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後漢書卷七十二

董卓列伝第六十二

董卓は字を仲穎といい,[一]隴西臨洮の人である.性は麤猛で権謀が有った.若い頃羌中に遊び,豪帥と相結んだ.後に帰って野を耕した,諸豪帥で来従するものがあると,董卓は耕牛を殺して,宴を開き楽しんだため,豪帥はその意気を感じ,帰ると相斂して雑畜千余頭を得て以てこれを遣わした,これより健侠を以て名を知られるようになった.州の兵馬掾となり,常に塞下を守った.[二]董卓は膂力人に優れ,雙帯の両側に弓袋をつけ,左右に馳射し,[三]羌胡の畏れるところとなった.

[一]董卓別伝に曰く:「董卓の父、君雅は潁川輪氏の尉となった,董卓及び弟旻を(その地で)生んだので,故に董卓は字を仲穎といい,旻は字を叔穎という.」

[二]文に曰く:「徼は,巡である.」前書に曰く:「中尉は京師を巡徼<じゅんげき>する.」音義に曰く:「所謂、遊徼は,盜賊に備えるなり.」

[三]方言に曰く:「つまり蔵箭これを謂う、服と,蔵弓これを謂う、鞬と.」左氏伝に云う:「右は櫜鞬に属する.」

桓帝末,六郡良家子を以て羽林郎とした,中郎将張奐に従い軍司馬となり,漢陽に叛羌を共撃し,これを破って,郎中を拝命し,縑九千匹を下賜された.董卓は次のように言った:「為者則己,有者則士.(為したのは私だが、それを支えたのは君たち士だ)」[一]そこで吏兵に(賜ったものを)悉く分興し,手元に留めるところは無かった.稍<やや>して西域戊己校尉に官を遷り,事に坐して免官となった.後に并州刺史となり,さらに河東太守となった.

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[一]功者として評価されたのは己と雖も,その功績と共に有ったのはつまり君たち(士)なのだ.

中平元年,東中郎将を拝命し,持節を授かって,盧植に代わって張角を下曲陽で撃ったが,軍は敗れて罪に抵触した.其冬,北地の先零羌と枹罕河関の盜が反って叛き,遂に湟中義従胡の北宮伯玉、李文侯を将軍として共に立て,護羌校尉泠徴を殺した.伯玉等は金城出身の辺章、韓遂を劫致し,[一]使って專ら軍政を任せ,金城太守陳懿を共に殺し,州郡を攻焼した.明くる年春,将いる<ひきいる>は万騎を数え、三輔に入寇し,園陵を侵逼し,宦官を誅することに托して名を為した.詔があり、董卓をもって中郎将とし,(左)車騎将軍の皇甫嵩の副(左)としてこれを征した.皇甫嵩は功績が無いことを理由に免帰させられ,而して辺章、韓遂等は大いに盛んとなった.朝廷は再び司空張温を車騎将軍とし,仮節を与え,執金吾の袁滂を副とした.[二]董卓は破虜将軍となり,盪寇将軍の周慎と並んで張温の指揮下に入った.諸郡の兵を併せると騎合わせて十余万,美陽に駐屯し以って園陵からの攻撃に備えた[三].辺章、韓遂もまた、兵を美陽に進めた.張温、董卓は戦いを興したが,(すなわち状況は)不利となった.十一月,夜、流星が火のように流れた,その光長は十余丈,辺章、韓遂の軍営の中を照らし,驢馬が尽鳴した(激しく嘶いた).賊はこれを不祥として,金城に帰ろうと欲した.董卓はこれを聞いて喜び,明くる日,乃ち右扶風の鮑鴻らと兵を併せて攻し,これを大破,斬首すること数千級となった.辺章、韓遂らは中に敗走し,[四]張温は周慎ら将三万人を遣わしてこれを追討した.張温の参軍事である孫堅[五]は周慎に説いた:「賊の城中には穀物が無く,当に糧食を外から伝えています.私に万人を与えて下さい、その運道を断ってみせます,(そこで)将軍が大兵をもって後続して下されば,賊は必ずや困乏し敢えて戦おうとはしないでしょう.若し走って羌中に入れば,(私と貴方で)力を合わせてこれを討つことになりますから(合撃の形勢となるため),涼州は平定することができます.」周慎は従わず,軍を率いて中城を囲んだ.辺章、韓遂は葵園狹に分屯し,反って周慎の運道を断った.周慎は懼れて,乃ち車を重ね而して退いた.張温は時にまた董卓を使い、兵三万を将いらせて先零羌を討たせた,董卓は望垣の北で[六]羌胡に囲まれる所となり,糧食は乏しく絶えて,進退は逼急した.そこで水中を渡る所で偽って堰立て,以て魚を捕らえると見せかけて,而して堰下を潜徒し、軍を過ごした(通過させた).[七]比賊はこれを追ったが,堰を決壊して流れた水は已に深く,渡ることが出来なかった.時に軍は敗れて退いたが,ただ董卓のみが師を全うして還った,扶風に駐屯し,侯に封じられた,邑は千[八]

[一]獻帝春秋に曰く:「涼州義従の宋建、王国らが反乱した.(彼らは)金城郡を詐って降し,涼州の大人である故新安令の辺允、従事の韓約を求めて見<まみ>えた.韓約は見えず,太守陳懿はこれを勧めて(王国に)使いさせた[往],王国等はそこに便乗して韓約ら数十人を人質に攫った.金城が不穏になったので,太守陳懿は脱出したが,王国等は扶けあって護羌(も)乱に到り,これ(太守)を殺し,それから韓約、辺允等を説得した.隴西は愛憎を持って布を露わし,韓約、辺允の名を冠して賊となったので,州は韓約、辺允をそれぞれ千侯の賞金首にした.韓約、辺允は賞金首になってしまったので,『約』を改めて『遂』とし,『允』を改めて『章』とした.」

[二]袁宏の漢紀に曰く:「袁滂は字を公熙といい.純素寡欲で,終に人の短所を言うことはなかった.当時は権寵の盛りにあって,或いは同異を以て禍を致すことがあったが,袁滂は朝廷で独り中立を保ち,そのため愛憎は波及しなかった.」

[三]美陽の故城は今の雍州武功県の北にある.

[四]中は,県である,金城郡に属する,故城は今の蘭州金城県の中にある.

[五]孫堅は字を文台といい,郡富春の人で,即ち孫権の父である.志に見える.

[六]望垣は,県の名で,天水郡に属する.

[七]続漢書では「W」の字は「堰」と作る,意味は同じ,但し異体字である.

[八],県の名である,故城は今の雍州武功県にある.字は或いは「邰」と作る,音は台.

三年春,使者を遣わし持節を与えて長安で張温を太尉に就けた.三公が在外するのは,この張温に始まる.其冬,張温を呼び出して京師に還した,韓遂は乃ち辺章と(組んで)伯玉、文侯を殺害し,兵を擁して十余万となり,進んで隴西を囲んだ.太守李相は背き,韓遂に与して連和し,涼州刺史の耿鄙を共に殺した.而して耿鄙の司馬である扶風の馬騰が,[一]また兵を擁して反叛し,また漢陽の王国が,「合将軍」を自ら号し,皆は韓遂と力を合わせた.共に推して王国を主とし,悉く其(軍勢)を領して,三輔を寇掠した.五年,陳倉を囲んだ.董卓は前将軍を拝命し,左将軍皇甫嵩とともにこれを撃破した.韓遂等はまた共に王国を廃し,それから故(もと)の信都令で漢陽出身の閻忠を拉致して,[二]総督にし、諸部を統括した.閻忠は脅されてこのようなことになったことを恥じ,恚<いかり>を感じて病死した.韓遂等はしばらくすると利権を争うようになり,更に互いに殺しあって,其の諸部曲はばらばらになった.

[一]典略に曰く:「馬騰は字を寿成といい,扶風茂陵の人で,馬援の後裔である.身長は八尺余りで,身体は大きく,面鼻は雄異で,しかも賢厚な性恪だったため,人の多くが彼を敬った.」

[二]英雄記に曰く:「王国等は兵を起こし,閻忠を拉致して主とし,三十六部を統率させ,『車騎将軍』を号した.」

六年,董卓を呼び戻して少府にしたが,首肯せず就かなかった,上書して言うことには:「湟中義従および秦胡の兵らが皆で詣でて臣に曰く:『牢すれば直ちに不畢します,稟賜は断絶し[一]妻子は飢え凍えます.』臣の車を牽挽して(引き止めるため),使って行くのを得ません.羌胡は敝腸狗態,[二]臣は禁止すること能わず,すなわち将に順って安んじ慰撫したいと思います.異を増して復た上(表)します.」[三]朝廷は制すること能わず,頗る慮った(非常に憂慮することとなった).靈帝が疾するに及び,璽書して董卓を并州牧とし,兵は皇甫嵩に属するよう命令した.董卓がまた上書して言うことには:「臣は既に老謀無く,また壮事無く,天恩が誤って加えられたおかげで,掌戎すること十年になりました.士卒は長幼互いに狎れ親しむこと久しく,臣が畜養した恩を乞い,為に臣は一旦の命を奮えるのです.北州に駐屯することを乞い,辺垂に力を効かせたいと思います.」是に於いて河東に駐兵し,そこで事変を観望した.

[一]前書音義に曰く;「牢は,稟食のことである.古は稟と名づけて牢を為したのである.」

[二]言うに羌胡は心腸は敝悪であり,情態は狗の如しなりと.続漢書は「敝」を「憋」と作る.方言に云う:「憋は,悪である.」郭璞曰く:「憋怤は,急性である.」憋の音は芳烈反,怤の音は芳于反.

[三]其の更に異志を増す如し,当に上に復聞すべし.

帝が崩ずるに及んで,大将軍何進、司隸校尉袁紹は謀って閹宦を誅そうとしたが,太后が許さなかったため,私情で判断し董卓に兵を将いらせて呼んで入朝させ,それを以て太后を脅そうとした.董卓は召を得ると,即座に都に向かった.並んで(立て続けに)上書[一]して曰く:「中常侍張讓等は倖を窺って寵を承り,海内を濁し乱しました.臣は薪を取り去らなければ湯の沸きたつのは止まないと聞きます;[二]痛と雖も瘡潰して,内を食むものに勝つとか.昔、趙鞅は晋陽の甲を興し,以て君側の悪人を逐ったとか.[三]今臣は

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輒ち鍾鼓を鳴らして洛陽にいたり,[四]張讓等を収めんことを請うて,以て清をして穢を姦せんとします.」董卓が未だ至らないうちに何進は敗れたため,虎賁中郎将袁術が南宮を焼き,宦官を討とうと欲した,そのため中常侍段珪等は[五]少帝及び陳留王を劫致して小平津に夜走った.董卓は火が起つのを遠くより見て,兵を引き連れて急いで進み,未明に城の西に到った,聞くと少帝が北芒にいるとのことで,因って往って奉迎した.帝は董卓に見えると将に兵を卒いて至ろうとする様子に,恐怖して涕泣しだした.[六]董卓は與言せんとするに,辞し対することあたわず;陳留王と言葉を交わし,遂に禍乱の事に及んだ.董卓は以て王をして賢いと見,且つ董太后が王を養う所となっていたことから,董卓は自ら以て太后に与して同族とし,廃立の意を持った.

[一]並は猶ほ兼ねる也.

[二]前漢枚乗は上書して曰く:「湯之滄を欲するや,一人これを吹き,百人これを揚げる,無益である也.火を止めるには薪を絶つに如かず而して已まん.」滄の音は測亮反,寒である也.

[三]公羊伝曰く:「晋の趙鞅は晋陽の甲を取って以て逐荀寅與士吉射.[荀寅與士吉射]者曷為[者也]?君側之悪人也.此逐君側之悪人,曷為以叛言之?無君命也.」

[四]鍾鼓を鳴らすとは,其の罪を声するである也.論語に曰く:「小子は鼓を鳴らして而してこれを攻める.」典略は董卓の表を載録しておりそれには曰く:「張讓等は天常を慆慢し,王命を操し,父子兄弟は並んで州郡に拠り,一書して出門し,高きは千金を獲て,下は数百万の膏腴美田,皆張讓等に属することになっています.(天は)気を変じて(使いとし)上蒸し,妖賊が蜂起することとなりました.」

[五]山陽公載記は「段」の字を「殷」と作る.

[六]典略に曰く:「帝は董卓を望見するや涕泣したため,公が董卓に詔が有る兵せよとのことだと謂った.董卓曰く:『公ら諸人は国を為す大臣であるのに,王室を匡正すること能わず,国家を使わしめ播蕩に至らせた,何をもって撤兵これ有るというのか?』遂に倶に入城した.」

初め,董卓が(都に)入ったときは,歩騎三千を過ぎず,自ら兵の少なきを嫌い,遠近服する所と為らざるを恐れた,率いること四五日して輒ち夜に潜んで軍を出して近くに駐営し,明くる旦に乃ち大いに旌鼓を陳して還り,以て西兵復た至ると為したが,洛中に知る者は無かった.尋ねて而して何進及び弟の何苗が先に領するところとなっていた部曲は皆董卓に帰した

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,董卓は又呂布を使って執金吾丁原を殺害して其兵を併せたため,[一]董卓の兵士は大いに盛んとなった.乃ち朝廷に諷して策で司空の劉弘を免じて自らこれに代わった.[二]因って集めて廃立を議した.百僚大会するに,董卓は乃ち奮首して言って曰く:「大は天地,其次は君臣,以て政を為す所である.皇帝は闇弱であり,以て宗廟を奉じ,天下の主と為すべからず.今、伊尹、霍光の故事に依ろうと欲す,陳留王を更立しようと思うが,何如か?」公卿以下敢えて対するもの莫かった.董卓は又抗言して[三]曰く:「昔霍光は策を定めて,延年はを案じた.敢えて大議を沮すこと有ったが,皆以て軍法をして之に従ったのだ.」坐(その場)は震え慄いた.[四]尚書盧植が独り曰く:「昔太甲は立って既に不明,[五]昌邑は罪過ぐること千余,故に廃立之事有ったのです.[六]今上(陛下)は春秋に当って,行いは徳失ったということも無く,前例として挙げたことと比べようがありません也.」董卓は大いに怒ると,罷坐した.明日復た崇徳前殿に僚(百僚)を集め,遂に太后を脅して,少帝を廃する策命を得た.曰く:「皇帝は喪に在って,人子の心無く,威儀は人君の類ならず,今廃して弘農王と為す.」乃ち陳留王を立て,是が獻帝と為った.また次のように議した;太后[七]は永楽太后に迫し,[八]至って令して憂死させ,婦姑の禮に逆らい,孝順之節が無い,[九](そこで)永安宮に遷し,遂に以て弑され崩じることとなった.

[一]英雄記に曰く:「丁原は字を建陽という.人のために麤略を為し勇有り,射を善くし,受使して辞さず,警急有れば,追寇して虜するに輒ち在前した.」

[二]魏志に曰く:「以て久しく雨なかったため策あって免じられた.」漢官儀に曰く:「劉弘は字を子高といい,安の人である.」

[三]抗は,高である也.

[四]前書,昭帝が崩じられると,霍光は昌邑王賀を迎えて帝に立てた,即位すること二十七日,行いは淫乱であり,霍光は丞相已下を召して会議したが,敢えて発言莫かった.田延年前,離席曰く:「臣有後応者請斬之.」

[五]太甲は,湯の孫,太丁子である也.尚書に曰く「太甲既に立つ,不明なり,伊尹は諸桐宮に放った」也.

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[六]昌邑王は凡そ徴発する所一千一百二十七事.

[七]靈帝何皇后である.

[八]孝仁董皇后は,靈帝の母である.

[九]左伝曰く:「婦は,姑を養う者である也.虧姑以成婦,逆莫大焉.」

董卓は太尉に遷り,前将軍事を領し,節を加えられ斧鉞虎賁を伝えられ,更に郿侯に封じられた.[一]董卓は乃ち司徒黄琬、司空楊彪と,倶に鈇鑕を帯びて闕に詣で上書して,陳蕃、竇武及び諸党人を追って理め,以て人望に従った.是に於いて陳蕃等の爵位は悉く復され,子孫は擢用された.

[一]伝の音は陟で恋反する.郿は,今の岐州県である.

董卓を尋進して相国とし,入朝不趨,履上殿を許した.母を封じて池陽君とし,(丞)令[丞]を置いた.

是時洛中の貴戚室第は,金帛財産を相望み,家々に殷積していた.董卓は兵士を縦放し,其の廬舍を突き,婦女を淫略し,資物を剽虜し,これを謂うに「搜牢」と(言い訳した).[一]人情は崩れ恐れ,朝夕に保たれず.何后の葬に及び,文陵を開くと,[二]董卓は蔵中の珍物を悉く取った.また公主を姦乱し,宮人を妻略し,刑で虐げ罰を濫用し,睚必死,僚内外莫能自固.董卓は嘗て軍を遣わして陽城に至らせ,時に人が社下で会すると,悉く令して就かせこれを斬った,其車重く駕し,其婦女を載せ,以て頭を車轅に繋ぎ,歌呼して而も還る.また五銖銭を壊して,更に小銭を鋳造し,洛陽及び長安の銅人、鍾虡、飛廉、銅馬之属を悉く取り,以て鋳造するに充たした焉.[三]故に貨は賤しく物は貴く,穀物は一石数万となった.また銭は無輪で文章は郭され,人の用いるに不便であった.[四]時の人は以為するに秦始皇は臨洮に長人を見て,乃ち銅人を鋳造した.[五]董卓は,臨洮の人である

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也,而して今これを毀す.成毀同じからずと雖も,凶暴は相類せり焉.

[一]言うに牢固は皆搜索してこれを取る也.一に曰く牢は,漉也.二字は皆去声に従う,今俗に此言が有る.

[二]靈帝陵.

[三]鍾虡は以て銅をしてこれを為す,故に賈山は上書して云うに「懸石鋳鍾虡」.前書音義に曰く:「虡は,鹿頭龍身,神獣である也.」説文:「鍾鼓之跗,以て猛獣をして飾を為す也.」武帝は飛廉館を置いた.音義は云う:「飛廉は,神禽である,身は鹿に似て,頭は爵の如し,角が有り,粕であり,文は豹文の如し.」明帝永平五年,長安は飛廉及び銅馬を迎え取り西門外の上に置き,平楽館と名づけた.銅馬は則ち東門京に作られる所である,金馬門外に於いて致すものだ者也.張璠紀に曰く:「太史靈台及び永安候銅蘭楯,董卓は亦これを取る.」

[四]魏志に曰く:「董卓は小銭を鋳造した,大きさは五分,文章無く,肉好で輪郭無く,鑢も磨かれていなかった.」

[五]三輔旧事に曰く:「秦王立って二十六年,初めて天下は定まり,皇帝と称した.大人が臨洮に見えた,身長五丈,長六尺,銅人を作って以てこれを厭う,阿房殿前に立てて在った.漢は長楽宮中大夏殿前に徒した.」史記曰く:「始皇は天下兵器を鋳て十二金人を為した.」

董卓は素より天下が疾と同じくするのは閹官が忠良を誅殺したからと聞いていたため,其れ事に在任するに及ぶや,行は無道と雖も,而して猶ほ性を忍び情を矯め,士を擢び用いた.乃ち吏部尚書に漢陽の周珌、侍中に汝南の伍瓊、[一]尚書に鄭公業、[二]長史に何顒等を任じた.処士荀爽を以って司空とした.其の党錮に染まった者陳紀、韓融の徒は,皆列卿になった.幽滞の士は,多く顕拔されるところとなった.尚書韓馥を以って冀州刺史とし,[三]侍中劉岱を兗州刺史とし,[四]陳留の孔伷を豫州刺史とし,[五]潁川の張咨を南陽太守とした.[六]董卓の親愛する所は,並んで顕職に処されず,但将校にあるのみだった.初平元年,韓馥等は官を倒し,袁紹の徒十余人と,各々義兵を興し,同盟して董卓を討とうとし,而して伍瓊、周珌は陰為して内に主った.

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[一]英雄記は「珌」を「」と作る,周珌は字を仲遠といい,武威の人.伍瓊は字を徳瑜という.珌の音は祕.

[二]鄭公業は名を泰という.余人は皆名を書く,范曄の父の名が泰であるため,其の諱を避けたのだ耳.

[三]英雄記には韓馥、字を文節,潁川の人とある.

[四]呉志曰く:「劉岱は字を公山といい,東萊牟平の人である.」

[五]英雄記では孔伷は字を公緒という.九州春秋では「伷」を「冑」としている.

[六]獻帝春秋は「咨」を「資」と作る.後に孫堅に殺される所となる.

初め,靈帝の末,黄巾の余党である郭太等が西河白波谷に復た起こり,転じて太原に入寇し,遂に河東を破ったため,百姓は三輔に流転した,号して「白波賊」となり,その勢いは十余万となった.董卓は中郎将の牛輔を遣わしてこれを撃ったが,克つことあたわず.東方に兵起こると聞くに及び,懼れて,乃ち弘農王を鴆殺し,都を長安に移そうと欲した.会合を開いて公卿と議したところ,太尉の黄琬司徒の楊彪が廷争して得ることあたわず,而も伍瓊周珌がまた固くこれを諫めた.董卓は因って大いに怒って曰く:「わたし董卓が初めに入朝したおり,君ら二子は善士を用いることを勧めた,故につづけざまに従ったのだ,それなのに彼らは官に到るや,挙兵して相い圖っている.此は二君がこの董卓を売ったということか,わたし董卓はどうして続けざまに負となることを用いることがあるというのか!」遂に伍瓊周珌を斬った.而して楊彪黄琬は恐懼し,董卓のもとに詣でて謝って曰く:「小人は旧きを恋したっておりますが,国事を沮そうと欲しているわけではありません也,及ばざるを以てして罪と為すことを請います.」董卓は既に伍瓊周珌を殺害し,旋して亦たこれを悔やんでいた,故に表して楊彪黄琬を光祿大夫とした.是に於いて天子は西都に遷ったのである.

初め,長安は赤眉之乱に遭ったおり,宮室営寺は焚滅して余すところ無かった,是時唯高廟京兆府舍のみ残された,遂に時に便じて御幸したのである焉.[一]後に未央宮に移った.是に於いて尽し洛陽の人たち数百万口が長安に徙り,歩騎驅蹙,更に相蹈藉し,飢餓が寇掠することとなり,尸は積まれ路から盈した.董卓は自ら畢圭苑中に屯留し,悉く宮廟官府居家を焼き,二百里内は復た孑(ひとり)として遺されること無かった.また呂布を使って諸帝陵を発掘させ,それは

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公卿已下の墓に及び,其の珍寶を収めさせた.

[一]便時は謂うに時日吉便する.

時に長沙太守孫堅は亦た豫州諸郡兵を率いて董卓を討った.董卓は先ず将の徐栄、李蒙を遣わし四出して虜掠させた.徐栄は孫堅と梁で遭遇すると,[一]戦いを興し,孫堅を破って,潁川太守李旻を生け捕りにし,これを亨けた.董卓が義兵の士卒を得る所,皆以て纏裹に布して,地面に倒立させ,熱膏に灌して(漬して)之を殺した.

[一]故城は今の汝州梁県西南に在る.

時に河内太守王匡は[一]河陽津に駐屯しており,将に董卓を囲んでいた.董卓は疑兵を遣わして挑戦させ,一方で鋭卒を潜み使って小平津に従って津の北に過ぎると,これを破り,死者は略される尽となった.明くる年,孫堅は散卒を収め合わせ,進んで梁県の陽人に駐屯した.[二]董卓は将の胡軫、呂布を遣わしこれを攻めた,呂布は胡軫と相能くせず,軍中は驚き恐れて,士卒が散乱した.[三]孫堅はこれを追撃し,胡軫、呂布は敗走した.董卓は将の李を遣わして孫堅を詣でて和を求めたが,孫堅は拒絶して受けず,大谷に進軍し,洛陽まで九十里の距離となった.[四]董卓は自ら出て孫堅と諸陵墓間で戦った,董卓は敗走して,黽池に駐屯し,陝で兵を集めた.孫堅は洛陽に進み宣陽城門に向かい,[五]更に呂布を撃った,呂布は復た破れて走った.孫堅は乃ち宗廟を埽除し,諸陵を平塞し,兵を分けて函谷関に出し,新安、黽池間に至って,以てして董卓の後ろにまわった.董卓は長史劉艾に謂いて曰く:「関東諸将は何度も敗れ,無能を為す也.唯孫堅のみ小戇(少しまし)である,[六]諸将軍は宜しくこれを慎め.」乃ち東中郎将董越を使って黽池に駐屯させ,中郎将段煨には華陰に駐屯させ,[七]中郎将牛輔には安邑に駐屯させ,其余りの中郎将、校尉らを諸県に布在させ,以て山東から防禦した.

[一]英雄記曰:「王匡は字を公節といい,泰山の人である.財を軽んじ布施を好み,任侠を以って聞こえた.」

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[二]梁県は河南郡に属する,今の汝州県である也.陽人,聚は,故城が梁県西にある.

[三]九州春秋曰く:「董卓は東郡太守胡軫を以って大督とし,呂布を騎督とした.胡軫は性急であり,豫け宣言するに『今此が行われるが也,要は当に一青綬を斬るだけで,乃ち整斉ならん耳』.呂布等はこれを悪み,宣言して相警して云う『賊至れり』,軍大乱奔走した.」[a]

[a]三国志に拠れば胡軫は陳郡太守である。

[四]大谷口は故の嵩陽の西北三十五里にあり,北に出れば洛陽故城と対する.張衡の東京賦に云う「盟津達其後,大谷通其前」とは是である也.距は,至なり也.

[五]洛陽記の記述によれば洛陽城南面に四門が有る,(宣陽城門は)東に従い第三門にあたる.

[六]説文に曰く:「戇は,愚である也.」音は都降反.

[七]典略に曰く:「段煨は華陰に在って,特に農事を修めた.天子が東遷すると,段煨は迎え,(貢)[]饋周急した.」魏志に曰く:「武威の人である也.」煨の音は壹回反.

董卓が朝廷に諷じたため光祿勳の宣璠を使い [一]持節させて董卓を太師に拝した,位は諸侯王の上に在った.乃ち長安に引き還した.百官は路に迎えて拝して揖礼し,董卓は遂に僭越して車服を至尊に擬して,乗るは金華青蓋,爪畫両轓のものとしたため,時に人は「竿摩車」と号し,其の服飾は天子に近づけたものだと言った.[二]以て弟の董旻を左将軍とし,鄠侯に封じ,兄の子の董璜を侍中、中軍校尉とし,皆兵事を典じさせた.是に於いて宗族内外,並んで列位に居った.其子孫は髫に在ると雖も,男は皆封侯され,女は邑君となった.

[]璠音煩,又音甫袁反.

[二]金華は,金以って華飾為す車である也.爪は,蓋弓で頭が爪形を為すものである也.轓の音は甫袁反.広雅に云う:「車は箱である也.」畫は文彩を為す.続漢志に曰く:「轓長は六尺,下に屈し,広さは八寸.」又云うに:「皇太子は青蓋金華蚤で畫轓なる.」竿摩は謂うに相逼近すると也.今俗に事を以って人を干す者は,これを「相竿摩」と謂う.

百官と何度も酒を置いて宴会し,淫楽すること恣であった.乃ち長安城の東に壘を結んで自らの居処とした.また郿に塢を築いた,高さ厚さは七丈,号して曰く「万塢」.[一]積穀すること三十年の儲けを為した.自ら云うに:「事成れば,天下に雄拠せん;成らざるなら,此れを守れば以て畢老するに足れり.」嘗て

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郿に至って塢へ行くに,公卿已下は横門外に祖道した.[二]董卓は帳幔を施して飲設するに,北地郡の反乱者で誘降したもの数百人,坐中に於いてこれを殺した.先ず其の舌を断ち,次に手足を斬り,次に其の眼目を鑿し(潰し),以てこれを鑊とした.未だ死を得るに及ばなければ,偃転()[杯]案間(その場に転がし置いたまま杯を挙げて供宴した).会に居たものは戦慄し,匕箸を亡失したが,董卓は飲食するに自若としていた.諸将で言って語るのに蹉跌有るものは,便じてその前で戮した.又、関中の旧族を稍誅したが(次第に誅していったが),以て叛逆したとして陥れてのことであった.

[一]今案ずるに:塢の旧基は高一丈,周迴すること一里一百歩である.

[二]横の音は光.

時に太史が望気し,当に大臣で戮死者となるものが有ると言った.董卓は乃ち人を使って衛尉の張温が袁術と交わり通じていると誣させると,遂に張温を市で笞打ちし,これを殺して,以て天変を塞がせた.以前に張温が美陽に出て駐屯したおり,董卓に命令して辺章等と戦わせたが功無く,張温が召したおりにまた時の命に応じず,既に到っても辞し対するに不遜であった.時に孫堅は張温の参軍となっていたが,張温に陳兵にこれを斬らせよと勧めた.張温曰く:「董卓は威名有り,方に倚するゆえ以て西に行かせん.」孫堅曰く:「明公は親しく王師を帥したまい,天下に威振しておられます,なぜ董卓を恃み而もこれを頼るのですか乎?わたくし孫堅が聞くに古えの名将は,杖鉞で臨しておりまして,未だ(軍令に違反したものを)斬るということを決断しないで以て威武を示した者は有りません也.故に穰苴は荘賈を斬り,[一]魏絳は楊干を戮したのです.[二]今若しこれに縦しなければ(この故事に従わなければ),自虧威重,後悔しても何に及ぶというのです!」張温は従うことができなかったが,而して董卓は猶も忌恨を懐き,故に難に及んだのである.

[一]史記に記述がある。齊の景公の時,晋が阿鄄を伐って而して燕が河上を侵したため,司馬穰苴を以て将軍と為し,寵臣荘賈を使って監軍とした.荘賈は期したが後に至ったため,司馬穰苴は斬って以て三軍を徇したのである,鄄の音は絹.

[二]魏絳は,晋大夫である.楊干は,晋公の弟である.諸侯と曲梁で会合したおり,楊干は乱行を働いたため,魏絳は其の僕を戮した.事は左伝に在る.

張温は字を伯慎といい,[一]若いころ名誉あった,累登して公卿となり,亦た陰ながら司徒王允と共謀して董卓を誅そうとしたが,事が未だ発するに及ばずして害に見えた.越

 

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騎校尉で汝南出身の伍孚[二]は董卓の凶毒に忿り,志してこれを手ずから刃にかけようとした,乃ち朝服の懐に佩刀して以て董卓に見えた.伍孚は語畢して辞去すると,董卓は起って送り閤に至ると,以て手ずから其の背を撫でた,伍孚は因って刀を出してこれを刺したが,中らなかった.董卓は奮いたって免れるを得てから,急いで左右を呼んでこれを執えて殺した,而して大詬して[三]曰く:「虜欲反耶!(この虜は反しようと欲するのか耶!)」伍孚は大言して曰く:「恨むべくは都の市に姦賊を磔にして裂くを得なかったことだ,[四]以て天地に謝罪する!」言うや未だ畢せずして而して斃れた.

[一]漢官儀に曰く:「張温は,穰の人である.」

[二]謝承書曰く:「伍孚は字を徳瑜という,汝南呉房の人である.質性は剛毅,勇壮にして義を好み,力は能く人を兼ねた.」

[三]詬は,罵である也,音は許豆反.

[四]磔は,これを車裂する也,音は丁格反.獻帝春秋は「磔」を「車」と作る.

時に王允と呂布及び僕射の士孫瑞は董卓誅戮を謀った.[一]人で布の上に「呂」字を書いて,[背]負うて市に行ったものがいた,歌って曰く:「布だよ!」これを董卓に告げたものがいたが,董卓は悟らなかった.[二](初平)三年四月,帝の疾が新愈され,未央殿で大会あった.董卓が朝服をつけて車に升ると,既に而して馬が驚き泥を堕したため(脱糞して服についたため),還入して更衣した(着替えた).其の若い妻がこれを止めたが,董卓は従わず,遂に行った.乃ち陳兵が来道し,壘より宮に及び,左は歩兵右は騎兵,周屯衛した,呂布等に命じて前後を扞衛させた.王允は乃ち士孫瑞と密かに其事を表し,士孫瑞を使って自ら詔を書かせ以て呂布に授け,騎都尉李肅に命じて[三]呂布と同心の勇士十余人を,衛士の服を偽り著して北掖門内で以て董卓を待った.董卓が将に至らんとするや,馬が驚いて行かなかったため,怪しみ懼れて還ろうと欲した.呂布が勧令し進めたので,遂に入門した.李肅は戟を以ってこれを刺したが,董卓は衷甲していたため入らず,臂が傷ついて車からちた,顧みて大呼して曰く:「呂布はいずこにある?」呂布曰く:「詔が有る、賊臣を討てとさ.」董卓は大いに罵って曰く:「庸狗、敢えてこんなことをするのか!」呂布は声に応えて矛を持ち董卓を刺し,兵を趣かせてこれを斬った.[四]主簿の田儀[五]及び董卓の倉頭(奴僕頭)が前にでて其の尸に赴いたため,呂布は又これを殺した.齎を馳せさせて赦書(大赦の書面)を示し,以て宮陛内外に布令した.士卒は皆万を称え,百姓は道で歌い舞った.

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長安中で士女は其の珠玉衣装を賣(売買)し、市では酒肉が行き交い、相慶びあう者で,填は満ち街は肆した.皇甫嵩を使って董卓の弟董旻を郿塢に攻め,其の母妻男女を殺し,其の族を尽滅した.[六]乃ち市に董卓の尸をさらした.天は時に熱くなり始めており,董卓は素より充分肥えていたので,脂が地に流れた.尸を守る吏が然りとして(いい事を思いついたとして)董卓の臍中に火を置くと,光明は曙に達して,積日してもそのままだった.諸(様々な)袁(家に引き立てられた)門生がまた董氏の尸を集めて,焚いて灰にし路にこれを揚げた.塢中に珍蔵されていたのは金二三万斤,銀八九万斤,錦綺繢縠紈素奇玩は,積むと丘山のようであった.

[一]三輔決録に曰く:「士孫瑞は字を君栄といい,扶風の人である,博達にして通じないものは無かった.天子が許を都とすると,士孫瑞の功績を追って論じ,子の士孫萌を津亭侯に封じた.士孫萌は字を文始といい,才学有って,王粲と善くした,王粲は詩を作って士孫萌に贈っている.」

[二]英雄記に曰く:「有る道士が布に『呂』字を書いた,将に以て董卓に示さんとしたのであるが,董卓は其が呂布を示すとは知らなかったのである也.」

[三]獻帝紀に曰く:「李肅は,呂布と同郡の人である也.」

[四]趣の音は促.九州春秋に曰く:「呂布は素より秦誼陳衛李黒等を使って宮門衛士を偽り作り,長戟を持った.董卓が宮門に到ると,李黒等は長戟を董卓の車に侠叉し,或いは其馬に叉した.董卓は驚いて呂布を呼び,呂布は素より衣の中に鎧を施し,矛を持して,即ち声に応えて董卓を刺し,車から墜としたのである.」

[五]九州春秋は「儀」字を「景」と作る.

[六]英雄記に曰く:「董卓の母は年九十,走って塢門に至ると,曰く:『我を死から脱け出させて下され.』即時斬首された.」

初め,董卓は牛輔を以って子とし,素より親信する所であった,使って以って兵を陝に駐屯させていたのである.牛輔は其の校尉李張済らに[一]歩騎数万を将いさせて分遣すると,河南尹の朱儁を中牟に撃破した.因って陳留潁川諸県を略奪し,男女を殺略し,過ぎる所復た遺類するもの無かった.呂布は乃ち李肅を使って詔命すると以って陝に至らせ牛輔等を討たせたが,牛輔等は逆に李肅と戦って,李肅は弘農に敗走したため,呂布はこれを誅殺した.其後牛輔の営中は故なく大いに驚いたため,牛輔は懼れ,乃ち金寶を集めて踰城に走った.左右は其の財貨を利そうとして,牛輔を斬り,長安に首を送った.[二]

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[一]英雄記:「李は,北地の人である.」劉艾の獻帝紀に曰く:「李は字を稚然という.郭は,張掖の人である.」

[二]獻帝紀に曰く:「牛輔の帳下支(←吏の間違いか?)の胡赤兒等は,素よりこれを待むこと過急であった,尽するに家寶を以ってこれを與さんとし,自ら二十余餅金大白珠瓔を帯びた.胡が牛輔に謂いて曰く:『城の北に已に馬が有ります,去るべきです也.』以繩繋輔,踰城懸下之,未及地丈許放之,牛輔はが傷つき行くことが出来なくなった,諸胡は其の金并珠を共に取り,斬首して長安に詣でた.」

郭等は王允呂布が董卓を殺したため,故に并州人に忿怒し,并州人で其の軍に在るもの男女数百人は,皆誅殺された也.牛輔が既に敗れ,依るところ無くなったため,各々散り去ろうと欲した.李等は恐れ,乃ち先ず使いを遣わして長安に詣でさせ,赦免を求め乞うた.王允は一(一年の内)に再び恩赦するのは不可であるとして,これを許さなかった.李等は益々憂懼を懐き,為すところを知らなかった.武威の人である賈詡が時に李軍に在り,これに説いて[一]曰く:「聞くに長安中では議して涼州人を尽誅せんと欲しているとか,諸君が若し軍を棄てて単独で行動するなら,則ち一亭長でも能く君を拘束するでしょう矣.相率いて西するに如かず,以て長安を攻め,董公の仇に報いを為しましょう.事が済めば,国家を奉じて以て天下を正せばよいのです;若し其が合わなければ,走未後也(それから走ればいいのです).」李等はこれを然りとし,各々相謂いて曰く:「京師は我(ら)を赦さず,我(ら)当に死を以ってこれを決す.若し長安を攻めて剋たば,則ち天下を得る矣;剋たずば,則ち三輔の婦女財物を鈔して,郷里に西帰すれば,尚も延命は出来よう.」以て然りと為して,是に於いて共に結盟し,軍を率いること数千,晨夜西行した.王允はこれを聞くと,乃ち董卓の故将胡軫徐栄を遣わしてこれを新豊に撃った.[二]徐栄は戦死し,胡軫は以って降った.李は道に随って兵を収めると,長安に至るや比するに,已に十余万,董卓の故の部曲樊稠李蒙等と合流し,[三]長安を囲んだ.城は峻しく攻めようが無かったが,これを守ること八日,呂布軍の中にいた叟兵に内反するものがでて,[四]李を中に導いたため進入できた.城は潰れ,放たれた兵が虜掠して,死者は万余人となった.衛尉拂等が殺された.呂布は戦ったが敗れて出奔した.王允は天子を奉じて宣平城門樓上に保った.[五]是に於いて天下に大赦した.李樊稠等は皆将軍となった.[六]遂に門樓を圍むと,共に表して司徒王允が出るよう請うた,問うに「太師に何の罪あるか」?王允は窮蹙して乃ち下り,後に数日して殺害された.李等は董卓を郿に葬った,董氏で尸を焚かれて灰となっていたものも併せて葬られた,一棺に合斂し而してこれを葬ったのである

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.葬る日,大風雨があり,董卓の墓に霆震し,流水が蔵に入り,其の棺木が漂いでた.[七]

[一]魏志に曰く:「董卓が洛陽に入ると,詡は太尉掾を以って平津尉と為り[a],遷って討虜校尉となった.」牛輔は陝に駐屯し,詡は牛輔の軍に在った.牛輔既に死したため,故に詡は李軍に在ったのである.

[a] 平津尉:案ずるにこれは平津都尉ではないだろうか。八関都尉の一つで小平津の関を押さえる。八関都尉は黄巾賊の蜂起により設置され乱が鎮圧されると廃止されて中平五年(188年)八月に西園八校尉が設けられ八関都尉に代わった。ここでその名が見えることから初平元年(189年)正月の関東諸侯の蜂起に対抗して復活したと考えられる。

[二]九州春秋曰:「胡文才、楊整脩は皆涼州人である,王允は素より不善とする所であった也.李が叛くに及んで,乃ち文才、整脩を召しだし,使って東曉してこれを諭させた.仮借なく以て温顔して,謂いて曰く:『関東の鼠子は何を為そうと欲しているのか乎?卿は往ってこれを曉したまえ.』是に於いて二人は往き,実に召兵して還ってきたのである.」

[三]袁宏紀に曰く:「李蒙は後に李に殺される所と為る.」

[四]叟兵は即ち蜀兵である也.漢代は蜀を叟と為して謂う.

[五]三輔黄圖に曰く:「長安城の東面にある北頭門を号して宣平門という.」

[六]袁山松書曰「王允は李等に謂いて曰く:『臣は作威も作福も無く,将軍は乃ち放縦する,何を為すのを欲するのか乎?』李等は応えなかった.自ら拝して李を署して揚武将軍とし,郭を揚烈将軍とし,樊稠等を皆中郎将と為した」也.

[七]獻帝起居注に曰く:「戸が開かれると,大風暴雨で,水土が流入し,之を抒出した.棺が向入されると,輒ち復た風雨があり,水が溢れて戸を郭し,そうしたことが三四度と重なった.中は水が半ばの所まできて,樊稠等は共に棺を下ろしたが,天は風雨するに益々暴すること甚だしく,遂に戸を閉ざした.戸が閉ざされると,大風が復た其のを破った.」

は又た遷って車騎将軍となり,開府して,司隸校尉を領し,仮節を得た.郭は後将軍,樊稠は右将軍,張済は鎮東将軍と為り,並んで列侯に封じられた.李、郭、樊稠は共に朝政を秉した.張済は弘農に出て屯した.以て賈詡を左馮翊と為し,之を侯にと欲した.賈詡曰く:「此は救命の計です,何の功が有るでしょう!」固辞したため乃ち止めた.更じて尚書として選を典じさせた.

明年夏,大雨が晝夜二十余日にわたり,人庶を漂沒させ,又風は冬の時のようであった.帝は御史の裴茂を使って詔獄に訊ね,原繋者二百余人(獄に繋がれていた者を解放した、二百余人であった).其の中に李によって枉げて繋がれる所となった者が有ったため,李は裴茂を恐れて之を赦し,乃ち裴茂が囚徒を擅出したため,姦故が有るのではと疑います,之を收めんことを請いますと表奏した.詔に曰く:

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「災異が屢降し,陰雨が害を為している,使者は命を銜えて恩沢を宣布し,軽微を原解し,天の心に庶合させる.欲釋冤結而復罪之乎!一切は問うこと勿れ.」

初め,董卓が関に入ると,要するに韓遂馬騰は山東と共謀した(そのうち結局山東と共謀することにした).[一] (ところが)韓遂馬騰は天下が方乱するのを見たため,亦た董卓に倚そうと<よりかかろうと>欲し兵を起こした.興平元年,馬騰は隴右より従って来朝し,進んで霸橋に駐屯した.時に馬騰は私で李に求めるものが有ったが,獲られなかったため怒り,遂に侍中馬宇右中郎将劉範[二]前涼州刺史中郎将杜稟[三]と兵を合わせて李を攻めたが,日を連ねても決まらなかった.韓遂は之を聞くと,乃ちを率いて来て馬騰の講和を欲した,既に而して復し馬騰と合流した.李は兄の子の李利を使って郭樊稠と共に馬騰等と長平観下で戦いを興した.[四]韓遂馬騰は敗れ,斬首すること万余級,劉範等は皆死んだ.韓遂馬騰は走って涼州に還り,樊稠等は又た之を追った.韓遂は人を使って樊稠に語って曰く:「天下は反覆して未だ知らざるようす,お互い同じ州里から興ったのだ,今は小違と雖も,要するに当に大同なるべし,共に一言欲せん.」乃ち駢馬し交臂して相加え,[五]笑語良久した.軍が還ると,李利は李に告げて曰く:「樊韓は駢馬笑語しており,(私は)其辞を知りませんが,而して意は甚だ密に敬愛しているようでした.」是に於いて李樊稠は互いに猜疑し始めるようになった.猶加えて樊稠及び郭が開府すると,三公の府と合わせて六府と為り,皆選挙に参じた.[六]

[一]獻帝伝に曰く:「馬騰の父は馬平といい,扶風の人である.天水蘭干尉と為ったが,官を失い,遂に隴西に留まり,羌と雑居した.家は貧しく妻も無く,遂に羌女を取って,馬騰を生んだのである.」

[二]劉焉の子である.

[三]獻帝紀に曰く:「杜稟は賈詡と関係が冷却しており,扶風の吏人を脅して馬騰に槐里を守らせ,共に李を攻めようと欲した.李は樊稠及び兄の子の李利に命じて数万人で槐里を攻圍させた,夜に梯城されて,城は陷ち,杜稟は斬られて梟首となった.」

[四]前書音義に曰く:「長平は,名である也,池陽の南に在る.長平観は,長安を去ること五十里のところに有る.」

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[五]駢,並也.

[六]獻帝起居注に曰く:「李等は各々(が人事について)其の挙げる所を用いるよう欲し,若し壹が之に違うと,忿憤恚怒を便じた.主者は之に患わされた,乃ち其の挙げる所を用いる次第は,先ず李が起てるに従い,郭が之に次ぎ,樊稠が之に次いだ.そのため三公の挙げる所は,(人事の定員が李等の挙げる人材で満たされてしまうため)終に用いるところと見えなかった.」

時に長安中で盜賊が禁じられなかったため,白日虜掠が行われた,李樊稠は乃ち城内を參分し,各々其の界に備えをしたが,それでも制すること能わず,而も其の子弟が縦横して,百姓を侵暴した.是時穀一斛五十万,豆麥二十万となり,人は互いに食啖し,[一]白骨は積むに委ねられ,臭穢(腐臭)が路に満ちた.帝は侍御史侯汶[二]を使って太倉から米豆を出させて飢えた人のために糜を作らせたが,經日しても死者が降ること無かった(使者の数が減らなかった).帝は賦卹に虚有るを疑い,[三]乃ち御前で親しく自ら臨檢を加えた.そこで不実を知ったため,侍中の劉艾を使って有司を出讓させた.是に於いて尚書令以下が皆で省閣に詣でて謝り,奏上して侯汶を収めて考実した.詔に曰く:「理に於いて侯汶に致すに未だ忍びない,杖五十で可とする.」是より後は多くが全済を得た.

[一]啖の音は徒敢反.

[二]音問.

[三]賦は,布である也.卹は,憂である也.

明年春,李は因って会って坐に樊稠を刺殺し,[一]是由に諸将は各々互いに異なるを疑いだし,李郭は遂に復して兵を理して相攻めあった.[二]安西将軍楊定は,故董卓の部曲将であった也.李を懼れて害を忍んでいたが,乃ち郭と合謀して天子を迎え其営に御幸させようとした.李は其計を知ると,即ち兄の子の李暹を使って[三]数千人を将いて<ひきいて>宮を囲み、車三乗を以って天子皇后を迎えた.太尉楊彪が李暹に謂いて曰く:「古今の帝王で,人臣の家に在った者はいない.諸君は事を挙げるに,当に上は天心に順じるべきなのに,これは何如したものか!」李暹曰く:「将軍の計で決まったことです矣.」是に於いて帝は遂に李の営に御幸した,楊彪等は皆

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徙従した.乱兵が入殿し,宮人什物を掠した,李は又た御府に徙り<うつり>金帛乗輿器服を我が物とすると,而して放火して宮殿官府を焼き居人は悉く尽することとなった.帝は楊彪を使って司空張喜等十余人と共に李郭を和睦させようとしたが,郭は従わず,遂に公卿を質にし留めた.楊彪は郭に謂いて曰く:「将軍は人間の事に達するに,何ぞ君臣を分けて争い,一人は天子を劫致し,一人は公卿を質にするのか,此は行ってよいことだと思うのか邪?」郭は怒り,楊彪をその手で刃にかけようと欲した.楊彪曰く:「卿は尚も国家を奉じない,吾は豈に生を求めん邪!」左右多くが諫めたため,郭は乃ち止めた.遂に兵を引き連れて李を攻め,矢は帝前に及んだ,[四]また李の耳を貫いた.李の将である楊奉は本もと白波賊の帥であったが,乃ち兵を将いて李を救いに来たため,是に於いて郭は乃ち退いた.

[一]獻帝紀に曰く:「李は樊稠が果勇で而して心を得ているのを見ると,これを疾く害そうとし,醉酒(酒に強かに酔わせて),潛かに外生である騎都尉の胡封を使って坐中に於いて樊稠を拉致し殺害した.」

[二]袁宏紀に曰く「李何度も酒を設けて郭を請い,或いは郭を宿に止めた.郭の妻は李の婢妾に与って私して而して己の愛が奪われるのではと懼れると,以って之を離間させようとの思いを有した.李が饋を送ってくるきかいに会うと,郭の妻は乃ち豉を以って薬と為した.郭が将に食わんとしたときに,妻は曰く:『食が外から<従>来たなり,儻してはどうでしょう或いは故が有るのでは?』遂に薬を摘んで之を示すと,曰く:『一栖に両雄しないものとか,我は固より将軍が李公を信じることを疑わしいとしていました也.』他日に李が郭を請うて,大醉したおり,郭は李が之に薬したのではとして,糞汁を絞って之を飲むと乃ち解いた,是に於いて遂に相猜疑しあうことになった」也.

[三]音纖.

[四]獻帝紀に曰く:「郭は李の将張苞張龍と李を誅しようと謀り,郭は兵を将いて李(の家の)門を夜攻めた.候して内にいた郭の兵が門を開くと,張苞等は家屋を焼いたが,火は然らなかった.郭の兵が弓弩を並んで発したため,矢は天子の樓帷簾中に及んだ.」

是日,李は復た帝を移して其の北塢に御幸させた,唯、皇后宋貴人のみが(行動を)倶にした.李は校尉を使って門を監督させると,内外を隔絶した.[一]尋ねて復た帝を池陽にある黄白城に徙そうと欲したため,[二]君臣は惶懼した.司徒の趙温が深く解いて之を譬えたため,乃ち止めた.詔あって謁者僕射の皇甫酈を遣わして李郭を和解させた.皇甫酈は先ず郭に譬えたところ,郭は即ち命に従った.また李を詣でたところ,李は聴かなかった.曰く:「郭多は,盜馬虜耳(馬盗人の虜耳である),何ぞ敢えて我と同じからんと欲する邪!必ずや之を誅さん.

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君は我(の)方略(や)士を観た,郭多を辦ずるに足るか不か?郭多はまた公卿を劫略して質とした.為す所是の如く,而して君は苟んぞ之を左右に欲する邪!」[三]郭は一名を多という.皇甫酈曰く:「今郭は公卿を質にし,而して将軍は主上を脅しています,(その罪の)軽重はどちらにあるでしょう乎?」李は怒り,皇甫酈を呵遣すると,因って虎賁の王昌にこれを追って殺せと命じた.王昌は偽って及ばず,皇甫酈は得て以て免れた.李は乃ち自ら大司馬となり.[四]郭と相攻めあうこと月を連ね,死者は以て万を数えた.

[一]獻帝紀に曰く:「李は門に命令して反って関を設け,校尉が守察した.盛夏で炎暑(激しい暑さで),冷水を得ること能わず,飢ええて流離した.上は以前移宮人及侍臣,不得以穀米自隨,入門有禁防,不得出市,困乏,使就索粳米五斛,牛骨五具,欲為食賜宮人左右.不與米,取久牛肉牛骨給,皆已臭蟲,不可啖食.」

[二]池陽は,県である,故城は今の陽県西北に在る.

[三]左右は,助である也,音は佐又.

[四]獻帝起居注に曰く:「李の性は鬼怪左道之術を喜び,常に道人及び女巫に歌謳撃鼓下神祭させ,六丁符劾厭勝之具,無所不為.又於朝廷省門外為董卓作神坐,数以牛羊祠之.天子使左中郎将李国持節拝為大司馬,在三公之右.自以為得鬼神之助,乃厚賜諸巫.」

張済が陝自り来て二人を和解させ,仍<しきり>に帝権を遷そうとして弘農に御幸することを欲した.帝も亦た旧京である洛陽のことを思い,因って使者を遣わして李に敦く請うて東帰することを求め,十反して乃ち許された.[一]車駕は即日発邁した.[二]李は出て曹陽に駐屯した.以て張済を驃騎将軍と為し,復還して陝に駐屯した.郭を車騎将軍に,楊定は後将軍に,楊奉は興義将軍に遷した.又以て故の牛輔の部曲であった董承を安集将軍と為した.[三]郭等は並んで侍して乗輿を送った.郭は遂に復た帝を脅して郿に御幸させようと欲したが,楊定楊奉董承は聴かなかった.郭は変が生じるのを恐れ,乃ち軍して還って李に就いた.車駕は進んで華陰に至った.[四]寧輯将軍の段煨が乃ち具服御及公卿以下資儲,帝に請うたため其の営に御幸した.初め,楊定は段煨と冷却した関係にあったため,遂に段煨を誣して反そうと欲し,乃ち

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其の営を攻めたが,十余日して下らなかった.[五]而して段煨は猶も御膳を奉給し,百官を稟贍したが,終に二意無かったのである.

[]袁宏紀曰:「済使太官令孫篤校尉張式宣諭十反.」

[二]獻帝起居注に曰く:「初め,天子が出るに,宣平門に到り,当に橋を渡ろうとするに,郭の兵数百人が橋を遮り曰く:『是天子か非か?』車は前に進むを得なかった.李の兵数百人は皆大戟を持って乗輿車前に在った,侍中劉艾が大呼して云うに:『是天子也!』侍中楊gを使って車の帷を高々と挙げさせた.帝は諸兵に言うに:『汝,何ぞ敢えて至尊に迫り近づく邪!』郭等の兵は乃ちした.既に橋を渡り,士は万歳を咸稱した.」

[三]蜀志曰く:「董承は,獻帝の舅である也.」裴松之注に曰く:「董承は,靈帝母太后の姪である.」

[四]帝王紀に曰く:「帝は尚書郎郭溥を以って郭を諭したが,郭は屯部を以って未だ定まらぬゆえ,これに須留することを乞うた.郭溥は因って郭を罵り曰く:『卿は真の庸人か賤夫か,そも卿は国を為す上将であろう,今天子の命あるに,何のこれ須留か?吾は卿の所業を見るに忍びない,頼むから先に我を殺せ,以て卿を悪と章しよう.』郭は郭溥の言切を得て,意するに乃ち少し諭された.」

[五]袁宏紀曰:「段煨は楊定との関係が冷却しており,段煨は乗輿を迎えたが,敢えて下馬せず,馬上で揖した.侍中の輯は素より定親しており,乃ち言うに曰く:『段煨は反そうとしています.』今上の曰く:『段煨は属して来て迎えてくれた,何で反などと謂うのか?』対して曰く:『迎えるに界に至らず,拝するに下馬いたさず,其の顔色は変じております,必ず異心有ると見ました.』太尉楊彪等が曰く:『段煨は反しません,臣等は敢えて死を以って保ちましょうぞ,車駕は其営に御幸なさるべきです.』董承楊定が言うに曰く:『郭が今且将七百騎で来て段煨の営に入りました.』天子はこれを信じ,遂に道の南に露次した,楊奉董承楊定等の功である也.」

、郭は既に天子が東する命令を出したことを悔やみ,乃ち段煨に来救を求め,因って帝を劫致しようと欲して西した,楊定は郭に遮られる所となり,亡って荊州に奔った.而して張済は楊奉董承と与して相平らかならず,乃ち反って李郭と合わさり,共に乗輿を追って,弘農の東澗で大いに戦った.董承楊奉の軍は敗れ,百官士卒の死者は数えられないほどであった,皆其の婦女輜重に襲い掛かり,御物符策典籍は,略されて遺されたものは無くなった.[一]射声校尉の沮儁は創(槍傷)を被って馬から堕ちた.李は左右に謂いて曰く:「尚も活かすべきか否か?」沮儁はこれを罵って曰く:「汝等凶逆めが,天子を逼迫するとは,乱臣賊子で,未だ汝のような者はいないぞ!」李

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使ってこれを殺さしめた.[二]天子は遂に曹陽に露次し.董承、楊奉は乃ち李等が連和したことを譎した,そこで密かに間使を遣わして河東に至らせ,故の白波帥李楽、韓暹、胡才及び南匈奴右賢王の去卑を招いた,彼らは其数千騎を率いて並び来たり,董承、楊奉とともに李等を共に撃ち,大いにこれを破り,斬首すること数千級,乗輿は乃ち進ことができるようになった.董承、李楽は左右を擁し,胡才、楊奉、韓暹、去卑は後距を為した.李等は復来して戦いし,楊奉等は大敗した,東澗での死者は甚だしかった.東澗より兵は相連ね綴ること四十里中(半ば),方得すること陝に至り,乃ち営を結んで自守した.時に破れ残った余のものは,虎賁羽林が百人に満たず,皆心を離してしまっていた.董承、楊奉等は夜乃ち過河のことを潛議し,[三]李楽を使って先ず度して舟舡を具えさせ,火を挙げて応じさせた.帝は歩いて営を出て,河に臨んで済ろうと欲したが,岸の高さは十余丈であった,そのため絹縋を以って下ろした.[四]余人は或いは岸の側から匍匐し,或いは従上より(身を)投げ,死亡傷残すること,復た相知らなかった.争って舡に赴いた者は,禁じ制することができず,董承は戈を以ってこれを撃披し,舟中にある断たれた手指は掬えるほどだった.同済したのは唯、皇后、宋貴人、[五]楊彪、董承及び后父である執金吾の伏完等数十人だけだった.其宮女は皆李の兵に掠奪される所となり,凍え溺れ死んだ者は甚しかった.既に大陽に到ると,人家に止まった,[六]然る後に李楽営に御幸した.百官は飢え餓え,河内太守張楊が[七]数千人を使って米を背負わせ貢餉した.帝は乃ち御牛車にのり,因って安邑を都とした.河東太守王邑が綿帛を奉獻したので,悉く公卿以下に賦した.封邑して列侯とし,[八]拝して胡才を征東将軍,張楊を安国将軍とし,皆仮節、開府の沙汰を授けた.其の壘壁豎,拝職せんことを競って求めたが,刻印が給われず,至って乃ち錐以ってこれを畫した.或いは酒肉を齎すると天子(の側)に就き燕飲した.[九]また太僕韓融を遣わして弘農に至らせ,李、郭等と連和させた.李はそこで公卿百官を解放して遣わし,宮人婦女,及び乗輿器服が頗る帰ることとなった.

[一]獻帝伝に曰く:「掠婦女衣被,繹癜s時解,即斫刺之.有美髮者断取.凍死及嬰兒隨流而浮者塞水.」

[]袁山松書曰:「年二十五,其督戦訾寶負其屍而瘞之.」

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[三]袁宏紀に曰く:「李、郭は営を焼いて叫び呼び,吏士は色を失って,各々分かれ散ろうという意をもった.李楽は懼れ,欲令車駕御舡過砥柱,出盟津.楊彪曰く:『臣は弘農の人であります也.此より以東は,三十六難が有り,万乗の君が当に登るところではありません.』宗正劉艾も亦た曰く:『臣は前に陝の県令となったことがあり,其の危険を知っています.[有]河師が居たとしても,猶時に傾危有ると謂うのに,況や今師は居りません.太尉が是を慮るところです也.』」

[四]縋音直類反.

[五]宋貴人は名を都といい,常山太守宋泓の女(娘)である也.獻帝起居注に見える.

[六]大陽は,県である,河東郡に属する.前書音義に曰く「在大河之陽」也.即ち今の陝州河北県が是である也.十三州記に曰く:「傅巖在其界,今住穴尚存.」

[七]魏志に曰く:「張楊は字を稚叔といい,雲中の人である.」

[八]王邑は字を文都といい,北地(郡)陽の人で,鎮北将軍である.同じ名が見える.

[九]魏(志)[書]に曰く「乗輿の時には棘籬の中に居り,門戸は関が閉まること無く,天下は臣と会し,兵士は伏籬上観,互いに相鎮壓して以って笑いを為した.諸将は或いは婢を遣わして省に詣でさせて問い,或いは酒を斉しくして天子を送った,侍中は通ぜず,喧呼罵詈(罵言で喧呼した)」也.

初め,帝が入関したおり,三輔の戸口は尚数十万あった,李郭が相攻めあい,天子が東帰して後,長安城は空となること四十余日,強者は四散し,羸者は相食み,二三年すると,関中は復た人跡無かった.建安元年春,諸将は権を争い,韓暹は遂に董承を攻めた,董承は張楊に走り,張楊は乃ち董承を使って先ず洛陽の宮殿を繕修させた.七月,帝は洛陽に還るに至り,楊安殿に御幸した.張楊が以て己で功を為したため,故に因って以て「楊」を殿に名づけたのである.[一]乃ち諸将に謂いて曰く:「天子は当に天下とともになった。これを共にすべきである,朝廷は公卿大臣有るから,張楊(自分)は当に出て外難に当らん,京師で何事するか?」遂に野王に還った.楊奉は亦た出て梁に駐屯した.そこで以て張楊をして大司馬とし,楊奉を車騎将軍とし,韓暹を大将軍として,司隸

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校尉を領させ,皆に仮節と鉞を与えた.韓暹は董承と並んで宿に留まった.

[一]獻帝起居注に曰く:「旧時、宮殿は悉く壊れ,倉卒の際には,故の瓦や材木を拾摭し,工匠には法度之制が無く,作る所は並んで観るに足るもの無かった也.」

韓暹は矜功恣睢し,[一]政事を干乱したため,董承はこれに患わされ,潛かに兗州牧曹操を召しだした.曹操は乃ち闕に詣でて貢獻し,公卿以下と稟議し,因って韓暹、楊奉の罪を奏上した.韓暹は誅戮を懼れ,単騎楊奉のところへ奔った.帝は韓暹、楊奉が翼となって車駕之功有ったことを以って,詔して一切を不問とした.是に於いて衛将軍の董承、輔国将軍の伏完等十余人を封じて列侯とし,(故人となっていた)沮儁に弘農太守を追贈した.[二]曹操は洛陽が残荒しているため,遂に帝を移して許に御幸させた.楊奉、韓暹は車駕を要遮しようと欲したが,及ばず,曹操はこれを撃ち,[三]楊奉、韓暹は袁術の下へ奔って,遂に楊州、徐州の間で暴を縦とすることになった.明くる年,左将軍の劉備が楊奉を誘ってこれを斬った.韓暹は懼れ,走って并州に還ろうとし,道半ばで人に殺される所となった.[四]胡才、李楽は河東に留まり,胡才は怨みをもつ家に害される所となり,李楽は病死した.張済は飢餓に苦しみ,出て南陽に至ると,穰を攻めて,戦死した.郭は其の将である伍習に殺される所となった.

[一]恣睢とは,自任用之貌である.睢音火季反.

[二]袁宏紀に曰く:「議郎の侯祈、尚書の馮碩、侍中の(壺)[台]崇を誅する,罪有るを討つものである也.衛将軍の董承、輔国将軍の伏完、侍中の丁輯、尚書僕射の鍾繇、尚書の郭溥、御史中丞の董芬、彭城相の劉艾、(左)馮翊の韓斌、東郡太守の楊、議郎の羅邵、伏徳、趙蕤を封じて列侯とする,功有るを賞するものである也.射声校尉の沮儁には弘農太守を贈る,節に死んだことを旌するものである也.」

[三]獻帝春秋に曰く:「車駕は洛陽をでて,轘轅から東に向かい,楊奉、韓暹は軍を引き連れてこれを追ってきた.軽騎既に至るや,曹操は陽城山峽中に伏兵を設けて要としたため,これに大いに敗れた.」

[四]九州春秋に曰く:「韓暹は楊奉を失って,孤特となり,千余騎を伴って并州に帰ろうと欲し,張宣に殺されるところとなった.」

建安三年,謁者僕射裴茂を使って詔を下し関中諸将段煨等が李を討って,その三族を誅した.[一]以て段煨をして安南将軍とし,閺郷侯に封じた.[二]

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[一]典略曰:「李の頭が至ると,詔有って高く之を掛けた.」

[二]郷は,今の虢州県である也.説文は「」であるが,今「閿」と作る,流俗の誤りである也.

四年,張楊は其の将の楊醜に殺されるところとなった.[一]以て董承をして車騎将軍とし,開府させた.

[一]魏志に曰く:「張楊は素より呂布と善くしていた.曹公が呂布を圍むと,張楊はこれを救おうと欲したが能わず,乃ち東市に出兵し,遙かにこれ執るを為した.其将楊醜は張楊を殺して以て曹公に応じた.」

都を許としてから後,権は曹氏に帰し,天子は總己し,百官は員数を備えて已んだ.帝は曹操の專偪を忌み,乃ち董承に密詔を与え,使って天下の義士と結んで共にこれを誅そうとした.董承は遂に劉備に与して同じく謀ったが,未だ発せざるに,劉備は出征の機会がきてしまった,董承は更に偏将軍王服、長水校尉輯、議郎呉碩らと結び謀った.事は泄れ,董承、王服、輯、呉碩は皆曹操に誅される所となった.

韓遂は馬騰と涼州に還って自り,更に相い戦い争い,乃ち隴を下として関中に割拠した.曹操が河北を方事すると,慮って其の間に乗じて乱を為した,七年,乃ち拝して馬騰を征南将軍,韓遂を征西将軍とし,並んで開府させた.後に段煨を徴して大鴻臚としたが,病で卒した.復して馬騰を徴して衛尉とし,槐里侯に封じた.馬騰は乃ち召しだしに応じたが,而して子の馬超を留めて其部曲を領させた.(建安)十六年,馬超は韓遂と関中を挙げて曹操に背き,曹操はこれを撃破した,韓遂、馬超は敗走し,馬騰は連座して夷三族となった(三族が誅された).馬超は涼州刺史韋康を攻め殺し,[一]復して隴右に拠った.十九年,天水の人楊阜が馬超を破ると,[二]馬超は漢中に奔り,劉備に降った.[三]韓遂は金城の羌中に走り,其の帳下に殺されるところとなった.初め,隴西の人宗建が枹罕に在って,「河首平漢王」を自称し,[四]百官を署置して三十許年となっていた.曹操は因って夏侯淵を遣わして宋建を撃ち,これを斬った,涼州は悉く平らげられた.[五]

[一]太僕韋端の子である也.弟は韋誕で,魏の光祿大夫である.

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[二]魏志に曰く:「楊阜は字を義山といい,天水冀県の人である也.韋康は以て別駕と為した.馬超は万余人を率いて冀城を攻め,楊阜は国の士大夫及び宗族子弟で兵(法)に勝る者千余人を率いた,弟の楊岳を使って城上で偃月営を作らせ,馬超と接戦した.正月より八月に至るまで拒み守ったが,而るに救いの兵は至らなかった.馬超は入城して,楊岳を冀県で拘束し,刺史と太守を殺害した.楊阜は内に馬超へ報復しようという志を有したが,而るに未だ其の便を得なかった.外兄の姜は歴城に駐屯していた,楊阜は少長(詣)家,姜の母に見えると,前に在った冀中での時事を説き,歔欷悲しむこと甚だしかった.曰く:『何為爾?』楊阜曰く:『城を守って完うすることあたわず,君亡くして死すことあたわず,亦た何の面目あって天下に視息せんか?』時に姜の母は慨然とすると楊阜の計に従した.馬超は楊阜等が兵を起てたと聞くと,自ら将いて出て歴城を襲い,姜の母を得た.[姜の母は]これを罵って曰く:『若し父に背いた逆しまの子,君を殺した桀賊よ,天地は豈に久容なるも(天地がどれほど久しく寛容であると言え),敢以面目視人乎(どの面下げて衆目に身を晒しているのか)?』馬超は怒り,これを殺した.楊阜はこれと戦いし,身には五創を被り,宗族の楊昆や楊季ら死んだ者は七人にのぼった,馬超は遂に張魯のところへ南奔した.」

[三]蜀志曰く:「馬超は字を孟起という.既に漢中に奔って,劉備が劉璋を成都に囲んでいると聞くと,密書して降ることを請うた.劉備は遣わして馬超を迎え,兵を将いて徑って城下に到った.漢中は震え怖れ,劉璋は即ち稽首した.」

[四]宋建は以て河の上流に居した,故に「河首」を称えた也.

[五]魏志に曰く:「夏侯淵は字を妙才といい,沛国の人である也,征西護軍と為った,魏太祖は使って諸将を帥させると宋建を討たせ,これを拔った.」

論に曰く:董卓は初め以て虓闞をして情となし,[一]因って崩剥之執に遭った,[二]故に蹈藉彝倫を得て,畿服を毀裂した.[三]夫れ以て刳肝斮趾之性,[四]則生不足以厭其快,然るに猶も意を折って縉紳とし,繼^陵奪したが,[五]尚も盜窺之道が有るごときであった焉.[六]残寇が之に乗ずるに及んで,山は倒れ海は傾き,[七]崑岡之火は,茲よりおこり而して焚け,[八]版蕩之篇は,焉に於いて而して極まった.[九]嗚呼,人の生也難きかな矣![一0]天地の不仁たるや甚しきかな矣![一一]

[一]詩の大雅に曰く:「闞すること虓虎の如し.」毛伝に曰く:「虎が怒った貌のことである也.」

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[二]剥猶乱也.左伝曰く:「天実剥乱.」

[三]彝は,常ということ也.倫とは,理ということ也.書は云う:「我は其の彝倫攸を知らず.」左伝曰く:「裂冠毀冕.」畿とは王畿のことを謂う也.服とは,九服のこと也.

[四]刳とは,剖である也.斮とは,斬である也.紂(王)は(子を)孕んだ婦を刳剔し,比干之心を剖き,朝渉之脛を斮した.

[五]折は,屈である也.性を忍んで情を屈し,鄭泰、蔡邕、何顒、荀爽等を擢び用いたことを謂う.

[六]荘子に曰く:「跖之徒が跖に於いて問うて曰く:『盜にも亦た道有りや乎?』跖曰く:『何ぞ有すること無いと適うだろうか邪?夫れ室中之蔵を妄りに意うは,聖である也;先んじて入るは,勇である也;後れて出るは,義である也;可否を知るは,智である也;均しく分けるは,仁である也:五者が備わっていなければ而して能く大盜者と成らず,天下は未だ之有さず也.』」

[七]残寇とは李、郭等のことを謂う.

[]:「火炎崑岡すれば,玉石かれる.」

[九]詩の大雅に曰く:「上帝版版,下人卒癉.」毛萇は注する:「版とは,反ということ也.癉とは,病ということ也.言うに脂、が政を為すにあたり,先王之道に反したため,下人が病で尽きた也.」又蕩之什曰く:「蕩蕩上帝,下人之辟,疾威上帝,其命多辟.」鄭玄は注して云う:「蕩蕩とは,法度が廃壊する貌のことである.」

[一0]左伝に曰く:「人生は実に難し,其れ死を獲ざること有らんや乎?」

[一一]老子に曰く:「天地は不仁なり,万物を以って芻狗と為せり.」

贊に曰く:百六有会,[一]過、剥が災を成す.[二]董卓は天を滔じて,三才を干逆せり.[三]方夏は崩れ沸きたち,[四]皇京は埃(埃に塗れた?).無禮が及ぼされたと雖も,余祲が遂に広がってしまった.[五]矢は王輅を延べ,兵は魏象を纏める.[六]區服して傾回すれば,人神も波蕩せり.

[一]前書の音義に曰く:「四千五百歳で一元を為す,一元之中に九が有る,陽五,陰四.陽は旱を為し,陰は水を為す.」初入元百六歳有陽,故に曰く「百六之会」.

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[]大過:「棟撓,本末弱也.」剥:「不利有攸往,小人長也.」

[]とは,漫ということ也.書:「象龔滔天.」

[四]方は,四方のこと;夏とは,華夏のことである也.詩の小雅に云う:「百川沸騰,山崒崩.」

[五]左伝曰く:「禮無きを多く行えば,必ずや自らに及ばん.」

[六]周禮では巾車氏は王之五輅を掌る.纏は,遶である也.魏象とは,闕のことである也.