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乱,公孫度は其の地の遠さを恃み,陰に独り幸いを懐こうとした.襄平で社に大石丈余が生まれた事態があった,(大石は)下に三小石を有して足を為していた,公孫度は以って己に瑞を為すとした.[一]初平元年,乃ち遼東を分けて遼西、中遼郡を為すと,並んで太守を置き,海を越えて東萊諸県を収めると,営州刺史を為し,[二]自立して遼東侯、平州牧となり,父延を追封して建義侯と為した.漢の二祖廟を立てた.承制して襄平城南に於いて墠を設けると,天地を郊祀し,藉田して兵を理め,乗鸞輅九旒旄頭羽騎.建安九年,司空曹操が表して奮威将軍と為し,永寧郷侯に封じた.公孫度が死ぬと,公孫康が嗣をつぎ,故に遂に遼土に拠ったのである焉.

[一]襄平は,県である,遼東郡に属する,故城は今の平州盧龍県西南に在る.魏志に曰く:「時に襄平延里社では大石が生まれた,或いは公孫度に謂いて曰く:『此は漢の宣帝が(遭遇した)冠石祥です也,里名は先君と同じです.社とは土地に主するもの,明らかに当に土地を有すべし,三公輔を有すべしということでしょう也.』公孫度は喜びを益した.」

[二]為すに猶ほ置くである也.

 

【ここから劉表伝】

劉表は字を景升といい,山陽郡高平の人で,魯の恭王の後である也.[一]身長は八尺余,姿貌は温偉であった.同郡の張儉等と倶に訕議を被り,号して「八顧」と為した.詔書あって党人であると案じられ捕えられようとしたため,劉表は亡走して免れるを得た.党禁が解けると,大将軍何進に辟招されてその掾となった.

[一](魯の)恭王は,景帝の子で,名を余という(劉余).

初平元年,長沙太守孫堅が荊州刺史王叡を殺害したため,[一]詔書があり劉表を以って荊州刺史と為した.時に江南は宗賊が大いに盛んであり,[二]又袁術は兵を魯陽に駐屯して阻んだため,劉表は任地に至ることが出来なかった,そこで単馬で宜城に入ると,[三]南郡の人蒯越、襄陽の人蔡瑁に請いともに畫を謀った.[四]

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共に劉表は蒯越に謂いて曰く:「宗賊は盛んである而して不附と雖も,若し袁術が之に因れば,禍は必ず至るだろう矣.吾は徴兵しようとと欲しているが,集まること能わざるを恐れる,其の策として何か焉出せるものはないか?」対して曰く:「平を理めるは先ず仁義,乱を理めるは先ず権謀、と申します.兵が多く在らざるより,人を得るかどうかを貴んで下さい.袁術は驕っている上に謀無く,宗賊は率いるに多く貪るに力づくです.わたくし蒯越には素より養っている所の者が有ります,人を使って利を以て之を示すなら,必ず来を持つでしょう.使君は其の無道を誅し,其才に施し,威徳を用い,既に襁負を行えば而して至るでしょう矣.兵は附に集め,江陵に南据し,襄陽を北守すれば,荊州八郡は[五]檄を伝えるだけで定めることができます.公路がやって来ると雖も,なにも為せないでしょう也.」劉表曰く:「善し.」そこで蒯越を使って人を遣わし宗賊の帥を誘ったところ,至る者十五人,皆これを斬って襲って其を取った.唯、江夏の賊の張虎、陳坐が兵を擁して襄陽城に拠ったため,劉表は蒯越と龐季を使って往かせて之を譬え,乃ち降した.江南は悉く平らげられた.諸守令は劉表の威名を聞き,多くが印綬を解いて去った.劉表は遂に襄陽に兵を理め,以て時変を観望した.

[一]王氏譜曰:「王叡は字を通曜といい,晋の太保王祥の伯父である也.」呉録に曰く:「王叡は見執されると,驚いて曰く:『我に何の罪ある?』孫堅曰く:『坐して知る所無し.』王叡は窮迫し,金を刮って之を飲み、死んだ.」

[二]宗党は共に賊を為した.

[三]宜城は,県であり,南郡に属する,本は鄢という,惠帝の三年に改名して宜城となった.

[四]傅子に曰く:「蒯越は字を異度といい,魏の太祖が荊州を平らげたとき,荀ケに書を送って曰く:『荊州を得たのは喜ばしくないが,異度を得たのは喜ばしい耳.』」

[五]漢官儀に曰く,荊州は長沙、零陵、桂陽、南陽﹑江(陵)[夏]、武陵、南郡、章陵等を管轄としている也.

袁術と其の従兄袁紹は関係が冷却した,そのため袁紹は劉表と相結び,故に袁術は孫堅と共に合従して劉表を襲った.劉表は敗れ,孫堅は遂に襄陽を圍んだ.劉表の将黄祖が救いに至ることになった際,孫堅は流箭の中る所と為って死んだ,余兵は退走した.[一]李傕等が長安に入るに及んで(192年),冬,劉表は使者を遣わして奉貢した.李傕は劉表を以て鎮南将軍、荊州牧と為し,封じて成武侯とし,仮節を与えて,以て己の援けと為した.

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 [一]典略に曰く:「劉表は夜、将の黄祖を遣わして潜み出兵させたところ,孫堅は逆に戦いを興し,黄祖は敗走して,峴山の中に竄んだ(潜んだ).孫堅は勝ちに乗じて夜に黄祖を追い,黄祖の部兵が竹木間に従って(竹木の間から狙って(繁みの中から狙って))孫堅を射て,これを殺した.」英雄記では:「劉表の将の呂介は兵を将いて山に縁して孫堅に向かい,孫堅は軽騎で山を尋ねて呂介を討った,呂介の下兵が射つと孫堅の頭に中り,時に応じて物故した.」とあり、此(典略)と同じでない.

建安元年(196年),驃騎将軍張済が関中から南陽に走って,因って穰城を攻めたところ,飛矢に中って死んだ.荊州の官属は皆賀した.劉表曰く:「張済は以て窮して来たのだ,主人(である私)に礼無く,交鋒するに至った,此(交戦して結果張済を戦死させたこと)は(荊州)牧の意ではない,(荊州)牧は弔を受けても賀は受けない也.」人を使って其のを納めさせたところは之を聞いて喜び,遂に皆服従した.[一]三年(198年),長沙太守張羨が零陵、桂陽三郡を率いて劉表に畔し,劉表は兵を遣わして攻め圍み,張羨を破って,之を平らげた.[二]是に於いて開土すること遂に広く,五領に南接し,[三]漢川に北拠し,地は方数千里,帯甲は十余万となった.初め,荊州は人情好擾しており,加えて四方は駭震し,寇賊は煽りあい,処処に麋沸した.劉表は招き誘って方を有し,威と懐を兼ね洽し(うるおし),其の姦猾宿賊は更為して效し用い,万里は肅清され,大小咸悦して之に服した.関西、兗﹑豫の学士で(荊州に)帰順する者は蓋し有ること千を数え,劉表は安んじ慰め賑わせ贍たため(治安を維持し民を落ち着かせることに努め、また物流を安定させて経済を盛んにしたために),皆資(財産)を得て全うした.遂に学校を起立し,博く儒術を求め,綦母闓、宋忠等[四]が撰んで五経章句を立てた,之を後定と謂う.民を愛し士を養い,従容として自ら保った.

[一]獻帝春秋に曰く:「張済はを引き連れて荊州に入った,賈詡は之に隨い劉表に帰順した.襄陽城守は受けず,張済は因って之を攻め,流矢の中る所と為った.張済の従子である張繍がを収めて退いた.劉表は自責し,以て己に賓主の礼が無かったとして,使者を遣わして張繍を招き,張繍は遂に襄陽に駐屯して,劉表の北藩と為った.」

[二]英雄記に曰く:「張羨は,南陽の人である.先に零陵、桂陽の太守を務めたことがあって,甚だ江湘の間の人心を得ていた.然るに性は屈彊にして不順,劉表は其の為人に薄くし,甚だ礼しなかった也.張羨は是に因って恨みを懐き,遂に劉表に畔したのである.」

[三]裴氏廣州記に云う:「大庾、始安、臨賀、桂陽、揭陽,是を五領と謂う.」ケ徳明南康記に曰く:「大庾が一也,桂陽甲騎が二也,九真都龐が三也.臨賀萌渚が四也,始安越城が五也.」

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[四]闓の音は開.

曹操と袁紹が官度に相持するに及んで,袁紹は人を遣わして助力を求め,劉表は之を許したが,至らなかった,また曹操を援護せず,且つ天下之変を観ようと欲した.従事中郎である南陽の韓嵩、[一]別駕の劉先は劉表に説いて[二]曰く:「今、豪桀は並び争い,両雄相持して,天子の重は将軍に在ります.若し為すこと有らんと欲するなら,起って其の敝に乗じるべきかと存じます也;其れ然らざるが如きなら,固より将に宜しく従う所を擇ばれんことを.どうしてよく甲十万を擁しながら,坐して(両者の)成敗を観て,援を求められて而も助ける能わず,賢を見て而も帰順するのを肯わないといったことをしているのです!此は両者の怨みが必ず将軍に集まることです,中立を得ないことを恐れます矣.曹操は用兵を善くし,且つ賢俊は之に多く帰順し,其の執るところ必ず袁紹を挙げるでしょう,然る後に兵を移して以て江漢に向かえば,将軍が防禦能わざるを恐れます也.今の勝計は,荊州を挙げて以て曹操に附くに若くは莫し,曹操は必ずや将軍を重徳とします,福祚を長く享けて,之を後嗣に垂れさせる,此が万全の策というものです也.」蒯越もまた之を勧めた.劉表は狐疑して断じず,乃ち韓嵩を遣わして曹操に詣でさせ,その虚実を観望させた.韓嵩に謂いて曰く:「今天下は未だ定まる所を知らない,而も曹操は天子を擁して許を都としている,君は其の釁を観て我に為してくれ.」韓嵩は対して曰く:「わたくし嵩が曹公の明を観るに,必ず天下に志を得るかと存じます.将軍は若し之に帰順しようと欲するなら,わたくし嵩を使いにするべきでしょう也;其の猶も豫ける如きならば(その考えを棚上げにして決断しないまま私を遣わすと言うのなら),嵩が京師に至り,天子が嵩に一職を仮せば,命を辞するなど獲られず(天子の辞令を拒めようはずもなく),則ち天子の臣と成り,将軍の故吏ということになります耳.在君為君,不復為将軍,死也(君に在っては君に為すわけですから,将軍の為に復す(戻る)ことはなく,これで私は死んだとお考え下さい(=貴方の下での私は死んだとお考え下さい,私はこれで(貴方の怒りを買い)死ぬことになるでしょう)).どうか惟れ重ねて思慮を加えてくださいますよう.」劉表は使いの役を憚っているのだとして,これを強いた.許に至ると,果たして韓嵩を拝して侍中とし、零陵太守とした.還るに及んで,盛んに朝廷と曹操之徳を称え,子を遣わして入侍させるよう勧めた.劉表は大いに怒り,以て懐貳を為しているとして,陳兵が韓嵩を詬めて(辱めて,罵って),将に之を斬らんとした.[三]韓嵩は顔色を変えることなく,徐に使いに行くに臨んだ時の言葉を陳述した.劉表の妻である蔡氏は韓嵩の賢を知っていたので,之を諌めて止めた.劉表は猶も怒っていたが,乃ち従行者を殺すことを考えた.(韓嵩に)它意が無いことを知ると,但、韓嵩を囚われとしただけで済ませた(而已).[四]

[一]先賢行状に曰く:「韓嵩は字を徳高といい,義陽の人である,若いころから学を好み,貧しくても操を改めなかった.」

[二]零陵先賢伝に曰く:「劉先は字を始宗という.博学強記で,黄老を尤も好み,漢家典故を習いそれに明るかった.」

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[三]詬は,罵である也.

[四]傅子曰く:「劉表の妻である蔡氏が之を諌めて曰く:『韓嵩は,楚国之望です,且つ其言は直で,之を誅するのは無辞というものです.』劉表は乃ち誅さず而して之を囚とした.」

六年(201年),劉備は袁紹から荊州に奔った,劉表は厚く相待し結んだが而して用いること能わず也.十三年,曹操は自ら将いて劉表を征さんとしたが,未だ至らないでいた.八月,劉表は背中に疽を発して卒した.[一]荊州に在ること幾二十年,家には余積無かった.

[一]代語に曰く「劉表死後八十余年,晋の太康の中,その墓が見つかった,劉表及び妻の身形は生きているようで,芬香が数里にかぐわった」也.

子は二人:劉gと,劉jである.劉表は初め劉gの容貌が自分に類していたため,甚だ之を愛した,後に其後妻蔡氏の姪を娶って劉jを為した,蔡氏は遂に劉jを愛して劉gを悪み,毀譽の言が日く劉表に聞こえた.劉表は後妻に寵耽し,ことごとに信じ受けた焉.また妻の弟である蔡瑁及び外甥である張允が並んで劉表の下で幸いを得ていたため,また劉jに睦まじかった.そのため劉gは自ら寧んぜず,嘗て琅邪の人諸葛亮に自安の術を謀った.諸葛亮は初め会おうとしなかった.後に乃ち共に高樓に升ると,因って梯子を取去るよう命じた上で,諸葛亮に謂いて曰く:「今日は上は天に至らず,下は地に至らず,言は子の口を出て而して吾の耳に入るのみです,これでも未だ(良計を)おっしゃっては下さらないのでしょうか?」【a】亮曰く:「君は申生が内に在って危うくなり,重耳が外に居って安んじたことを見なかったでしょうか乎?」[一]劉gは感悟してその意を伝えると,陰ながら出計を規した.劉表は将に江夏太守黄祖が孫権に殺される所となった事態に出会ったため,劉gは遂に其任の代わりを求めた.

[一]申生は,晋の獻公の太子である.麗姫に譖じられる所と為り,自縊して死んだ.重耳は,申生の弟である.麗姫の讒を懼れて,出奔した.獻公が卒すると,重耳は(晋に)入り,是が文公と為って,遂に霸主と為ったのである.左氏伝に見える.

a】後漢末に名士とされた楊震の『四知』の故事『天知る神知る我知る子知る、何ぞ知ることなしと謂うや』を踏まえて為された行為。「上は天に至らず」つまり天は知らない、「下は地に至らず」つまり地(神)も知らない、「言は子の口を出て吾の耳に入る」君の口から勝手に漏れた言葉が私の耳に勝手に入り込んできただけのこと、つまり二人の間で意志のやり取りがあった(通謀があった)わけではないことを意味する。(これで君知る吾知る=互いに合意しているじゃないかと言う非難、を回避している。)この場合は劉gも諸葛亮も互いに命がかかっているので他に漏れることがないことを暗に示唆している。実際にこうしたエピソードがあったのだとしたら、劉gには次代の君主となるに足るだけの機知と知性があったことが窺われる。しかしかなり芝居がかった演出であり、実際とは相当に異なっているのではないかとも考えられる。諸葛亮が絡むエピソードは総てこうした演出がかっていることに注意しておくとよい。

劉表の病が甚しくなるに及び,劉gは疾に帰省しようとした,素より慈孝であったのだ,しかし張允等は其の劉表と見えて父子相感じ,後を託す意志を(劉gに)更めようとするのではないかと恐れ,乃ち劉gに謂いて曰く:「将軍は君に江夏に臨んでそこを慰撫されることを命じられたのです,其の任は至重であります.今、と釈明してやって来られたわけですが,必ずや譴怒に見えることでしょう.傷親之歎きで,其の疾を重ね増させるとは,孝敬之道ではありませんぞ也.」

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遂に戸外に遏され,使いをやっても見えること出来なかった.劉gは流涕して去った,人聞而傷焉(人は皆これを聞いて傷ましいとした).遂に劉jを以て嗣と為し.劉jは(封爵は長子が継ぐことから)侯の印授を劉gに送った.劉gは怒り,之を地に投げつけた,将に喪を奔らせるに因って難を作らんとした.曹操軍が新野に至る事態となり,劉gは江南に走った.蒯越、韓嵩及び東曹掾の傅巽等は劉jに帰降を説いた.[一]劉j曰く:「今、諸君と全楚之地に拠り,先君之業を守り,以て天下を観望しようと思うが,何ゆえ不可と為すのか?」傅巽曰く:「逆順には大體が有ります,強弱には定埶が有ります.人臣を以って人主を拒むは,道に逆らうものです也;新造之楚を以って中国を禦がんとするは,必ずや危ういことです也;劉備を以って曹公に敵するは,当りません也.三者は皆短く,それらを以て王師之鋒に抗せんと欲するは,必亡の道でございます也.将軍は自らみて何か劉備に料するものあるでしょうか?」劉j曰:「若かざる也.」傅巽曰く:「誠に以て劉備をして曹公を禦ぐに不足ならば,則ち全楚と雖も自存する能わざることです也.誠に以て劉備をして曹公を禦ぐに足るならば,則ち劉備が将軍の下に為らざることです也.願わくば将軍、疑うこと勿れ.」

[一]傅子曰く:「傅巽は字を公悌という,D瑋博達,有知人監識.」

曹操軍が襄陽に到るに及び,劉jは州を挙げて降るを請い,劉備は夏口に奔った.[一]曹操は以て劉jをして青州刺史と為し,列侯に封じた.蒯越等侯となった者は十五人となった.乃ち韓嵩を捕囚の身から釈放し,其の名の重きを以って,甚だ礼を加えて待らせ,使って州人の優劣を條品させたところ,皆擢ばれて之に用いられた.以て韓嵩をして大鴻臚と為し,以て交友の礼をして之に待らせた.蒯越は光祿勳,劉(光)[先]は尚書令となった.初め,劉表の袁紹と結ぶや也,侍中従事のケ義が諌めたが聴かなかった.ケ義は疾を以って退き,終に劉表の世では仕えなかった,曹操は以て侍中と為した.其余りは多く大官に至った.

[一]夏口は,城である,今之鄂州である也.左伝で:「呉が楚を伐ったとき,楚は沈尹戌奔命於夏汭.」杜預注に曰く:「漢水の入(口)[江]である,今の夏口である也.」

曹操が後に赤壁で敗れると,[一]劉備は上表して劉gを荊州刺史とした.(劉gは)明年卒した.

[一]赤壁は,山名である也,今の鄂州蒲圻県に在る.

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論に曰く:袁紹は初め豪侠を以ってを得,遂に雄霸之図を懐いた,天下の勝兵と挙旗する者で,以て名を為すに仮しないものは莫かった.場に臨み敵と決するに及んで,則ち悍夫が命を争う様子であった;[一]深籌し高議するに,則ち智士は心傾けた.その盛んなる哉乎,其の資する所だったのだ也!韓非曰く:「佷剛してしかも和せず,愎過してしかも勝ちを好む,嫡子が軽んじられて庶子が重んじられる,斯く之を謂う、亡徴なりと.」[二]劉表は道するに相越せず,而して欲するに臥して天運を収めんとし,三分を擬蹤した,其は猶も人に於いて木が之を禺するようであった也.[三]

[一]悍は,勇である也.

[二]韓非の亡徴篇に曰く:「佷剛而不和,愎諌而好勝,不顧社稷而軽為信者,可亡也.」又曰:「太子軽,庶子伉,可亡也.」又曰:「太子卑而庶子尊,可亡也.」

[三]言うに其の木を刻んで人と為すが如く,知る所無き也.前書には:「有木禺龍一.」と言う表現がある。音義に曰く:「禺は,寄である也.木が龍に寄せた形をしているのである.」

贊に曰く:袁紹はその姿弘雅であり,劉表はまた長者であった.それぞれ河外に雄を称え,南夏に強した.魚儷漢舳,雲屯冀馬.[一][a]闚圖訊鼎,禋天して社を類した.[二]既に云う天工と,また人を資するに亮なりと.[三]彊きを矜するも少成であったのは,坐談して奚望していたからである.[四]皇を回らし嫡子を愛したため,身は穨え<潰え>業は喪われたのだ.[五]

[一]魚儷は猶も相次比する也.左伝は曰く:「奉公して魚麗之陳を為す.」前書音義に曰く:「舳は,船の後ろに柂を持つ処である也.」左伝は曰く:「冀之北土,馬之所生.(冀(州)の北の地は,馬の生まれる所である.)」

[a] 魚儷漢舳は劉表の勢力について,雲屯冀馬は袁紹の勢力について説明していると考えられる。前の分で先に袁紹を述べ後に劉表を述べているのにここで逆になっている理由が分からない。あるいは詩賦などを成すときの音調を整える規則などが関係しているのかも知れない。この後の文で「闚圖」「訊鼎」と続き、それぞれ劉表、袁紹に当てはめているようであるのでここで二人を語る順序が逆転していると判断できる。

[二]闚圖は謂うに若し劉歆が圖書して劉秀と改名したことをさす.訊鼎は謂うに楚子が王孫滿に鼎の軽重を問うたことをさす也.国語は曰く:「精意以享謂之禋.」爾雅に曰く:「是類是禡,

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師祭也.」社とは陰の類である,将に師を興さんとして,故に之を祭る.

[三]工は,官である也.亮は,信である也.尚書に曰く:「天工人其代之.」又曰く:「惟時亮天工.」

[四]九州春秋曰く:「曹公は烏桓を征伐するにあたり,諸将に曰く:『今深く入り遠征しようと思うが,万一劉表が劉備を使って許を襲ったなら,悔いても及ばないだろう也.』郭嘉曰く:『劉表は客と坐談する耳(のみ),自ずと知才は劉備を御するに不足している,重く之を任じて則ち制すること能わざるを恐れる,(また)之を軽んずれば則ち劉備は用を為さない.国を違えて遠征すると雖も,憂うること無からん矣.』公は遂に之を征した.」

[五],嫡である也.嬖は,愛である也.