後漢書卷八孝靈帝紀第八

孝靈皇帝は諱を宏といい,[一]肅宗の玄孫である。曾祖は河闕F王の劉開であり,祖父は劉淑,父は劉萇。世封されて解瀆亭侯となった,[二]帝は侯爵を襲位した。母は董夫人。桓帝が崩御されたまい,子は無く,皇太后が父の城門校尉竇武と禁中に策を定め,守光祿大夫劉儵に持節を与え使いさせ,将に左右羽林をして河閧ノ至り奉迎した。[三]

[一]謚法に曰く:「乱れて而も損なわざる、曰く靈。」*(伏侯古今注に曰く)*宏の字は曰く大。

[二]劉淑は河濶、の子を以て封じられ、解瀆亭侯となった,劉萇は父の封を襲位した,故に言う、世封なりと。解瀆亭は今の定州義豊県東北にある。

[三]続漢志に曰く:「桓帝の初め,京都に童謠があり、曰く:『城上の烏,尾は畢逋,父は吏となり,子は徒となる。一徒死し,百乗の車。車は班班,河閧ノ入る。河閧フ奼女数銭を工じ,銭を以て室を為し金堂を為す,石上慊慊春黄粱。*(粱)**[粱]*下に懸鼓有り,我は之を撃たんと欲するに丞卿怒る。』『城上の烏』は,高い所で独り食し,下と共に興らず,謂うに人主の多く集める斂である。『父為吏,子為徒』は,蛮夷の叛逆を言う,父は既に軍吏と為り,子弟はまた卒と為り、徒いて往きて之を撃つ。『一徒死,百乗車』は,前一人が胡を撃ち既に死す矣,後にまた百乗の車を遣わし往くを言う。『車班班』は,輿に乗って班班とし河閧ノ入って靈帝を迎えるを言う。『奼女数銭』,これは、帝が既に立ち,其母永楽太后は好んで金を集め以て堂室を為せるを言う。『石上慊慊』,これは、太后が金銭を積むと雖も,猶も慊慊として常若不足するため,人を春黄粱に使いさせ而もこれを食らったことを言う。『我欲撃之』は,太后が帝に売官して受銭することを教え,天下の忠篤の士が怨望し,鼓を撃って*[丞]*卿に見えるを求めようと欲し,*(懸)**[主]*鼓者は復た怒って而して我を止めるを言う也。」

建寧元年(168年)春正月壬午,城門校尉竇武が大将軍となった。己亥,帝は夏門亭に到り,[一]竇武に持節をさずけて,王の青蓋車を以て殿中に迎え入れさせた。庚子,皇帝に即位した,年は十二。改元して建寧。以前太尉であった陳蕃を太傅とし,竇武及び司徒胡広に参録尚書事を加えた。

[一]東観記に曰く:「夏門の外、万壽亭に至って,臣らは謁見した。」

護羌校尉段熲を使い先零羌を討った。

二月辛酉,宣陵に孝桓皇帝を葬り,[一]廟に曰く威宗と記した。

[一]宣陵は洛陽東南三十里にあり,高さ十二丈,周囲は三百歩。

庚午,高廟に謁えた。辛未,世祖廟に謁えた。天下に大赦した。それぞれ格差をつけて民に爵および帛を賜った。

段熲は逢義山に先零羌を大破した。[一]

[一]逢義山は今の原州*(高)*平*[高]*県にある。「逢」は一つに「途」とも作る。

閏月甲午,皇祖を追尊して孝元皇とし,夫人夏氏を孝元皇后とし,(父を)孝仁皇,夫人董氏を慎園貴人とした。[一]

[一]慎園は今の瀛州楽壽県東南にある,俗に二皇陵と呼ぶ。

夏四月戊辰,太尉周景が薨じた。司空宣が免じられ,長楽衛尉王暢が司空となった。

五月丁未朔,日食があった。詔して公卿以下おのおのに封事を上書させ,郡国守相には有道の士各一人を推挙させた;

また故刺史二千石で清高にして遺惠あるもの,觿をなし帰する所の者,皆公車で詣でた。

太中大夫劉矩を太尉とした。

六月,京師に雨水(大雨・長雨)があった。

秋七月,破羌将軍段熲が再び先零羌を陽で破った。[一]

[一]陽は,県名である,安定に属する,故城は今の原州平涼県南にある。

八月,司空王暢を免じ,宗正劉寵を司空とした。

九月*(丁)**[辛]*亥,中常侍曹節、詔を矯めて太傅陳蕃大将軍竇武及び尚書令尹勳侍中劉瑜屯騎校尉馮述を誅し,皆其族は処刑された。皇太后が南宮に遷った。[一]司徒胡広が太傅となり,録尚書事を加えられた。司空劉寵が司徒となり,大鴻臚許栩が司空となった。

[一]太后は竇武と密かに謀って曹節を誅しようと欲したが,今竇武らが既に誅され,故太后は遷を被ったのである。

冬十月甲辰晦日,日食があった。令天下系囚罪未決入縑贖,各有差。

十一月,太尉劉矩が免じられ,太僕で沛国の聞人襲が太尉となった。[一]

[一]姓は聞人,名は襲,字は定卿。風俗通に曰く:「若いころから正卯だった,魯の聞人,其後氏である。」

十二月,鮮卑及び濊貊が幽並二州を寇した。

二年春正月丁丑,天下に大赦した。

三月乙巳,尊慎園董貴人を孝仁皇后とした。[一]

[一]続漢志に曰く:「永楽宮を置き,桓帝尊匽貴人の禮のように儀式を行った。」

夏四月癸巳,大風,雨雹があった。詔を下して公卿以下おのおのに封事上書させた。

五月,太尉聞人襲が罷めた,司空許栩が免じられた。六月,司徒劉寵が太尉となり,太常許訓が司徒に,[一]太僕で長沙出身の劉囂が司空となった。[二]

[一]許訓は字を季師といい,平輿の人である。

[二]劉囂は字を重寧という。

秋七月,破羌将軍段熲が射虎塞外谷で先零羌を大破した,東羌は悉く平らげられた。

九月,江夏蛮が叛き,州郡がこれを討って平らげた。

丹陽の山越賊が太守陳夤を囲んだが,陳夤はこれを撃破した。

冬十月丁亥,中常侍侯覧が諷じて有司に奏上させ、前司空虞放、太僕杜密、長楽少府李膺、司隸校尉朱*(瑀)**[□]*、穎川太守巴肅、沛相荀*(翌)**[c]*、河内太守魏朗、山陽太守翟超を皆鉤党とし,獄に下した,[一]死者は百余人,彼等の妻子は徙辺し,諸人で附き従う者は禁錮及び五属とされた。[二]制して詔を下して州郡は鉤党を大いに挙げ,是に於いて天下豪桀及び儒学行義者は,一切結んで党人となった。[三]

[一]鉤は相牽引するのを謂う也。事は劉淑、李膺伝に具える。

[二]五属は五服の内親を謂う也。

[三]続漢志に曰く:「建寧の中ごろ,京都の長者は皆葦の方笥を以て裝具とし,時に有識者は竊言した,葦笥は郡国の讞篋と。後に党人禁錮,赦に会い,疑わしい者は皆廷尉に讞され,人名悉く方笥の中に入れられた。」

*(庚子)**[戊戌]*晦,日食があった。

十一月,太尉劉寵が免じられ,太僕郭禧が太尉となった。[一]

[一]郭禧は字を公房といい,扶溝の人である。禧の音は僖である。

鮮卑が并州を寇した。

,長楽太僕曹節が車騎将軍となり,百余日して罷めた。

三年春正月,河内で婦が夫を食う事件があった,河南で夫が婦を食う事件があった。

三月丙寅晦,日食があった。

夏四月,太尉郭禧が罷めた,太中大夫聞人襲が太尉となった。秋七月,司空劉囂が罷めた。八月,大鴻臚橋玄が司空となった。

九月,執金吾董寵が獄に下されて死んだ。

冬,済南に賊が起ち,東平陵を攻めた。[一]

[一]東平陵は,県名である,済南国に属する,故城は今の*(済)**[齊]*州東にある。

鬱林烏滸の民が相率いて内属した。[一]

[一]烏滸は,南方夷の号である。広州記に曰く:「其俗は食人があり,鼻を以て飲水し,口中進噉如故。」

四年春正月甲子,帝が元服したまい、ために,天下に大赦した。公卿以下おのおの差をつけて賜り物をしたが,唯、党人は赦さなかった。

二月癸卯,地震があり,海水が溢れた,河水が澄んだ。

三月辛酉朔,日食があった。

太尉聞人襲が免じられ,太僕李鹹が太尉となった。[一]

[一]李鹹は字を符卓といい,汝南西平の人である。

詔が下って公卿以下六百石の官にあるものまでそれぞれ封事を上書させた。

大疫がおこった,中謁者を使いさせ巡行して醫薬を配った。

司徒許訓が免じられ,司空橋玄が司徒となった。夏四月,太常来艶が司空となった。[一]

[一]来艶は字を季徳といい,南陽新野の人である。

五月,河東で地が裂けた,雨雹が降った,山水暴出(土石流が生じた)。

秋七月,司空来艶が免じられた。

癸丑,貴人宋氏を立てて皇后とした。[一]

[一]執金吾宋の娘である,前年に掖庭に入り貴人となった。

司徒橋玄が免じられた。太常宗倶が司空となった,[一]前司空の許栩が司徒となった。

[一]宋は字を伯儷といい,南陽安觿の人である。

冬,鮮卑が并州を寇した。

熹平元年春三月壬戌,太傅胡広が薨じた。

夏五月己巳,天下に大赦した,改元して熹平とした。

長楽太僕侯覧が罪有って,自殺した。

六月,京師に雨水があった。

癸巳,皇太后竇氏が崩じた。秋七月甲寅,葬って桓思皇后とした。

宦官が諷じたため司隸校尉段熲が太学諸生千余人を捕らえた。[一]

冬十月,渤海王劉悝が謀反の誣を被って,丁亥,劉悝及び妻子は皆自殺した。

[一]時に有る人が朱雀闕に書いて云う「天下大乱,公卿は皆尸祿なり(無駄に俸禄を与えているようなものだと屍に俸禄を与えているようなものだとを懸けていると思われる)」故に之を捕えた。事は宦者伝に見える。

十一月,会稽の人許生が「越王」を自称して,郡県を寇した,[一]楊州刺史臧旻、丹陽太守陳夤を派遣して之を討ち破った。

[一]東観記に曰く:「会稽の許昭は集觿して大将軍を自称し,父の許生を立てて越王とし,郡県を攻め破った。」

十二月,司徒許栩が罷めた,大鴻臚袁隗が司徒となった。

鮮卑が并州を寇した。

,甘陵王劉恢が薨じた。

二年春正月,大疫があった,使者が使われ、巡行して醫薬を配布した。

丁丑,司空宗が薨じた。

二月壬午,天下に大赦した。

光祿勳楊賜を以て司空とした。

三月,太尉李鹹が免じられた。夏五月,司隸校尉段熲を以て太尉とした。

沛相師遷が国王と坐誣したので,獄に下され死んだ。[一]

[一]国王は,陳愍王寵である。臣賢案:陳敬王伝えて云う「国相師遷」。又東観記に曰く「陳の行相師遷が奏上して,沛相魏愔が,前に陳相となり,陳王寵と交通する」。明らかに魏愔は沛相となった,此言では師遷が沛相となっている,蓋の誤りである。

六月,北海に地震があった。東萊,北海では海水が溢れた。[一]

[一]続漢志に曰く:「時に大魚が二枚出た,各々長さは八九丈,高は二丈余だった。」

秋七月,司空楊賜が免じられ,太常で穎川出身の唐珍が司空となった。

冬十二月,日南徼外国重譯貢獻。

太尉段熲が罷めた。

鮮卑が幽並二州を寇した。

癸酉晦,日食があった。

三年春正月,夫余国が使者を遣わし貢獻してきた。

二月己巳,天下に大赦した。

太常陳耽が太尉となった。[一]

[一]陳耽は字を漢公といい,東海の人である。

三月,中山王劉暢が薨じた,子は無く,国は除かれた。

夏六月,河濶、に劉利を封じ、子の劉康を済南王にした,孝仁皇祀を奉った。

秋,洛水が溢れた。

冬十月癸丑,天下に令を下して系囚罪未決,入縑贖。

十一月,楊州刺史臧旻が、丹陽太守陳寅を率い,会稽で許生を大破し,これを斬る。

任城王劉博が薨じた。

十二月,鮮卑が北地を寇したため,北地太守夏育が追撃してこれを破った。鮮卑はまた并州を寇した。

司空唐珍が罷め,永楽少府許訓が司空となった。

四年春三月,詔が下され、諸儒が五経文字を正し,石に刻んで太学門外に立てた。

河濶、に劉建*(孫)*を封じ、*[子]*劉佗を任城王とした。[一]

[一]劉建は,桓帝の弟である。

夏四月,郡国七つが大水となった。

五月丁卯,天下に大赦した。

延陵園□[一],使者に持節させて遣わし延陵に告祠した。

[一]成帝陵のことである,今の咸陽県西にある。

鮮卑が幽州を寇した。

六月,弘農、三輔に螟が生じた。

守宮令を鹽監に遣わし,穿渠して民に利させた。[一]

[一]前書地理志及び続漢郡国志のどちらにも*[鹽]*監はない,今の蒲州安邑の西南に鹽池*[監也]*がある。

令を下し、郡国で災害に遇った者の,田租を半分に減じた;其傷害は十四以上あり,勿收責。

冬十月丁巳,天下に令を下し、系囚罪未決,入縑贖。

拝しんで沖帝母虞美人を憲園貴人とし,[一]質帝母陳夫人を渤海孝王妃とした。[二]

[一]順帝の虞美人である。憲園は洛陽東北にある。

[二]渤海孝王劉鴻の夫人である。

平准を改めて中准とし,[一]宦者を遣わして令を下し,内署に列した。是より諸署は悉く以て閹人が丞、令となった。

[一]漢官儀に曰く:「平准令は一人,秩六百石である。」

五年夏四月癸亥,天下に大赦した。

益州郡夷が叛いた,太守李顒がこれを討ち平らげた。

また崇高山の名を嵩高山とした。[一]

[一]前書で武帝は中岳に祠を立て,改めて嵩高を崇高とした。東観記にいわく曰:「中郎将堂溪典を使って雨を請わせ,因って上言してこれを改め,名づけて嵩高山とした。」

大雩があった。侍御史を使って詔獄に行かせ亭部し,理冤枉,原輕系,休囚徒。

五月,太尉陳耽が罷めた,司空許訓が太尉となった。

閏月,永昌太守曹鸞が党人を坐訟し,棄市された。[一]詔を下して党人の門生故吏、父兄子弟で位に在る者は,皆免官となり禁錮となった。

[一]訟はこれの理を申し述べることを謂う也。其言は切直だったため,帝は怒り,檻車で槐裡の獄に送り、これを掠殺したのである。

六月壬戌,太常で南陽出身の劉逸が[一]司空となった。

[一]劉逸は字を大過といい,安觿の人である。

秋七月,太尉許訓が罷めた,光祿勳劉ェを太尉とした。

冬十月壬午,御殿後の槐樹が自ら抜けて倒豎した。

司徒袁隗が罷めた。十一月丙戌,光祿大夫楊賜を司徒とした。

十二月,甘陵王劉定が薨じた。

太学生年六十以上の百余人を試みて,郎中、太子舍人を除き、王家の郎、郡国の文学吏に至らせた。[一]

[一]漢官儀に曰く:「太子舍人、王家の郎中はどちらも秩二百石,定員は無い。」

,鮮卑が幽州を寇した。沛国で黄龍が譙に見えたと報告があった。

六年春正月辛丑,天下に大赦した。

二月,南宮平城門及び武庫東の垣屋が自壊した。[一]

[一]平城門は,洛陽城の南門である。蔡邕曰く:「平城門は,正陽の門,宮に連なりあって,郊祀法駕が従出する所,門の最も尊い者である。」武庫は,禁兵の所藏である。東垣は,庫の外障である。易伝に曰く:「小人が在位すると,厥妖して城門が自壊する。」

夏四月,大旱があった,七州で蝗が発生した。

鮮卑が三辺を寇した。[一]

[一]謂うに東、西北辺のことである。

市賈民為宣陵孝子者数十人,皆除太子舍人。

秋七月,司空劉逸が免じられ,衛尉の陳球が司空となった。

八月,破鮮卑中郎将田晏を遣わして雲中へ出し,匈奴中郎将臧旻を使って南単于とともに鴈門へ出し,護烏桓校尉夏育を高柳へ出し,並んで鮮卑を伐ったが,田晏等は大敗した。

冬十月癸丑朔,日食があった。

太尉劉ェが免じられた。

帝は雍に臨辟した。

辛丑,京師に地震があった。

辛亥,天下に令を下して系囚罪未決,入縑贖。

十一月,司空陳球が免じられた。十二月甲寅,太常で河南出身の孟□を太尉とした。[一]庚辰,司徒楊賜が免じられた。太常陳耽を司空とした。

[一]孟□は字を叔達という,音は乙六反。

鮮卑が遼西を寇した。

永安太僕の王旻が獄に下されて死んだ。[一]

[一]永安宮の太僕である。

光和元年春正月,合浦、交址で烏滸蛮が叛き,九真、日南の民を招引して郡県を攻め沒した。

太尉孟□が罷めた。

二月辛亥朔,日食があった。

癸丑,光祿勳で陳国の袁滂を司徒とした。[一]

[一]袁滂は字を公喜という。

己未,地震があった。

鴻都門学生を始めて置いた。[一]

[一]鴻都は,門名である,内に置かれる学である。時に其中の諸生は,皆□州、郡、三公が挙げて召し、能く尺牘辭賦及び工書鳥篆を為す者は相い課試して,千人に至る。

三月辛丑,天下に大赦した,改元して光和とした。

太常で常山出身の張を太尉とした。[一]

[一]張は字を智明という。捜神記に曰く:「張は梁相となり,新雨後,近くの地で飛翔する鵲があったので,人に命じてこれを擿えたところ,地に堕ちて化して圓石となった,張が命じて椎で破らせると,一金印を得た,文に曰く『忠孝侯印』。」

夏四月丙辰,地震があった。

侍中寺にいた雌の雞が雄となった。

司空陳耽が免じられ,太常の来艶を司空とした。

五月壬午,白衣の人があって徳陽殿門から入り,亡去して獲えられなかった。[一]六月丁丑,黒気があり、御温徳殿に堕ちた

庭中。[二]秋七月壬子,青虹が御坐玉堂後殿庭中に見えた。[三]八月,流星が天巿に流れた。

[一]東観記に曰く:「白衣の人が言った『梁伯夏教我上殿』,中黄門桓賢と言葉をかわしたが,因りて見えざること勿れ。」

[二]東観記に曰く:「堕ちた所は御温明殿庭中で,車蓋のように隆起し,奮迅して,五色,有頭,體長十余丈,形魍は龍に似た。

[]洛陽宮殿名,南宮有玉堂前、後殿。據楊賜伝,雲堕嘉徳殿前。

九月,太尉張が罷め,太常陳球を太尉とした。司空来艶が薨じた。冬十月,屯騎校尉袁逢を司空とした。

皇后宋氏が廃された,後に父である執金吾の宋が獄に下されて死んだ。

丙子晦,日食があった。

十一月,太尉陳球が免じられた。十二月丁巳,光祿大夫橋玄を太尉とした。

,鮮卑が酒泉を寇した。京師で馬が人を生んだ。[一]初めて西邸を開き売官した,関内侯より、虎賁、羽林まで,入銭には各々差が有った。[二]左右に私令を下して公卿,公は千万,卿は五百万で売った。

[一]京房易伝に曰く:「諸侯は相伐る,厥妖すれば馬が人を生む。」

[二]山陽公載記に曰く:「時に売官して,二千石は二千万,四百石は四百万,其の徳を以て次いで応じ選ばれた者はこれの半分,或いは三分の一であった,西園に於いて庫を立て、以てこれを貯める。」

二年春,大疫があった,常侍、中謁者を使い、巡行させて醫薬を配布した。

三月,司徒袁滂が免じられ,大鴻臚劉合を司徒とした。[一]乙丑,太尉橋玄が罷めた,太中大夫段熲を太尉とした。

[一]劉合は字を季承という。

京兆に地震があった。

司空袁逢が罷めた,太常張済を司空とした。[一]

[一]張済は字を符江といい,細陽の人である。

夏四月甲戌朔,日食があった。

辛巳,中常侍王甫及び太尉段熲が並んで獄に下されて死んだ。

丁酉,天下に大赦した,諸党人の禁錮で小功以下のものは皆これを除いた。[一]

[一]時に上祿長和海上言:「党人錮及び五族,有乖典訓。」帝はこれに従った。

東平王劉端が薨じた。

五月,衛尉劉ェを太尉とした。

秋七月,使匈奴中郎将張修が罪有って,獄に下されて死んだ。[一]

[一]時に張修は単于呼微を□斬って,更に羌渠を立てて単于とした,故に坐死させられたのである。

冬十月甲申,司徒劉合、永楽少府陳球、衛尉陽球、歩兵校尉劉納が謀って宦者を誅しようとし,事が洩れ,皆獄に下されて死んだ。

巴郡板楯蛮が叛いた,御史中丞蕭瑗を遣わして益州刺史を督してこれを討たせたが,克たなかった。

十二月,光祿勳楊賜を司徒とした。

鮮卑が幽並二州を寇した。

,河濶、劉利が薨じた。洛陽の女子が兒(げい)を生んだ,両頭四臂だった。[一]

[一]京房易伝に曰く:「二首で,下が不一である,厥妖して人が両頭を生む。」

三年春正月癸酉,天下に大赦した。

二月,公府駐駕の廡が自壊した。[一]

[一]公府は,三公の府である。駐駕は,停車する処である。廡は,廊屋である,音は無禹反。続漢志は云う:「南北四十余閧ェ壊れた。」

三月,梁王劉元が薨じた。

夏四月,江夏蛮が叛いた。

六月,詔を下して公卿に*[古文]*尚書、毛詩、左氏、谷梁春秋に能く通ずるもの各一人を挙げさせ,悉く議郎に叙した。

秋,表是に地震があった,湧水が出た。[一]

[一]表是は,県である,酒泉郡に属する,故城は今の甘州張掖県の西北である。

八月,令を下して系囚罪未決,入縑贖,各々差があった。

冬閏月,狼、弧へ流星が流れた。[一]

[一]狼、弧は二星の名である。

鮮卑が幽、並二州を寇した。

十二月己巳,貴人何氏を立てて皇后とした。[一]

[一]何氏は南陽宛の人である,車騎将軍何*(貢)**[真]*の娘である。

圭、靈昆苑を作った。[一]

[一]圭苑は二つ有って,東圭苑は週一千五百歩,中に魚梁台がある,西圭苑は週三千三百歩,どちらも洛陽宣平門の外にある。

四年春正月,初めて騄驥丞を置き,郡国の調馬を領受させた。[一]豪右辜搉,馬一匹二百万であった。[二]

[一]騄驥は,善馬である。調は征発を謂う。

[二]前書音義に曰く:「辜は,障である。搉は,專である。謂障余人売買而自取其利。

二月,郡国上芝英草。夏四月庚子,天下に大赦した。

交址刺史朱儁が交址、合浦の烏滸蛮を討って,これを破った。

六月庚辰,雨雹。[一]秋七月,河南に言う鳳皇が新城に見え,鳥がこれに隨った;賜新城令及び三老に、力田帛が下賜され,おのおの差が有った。九月庚寅朔,日食があった。

[一]続漢書に曰く:「雹は大きく雞子のようだった。」

太尉劉ェが免じられ,衛尉許□を太尉とした。

閏月辛酉,北宮東掖庭の永巷署に災害があった。[一]

[一]永巷は,宮中の署名である。漢官儀に曰く:「令一人をおく。宦者がなる,秩六百石,職掌は宮婢の侍使である。」

司徒楊賜が罷めた。冬十月,太常陳耽を司徒とした。

鮮卑が幽並二州を寇した。

帝は後宮に於いて列肆を作り,諸釆女を使ってものを販売させ,更に相盜竊して争□させた。帝は著して商估服し,飲宴して楽しんだ。

また西園に於いて狗を弄び,著して進賢冠し,帶綬した。[一]また四驢に駕して,帝は躬し、自ら轡を操り,驅馳周旋した,京師転相放效。[二]

[一]三禮圖に曰く:「進賢冠は,文官これを服す,前高七寸,後高三寸,長八寸。」続漢志に曰く:「靈帝は便嬖子弟を寵用し,転じて相汲引した,関内侯を直五百万で売った。令を下したところ長強の者は貪ること豺狼の如し,弱い者は不類物を略した,その實狗にしてしかも冠するなり。」昌邑王見えるに狗冠方山冠を帯び,龔って遂に曰く:「王の左右皆狗にしてしかも冠する。」

[二]続漢志に曰く:「驢者は乃ち重く服し遠く致す,上下山谷,野人の用いる所かな,何ぞ帝王君子にしてしかもこれ驂駕することある乎!天意は若も曰く,国且は大乱す,賢愚は倒植す,凡そ執政者は皆驢の如く也。」

五年春正月辛未,天下に大赦した。

二月,大疫があった。

三月,司徒陳耽が免じられた。

夏四月,旱があった。

太常袁隗を司徒とした。

五月庚申,永楽宮に□を置いた。[一]秋七月,流星が太微に流れた。

[一]続漢志に曰く:「徳陽前殿西北入門内永楽太后宮署災。」

巴郡板楯蛮が詣でて太守曹謙に降った。

癸酉,令を下して系囚罪未決,入縑贖。

八月,阿亭道に於いて四百尺の観を起てた。

冬十月,太尉許□が罷めた,太常楊賜を太尉とした。

上林苑に校獵し,函谷関を歴訪し,遂に広成苑で巡狩した。十二月,還り,太学へいった。

六年春正月,日南徼外国重譯貢獻。

二月,長陵県復し,豊、沛に比した。三月辛未,天下に大赦した。

夏,大旱があった。

秋,金城で河水が溢れた。五原の山岸が崩れた。

始めて圃囿署を置いた,宦者を以て令とした。

冬,東海、東萊、琅邪の井中に冰が張り、厚さ尺余となった。

大有年。

中平元年(184年)春二月,鉅鹿の人張角が「黄天」を自称し,其部*(師)**[帥]*は三十六*(万)**[方]*あった,皆黄巾を著わし,同じ日に反叛した。[一]安平、甘陵では人は各々其王を執らえて以ってこれに応じた。[二]

[一]続漢書に曰く:「三十六万余人である。」

[二]安平王は劉続、甘陵王は劉忠である。

三月戊申,河南尹であった何進を大将軍とし,将兵を都亭に駐屯させた。八関都尉の官を置いた。[一]壬子,天下に大赦し、党人,および還諸徙者(党人に従って累を被った者たち),を赦したが[二]唯、張角は赦さなかった。詔を下して公卿に馬、弩を出させ,列将の子孫及び吏民で戦陣の略に明るいものを挙げさせ,公車で詣でた。北中郎将盧植を遣わして張角を討たせ,左中郎将皇甫嵩、右中郎将朱儁には穎川黄巾を討たせた。庚子,南陽黄巾の張曼成が郡守褚貢を攻め殺した。

[一]都亭は洛陽にある。八関は函谷、広城、伊闕、大谷、轘轅、旋門、小平津、孟津を謂う也。

[二]時に中常侍呂強が帝に言いおいて曰く:「党錮(の怨念)は久しく積もっています,若し黄巾と共に合謀することになれば,これを悔いても救いは無いでしょう。」帝は懼れ,皆これを赦した。

夏四月,太尉楊賜が免じられ,太僕で弘農のケ盛を太尉とした。[一]司空張済が罷め,大司農張温を司空とした。

[一]ケ盛は字を伯能という。

朱儁が黄巾波才に敗れる所となった。

侍中向栩、張鈞が宦者を坐言し,獄に下されて死んだ。[一]

[一]時に張鈞は上書して曰く:「今、常侍を斬り,其の首を南郊に懸けて以て天下に謝れば,即ち兵は自ずと消える也。」帝は章もって常侍に示し,故に獄に下されたのである。

汝南黄巾が邵陵で太守趙謙に敗れた。[一]広陽黄巾が幽州刺史郭勳及び太守劉□を殺害した。

[一]邵陵は,県名である,汝南郡に属する,故城は今の豫州郾城県の東である。

五月,皇甫嵩、朱儁は共に長社で波才等と戦い,これを大破した。[一]

[一]長社は,今の許州県である,故城は長葛県の西にある。

六月,南陽太守秦頡が張曼成を撃ち,これを斬った。

交址に屯兵して刺史及び合浦太守を執っていた来達が,「柱天将軍」を自称した,交址刺史賈jを遣わしてこれを討ち平らげた。

皇甫嵩、朱儁は西華で汝南黄巾を大破した。[一]詔が下り、皇甫嵩は東郡を討ち,朱儁は南陽を討つことになった。盧植が黄巾を破って,広宗に張角を囲んだ。宦官が盧植を誣奏して,罪に抵触することになった。[二]中郎将董卓が遣わされて張角を攻めたが,克たなかった。

[一]西華は,県で,汝南郡に属する,故城は今の陳州項城県の西にある。

[二]盧植は張角を連破し,垂れて當に之を抜そうとしていた,小黄門左豊が帝に言いて曰く:「盧中郎は固壘して軍に息をつかせています,以て待して天誅してはどうでしょう。」帝は怒り,遂に檻車を盧植に差し向けた,死一等を減じた。

洛陽で女子が兒を生んだ,両頭共身であった。[一]

[一]続漢志に曰く:「上西門外に女子が兒を生む,両頭,異肩共匣,不祥を為すとして,地に墮としてこれを□(?)した。其後政(まつりごと)は私門に在り,上下の別無く,二頭の象(のようだった)。」

秋七月,巴郡の妖巫張修が反乱し,郡県を寇した。[一]

[一]劉艾紀に曰く:「時に巴郡の巫人張修は病を療し,愈者は米五斗をもって雇した,号して『五斗米師』となった。」

河南尹徐灌が獄に下されて死んだ。

八月,皇甫嵩は倉亭で黄巾と戦い,其帥を獲た。[一]

[一]其帥とは,卜已である。倉亭は東郡にある。

乙巳,詔を皇甫嵩に下して北に張角を討たせた。

九月,安平王劉続が罪有って誅され,国は除かれた。

冬十月,皇甫嵩は黄巾賊と広宗で戦いを興し,張角の弟張梁を獲た。張角は先に死んでいた,そこでその屍を戮した。[一]皇甫嵩を以て左車騎将軍とした。十一月,皇甫嵩はまた黄巾を下曲陽で破り,張角の弟張寶を斬った。

[一]棺を発掘してその頭を断った,馬で伝送して市にさらした。

湟中義従胡の北宮伯玉が先零羌と共に叛いた,金城の人辺章、韓遂をもって軍帥とし,護羌校尉伶征、金城太守陳懿を攻殺した。[一]

[一]伶は,姓である,(この姓で記録にある者に)周の大夫伶州鳩がいる。

癸巳,朱儁が宛城を抜き,黄巾の別帥孫夏を斬った。

詔を下して太官の珍羞,御食一肉を減じた;郊祭之用に非ざる馬,悉く出して軍に給わった。

十二月己巳,天下に大赦した,改元して中平とした。

,下邳王劉意が薨じた,子は無く,国は除かれた。郡国に異草が生えた,龍蛇鳥獣の形を備えていた。[一]

[一]風俗通に曰く:「亦作人状,操持兵弩,一一備具。(異草は見た目が人の形をしており兵器や弩を持って操っているようであり一つ一つがそうした兵器を備え具わっていた。)」続漢志に曰く:「龍蛇鳥獣,其状は毛羽頭目足翅が皆具わっていた。是黄巾賊が起こり,漢は遂に微弱となったのである。」

二年春正月,大疫があった。

琅邪王劉據が薨じた。

二月己酉,南宮大火があった,火は半月して滅んだ。[一]*(己)**[癸]*亥,広陽門外の屋が自壊した。[二]

[一]続漢志に曰く:「時に靈台殿、楽成殿,延及び北闕度道が焼け,嘉徳、和驩殿が西焼した。

[]洛陽城西面南頭門也。

天下の田,畝(1つにつき)十銭を課税した。[一]

[一]以て宮室を修復した。

黒山賊張牛角等十余輩が並び起った,彼等がいる所は寇鈔された。

司徒袁隗が免じられた。三月,廷尉崔烈を司徒とした。

北宮伯玉等が三輔を寇した,左車騎将軍皇甫嵩を遣わしてこれを討たせたが,克たなかった。

夏四月庚戌,大風,雨雹があった。

五月,太尉ケ盛が罷め,太僕で河*(南)**[内]*出身の張延を太尉とした。[一]

[一]張延は字を公威といい,張歆の子である。

秋七月,三輔に螟が湧いた。

左車騎将軍皇甫嵩が免じられた。八月,司空張温を以て車騎将軍とし,北宮伯玉を討たせた。九月,楊賜を特進させて司空とした。冬十月庚寅,司空楊賜が薨じた,光祿大夫許相を司空とした。[一]

[一]許相は字を公弼といい,(汝南)平輿の人である,許訓の子である。

前の司徒陳耽、諫議大夫劉陶が坐して直言し,獄に下されて死んだ。

十一月,張温は北宮伯玉を美陽に破った,因って蕩寇将軍周慎を遣わしてこれを追撃させ,中を囲ませた;[一]また中郎将董卓を遣わして先零羌を討たせた。【a】周慎、董卓どちらも克たなかった。

[一]県名,故城は今の蘭州金城県の東にある。

a】後漢書董卓伝では破虜将軍となっている。思うにこの戦役が終わったときに将軍職を授けられたのであろう。董卓伝ではそれを先取りしての記述と考えられる。

鮮卑が幽、並二州を寇した。

,西園に万金堂を作った。洛陽の民が兒を生んだ,両頭四臂である。

三年春二月,江夏兵趙慈が反乱し,南陽太守秦頡を殺害した。

庚戌,天下に大赦した。

太尉張延が罷めた。車騎将軍張温を太尉とし,中常侍趙忠を車騎将軍とした。

再び玉堂殿を修復した,銅人四,黄鐘四,[一]及び天祿、蝦蟆を鋳造させた,また四出文銭を鋳造させた。[二]

[一]其音は黄鐘に中る也。子は黄鐘をなす。

[二]天は祿,獣である。時に掖廷令畢嵐を使って銅人を鋳造させ,倉龍、玄武闕外に整列させた,鐘は玉堂及び雲台殿前に懸け,天祿、蝦蟆は平門外で水を吐いた。事は宦者伝に具える。勘案するに:今のケ州南陽県の北に宗資碑が有る,旁に両石獣がある,鐫其膊の一に曰く天祿,一に曰く辟邪。此によれば,即ち天祿、辟邪は並んで獣名である。漢には天祿閣があり,また獣に因って立名したのであろう。

五月壬辰晦,日食があった。

六月,荊州刺史王敏が趙慈を討ち,これを斬った。

車騎将軍趙忠が罷めた。【a】

秋八月,懐陵の上に雀万数が有って,悲鳴が聞こえた,因って□相殺した。[一]

注【a】趙忠はいわゆる十常侍と呼ばれる宦官の1人である。常侍は定員が十人である。十常侍の呼称は三国志演義が講談で語られていた時代に生じたものと考えられる。

[一]懐陵は,沖帝の陵墓である。続漢志に曰く:「天戒に若曰して:諸爵祿を懐かしみしかも厚く尊ぶ者は,自らに還り相い害する也。」

冬十月,武陵蛮が叛いた,郡界を寇し,郡兵がこれを討ち破った。

前太尉張延、宦人の譖(讒言)するところとなり,獄に下されて死んだ。

十二月,鮮卑が幽並二州を寇した。

四年春正月己卯,天下に大赦した。

二月,滎陽の賊が中牟令を殺害した。[一]

[一]中牟は,今の鄭州県である。劉艾紀に曰く:「令を下して落皓及び主簿の潘業,陣に臨んで顧みず,皆害を被る。」

己亥,南宮内殿罘が自壊した。[一]

[一]前書音義に曰く:「罘は,連闕曲閣のことである,音は浮思。」

三月,河南尹何苗が滎陽の賊を討って,これを破った,何苗は車騎将軍を拝命した。

夏四月,涼州刺史耿鄙が金城の賊韓遂を討った,耿鄙の兵は大敗し,遂に漢陽が寇された,漢陽太守傅燮が戦沒した。扶風の人馬騰、漢陽の人王国が並んで叛き,三輔を寇した。

太尉張温が免じられ,司徒崔烈を太尉とした。五月,司空許相を司徒とし,光祿勳で沛国出身の丁宮を司空とした。[一]

[一]丁宮は字を符雄という。[a]

[a] 丁宮は曹操の祖父である曹騰とのつながりで世に出てきたのではないかと、『魏の武帝 曹操』で石川仁氏は述べている。

六月,洛陽の民が男を生んだ,両頭共身であった。[一]

[一]劉艾紀に曰く「上西門外劉倉妻生」也。

漁陽の人張純が同郡の張挙とともに兵を挙げて叛き,右北平太守劉政、遼東太守楊終、護烏桓校尉公綦稠等を攻め殺した。挙*(兵)*して天子を自称し,幽、冀二州を寇した。

秋九月丁酉,令天下系囚罪未決,入縑贖。

冬十月,零陵の人観□が[一]「平天将軍」を自称し,桂陽を寇した,長沙太守孫堅が撃ってこれを斬った。

[一]観は,姓;□が,名である。

十一月,太尉崔烈が罷めた,大司農曹嵩を太尉とした。

十二月,休屠各胡叛。

,関内侯,假金印紫綬を売り出し,伝世した,入銭五百万。

五年春正月,休屠各胡が西河を寇し,郡守邢紀を殺した。

丁酉,天下に大赦した。

二月,紫宮へ流星が流れた。

黄巾余賊郭太等が西河白波谷で起って,太原、河東を寇した。

三月,休屠各胡が并州刺史張懿を攻め殺し,遂に南匈奴左部胡と共に連合して,其単于を殺した。

夏四月,汝南葛陂の黄巾が郡県を攻沒した。[一]

[一]葛陂は今の豫州新蔡県西北。

太尉曹嵩が罷めた。五月,永楽少府樊陵を太尉とした。[一]

[一]樊陵は字を徳雲といい,胡陽の人である。

六月丙寅,大風。

太尉樊陵が罷めた。

益州黄巾馬相が刺史郗儉を攻め殺し,天子を自称し,又巴郡を寇して,郡守趙部を殺した,益州従事賈龍が馬相を撃って,これを斬った。

郡国七つに大水があった。

秋七月,射声校尉馬日を太尉とした。

八月,初めて西園八校尉を設置した。[一]

[一]楽資の山陽公載記に曰く:「小黄門蹇碩を上軍校尉,虎賁中郎将袁紹を中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉,議郎曹操を典軍校尉,趙融を助軍左校尉,馮芳を助軍右校尉,諫議大夫夏牟を左校尉,淳於瓊を右校尉とした:凡そ八校[尉],皆蹇碩が統轄した。」

司徒許相が罷めた,司空丁宮を司徒とした。光祿勳で南陽出身の劉弘を司空とした。[一]衛尉董重を票騎将軍とした。

[一]董重は字を子高といい,安觿の人である。

九月,南単于が叛いた,白波賊とともに河東を寇した。中郎将孟益を遣わし、騎都尉公孫瓚を率いさせて漁陽の賊張純等を討った。

冬十月,*(壬午御殿後槐樹自抜倒豎)*青、徐で黄巾がまた起こり,郡県を寇した。

甲子,帝は「無上将軍」を自称し,平楽観で耀兵した。[一]

[一]平楽観は洛陽城西にある。

十一月,涼州賊王国が陳倉を囲んだ,右将軍皇甫嵩がこれを救った。

下軍校尉鮑鴻を遣わして葛陂の黄巾を討った。

巴郡板楯蛮が叛いた,上軍別部司馬(上軍校尉の別部司馬?)趙瑾を遣わしてこれを討ち平らげた。

公孫瓚が張純と石門で戦いを興して,これを大破した。[一]

[一]時に烏桓が反叛し,賊の張純等とともに薊中を攻めた,故に公孫瓚がこれを追撃したのである。石門は,山名で,今の営州西南にある。

歳(188年),刺史を改めて,新たに牧を置いた。

六年春二月,左将軍皇甫嵩が王国を陳倉で大破した。

三月,幽州牧劉虞が漁陽賊張純を購い斬った。

下軍校尉鮑鴻が獄に下されて死んだ。

夏四月丙午朔,日食があった。

太尉馬日が免じられた,幽州牧劉虞を太尉とした。

丙辰,帝は南宮嘉徳殿に崩御され給うた,年三十四。戊午,皇子劉辯が皇帝に即位され給うた,年十七。皇后を尊んで曰く皇太后とし,太后が臨朝なされた。天下に大赦した,改元して光*(喜)**[熹]*とした。皇弟劉協を封じて渤海王とした。後将軍袁隗を太傅とし,大将軍何進に録尚書事を加えた。上軍校尉蹇碩が獄に下されて死んだ。[一]

五月辛巳,票騎将軍董重が獄に下されて死んだ。[二]六月辛亥,孝仁皇后董氏が崩じた。

[一]時に蹇碩は謀って渤海王劉協を皇帝に立てようと欲し,発覚した。

[二]董重は,*[孝仁]*皇后の*(弟)**[兄]*子である。

辛酉,孝靈皇帝を文陵に葬った。[一]

[一]洛陽西北二十里にある,陵高は十二丈,周回三百歩である。

雨水。

秋七月,甘陵王劉忠が薨じた。

庚寅,孝仁皇后を河關T陵に帰葬した。

徙って渤海王劉協を陳留王とした。司徒丁宮が罷めた。

八月戊辰,中常侍張讓、段珪等が大将軍何進を殺した,是に於いて虎賁中郎将袁術は東西の宮を焼き,諸宦者を攻めた。庚午,張讓、段珪等は少帝及び陳留王を略取して北宮徳陽殿に御幸させた。何進の部曲将呉匡は車騎将軍何苗と朱雀闕下で戦いを興し,何苗は敗れ斬られた。辛未,司隸校尉袁紹は勒兵收し偽の司隸校尉樊陵、河南尹許相及び諸閹人を,少長の別なく皆これを斬った。張讓、段珪等はまたも少帝、陳留王を劫して小平津に走った。[一]尚書盧植が張譲、段珪らを追い,数人を斬った,其の余りは河に身を投じて死んだ。[二]帝は陳留王劉協とともに夜歩し逐に熒光に行くこと数里,民家露車を得て,共にこれに乗る。

[一]小平津は今の鞏県西北。続漢志に曰く:「時に京師の童謠に曰く『侯にして侯にあらず,王にして王にあらず,千乗万騎北邙に上る。』案ずるに獻帝は未だ爵号しており,段珪等の執る所となっていて,公卿百官は皆其後に随い,河上に到って乃ち還るを得たのである。」

[二]獻帝春秋に曰く:「河南中部掾閔貢は天子が出ているのを見かけ,騎を率いてこれを追い,*(北)**[比曉]*河上に到った。天子は飢ええ,閔貢は羊を宰してこれを進めた,諮コが張讓等を責めて曰く:『君は以て閹宦の隸となり,刀鋸の殘,越従洿泥の沙汰をなし,日月に扶侍して,国恩を売弄し,階賤しきより貴きとなり,帝主に劫迫して,王室を蕩覆した,いま假息漏刻のこととなり,河津に遊魂する。亡新(王奔の新が滅んで)よりこのかた,奸臣賊子で未だ君の如きものあらざる。今速やかに死なずんば,吾汝を射殺せん。』張讓等は惶怖して,叉手再拝し叩頭して,天子劉辯に向かって辞して曰く:『臣等は死にますが,陛下はどうかご自愛ください。』遂に河に身を投げて死んだ。」

辛未,宮に還った。天下に大赦した,改めて光*(喜)**[熹]*を昭寧とした。

并州牧董卓が執金吾丁原を殺した。司空劉弘が免じられ,董卓は自ら司空となった。

九月甲戌,董卓は帝を廃して弘農王とした。

六月より雨が続き,是月にまで至った。

論に曰く:秦本紀は説く、趙高は二世皇帝を譎して,鹿を指して馬とした,[一]而して趙忠、張讓はまた靈帝に給仕して登高臨観を得ず,[二]故に知る、亡敝者は其の致すこと同じ矣と。然るに則ち靈帝の靈を為すや優なる哉!

[一]史記に曰く,趙高は乱を為そうと欲したが,臣が(言うことを)聴かないことを恐れた,そこで先ず験しを設け(て臣下らの反応を覗うことにし)た。鹿を持って胡亥に献じて曰く:「馬でございます也。」胡亥曰く:「丞相は誤てり也。」以て臣に問うに,左右は或るものは馬と言い,或るものは鹿と言ったが鹿と言った者は高じて皆これを陰法に中らせた,此より左右は敢えてこれを言わなくなった也。

[二]時に宦官は並んで第宅を起て,宮室に擬した。帝は嘗て永安候台に登ったが,宦官はこれを望見するのを恐れた,乃ち趙忠等を使って諫めて曰く:「人君は當に高きに登るべからず,高きに登らば則ち百姓散離す。」是より敢えてまた台榭に登ろうとはしなかった。ことは宦者伝に見える。

贊に曰く:靈帝は負乗し,宦孽に国体を委ねた。[一]征亡して兆しは備わり,小雅は盡缺した。[二](のちのち洛陽では)麋鹿霜露し,遂に宮□に棲む(ことになったのである)。[三]

[一]易に曰く:「負にして且つ乗ずるは,寇を致し至るなり。」言うに帝は以て小人をして而も君子之器に乗る。

[二]詩小雅に曰く:「小雅は廃れ,則ち四夷は交り侵す,中国の微かになる矣。」缺は亦た廃である也。

[三]史記に曰く,伍子胥は呉王を諫めたが,呉王は聴かなかった,子胥曰く:「臣は今、麋鹿が姑蘇之台に遊び,官中には荊棘が生え,露沾が衣となるさまが見える也。」言うに帝が政で貪乱を為し,任じ寄らせるのが其人を得ず,尋ねるに以て獻帝をして遷播せしめ,洛陽は丘墟となる,故に麋鹿が宮□に棲むのである也。□は,協韻音於別反。