-2431-

後漢書卷七十五

劉焉袁術呂布列伝第六十五

劉焉は字を君郎といい,江夏(郡)竟陵(県)の人である也,[一]魯恭王の後である也.[二]肅宗の時に,竟陵に徙ったのである.劉焉は若いころから州郡に任じられ,宗室を以って郎中を拝した.官を去ると陽城山に居り,精学教授した.賢良に挙げられて方正となり,稍遷して南陽太守、宗正、太常となった.

[一]竟陵は今の復州県である.

[二]恭王は,景帝の子で,名を余という.

時に靈帝の政化は衰缺し,四方に兵寇あったため,劉焉は刺史を為して以っても威は軽く,既に禁ずること能わない,且つ其の人に非ざるを用いれば,輒ち暴乱を増すことになるとして,乃ち改めて牧伯を置くよう建議した,彼らに方夏を鎮め安んじさせようというのである,重臣を清選して,以って其任に居らせることとした.劉焉は乃ち陰ながら交阯(牧?)と為されるよう求めたが,以って時難を避けようとしたのである.議したが未だ即ち行われないうちに,益州刺史郗儉<げきけん>が政に在って煩擾だったため,謠言が遠くに聞こえ,而して并州刺史張懿、涼州刺史耿鄙が並んで寇賊に害される所と為る事態となったため,故に劉焉の議は用いられることになった.[a]劉焉を(外に)出して監軍使者と為すと,益州牧を領させた,[一]太僕の黄琬が豫州牧と為り,宗正の劉虞が幽州牧と為り,皆本秩(元々の秩禄)を以って職に居った.州任の重きは,此より而して始まるのである.

[a] 郗儉<げきけん>は蜀漢末期の蜀の人材郗 の祖父である

[一]前書では任安が監北軍使者と為っている.

-2432-

是時益州の賊の馬相が亦た「黄巾」を自号して,疲役之民数千人を合聚すると,先ず綿竹(県)令を殺害し,[一]雒県に進攻して,[二]郗儉を殺害した,また蜀郡、犍為を撃ち,旬月之間に,三郡を破壊した.[三]馬相「天子」を自称すると,至ること十余万人,兵を遣わして巴郡を破り,郡守趙部を殺害した.州従事の賈龍は,先に兵数百人を領して犍為に在ったが,遂に吏人を糾合して馬相を攻めると,之を破った,賈龍は乃ち吏卒を遣わして劉焉を迎えた.劉焉は到ると,賈龍を以って校尉と為し,綿竹に居を徙<うつ>した.(賈龍は)撫納して離叛すると,務めてェ恵を行い,而して陰に異計を圖いた.

[一]綿竹故城は今の益州綿竹県東に在る.

[二]今の益州雒県である.

[三]綿竹及び雒は広漢郡に属する,蜀郡、犍為郡を併せたものである.

沛の人張魯は,母が恣色を有し,鬼道を兼ね挟んでおり,劉焉の家を往来していたため,遂に張魯は以って督義司馬と為って任じられると,(遂)別部司馬張脩と一緒に兵を将いて漢中太守蘇固を掩殺し,斜谷を断絶すると,使者を殺害した.張魯は既に漢中を得ると,遂に復た張脩を殺害して而して其のを併せた

劉焉は威刑を立てようと欲して以って自ずと尊大となり,乃ち佗事を以って托すと,州中の豪彊十余人を殺したため,[一]士民は皆怨んだ.初平二年(191年),犍為太守任岐及び賈龍が並んで反し,劉焉を攻めた.劉焉は撃破すると,之を皆殺しした.此より意気は漸盛(次第に盛んとなり),遂に乗輿車重千余乗を造作した.[二]劉焉の四子,劉範を左中郎将に,劉誕を治書御史に,劉璋を奉車都尉に為すと,[三]並んで獻帝に従って長安に在った,唯別部司馬の劉瑁のみが劉焉に随って益州に在った.朝廷は劉璋を使いとして劉焉に曉譬させたが,劉焉は劉璋を留めると遣いに復さなかった.興平元年,征西将軍馬騰が劉範と李傕を誅しようと謀り,劉焉は叟兵五千を遣わして之を助けさせたが,戦敗れて,[四]劉範及び劉誕は並んで見殺(殺害されるに見えた/殺される運命となった/見殺しとなった).劉焉は既に二子を痛んだが,また天火に遇って其の城府車重を焼いてしまった,それは延焼して民家に及び,館邑に余されたもの無くなった,是に於いて居を成都に徙したが,遂に背に[疽]を発して(疽)卒した.[五]

-2433-

[一]蜀志に曰く,王咸、李権等を殺害した.

[二]重とは,輜重のことである也.

[三]蜀志に曰く:「劉璋は字を季玉という.」

[四]漢世では蜀は叟と為して謂う.孔安国注尚書云:「蜀,叟也.」

[五]説文曰:「疽,久梶D」

州の大吏であった趙韙等は(劉焉の息子だった)劉璋の温仁さを貪ろうとして,立てて刺史と為した.詔書は因って以って劉璋を監軍使者と為し,益州牧を領させ,以って趙韙を征東中郎将と為した.先是(是より先に)荊州牧劉表が劉焉は僭(僭主たらんとして)擬乗輿器服(乗輿器服を皇帝のそれに擬している)と上表していたため,趙韙は此を以って遂に兵を(巴郡の)朐駐屯させて劉表に備えた.[一]

[一]朐の音は蠢.音は如尹反.巴郡に属す,故城は今の夔州雲安県西に在る也.

初め,南陽、三輔の民数万戸が益州に流入してくると,劉焉は悉く収めて以ってを為した,名づけて曰く「東州兵」である.劉璋は性が柔ェであり威略無かったため,東州人は侵暴して民に患いを為し,禁じ制すること能わなかった,旧士(もとからの士大夫)は頗る離怨を有することとなった.趙韙は巴中に在ったとき,甚だ心を得たため,劉璋は之に以って権力を委ねた.趙韙は人情が不輯であること(和まなくなっていたこと/不穏となっていたこと)に因って,[一]乃ち陰に(密かに)州中の大姓と(手を)結んだ.建安五年,還って劉璋を共撃し,蜀郡、広漢、犍為は皆反って(趙韙に)応じた.東州人は誅滅に見えることを畏れ,乃ち心を同じくして力を併せ,劉璋の為に死戦し(死力を尽くして戦うと),遂に反った者たちを破り,進んで江州に於いて趙韙を攻め,[二]之を斬った.

[一]輯は,和である也.

[二]江州は,県名で,巴郡に属する,今の渝州巴県である.

張魯は以って劉璋が闇懦であるとして,承順たるに復しなくなった.劉璋は怒ると,張魯の母及び弟を殺害し,而して其将龐羲等を遣わして張魯を攻め,数為所破(何度も破る所と為った).張魯の部曲は多くが巴土に在った,故に龐羲を以って巴郡太守と為した.張魯は因って襲って之を取ると,遂に巴漢に於いて雄たることになった.

-2434-

十三年,曹操は自ら将いて荊州を征すると,劉璋は乃ち使者を遣わして敬いを致した.曹操は劉璋に振威将軍(の官位)を,兄の劉瑁には平寇将軍(の官位)を加えた.劉璋は因って別駕従事張松を遣わして曹操に詣でさせたが,而して曹操は不相接禮(礼するに相接しなかった).張松は恨みを懐いて而して還ると,劉璋に曹氏と関係を絶つよう勧め,而して劉備と好を結ぶよう勧めた.劉璋は之に従った.

十六年,劉璋は曹操が張魯を討つべく当に兵を漢中に向けて遣わすと,内に恐懼を懐いたため,張松は復た劉璋に劉備を迎えて以って曹操を拒むよう説いた.(そこで)劉璋は即ち法正を遣わすと兵を将いて劉備を迎えた.[一]劉璋の主簿で巴西出身の黄権は諫めた、曰く:[二]「劉備は梟名を有しております,[三]今部曲を以って之を遇せば,則ち其の心は満たされないでしょう,賓客を以って之を待らせれば,則ち一国は二人の主を容れないもの,此は自ずと安んじる之道に非ざるものです.」従事で広漢出身の王累は州門に於いて自ら倒れ懸かると以って諫めた.劉璋は一つも納れる所無かった.

[一]蜀志に曰く:「法正は字を孝直といい,扶風(郡)郿(県)の人である也.祖は法真,字を喬卿という.父は法衍,字を季謀という.」

[二]蜀志に曰く:「黄権は字を公衡といい,閬中の人である也.先主が益州を取ると,諸県望風景附(諸県は風景を望み附こうとしたが),黄権は城を閉じて堅く守った.須璋稽服(劉璋が稽服するのを待って/確認してから),乃ち先主に詣でた.[先]主は尊号を称すると,将に呉を東伐しようとしたため,黄権は諫めたが,先主は従わず,黄権を以って鎮北将軍と為し,江北軍を督させると,先主は自ら江南に在った.呉将陸義(陸遜)は虚に乗じて圍<かこみ>を断つと,南軍は敗績し,先主は引き退くこととなった,而して道は隔っており,黄権は還るを得ず,故に領する所を率いて魏に降った.(そのため)有司が法を執って白すに黄権の妻子を収めるべきとした.先主は曰く:『孤<わたし>が黄権に(この事態とその責任を)負わせたのだ,黄権が孤に負わせたのではない也.』之を待遇すること初めの如しであった.魏の文帝は黄権に謂いて曰く:『君舍逆效順,欲追蹤陳、韓邪?(君は逆を舎して順を效いた,陳、韓(高祖に走った陳平、韓信)を追蹤しようと欲してのことだろうか?』黄権は対するに曰く:『臣は劉氏から厚遇されること過ぎたものを受け,呉に降ることはできませんでした,また蜀に還るに路も無かったのです,是が以って帰命したところです.且つ敗軍之将は,死を免れれば幸い為ったというものであります,何古人之可慕?(どこに古人を慕ったのだとできるものあるでしょうか?)』」

[三]梟は即ち驍である也.

劉備は江陵から馳せて涪城に至ると,[一]劉璋は歩騎数万を率いて劉備と会った.[二]張松は劉備に会(合うの場)に於いて劉璋を襲うよう勧めたが,劉備は忍びなかった.明くる年,出て葭萌に駐屯した.張松の兄で広漢太守の張肅は禍が己に及ぶのを懼れ,乃ち以って張松の謀を劉璋に白したため,張松を収めて之を斬った,[三]諸関戍勿復通.

-2435-

劉備は大怒すると,兵を還して劉璋を撃ち,戦い在る所(ことごとく)剋った.十九年,進んで成都を圍<かこ>むこと,数十日,城中は精兵三万人を有し,穀は一年を支え,吏民は咸じて戦いを拒もうと欲していた(戦って劉備を拒もうと欲していた).劉璋は言った:「父子が州に在って二十余歳,恩徳無く以って百姓に加え,而して攻戦すること三載,肌膏草野の者は,この劉璋を以って故としている也.何心能安!(どうして心が能く安んじているだろうか!)」遂に開城すると出て降ったが,下は流涕しないもの莫かった.劉備は劉璋を公安に遷すと,[四]其の財寶を帰した,後に以って病で卒した.[五]

[一]涪城故城は今の綿州城である.

[二]蜀志曰く:「是歳が建安十六年である.」

[三]益郡耆旧伝に曰く:「張肅は威儀を有し,容貌は甚だ偉であった.張松は為人<ひととなり>短小にして放蕩,節操を持たなかったが,然るに識理精果(理を識り成果を極め),才幹を有していた.劉璋は曹公に遣わして詣でさせると,公は甚だ禮しなかった.楊脩は之を深く器として,公に張松を辟招するよう建白したが,納れられなかった.楊脩が公が撰ぶ所の兵書を以って張松に示すと,飲宴之間に,一省して(一通り見ただけで)即ち闇誦するを便じた,(楊脩は)此を以って之を異としたのである.」

[四]公安は,今の荊州県.

[五]蜀志曰く:「先主は劉璋を公安の南に遷したが,猶も振威将軍の印綬を佩していた(身に着けていた).孫権が関羽を破って,荊州を取ると,劉璋を以って益州牧と為し,留(住)[駐]秭帰(秭帰に留め駐屯させた).」

明くる年,曹操は張魯を破って,漢中を定めた.

張魯は字を公旗という.初め,祖父の張陵は,順帝の時に蜀に於いて客となると,鶴鳴山中に学道し,[一]符書を造作して,以って百姓を惑わした.其道を受けた者は輒ち米五斗を出した(供出した),故に之を「米賊」と謂うのである.張陵は子の張衡に伝え,張衡は張魯に於いて(道を)伝えたため,張魯は遂に「師君」を自号した.其来学する者は,初め名のるに「鬼卒」と為され,後に「祭酒」を号する.祭酒はそれぞれが部を領しの多い者は名のるに曰く「理頭」とする.皆(どれも)校するに誠信を以ってし,欺妄を聴かず,病有れば但令首過而已.[二]諸祭酒はそれぞれ路に於いて義舍を起てるが,同之亭伝(之は亭伝と同じものである),[三]米肉を縣け置き以って行旅に給う.食べる者は腹を量って(空腹の程度を自ら量って)足る(分だけ)を取る,

-2436-

過ぎること多ければ則ち鬼能が之に病をなす(という).法を犯した者は先ず三原を加え(三度免じ),[四]然る後に刑を行う.長吏を置かず,祭酒を以って理を為させ,民夷は信じ向う.[五]朝廷は討つこと能わず,遂に就拝して張魯を鎮夷中郎将とし,漢寧太守を領させると,[六]其の貢獻を通じた.

[一]山は今の益州晉原県西に在る.

[二]魏志曰く:「大抵は黄巾と相似ている.」首の音は式(殺)[救]反.

[三]伝の音は陟戀反.

[四]原は,免である也.

[五]典略に曰く:「初め,熹平中に,妖賊が大いに起き,[三輔には駱曜が有った.光和中には,東方には張角が有り],漢中には張脩が有った.[駱曜は教民緬匿法,張角は]太平道を為し,(張角)[張脩は]五斗米道を為した.太平道の師は九節杖を持ち,符祝を為し,病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせると,因って符水を以って之を飲ませた.病が或いは自愈した者には,則ち此人は道を信じたからだと云い,其の或いは不愈なるは,則ち道を信じないためだと云った.張脩の法略は張角と同じである,淨室で施しを加えるに,病人を使って其の中で過ちを思いださせようと処す.又人を使って祭酒に姦令を為させ,老子五千文を以って主とし,使都習,『姦令』と号した.鬼吏を為すが,主に病者に請禱を為させるのである.[請禱]之法は,病人の姓字を書き,服罪之意を(罪に服す気持ちを起こさせるよう)説く.三通を作り,其一は之を天に上するとして,山上に著し,其の一は之を地に埋め,其一は之を水に沈めた,之を『三官手書』と謂う.病者を使って家から米五斗を出させるが以為常(それが常のものであるため),故に『五斗米師』と号するのである也.実際に病を療養することに於いては無益なことであるが,[但淫妄を為すだけであるが],小人は昏愚なものだから,競って之に共に事<つか>えた.後に張角が誅を被り,張脩も亦た亡んだ.及んで張魯は漢中に自在して,因って其人信行脩業し,遂に之を飾るを増したのである.教えて使って義舍を起てさせ,以って米[肉]を其中に置き,以って行人を止<とど>めた.又[教えは]使いにさせると自らは隠れ,小過有る者には,当に百歩を循道すれば,則ち罪は除れるとした.又月令に依って,春夏は禁殺とした.又禁酒した.その地に流れ移って寄る者が在ったが,敢えて奉らなかった也.」

[六]袁山松書では,建安二十年に漢寧郡が置かれたとある.

韓遂、馬超之乱で,関西の民で張魯のところへ奔った者は数万家となった.時に人で地中から玉印を得た者が有って,下は(それに因って)張魯を尊んで漢寧王と為そうと欲した.

-2437-

張魯の功曹であった閻圃が諫めて曰く:「漢川之民は,戸(数)は十万を出し,四面は險固でありまして,財は富み土は沃えております,上(策)は天子を匡して,則ち桓文を為す,次いでは(次善の策では)竇融の方策をなして,富貴を失わないことです.今承制されて署置しております,埶足斬断(形勢は斬断に足るものです/十分好きにやれているではないですか).遽かに<にわかに>王号を称されますことは,必ずや先に禍<わざわい>を為すものです.」張魯は之に従った.

張魯は漢川に自在して垂すること三十年,曹操が之を征そうとして陽平に至ったと聞くと,[一]漢中を挙げて降ろうと欲した.其の弟の張衛は聴きいれず,数万を率いると,関で固守して拒んだ.[二]曹操は張衛を破ると,之を斬った.張魯は陽平が已に陥<お>ちたと聞くと,将に稽顙して帰降しようとした.閻圃は説いた、曰く:「今以って急に往けば,其の功は軽く為ります,(今往くのは)如かずして且つ巴中に依って,然る後に質を委ねれば,功は必ずや多とされることでしょう也.」是に於いて乃ち南山に奔った.左右は寶貨倉庫を悉く焚こうと欲した.張魯は曰く:「本は国家に帰命しようと欲しているのだが,其意が未だ遂げられていない.今日の走るのは,以って鋭鋒を避けようというものであって,悪意を有するのではないのだ.」遂に藏を封じると而して去った.曹操は南鄭に入ると,甚だ之を嘉した.また以って張魯が本は善意を有している(のが判った)ため,人を遣わして之を慰安した.張魯が即ち家属と(ともに)逆から出たため(逆心の状態から省みて脱して出てきたため),(曹操は張魯を)拝して鎮南将軍とし,閬中侯に封じ,邑万戸として,[三]将に中国へ還るにあたり,客禮を以って待遇した.張魯の五子及び閻圃等は封じられて皆列侯と為った.

[一]周地圖記に曰く:「谷の西北に古陽平関が有る.」其の地は今の梁州城県西北に在る也.

[二]魏志曰く:「太祖は張魯を征して陽平関に至ると,張衛が関で拒んで堅く守った.」

[三]閬中は巴郡に属する,今の隆州県である.

張魯が卒すると,謚した、曰く原侯である.子の張富が嗣いだ.

論に曰く:劉焉は時に艱を方じたが,之を先に求めて後に亡ぶ所というものであり,[一]庶乎見幾而作(君子ならぬ庶人が(君子でもないのに)機に見えて而して作ったというものである).[二]夫<そ>れ地広ければ則ち驕尊之心が生じることとなり,財衍なれば則ち僭奢之情が用いられることとなる,[三]固より亦た恆人必至之期というものだったのである也.劉璋は能く閉隘して力を養い,守るに先ず圖を案じ,尚可與歳時推移(歳と時が推移すべきを尚んで),

-2438-

而して利器を遽輸し,静受流斥(しようと)したが,[四]所謂<いわゆる>羊質虎皮(虎の皮に羊の中身)というものであり,(本物の)豺に見えて則ち恐れてしまった,吁哉!(嘆息するしかないものだ、ああっ!)[五]

[一]左伝曰く,鄭公の孫の黒肱は疾有ると,帰邑于公,曰く:「吾は之を聞く,乱代に於いて生まれれば,貴きは而して能く貧しい,人無求焉,可以後亡.」

[二]易曰:「君子は幾に見えて而して作る,終日を俟<ま>たない.」又曰く:「幾とは動之微であり,吉之先見である.」

[三]衍は,饒である也.

[四]老子曰く:「国之利器は,以って人に示すべからず.」

[五]楊子法言に曰く:「羊質虎皮,見草而悦,見豺而戦.(虎の皮を被った羊は,草に見えて悦び,豺に見えて戦く<おののく>ものだ.)」

 

袁術は字を公路といい,汝南汝陽の人で,司空袁逢の子である.若いころ侠気をもって聞こえ,たびたび諸公子とともに飛鷹走狗に興じた,後に頗る折節し.孝廉に挙げられ,累遷して河南尹﹑虎賁中郎将に至った.

時に董卓は、将に廃立せんと欲し,袁術をもって後将軍とした.[a]袁術は董卓の禍を畏れて,南陽に出奔した.長沙太守孫堅が南陽太守張咨を殺害したところで,[一]孫堅は兵を引率して袁術に従った.劉表が上書して袁術を南陽太守とし,袁術は上表して孫堅に豫州刺史を領させ,使って荊﹑豫の兵卒を率いさせ,董卓(の軍)を陽人に於いて撃破した.

[一]英雄記に曰く:「張咨は字を子議といい,潁川の人である.」呉暦に曰く:「孫堅が南陽に至ったが,張咨は軍糧を給せず,又見えることを肯んじなかった.孫堅は兵を進めんと欲したが,後に害されんことを恐れ,乃ち急疾を得たと詐した,軍を挙げて震惶し,巫醫を迎え呼んで,山川を祭祀し祈祷した,親しい人を遣わして張咨に説いて,言うに、病に困しみ兵を張咨に付けたいと欲していると.張咨は之を聞いて,其兵を心で利そうと思い,即ち将に歩騎五六百人で入営し孫堅を見舞った.孫堅は相い見えてみると,何も無かったので,卒然として起ち上がり,張咨を責め立て罵り,遂に執って之を斬った.」

[a]袁逢が後将軍についたことがあったため襲官させたのである。