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後漢書卷五十五

章帝八王伝第四十五

孝章皇帝には八子がいた:宋貴人は清河孝王慶を生み,梁貴人は和帝を生み,申貴人は済北恵王壽,河間孝王開を生んだ,残る四王の母の氏はどこにも載っていない.

千乗貞王伉は,建初四年に封じられた.和帝が即位すると,劉伉が長兄であるため,甚だ尊礼して見えた.立つこと十五年して薨じた.

子の寵が嗣いだ,一名に伏胡.永元七年,改国して楽安と名づけられた.立つこと二十八年して薨じた,是が夷王と為った.父子とも京師で薨じ,皆洛陽に葬られた.

子の鴻が嗣いだ.安帝が崩じると,始めて就国した.劉鴻は質帝を生んだ,質帝が立つと,梁太后が下詔して,楽安国土を以て卑溼し,租は鮮薄に委ねられた,改[封]して劉鴻を(封)勃海王とした.[一]立つこと二十六年して薨じた,是が孝王と為った.

[一]委は輸を委ねる謂う也.

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子が無かったため,太后が桓帝の弟で蠡吾侯の劉悝を立てて勃海王と為し,劉鴻の(嗣)[祀]を奉じさせた.[一]延熹八年,劉悝は謀って不道を為したため,有司が之を廃することを請うた.帝は忍びなく,乃ち貶して廮陶王と為し,食は一県とした.

[一]劉悝は,蠡吾侯翼の子で,河間王開の孫である也.

劉悝は後に中常侍王甫に因って復国を求め,謝礼として銭五千万を許した.帝は崩ずるに臨み,遺詔して復して勃海王と為した.劉悝は王甫の功非ざるを知り,銭を還謝することを肯んじなかった.王甫は怒り,陰にその過を求めた.初め,靈帝が迎えられ立つと,道路に流言があった、劉悝は立つことが出来なかったことを恨み,徴書を鈔しようと欲しているというのである.而して中常侍の鄭颯、[一]中黄門の董騰は並んで任侠であり剽軽に通じており,何度も劉悝と交わり通じた.[二]王甫は司察すると,以て姦有りと為して,司隸校尉段熲に密告した.熹平元年,遂に鄭颯を収めて北寺獄に送った.[三]尚書令廉忠を使って鄭颯等が劉悝を迎えて立たせようと謀ったとして,大逆不道であると誣奏させた.遂に詔あって冀州刺史に劉悝を収めさせて考實させ,また大鴻臚に持節させて宗正、廷尉とともに勃海に遣わし,劉悝に迫り責めた.劉悝は自殺した.妃妾十一人,子女七十人,伎女二十四人,皆獄中で死んだ.傅、相以下は,王を輔導する任にあったのに王に不忠をなさせたため,悉く誅に伏すことになった.劉悝が立つこと二十五年して国は除かれた.庶でこれを憐れまないものはなかった.

[一]音は立.

[二]剽は,疾である也.

[三]北寺は,獄名である,黄門署に属する.前書音義に曰く即ち若盧獄である也.

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平春悼王全は,[一]建初四年を以て封じられた.其年に薨じ,京師に葬られた.子は無く,国は除かれた.

[一]續漢志では平春は,県である,江夏郡に属する也.

清河孝王慶は,母が宋貴人である.貴人は,宋昌の八世の孫で,扶風平陵の人である也.[一]父の宋楊は,恭孝以て郷閭に称えられたが,州郡之命に応じなかった.宋楊の姑は即ち明徳馬后の外祖母である也.馬后は宋楊の二女が皆才色有ると聞くと,迎えて之に訓示した.永平の末,選ばれて太子の宮に入り,甚だ寵有った.肅宗が即位すると,並んで貴人と為った.建初三年,大貴人が劉慶を生んだ,明年すると立って皇太子と為った,宋楊は徴されて議郎と為り,賜されること甚だ渥であった.貴人は人事に長じており,長楽宮に供奉し,身は饋饌を執ったため,太后は之を憐れんだ.太后が崩じて後,竇皇后が寵されること盛んとなり,以て貴人姊妹をして並んで幸されたが,劉慶が太子と為ったため,心内で之を悪んだ.母の比陽主と謀って宋氏を陥れた.[二]外は兄弟に令して其の纖過を求めると,内は御者を使って(相手の)得失を偵察させ伺わせた.[三]後に掖庭門に於いて邀遮して貴人の書を得ると,云うに「病思生菟,令家求之(病気です生きている兎が欲しいと思っています,令しますので家で之を求めてください)」,因って誣言して蠱道祝詛を作ろうと欲しているとした,菟を以って厭勝之術を為そうとし,日夜毀譖したのだということであった,貴人母子は遂に漸見疏(段々疎んじられるようになった).

[一]宋昌は,文帝の時に中尉と為った,代邸の功で壯武侯に封じられた.

[二]比陽主は,東海王劉彊の娘である.

[三]偵は,候である也,音は丑政反.廣雅に曰く:「偵は,問うである也.」

劉慶は承祿観に出居した,数月すると,竇后は掖庭令を諷じて前の事を誣奏させ,驗實を加えるよう請うた.七年,帝は遂に太子慶を廃して而皇

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太子にを立てた.は,梁貴人の子である也.乃ち下詔して曰く:「皇太子は失惑にして無常之性を有する,爰自孩乳,今益章に至って,其母の凶悪之風を恐襲しており,以って宗廟を奉じ,天下の主と為すにはるに不可とするものである.大義、親を滅す,況んや降退において乎![一]今、劉慶を廃して清河王とする.皇子保育皇后,承訓懐,導達善性,将に其の器の成らんとする.蓋し庶子の慈母,終身之恩有る[二]豈若嫡后事正義明哉!今以てをして皇太子とする.」遂に貴人姊妹を出して丙舍に置き,小黄門蔡倫を使って之を考實させた,皆、諷旨を承ると其の事を傅致し,[三]乃ち載せて暴室に送った.二貴人は同時に薬を飲んで自殺した.[四]帝は猶も之を傷み,掖庭令にさせて樊濯聚に葬った.[五]是に於いて宋楊は免じられ本郡に帰った.郡県は事に因って復た之を捕えて繫いだ,宋楊の友人で前の懐の県令であった山陽出身の張峻、左馮翊で沛国出身の劉均等が釈放して貰おうと奔走したため,罪を免れることができた.宋楊は志を失って憔悴し,家で卒した.劉慶は時に幼いと雖も,嫌避け禍畏れることを知っており,(話題が)宋氏に及んでも敢えて言わなかったため,帝は更に之を憐んだ皇后は令して衣服を太子齊等と與<とも>にした.太子は特に劉慶を親愛し,入るに則ち共室し,出るに則ち同輿した.太子が即位するに及び,是が和帝と為ったが,劉慶を尤渥に待ち,諸王でこのようなことをされるものは誰もなく,常に私事を共に議した.

[一]左伝,石碏が其の子を殺したことを厚としている,君子は曰く:「石碏は純臣である也,州吁を悪んで而して厚預す焉.大義、親を滅す,其は是を謂うのである乎!」

[二]儀礼喪服に曰く:「慈母は母の如し.」謂うに妾は子の無い母であり,父が妾に命じて之を養わせる.故に曰く慈母と,母の如き者と,父の命を貴ぶ也.

[三]傅は曰附を読む.

[四]續漢志に曰く「暴室は,署名である,主に婦人で疾病すると中にゆく」也.

[五]洛陽城北に在る也.

後に劉慶は長を以て,丙舍に別居した.永元四年,帝は北宮章徳殿に移幸し,白虎観で講じられると,劉慶は入省して宿止するを得た.帝は

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将に竇氏を誅すべく,外戚伝を得ようと欲したが,[一]左右を懼れて敢えて使わなかった,乃ち劉慶に令して千乗を私従させたが王は求めると,夜独り之に内した;また、劉慶に令して中常侍鄭に語を伝え故事を求め探索させた.[二]大将軍竇憲が誅されるに及び,劉慶は居邸を出て,奴婢三百人を賜った,輿馬、銭帛、帷帳、珍寶、玩好で其の第が充仞した,また中傅以下左右に至るまで銭帛が賜られたがそれにはそれぞれ差が有った.[三]

[一]前書の外戚伝である也.

[二]謂うに文帝が薄昭を誅し,武帝が竇嬰を誅した故事である.

[三]前書音義に曰く:「中傅は,宦者である也.」

劉慶は多く病を被り,或時不安になった,帝は朝な夕なに問訊し,膳薬を進めたが,所以垂意甚備(意を垂れて甚だ備えよとの所以であった).劉慶は小心で恭孝であり,自ら廃黜を以って,尤畏しており事<つか>えるに法を慎んだ.毎朝陵廟に謁すると,常に夜分は厳装し,衣冠して(夜が)明けるのを待った;[一]約官属(自分の官属を約し),不得與諸王車騎競驅(諸王の車騎とその驅を競う得なかった).常に貴人を以って葬礼し闕に有った,窺う毎に感恨し,四節に至ると臘に伏した,輒ち私室に於いて祭ったのである.竇氏が誅されて後,始め乳母を使って城北に於いて遙祠させた.竇太后が崩ずるに及び,劉慶は上して哀を致したいと求めたため,帝は之を許し,太官に詔して四時に祭具を給わった.劉慶は垂涕すると曰く:「生まれてから(母の)供養を獲なかったと雖も,終に祭祀を奉じるを得ました,私の願い足ることになりました矣.」祠堂を作ることを求めようと欲したが,恐有自同恭懐梁后之嫌(これが恭懐梁后之嫌を買うことになるのではと恐れて),遂に敢えて言わなかった.[二]常に泣いて左右を向き,以って沒齒之恨を為した.[三]後に上言するに、外祖母の王年が老いて,病に憂えていることに遭ったため,下土無毉薬,願わくば洛陽に詣でて疾を療養することを乞いたいとした.是に於いて詔あって宋氏は悉く京師に帰ることとなり,劉慶の舅の宋衍、宋俊、宋蓋、宋暹等は除かれて皆郎と為った.

[一]分,半也.

[二]恭懐梁后は,和帝の母の梁貴人である.

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[三]沒は,終である;齒は,年である也.

十五年,有司が日食を以って陰盛んなるゆえ,諸王侯を遣わして国に就けるよう奏上した.詔に曰く:「甲子之異は,責は(朕)一人にある由.諸王は幼く稚<いとけな>い,早く離せば顧みて復してしまうもの,弱冠ゆえ相育んでいるが,[一]常に蓼莪、凱風之哀を有するからである.[二]選懦之恩にすぎず,国典に非ざるを知っているが,且つ復須く留めることにする.」[三]冬に至って,章陵に従祠したが,詔で諸王に羽林騎各四十人を仮した.後に中傅である訢が私為して千余万を盗んで臧した,詔あって使いあり案じて之を理めさせると,併せて劉慶についてその不挙之状(訢が盗みをしたことを何故挙奏しなかったのか)を責めた,劉慶は曰く:「訢は師傅之尊き以って,聖朝より選ばれたものです,臣は愚かでありまして唯、言うことに従い事えては聴きいれることを知るのみです,Y察する所を甚だ有するものではないのです.」帝は其の対を嘉し,悉く訢が臧していた財を以って劉慶に賜った.帝が崩ずるに及ぶと,劉慶は前殿で号泣し,嘔血すること数升,因って以って発病した.

[一]詩の小雅に曰く:「父兮生我,母兮鞠我,顧我復我,出入腹我.(父や我を生む,母我を鞠す,我を顧み我を復し,出入するに我を腹に.)」

[二]詩の小雅に曰く:「蓼蓼者莪,匪莪伊蒿.哀哀父母,生我劬労.(蓼蓼たるは莪か,莪に匪ず蒿を伊す.哀哀なるは父母よ,我を生み劬労す.」詩の国風に曰く;「凱風自南,吹彼棘心.棘心夭夭,母氏劬労.(凱風は南より,彼の棘心に吹きつける.棘心夭夭,母氏は劬労する.)」

[三]選懦は,仁弱慈戀不決之意である也.懦の音は仁兗反.東観記は「須留」を「宿留」と作る.

明年して,諸王が国に就くと,ケ太后は特聴して清河王に中尉、内史を置かせ,什物を賜ったがそれは皆御物として上されたものを取って輿に乗せたのである,宋衍等を以って並んで清河(国の)中大夫と為した.[一]劉慶が国に到ると,令を下した:「寡人は深宮に於いて生まれ,朝廷に於いて長じた,[二]明主を仰ぎ恃んで,垂拱受成したのである.[三]既に以って(明主の)祐けは薄いため,早く離れて復することを顧みている,大憂に遭うに属し,[四]悲懐感傷している.大国となって恩を蒙ったが,職は惟うに藩輔たること(で重大なことであるのに),新たに京師を去って,憂心煢煢とし,夙夜屏営している,(こんなふうで)未だ立つ所を知らない.[五]蓋し聞く、智は独りで理めるものではなく,必ずや須く賢を明らかとするものだとか.今、官属並びに爵任に居るものは,失うも得るも是均しい,庶望するに(皆が望めば)上は策戒に遵い,下は悔咎を免れる.其の非枉をY督し,典禁を明察し,孤<わたし>に令して怠慢之罪を獲ることの無いようにしてほしい焉.」

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[一]續漢(書)[志]は曰く:「中大夫は,秩六百石である,定員は無い,職掌は王使を奉じて京師に至ることである.」

[二]魯の哀公が孔子に言って曰く:「寡人は深宮之中に於いて生まれ,婦人之手に於いて長じた.」事は孫卿子に見える也.

[三]垂拱は言うに無為ということである也.尚書は曰く:「垂拱仰成.」

[四]属は,近いである.

[五]煢煢は,孤特である也.屏営は,彷徨である也.

ケ太后は殤帝を以って襁抱すると,遠慮不虞(遠く慮って不虞し/不虞を遠く慮り),[一]劉慶の長子の劉祐を留めると嫡母の耿姫と清河邸に居った.秋に至り,帝が崩じられると,劉祐を立てて後嗣と為した,是が安帝と為ったのである.太后は中黄門を使って耿姫を送らせ帰国させた.

[一]襁は鋤蛯以って之を為す,即ち今の小兒の繃である也.繃の音は必衡反.

帝は母である左姫が生んだ所である,(母の左姫は)字を小娥といい,小娥の姊は字を大娥といい,犍為の人である也.初め,伯父の左聖が妖言に坐して誅に伏すと,家属は沒官となり(官に没収されたものとして取り扱われ),二娥は数歳で掖庭に入ることになった,長ずるに及んで,並んで才色を有した.小娥は史書を善くし,辞賦を喜んだ.和帝が諸王宮人に賜ると,因って清河第に入った.劉慶は初め其の美を聞くと,傅母に賞して(懸賞して)以って之を求めた.後に及んで幸愛極めて盛んなること,姫妾で比するものは莫かった.姊妹はどちらも卒すると,京師に於いて葬られた.

劉慶は立つこと凡そ二十五年して,乃ち帰国した.其年病篤く,宋衍等に謂いて曰く:「清河は埤薄であります,[一]欲乞骸骨於貴人傍下棺而已(骸骨を乞い、貴人傍に於いて棺を下し而して已みたいと欲します).朝廷は大恩です,猶も当に祠室を有するに応じて,庶母子を并わせ食させてくださるはず,魂靈が庇に依る所有すれば,死して復恨みましょうか?」乃ち太后に上書して曰く:「臣は国土を下溼し,骸骨を乞いたいと願います,樊濯に於いて貴人に従って下りますれば,歿すると雖も且つは不朽なるでしょう矣.今、口も目も尚も能く言い視るに及んで,冒昧干請(請願するに蒙昧を冒す次第です).命は呼吸に在ります,願わくば哀憐を蒙りたいと思います.」遂に薨じた,年二十九.司空に持節させて宗正とともに遣わして奉じて弔祭した;また長楽

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謁者僕射、中謁者二人を使って副とし喪事を護らせた;龍旂九旒,虎賁百人を賜り,儀は東海恭王と比肩した.[二]太后は掖庭丞を使って左姫の喪を送り,王と廣丘に合葬した.

[一]埤の音は婢.

[二]旂は九旒を有する,天子の制である也.恭王劉彊が葬られると,殊礼を以て,升龍、旄頭、鸞輅、龍旂,虎賁百人が贈られた.

子の愍王虎威が嗣いだ.永初元年して,太后が宋衍を封じて盛郷侯と為し,清河を分けて二国とし,劉慶の少子である劉常保を封じて廣川王とし,子女十一人を皆郷公主とし,食邑を奉られた.明年,常保は薨じた,子は無く,国は除かれた.

虎威は立つこと三年して薨じた,亦子は無かった.ケ太后は復た楽安王劉寵の子の劉延平を立てて清河王とした,是が恭王と為った.[一]

[一]劉寵は即ち千乗王伉の子である.

太后が崩じると,有司が上言した:「清河孝王は至徳淳懿,明聖を載せ育み,天を承って祚を奉り,郊廟の主と為られました.漢興り,高皇帝尊父が太上皇と為り,宣帝は父を号されて皇考と為し,[一]昭穆に序して,園邑を置かれました.(太)[大]宗之義では,旧章は忘れないとのこと.[二]宜しく尊号を上して曰く孝徳皇とされますよう,皇妣左氏は曰く孝徳后でありますので,孝徳皇母宋貴人は追謚して曰く敬隠后とされますよう.」乃ち高廟に告祠し,司徒に持節させて使者として大鴻臚とともに策書璽綬[之]を清河に奉り,追って尊号を上らせた;また中常侍を遣わして太牢祠典を奉り,礼儀を侍中劉珍等及び宗室列侯に護らせ皆往って事に会った.陵を尊んで曰く甘陵とし,廟は曰く昭廟とし,令、丞を置き,兵車を周に設けて,章陵と比肩させた.[三]復廣川を以って清河国に益した.耿姫を尊んで甘陵大貴人と為した.また女弟の侍男を封じて涅陽長公主と為し,別得は舞陰長公主と為し,久長は濮陽長公主と為し,直得は平氏長公主となした.余りの七主は並んで早卒した,故に進爵には及ばなかったのである.(さらに)敬隠后の女

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弟である小貴人に印綬を追贈し,謚を追封し宋楊は当陽穆侯と為った.[四]劉楊の四子は皆列侯と為った,食邑は各五千戸であった.宋氏は卿、校、侍中、大夫、謁者、郎吏十余人を為した.孝徳后の異母弟の次及び達は二人を生み,諸子の九人は,皆(どれも)清河国郎中と為った.耿貴人は,牟平侯耿舒の孫である也.貴人の兄の耿寶は,襲封して牟平侯となった.帝は耿寶を以って嫡舅としたため,寵遇すること甚だ渥であった,位は大将軍に至った,事は已に耿舒伝に見える.

[一]宣帝の父は諱が進である,武帝の時に史皇孫を号した,戻太子の事に坐して害に遇った.帝が即位されると,追尊して皇考とし,廟を立てた.

[二](太)[大]宗謂継が嗣いだ也.左伝季桓子の曰「旧章不可忘」也.

[]皇考南頓君陵.

[]当陽,今荊州也.

[延平は]立つこと三十五年して薨じた,子の劉蒜が嗣いだ帝が崩じられたため,劉蒜は徴されて京師に詣で,将議為嗣(後嗣を誰にするかの議を将いた).大将軍梁冀と梁太后が質帝を立てるにあい,罷めて帰国した.

劉蒜は人となり厳重であり,動止するに度有った,朝臣である太尉の李固等で帰心しないものは莫かった焉.初め,中常侍曹騰が劉蒜に詣でると,劉蒜は礼を為さなかったため,宦者は此れ由に之を悪んだ.帝が崩ずるに及んで,公卿は皆正議して劉蒜を立てようとしたが,曹騰は梁冀にそれを聴かないよう説いた,遂に桓帝を立てた.その語は李固伝に在る.劉蒜は此れ由に罪を得た.

建和元年,甘陵の人劉文と南郡の妖賊劉鮪が交わり通じ,訛言するに清河王こそ当に天子を(承)統すべきであるとして,共に劉蒜を立てようと欲した.事が発覚し,劉文等は遂に清河相謝ロに劫され,将に王宮司馬門に至らんとした,[一]曰く:「当に王を立てて天子と為さば,謝ロは公と為るのだぞ.」謝ロは聴かなかったため,之を罵

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しり,劉文は因って謝ロを刺殺した.是に於いて劉文、劉鮪を捕らえ之を誅した.有司が因って劉蒜を弾劾して奏上したため,連座して貶爵され尉氏侯と為り,桂陽に徙されて,自殺した.立つこと三年して,国は絶えた.

[一]帝紀は「謝」を「射」と造る,蓋し紀と伝と同じでない.

梁冀は清河の名を悪,明年して,乃ち改めて甘陵と為した.梁太后は安平孝王の子である經侯劉理を立てて甘陵王とし,[一]孝徳皇祀を奉じさせた,是が威王と為った.

[一]安平王徳は,河間王開の子である.

劉理は立つこと二十五年して薨じた,子の貞王定が嗣いだ

劉定は立つこと四年して薨じた,子の獻王忠が嗣いだ.黄巾賊が起こり,劉忠は国人に執らえられる所と為ったが,既而して之を釈放された.靈帝は親親故を以て,詔して劉忠の国を復した.劉忠は立つこと十三年して薨じた,嗣子は黄巾に害される所と為った,建安十一年,後胤が無いことから,国は除かれた.

済北恵王壽は,母が申貴人で,潁川の人である也,世吏二千石(の家系)であった.貴人は年十三で,掖庭に入った.劉壽は永元二年を以て封じられ,太山郡を分けて国と為された.和帝は肅宗の故事を遵守し,兄弟は皆京師に留まり,恩寵は篤く密であった.有司が諸王を遣わして帰藩させることを請うたが,忍びなくて之を許さなかった,帝が崩じるに及び,乃ち就国した.永初元年,ケ太后が劉壽の舅である申轉を封じて新亭侯と為した.劉壽は立つこと三十一年して薨じた.永初より已後,戎狄は叛亂し,国は用いるものに不足した,始め封じた王が薨じると,減賻すること銭千万,布万匹;嗣いだ王が薨じると,銭は五百万,布五

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千匹.時に劉壽のみが最も親を尊ばれ,特に賻銭三千万,布三万匹であった.

子の節王登が嗣いだ.永寧元年,劉登の弟五人を封じて郷侯と為し,皆太山邑を別に食とした.

劉登は立つこと十五年して薨じた,子の哀王多が嗣いだ

劉多は立つこと三年して薨じた,子は無かった.永和四年,戰郷侯安国を立てて済北王とし,是が釐王と為った.[一]

[一]釐音僖也.

劉安国は立つこと(十)[七]年して薨じた,子の孝王次が嗣いだ.本初元年,劉次の弟劉猛を封じて亭侯とした.劉次は九歳で父を喪ったが,至孝であった.建和元年,梁太后が下詔して曰く:「済北王次は幼年を以て藩を守り,躬履孝道,父が沒すると哀慟し,焦毀して礼を過ぎ,草廬土席(に身を置いた),衰杖在身,頭不枇沐,體生瘡腫.諒闇して已来二十八月,諸国から憂を有するとは,未聞のことである也,朝廷は甚だ焉を嘉する.書に云わないだろうか乎:『用徳章厥善.』[一]詩に云う:『孝子不匱,永錫爾類.』[二]今、劉次の封を増して五千戸とし,其の土宇を広げて,以て孝子を慰めて惻隠の労をいたわる.」

[一]尚書盤庚の辞である也.以て道徳をして之を明らかとし,使って競わせて善を為させる言う也.

[二]詩の大雅である也.匱は,竭である也.類は,善である也.永は,長である也.言うに、孝子之行は,無有匱竭,長賜與汝之族類,教道天下.

劉次は立つこと[十]七年して薨じた,子の鸞が嗣いだ.劉鸞が薨じると,子の政が嗣いだ.劉政が薨じると,子は無く,建安十一年,国は除かれた.

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河間孝王開,永元二年を以て封じられ,楽成、勃海、涿郡を分けて国とした.延平元年に就国した.劉開は法度を奉遵し,吏人は之を敬った.永寧元年,ケ太后が劉開の子の翼を封じて平原王とし,懐王勝の祀を奉じさせた;[一]子の徳は安平王と為り,楽成王黨の祀を奉じた.[二]

[一]勝は,和帝の子である.

[二]黨は,明帝の子である也.

劉開は立つこと四十二年して薨じ,子の恵王政が嗣いだ.劉政はア佷,法憲を奉らなかった.(そのため案じた)順帝は侍御史で呉郡の沈景が有彊にして能く称えられていることを以って,故に擢んで河間相と為した.沈景は国に到って王に拝謁したが,王は服(装)を正さず,箕踞して殿上にあった.侍郎が贊拝したが,沈景は対峙したまま礼を為さなかった.[一](そのうえで)王の所在を問うた,虎賁曰く:「是は王に非ざるというのですか邪?」沈景曰く:「(王の宰相役である国相が赴任してきて行う拝謁の儀にあたって)王が服さないなど,常人何別!(そんなことはあるはずもない別人にちがいないでしょう!)今相が王に拝謁するのです,豈謁無礼者邪!(どうして無礼者に拝謁するということがありえましょうか!)」王はすると而して更服した,沈景は然る後に拝した.宮門外に出て住むと,請王傅責之曰(王の傅役たちを請うと之を責めて曰く):「前に京師を出発したおり,陛下は受詔に見えられまして,王を以って不恭とみなし,使って檢督するようおおせられました.(見たところ)諸君は爵祿を空受しており(無駄に受けており),而して訓導之義も無いようす.」因って奏して罪を治めた.(返された)詔書は劉政を譲り而して傅を詰責していた.沈景は因って諸姦人を捕らえると上して其罪を案じ,[二]尤悪<ゆうあく>なる者(最悪な者)数十人を殺戮し,冤罪となっていた百余人を獄から出した.劉政は遂に改節を為すと,過を悔い自ずと(身を)脩めるようになった.陽嘉元年,劉政の弟十三人を封じ皆亭侯と為した.

[一]峙は,立つことである也.

[二]上は,奏上するである也,音市丈反.

劉政は立つこと十年して薨じた,子の貞王建が嗣いだ.劉建は立つこと十年して薨じた,子の安王利が嗣いだ.劉利は立つこと二十八年して薨じた,子の陔が嗣いだ.劉陔が

-1809-

立つこと四十一年,魏が受禪したため,以て崇徳侯と為った.

蠡吾侯劉翼は,元初六年にケ太后が済北、河間王諸子を徴して京師にもうでさせたおり,劉翼の美と儀容を奇とし,故に以て平原懐王の後とした焉.[一]京師に留まり在った.歳余し,太后が崩じられた.安帝の乳母王聖と中常侍江京等がケ騭兄弟及び劉翼を譖して,云うに中大夫趙王と謀圖して不軌し,神器を闚覦して,大逆の心を懐いていると.[二]そのため貶められて都郷侯となり,遣わされて河間に帰った.是に於いて劉翼は賓客に謝ると,門を閉じて自ら処した.永建五年,父の劉開が上書して,蠡吾県を分けて以て劉翼を封じたいと願うと,順帝は之に従った.

[一]平原王得には子が無く,故に之を立てたのである也.

[二]神器は帝位に喩えられる也.老子曰く:「天下神器,為すべからざる也.」

劉翼が卒すると,子の劉志が嗣いだ,大将軍梁冀に立てられる所となった,是が桓帝と為ったのである.梁太后が詔して河間孝王を追尊して孝穆皇とし,夫人趙氏を曰く孝穆后とした,廟は曰く清廟,陵は曰く楽成陵;蠡吾の先侯は曰く孝崇皇,廟は曰く烈廟,陵は曰く博陵である.皆令、丞を置き,司徒に持節させて使いとし策書、璽綬を奉じた,祠は太牢とした.建和二年,帝の(兄)[弟]で都郷侯の劉碩を更封して平原王とし,博陵に留めて,劉翼の後を奉じさせた.劉翼の夫人馬氏を尊んで孝崇博園貴人とし,涿郡の良郷、故安,河間の蠡吾三県を以って湯沐邑とした.劉碩は酒を嗜み,過失が多かったため,帝は馬貴人に命じて王家の事を領させた.建安十一年,国は除かれた.

解瀆亭侯淑は,河間孝王子を以って封じられた.劉淑が卒すると,子の(長)[萇]が嗣いだ.劉(長)[萇]が卒すると,子の宏が嗣いだ,大将軍竇武に立てられる所と為った,是が靈帝と為ったのである.建寧元年,竇太后が詔して皇祖劉淑を追尊して孝元皇とし,夫人夏氏は曰く孝元后,陵は曰く敦陵,廟は曰く靖廟;皇考長は孝仁皇となり,夫人董氏は慎園貴人となった,陵は曰く慎陵,廟は曰く奐廟.皆令、丞を置き,

-1810-

司徒に持節させて使いとし之河間に策書、璽綬を奉じさせた,祠は以て太牢とし,常に歳時には中常侍に持節させて遣わし河間に奉祠させた.

熹平三年,使者を使って河間安王利の子の康を拝して済南王とし,孝仁皇の祀を奉じさせた.

劉康が薨じると,子の劉贇が嗣いだ,建安十二年,黄巾賊に害される所となった.子の劉開が嗣いだ,立つこと十三年して,魏が受禪したため,以て崇徳侯と為った.

城陽懐王淑は,永元二年を以って済陰を分けて国とされた.立つこと五年して薨じた,京師に葬られた.子は無く,国は除かれ,済陰に併せられ還った.

廣宗殤王万歳は,永元五年を以って封じられ,鉅鹿を分けて国とされた.其年に薨じ,京師に葬られた.子は無く,国は除かれ,鉅鹿を還并した.

平原懐王勝は,和帝の長子である也.母氏は載っていない.若いころから痼疾有った,延平元年に封じられた.立つこと八年して薨じた,京師に葬られた.子は無く,ケ太后が楽安夷王寵の子の劉得を立てて平原王とし,劉勝の後を奉じさせた,是が哀王と為った.

劉得は立つこと六年して薨じた,子は無かったため,永寧元年,太后がまた河間王開の子で都郷侯の劉翼を立てて平原王を嗣がせた.安帝が之を廃し,国は除かれた.

-1811-

論に曰く:伝は称える、呉子夷昧は,甚徳にして而して度なる,呉国に有る者は,必ず其の子孫であると.[一]章帝は長者,事え従うに敦く厚し,漢室を継祀するや,其の苗裔を咸じさせた,古人これ言う信なる哉!

[一]夷昧は,呉君の名である.左伝は屈狐庸が趙文子に謂いて曰く:「若し天の啓く所,其在今嗣君乎?甚徳にして而して度なる,徳は人を失わず,度は事を失わず,呉国に有る者は,必ずや此君の子孫であろう也.」杜預は注して云う:「嗣君とは夷昧を謂う也.」

贊に曰く:章祚は已まず(章帝の祚は已まない),本枝は流祉す.質は伉孫を惟う,安んぞ亦た慶子においてや.(質帝は劉伉の孫々たるを惟う,劉慶の子らについても亦惟うことがあろう.)河間は福多し,桓、靈が(皇統を)承祀したのだから.済北は驕り無し,皇恩は寵饒であった.平原は痼を抱えた,三王が朝に薨じたのだから.[一]振振なるかな子孫,或いは秀れ或いは苗たり.[二]

[一]平春王全、廣宗王万歳、城陽王淑は京師で並び薨じた也.

[二]振振は,仁の厚貌である也,音之人反.詩の国風に曰く:「宜しき爾、子孫振振兮.」論語に曰く:「苗而不秀者有矣夫,秀而不實者有矣夫!」苗は早夭を謂う,秀は成長を謂う也.