度が卒すると,子の拘が嗣いだ,国は後々まで伝えられた.

[一]六は,県名である,廬江郡に属する.

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【済南安王劉康】

済南安王劉康は,建武十五年に済南公に封じられ,十七年に爵が進んで王と為り,二十八年に就国した.三十年,以て平原の祝阿、安徳、朝陽、平昌、隰陰、重丘の六県を済南国に益した.中元二年,劉康の子の劉徳を封じて東武城侯とした.[一]

[一]東武城は清河郡に属する,今の貝州武城県が是である.

劉康は国に在って法度を循せず,賓客と交わり通じた.其後,人が上書して告げるに劉康は州郡の姦猾である漁陽の顏忠、劉子產等を招来し,また其の鋤蛯多く遣わし,圖書を案じ,謀議して不軌をなす、と.事は下され考じられ,有司は之を挙げて奏し,顯宗は親親の故を以って,忍びなく竟に其事を窮めたが,但、祝阿、隰陰、東朝陽、安徳、西平昌の五県を削るにとどめた.[一]

[一]東朝陽は今の斉州臨済県東に在る.西平昌は,今の徳州般県である也.般の音は補満反.

建初八年,肅宗はその削った地を復還し,劉康は遂に財貨を多く殖産し,大いに宮室を修造し,奴婢は千四百人,廄馬すること千二百匹,私田は八百頃に至った,その奢侈は欲すること恣とし,節無く遊観した.永元初め,国傅何敞が上疏して劉康を諫めて曰く:「蓋し諸侯の義を聞くに,制節謹度して,然る後に其の社稷は能く保たれ,其の民人を和ますとか.[一]大王は骨肉之親を以って,茅土を食に享け,当に政令を施張すべく,其の典法を明らかにし,出入進止,宜しく節度を期すこと有りますよう,輿馬台隸は,応じるに品を科して為してくださいますよう.[二]而るに今、奴婢廄馬は皆有すること千余となり,無用之口を増しておりまして,以て自ずと蠶食しているしだいです.[三]宮婢は閉ざされ隔てられて,其の天性を失い,和気を惑乱させております.また内第を多く起てられているため,その觸犯防禁への,費えは巨万となっております上,[四]功(防犯の効果)は猶未だ半ばならずといった様子です.夫文繁なるは質荒く,木勝なるは人亡ぶというのは,[五]皆以て奉礼して承上する所に非ざることです,福を伝えることこそ無窮というものでしょう也.故の楚は作章して華するに凶を以ってし,[六]呉は姑と蘇って而も滅びました,[七]景公の千駟については,民は称えること無かったのです焉.[八]今、何度も諸第に遊び,晨夜して節無いのは,また未然を遠く防ぐ所に非ざることです,深きに臨んで薄きを履くの法というものです(深淵に張られた薄氷を渡るようなものです)也.願わくば大王よ恭儉を修めて,古制を遵守し,奴婢の口を省き,乗馬の数を減らし,私田の富を斥け,

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遊観の宴を節制し,礼を以って起居されますよう,この何敞に則ってくださいますなら乃ち敢えて心安んじ自ずと保たれましょう.惟うに大王は愚言を深く慮ってくださいませ.」劉康は素より何敞を重く敬っていたが,嫌啎する所無しと雖も,然るに終に能く改めなかった.

[一]孝経諸侯章之義也.

[二]台、隸は賤職である也,左氏伝に曰く:「人には十等が有る,王の臣である公,公の臣である卿,卿の臣である大夫,大夫の臣である士,士の臣である皁,皁の臣である輿,輿の臣である隸,隸の臣である僚,僚の臣である僕,僕の臣である台(の十等である)」也.

[三]言うに蠶之食の如し,漸至衰盡(次第に衰え尽きるに至る)也.

[四]巨は,大である也.大万は万万と謂う.

[五]荒は,廃である也.文彩繁多であれば,則ち質すに之を以って廃する,土木増構すれば,則ち人は其力を殫する,故に云う、人亡ぶと.

[六]左氏伝,楚靈王成章華之台,後卒被殺.杜預注は云う「台は今の南郡華容県に在った」也.

[七]姑蘇台は一名に姑胥台という.越絶書に曰く:「胥門外有九曲路,闔廬以遊姑蘇之台,以望湖中.」顧夷(吾)[呉]地記云:「横山北有小山,俗謂姑蘇台.」在今蘇州呉県西.闔廬後被越殺之.

[八]論語:「斉景公は馬千駟を有する,死之日,人無徳而称焉.」千駟は,四千匹である.

立つこと五十九年して薨じ,子の簡王錯が嗣いだ[一]劉錯は太子と為った時,劉康の鼓吹妓女をしていた宋閏を愛し,醫の張尊を使って之を招こうとしたが得なかった,そのため劉錯は怒り,自ら以てをして張尊を刺殺した.国相が挙奏したところ,案ずる勿れと詔有った.永元十一年,劉錯の弟七人を封じて列侯とした.

[一]錯の音は七故反.

劉錯は立つこと六年して薨じ,子の孝王香が嗣いだ.永初二年,劉香の弟四人を封じて列侯とした.劉香は篤行であり,経書を好んだ.初め,叔父の劉篤は

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罪有って封を得なかった,西平昌侯劉cも法に連座して侯を失った,そこで劉香は乃ち上書して爵土を分けて劉篤の子の劉丸、劉cの子の劉嵩を封じてもらい,(二人は)皆列侯と為った.

劉香は立つこと二十年にして薨じた,子は無く,国は絶えた.

永建元年,順帝は劉錯の子で阜陽侯の劉顯を立てて後嗣と為し,是が釐王と為った.立つこと三年して薨じ,子の悼王広が嗣いだ.永建五年,劉広の弟劉文を封じて楽城亭侯と為した.

劉広は立つこと二十五年,永興元年に薨じた,子は無く,国は除かれた.

【東平憲王劉蒼】

東平憲王蒼は,建武十五年に東平公に封じられ,十七年に進爵して王と為った.

劉蒼は若いころから経書を好み,雅は智思を有し,為人<ひととなりは>美しく須,要帯八圍,顯宗は甚だ之を重く愛した.即位するに及び,拝して驃騎将軍と為し,長史、掾史定員四十人を置き,位は三公の上に在った.[一]

[一]四府の掾史は皆四十人も無い,今特に置いて以て之を優遇したのである也.【a】

a】ここで言う四府とは1つの見方として三公(太尉、司徒、司空)の府と太傅の府のことと考えられる。もう1つは高い功績または親親のゆえに任じられる大将軍、驃騎将軍、車騎将軍の府をまとめて「将軍府」と見て、四つ目の府とする見方である。

永平元年,劉蒼の子二人を封じて県侯と為した.二年,東郡の寿張、須昌,山陽の南平陽、(ノ)[橐]、湖陵の五県を以って東平国に益した.[一]是時中興すること三十余年,四方は虞無く,劉蒼は天下が平に化したのを以って,宜しく礼楽を修め,乃ち公卿らと共に議して南北郊、冠冕、車服、制度を定めた,及光武廟登歌八佾舞数,語は礼楽、輿服志に在る.[二]帝が巡狩されたまうたびに,劉蒼は(都に?)常留して鎮護し,皇太后に侍した.

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[一]南平陽は,県である,故城は今の兗州鄒県である也.(ノ)[橐]は,県である,一名に高平という,故城は鄒県西南に在る.湖陵の故城は今の兗州防與県東南に在る.

[二]其の志

四年春,車駕が近出し,城第を観覧した,[一](帝が出かけた訳を劉蒼が周囲に)尋ね聞くと当に遂に河内に校獵しようとしているとのこと,そこで劉蒼は即ち上書して諫めて曰く:「臣が時令を聞きますに,春の盛りは農事に充て,不聚興功.[二]伝に曰く:『田獵は宿せず,飲食は享けず,出入するに節せず,則ち木は曲直せず.』と。此は春を失う令というものであります也.[三]臣は車駕が今出かけられていると知りました,事が約省(節倹すること)に従っているなら,吏人の過ぎる所、甘棠之徳が諷誦されましょう.然ると雖も,動かすは以て礼するというものではなく,以て四方に示す所のものでもございません也.惟うに陛下が因って田野に行かれるのは,稼穡を循視され,仿佯を消搖されて,弭節して旋るということなのでしょう.[四](しかしながらそのまま)秋冬に至れば,乃ち威靈を振るい,法駕を整え,周を備え,羽旄を設けることになります.[五]詩に云う:『よくよく威儀を抑える,惟うに徳の隅というものだ.』[六]臣は憤懣するに勝てず,伏して自ずから手書し,行在されている所に詣でることを乞い,至誠を極陳いたします.」帝は奏上されたものをご覧になると,即ち宮に還った.

[一]第は,宅である也.甲乙之次に有する,故に曰く第.

[二]礼記月令に曰く「孟春の月,大聚める無く,城郭を置く無し.仲春の月,大事を作る無く,以て農事を防がせる」也.

[三]尚書五行伝に曰く:「田獵は宿せず,飲食は享けず,出入に節せず,人より農時を奪う,姦謀有るに及び,則ち木は曲直せず.」鄭玄注に云う:「木の性は或いは曲、或いは直,人が用いて器と為る所の者である也.無故生不暢茂,多有折槁,是為不曲直也.」前書音義に曰く:「不宿とは,不預戒日である也.」

[四]皆(どれも)遊散の意味である.詩に曰く:「於焉消搖.」左氏伝に曰く:「横流而仿佯.」前書音義に曰く:「弭節は猶ほ按節である也,馳驅することを盡意しないことを言う也.」

[五]旄謂注旄於竿首.

[六]詩は大雅の文である也.抑抑は,密である也.隅は,廉である也.言人審密於威儀抑抑然者,其の徳は必ずや厳正,如宮室之制,内繩直則外有廉隅.

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劉蒼は在朝すること数載,多くの所が隆益し,而して自ら至親を以て輔政したため,声望は日重することとなり,意(心中)自ずと安んじなかった,そこで上疏して帰職するに曰く:「臣蒼は疲駑せり,特に陛下の慈恩に覆い護られることと為り,家に在って教導之仁を備え,升朝して爵命之首を蒙り,制書し美して班すること之れ四海,負薪之才を挙げ,君子之器に升りました.[一]凡そ匹夫は一介といえど,尚も簞食之惠を忘れず,[二]況んや臣は宰相之位に居り,同気之親にあるのです哉!宜しく当に骸を膏野に暴し,百僚の先と為るべきでありますのに,而るに(私は)愚頑之質で,加えて固より病あって,誠に乗を負うに羞じ,輔将之位を辱汙しており,将に人の『三百赤紱』之刺を詩うを被るしだいです.[三]今、方域は晏然とし,要荒無儆,[四]将に上徳を遵守する無為之時というものであります也,文官は猶も并省すべく,武職は尤も建に宜しからず.昔象は有鼻に封じられ,政を以て任じませんでした,[五]誠に愛深の由であり,其の過悪を揚げるに忍びなかったのであります.前事の忘れざる,来事の師であります也.漢が興こってより以来,宗室の子弟は公卿の位に在る者を得ませんでした.惟ふに陛下は虞帝が母弟を優養されたまわられ終に厚恩して卒せられましたことを審らかにご覧になられ,旧典を遵守し承ったのでしょう.しかしながら私は驃騎将軍の印綬を上し,退いて蕃国に就かんこと乞います,願わくば哀憐を蒙らんことを.」帝は優詔して聴かなかった.其後何度も乞を陳述したが,辞は甚だ懇切であった.五年,乃ち許されて国に還ったが,上将軍の印綬のことは聴かれなかった.驃騎将軍の長史を以て東平太傅と為し,掾は中大夫と為し,令史は王家の郎と為った.[六]加賜あること銭五千万,布十万匹であった.

[一]負薪は,小人を喩える也.易に曰く:「負い且つ乗る,寇を致し至る.」負也者小人之事,乗也者君子之器,小人を以て而して君子之器に乗る,則ち思を盗み之を奪う矣.

[二]簞は,竹器である也.圓が曰く簞,方が曰く笥.左氏伝に曰く:「晋宣子は首山に於いて田す,翳桑に於いて舎す,靈に見えて輒ち餓え,曰く:『不食すること三日矣.』之を食す,舍其半.之を問うに,曰く:『宦三年矣,未だ母の存否を知らず,之を遺さんことを請う.』使盡之,而為簞食[與肉以]與之.既而(與)[輒]為公介[士],倒戟以禦公徒而免之.問何故,曰:『翳桑之餓人也.』」

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[三]赤紱は,大夫之服である也.詩の曹風に曰く:「彼己之子,三百赤紱.」其の無徳にして位に居る者多いことを刺す也.

[四]王を去ること畿五百里して曰く甸服,又五百里して曰く侯服,又五百里して曰く綏服,又五百里して要服,又五百里して荒服.儆は,備である也,音は警.

[五]有鼻は,国名である,其地は今の永州営道県北に在る.史記に曰く舜の弟である象が有鼻に封じられた也.

[六]漢官儀「将軍の掾属は二十九人,中大夫は定員無く,令史は四十一人である」也.

六年冬,帝は魯に御幸した,劉蒼を徴して従え京師に還る.明年,皇太后が崩じられた.既に葬してから,劉蒼は乃ち帰国したが,宮人奴婢五百人,布二十五万匹,及び珍寶服御器物を特に賜った.

十一年,劉蒼は諸王と京師に朝した.月余に,還国した.帝はその帰宮を送るに臨み,悽然として懐思し,乃ち使者を遣わして手ずからの詔を国中に傅えて曰く:「辞別の後,独坐して楽しまず,因って車が帰りに就くと,伏軾して吟く,永懐を瞻望して,我心は実労する,誦して采菽するに及び,以って歎息を増す.[一]日者が東平王に家を処すのにあたり何が最も楽しいことかと問うと,王は善を為すのが最も楽しいと言った,其の言は甚大である,是を副えて要腹す矣.今、列侯の印十九枚を送る,諸王の子は年五歳已上能趨拝者,皆令して之を帯びよ.」

[一]采菽は,詩の小雅の章である也.其の詩に曰く:「采菽采菽,筐之筥之,君子来朝,何錫與之?」毛萇注に云う:「菽所以芼大牢而待君子也.」

十五年春,東平に行幸し,劉蒼に銭千五百万,布四万匹を賜った.帝以所作光武本紀示蒼,蒼因上光武受命中興頌.帝甚善之,以其文典雅,特令校書郎賈逵為之訓詁.

肅宗が即位すると,尊重恩礼踰於前世,諸王で比すものはいなかった.建初元年,地震があり,劉蒼は便宜を上し,其の事は留

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中された.[一]帝は書を報いて曰く:「丙寅に上する所の便宜三事,朕は親しく自ら覽讀し,反覆すること数周,心が開かれ目は明るくなり,曠然として矇が発かれた.[二]間に吏人から奏事があり,亦此言が有った,但し明智は淺短であり,或いは儻是を謂い,復して非を為す慮っていた.何者?災異が降るのは,政に縁りそれから見えるのである.今、改元後の年であるのに,飢えた人が流れている,此は朕の不徳が感応して所致されたのであろう.また冬春に旱が甚だしく,被る所尤も広く,内用すると雖も克責して,而して定まる所を知らず.王の深策を得て,快然として意は解された.詩は云わないだろうか:『未だ君子に見えざる,憂心忡忡;既に君子に見えたるは,我心則ち降る.』[三]思い惟うに謀を嘉し,以て奉行を次して,福応を蒙りたいと冀っている.彰して至徳に報いる,王に銭五百万を特賜する.」

[一]禁中に留めたのである也.

[二]韋昭が国語に注して曰く:「有眸子而無見曰矇.」

[三]詩の国風である也.忡忡猶衝衝.降は,下である也.

後に帝は原陵、顯節陵を為そうと欲し県邑を起てたが,劉蒼は之を聞くと,遽って上疏して諫めた、曰く:「伏して聞きますに当に二陵を為すべく郭邑を起立したとか,臣は前に頗る道路之言を謂いましたが,その実を審らかにできなかったのではと疑っております,近令従官古霸問陽主疾,[一]使還,乃知詔書已下.光武皇帝のなさった躬履儉約之行を窺い見ますに,深始終之分,勤勤懇懇,葬制を以って言を為しました,故に陵地の営建(造営)は,古典を具に称えられたのです,詔に曰く『無為山陵,陂池裁令流水而已(山を為すこと無く陵し,陂池は水を流し而して已ませるよう裁令する)』.孝明皇帝は大孝されて違うこと無く,承を奉じられて行いを貫かれました.[二]至於自所営創(自ら営する所に於いて創るに至るや),尤為儉省(尤なる(素晴しい)ことに儉省為さいましたが),それはまったく謙徳之美というものでありまして,斯に於いて盛を為した((その徳は)盛んと為った)のです.[三]臣は愚かしくもおもいますが園邑之興を以って,始自彊秦(それから秦の強大が始まったのであります).古には丘隴(を利用しただけで)且つ其の著明なるを欲しないものでありました,[四]豈況築郭邑,建都郛哉!(況や郭邑を築き,都郛を建てるなど.どうしてそんなことを欲することできましょうか!)[五]上は先帝の聖心に違え,下は無益之功を造る,虚しく国の用を費やし,百姓を動揺させる,そういったことは以って和気を致し,豊年を祈るに非ざる所であります也.又以吉凶俗數言之,亦不欲無故繕修丘墓,有所興起.之を古法で考えますに則ち合わず,之を時宜に稽<かんが>えますに

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則ち人に違い,之に吉凶を求めれば復未だ其の福を見ないものであります.陛下は有虞之至性を履かれ,祖禰之深思を追われて,然るに左右が議を過つのを懼れ,以って聖心を累<かさね>られました.臣蒼は誠に二帝の純徳之美を傷み,不暢於無窮也.哀覽を蒙られることを惟います.」帝は従うと而して止めた.是より朝廷は政に疑い有る毎に,輒ち驛使して(劉蒼に)諮問することとなった.劉蒼は悉く心すると以って對したため,皆(意見は)納れられて用いられることに見えた.

[一]風俗通に曰く:「古は姓である,周の古公亶父が有る,其後の氏である焉.」陽主は,光武の女<むすめ>であり,竇固の妻である也.

[二]貫行とは謂うに一に皆遵奉するということである也.谷永は曰く「一は以って行いを貫くに,固執して違うこと無し」也.

[三]易に曰く:「謙徳之柄である.」

[四]礼記に曰く:「古には墓であって而して墳ではなかった.」故に言う其の著明を欲しないと.

[五]穀梁伝に曰く:「人の聚<あつ>まる所は曰く都である.」杜預は左伝に注して曰く:「郛は,郭である也.」

三年,帝南宮に於いて饗士すると,因って皇太后を従えて掖庭池閣に周行したが,乃ち太后が旧時の器服であることを陰に閲し,愴然として動容すると,乃ち命じて五時衣を留めさせ各一襲(が下賜された),[一] 及んで御衣は五十篋を合わせる所を常にとし,余りは悉く諸王主及び子孫で京師に在る者に分布したが各々差が有った.(帝は)劉蒼及び琅邪王劉京に特賜すると書して曰く:「中大夫が使いを奉じ,動静を親しく聞いた,之を嘉するに何をか已まん!歳月は騖過し,山陵は浸遠,孤心は悽愴である,如何如何!間饗士於南宮,因って閲視すると旧時の衣物であった,師に於いて聞いたものだが曰く:『其の物存して,其の人亡ぶ,哀を言わずとも而して哀は自ずと至る.』とか、信<まこと>である矣.王の孝友之徳を惟うと,亦豈に然らざるや!(どうして然らずなどとできようか!)今、光烈皇后が假紒した帛巾各一,[二]及び衣一篋を送る,可時奉瞻,以って凱風寒泉之思いを慰め,[三]又後生の子孫が先后の衣服之製に見えることが出来るよう欲して令するものである.今でも魯国の孔氏は,尚も仲尼の車輿冠履を有しているという,明徳が盛んであれば光靈は遠くまでとどくものだ也.[四]其の光武皇帝の器服については,中元二年に諸国に已に賦している,故に復送しない.

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併せて宛馬一匹を遣わす,血従前髆上小孔中出(目の前で見たが血が髆上の小孔中から出てきた).常聞武帝歌天馬,霑赤汗,(天馬は赤い汗で(その身を)霑<うるお>すと武帝が歌ったことは常に聞いていたが,)今親しく見るとその通りであった也.[五]頃反虜尚屯(この頃は(外地では)反って虜となって尚も(兵が)駐屯している有様で),将帥は外に在り,憂念遑遑として,未だ間に寧ずることを有しない.[六]願わくば王が精神を寶して,供養を加えられんことを.(王の)苦言は至戒(まこと最上の戒め)である,之を望むこと渇す如しである(渇きに苦しむ人が水を望むかのようである).」

[一]五時衣は謂うに春青,夏朱,季夏黄,秋白,冬黒である也.衣は単複具わる曰く襲とする.

[二]周礼:「追師して王后之首服を掌るは副編を為す.」鄭玄は云う:「副とは,婦人の首服である,三輔では之を假紒と謂う.」續漢書では「帛」の字は「皁」と作る.

[三]詩の国風に曰く;「凱風は,美孝子である也.」「凱風は南より,彼の棘心を吹く,棘心夭夭,母氏劬労す.寒泉を爰有し,浚之下に在って,子七人を有して,母氏労苦す.」寒泉は今の濮州濮陽県に在る.

[四]孔子廟は魯(国)曲阜城中に在る.伍緝之従征記に曰く:「魯人は廟中に於いて孔子が乗車した所のものを蔵している,是は顔路が請う所の者である也.獻帝の時,廟が火事に遇い,之を焼いてしまった.」冠履は鍾離意伝に解見される.

[五]前書の天馬歌に曰く「太一況や,天馬下る,霑すは赤汗,沫流すること赭なり」也.

[六]間の音は閑.

六年冬,劉蒼は上疏して朝を求めた.明年正月,帝は之を許した.特賜あること装銭千五百万,其の余りの諸王は各千万であった.帝は以って劉蒼に寒露を冒し渉らせてしまったとして,謁者を遣わして貂裘,[一]及び太官の食物珍果を賜ると,大鴻臚の竇固に持節させ使って郊に迎えた.帝は乃ち親しく自ら邸第に循行すると,帷豫設したが,其の銭帛器物で充ち備えないものは無かった.下詔に曰く:「[礼は云う]伯父が帰寧するは乃ち国であると,[二]詩は云う叔父は爾元子を建てる,[三]敬之至るものであると也.昔蕭相国は忠賢に優れていたため不名を以って加えられた也.[四]況や親尊を兼ねる者において乎!其の沛、済南、東平、中山四王は,皆を讚じるさい名のる勿れ.」[五]劉蒼は既に至ると,升殿して乃ち拝し,天子は親しく之に荅した.其の後に諸王が入宮し,輒ち以って輦迎し,省

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閤するに至って乃ち下った.劉蒼は以って恩を受けること礼を過ぎたため,情は自ずと寧んじなくなった,上疏して辞して曰く:「臣は聞きますに貴きは常尊有り,賤しきは等威有りとか,[六]卑高は序を列し,上下は理を以ってするものです.陛下は広く施すこと至徳でありまして,骨肉を慈愛され,既賜奉朝請,咫尺天儀,而して親しく至尊を屈されまして,下臣に降礼されました,賜る毎に讌見なさいます,輒ち興席して改容し,中宮で親しく拝されるのですが,事は典故に過ぎるものです.臣は惶怖戦慄しておりまして,誠に自ずと安んじません,会見する毎に,踧踖し措置する所無いしだいです.[七]此は以って下に章示する所に非ざるものでして,安臣子也(安んぞ臣子なりや/どうして臣子であるといえましょう).」帝は奏を省みると歎息し,愈貴焉.旧典では,諸王女は皆郷主に封じるとあったが,乃ち独り劉蒼の五女を封じて県公主と為した.

[一]説文に曰く:「貂は,鼠属である也,大にして而して黄黒,丁零国に出る.」

[二]儀礼に曰く「覲礼は,諸侯が郊にて至ると,王が皮弁を使って璧労を用い,侯氏は亦皮弁で帷門之外に迎え,再拝する.天子が舍を賜るや,曰く:『賜伯父舍.』同姓は西面し,北上する;異姓は東面し,北上する.侯氏裨冕,釋幣于禰,乗墨車,載龍旂、弧韣,乃朝以瑞玉,有繅.天子は斧扆を負うて,曰く:『伯父実に来たる,余一人之を嘉す.』束帛匹馬を奉じ,卓上九馬隨之,奠幣再拝.侯氏が降るや,天子は侯氏に辞して曰く:『伯父無事,帰寧乃邦.』侯氏は再拝稽首して而して出る」也.

[三]詩の魯頌之文也.叔父は周公を謂う也.建元子は伯禽を封じたことを謂う也.

[四]前書王莽伝に見える.

[五]讚は謂うに讚じるとは其名を唱しないのである

[]左伝隨武子之辞也.等威,威儀有等差也.

[七]踧踖,謙讓貌也.

三月,大鴻臚が諸王を遣わして帰国させてはどうかと奏上すると,帝は劉蒼を特に留め,祕書、列僊圖、道術祕方を以って賜った.八月に至ると飲酎したが

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畢わると,[一]有司が復た劉蒼を(国に就かせるため)遣わすことを奏上したため,乃ち之を許した.手から劉蒼に詔賜して曰く:「骨肉は天性である,誠に遠近を以って親と為すのではない,然るに何度も顔色を見たが,情の重いこと昔の時のようである.王が久しく労る念じて,還って休みを得ることを思う,大鴻臚が奏ずるよう署そうと欲するが,筆を下すに忍びなく,顧みて小黄門に授ける,心の中は戀戀とし,惻然として言う能わない.」[二]是に於いて車駕が祖送すると,流涕して而して訣した.復た乗輿服御,珍寶輿馬,銭布を賜ったが以って億万を計(上)した.

[一]飲酎,解見章紀.

[二]大鴻臚は王の帰国を奏じ,小黄門は受詔する者である.

劉蒼は国に還ると,疾病にかかった,帝は名醫を馳遣し,小黄門侍疾,使者冠蓋不絶於道.また驛馬を置くこと千里,伝えて起居を問うた.明くる年正月薨じると,詔で中傅に告げ,劉蒼が建武より以来(書き残した)章奏及び書、記、賦、頌、七言、別字、歌詩で作った所のものを封上させると,並んで集覽した焉.大鴻臚に持節させて遣わし,五官中郎将が喪を副監し,将作の使者は凡そ六人に及んだ,四姓小侯、諸国王主に悉く会して東平に詣で喪に奔るよう令し,銭を賜ること前後一億,布は九万匹となった.葬するに及んで,策して曰く:「建初八年三月己卯に惟う,皇帝曰く:咨王は丕顯である,王室に勤労し,親しく策命を受け,前の世を昭した.出ては蕃輔を作り,(己に)克ち慎んで明徳であり,礼を率いて(規を)越えなかった,[一]傅聞在下(その下に在ったものは誰もがそれを聞いただろう).[二](嗚呼、)昊天は(劉蒼を)弔わず,(劉蒼の)上仁に報いず,余一人を俾屏する,夙夜碇秩ヵカ字化け>,靡有所終.[三]今、有司に詔して鸞輅乗馬,龍旂九旒,虎賁百人を加賜し,王の(葬)行を奉じて送らせる.匪我憲王(我に匪ざるか憲王),其の孰れか之を離すや![四]魂そして而して靈有ら,保茲寵栄されんことを.嗚呼哀しいかな哉!」

[一]率は,循である也.越は,違えるである也.

[二]傅の音は敷.敷は,布である也.書に曰く:「克慎明徳,敷聞在下.」

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[三]俾は,使である也.屏は,蔽である也.左氏伝に曰く「昊天不弔,不憖遺老,俾屏余一人,碇苧]在疚」也.

[四]離は,被である也.言うに憲王に非ざれ誰が此恩を更めて被蒙(こうむる)するだろう也.

立つこと四十五年,子の懐王忠が嗣いだ.明年,帝は乃ち東平国を分けて劉忠の弟の劉尚を封じて任城王と為し,余りの五人を列侯と為した.

劉忠は立つこと(十)一年して薨じ,子の孝王敞が嗣いだ.元和三年,東に行って巡守し,東平宮に御幸されると,帝は劉蒼のことを追って感じ念じ,其の諸子に謂いて曰く:「其人を思い,其郷に至る;其の処在に,其人は亡き.」因って泣き下ると沾襟(襟をしとどに濡らし),遂に劉蒼の陵にまで御幸すると,虎賁、鸞輅、龍旂を陳為し,以って章して之を顯かとし,祠するに太牢を以ってして,親しく祠に拝して坐し,哭泣し哀尽きると,陵前に御を賜った[一]初め,劉蒼が帰国すると,驃騎(将軍)であった時の吏(部下)丁牧、周栩は以蒼敬賢下士(劉蒼がその賢さを敬った下士であった),(劉蒼は)之と去るに忍び(彼らと別れるのに耐えられず),遂に王家の大夫と為したため,(彼らは王家に)数十年祖(である劉蒼から)及んで孫にまで事<つか>えた.帝は聞くと,皆前に於いて引見し,其の淹滞を既愍し,且つ劉蒼の徳美を称揚しようと欲し,即ち皆(どちらも)擢び拝して議郎とした.丁牧は斉相に,周栩は上蔡(県)令に至った.永元十年,劉蒼の孫の劉梁を封じて矜陽亭侯と為し,劉敞の弟六人を列侯と為した.劉敞は母を喪うにあたって至孝であったため,国相陳珍が其の行状を上した.永寧元年,ケ太后は邑五千戸を増し,又劉蒼の孫二人を封じて亭侯と為した.

[一]陵は今の鄲州東峗山南に在る.峗の音は魚委反.

劉敞は立つこと四十八年して薨じ,子の頃王端が嗣いだ.立つこと四十七年して薨じ,子の劉凱が嗣いだ;立つこと四十一年,魏が受禅したため,以って崇徳侯と為った.

論に曰く:孔子は称えた「貧して而して諂無し,富んで而して驕り無し,未だ若貧しかりきも而して楽しみ,富みて而して礼を好む者也」.若し東平憲王こそ,

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礼を好む者と謂うべきであろうか也.若其辞は母后を去って戚に至る,豈に苟しくも名行を立てようと欲して而して親が義を遺したことを忘れるものだろうか哉!蓋し位するに疑えば則ち隙生じ,累近ければ則ち喪うは大きい,[一]斯くは蓋し明哲之所為歎息.嗚呼!隙を遠ざけるに全忠を以ってし,釋累するに成孝を以ってする,夫豈に憲王之志なるか哉![二]東海恭王は遜って而して廃を知る,[三]「為呉太伯,不亦可乎」![四]

[一]憂累は既に近く,喪う所は必ずや大きい.

[二]言うに其の本志は然るということである也.

[三]遜は,讓である也.

[四]左伝(曰)晋大夫士蒍之辞である也.呉太伯は,周太王之長子である,其弟季歴に譲ると,因って呉、越に適うと采薬した,大王が沒したが而して反らなかった,事は史記に見える也.

【任城孝王尚】

任城孝王尚は,元和元年に封じられた,食は任城、亢父、樊の三県である.[一]

[一]亢父、樊は並んで東平国に属した.亢父の故城は今の兗州任城県南に在る.樊の故城は今の瑕丘県西南に在る也.

立十八年薨,子の貞王安が嗣いだ.永元十四年,母の弟福を封じて桃郷侯と為した.永初四年,(?)福の弟亢を封じて当塗郷侯と為した.劉安の性は輕易にして貪吝であり,何度も微服して出入りし,国中を游観した,官属の車馬刀を取り,下は士米肉に至ったが,皆不與直.元初六年,国相の行弘が奏して之を廃すことを請うた.安帝は忍ばず,一歳の租五分之一(一年の租税の五分の一)を以って贖罪とした.

劉安は立つこと十九年して薨じた,子の節王崇が嗣いだ.順帝の時,羌虜が何度も反(乱)した,劉崇は輒ち銭帛を上らせて辺費(辺境維持の予算)を佐した(助けた).帝が崩ずるに及んで,復銭三百万を上して山陵用度の助けとすると,朝廷は嘉したが而して受けとらなかった.立つこと三十一年して薨じた,子は無く,国は絶えた.

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延熹四年,桓帝は河間孝王の子(恭為)である参戸亭侯博(劉博)を立てて任城王と為し,以って其祀を奉じさせた.[一]劉博は孝行有り,母を喪うと服制を礼の如くしたため,三千戸を増封された.立つこと十三年して薨じた,子は無く,国は絶えた.

[一]杜預は左伝に注して曰く:「今の丹水県北に三戸亭が有る.」故城は今のケ州内郷県西南に在る也.

熹平四年,靈帝は復して河間貞王(遜)[建]の[子]である新昌侯(子)佗を立てて任城王と為し,孝王の後を奉じさせた.立つこと四十六年,魏は受禅すると,以って崇徳侯と為した.

【阜陵質王延】

阜陵質王延は,建武十五年に淮陽公に封じられ,十七年に進爵して王と為り,二十八年就国した.三十年,汝南の長平、西華、新陽、扶楽四県を以って淮陽国を益された.[一]

[一]長平の故城は今の陳州宛丘県西北に在る,西華故城は今の水県西北に在る,新陽故城は今の豫州真陽西南に在る,扶楽故城は今の陳州太康県北に在る也.

劉延の性は驕奢にして而して下に遇うと厳烈であった.永平中に,劉延が(王)姫の兄の謝弇及び姊館陶主の婿で駙馬都尉の韓光と姦猾を招いて,圖讖を作り,祠祭祝詛を行っていると告げる上書が有った.事は案驗に下されて,韓光、謝弇は殺され,(彼らの)辞する所に連座し死んだり徙るに及んだ者は甚だしいものであった.有司が奏して劉延を誅することを請うた.顯宗は以って劉延の罪は楚王劉英(と比べるに)於いて薄いとして,故に特に恩を加えられ,徙して阜陵王と為し,食二県とした.

劉延は既に封を徙されると,何度も怨望を懐いた.建初中に,復たも劉延が子男魴と逆謀を造ろうとしていると告げる者が有った,有司は奏すると檻車で徴し廷尉が詔獄に詣でることを請うた.

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肅宗は詔を下して曰く:「王は前に大逆を犯しており,罪悪は尤深である,周の管、蔡,漢の淮南と同じものが有る.[一]経は正義を有し,律は明刑を有する.[二]先帝は親親之恩に忍びなく,大法を枉げ屈して,王に愆を受けさせた,[三]下莫不惑焉.今王は(その機会に)会って悔悟すること莫く,悖心は移らなかった,逆謀内潰,自子魴発,誠に本朝之楽聞する所に非.朕は惻然として心を傷ます,理にて王に(罰を)致すに忍びない,今貶爵して阜陵侯と為し,食一県とする.斯辜を獲たのは,侯が自ら取ったものであるのだ焉.於戲誡哉!」魴等の罪は赦す、驗ずる勿れ,謁者一人を使って劉延の国を監護させる,吏人と通じること得ないように.

[一]淮南脂、長は,高帝の子である,文帝の時に反し,遷を被り蜀に於いて而して死んだ也.

[二]公羊伝は曰く:「君親無将,将而必誅.」前書に曰く:「大逆無道のときは,父母、妻子、少長の別なく同じに産まれたもの(兄弟姉妹(妻の兄弟姉妹も入るか?))は皆棄市する.」

[三]愆は,過ぎるである也.反して而して誅しない,先帝の過である,故に言うに王は過を受けるを為したと也.

章和元年,九江に行幸すると,劉延に書を賜り車駕(を共にし)寿春で会った.帝は劉延及び妻子に見えると,愍然として之を傷み,乃ち詔を下して曰く:「昔周之爵封は千有八百,而して姫姓居半者,所以驫イ王室也.朕は南巡して,淮、海を臨んだが,意は阜陵に在ったのだ,遂に侯と相見えた.侯の志意は衰落して,形體は故に非,瞻省懐感していて,以って喜び以って悲しむ.今、侯を復して阜陵王と為す,四県を増封して,前と併せて五県とする.」以阜陵下溼,徙都寿春(阜陵の下溼から都を寿春に徙され),銭千万,布万匹,安車一乗を加賜され,夫人諸子も賞賜されたがそれぞれ差が有った.明くる年入朝した.

立つこと五十一年して薨じ,子の殤王沖が嗣いだ.永元二年,下詔盡削除前班下延事(詔が下って前に劉延の事で班下されたことは尽く削除された).

劉沖は立つこと二年して薨じた,後嗣は無かった.和帝は劉沖の兄の劉魴を復して封じた,是が頃王と為った.永元八年,劉魴の弟十二人を封じて郷、亭

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侯と為した.

劉魴は立つこと三十年して薨じた,子の懐王恢が嗣いだ.延光三年,劉恢の兄弟五人を封じて郷、亭侯と為した.

劉恢は立つこと十年して薨じ,子の節王代が嗣いだ.陽嘉二年,劉代の兄の劉便親を封じて勃亭侯と為した.

劉代は立つこと十四年して薨じた,子は無く,国は絶えた.

建和元年,桓帝は勃亭侯便親を封じて劉恢の後嗣と為した,是が恭王となった.立つこと十三年して薨じた,子の孝王統が嗣いだ.立つこと八年して薨じ,子王赦が立った;建安中に薨じた,子は無く,国は除かれた.

【広陵思王荊】

広陵思王荊は,建武十五年山陽公に封じられ,十七年進爵して王と為った.

劉荊は性が刻急で隠害をなしたが,[一]才能有って而して文法を喜んだ.光武(帝)が崩じられると,大行在前殿(葬礼の大行を目前にして),劉荊は哭しても哀さず,而して飛書を作ると,封じて以て方底すると,[二]令蒼頭(蒼頭に命令し)東海王劉彊の舅で大鴻臚の郭況を詐称させて劉彊に書した、曰く:「君王は無罪である,猥りに斥廃を被り,而して兄弟は束縛されて牢獄に入る者を有するに至った.太后は失職され,北宮を別に守って,[三]及んで年老いるに至った,遠く居を辺(端っこ)に斥けられたが,[四]海内は深く痛み,観る者は鼻酸としている.太后の尸柩が在堂するに及び,洛陽の吏は以次捕斬賓客(賓客を次々に捕らえては斬っており),それは一家で三尸(三つの屍)が伏堂するもの有するに至っている(堂に伏しその為吏に斬られて絶命した),甚だ痛ましいことである矣!今天下は喪有って,弓弩は張設されて甚だ備わっている.間梁松虎賁史に曰く:『吏以便宜見非,勿有所拘,[五]封侯難再得也.』郎官は之を竊って悲しみ,為王寒心累息(王の為に寒心累息している).[六]今天下争欲思刻賊王以求功,寧有量邪!若し帰って二国併せれば,百

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万を聚めることができる,君王が之を為して主となり,鼓行すれば前(に塞がるもの)無く,功易於太山破雞子,輕於四馬載鴻毛(功は泰山が鶏子を破るに於いて易いように,また四馬が鴻毛を載せるに於いて軽いように易々と成し遂げられよう),此は湯、武の兵である也.今年軒轅星が白気に有り,星家及び喜事者は,[七]皆云うに白気は喪である,軒轅は女主之位であるとした.又太白が前に西方に出て,午に至ったが兵当に起つべしということである.[八]又太子星の色が黒く,辰日に至って輒ち赤く変じた.[九]夫黒は病を為す,赤は兵を為す,王が努力して卒事するということである.高祖は亭長から起った,(光武帝)陛下は白水で興った,何況於王陛下長子,故副主哉!(何をか況や王に於いて陛下の長子,故<もと>は(光武帝陛下を補佐した)副主ではないか!)上は以って天下を求めて事必ず挙げ,下は以って沈没之恥を雪ぎ除き,死母の讎(母を死なせた怨讐)に報いる.精誠が加えられる所,金石さえ開為するもの.[一0]当為秋霜,無為檻羊(当に秋霜を為すべきであり,檻の羊と為ること無いものである).[一一]雖欲為檻羊,又可得乎!(また檻の羊と為ろうと欲すると雖も,またそれができるものだろうか!)諸相を竊い見て工言するが王は貴い,天子が法っている也.人主が崩亡すると,閭閻の伍尚は盗賊と為り,望む所を有さんと欲した,何をか王に況や邪!夫れ受命之君,天の立てる所,謀るからざるものである也.今新帝は人の置く所であり,彊きが右を為すものである.願わくば君王よ、高祖、陛下が志した所を為し,[一二]扶蘇、将閭が天に叫呼した所を為すこと無いよう也.」[一三]劉彊は書を得ると惶怖し,即ち其の使いを執らえると,封書して之を上した.

[一]隠害は謂うに人に於いて陰に害する也.

[]方底囊,所以盛書也.前書曰:「綈方底.」

[三]太后とは,郭后のことである也.職は,常である也.其の常位を失い,北宮へ別に遷された.

[四]魯に於いて之を封じる.

[]以便宜之事而有非者,当即行之,勿拘常制也.

[六]累息は猶も疊息するである也.

[七]喜事は猶も好事である也.喜の音は許気反.

[八](鴻)[洪]範五行伝えて曰く:「太白は,少陰之星である,己を以って未だ界を為さず,経天を得ずして而して行く.太白は経天して而して行為不臣.」今午に至る,是は経

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天を為すのである也.

[九]天官書に曰く「心前星,太子之位」也.

[一0]韓詩外伝に曰く:「昔者楚熊渠子夜行,見寝石,以為伏虎,彎弓而射之,沒金飲羽.下視,知其石也,因復射之,矢摧無跡.熊渠子見其誠心而金石為之開,而況人乎.」

[一一]秋霜とは,物に於いて肅殺することである.檻羊は,人に於いて制を受けることである.

[一二]陛下とは即ち光武のことである也.

[一三]扶蘇は,秦始皇の太子である.将閭は,庶子である也.扶蘇は以って何度も始皇を諫めたため,使わされて蒙恬と北辺を守ることとなった.始皇が沙丘に於いて死ぬと,少子胡亥が詐って立ち,扶蘇に死を賜った.将閭は昆弟三人と内宮に於いて囚われた.胡亥は使いをやって将閭に謂いて曰く:「公子は不臣である,罪して当に死すべし.」将閭は乃ち天を仰ぐと而して大呼天者三(天に向かって三度大呼した),曰く:「天乎!吾は無罪である.」昆弟三人は皆流涕すると, 伏して自殺した.事は史記に見える.

顯宗は劉荊が母弟であることを以って,其事を秘めると,劉荊を遣わして出し河南宮に止めた.時に西羌が反したため,劉荊は志を得なかったが,天下を冀い因るに羌が驚動して変有るとして,能く星を為す者を私的に迎えるとともに謀議した.帝は之を聞くと,乃ち封を徙して劉荊を広陵王とし,之を国に遣わした.其後劉荊は復た相を呼ぶと工に謂いて曰く:「我が貌は先帝に類せり.先帝は三十にして天下を得た,我は今亦た三十である,可起兵未?(兵を起こした方がよいか、そうでない方がよいか)」相者は吏に詣でると之を告げたため,劉荊は惶れ恐れて,自ら獄に繋がれた.帝は復た恩を加えられ,其事を考極せず,詔を下して臣属吏人を得ないこととし,唯食租のみ故の如しとし,相、中尉を使って之を謹宿させた.(しかし)劉荊は猶も改めなかった.其後に巫を使って祭祀祝詛したため,有司が挙奏して,之を誅することを請うた,(それで結局)劉荊は自殺した.立つこと二十九年して死んだのである.帝は之を憐み傷むと,謚を賜った、曰く思王である.

十四年,劉荊の子の元寿を封じて広陵侯と為した,服王璽綬,食は劉荊の故国六県であった;また元寿の弟三人を封じて郷侯となした.明年,帝は東巡して狩をし,元寿の兄弟を徴して東平宮に会うと,御服器物を班賜し,また皇子の輿馬を取ると,悉く以って之を與した.建初七

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,肅宗は詔して元寿兄弟に諸王とともに京師に倶朝させた.

劉元寿が卒すると,子の劉商が嗣いだ.劉商が卒すると,子の劉條が嗣ぎ,伝国于後(後々まで国が伝えられた).

【臨淮懐公衡】

臨淮懐公衡は,建武十五年立てられたが,未だ進爵して王と為るに及ばずして而して薨じた,子は無く,国は除かれた.

【中山簡王焉】

中山簡王焉は,建武十五年に封じられて左(馮)翊公となり,十七年に進爵して王と為った.劉焉は郭太后の少子故に以って,独り京師に留められた.三十年,中山王に徙封された.永平二年冬,諸王が来会するに雍に辟され,事が畢わると蕃に帰ったが,詔あって劉焉は倶に就国した,以って虎賁官騎を従わせた.[一]劉焉は上疏して辞讓したが,顯宗は報いて曰く:「凡そ諸侯は境に出るさい,必ず左右を備える,故に夾谷之会では,司馬が以って従うのだ.[二]今五国はそれぞれ官騎百人,称娖前行,[三]皆北軍胡騎である,兵を便ずれば善く射ち,弓は空発せず,中れば必ず眥を決す.[四]夫れ文事有れば必ず武備有り,蕃職を重んじる所以である也.王よ其れ辞する勿れ.」帝は以って劉焉が郭太后に偏愛されたことから,特に恩寵を加えられ,(劉焉は)独り京師を往来することが出来た.十五年,劉焉の姫の韓序に過有ったため,劉焉は之を縊り殺した,国相が挙奏したため,坐して安險県を削られた.[五]元和中,肅宗は復して安險を以って中山に還した.

[一]漢官儀:「騶騎は,王家が官騎を名づけたものである.」

[二]穀梁伝に曰く,公は斉侯于頰谷,斉人鼓譟,欲以執魯君.孔子歴階而上,命司馬止之.左氏伝「頰谷」作「夾谷」.

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[三]娖の音は楚角反.称娖猶斉整也.行の音は胡郎反.

[四]司馬相如の子虚の文である.

[五]安險は中山郡に属する.

立つこと五十二年,永元二年に薨じた.中興より和帝時に至るまで,皇子で始めに封じられたものが薨じると,皆賻は銭三千万,布三万匹であった;嗣王が薨じると,賻は銭千万、布万匹であった.是時竇太后が臨朝し,竇憲兄弟が専権し,太后及び竇憲等は,東海に出ていた也,[一]故に劉焉に於いて睦むと而して礼に於いて重んじ,加賻すること銭一億であった.済南、東海二王に詔して皆会した.大為修塋(大いに塋を修繕し),神道を開き,[二]平夷吏人墓以千数,作者万余人.常山、鉅鹿、涿郡から柏黄腸雜木を徴発したが,[三]三郡は備えること能わなかった,復余(ほかの)州郡では調を行ったが工徒及び送致者は数千人であった.凡そ徴発搖動すること六州十八郡にわたり,制度余国莫及.

[一]爾雅に曰く「女子之子為出」也.

[二]墓前への道を開くのに,石柱を建てて以って標と為す,之を神道と謂う.

[三]黄腸は,柏木で黄心のものをいう.

子の夷王憲が嗣いだ.永元四年,劉憲の弟十一人を封じて列侯と為した.

劉憲は立つこと二十二年して薨じた,子の孝王弘が嗣いだ.永寧元年,劉弘の二弟を封じて亭侯となした.

劉弘は立つこと二十八年して薨じ,子の穆王暢が嗣いだ.永和六年,劉暢の弟劉荊を封じて南郷侯とした.

劉暢は立つこと三十四年して薨じ,子の節王稚が嗣いだ,子は無く,国は除かれた.

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【琅邪孝王劉京】

琅邪孝王劉京は,建武十五年に琅邪公に封じられ,十七年爵が進んで王となった.

劉京の性は恭孝,経学を好んだため,顯宗は尤も愛幸し,賞賜恩寵は殊に多く,比べられる相手はいなかった.永平二年,泰山の蓋、南武陽、華,[一]東萊の昌陽、盧郷、東牟六県をもって琅邪を益した.[二]五年,乃ち国に就いた.光烈皇后が崩じられ,帝は太后の遺した金寶財物を悉く劉京に賜った.劉京は莒を都とし,好んで宮室を修繕し,伎巧は極みを窮め,殿館の壁帯は皆金銀で飾られた.[三]何度か詩賦を上して(帝の)徳を頌<たた>え,帝はその(詩賦の)美しさを嘉し,之を史官に下した(記録させた).劉京の国中には城陽景王の祠があり,吏人が奉祠していた.神(神霊)が何度も下言し,宮中は便利しからざることが多かったため,劉京は上書して華、蓋、南武陽、厚丘、贛榆の五県を[四]東海の開陽、臨沂と取り替えて宮を開陽に移したいと願い,肅宗は之を許した.立つこと三十一年して薨じ,東海即丘の広平亭に葬られた,詔あって亭を割いて開陽に属させた.[五]

[一]蓋県故城は今の沂州沂水県西北に在る.南武陽県の故城は今の沂州費県西にある,又華県の故城は費県東北に在る也.

[二]昌陽は,今の萊州県である,故城は今の登県西南にあると聞く.盧郷の故城は今の昌陽県西北にある.東牟故城は登県西北に在ると聞く也.

[三]壁帯は,壁中之横木である,金銀もってスとなし,其上を飾る.

[四]華県、蓋県、南武陽は泰山郡に属する,厚丘は東海郡に属する,贛榆は琅邪郡に属する.

[五]開陽は,県で,東海郡に属する,故城は今の沂州臨沂県北にある.

子の夷王劉宇が嗣いだ.建初七年,劉宇の弟十三人は封じられて列侯となった.元和元年,孝王の孫二人は封じられて列侯となった.

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劉宇は立つこと二十年して薨じ,子の恭王劉が嗣いだ.永初元年,劉寿の弟八人が封じられて列侯となった.

立つこと十七年して薨じ,子の貞王劉尊が嗣いだ.延光二年,劉尊の弟四人は封じられ郷侯となった.

劉尊は立つこと十八年して薨じ,子の安王劉拠が嗣いだ.永和五年,劉拠の弟三人は封じられ郷侯となった.

劉拠は立つこと四十七年して薨じ,子の順王劉容が嗣いだ.初平元年,弟の劉邈を遣わし長安に至らせ、章(印章)を奉じて貢獻したことから,帝は以て劉邈をして九江太守とし,陽都侯に封じた.[一]

[一]陽都は,県,城陽国に属する,故城は今の沂州承県南にある.承の音は常證反.

劉容は立つこと八年して薨じ,国は絶えた.

初め,劉邈が長安に至ると,盛んに東郡太守曹操の忠誠を帝に称えたため,曹操は此を以て劉邈の徳とした.建安十一年,復して劉容の子の劉熙を立てて王とした.在位すること十一年,長江を渡ろうと欲して謀に坐し,誅を被り,国は除かれた.

贊に曰く:光武十子は,胙土分王の沙汰を受けた.沛獻王は尊節,楚英王は流放であった.[一]延王は既に怨詛し,荊王は亦た觖望した.濟南王は陰謀し,琅邪王は驕宕であった.中山王、臨淮王は,聞くこと無く夭喪となった.[二]東平王は善を好み,辞中して相に委ねた.謙謙たるは恭王,寔<まこと>に三讓を惟ったのだ.

[一]尊の音は祖本反.禮記に曰く:「恭敬撙節.」鄭玄注に云う:「撙は,趨也.」

[二]二王は早く終え,名聞は未だ著されなかった也.