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千乗万騎を備え,侍御史が左に在って馬に駕し,不法者を詢問する.」今儀は車駕に比す,故に侍御史を以って監護するのである焉.

[八]悝の音は恢.

[九]長社公主は,桓帝の姊である,耿弇の弟である耿霸の玄孫耿援が尚んだ焉.益陽公主は,桓帝の妹である,侍中寇栄の従兄の子が尚んだ<たっとんだ>焉.

桓帝懿獻梁皇后は諱を女瑩,[一]順烈皇后の女弟(娘で年下の方)である也.帝が初め蠡吾侯と為ったとき,梁太后が徴したため,后と婚姻しようと欲したが,未だ嘉礼に及ばなかった,[二]質帝が崩じられたおり,因って以って立帝した.明年,有司が太后に奏上して曰く:「春秋では王后を于紀に迎え,塗に在って則ち后を称します.[三]今大将軍梁冀の女弟(娘で年下の方)は,膺紹聖善であります.[四]結婚の際には,命有って既に集まり,[五]宜しく礼章を備えられ,時に進んで幣されました.[六]三公太常に下げて礼儀を案じさせますよう請願いたします.」奏は可とされた.是に於いて悉く孝惠皇帝の納后の故事に依り,聘すること金二万斤,納めること采鴈璧乗馬束帛,一に旧典のようであった.[七]建和元年六月始め掖庭に入り,八月に立てられて皇后と為った.

[一]謚法に曰く:「和聖善を曰く懿と,聰明叡知を曰く獻とする.」

[二]嘉礼は,婚礼のことである.

[三]公羊伝に曰く:「祭公来逆王后于紀.」伝に曰く:「祭公者何?天子之三公.其称王后何?王者無外,其辞成矣.」

[四]膺は,当である也.紹は,嗣である也.聖善は母を謂う也,妻を娶り当に親を嗣ぐを言う也.詩は云う:「母氏は聖善.」

[五]太后が先に結親を許す令が有ったことを謂う也.詩云「天監在下,有命既集」也.

[六]徴は,成である也.納幣して以て婚姻が成る.

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[七]漢(書)旧儀では:「娉皇后,金万斤.」呂后は惠帝に魯元公主女を娶らせた,故に其礼を特に優遇したのである也.儀礼に曰く:「納采は鴈を用いる.」鄭玄注に曰く:「其の采擇之礼を納める.鴈を用い,陰陽の往来する順を取る也.」周礼:「王者は穀圭し以て聘女する.」鄭玄注云:「士大夫已上は,乃ち玄纁束帛を以って,天子は加えるに穀圭を以ってし,諸侯は加えるに大璋を以って.」然るに礼は称えるに以て圭す,此は云うに璧を用い,形制は異なると雖も,玉を為すに同じである也.乗馬は,四匹の馬である也.雜記に曰く:「幣一束を納める,束は五両,両は五尋である.」然るに則ち端(から端まで)二丈である也.

時に太后が秉政し而して梁冀が朝を専らにした,故に后は独り寵幸を得たが,自下莫得進見.后藉姊兄廕執,恣に奢靡を極め,宮幄の彫は麗しく,服御は珍華,制度を巧みに飾って,前世に兼倍した.皇太后が崩ずるに及び,恩愛は次第に衰えた.后は既に子が無く,怨忌を懐き潜め,宮人が孕み育てるごとに,全うを得るものが鮮かった(少なかった).帝は梁冀に迫られ彼を畏れたと雖も,敢えて譴怒せず,然見御転稀.延熹(三)[二]年に至り,后は憂恚以って崩じられた,在位すること十三年,懿陵に葬られた.其,梁冀が誅され,懿陵を廃して貴人とした焉.

桓帝ケ皇后は諱を猛女,和熹皇后の従兄の子であるケ香の女(娘)である也.母は宣,初めケ香に適い,后を生んだ.改めて梁紀に嫁した,梁紀は,大将軍梁冀の妻孫壽の舅である也.后は幼いころから孤りで,母に随って居を為したことから,因って梁氏の姓を冒したのである.梁冀の妻が后に見えるとその容貌が美しかったため,永興中に掖庭に進められて入り,采女と為ったが,幸を絶った.[一]明年,兄のケ演が封じられて南頓侯と為り,位特進となった.ケ演が卒すると,子の康が嗣いだ.懿獻后が崩ずるに及び,梁冀が誅され,立てられて后は皇后と為った.帝は梁氏を悪んでいたため,改姓して薄とし,后の母宣を封じて長安君とした.四年,有司が奏上して后はもともと郎中ケ香の娘であり,它姓(他姓)に改易するのは宜しくないとしたため,是に於いてケ氏に復したのである.追封してケ香に車騎将軍安陽侯印綬を贈り,更に后の母宣ケ康を大県に封じ,

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宣を昆陽君,ケ康を沘陽侯とし,賞賜は巨万を計上した.[二]宣が卒すると,賵贈葬礼のことは,皆后母旧儀に依った.ケ康の弟であるケ統を襲封させて昆陽侯とし,位侍中となった;ケ統の従兄ケ会は安陽侯を襲封し,虎賁中郎将と為った;またケ統の弟ケ秉を封じて淯陽侯と為した.宗族は皆校郎将に列せられた.

[一]采は,擇である也,以って因って采擇して而して名を立てる.

[二]巨は,大である也.大万は万万を謂う也.

帝は幸すること多く,博く宮女を採り五六千人に至ったため,及役従使,復兼倍於此.而して后は尊き恃んで驕忌であり,帝に幸せられる所となっていた郭貴人と更相して譖訴しあった.八年,詔あって后を廃され,暴室に送られ,憂死した.[一]立つこと七年.北邙に葬られた.従父であった河南尹のケ万世及びケ会は皆獄に下されて死んだ.ケ統等も亦た暴室に繋がれ,官爵を免じられ,本郡に帰った,財物は県官に没収された.

[一]漢官儀に曰く:「暴室は掖庭内に在る,丞一人(が担当する),主に宮中婦人で疾病に罹った者が入る.其の皇后貴人で罪有るものも,また此室に就く也.」

桓思竇皇后は諱を妙,章徳皇后の従祖弟の孫女(孫娘)である也.父は(諱) 竇武.延熹八年,ケ皇后が廃されると,后は以って選ばれて掖庭に入って貴人と為り,其冬,立てられて皇后と為ったが,而して御見するに甚だ稀であり,帝の寵ずる所は唯、采女田聖等のみであった.永康元年冬,帝は寝疾し,遂に以て田聖等九女を皆貴人とした.崩じるに及び,後嗣は無かった,后は皇太后と為った.太后は臨朝して策を定めると,解犢亭侯宏を立てた,是が靈帝と為ったのである.

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太后は素より忍を忌み,田聖等に怒りを積もらせていたため,桓帝梓宮尚在前殿で,遂に田聖を殺した.また諸貴人を盡誅せんと欲したが,中常侍管霸蘇康が苦諫したため,乃ち止めた.時に太后の父大将軍竇武は謀って宦官を誅しようとしていた,而して中常侍曹節等は詔を矯めて竇武を殺し,太后を南宮雲臺に遷し,家属は比景に徙った

竇氏は誅されたと雖も,帝は猶も太后を以って援立之功有ったとして,建寧四年十月朔,臣を率いて南宮で朝をひらき,親しく饋上壽.門令董萌[一]は此れに因って何度も太后に訴怨を為したため,帝は深く之をれて,供養資奉有加於前.中常侍曹節王甫は董萌に疾したことから太后に附いて助け,以って永楽宮を謗訕していると誣したため,[二] 董萌は坐して獄に下されて死んだ.熹平元年,太后の母が比景で卒すると,[太]后は感じて疾し而して崩じた.立つこと七年.宣陵に合葬された.

[一]漢官儀曰:「門令は秩六百石.」

[二]靈帝の母が居る所である也.訕,謗毀也.

孝仁董皇后は諱を某といい,河間の人である.解犢亭侯である劉萇の夫人と為り,[一]靈帝を生んだ.建寧元年,帝が即位すると,劉萇を追尊して孝仁皇とした,陵は曰く慎陵,后を以て慎園貴人とした.竇氏が誅されるに及び,明年,帝は中常侍を使いさせて貴人を迎え,并わせて貴人の兄である董寵を徴して京師に到ると,尊号を上して曰く孝仁皇后とし,南宮嘉徳殿を居とした,[二]宮は永楽宮と称された.董寵を拝して執金吾とした.後に坐矯称永楽后属請,獄に下されて死んだ.

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[一]劉萇は,河間孝王開の孫である劉淑の子である也.

[二]嘉徳殿は九龍門内に在る

竇太后が崩ずるに及び,朝政を始め,帝を使って売官して貨を求め,自ら金銭を納めて,堂室を満たし盈ませた.中平五年,后の兄の子で衛尉である脩侯董重[一]を票騎将軍とし,兵千余人を領させた.初め,后は自ら皇子協を養い,帝に何度も勧めて立てて太子と為した,そのため何皇后は之を恨み,議して(立太子のことは)未だ定まるに及ばずとしたところで帝が崩じられた.何太后が臨朝すると,董重と太后の兄である大将軍の何進が互いに権を執りあって相害すようになった,后は事毎に政事に参加しようと欲したため,太后は輒ち禁じ塞いだ.后は忿恚して詈言して曰く:「汝今輈張,怙汝兄耶?[二]当に票騎が断じてしまえば何進の(斬られた)頭がやって来るのですよ.」何太后は聞くと,何進に告げた.何進は三公及び弟で車騎将軍の何苗等と奏上した:「孝仁皇后は故の中常侍夏ツ永楽太僕封諝等を使って州郡と交わり通じ,[三]辜較在所珍寶貨賂,悉く西省に入っております.[四]蕃后の故事では京師に留めるを得ず,[五]輿服は章有り,膳羞は品有りとか.永楽后につきましてはその宮を本国に遷すことを請願いたします.」奏は可とされた.何進は遂に挙兵して驃騎府を圍み,董重を収めた,[董重は]免官となり自殺した.后は憂い怖れ,疾病して暴され崩じた,在位すること二十二年.民の間では咎を何氏に帰した.喪は河間に還り,慎陵に合葬された.

[一]脩は,今の徳州県である也,故城は県南にある.「脩」は今、「」と作る,音は條.

[二]輈張とは猶も彊梁である也.

[三]漢官儀曰:「永楽太僕は,中人を用いて之を為す.」

[四]辜較のことは,靈帝紀に解見される.西省は,即ち永楽宮之司を謂う.

[五]蕃后は平帝の母衛姫を謂う.時に王莽が攝政すると,其の專権を畏れて,后は京師に留まり在ることは出来ないとした,故に故事と云う也.

 

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靈帝宋皇后は諱を某といい,扶風平陵の人である也,肅宗の宋貴人の従曾孫である也.建寧三年,選ばれて掖庭に入り貴人と為った.明年,立てられて皇后と為った.父は宋,執金吾となり,不其侯に封じられた.[一]

[一]不其は,県で,琅邪郡に属する,故城は今の萊州即墨県西南に在る,蓋し其の県之郷である也.其音は基.決注に:「字を伯遇という.」

后は寵無く而して正位に居た,後宮はを幸いとし,共に譖毀した.初め,中常侍王甫は枉げて勃海王劉悝及び妃の宋氏を誅したことがあった,[一]妃は即ち后の姑であった也.王甫は后が之を怨んでいるのを恐れ,太中大夫程阿と共に構えるに及び、言うに皇后は左道祝詛を挟んでいるとした,[二]帝は之を信じた.光和元年,遂に策あって璽綬を収めることになった.后は自ら暴室に致し,憂死した.在位すること八年.父及び兄弟は並んで誅を被った.諸常侍門で省闥に在った者は,皆宋氏が無辜であったことを憐れみ,共に銭物を合わせて,廃后及び父子を葬るときに合わせて収め,宋氏の旧塋を門亭に帰した.[三]

[一]熹平元年,王甫は中常侍鄭颯が劉悝と交わり通じ,劉悝を迎えて(帝に)立てようと欲していると謗ったため,劉悝は自殺し,妃は獄中に死んだ也.

[二]礼記に曰く:「左道を執って以て乱,殺すは赦さず.」鄭玄注は云う:「左道は,若し巫蠱のこと也.」

[三]詩は云う:「迺立門.」注に云う:「王之郭門を曰く門と.」漢官儀に曰く:「十二門には皆亭が有る.」

帝は後に夢を見たがそこで桓帝が怒って曰く:「宋皇后に何の罪過有るか,而も邪孽を聴き用いて,使って其命を絶つなど(どういうことか)? 勃海王悝は既に已み自ら貶む,また誅を受けて斃れた.今宋氏及び劉悝は自ら天に訴え,上帝は震怒せり,[一]罪は救うに難いところに在る.」夢は殊に明察であった.帝は既に覚ると恐れ,以て羽林左監許永に事を問い[二]曰く:「此は何の祥か?其は攘[三]しうるものか乎?」許永は対して曰く:「宋皇后は陛下と親しみ共に宗廟を承り,母は万国に臨みました,年已久,海内は教化を蒙り,過悪は聞くこと無かったのです.而るに讒説を虚聴されて,以て無辜之罪に致され,身は嬰するに誅に極せられ,禍は

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家族に及びました,(そのため)天下臣妾は,咸じて怨み痛みました.勃海王悝は,桓帝の母弟でございます也.国を処して藩を奉じるにあたり,未だ嘗て過ぎたこと有りませんでした.陛下は事態にあって審らかに證することなさらず,遂に其の辜を伏されました.昔晉侯が失刑すると,やはり被髮が地に属している大氏i視S)を夢に見たとのことです.[四]天道は明察でございます,鬼神は難誣でございます.宜しく并わせて改葬し,以て冤罪となった魂を安んじられますよう.宋后の徙した家を反し,勃海の先封を復し,以て(天の)咎を消厥なさいますよう.」帝弗能用,尋ねて亦崩じた焉.

[一]上帝は,天である也.震は,動である也.書に曰く「帝は乃ち震怒す」也.

[二]續漢志に曰く:「羽林左監一人,秩六百石,羽林左騎の主である.右は亦た之の如し.」「永」は或いは「詠」と作る.

[三]攘は除を謂う也.

[四]左伝に曰く:「晉侯は大獅夢に見た,その被髮は地に及び,搏膺して而して踊じて曰く:『余の孫を殺した,不義である,余は帝に請うを得る矣.』」杜預注に曰く:「視Sは,趙氏の先祖である也.晉侯は先に趙同趙括を殺害した,故に怒ったのである也.」

靈思何皇后は諱を某といい,南陽宛の人である.家屠者,以て選ばれて掖庭に入った.[一]身長は七尺一寸.皇子辯を生み,史道人家で養った,号して曰く史侯.[二](帝は)后を拝して貴人と為し,甚だ寵幸有った.性は彊忌,後宮は震懾しないものはなかった.

[一]風俗通に曰く,漢は八月を以て筭人する.后の家は金帛を以て主者に賂遺し以て求めて入った也.

[二]道人は道術之人を謂う也.獻帝春秋に曰く:「靈帝は何度も子を失ったため,敢えて正名しなかった,道人史子眇の家で養ったため,号して曰く史侯としたのである.」

光和三年,立てられて皇后と為った.明くる年,后の父の何真に追号して車騎将軍舞陽宣徳侯とし,因って后の母を封じて舞陽君とした.時に王美人は任娠したが,[一]后を畏れて,乃ち服薬して之を除こうと欲した,而るに胎は安んじ動かず,また何度も日輪を背負い行く夢をみた.四年,皇子

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協を生んだため,后は遂に王美人を酖殺した.帝は大怒し,后を廃そうと欲したが,諸宦官が固く請うたため止むを得た.董太后が自ら協を養ったため,号して曰く董侯とした.

[一]左伝に曰く:「邑姜方娠.」杜預注曰:「懐胎は娠を為す.」音之刃反,一音身.

王美人は,趙国の人である也.祖父は王苞,五官中郎将であった.美人は姿色豊かで,聰敏で才明有り,書と会計を能くし,[一]以て良家子で法に応じて相選ばれて掖庭に入った.帝は劉協が早くに母を失ったことを不愍に思い,また王美人を思って,追徳して賦を作り、儀頌を命じた.

[一]会計は其の数を会わせてまとめ而して筭じるを謂う.

中平六年,帝崩じ,皇子辯が即位した,何皇后を尊んで皇太后とした.何太后は臨朝した.后の兄である大将軍の何進は宦官を誅しようと欲し,反って害される所と為った;舞陽君もまた乱兵に殺される所と為った.并州牧董卓が徴を被って,兵を将いて洛陽に入った,朝庭を陵虐し,遂に少帝を廃して弘農王とし劉協を立てた,是が獻帝と為ったのである.弘農王を扶けて下殿させ,北面して臣と称えさせた.太后は鯁涕し,臣は悲しみを含ませたが,敢えて言うこと莫かった.董卓はまた議して太后を永楽宮に踧迫し,令して憂死するに至った,婦姑之礼に逆らうとして,乃ち永安宮に遷し,因って酖を進めて,弑したため崩じられたのである.在位すること十年.董卓が令し帝は奉常亭に出て哀を挙げ,[一]公卿は皆白衣会をし,喪と成らなかった也.[二]文昭陵に合葬した.

[一]華延洛陽記曰:「城内に奉常亭が有る.」

[二]凶事有れば素服して朝する,之を白衣会と謂う.左伝に曰く:「葬と書かないのは,喪と成らないためである.」

初め,太后が新たに立つと,当に二祖廟に拝謁し,潔斎しようと欲したが,輒ち変故有ったため,如此者数,竟に克たなかった.時に有識之士は心に独り之を怪しんだ,後に遂に因って何氏が漢祚を傾け没した焉.

明くる年,山東に義兵が大いに起こり,董卓の乱を討とうとした.董卓は乃ち弘農王を閣上に置くと,郎中令の李儒を使って酖を進めた,曰く:「

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此の薬を服し,以って辟悪なさって下さい.」王は曰く:「我は疾無し,是は我を殺さんと欲するのみ耳!」飲むを肯んぜず.強いて之を飲まそうとしたため,己むを得ず,乃ち妻の唐及び宮人と飲んで讌別した.酒行くと,王は悲しみ歌って曰く:「天道は易し兮我は何ぞ艱まん!万乗を棄てて兮退いて蕃を守る.逆臣見えて迫り兮命は延びず,逝くに将に汝を去らん兮幽玄に適わん!」因って唐姫に命じて起たせ舞わせると,姫は袖を抗じて而して歌った[一]曰く:「皇天は崩じん兮后土は潰えん[二]身は帝と為るも兮命は夭摧せり.死生の路は異なれど兮此に従い乖じん,柰と我と煢して独り兮心中哀しき!」因って泣き下って嗚咽した,坐者は皆歔欷した.王は姫に謂いて曰く:「卿は王者の妃,執られても吏民の妻に為って復さないでくれ.どうか自愛したまえ,此に従えば長辞とならん!(これに従えば永の別れとなろうけれど)」遂に薬を飲んで而して死んだ.時に年十八.

[一]抗は,舉である也.

[二]史記,周の烈王が崩じられると,周人が齊威王に謂いて曰く「天崩じ地坼せり」也.

姫は,潁川の人である也.王が薨じると,里に帰った.父である会稽太守の唐瑁は之を嫁がせようと欲したが,姫は誓って許さなかった.李長安を破るに及び,兵を遣わして関東を鈔すると,略して姫を得た.李因って之を妻に欲したが,固く聴かなかった,而も終に自ら名のらなかった.[一]尚書の賈詡が之を知り,[二]その状況を獻帝に建白した.帝は聞いて感愴し,乃ち詔を下して姫を迎え,園中に置き,侍中に持節させて使いとし拝して弘農王妃とした.

[一]少帝之姫とは自分で名乗らなかったのである也.袁宏紀に曰く:「李略す所となるも,敢えて自ら言わず.」

[二]魏志に曰く:「賈詡は字を文和といい,武威(郡)姑臧の人である.若い時に漢陽の閻忠が見えると而して之を異とした,曰く:『賈詡は張良、陳平之才を有している.』」

初平元年二月,弘農王を故中常侍趙忠が成して壙中に葬った,[一]謚して曰く懐王.

[一]趙忠は先に成壙を有していた,因って而して葬られた焉.

帝は母であった王美人の兄の王斌を求め,王斌は妻子を将いて長安に詣でると,第宅田業を賜り,奉車都尉を拝した.

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興平元年,帝は元服を加えられた.有司が奏上して長秋宮を立ててはどうかとした.詔に曰く:「朕は稟受し不弘である,禍乱に値するに遭い,未だ能く紹先しない,以って光故して典じよう.皇母は前に薨じられ,未だ宅兆を卜しない,礼章有闕,中心は結ぶ如し.[一]三の慼は,蓋し吉と言わない,且つ須く其後す.」是に於いて有司は乃ち奏上して王美人を追尊して靈懐皇后と為し,文昭陵に改葬した,儀は敬、恭二陵に比肩させ,[二]光禄大夫に持節させて行司空事とし使って璽綬を奉じさせて,王斌と河南尹駱業が復土した.

[一]詩に云う:「心は結ばれた如し兮.」

[二]敬は,章帝陵である.恭は,安帝陵である.

王斌は還ると,執金吾に遷り,都亭侯に封じられた,[一]食邑は五百.病で卒した,前将軍の印綬を贈られ,謁者が喪事を監護した.長子の王端が襲爵した.

[一]凡そ都亭と言うのは,どれも城亭である也.漢の法では,大県侯の位は三公と視る,小県侯の位は上卿と視る,侯、亭侯は中二千石と視るのである也.

獻帝伏皇后は諱を壽,琅邪(郡)東武の人で,[一]大司徒伏湛の八世の孫である也.父は伏完,沈深して大度有り,襲爵して不其侯となり,桓帝の娘である陽安公主を尚,[二]侍中と為った.

[一]東武は,今の密州諸城県である.

[二]陽安は,県で,汝南郡に属する,故城は今の豫州朗山県東北に在る.

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初平元年,大駕に従い長安に西遷した,后は時に掖庭に入って貴人と為った.興平二年,立てられて皇后と為り,伏完は執金吾に遷った.帝は尋ねて而して東帰すると,李、郭等が追ってきて乗輿は曹陽で敗れた,帝は乃ち夜に潜んで河を渡って走り,[一]六宮は皆行して営を出た.[二]后は手に縑数匹を持っていたところ,董承は符節令孫徽を使って以って刃で脅して之を奪い,傍の侍者を殺害したため,血で后衣が穢れた.[三]既に安邑に至ったが,御服は穿敝し,唯、棗や栗を以て糧と為した.建安元年,伏完を拝して輔国将軍とし,儀礼は三司(三公)に比肩した.伏完は政を以て曹操に在させ,自ら尊戚を嫌い,乃ち印綬を上らせると,中散大夫を拝し,尋遷して屯騎校尉となった.十四年に卒した,子の伏典が嗣いだ

[一]度した所は今の陝州陝県北に在る.水経は曰く銅翁仲が沒し処す所,是獻帝東遷したおり潜み度した所である.

[二]周礼に曰く:「王后は六宮之人を率いる.」鄭玄注に曰く:「六宮之人とは,夫人以下,分居后之六宮者.」

[三]濺音子見反.

帝が許に都して<より>,位を守り而して已みしたが,宿兵侍は,曹氏の党旧姻戚に非ざる莫し(非ざれその役目に就けなかった).議郎趙彦が嘗て帝に時の策を陳言したことがあったが,曹操は悪で<にくんで>而して之を殺した.其の余りの外は,多くが誅戮に見えた.曹操は後に以って事えて<つかえて>殿中に入って見えるに,帝は其の憤りを任せなかった,因って曰く:「君は若し能く相輔ける,則ち厚し;不爾,幸垂恩相捨.」曹操は顔色を失い,俛仰し求めて出た.旧儀では,三公が兵を領して朝見すると,虎賁に令して刃を執って之を挟む.曹操は出ると,左右を顧み,汗は流れて浹背した,[一]これより後は二度と敢えて朝請することなかった.董承の女<むすめ>が貴人と為っていたおり,曹操が董承を誅すると而して貴人を求めて之を殺した.帝は貴人を以って有とし[二]累して請を為したが,得ること能わなかった.后は是より懼れを懐き,乃ち父の伏完にあてて書をおくり,曹操の殘逼之状を言うと,令して密かに之を圖した.伏完は敢えて発しなかった.建安十九年に至って,事は乃ち露わに泄れた.曹操は追って大いに怒り,遂に帝に逼って后を廃したが,策を仮に為して曰く:「皇后壽は,卑賤の由を得て,登顯して尊極となり,椒房に処して自[三]二紀于茲した.既に任、姒徽音之美無く,[四]又、身謹み己を養うの福に乏しく,[五]而して陰に妒害<ねたみの害>を懐き

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いの心を苞蔵し,弗可以承天命,奉祖宗.今、御史大夫郗慮に持節させて使いとし策詔する,其の皇后の璽綬を上らせ(取り上げ),[六]中宮から退避させ,它館に遷す.嗚呼傷むものである哉!壽自<より>之を取ることになり,未だ(璽綬は)理めるに致されていないが,幸多からんことを焉.」又以って尚書令の華歆を郗慮の副と為すと,[七](華歆は)兵を勒<りく>して宮に入り后を収めた.(后は)戸を閉め壁中に蔵していたが,華歆は后を牽くに就かせ出てきた.時に帝は外殿に在って,坐に於いて郗慮を引見していた.后は被髮徒跣して行くに泣いて過ぎゆくと訣して曰く:「不能復相活邪?(わたしを活かしてもとのようにしてくださることはお出来でないのでしょうか?)」帝曰く:「我も亦命が何時まで在るか知らないのだ!」顧みて郗慮に謂いて曰く:「郗公,天下が寧ずるとはこういうことが有るということなのか邪?」遂に后を将いて暴室に下すと,幽以って崩じられた.生まれていた二皇子は,皆これ酖殺された.后は在位すること二十年,兄弟及び宗族で死んだ者は百余人,母の盈等十九人は涿郡に徙った<うつった>.

[一]浹は,徹である也,音は子協反.

[二]文に曰く:「,孕むである也.」音は仁蔭反.

[三]漢官儀に曰く:「皇后は椒房を称え,其の蕃実之義を取る也.」詩は云う:「椒聊之実,蕃衍盈升.」

[四]大任は,文王の母である.大姒は,武王の母である.徽は,美である也.詩は云う:「大姒嗣徽音.」

[五]左伝曰く:「人受天地之中而生,謂之命.能者養之以福,不能者敗以取禍.」

[六]蔡邕は独断して曰く:「皇后は赤綬玉璽.」續漢志は曰く:「乗輿赤綬,四綵赤縹紺,淳圭,綬長二丈九尺九寸,五百首.太皇太后、皇太后,其綬皆與乗輿同.」

[]魏志曰:「華歆字子魚,平原高唐人.代荀ケ為尚書令.慮字鴻預,山陽高平人.」

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獻穆曹皇后は諱を節といい,[一]魏公曹操の中の女(娘)である也.建安十八年,曹操は三人の女(娘)憲、節、華を進めて夫人と為し,聘するに束帛玄纁五万匹を以てしたが,小者は国で年を待つことになった.[二]十九年,並んで拝されて貴人と為った.伏皇后が弑を被るに及び,明年,節を立てて皇后と為った.魏が受禅すると,使者が遣わされて璽綬が求められたが,后は怒って不與であった.如此数輩,后は乃ち呼んで使者が入ると,親しく数えて之を讓るに,以て璽を軒下に抵した[三]因って涕泣して横流して曰く:「天は爾を祚さず!」左右は皆能く仰視すること莫かった.后は在位すること七年.魏氏が既に立つと,后を以て山陽公夫人と為した.これより後四十一年,魏の景(初)[元]元年に薨じられ,禅陵に合葬されたが,車服礼儀は皆漢制に依った.

[一]謚法に曰く:「徳布き義を執るを曰く穆と.」

[二]国に於いて留まり往く,以って年長なるを待つのである.

[三]抵は,擲である也.軒は,闌板である也.

論に曰く:漢世の皇后には謚が無かった,皆因るに帝の謚で以って為称したのである.呂氏が專政し,上官が臨制したと雖も,亦た殊号無かった.[一]中興して,明帝が光烈之称を建てるのを始め,其後に並んで徳を以って配為したが,賢愚優劣に於いて至るや,混同すること一貫としていた,故に馬、竇の二后は倶に徳を称えられたのである焉.其の余は唯、帝之庶母及び蕃王が承統し,以て追尊之重とし,特に其号を為すに,恭懐、孝崇の是に比肩する如しであった也.初平中,蔡邕が和熹之謚を追って正すことを始め,[二]其は安思、順烈以下にわたり,皆依って而して加えられたのである焉.

[一]上官は,昭帝の后である也.

[二]蔡邕集謚議に曰く:「漢世は母氏に謚無く,明帝が建光烈之称を始めるに至ると,是より後に転じて因って帝号之に加えるに徳を以てしたが,上下優劣,混わり而して一を為した,(これは)礼に違うことである

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『大行は大名を受ける,小行は小名を受ける』の制である.謚法『功有って人を安んじるを曰く熹』.帝后は一体,礼も亦同じに宜べる.大行皇太后の謚は宜為して和熹.」

贊に曰く:坤とは惟う<おもう>に厚載なるものであり,陰ながら正す乎<や>内となる.[一]詩の美きは逑を好み,[二]易は帰妹を称える.[三]祁祁なるかな皇孋,言うに貞淑を観る.[四]媚茲良哲なれば,我に天禄を承らす.班政蘭閨なれば,礼を椒屋に宣べる.[五]既に徳升を云う,亦曰く幸進と.[六]身は当に隆極(極まり隆ん<さかん>)なるべく(身は隆極に当たれば),族漸くして河潤わん.[七]視景争暉,方山並び峻しい.剛くして乗れば多く阻まれ,地を行けば必ず順なるものである.[八]咎が集まれば驕り満ち,福が協えば<かなえば>貞しく信なる.慶は己から延びるもの,禍は誰かを釁って<血塗って>成るものである.

[一]易曰く:「坤は厚く載せる物.」又曰く:「女が正しく位する乎内である,男が正しく位する乎外である.」

[二]逑は,匹である也.詩は云う:「窈窕淑女,君子は逑を好む.」言うに后妃有関睢之徳,為君子好匹.

[三](易の)兌下震上は,帰妹の卦である也.婦人が嫁す謂うに曰く帰と,また妹は少女之称を為す.兌は少陰を為し,震は長陽を為す,少陰して而して長陽を承ることであり,悦び以って之を動かすことで,帰妹之象である也.六五を以って九二に相応じ,五は為すに王侯なる,故に易は言う「帝乙帰妹」と.

[四]祁祁は,多である也.孋は亦た儷である也.観は,示すである也.言うに諸后は皆其の貞淑を示し,配皇は儷を成す.案ずるに字書に「孋」字は無い,その麗の音を相伝えたものであろう,蕭該音離.

[五]班固の西都賦に曰く:「後宮は則ち掖庭であり,椒房は后妃之室である.蘭林尅垂ヘ,披香発越するものである.」蘭林は,殿名である,故に蘭閨と言う.椒屋は即ち椒房である也.

[六]徳升は馬、ケ等を謂う也.幸進は閻、何之類を謂う也.

[七]公羊伝に曰く「河海は千里を潤す」也.

[八]易の屯の卦象に曰く:「六二之難,乗剛也.」又、坤の卦に曰く:「牝馬は地の類,地を行くに無疆なり.」王弼は注に云う:「地之所以得無疆者,以卑順行之故也.」

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漢制では,皇女は皆封じられて県公主となり,儀服は列侯と同じである.[一]其の尊崇される者は,加号して長公主となり,儀服は蕃王と同じである.[二]諸王女は皆封じられて、亭公主となる,儀服は、亭侯と同じである.[三]肅宗は唯、東平憲王蒼、琅邪孝王京女のみを特封されして県公主となした.[四]其後安帝、桓帝の妹が亦長公主に封じられ,これ皇女と同じとなった.[五]其の皇女で公主に封じられた者は,所生之子襲母封為列侯(生まれた子は母の封を襲って列侯と為り),[六]皆後に国を伝えた.、亭の封については,則ち伝襲などされない.其職僚品秩については,事は百官志に在る.[七]不足は別に載せる,故に后紀末に附す.

[一]漢の法では,大県侯は三公と視る.

[二]蔡邕曰く:「帝女は曰く公主,姊妹は曰く長公主.」建武十五年,(武)[舞]陽公主を封じて長公主と為したが,即ち是は帝女が尊崇されて亦長と為ったのであり,惟うに姊妹ではない也.輿服志は曰く「長公主は赤軿車であるが,諸侯と同じ綬である」也.

[三]、亭侯は中二千石と視る.

[四]東平王伝に曰く:「劉蒼の女<むすめ>五人を封じて県公主と為した.」とあるが孝王の女については,伝に其の数(人数)は見えない.

[五]案ずるに:ケ禹の玄孫である少府のケ舞陰長公主を尚んだ,耿弇の曾孫で侍中のケ良は(漢)[濮]陽長公主を尚んだ,岑彭の玄孫である魏郡太守の岑熙は陽長公主を尚んだ,来歙の玄孫である虎賁中郎将の来定は平氏長公主を尚んだ,並んで(どれも)安帝の妹である也.長社、益陽公主は,桓帝の妹である也.上に解見される.

[六]定は,獲嘉公主の子であり,襲封して獲嘉侯となった;馮奮は,平陽公主の子であり,襲封して平陽侯となった.此は其の類である也.

[七]沈約謝儼伝に曰く:「范曄が撰ぶ所の十志は,一に皆謝儼に託されたものだった.搜撰垂畢,遇曄敗,悉く蠟以覆車.宋文帝令丹陽尹徐湛之就儼尋求,

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巳不復得,一代以為恨.其志は今闕けている.」續漢志は曰く:「諸公主の家令は一人,六百石である;丞は一人,三百石である;其の余りの属吏については,増減にきまったものがない.」漢官儀は曰く「長公主の傅は一人,私府長が一人,食官が一人,永巷長が一人,家令が一人,秩は皆六百石であり,それぞれが員吏を有する.而して公主の傅は一人,秩六百石,僕が一人,六百石,家丞が一人,三百石である」也.

皇女義王は,建武十五年に封じられて舞陽長公主となった,(延)陵侯で太僕の梁松に適った.[一] 梁松は誹謗に坐して誅された.

[一]舞陽は,県である,潁川郡に属する.梁松は,梁統の子である.其の伝に云うに:「光武の女<むすめ>である舞陰公主を尚んだ.」またケ訓伝では:「舞陰公主の子の梁扈は,罪有った,ケ訓と交わり通じあったのである.」此は云うに舞陽であろう,誤りである也.

皇女中礼は,十五年に涅陽公主に封じられ,顯親侯である大鴻臚の竇固に適った,[一]肅宗は尊んで長公主と為した.

[一]涅陽は,南陽郡に属する.顯親は,県である,漢陽郡に属する.竇固は,竇融の子である.

皇女紅夫は,十五年に館陶公主に封じられ,駙馬都尉韓光に適った.韓光は淮陽王劉延の謀反に坐し誅された.皇女礼劉は,十七年淯陽公主に封じられ,陽安侯で長楽少府の郭璜に適った.[一]郭璜は竇憲の謀反に坐し誅された.

[一]郭璜は,郭況の子である也.

皇女綬は,[一]二十一年に酈邑公主に封じられ,新陽侯の世子である陰豐に適った.陰豐は主を害し,誅死した.[二]

[一]「綬」は一つには「緩」と作る.

[二]酈は,県である,南陽郡に属する,音は擲亦反.新陽は,県で,汝南郡に属する.陰豐は,陰就の子で.世祖の五女である.

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皇女姫は,永平二年に獲嘉長公主に封じられ,楊邑侯で将作大匠の馮柱に適った.[一]

[一]獲嘉,は,県である,河郡に属する.楊邑は,県で,太原郡に属する.馮柱は,(馬)[馮]魴の子である.

皇女奴は,三年に平陽公主に封じられた,[一]大鴻臚馮順に適った.[二]

[一]平陽,は県である,河東郡に属する.

[二]馮勤の子である也.

皇女迎は,[一]三年に隆慮公主に封じられた,[二]牟平侯耿襲に適った.[三]

[一]「迎」は或いは「延」と作る.

[二]隆慮は県である,河郡に属する.

[三]牟平は県である,東萊郡に属する.耿襲は,耿弇の弟である耿舒の子である.

皇女次は,三年に封じられた平氏公主である.[一] 既に適う所を言わず,始めも終りも顯れない,蓋し史は之を闕く也.它は皆此れに倣った.

[一]平氏は県である,南陽郡に属する.

皇女致は,三年に封じられた、沁水公主である,[一]高密侯ケ乾に適った.[二]

[一]沁水,は県である,河郡に属する.

[二] ケ乾は,ケ震之子で,ケ禹之孫である.

皇女小姫は,十二年に封じられた、平公主である,[一]昌安侯で侍中のケ蕃に適った.[二]

[一]平,は県である,河郡に属する.

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[二]昌安,は県である,高密国に属する.ケ蕃は,ケ襲の子で,ケ禹之孫である也.

皇女仲は,十七年に封じられた、浚儀公主である,軮侯[一]で門侍郎の王度に適った.[二]

[一]「軮」は,志には「軑」と作る,音は.師古は曰く:又音は徒系反.

[二]軮,は県である,江夏郡に属する.王度は,王符の子で,王霸之孫である.

皇女惠は,十七年に封じられた、武安公主である,征羌侯世子で門侍郎の来棱に適った,[一]安帝は尊んで長公主と為した.

[一]征羌,は県である,汝南郡に属する.来棱は,来之子で,来歙之孫である.

皇女臣は,建初元年に封じられた,魯陽公主である.[一]

[一]魯陽,は県である,南陽郡に属する.

皇女小迎,元年に封じられた,楽平公主である.[一]

[一]楽平,太清は県である,東郡に属する,章帝が更名した.

皇女小民は,元年に封じられた,成安公主である.[一]

[一]成安は県である,潁川郡に属する.顯宗の十一女である.

皇女男は,建初四年に封じられた,武徳長公主である.皇女王は,四年に封じられた,平邑公主である,[一]門侍郎馮由に適った.

[一]平邑は県である,代郡に属する,今の魏郡の昌楽東北に又平邑城が有る.

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皇女吉は,永元五年に封じられた,陰安公主である.[一]

[一]陰安は県である,魏郡に属する.肅宗の三女である.

皇女保は,延平元年に封じられた,脩武長公主である.[一]

[一]脩武は県である,河郡に属する.

皇女成は,元年に封じられた,共邑公主である.[一]

[一]共は県である,河郡に属する.

皇女利は,元年に封じられた,臨潁公主である.[一]即墨侯で侍中の賈建に適った.[二]

[一]臨潁は県で,潁川郡に属する.

[二]即墨は県である,膠東国に属する.賈建は,賈参の子で,賈復之曾孫である.

皇女興は,元年に封じられた,聞喜公主である.[一]

[一]聞喜は県である,河東郡に属する.和帝の四女である.

皇女生は,永和三年に封じられた,舞陽長公主である.

皇女成男は,三年に封じられた,冠軍長公主である.[一]

[一]冠軍は県である,南陽郡に属する.

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皇女廣は,永和六年に封じられた,汝陽長公主である.[一]

[一]汝陽は県である,汝南郡に属する.順帝の三女である.

皇女華は,延熹元年に封じられた,陽安長公主である,不其侯で輔国将軍の伏完に適った.[一]

[一]伏完は,伏湛(五)[七]世の孫である.

皇女堅は,七年に封じられた,潁陰長公主である.[一]

[一]潁陰は県である,潁川郡に属する.

皇女脩は,九年に封じられた,陽翟長公主である.桓帝の三女である.

皇女某は,光和三年に封じられた,万年公主である.靈帝の一女である.