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孫策は劉勳を破ると,復見收視,袁術の女<むすめ>は孫権の後宮に入った,子の袁曜は呉に使えて郎中に為った.

[一]簀は,笫である也,茵席無きを謂う也.

[二]魏志に曰く「劉勳は字を子台といい,琅邪の人である,太祖と旧交有った,孫策に破られた後に,自ら太祖に帰し,列侯に封じられた.劉勳は自ら太祖と宿有る恃み,日に驕慢となり,何度も法を犯した,また誹謗したため,遂に其官を免じられた」也.

論に曰く:天命は符に験じられる,得て而して見ることはできても,未だ得て而して言うことはできない也(その天命の記された符を得て内容を知ることは出来ても,その符を得てその(自分にない)天命を自分のものとして行うことができたということは未だないものである).大いに致すを然るとして大いに福を受ける者は,順を信じるところに於いて帰すものではなかろうか乎![一]夫れ事するに順を以ってするのでなければ,力は強く謀は広いと雖も,得るを能わないものである也.謀不可得之事,日失忠信,変詐妄生矣(得ることの出来ようがない物事を謀れば,曰く忠信を失い,変詐が妄りに生まれるというものだろう矣).況んやた苟しくも肆して之を行う,其の以って天を欺こうとする(のなんとしたことか)乎!符に仮して僭称することにしたと雖も,帰すのは将に安んぞ容れる所となろうか哉!(帰着するのは誰がそれを受け容れるような所になるものだろうか)

[一]易曰く:「天これ助ける所は,順である也;人これ助ける所は,信である也.信履き順思えば,天より之を祐けられる.」

呂布は字を奉先といい,五原九原の人である.弓馬驍武を以て并州に給せられた.刺史丁原が騎都尉とし,河内に屯した時,呂布を主簿として,甚だ見え親待した.霊帝が崩じたまうと,丁原は何進の召を受けて,兵を将いて洛陽に詣で,執金吾となった.何進が敗れる事態となると,董卓は呂布を誘って丁原を殺害させ而して其の兵を併せた.

董卓は呂布を騎都尉と為し,誓って父子と為り,甚だ之を愛信した.稍遷して中郎将に至り,都亭侯に封じられた.董卓は自分の凶恣を知っていたため,ことごとに猜疑と畏れを懐き,行止するに常に呂布を以て自とした

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嘗て董卓の意を小失したことがあり,董卓は手戟を抜くと之を擲った.呂布は拳捷して免れる得ると,而して容貌を改めて顧みて謝ったため,董卓の意は亦解けた.呂布は是由に陰で董卓を怨むこととなった.董卓は又呂布を使って閤を守中させ,而して私して傅婢と情通し,益々自ら安んじなくなった.因って往きて司徒王允と見え,自陳卓幾見殺之状.[一]時に王允は尚書僕射の士孫瑞と董卓を誅する密謀をしていたため,因って以って呂布に告げ,使って内応させることにした.呂布曰く:「父子の如きなるに何をか(内応できましょう)?」曰く:「君呂であり,本から骨肉ではない.今や死すまで不暇なる(時間がないの)を憂うるに,何でまた父子などと謂うのか?戟を擲たれた時に,豈に父子の情有らんや也?(どこに父子の情が有ったというのか?)」呂布は遂に之(内応の事)を許し,乃ち門に於いて董卓を刺し殺した,事は已に董卓伝に見える.王允は以って呂布をして奮威将軍と為し,仮節,儀同三司とし,温侯に封じた.

[一]幾の音は祈.

王允は既に涼州人を赦さなかったため,是由に董卓の将である李傕等は遂に相結び,還って長安に攻めこんだ.呂布は李傕と戦ったが,敗れ,乃ち数百騎を将いて,以って董卓の頭を馬に繋げると,走って武関を出て,南陽に奔った.袁術は之を待すこと甚だ厚かった.呂布は自ら董卓を殺したことを恃み,袁氏に徳を有するとして,遂に兵を恣にして鈔掠した.袁術は之に患わされた.呂布は不安になり,復去って河内に於いて張楊に従った.時に李傕等が呂布を購い募って求めること急であったから,張楊の下にいた諸将は誰も彼もが之を圖もうと欲した.呂布は懼れて,張楊に謂いて曰く:「卿とは州里を與にしている,今見殺しにすれば,其の功は未だ必ずや多からざらん.この呂布を生かして売るに如かず,李傕等から大いに爵寵を得るべきだ.」張楊は考えて然りとした.有頃(それからして),呂布は袁紹のところに走って身を投げ出すことが出来た,袁紹は呂布とともに常山に於いて張燕を撃った.張燕は精兵万余,騎数千匹であった.呂布は常に良馬を御していた,号して曰く赤菟である,能く城を馳せ塹壕を飛びこえた,[一](赤菟を御した呂布は)其の健将である成廉、魏越等数十騎とともに張燕の陣に馳せ突っこんだ,それは一日に或いは三四度にもなり,皆斬首して而して(敵中から)出てきた.連戦すること十余日,遂に張燕軍を破った.呂布は既に其の功を恃み,更に袁紹に兵を請うようになったが,袁紹は許さなかった,而して(呂布の)将士は多くが横暴なことをしたので,袁紹は之に患わされるようになった.呂布は自ら安んじなくなり,因って洛陽に還ることを求めた.袁紹は之を聴きいれ,承制すると使いをやって司隸校尉を領させ,壮士を遣わして呂布を送ると而して陰ながら(彼ら壮士に命令し)使って之を殺そうとした.呂布は其が己を圖もうとしているのではと疑い,乃ち人を使って帳中に於いて鼓箏させると,自らを潜めて遁れ出た.夜中兵が起ったが,而して呂布は已に逃亡したあとであった.袁紹は(計画の失敗を)聞くと,懼れて患いを為し,(さらに兵を)募ると遣わして之を追わせたが,皆(誰も)敢えて逼まるもの莫く,遂に(呂布は)張

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楊のところに帰りついた.道すがら陳留を経ると,太守張邈が使者を遣わして之を迎え,相待むこと甚だ厚かった,別れるに臨んで把臂して言誓しあった.

[一]曹瞞伝に曰く:「時に人は語って曰く:『人中に呂布有り,馬中に赤菟有り.』」

張邈は字を孟卓といい,東平の人である,若い頃侠を以て聞こえた.初め公府に辟招されて,稍遷して陳留太守となった.董卓の乱で,曹操と共に義兵を挙げた.袁紹は盟主と為るに及んで,驕色有ったため,張邈は義を正そうとして之を責めた.このように袁紹は張邈を怨むことになっていたうえ,且つ張邈が呂布と厚くしていたため,乃ち曹操に命じて張邈を殺そうとした.曹操は聴きいれなかったが,然るに張邈の心は自然と安んじなくなった.興平元年,曹操は東に陶謙を撃ち,其の将で武陽の人陳宮に命じて東郡に駐屯させた.[一]陳宮は因って張邈に説いて曰く:「今天下は分かれ崩じ,雄桀が並び起っています,君は十万之を擁しており,四戦之地に当たり,[二]撫顧眄,亦以って人に豪を為すに足るというのに,而して反って制を受けている,不以鄙乎(以って鄙しないというものではないのですか)!今州軍は東征し,其処は空虚です,呂布は壮士であり,善く戦うこと前無きものです(これまで彼のように善く戦うものはおりませんでした),之を迎えて共に兗州に拠り,天下の形埶を観て,俟時事変に通じれば,此も亦従横(家の策)の一時でしょう也.」張邈は之に従うと,遂に弟の張超及び陳宮等と呂布を迎えて兗州牧と為し,濮陽に拠ると,郡県は皆之に応じた.

[一]典略曰:「陳宮は字を公台といい,東郡の人である也.剛直烈壮で,若いころから海内知名之士と皆連なり結んだ.天下が乱れるに及ぶと,始めに太祖に随った.後に疑ってから,乃ち呂布に従った.呂布に畫策を為したが,呂布はいつも従わなかった.」

[二]陳留は地平らかにして,四面に敵を受ける,故に之を謂うに四戦之地であると也.

曹操は聞くと而して軍を引きつれ呂布を撃った,累戦して,相持すること百余日.是時旱蝗あって穀は少なく,百姓は相食んだ,呂布は山陽に移って駐屯した.二年間,曹操は復尽して諸城を収め,呂布を鉅野に破ると,呂布は劉備のところへ東奔した.張邈は袁術に詣でて救いを求めた,張超を留めて家属を将いさせ雍丘に駐屯させていたのである.曹操は張超を圍むこと数月,之を屠り,其の三族を滅ぼした.張邈は未だ寿春に至らずして,其の兵に害される所と為った.

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時に劉備は徐州を領し,下邳を拠点とし,淮上で袁術と相拒んだ.袁術は呂布に劉備を撃たせようと望み,そこで呂布に書を送って曰く:「わたし袁術は兵を挙げて闕に詣でたものの,未だ董卓を屠裂することが出来ないでおりました.将軍は董卓を誅し,この袁術の恥に報いて下さいました,功の一であります也.[一]昔金元休が封丘に南至し,曹操に敗れる所となりました.[二]将軍はこれを伐ち,令術復明目於遐邇,功二也.わたし袁術は生まれてからこのかた,天下に劉備有る聞かなかったのですが,劉備は乃ち兵を挙げてわたし袁術と対戦しております.将軍の威霊が憑けば,以って劉備を破るを得ます,功の三です也.将軍はこの袁術に三つの大功を有しております,わたくし袁術は不敏と雖も,死生を以て奉じましょう.将軍は連年攻戦し,軍糧の少なきに苦しんでいることでしょう,今米二十万斛をお送りいたします.唯、此に止まらず,当に駱驛するに復致すべし(つづけて駱驛致す所存です).凡そ短長とする所亦唯命じるのみです.」呂布は書を得ると大いに悦び,即ち勒兵して下邳を襲い,劉備の妻子を獲た.劉備は敗走して海西にいたると,[三]飢え困り,呂布に降伏を請うた.呂布は又袁術が運糧で復至しなかった(袁術から運ばれてくる糧秣が二度と至らなかった)のに怒っていたため,乃ち車馬を具えると劉備を迎え,以て豫州刺史と為し,遣わして小沛に駐屯させた.[四]呂布は自号して徐州牧となった.袁術は呂布が己に害を為すことを懼れ,子を為して求婚した,呂布は復た之を許した.

[一]董卓は袁隗及び袁術の兄の袁基等男女二十余人を殺害した.

[二]典略に曰く「金元休は名を尚といい,京兆の人である.同郡の韋休甫、第五文休と倶に名を著し,号して『三休』と為した.金尚は,獻帝の初めに兗州刺史と為り,東之郡,而して太祖已に兗州に臨む.金尚は袁術に依った,袁術は僭号し,以て金尚をして太尉と為そうと欲したが,敢えて顯言せず,私使してこれを諷し,袁術は亦敢えて強いなかった也.建安の初め,金尚は逃げ還ろうとし,袁術に害される所となった」也.

[三]海西は,県である,広陵郡に属する,故は東海(国)に属した.

[四]高祖はもと泗水郡沛県の人である.天下を得るに及んで,泗水を改め沛郡とした,小沛は即ち沛県である.

袁術は将の紀霊等歩騎三万を遣わして以て劉備を攻めた,劉備は呂布に救いを求めた.諸将が呂布に謂いて曰く:「将軍は常に劉備を殺そうと欲していました,今、袁術に手を貸すべきです.」

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呂布曰く:「然らず.袁術が若し劉備を破れば,則ち北は泰山と連なり,吾は袁術の圍中に在ることになる,救わないわけにはいかないのだ也.」歩騎千余を便率し,馳せて往きこれに赴いた.紀霊等は呂布が至ったと聞くと,皆斂兵して而して止めた.呂布は沛城の外に駐屯し,人を遣わして劉備を招くと,併せて紀霊等に共に饗飲しようと請うた.呂布は紀霊に謂いて曰く:「玄徳は,この呂布の弟である也,諸君に困る所を為されたため,故に来て之を救うのである.この呂布、性は合を喜ばない,但、解を喜ぶのみ耳である.」乃ち軍候に命令して戟を営門に植えると,呂布は彎弓して顧みて曰く:「諸君は呂布が[戟の]小支を射抜くのを観てくれ,[一]中れば当にそれぞれ兵を解くべし,中らなければを留め決すべし.」呂布は即ち一発すると(一矢を発すると),正しく戟支に中った.紀霊等は皆驚き,言うに「将軍の天威である也」.明くる日復た歓会し,然る後にそれぞれ罷めた(撤兵した).

[一]周禮考工記は曰く:「戟は博二寸を為す,内は之を倍に,胡は之を参倍に,援は之を四倍にする.」鄭注は云う:「援は,直刃である;胡は,其が孑<ひとり>のものである也.」小支は胡と謂う也.即ち今の戟でいう傍らの曲支にあたる.

袁術は韓胤を遣わして以って僭号の事を呂布に告げさせ,因って婦を(袁術の息子の嫁として呂布の娘を)迎えることを求めた,呂布は娘を遣わして之に隨わせた.沛相の陳珪は袁術が呂布に報いて婚姻が成立することを恐れた,則ち徐州と楊州の合従は,為難未已(難が未だ已まないようなものと為ると考えたのである).是に於いて往くと呂布に説いた、曰く:「曹公は天子を奉迎されて,国政を輔贊しております,将軍は彼と協同して策謀し,共存して大計するのが宜しいかと.今、袁術と婚姻を結べば,必ずや不義之名を受けることになりましょう,将に累卵之危うきに有るわけです矣.」[一]呂布は亦素より袁術を怨んでおり,而して自分の娘が已に塗<みち・途上>に在っていたため,乃ち追って還ると婚(婚姻関係)を絶ち,韓胤を捕らえて許に送ったため,曹操は之を殺した.

[一]説菀曰く:「晉霊公は九層台を造る,費用は千億,左右に謂うに曰く:『敢えて諫める者有れば斬る.』孫息が見えんことを求めた.霊公は弩を張って矢をつがえて之に見えた,之に謂いて曰く:『子は諫めんと欲するのか邪?』孫息曰く:『臣は敢えて諫めることはしません也.臣は能く累すること十二博ソなれば,さらに其の上に於いて加えること九雞子としようかと』公曰く:『吾は未だ嘗て見たことがない也,子は寡人に之を作らせようと為すのか(作ってみせるというのか).』孫息は即ち顔色を正して,志意を定めると,以ってソ子を下に置くと,雞子を其上に加えた.左右は慴息した.霊公曰く:『危うい哉!』孫息曰く:『復有危於此者.』公曰:『願復見之.』息曰:『九層之台,三年して成らず,男は耕す得ず,女は織る得ず,国の用は空虚(国費は空っぽとなり),戸口は減少せり,吏人は叛き逃亡せり,国は謀議して将に兵を興さんとせり.』公は乃ち台を壊した.」

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陳珪は子の陳登を使者として曹操に詣でさせようと欲したが,呂布は固く許さなかった,(曹操からの)使いが至って,呂布を拝して左将軍と為すと,呂布は大いに喜び,即ち陳登が行くことを聴きいれ,併せて章を奉じ恩を謝すことを命令した.陳登は曹操に見えると,因って呂布の勇なると而して謀の無きを陳べるとともに,その去就は軽いため,宜しく之を早く圖むよう陳べた.曹操曰く:「呂布は狼子の野心をもち,誠に久しく養い難い,[一]卿に非ざれ其の情偽を究めるものは莫い.」即ち陳珪の秩を中二千石に増し,陳登を拝して広陵太守とした.別れに臨み,曹操は陳登の手を執り曰く:「東方之事,便以相付.」令陰合部,以って内応を為させたのである.始めに呂布は因って陳登に徐州牧を求めさせたが,得られなかった.陳登が還ると,呂布は怒り,戟を拔いて机を斫<こわ>して曰く:「卿の父は吾に曹操と共同し,公路(袁術)との婚姻を絶つよう勧めた.しかし今、吾が求める所は獲る無く,而して卿ら父子は並んで顯重となった,これは但、卿が賣る所を為しただけではないか(自分たちを高く売り込むのに利用しただけではないか)耳.」陳登は動揺することも顔色を変えることもなく,徐ろに之に対した、曰く:「この陳登は曹公に見えましたおり,将軍を養うよう言うのに虎を養うかの如く譬えました,当に其の肉に飽かしむべし,飽かさなれば則ち将に噬人する(人を食べる)でしょう、と.(それに対して曹)公は曰く:『卿の言は如かず.譬えるなら鷹を養う如くである,飢えればこそ即ち用を為すのだ,飽かせれば則ち颺去するものだ(飛び去ってしまうものだ).』其の言うは此の如きものでした.」呂布の意は乃ち解けた.[a]

[]左伝曰:「伯石之生也,叔向之母視之,曰:『是豺狼之聲也,狼子野心.』」

[a]つまり陳登は「我らが主たる呂将軍に先ず望んでいる褒美をくれたら大きな働きをしましょう」と提案したが曹操は「褒美を貰うだけ貰って働かないのではないか?先ず大きな働きをしなければ望むものは与えられない」と応えたのである。呂布は先に袁術僭称を伝えたことで左将軍(袁術が就いていた位)を受けており、この時功無くして牧伯を求めたことになっていたため、曹操側から断られたのである。呂布の意が解けたのはそれを理解したからでもある。この後、呂布は曹操が図った対袁術包囲網に参加し袁術勢力と敵対することになる。

袁術は呂布が韓胤を殺したことに怒り,其の大将張勳、橋蕤等を遣わして韓暹、楊奉と連なること,歩騎数万,七道から呂布を攻めた.呂布は時に兵三千,馬四百匹を有するのみであり,其の敵しないことを懼れ,陳珪に謂いて曰く:「今、袁術軍がこのように致すは,卿之由である也,為之柰何?(卿がなんとかできないものか?)」陳珪曰く;「韓暹、楊奉と袁術とは,卒合之師なる耳です(即席で合わさった軍団であるだけです).[一]謀は素より定まったもの無く,[二]能く相維するものではありません.我が子陳登が之に策しましたが,比於連雞(比べますに鶏や雉が群れ為しているようなもの),埶不倶棲(倶に棲みつづけられるものではありません),[三]立可離也.(離れ離れにすることが可能です)」呂布は陳珪の策を用いて,韓暹、楊奉と書を交わして曰く:「二将軍は親しく大駕を拔せられ,而してこの呂布は手から董卓を殺害しておりまして,倶に功名を立てたもので,当に竹帛に垂せられるべきものであります.今袁術は造逆しています,宜しく共に誅討しましょう,柰(あなたがた)は何でまた(造逆した)賊とともにわたくし呂布を伐しようと還って来たのですか?可因今者同力破術,為国除害,建功天下,此時不可失也.(今因るべきは力を同じくして袁術を破り,国の為に害を除き,功を天下に建てることです,此の時を失うべきではありません.)」又許破術兵,悉以軍資與之(また袁術の兵を破るのを許すのに,悉くの軍資を以ってして之を興した).韓暹、楊奉は大いに喜び,遂に張勳等を下邳に於いて共撃し,大いに之を破ると,橋蕤を生け禽りにした,余りの潰走し,其所殺傷、墯水死者殆尽(その殺傷される所となった者、水に堕ちて死んだ者で殆どが尽きた).

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 [一]卒の音は千忽反.

[二]素は,舊である也.

[三]戦国策に曰く:「秦の惠王が寒泉子に謂いて曰く:『蘇秦は弊邑を欺き,一人之知を以ってして,山東之君を反覆させそうと欲したのである.しかし夫諸侯はこれ一つになることができない,猶も連なりあった鶏・雉の類が棲むことについて倶に上になること能わないようなものだからだ.』」

時に泰山の臧霸等が莒城を攻め破ると,許布財幣以相結(呂布に許しをもとめ財弊して以って相結ぼうとしたが),而して未だ送るに及ばなかったため,呂布は乃ち自ら往って之を求めようとした.そのため其の督将高順は諫止して[一]曰く:「将軍の威名は宣播され,遠近の畏れる所です,何でまた得なかったものを求め,而して自ら行って賂(賄賂)を求めるのです.万一剋たなければ,どうして(その威名が)損なわれないことがありましょうか邪?」呂布は従わなかった.既に莒に至ったが,臧霸等は不測往意しており(不測に備えて注意しており/測らず注意しており),固守して之を拒んだため,獲るもの無く而して還ってきた.高順はその人となりは清白で威嚴を有しており,言辞は少なかった, 将いるに整齊し(きちんと訓練して部隊を整え),戦う毎に必ず剋った.呂布易きに流れやすく,為す所常無きようすであった.そのため高順はいつも諫めて曰く:「将軍は挙動するに,詳思に肯きません(深い考えに肯くものではないようすです),忽有失得(得るを失うこと有る勿れ/得たもの・得ることのできたものを失うようなことがないようになさって下さい),(また)動けば輒ち言誤ります.誤った事は豈可数乎(これまでどれだけの数あることでしょうか)?」呂布は其の忠を知っていたが而して従うこと能わなかった.

[一]英雄記に曰く「高順の為人<ひととなり>は酒を飲まず,饋を受けなかった.将いる所は七百余兵であったが,号して千人と為し,『陷陣営』と名された.呂布は後に高順を疎んじ,高順が将いる所の兵を奪ったが,亦(高順に)恨む意(気持ち)は無かった」也.

建安三年(198年),呂布は遂に復た袁術に従い,高順を遣わして劉備を沛に於いて攻めると,之を破った.曹操は夏侯惇を遣わして劉備を救おうとしたが.[一]高順の為に敗れる所となった.(そこで)曹操は乃ち自ら将いて呂布を撃たんとし,下邳城下に至ると.呂布に書を遺わして,為すに禍福を陳べた.呂布は降ろうと欲したが,而して陳宮等は自ら曹操に於いて罪を負っていたため,深く其の計を沮すと(邪魔すると),而して呂布に謂いて曰く:「曹公は遠くから来ており,埶えるに久しく能わず.将軍は若し歩騎を以って外に於いて出て屯し,わたくし陳宮が余りの将いて内に於いて閉守します.若し(曹操が)将軍に向かえば

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わたくし陳宮が兵を引きつれて而して其の背を攻めます;若し但、攻城するのみならば,則ち将軍が外に於いて救います.旬月(十日)を過ぎずして,軍食は畢わり尽き(尽き)ますから,之を撃てば破ることが可能です也.」呂布は之を然りとした.呂布の妻は曰く:「昔曹氏は公台(陳宮のあざな)を恃むこと赤子の如きでしたのに,猶も舍して而して我(こちら)に帰したのです.今将軍は公台を厚くすること曹氏のそれに及ばないわけですのに,而して全城を委ね,妻子を捐し,孤軍で遠くへ出られようと欲するのですか乎?若し一旦変有るならば,妾<わたし>はどうして将軍の妻のままでいられましょう哉!」呂布は乃ち止めた.而して潜めて人を遣わして袁術のところに救いを求めると,自らは千余騎を将いて出た.戦に敗れて走って還ると,城を保って敢えて出なかった.袁術も亦救うこと能わなかった.

[一]魏志に曰く:「夏侯惇は字を元讓といい,沛国譙の人である.年二十四にして,師に就いて学んだ,人で其師を辱めた者が有ると,夏侯惇は之を殺した.後に従って呂布を征ったが,流矢の為に左目が傷ついた.陳留、濟陰太守を領し,建武将軍を加えられた.太祖は常に同じ輿に載せ,特に見えるに親しくし重んじ,臥内に出入りしたが,諸将で之に比するものは莫かった.」

曹操はラして之を圍むと,沂水、泗水を壅して以って其の城を灌水させること三月,上下心が離れた.其の将侯成は食客を使って其の名馬を牧していたが,而して客は之を策すると以って叛いた.侯成は客を追って馬を得たため,諸将は合禮して以って侯成を慶賀した.侯成は酒肉を分けると,先ず入って呂布に詣でて而して言うに曰く:「将軍の威霊を蒙りまして,亡くした馬を得る所となりました,諸将が齊賀してくれるそうですが,未だ敢えて嘗していません也,故に先ず(呂将軍に)以って貢を奉じます.」呂布は怒って曰く:「自分はいま禁酒しておるというのに而して卿等は醞釀するのか(酒を醸して祝おうというのか),酒に因ってこの呂布になにか共謀しようと欲して為したことか邪?」侯成は忿りまた懼れると,乃ち諸将と共に陳宮、高順を執らえ,其を率いて降った.呂布は麾下とともに白門樓に登った.[一]兵が之を圍むこと急であったため,左右に自分の首を取って曹操に詣でるよう命令をくだした.左右は忍び(できなかったため),乃ち(白門樓を)下りて降った.呂布は曹操に見えると曰く:「今日已に往く,天下は定まったわけだ矣.」曹操曰く:「何をか以って之を言うのか?」呂布曰く:「明公がこれ患う所はこの呂布のことだけに過ぎない,今已に服したのだ矣.この呂布に命令して騎兵を将いらせ,明公が歩兵を将いるなら,天下不足定也(天下が定まらないことがあるだろうか(?)).」顧みて劉備に謂いて曰く:「玄徳,卿は坐して上客と為っており,我は降って虜と為っているが,我を繩縛すること急であるのだ,獨不可一言邪?(なにか一言あってもいいのではないか?)」曹操は笑って曰く:「虎を縛るのに不急ということは出来ないだろう.」乃ち命じて呂布の縛を緩めようとした.劉備曰く:「不可(緩めるべきではありません).明公は呂布が丁建陽、董太師になさったことを見ていないのですか乎?」曹操は之に頷いた.[二]呂布は劉備を目する(睨みつける)と曰く:「大耳兒最叵信!(この大耳兒こそ最も信用できないだろうが!)」[三]曹操は陳宮に謂いて曰く:「公台平生自ら智を有すること余りあると謂っていたが,今の気持ちはどうかね?」陳宮は呂布を指差して

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曰く:「是の子(ひと)がわたし陳宮の言を用いなかった,だから此処に至ったのだ.若し従うことができていたら,未だどうなるか量りようがなかったものを也.」曹操は又曰く:「柰卿の老母をどうするのだ?(老母を遺して逝くのでは孝に背くのではないか?命乞いをする気はないのか?)」陳宮曰く:「老母は公の手の中に在るわけで,この陳宮の手に在るわけではない也.(またそのように孝のことを持ち出して来たならいわせてもらうが)夫孝を以って天下を理める者は,人の親を害しないものだ.」曹操は復曰く:「柰卿の妻子をどうするのだ?(君の家の今後のことを考えて命乞いをする気はないのか?家が破滅すれば祭祀は断絶する、祭祀が断絶すれば祖先に申し訳たたないのではないか?)」陳宮曰く:「この陳宮、霸王の主とは,人の祀を絶たないものだと聞いている.」[四]刑に就くことを固く請い,遂に出て顧みなかった,曹操は之の為に泣涕した(涙を流した).呂布及び陳宮、高順は皆これ縊り殺され,首は許の市に伝えられた.

[一]宋武北征記は曰く:「下邳の城は三重を有し,大城(之門)は周ること四里,呂布が守る所である也.魏武は呂布を白門に於いて禽えた.白門は,大城之門である也.」酈元水經注は曰く:「南門は之を白門と謂う,魏武が此れに於いて陳宮を禽えたのである.」

[二]杜預注左伝に曰く:「頷は,搖頭するである也.」音は五感反.

[三]蜀志は曰く:「劉備は顧みると自ら其の耳を見ることができた.」

[四]左伝は曰く:「齊桓公は三亡国を存させた.」

贊に曰く:劉焉は庸牧を作った,以って後の福を希ったのである.[一]曷云うに負荷なる?地は堕ちて身は逐われた.袁術は既に叨貪し,呂布は亦覆した.

[一]王莽は益州を改めて曰く庸部とした.