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後漢書卷五十

孝明八王列傳第四十

孝明皇帝には九子がいた:賈貴人は章帝を生んだ;陰貴人は梁の節王暢を生んだ;余りの七王について本書は母の氏を載せない.[一]

[一]本書は東観記を謂う也.

千乘哀王劉建は,永平三年に封じられた.明年薨じた.年が若かったため子は無く,国は除かれた.

陳敬王劉羨は,永平三年に広平王に封じられた.建初三年,有司が奏上して劉羨と鉅鹿王劉恭、楽成王劉黨を遣わして倶に就国させた.肅宗篤愛,諸王と乗離するを忍び,遂に皆京師に留まった.明年,輿地圖を案じ,令して諸国口皆等しくするようし,租入は各八千万とした.劉羨は經書を博渉猟し,威厳有って,諸儒と白虎殿で講論した.七年,帝は広平が北に在って,辺境ゆえにかかる費用が多いため,[一]

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乃ち劉羨を徙して西平王と為し,[二]汝南八県を分けて国とした.帝が崩じるに及んで,遺詔して陳王に徙封した,食は淮陽郡,其年に就国した.立つこと三十七年して薨じ,子の思王鈞が嗣いだ

[一]広平は,県,故城は今の州永年県北に在る.

[二]西平は,県である,汝南郡に属する也.

劉鈞は立つと,不法が多く,天子の大射禮を遂行した.[一]性は隱賊,文法を喜び,国相二千石でともに相得ることしない者には,輒ち之を陰に中てた.敬王夫人李儀等を憎み怨み,永元十一年,遂に食客の隗久を使って [二]李儀の家属を殺害した.官吏が隗久を捕えて得ると,長平獄に繋いだ.[三]劉鈞は辭語を断絶しようと欲し(隗久の口を封じようとして),復た結客使って隗久を殺した.事は発覚し,有司が挙げて奏上したため,劉鈞は罪に坐し西華、項、新陽三県を削られた.[四]十二年,劉鈞の六弟を封じて列侯とした.[五]後に劉鈞は掖庭に出された女李嬈を取って小妻としたため,[六]復罪に坐して圉、宜祿、扶溝三県を削られた.[七]永初七年,敬王の孫である劉安国を封じて耕亭侯とした.

[一]天子は将祭するに,擇士して祭る,之を謂うに大射と.大射の禮は,三侯を張る,(その三侯とは)虎侯、熊侯、豹侯,猛を服して示す也,皆以て其の皮をして之を方制する.楽は騶虞,九節を用いる.謝承の書に曰く「陳国の曹史高慎は国相を諫めて曰く:『諸侯は豕を射,天子が熊を射つのです,八彝六樽,禮は数を同じにしません.昔季氏は設朱干玉戚以て大夏を舞わせました.左傳に曰く:「唯名與器,不可以假人.」奢僭之漸,不可聴也.』於是諫争不合,為王所非,坐司寇罪」也.

[二]「久」は或いは「文」と作る.

[三]長平は,県である,陳国に属する.

[四]西華の故城は今の陳州水県西北に在る.項は,今の陳州項城県である也.新陽の故城は今の豫州真陽県西南に在る也.

[五]伏侯古今注に曰く「番は陽都侯と為る,千秋は新平侯となる,參は周亭侯と為る,壽は楽陽亭侯,寶は博平侯,旦は高亭侯となる」也.

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[六]嬈音寧了反.

[七]圉、扶溝はどちらも陳留郡に属する.宜祿は汝南郡に属する.

劉鈞は立って二十一年で薨じ,子の懷王、劉竦が嗣いだ.立って二年して薨じ,子は無く,国は絶えた

永寧元年,敬王の子で安壽亭侯劉崇が陳王となった,是は頃王となったのである.立って五年して薨じた,子の孝王、劉承が嗣いだ.

劉承が薨じ,子の愍王、劉寵が嗣いだ.熹平二年,国相師遷が追奏して、前の国相の魏愔を劉寵と共に天神を祭り,幸を希うは冀うに非,罪して不道に至ると言ってきた.有司が奏上したため使者が案驗のために遣わされた.是時新たに勃海王の劉悝を誅したところだったため,[一]靈帝は再び法を加えるのに忍び詔して檻車で魏愔を伝送し、遷して北寺に詣でて詔獄した,中常侍の王甫を使って[二]尚書令、侍御史らに考えさせた.魏愔は王と共に老君を祭って,自分の長生と福を求め,它無く幸を冀ったのだと弁じた.王甫等は奏上して魏愔の職は(王の)匡正に在るのに,不端を為す所あって,誣を遷して其の王に告げ,不道を以て罔いた,皆誅死にあたる(と結論した).詔あって劉寵の不案(迂闊さ)を赦免した.

[一]靈帝熹平元年,劉悝は誣の謀反を被り自殺した也.

[二]華嶠書及び宦者伝諸本は「甫」と並び作る,此云は「酺」とする,なぜかは分からない.

劉寵は弩射を善くし,十発十中,皆同じ処に中る.[一]中平の中,巾賊が起こり,郡県は皆城を捨てて走った,劉寵は強弩数千張を有し,軍を都亭に出した.[二]国人は素より王の善く射ることを知っていたため,敢えて反叛せず,そのため陳は独り国を完うし,百姓で之に帰服するもの十余万人にのぼった。獻帝の初めに及んで,義兵が起こると,劉寵は兵を率いて陽夏に駐屯し,[三]輔漢大将軍を自称した.国相で会稽出身の駱俊は素より威恩があった,時に天下は飢えて荒廃し,隣郡の人の多くが之に帰り就いた,駱俊は資材を傾けて贍を振るわしたため,並んで全て活きる得た.後に袁術が陳に糧秣を求めた際、駱俊は之を拒したため,袁術は忿恚し,刺客を遣わし駱俊と劉寵を詐殺した,陳国は是より破れ敗れた.[四]

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[一]華嶠の書に曰く:「劉寵の射撃は,其の祕法、以て天覆地載,連射すること素晴らしいものがあった.また、三微三小を有した.三微は經を為し,三小は緯を為して,經緯相将,万勝の方(方策というもの)は,然る機牙に要在する.」

[二]国の都亭に軍営を置いたということである.

[三]県名である,淮陽国に属する.夏の音は公雅反.

[四]謝承の書に曰く:「駱俊は字を孝遠といい,会稽郡烏傷の人である.孝廉に察せられ,尚書侍郎を補い,擢ばれて陳国相を拝命した.子を産んだ人があると,米肉を厚く致し,府に達して主意を伝えさせた,男を生んだ女は,駱を以て(子供の)名にしたという.袁術は部曲将の張闓(【a】元陶謙の部下で曹操の父、曹嵩殺害に関与した張闓のことだろうか?)を使って陽に私行し陳国の駱俊の所に到着した,駱俊は往って従いて飲酒した,詐に因り駱俊を殺した,一郡の吏人は父母を喪ったかのごとく哀号した.」

是時諸国はまた租祿無く,而も虜奪も数々見られた,并日して食事するありさまで,溝壑に転がり死んでいる者は甚だ多かった.夫人妾は多く丹(陽)[陵]兵や烏桓などに略奪されるところとなったと云う.

(ここまで劉寵伝)

彭城靖王恭は,永平九年に靈壽王と賜号された.[一]十五年,封じて鉅鹿王とされた.建初三年,江陵王に封を徙された,南郡を改めて国とした.元和二年,三公が上言し江陵は京師の正南に在り,封じるべきではないとのことで,乃ち徙って六安王と為り,廬江郡を国とした.肅宗が崩じられると,遺詔あって彭城王に封を徙された,食は楚郡,其の年に就国した.劉恭は敦厚威重,挙動には節度が有り,吏人は之を敬愛した.永初六年,劉恭の子の劉阿奴を封じて竹邑侯とした.[二]

[一]其の美名を取ったのである也,下重熹王亦同.東観記曰「賜号とは,未だ国邑のないものである」也.

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[二]竹邑は,県で,沛郡に属する,故城は今の徐州符離県に在る也.「竹邑」は或いは「邕」の字と作る,轉寫の誤である也.

元初三年,劉恭は(ある)事を以って子の劉酺に怒り,劉酺は自殺した.[一]国相の趙牧がその状況を上すると,因って誣奏して劉恭は祠祀し悪言している,大逆不道であるとした.有司は奏して之を誅することを請うた.劉恭は上書して自ら(反対の)訴訟をおこした.朝廷は其(劉恭)の素より義を行うこと著されていたことから,令して考実させた,無徴となり,趙牧(の方)が坐して獄に下されたが,赦されて死を免れることになった.[二]

[一]東観記に曰く:「劉恭の子男である劉丁の前[妻]が物故すると,劉酺は劉丁の小妻を侮慢したため,劉恭は怒り,劉酺を馬厩に閉じ込めた,劉酺は逃亡すると,彭城県に夜詣でて上書しようと欲した,劉恭が従官倉頭を遣わしたところ曉令あって帰された,之を何度も責めたてたところ,乃ち自殺したのである也.」

[二]決注に曰く:「趙牧は字を仲師といい,長安の人である.若いころ名を知られ,公正を以て称えられた.春秋を修め,楽恢に(師)事した.楽恢は直諫を以て死んだため,趙牧は冤罪であることを陳べて申を得た.高第して侍御史会稽太守と為り,皆称績有った.劉恭を誣奏するに及び,安帝は其の侵を疑い,乃ち御史の母丘歆を遣わして其の事実を案じて覆させた,趙牧は廷尉の手に下されたが,赦免に会ったため誅されず,家で終わった.」

劉恭は立つこと四十六年して薨じた,子の考王道が嗣いだ.元初五年,劉道の弟三人を封じて侯とした,[一]劉恭の孫の劉順は東安亭侯と為った.

[一]東観記に曰く:「丙は都侯とし,国は安侯とし,丁は魯陽侯とした.」

劉道は立つこと二十八年して薨じた,子の頃王定が嗣いだ.本初元年,劉定の兄弟九人を封じて皆亭侯とした.[一]

[一]東観記に曰く「劉定の兄劉據は卞亭侯,弟の劉光は昭陽亭侯,固公梁亭侯,興蒲亭侯,延昌城亭侯,祀梁父亭侯,堅西安亭侯,代林亭侯」也.

劉定は立つこと四年して薨じた,子の孝王和が嗣いだ.劉和の性は至孝,太夫人が薨じると,行喪陵次,毀胔過禮.傅相は以て聞いた.桓

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帝が詔して使いをやって牛酒を奉じて王を迎え宮に還った.劉和は賢敬い施し楽しみ,国中が之を愛した.初平中,天下が大乱すると,劉和は賊昌務の攻める所と為ったため,避けて東阿に奔った,後に国に還ることができた.

立つこと六十四年して薨じ,孫の劉祗が嗣いだ.立つこと七年,魏が受禅し,以って崇徳侯と為った.

楽成靖王黨は,永平九年に賜号されて重熹王となり,十五年に封じられて楽成王となった.劉黨は聰惠で,史書を善くし,文字を正すことを喜んだ.肅宗と同年であり,尤も互いに親愛しあった.建初四年,以て清河の游観津,勃海の東光成平,涿郡の中水饒陽安平南深澤の八県を楽成国に益した.[一]帝が崩ずるに及ぶと,其の年に就国した.劉黨は急速に法度を遵守しないようになった.旧禁宮人出嫁(旧きは宮人が嫁に出ることは禁じられており),諸国に適うを得なかった.故<もと>の掖庭の技人に哀置というものが有り,嫁して男子章初の妻と為った,[二]劉黨は哀置を召して宮に入れると彼女と通じ,(気づいた)章初が上書して之を告げようと欲したので,劉黨は恐懼し,乃ち哀置に密かに賂して姊である焦を使って章初を殺させた.事が発覚すると,劉黨は乃ち侍三人を縊り殺した,以って口語を絶とうとしたのである.また故の中山簡王傅の婢である李羽生を小妻と為した.永元七年,国相が之を挙奏した.和帝は詔して東光二県を削った.[三]

[一]前書及び郡国志では清河に游県は無い.観津故城は今の徳州県東北に在る,東光は滄州東光県南に在る,成平は景城県南に在る,中水は今の瀛州楽壽県西北に在る,南深澤は今の定州深澤県東に在る也.

[二]哀は,姓である;置が,名である也.男子と称する者は,官爵の無い者のことである也.

[三]県は鉅鹿郡に属する.音は羌堯反.

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立つこと二十五年して薨じた,子の哀王崇が嗣いだ.立って二月して薨じた,子は無く,国は絶えた

明年,和帝が立つと崇の兄である脩侯巡を楽成王とした,是が釐王である.[一]立つこと十五年して薨じた,子の隱王賓が嗣いだ.立つこと八年して薨じた,子は無く,国は絶えた

[一]脩県(及)は[即ち]條県である,(皆)勃海に属する.條の字は或いは「脩」と作る.

明年,復して濟北惠王の子の劉萇を立てて楽成王の後とした.劉萇は国に到って数ヶ月すると,驕淫不法となり,愆するに過ぎ累積したため,冀州刺史は国相とともに挙げて奏上し劉萇は罪あり不道に至るとした.安帝は詔して曰く:「劉萇は其の面に靦を有し,而して其心を放逸させた.[一]知るに陵廟は至重であり,承継は有禮である,敬之節,肅穆之慎を致すを惟わず,乃ち敢えて犧牲を擅損して,苾芬に備えない.[二]慢易大,不震厥教である.[三]出入りするに顛覆し,家では風淫し,人の妻を娉に取り,(それでいながら)婢妾を饋遺する.吏人を殴り撃ち,凶暴を專己する.愆した罪は莫大であり,甚だ恥じるべきものである也.朕は八辟之議を覧たが,理で之を致すのは忍びない.[四]其れ劉萇の爵を貶めて臨湖侯とする.[五]朕は『則哲』之明無く,簡統を致さんとして序を失い,罔するに以て尉をして大姫を承らせた,永く歎きを増し懐くものである.」[六]

[一]靦は,である也.言面然無媿.音胡八反.

[二]詩の小雅に曰く:「苾苾芬芬,祀事孔明.」

[三]大即萇所繼之母.震は,懼である也.

[四]周禮司寇:「以って八辟をして邦法麗しき:一に曰く議すは親之辟,二に曰く議すは故之辟,三に曰く議すは賢之辟,四に曰く議すは能之辟,五に曰く議すは功之辟,六に曰く議すは貴之辟,七に曰く議すは勤之辟,八に曰く議すは賓之辟.」

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[五]臨湖は廬江郡に属する.

[六]袁宏紀は曰く:「尚書侍郎の冷宏が議して,以為<おもえらく>自ずと聖人に非ざれ,過ち無きこと能わないものです,故に王太子は生れると,為立賢師傅(師傅に立賢を為させて(賢明さを教え込ませて))以って之を訓導するわけです.是は以って目するに悪を見ず,耳するに非を聞かず,能く其の社稷を保ち,高明令終(高く明らかにしてその生涯を終わらせようとするものです).劉萇は若いころから藩国に長たりて,内は過庭之訓無く,外は師傅之道無く,血気は方ずるに剛く,栄爵を卒受しましたため,幾微(幾らか微かに)過ちを生んで,遂に不義に陥ったものです.臣は聞ききますに周官では親(族)を議して,憃愚は赦しを見るということです.劉萇は無辜を殺したわけでなく,譴呵を以って非と為されたもので,赫赫たる大悪は無く,裁くとしても其の租賦を削るか奪うか損ねるかということにすべきでしょう,(そのうえで)令しまして過ちを改め自ら新たまって,心を革め道(善道)に向かうよう得させるのがよろしいかと思います.」香集を案ずるに,黄香は冷宏と共奏したということで,此は黄香之辭である也.

延光元年,河間孝王の子である劉得を以て靖王の後を嗣がせた.以て楽成をして廃絶したようなものとし(比廃絶),故に改国して曰く安平とした,是が安平孝王である.

立つこと三十年して薨じ,子の續が立った.中平元年,巾賊が起こると,劫質される所となり,広宗に囚われた.[一]賊が平げられると復国した.其の年の秋,不道に坐して誅を被った.立つこと三十四年,国は除かれた.

[一]今の貝州宗城県である也,隨室諱改焉.

下邳惠王衍は,永平十五年封じられた.劉衍は容貌が見事だったため,肅宗が即位すると,常に左右に在った.建初に初冠し,詔あって賜りものがあった劉衍師傅已下の官属に金帛各々差が有った.四年,臨淮郡及び九江の鍾離当塗東城全椒合わせて十七県を以て下邳国に益した.[一]帝が崩ずると,其の年に就国した.劉衍は後に病して荒忽し,而して太子卬に罪有って廃されたため,諸姫が争って子を立てて後嗣としようと欲し,連ねて上書して相告げて言ってきた.和帝は之を憐み,彭城靖王恭を使って下邳に至らせ其の嫡庶を正させ,子の劉成を立てて太子とした.[二]

[一]鍾離は今の豪州鍾離県東に在る.当塗は県の西南に在る.東城は定遠県東南に在る.陽は,和州県である也.全椒は,今の滁州県である也.

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[二]東観記は劉恭に賜った詔を載せている,曰く:「皇帝は彭城王始夏の恙無きを問う.蓋し聞く堯は九族に親しみ,万国は協和した,書典の美しとする所である也.下邳王は病を被り沈滞之疾となり,昏乱不明となって,家は用いるに寧んじない,妾は庶に適わんとし,諸子は分けて争い,紛紛して今に至る.前太子の卬は頑凶で失道し,大辟に陥った,是の後諸子が更相して誣告し,今、嗣に適うこと未だ定まることを知らないこととなった,朕は甚だ之を傷むものである.惟ふに王(彭城王劉恭)は下邳王と恩義至親であった,此の国の後嗣を正すに,王に非ざれ他に誰がいよう?禮は庶之序に適うことを重んじ,春秋之義は正しさに泰然と腰掛ける.孔子は曰く:『惟ふに仁は能く人を好み,能く人を悪.』仁を貴ぶのは好悪が其の中を得る所であるからだ也.太子は国之儲嗣である,可不慎歟!王其差次下邳諸子可為太子者上名,将及景風拜授印綬焉.(彭城王は下邳王の諸子に序列を設け太子となるべきものを上名せよ,その報せが届き次第拝して印綬を授けよう。)」

劉衍は立って五十四年して薨じた,子の貞王成が嗣いだ.永建元年,劉成の兄二人及び惠王の孫二人を封じ皆列侯とした.

劉成は立つこと二年して薨じ,子の愍王意が嗣いだ.陽嘉元年,劉意の弟八人を封じて亭侯とした.中平元年,劉意は巾に遭い,国走った.賊が平げられると復国したが,数ヶ月で薨じた.立つこと五十七年,年九十であった.

子の哀王宜嗣いだ,数月して薨じた,子は無かった,建安十一年国は除かれた.

梁の節王暢は,永平十五年に封じられて汝南王と為った.母の陰貴人は寵有って,劉暢も尤も愛幸を被り,国土租入は諸国に倍した.肅宗が立つと,先帝之意に縁し,賞賜恩寵は甚だ篤かった.建初二年,劉暢の舅陰棠を封じて西陵侯とした.[一]四年,徙って梁王と為り,陳留の郾寧陵,濟陰の薄単父己氏成武,凡六県を以て,梁国を益した.[二]帝が崩ずると,其の年に就国した.

[一]西陵は,県である,江夏郡に属する.

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[二]Wは,今の許州郾陵県である也.寧陵は,今の宋州県である也.薄の故城は今の曹州考城県東北に在る.單父は,今の宋州県である也.己氏は,今の宋州楚丘県である也.成武は,今の曹州県である也.

劉暢の性は聰惠であったが,然るに若いころ貴驕であって,頗る法度を遵守しなかった.帰国して後,何度も悪夢にうなされた,従官卞忌が自ら言うに能く六丁を使い,善く夢を占うということだったため,[一]劉暢は何度も使いを立て卜筮した.また劉暢の乳母の王禮等は,此に因って自ら言うに能く鬼神の事を見るとしたため,遂に共に気を占い,祠祭して福を求めた.卞忌等は諂い<へつらい>媚びて,云うことに神は王こそ当に天子に為るべきだと言っているとした.劉暢は心から喜び,與<くみ>して相応荅した.永元五年,豫州刺史梁相は劉暢が不道であると挙奏したため,考訊あったが,辞して服さなかった.有司が劉暢を徴して廷尉を詔獄に詣でさせることを請うたが,和帝は許さなかった.有司が劉暢の国を除くようまた重ねて奏上したため,九真に徙したが,帝は忍び,但、成武単父の二県のみを削るにとどめた.劉暢は懼し(大いに恐懼し),上疏して辞して謝した、曰く:「臣は天性狂愚で,深宮に生まれ在って,母之手に長く養傅され,左右之言を信じ惑わされました.帰国するに至るに及び,禁を防ぐ知りませんでした.従官侍史が臣の財物を利して,臣暢を熒惑したのです.臣暢は昭見する所無く(過ちに気づく聡明さを持たず),與相して然諾しましたが,これは死罪に陥ることであると自覚していなかったのであります,そのため考案に至ったのであります.肌粟立ち心動悸が収まらず,自ら悔いても復及する所ありません.自ら謂いますが当に即時顯誅に伏されるべきもので,魂魄は身を去り,分かれて泉に帰ることになるものです.それでも陛下には聖徳を不意にし,法を枉げて平らかを曲げてでも,有司(の言葉)を聴きいれず,[二]横貸赦臣(横貸して臣をお赦しくださいますよう).戦慄すること月を連ね,未だ敢えて自ら安んじません.上念以負先帝而令陛下為臣收汙天下(念を上らせて(黄泉にいる)先帝に頼みを負わせ而して陛下に先帝から令をくださって臣のことで天下を悪で収まるよう為させてはくれないだろうかと必死の思いでおります),[三]誠に以って息しても気無く,筋骨は相連ならないでおります.臣暢はこの大いなる貸しが再び得ることできないことを知っております,自ら誓って身を束ね妻子を約し,不敢復出入失繩墨(縛縄され入墨された状態を失くした状態で(つまり罪に伏さない状態では)敢えて再び出入りいたしません),不敢復有所横費(また敢えて手持ちの財産をそのまま再び所有することもいたしません).租入には余り有ります,食であります睢陽穀孰寧陵五県を裁くことを乞い,還して余りの四県を食とする所としたいと思います.臣暢には小妻が三十七人おりますが,其の子の無い者は本家に還すことを願います.奴婢二百人だけを自ら選擇謹いたしまして,其の余す所は虎賁官騎及び諸工技鼓吹倉頭奴婢兵弩馬として受けてくださいますよう皆本署に還し上らせます.臣暢は骨肉の近親を以ってして,聖化を乱し,清流を汙し(濁し)しまいました,(もし)既に生活を得たら(生かしてもらえることができたら),誠に無心面目、大宮に再び居ること,大国を食むこと,官属を張ること,什物を蔵することを以って凶として悪<にくむ>次第でおります.願わくば

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陛下が大恩を加えられ,臣に自ら悔いる門を開かせ,臣に小善之路を仮させ,天下に臣が恩を蒙ったことを知るよう広め,死を去って生に就くを得させ,頗る能く自ら悔いをなさせてくださいますよう.臣は公卿が臣の罪悪を奏した所であります詔書を以って自分の前に常に置いております,晝夜誦讀(そして昼も夜もそれを音読しております).臣は小人であります,明時に見えんことを貪らんとし,即時自ら(自決して幕を)引くこと能わないでおります,陛下が臣を哀れんでくれることを惟い<おもい>,どうか令して喘息漏刻を得させてくださいますよう.若不聴許,臣実無顔以って久しきを生き,下って泉に入り,以って先帝に見えること無し.此は誠に臣の至心であります.臣は受けた所の多くを還したいと欲しています,天恩が聴許されないことを恐れます,留める所を節量いたしまして,臣暢に於いて饒足ることをおもいます.」詔が報いられた、曰く:「朕は王についてその至親之属,淳淑之美,傅相の不良,邪を防ぐこと能わざりしことを惟う,至令有司紛紛有言(そこで有司に紛々有言を令するに至ることにした).今や王は過ちを悔いること深く思い,端<はし>自り克責している(端々から自らを責めそれに耐えている),朕は惻然として之を傷むものである.志匪由(于)[王](罪について志は王に由<ゆえ>匪<あら>ず),咎は彼の小子に在る.[四]一日克己復禮,天下帰仁(一に曰く克己して復礼すれば,天下は仁に帰るものである/一日克己して二度礼を行えば,天下はすべからく仁に帰着するものである).王其の心を安らげて意(気持ち)を静め,茂率休徳するように.易は云わないだろうか乎:『一謙而四益.小有言,終吉.』[五]強食自愛(強いて食事をして自愛するように).」暢固讓,章数上,卒不許(劉暢は固より謙譲であり,章が何度も上されたが,卒することは許されなかった).

[一]六丁とは六甲中の丁神を謂うのである也.若し甲子が旬に中れば,則ち丁卯が神と為る,甲寅が旬に中れば,則ち丁巳が神と為る、その類である也.役使之法は,先ず齋戒し,然る後に其の神至る,使って遠方に(の)物を致すことができる及び吉凶を知ることができる也.

[二]曲平とは,法を曲げて恩を申し渡すことである,其の罪する処を平らげるのである.

[三]汙は,悪である也.天下は以って帝が王を赦すのを悪とみなす,故に天下を悪で収めると言うのである也.

[四]謂うに卞忌及び王禮等の由である也.

[五]易の謙卦に曰く:「天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道悪盈而好謙.」是一つ謙を為せば,而して天地神人は皆之を益に,故に曰く「一謙而四益」.訟卦の初六に曰く:「小有言,終吉.」つまり、王は小と雖も訟言を有したため,而して終に吉となったと言うことである也.

立つこと二十七年して薨じ,子の恭王堅が嗣いだ.永元十六年,劉堅の弟二人を封じて亭侯と為した.

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劉堅は立つこと二十六年して薨じた,子の懷王匡が嗣いだ.永建二年,劉匡の兄弟七人を封じて亭侯と為した.

劉匡は立つこと十一年して薨じた,子は無く,順帝は劉匡の弟で孝陽亭侯の劉成を封じて梁王とした,是が夷王である.

立つこと二十九年して薨じた,子の敬王元が嗣いだ

立つこと十六年して薨じると,子の彌が嗣いだ.立つこと四十年,魏が受禪し,以て崇徳侯と為った.

淮陽頃王,永平[十]五年に常山王に封じられ,建初四年,徙って淮陽王と為り,汝南の新安西華を以て淮陽国を益された.

立つこと十六年して薨じたが,未だ立嗣に及ばなかった,永元二年,和帝は小子である側を立てて復して常山王と為し,後を奉じさせた,是が殤王と為った.

立つこと十三年して薨じた,父子皆未之国(父子ともども未だ就国せずに死去したため),並んで京師に葬られた.劉側には子が無く,其の月に兄であった防の子で侯であった章を立てて常山王と為した.和帝は章が早くから孤児となったことを憐れんで,何度も賞賜を加えられた.延平元年就国した.

立つこと二十五年して薨じた,是が靖王と為った.子の頃王劉儀が嗣いだ.永建二年,劉儀の兄二人を封じて亭侯と為した.

劉儀は立つこと十七年して薨じ,子の節王劉豹が嗣いだ(永)[元]嘉元年,劉豹の兄四人を封じて亭侯と為した.

豹は立つこと八年して薨じ,子のロが嗣いだ.三十二年,巾賊に遭い,国して走った,建安十一年国は除かれた.

 

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濟陰悼王劉長は,永平十五年に封じられた.建初四年,東郡の離狐陳留の長垣を以って濟陰国を益した.立つこと十三年,京師で薨じられた,子は無く,国は除かれた.

論に曰く:晏子は称えた「夫人の生むに厚く而して用いるに利し,是に於いて乎、徳を正して以て之を幅す,之を幅利と謂う」.言うに人の情は須く節なるゆえ以て其徳を正さん,亦由に布帛は須く幅なるゆえ以て其の度<はかり>を成さん焉.[一]明帝は諸子を封じるに,租は歳に二千万を過ぎなかった,馬后は(増やすよう)言を為したが而して得なかった也.[二]賢きかな哉!豈に儉約を徒して而して已まざる乎!驕貴の無猒なるを知るは,嗜欲之難極である也,故東京諸侯鮮有至於禍敗者也(それだからこそ東京の諸侯の中に禍至って敗れる者が鮮かった<すくなかった>のである).

[一]左傳は云う,齊の景公は晏子に邶殿之邑六十を与えたが,晏子は受けなかった,曰く:「夫富とは布帛が幅を有するが如きです焉,之を為すに度<はかり>使ったところで遷るものではありません也.夫人の生むに厚く而して用いるに利し,是に於いて徳を正すに以て之を幅する,之を幅利と謂うのです.過ぎるは則ち敗れる為します,吾が敢えて多き貪らないのは,所謂幅というものなのです也.」

[二]東観明紀に曰く:「皇子之封じるや,皆旧制を減らした.嘗て輿地の圖が案じられたことがあった,皇后が傍に在って,鉅鹿楽成広平など各数県,租穀百万を言ったが,帝は令を下して二千万を満たすに止めた.諸小王皆当略與楚淮陽相比,什減三四.『我子は先帝の子等と当たらない』者也.」

贊に曰く:孝明が胤を伝えたのは,維城八国であった.陳の敬王は厳重であり,彭城王は厚徳であった.下邳王劉嬰は痾であり,梁の節王は邪に惑わされた.三藩は夙齡で,[一]劉黨惟(のみ)荒忒であった.

[一]謂うに千乘淮陽濟陰(の三王)は並んで早歿した也.