『袁術くん、Hi!』

 

(今回は)

 一、【呂布軍への調略】

 

 以上、およそ5千字程度の改訂・増補・追加を行っています。(現在本文約115,000字)

(前回までは)

 一、【霊帝薨去から袁術の洛陽脱出まで】

 一、【袁術、反董卓連合にもぐりこむ】

 一、【反董卓連合の崩壊】

 一、【袁術のエン州侵攻と曹操の反撃】

 一、【初平年間の揚州事情と袁術の淮南占拠】

 一、【陶謙の勢力拡張政策とその失敗、袁術の丹楊郡攻略】

 一、【呉書から省かれた孫策の活躍:なぜ暗史は生じたか】

 一、【太傅馬日テイの来臨】

 一、【呉郡都尉許貢、太守盛憲を追い出し太守となる】

 一、【陶謙と袁術の決裂、孫策の出仕】

 一、【曹操の徐州再侵攻】

 一、【筰*融はいつ逃亡したのか】

 一、【徐州の事情と劉備の登場】

 一、【袁術の徐州政策】

 一、【廬江太守陸康の離反と揚州戦役の勃発】

 一、【小霸王孫策の華麗なる戦歴:廬江郡の攻略と揚州戦役】(前編)

 一、【小霸王孫策の華麗なる戦歴:廬江郡の攻略と揚州戦役】(中編)

 一、【小霸王孫策の華麗なる戦歴:廬江郡の攻略と揚州戦役】(後編)

 一、【揚州戦役の終結とその評価】

 一、【豫章の情勢】

 一、【袁術の徐州攻略と対曹操戦略】

 一、【袁術の徐州攻略:曹操のリアクション】

 一、【袁術の徐州攻略と劉備の対応・呂布の裏切り】(約8,800字)

 一、【呂布軍への調略】

 一、【もう一つの袁曹決戦(1):袁術、陳国を欲す】

 

 の所の改訂・増補・追加を行っています。

 

 

 今回の三国志メモは袁術について。

 元々は孫堅の死を書いてからああ、こりゃ次は袁術くんだよなーと翌月出せるようにと考えてたものなんだけど、なんだこりゃ! 十ヶ月以上前だよ孫堅の死! まぁ、このサイトは一年以上も放置してるネタがてんこ盛りになってる塩漬けサイトなので、なんとかご寛恕のほどを。

 

 袁術、あざなを公路、汝南汝陽の人で四世三公の名門袁氏の出である。三国志序盤に曹操と雌雄を決する袁紹とは従弟の関係にあたる。(袁紹は袁術の異母兄だが庶子だったために家を出されて伯父にあたる袁成の家を継いだらしい。演義ではこの辺の事情を全部省いて普通に兄弟と言うことにしている。)袁術もまた強大な群雄の一人として三国志序盤の大舞台を彩ったはずなのだが、この人は誰が扱っても酷い扱われようだ。正史では曹操、劉備や孫堅・孫策との絡みで彼の行動は切り刻まれてしまっているし、演義でも帝位僭称や他の群雄と争った際の禄でもない負けっぷりからこき下ろされっぱなしだ。

 だからなのだろう。袁術の行動はきちんと検討されてこなかった。今回、袁術伝を再構築してみたい。上手くいけばネットでもっとも、っつーことは世界でもっとも詳しくまとめられた袁術伝になると思う…なれる…といいなぁ。ちくま正史三国志などコマーシャルリソースを元に構築する予定ですがちょっとネットのも参考にします。

 

 現在は作成途中なので、打ちっぱなしテキストです。すいません。

 

 それじゃ、スタート。

 

 189年。

 この歳は霊帝の死による混乱と董卓登場の歳である。

【霊帝薨去から袁術の洛陽脱出まで】

 この年、後漢王朝は事実上の終焉を迎える。桓帝の頃から始まった宦官と清流の争いと銘打たれた政治闘争は、ついに朝廷と言うゲームの舞台そのものを破壊したのである。

 4月、霊帝が薨去すると、大将軍何進は外戚として威を奮うべく妹である何皇后の子、劉弁を帝位につけた。後に董卓によって弘農王に格下げされることになる、少帝である。そして何進は実権を握る上で障害となる対抗勢力の排除に出た。帝位継承の対抗馬であった劉弁の異腹の弟、陳留王劉協を押していた宦官の蹇磧<けんせき>を誅戮、更に劉協を庇護していた董太后に迫って自殺させたのだ。

 8月、宦官勢力の一掃を図る大将軍何進側(袁紹ら)の行動に危機感を抱いた宦官側は反撃を講じ、段珪・張譲らが謀って宮中で何進を斬った。大将軍何進の死で窮地に立たされたのは今度は袁紹らであった。袁紹は何進の死を知ると即座に行動を起こす。宮中に兵を入れて宦官皆殺しに踏みきったのだ。虎賁中郎将であった袁術は袁紹に従い、兵を率いて宮中に突入した。大将軍何進の腹心だった袁紹は宦官側が任命していた司隷校尉の許相を斬り、自ら司隷校尉に代わると同じく兵を率いて宮中に突入、2000人とも言われる宦官虐殺を行う。対して宦官側は少帝と陳留王を略取して宮中から脱出するが袁紹らの追求の厳しさに悲観、途中で揃って自殺し、少帝と陳留王は董卓の手に落ちた。

 皇帝を擁して洛陽に入城した董卓は昭寧と改元、司空に就く。

 9月、董卓は少帝を廃して弘農王となし、陳留王劉協を帝位に就ける。献帝である。新帝即位に伴い永漢と改元されたこの時、董卓に皇帝廃位を相談された袁紹は董卓を拒み洛陽を離れた。董卓は新帝即位に伴い改めて太尉につき、国家の警察権を握る。董卓伝に急に太尉に昇進し、とあるのは袁紹の逃亡を如何とも出来なかったことと反対勢力を押さえるために警察権を持つ太尉に就くことの必要性を痛感したからだろう。太尉に就いた董卓は当時董卓の周りにいた人々の意見を汲み取り、洛陽を離れた袁紹に対して洛陽を離れたことを不問に付すと言うことの意志表明と懐柔を兼ね、袁紹を渤海太守に任じ、亢郷侯に取り立てた。袁術はこのころ後将軍にとりたてられている。

 ところが、ここで曹操が董卓からの驍騎校尉任命を拒んで洛陽から逃亡する。曹操の洛陽脱出をこの時(か翌10月)と考えるのは、曹操が指名手配され追われるからだ。これは董卓が袁紹の洛陽脱出時に何も手を打てなかったことを鑑みて太尉に就き、警察権を掌握していた時期で、袁紹の懐柔を行った後と思われる。このとき袁術はまだ洛陽に留まっている。曹操は董卓からの驍騎校尉任命を拒んだ時、当時洛陽に妾としてつれてきていた卞氏に連絡なく洛陽から遁走していた。演義で董卓暗殺に失敗してそのまま遁走したのとそれほど変わらない状況だったようだ。曹操は太尉の董卓が警察権を行使するのは確実と見切っており、一刻の猶予さえないと文字通りの遁走を図ったのだ。その卞皇后伝の中で曹操が死んだらしいと言う知らせを彼女の下に持ってくるのが袁術である。曹操逃亡時、袁術は未だ洛陽に居て「どうやら曹操は死んだらしいってさ、」などと卞氏にわざわざ教えに行っているのだ。実に呑気だ。穿って見るなら元は歌姫で曹操の妾だった卞氏の美貌を拝みにいったのかもしれない。群雄としての野心でなく男としての野心満開で。やっぱ呑気だ。しかしこの段階で曹操が官位を捨てて洛陽から犯罪者のように逃亡するのは曹操以外の者には解せないことだった。荀攸らは董卓政権に協力する腹積もりでいたし、荀或*も孝廉に推挙されて洛陽へゆき守宮令に任じられ、それを素直に受けている。(荀或*伝には彼が孝廉に推挙されたのは永漢元年と書かれている。永漢元年は189年9〜11月の3ヶ月間のみ、12月には中平6年に戻っている。)この段階で董卓の失敗を見抜いたのは曹操只一人、空恐ろしいほどの洞察力と言える。下手すれば一人よがりの勘違いクンになってしまうわけなのだが、恐らく袁紹伝(の注)でも董卓は迂闊な発言をしていることが描かれたりしているから曹操にもうっかりとんでもないことを言ってしまい、それを聞いた曹操が董卓からは距離を置いた方がいいと考え逃げたのかもしれない。が、ここは袁術伝なので袁術に話を戻そう。そんなわけで袁術が洛陽を脱出するのはおそらく189年11月か12月である。(翌年正月の蜂起には名前が挙げられている。)董卓が他の三公の掣肘を嫌って三公に上する相国についた11月か、年号を中平6年に戻して少帝にまつわる事柄をなかったことにした月か。この12月には曹操が済北相鮑信と共に陳留郡己吾で挙兵している。この曹操の挙兵を知って洛陽から逃亡したのかもしれない。あるいは翌正月に起こる関東諸侯一斉蜂起の企てを誰かから知らされこのまま洛陽にいる危険を悟って逃亡したという可能性もある。曹操と違って袁術は後将軍の官位を捨てなかった。捨てたら反董卓と表明したことになってしまうからだろう。また、官位を捨てたらそのことがニュースとして董卓の下に知らされるため、追っ手がかかり逃亡をしくじると言うこともあり得る。それを恐れたと言うのもあるのかもしれない。官位をもったままちょっと南陽にいってみました、と言う袁術くんはちょっと面白い。

 

 

 190年(初平元年)。

 この歳は反董卓連合蜂起の歳である。

 

【袁術、反董卓連合にもぐりこむ】

 正月、関東諸侯が一斉蜂起する。反董卓連合の成立である。この反董卓連合は図られた段階で3つのグループに分けられていたようだ。袁紹を中心とし、洛陽に情報源として何ギョウらを残す冀州グループ、曹操が参加した張貌*らエン州グループ、許靖が参謀についていた孔チュウら豫州グループである。彼らはそれぞれ州郡の軍権を背景に挙兵した。袁術はどれにも属していなかった。それはそうだ。袁術が洛陽を脱出したのは、どう考えても彼らの動きに遅まきながら気づいて身の危険を感じてからなのだから。

 その袁術がまがりなりにも正史に諸侯連合の一員として名を連ねられているのは、後に呉を建国することになる孫策・孫権兄弟の父、孫堅(文台)の寄与するところが大きい。長沙太守である孫堅はまったくの私事から当時荊州刺史王叡<おうえい>を殺害し、続いて南陽太守張咨<ちょうし>もその手にかけたところだった。(当時の荊州の州都は南陽にあった。荊州刺史王叡を(軍を率いて)殺害すると言うことは同時に南陽郡への進軍にもなった。)郡太守として越権行為どころでなく、関東諸侯が反董卓の旗の下、一斉蜂起している状況でなかったら重罪行為として誅戮されていてもおかしくないところだった。しかし状況は孫堅に幸いし、孫堅は南陽を袁術に献じることで反董卓連合の一員として行動したのだと言うことにしてしまう。袁術も孫堅の参画で反董卓連合の有力諸侯の一人として董卓に対処することになる。孫堅が袁術から離れなかったのはこの辺りの後ろ暗さがあったからなのかも知れない。ここは袁術伝なのでそう書いておく。

 董卓は先帝にあたる弘農王劉弁を郎中の李儒に命じて毒殺する。洛陽から連れだされて反董卓連合に利用されるのを怖れての処置だろう。

 2月、董卓は長安への遷都を行う。この時、遷都に反対した太尉黄宛*(宛*は玉ヘンがつく)と司徒楊彪を免職、趙謙を太尉に王允を司徒に任じて遷都を行っている。また関東諸侯一斉蜂起の裏幕が判明したのだろう、長安で袁紹・袁術の叔父にあたる袁隗<えんかい>の一族が袁紹・袁術への見せしめとして三族誅戮された。袁隗は当時太傅として董卓政権に協力する姿勢(少なくとも反対はしないと言う姿勢)を示していたのだが、袁紹・袁術の行動が禍となったわけだ。袁紹・袁術は袁隗の仇を討つと言う名分をも手に入れた。

 董卓が洛陽を離れて長安へ向かうと(袁隗一族を殺害するため?)、そこに戦機を見た曹操が諸侯に協力を求めて洛陽への進軍経路途中にある成皐占拠を提案(要害としての成皐とその近くの敖倉に蓄積してある兵粮が狙い)、連合軍を組んで進軍する。陳留太守の張貌*<ちょうばく>(貌*はしんにょうが付く)が幕下の衛茲をつけ、済北相鮑信は弟の鮑韜<ほうとう>と共に曹操に続く。が、董卓側の徐栄に迎撃され軍勢はほぼ壊滅した。以降、反董卓連合は洛陽への進軍を躊躇い、悪戯に時間が過ぎていく。徐栄との戦いに敗北し戦力を失った曹操はエン州グループにおける発言力を失い、揚州で1、2部隊程の兵を確保すると袁紹の下へ身を寄せる。

 反董卓連合はこのまま徒に時間だけを費やして翌年を迎えることになる。

 

 

 191年(初平2年)。

 この歳は反董卓連合崩壊の歳となった。

 

【反董卓連合の崩壊】

 正月、事態の行き詰まりを感じていた袁紹は冀州牧韓馥<かんふく>と謀って皇族である幽州牧劉虞<りゅうぐ>を皇帝に擁立し董卓と同じく官位の任免権を得て状況を打開しようとするが、劉虞の拒絶にあって失敗する。

 2月、行き詰まった状況を打開したのは、袁術に従う長沙太守孫堅だった。孫堅は董卓が派遣した陳郡太守を兼ねる胡軫<こしん>率いる董卓軍を破り、都尉(部隊長。群雄割拠が常態となるまでは都尉は郡の警察権(この場合は軍事)を裁量する資格者で郡(太守)が任用する将帥と見なせた。群雄割拠前の後漢制度での中朗将は中央の派遣する将帥だったりする。)華雄の首を斬った。陽人の戦である。これには胡軫の人徳の無さと彼に反発して利敵行為を働いた呂布らの動きも関っているのだが、それを知ることの出来ない董卓は孫堅を怖れ、全軍を洛陽から撤退させた。夏4月のことである。

 そしてその無人の地、洛陽に孫堅が入城する。

 袁術はこの功績を評価し、このころ死去した(と思われる)豫州刺史孔チュウの代わりに孫堅を(勝手に上表して)刺史に任じた。しかし、この袁術の行動に反董卓の諸侯連合を主宰していると自負する袁紹は不快感を抱き、自分でも豫州刺史として周禺*(仁明)(禺*は日ヘンがつく)を任命、孫堅の後ろを襲わせる。(公孫贊*伝の中に注されている『典略』では周禺*ではなくその兄の周昂が豫州刺史になっている。公孫贊*伝では周昂に孫堅の拠点を攻撃させたとあって豫州刺史かどうかには触れていない。)

 こうして反董卓連合は瓦解する。この時の争いで袁術の側にいた公孫贊*<こうそんさん>(贊*は玉ヘンがつく)の親族が戦いに参加、戦死したことから公孫贊*と冀州の争いが始まり、袁紹はそちらに力を割かなければならなくなる。また荀或*<じゅんいく>が一族を引連れて冀州へ赴くのはこの頃のことと思われる。荀或*伝で冀州から韓馥が人材を迎え取りに騎兵を派遣して来たと言う記述が見えるが、この争いに関る部隊だったと考えられる。

 7月、袁紹は兵站に窮し、ついに策略を用いて冀州牧位を韓馥から詐取する。

 袁紹には黄河を隔てた此方側に継続して直接関与する力は無かった。また断続的な関与さえこの冀州牧への就任に伴う諸事の処理や公孫贊*への対処などに追われおざなりになったのだろう。袁術勢力は孫堅と周禺*の豫州刺史を巡る争いを有利に進めることができたようだ。恐らく、秋の内には孫堅が豫州刺史として認められるような状況になったと思われる。

 反董卓連合が無残に崩壊してゆくこうした状況を見ていた董卓は洛陽再占拠に踏みきる。董卓側が反撃に転じたのだ。占領軍の統帥は朱儁<しゅしゅん>。黄巾賊を誅滅するのに大功あった将軍で、黄巾賊討伐時には現在反董卓側で袁術についている孫堅を朝廷の許しを得て部下にし戦いに赴いており、軍事能力について当時有数の人材だった。袁術の下にいる孫堅が軍を率いた場合、黄巾賊討伐の経緯からして(かつての上司で、功績を上表して貰った関係上恩顧もあって)やりにくい将軍でもあった。

 ところが、朱儁は董卓から離反、洛陽を出奔し、兵を率いて荊州(南陽)つまり袁術の下へやってきた。どういう経緯があったか不明だが、朱儁は中牟に駐屯して北(から来る董卓軍)に備え、袁術は背後に憂いを持つことなく南方の劉表討伐乗りだすことになる。袁術は対劉表戦を起こし、その総帥として孫堅を派遣した。劉表は董卓から任命された荊州刺史であるだけでなく、この歳の後半、豫州刺史の任命を機に生じた袁紹・袁術の争いで袁紹側についていた。また、この頃までに荊州中部の有力豪族蔡瑁<さいぼう>・赫*萌*越<かいえつ>らの輔弼を受け、まつろわぬ他の豪族らを賊として誅戮し兵力を吸収、襄陽を拠点に群雄としてやっていけるようになっていたのである。190年から191年前半までは必要性の無かった劉表の排除は、この時行わなければならない状況となっていた。

 12月末、この冬を通じて対劉表戦を極めて有利に進めていた孫堅が戦死した。不慮の事態だった。袁術は自勢力の再編を余儀なくされる。(この辺のより詳しい状況は三国志メモ『孫堅の死』を見て下さい。)

 メモ:後漢書朱儁伝http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/sangoku.htmを見たらまた訂正する余地はありそう。

 

 

 192年(初平3年)。

 この歳は董卓の死と二袁の争いの歳である。

 

 正月、董卓は子飼いの李カク、郭巳*<かくし>(巳*はサンズイがつく)らを派遣して中牟で朱儁を撃破、そのまま陳留・潁川敖略を行わせる。孫堅の死でまともな軍事行動の取れない袁術はそれを望見するしかなかった。また董卓は袁紹には冀州牧壷寿を派遣し、冀州の西から并州にかけてを拠点にしていた黒山賊を使嗾して公孫贊*との挟み撃ちを試みている。界橋での公孫贊*に対する戦勝を祝う間もなく、魏郡郡都業*(業*はおおざとがつく。読みはギョウ)が(残していた軍が董卓の派遣した冀州牧壷寿の側についたために)陥落、太守粟成が殺され、袁紹もまた董卓の働きかけで生じた危機を回避するのに手一杯となった。

 4月、董卓が司徒王允と呂布らにより暗殺される。李カク・郭巳*らが出払い、長安で董卓子飼いの軍事力が払底した隙をつかれてのものだった。王允と呂布は一度は長安で政権を樹立するがそれは二月ともたなかった。長安と洛陽を結ぶ中間地点にある陝に集まった李カクらが賈クの提案に従い、ダメもとでと、長安を急襲したのだ。6月、長安は攻略10日で陥落し、王允は追い詰められて自殺、呂布は長安を脱出、南陽(袁術の下)へと向かう。袁術は一度は呂布を受容れてみたものの、不安に駆られたか、彼を追いだした。呂布は今度は袁紹の下へ向い、黒山賊を冀州から追いだす作戦で大いに武勇を奮うことになる。

 董卓側の反撃によって危機に陥った袁紹・袁術の両勢力はあっけない董卓の死によって息を吹き返す。息を吹き返した彼らが行ったのは、二袁の争いである。陳寿の筆からなる武帝紀(曹操の伝)には192年に至ってから袁紹・袁術が決裂したように記されているが、単に状況が二袁の争いを本格化させなかっただけのことと考えるべきだろう。

 この頃、漢朝の任命した揚州刺史陳温が病死している。袁術はこの後がまに下ヒ出身の陳禹*<ちんう>(禹*は玉ヘンがつく)を任命した。袁紹の方でもまた、従兄弟で反董卓連合結成時に山陽太守だった袁遺を派遣、九江太守に周昂を送る。(周昂はその前に任命されていたかも知れない。)とはいえ、袁遺の派遣はこの時かどうか自信がない。武帝紀の中で『英雄記』からの註釈として河間の張超が太尉の朱儁に袁遺を推薦しているとの記述があるからだ。(この河間の張超は後にエン州謀叛に預かる張バクの弟でもと広陵太守の張超とは別人。そちらは東平の人。)朱儁が太尉になっているのは193年6月から。その時には袁術は揚州に入って陳禹*を追いだし寿春を支配している(ちくま文庫版の巻末年表には袁術が陳温を殺して寿春を得たのが193年3月と書かれている。)。袁術伝の方の『英雄記』注では袁遺が揚州刺史になったあと袁術に破れて沛国に逃げる途中殺された、とあるのでこの192年中に袁遺が袁術(側)と揚州を争ったとすると、193年春には陳禹*が揚州牧として寿春にいることからその時までに袁遺は揚州から排除されてしまい、沛国へ逃亡中に殺害され故人になっていたことになる。それだと張超が(193年6月に太尉となった)朱儁に死んだ人間を推薦したことになりおかしなことになる。張超の言葉は『張超集』(本人が書いたものとされるもの)を出典にしていることが記されているので、どの記述も間違いではないとすると袁遺の派遣は193年になってからで袁術が陳禹*を追いだした事へのリアクション、と考えるのが妥当にも思える。しかしそうだとすると、袁術の派遣した揚州刺史陳禹*と袁紹の派遣した九江太守周昂が192年の後ろ(秋冬)から193年の春まで共存していた、不思議なことが起きていたと判る。揚州の州都寿春は九江郡の中にあり、九江郡の拠点陰陵とさほど離れていないからだ。193年に袁術が揚州に逃れてくると袁術が任命した筈の揚州刺史陳禹*が袁術を拒んでいることから、周昂と陳禹*の間に友交が生じていたのかも知れない。この揚州情勢に関しては後でもう一度考察する。

 揚州についてはともかく。

 董卓の死によって二袁の争いは激化する。袁術は黒山賊に魏郡を荒らされた袁紹勢力を葬る好機とばかりに公孫贊*に援助を要請、雪辱を期す公孫贊*は平原に単経、高唐に劉備、発干に陶謙を派遣し、袁紹を圧迫する。袁紹は曹操に協力させ、これを打ち破った。

 192年の袁術の行動は此処まで、これ以上記載するものがない。なぜならこの後、袁紹は黒山賊を排除したりひっくり返った自領を再統制したりで奔走していたし、曹操らは押し寄せる青州黄巾賊に翻弄されていて、袁術は彼らの苦境をただ眺めていれば良かったからだ。だから袁術が南陽で馬鹿げた放蕩をしでかして民力を疲弊させるのはこのころ、と言うことになるだろうか。しかし袁術のために言うなら、そんな時間の使い方はすべきでは無かった。この歳の10月、荊州刺史劉表は長安から鎮南将軍・荊州牧に任じられ州の軍権を手に入れている。恐らく使者を派遣したのだろう。それを見た徐州刺史陶謙も幕僚である趙イク・王朗らの意見を受容れて長安に趙イクを使者として派遣し、翌年早々に安東将軍・徐州牧に任じられ、州の軍権を手に入れるのである。

 他の群雄はこのように着々と次の手を打っていた。袁術もまた彼らのように将来のための手を打つべきだったのだ。

 

 忘れるところだった。

 この歳、青州黄巾賊のエン州乱入で賊と正面決戦を選択して戦死したエン州刺史劉岱<りゅうたい>の後任のエン州刺史として、京兆出身の金尚(元休)が(李カク・郭巳*らに牛耳られ迷走する)長安政権から派遣される。しかし金尚はエン州に赴任出来なかった。州刺史が戦死する異例の事態の中、青州黄巾賊を降伏させて州を救った曹操が、臨時に州に奉戴されて称したエン州牧の位を手放すことを拒み、金尚を受容れなかったからだ。その金尚が袁術の下に転がり込んでいた。長安政権の派遣した正規のエン州刺史を擁したところから、翌年、袁術の行動は始められる。

 

 

 193年(初平4年)。

 この歳は袁術にとって拠点である南陽の喪失と揚州攻略の歳となった。

 

【袁術のエン州侵攻と曹操の反撃】

 正月、(李カク・郭巳*らに蝕まれる)長安政権が派遣したエン州刺史金尚を擁した袁術は軍事行動を開始する。南陽・潁川の辺りにいたと思われる袁術は北に向い陳留郡に侵入、自らは封丘に駐留すると部下の将軍劉詳を封丘の東方、匡亭に派遣・駐屯させた。前年の春、曹操に破られた黒山賊の残賊と於夫羅が袁術に助力した。(ところでこの劉詳、劉巴の父、劉祥となんらかの関係があるのだろうか。書写の間違えで劉祥と劉詳は同一人物、と言うことだったりしたら、この後の考察がまるでアレになってしまうのだが。)袁術は始めは兵站を南陽郡から取っていたと思われるがそれはすぐに出来なくなる。劉表がそれを絶ったからだ<武帝紀>。

 この時期、前年冬に荊州牧となった劉表は袁術の糧道を絶つのに早速牧伯の権能を振ったようだ。只の監察権を発展させただけの刺史では得られない軍政を敷く力を持つ牧位の重みで南陽(郡)を劉表側に寝返らせたと思われる。袁術が南陽で際限なく税金を取り立てたこともあったからか、南陽は袁術から離れた。蜀書『劉巴伝』の中に裴松之が注で残している『零陵先賢伝』に劉巴の父、江夏太守で盪寇将軍を名乗る劉祥が(それまでの南陽太守張咨を殺害した孫堅に加担していたために、怨んだ)南陽の士民に殺害された、との記述が見える。劉祥が南陽の士民に殺害されるような状況が訪れるとしたなら、この時が最もあり得た時期かと思う。(後方にいて兵站を担う)劉祥の排除が「南陽の士民」によって行われたとあるのだから、この時の劉表は(軍事力を用いることなく)檄文を飛ばすだけで南陽を州牧の統治の下に組込んでしまったのでは?と想像出来る。その後袁術が南陽を顧みなかったのもこの想像を補強してくれるかも知れない。

 しかし重要な兵站地としての南陽を喪失したにも関らず、袁術はそのまま軍事行動をとった。どうやら袁術は兵站を南陽ではなく潁川郡や陳国、河南郡東部(河南は洛陽を擁する郡。洛陽が首都で無くなったので一応、郡と言っときます。それとも河南尹の呼称のままでいいんだろうか?)、陽武・中牟・京・密県などを含む地域から取って(取り直して?)曹操と対決したと思われる。河南東部が袁術軍の兵站地に成りえたのは朱儁との関りからだろうか、それとも先年、董卓軍を破って洛陽に入城した孫堅が陽城を拠点にしていたわずかな期間の間で、この地域の人々に与えた袁術勢力に対する好印象がこの時もまだ残っていたのだろうか。(追記(12/01):後漢書によると袁術はかつて河南尹の官に就いていたことがある。恐らく河南尹東部地域が袁術に協力していたのはこれが理由だろう。)このあと195年後半、曹操は呂布をエン州から追いだすとエン州諸郡県の奪還を行っているのだが、その中に本来エン州ではない、河南郡東部地域である陽武・中牟・京・密を曹洪に攻略させて<曹洪伝>、それに続いて袁術勢力圏の陳国へ侵攻、武平で(袁術側の)陳国相袁嗣を降伏させる。それまでのエン州奪回の軍事行動から見ると唐突な印象さえ与えるその河南東部地域の攻略も呂布との戦いで中断した対袁術戦の続きであり、また、覆ったエン州に入り込んできた袁術の影響を失った諸郡県を再奪還する過程で排除するのに必要な行動であったと見ると曹操の行動に一貫性を見ることが出来る。ともかく。この頃、陽武・中牟・京・密を含んだ河南東部地区は袁術に味方する地域だった。劉表が袁術から南陽を絶っても袁術が(下ヒを陥落された徐州時代の)劉備のように困窮することなく行動しているのには一つにはこうした理由があった(ようだ)。

 

 この時の袁術が袁紹との直接対決まで考えていたかどうかは定かではない。しかし長安から派遣されてきたエン州刺史金尚を擁してエン州に入り、成り上がりエン州牧の曹操を蹴散すことは考えていただろう。袁術が曹操を破れば、荊州(の内、南陽・江夏の2郡)、司隷(の内、洛陽以東の河南郡)、豫州、エン州と言う、4州に手足を伸ばす中原の一大勢力となる。そしてその彼に協力する諸侯として北方に公孫贊*、東方に陶謙を抱え(その公孫贊*と陶謙は青州を分けあっていて、中国東方の海岸地帯はほぼ彼らの手にあった)、後漢末の混迷を払う最有力候補となった筈だった。

 しかし袁術は曹操に破れる。

 武帝紀に『太祖(曹操)は劉詳を攻撃し、袁術が駆け付けると合戦してこれを打ち破った』と書かれる匡亭での袁術対曹操の戦いは、曹操の勝ちパターンにまんまと嵌められたものだった。曹操の軍事行動で三国志の中、最初にそれが見られるのは、192年春、黒山賊との戦いに於てである。頓丘に陣を置いた曹操は元々の(東郡の)拠点東武陽を黒山賊に襲われた。それに対し曹操は東武陽を救援せずそのまま黒山賊の本拠地を攻撃、慌てて戻ってきた彼らを待ち伏せて大捷した。裴松之は『魏書』から(孫武に並びどちらも孫子と言われる)兵法家孫ビンの囲魏救趙の故事を曹操に語らせた部分を注に引いて曹操の作戦がどういうものであったかを解説しているが、この匡亭の戦いも囲魏救趙の応用だった。

 通常、侵攻方向に対し前方に堅固な拠点を設けてそこに(少数の)兵を篭らせ、迎撃に来た(多数の)相手を攻めあぐねさせ、疲弊したところをこちらから本軍で撃破する、或いは侵攻して来た相手の大軍を堅固な拠点に少数の兵を篭らせて堅く守り、相手が疲弊した所を後方から大軍を派遣して撃破する、と言うのはセオリーである。曹操はこのセオリーに対し、敵の前衛拠点を攻めてこちらの相対的疲弊を待って進発してくる敵本軍を迎撃に有利なところで待ち伏せて破ると言う勝ちパターンで対抗した。春秋戦国時代の孫ビンの才能を示す特殊事例として描かれていた筈の囲魏救趙の故事を、攻撃迎撃どこでも使える汎用作戦として当代に甦らせ運用してのけたのだ。黒山賊との戦いを初出として、袁術との匡亭の戦い、呂布との定陶の戦い(第一次)、鉅野の戦い、袁尚との業*包囲戦と、至るところでこれを適用する曹操を見ることが出来る。相手が救いに来た場合はその本軍を迎撃して破って拠点に篭る前衛部隊を意気阻喪させて拠点を陥落させるし、相手が曹操を怖れて拠点を救いに来なければそのままその拠点を攻め落とす。落とした拠点は重要拠点なので本隊の方に深刻な影響が出る。後に楊奉は梁の本営をそのまま落とされて袁術の下へ逃げ出すことになったし、198年に滅ぶことになる呂布も彭城を攻撃された時に迎撃を選択せず、そのまま彭城を落とされている。迎撃したら破られ、迎撃にいかなければ重要な拠点を喪失して本隊の意気が阻喪する、曹操の仕掛ける究極の選択・戦争のデフレスパイラルだ。予定戦場を何処に定めるか、その予定戦場でどれだけ相手より先に準備を整えることが出来るか、何時どのように戦いを始めるか、その戦いの決定機をどう作りだすか、そうした戦いのイニシアチブをどうやって取るかと言う根本のところを理解していたからこそ囲魏救趙と言う故事を作戦として汎用できたのだろう。

 袁術は匡亭の戦いで、匡亭を囲んで相対的に疲弊し、袁術本隊の到着で匡亭に篭る劉詳と袁術を相手にしなければならず腹背に兵を受けることになって困難に直面しパニくる曹操とそれを破ってエン州を手に入れる自分、と言う状況を考えて軍を進めたと思われる。しかし実際には周辺の地理から予定戦場を定めてそこでの戦いの準備を周到に進め、そこに袁術を引込んだ形になった曹操に彼は破れる。匡亭の戦いが余程印象づけられたのか(曹操と戦うことは事前に入念な準備の済んだ罠の中に飛び込むことと同じなのだと言う印象を得てしまったのか)退却して封丘を守ってみたものの曹操が封丘を囲みはじめると包囲網が出来上がらない内に袁術は退却してしまった。退却先は襄邑。襄邑に追撃を受けて更に太寿へ逃れた袁術は曹操に囲まれ、掘割を決壊、水を注ぎ込まれて水攻めされ、太寿から寧陵へ逃げた。当時の寧陵がどういう地形であったか分からないが寧『陵』と名付けられるからには地形的に水攻めができないような場所だったのではなかろうか。太寿の水攻めが袁術にどんな恐怖を与えたか、想像に難くない。

 寧陵に逃れても曹操の追撃は止まなかった。寧陵はエン州に属する襄邑と豫州に属する隹*陽(隹*は目ヘンがつく。読みはスイ。豫州梁国の都)の中間地点にある。エン州(曹操が州牧となっている州)と豫州(袁術が孫堅を刺史に任命した州。この時は孫賁が刺史か?)の州境辺りだ。その寧陵に曹操がやってくると、ついに袁術は遥か揚州へ逃れた。過*水(過*はサンズイがつく。読みはカ。)か隹*水(隹*は目ヘンがつく。読みはスイ。)の水運を用いたのだろう。豫州をまるまる飛ばしたわけだ。そんな遠くまで兵站をつなげることの出来ない曹操は追撃を諦め(或いはエン州から追いだしたから善しとしたのか)、定陶へ拠点を移し戻っていった。袁術の、情けないまでの大敗北と大敗走である。しかし、袁術はここから奇跡のカムバックを果たす。淮南の攻略である。

 因みに全くの余談だが、この袁術と曹操の連戦で掘割を決壊された太寿、ここにずっと後に夏侯惇が赴任して来て、この地域で続く干害と蝗害の災害をどうにかしようと堤を築き灌漑を施し、農業生産力の恢復に努めることになる。夏侯惇が築いた堤がこの193年の袁術と曹操の戦いの時に決壊させられた掘割の修繕だった、と言うのではないと思うが、「まったく、孟徳(曹操のあざな)はやったらやりっぱだからなー、尻拭いはいつも俺だよ」と太寿のインフラ整備に取り掛かる夏侯惇(蒼天航路のような展開)を想像すると少し面白いかもしれない。

 

【初平年間の揚州事情と袁術の淮南占拠】

 曹操から逃れた袁術はまず寿春へ入ろうとする。揚州の拠点、寿春には袁術が任命した揚州刺史陳禹*<ちんう>(あざなは公韋*)(禹*も韋*も玉ヘンがつく。韋*の読みはイ)がいた。袁術は項羽に破れて兵を失った劉邦が韓信の下に転がり込みその兵を奪って勢いを盛り返した故事に倣う積もりだったようだ。しかし袁術の目論みは早々に頓挫する。袁術の上表でその位を得たはずの揚州刺史陳禹*が袁術を拒んだのである。

 この時期の揚州事情を切り開いて見ながら袁術の淮南攻略を見る。

 後漢王朝が任命した揚州刺史は陳温(あざなは元悌)と言う。汝南の出だ。しかしこれは魏書系の伝とそれに付けられた裴松之注の諸テキストだけで、呉および蜀書系の伝と裴松之注では陳韋*<ちんい>(韋*は示ヘンがつく)となっており、明確に記述が分けられている。死亡年が192年でその後に書かれる諸状況から同一人物の別名と言う関係ではないかと見ると整合的だが(例えば郭巳*と郭多の関係。魏と呉蜀で記述の異なる人物としては他に陸遜がいる。彼は魏では陸議(と改名前)のまま記されている)、実際には違うかもしれない(例えば陳温と陳韋*は兄弟で兄の後を弟が受けた、など)。記述に関して様々な面から(裴松之が注に引く諸テキスト群に比べ群を抜いて)周到さが窺える陳寿も(けどカレ、稀に大ボケかましてくれたりするんだけど)つっこみどころを見つけると目をきらきら輝かせハリセンつっこみを入れにやってくる裴松之も(生き生きしてるよね、マジで)共に触れないところを見ると二人とも陳温と陳韋*の関係をはっきりできなかったのだろう。(或いは彼らの生きていた時代には二人の関係ははっきりして常識であり、わざわざ記す必要も感じなかったか。)ともかく、今の所此処では陳温と陳韋*を一つにして「陳温」として扱っておく。この陳温は192年に死亡する。死因は陳寿の記すところによれば袁術によって殺された、裴松之の注するところによると病死である。此処では病死としておく。この陳温の死を受けて袁術と袁紹はそれぞれ揚州刺史を(勝手に)任命する。袁術は上述のように下ヒ出身の陳禹*(実は陳登の一族)、袁紹は関東諸侯挙兵時に山陽太守だった袁遺(袁紹、袁術らの従兄弟)。結果、揚州は陳禹*が治めるところになるのだが、その過程が不明なので、まずその辺りを押さえてみる。

 さて、この揚州、州都と言うべき寿春は九江郡の中にある。二つの敵対勢力同士がそれぞれ刺史を送り込む時、この九江太守がどの勢力についたかと言うのは、極めて重要な要素だろう。見てみると二袁がそれぞれ陳禹*・袁遺を揚州刺史に任じたのと前後するかのように、九江郡太守として周昴が袁紹により送り込まれていることが分かる。袁術側は不明だ。(と言うより送られていないのだろう。)袁術側の揚州刺史陳禹*、袁紹側の揚州刺史袁遺、(揚州州都寿春を擁する)九江郡太守周昴がどういう時系列で任命されたかは陳寿の三国志、それに付された裴松之注からだけではよく分からず、もはや当て推量以外にない。一つの考えとして、まず袁術により陳禹*が送り込まれ寿春を占拠、次いで袁紹によって袁遺・周昴が送り込まれたが、先に寿春を押さえられてしまっていたため九江郡都として陰陵を選択、そこにはいったのではないか?と言うものがある。それからもう一つ、この揚州刺史を巡る争いに先だって行われた豫州刺史を巡る争いを押さえて見た場合に出てくる考えがある。先に袁紹と袁術の間で豫州刺史位の任命で争いがあった後、(その争いで一定の役目を果たした)周昴が袁紹によって九江太守に任命され先任者の後を受けて陰陵に入る、この時後漢王朝が任命した陳温は未だ存命で寿春に居るが彼は曹操に好意を持っていて彼の挙兵に協力しており、また揚州を構成する郡の一つ丹楊郡の太守周斤*<しゅうきん>(斤*は日ヘンがつく)の弟と言う関係もあって周昴を受容れた(だから袁術側の九江太守がいない。)、その後陳温が病死した機、袁術の任命した揚州刺史陳禹*が袁紹の任命した揚州刺史袁遺に先んじて寿春に入城、陳温が手にしていた兵をまるまる手に入れたのでは?と言うものだ。陳禹*が袁遺に先んじて寿春に入城出来たのは、袁術が袁紹より地理的に近い位置に居たため袁紹より早く手を打つことが出来たのだろう。この場合、周昴が(寿春占拠に向かうなど)なんの行動も起こしていないのは不思議に見えるが、袁紹に知らせを走らせたくらいはしていただろう。変に寿春占拠に向かったりすれば、陳温病死後、寿春に残された陳温幕下の部下(別駕などの諸従事)が態度を硬化させ周昴に反発、反袁紹に走ることは充分考えられる。(実際それを窺わせる記述が裴松之注に遺されている。)それを避けて後任の揚州刺史(袁紹側)が寿春に入る際に彼らを説得する行動に出た方がいいと考え、敢えて動かなかったとしたら別段不思議ではない。そうなのだろう。そうしていたら袁術が任命した陳禹*が残された陳温の部下たちと揉めることもなく先に寿春に入城してしまい茫然とした、そう言うことではないだろうか。どちらのストーリーを取るにしろ、袁遺はこの時周昴とともにいたのではないかと思う。

 郡に対する監察官と言う立場で生まれてきた刺史は、後漢末に至って郡が対処出来ない叛乱が相次いで起こり、監察権しか持たない刺史では対処出来ない軍事行動を必要とする事態が続発したために州レベルで統一した軍事行動を行うことを求められ生みだされた牧と異なり、州を基盤とする軍権を有しない。そのため刺史が軍事行動を起こす時は常にその州都を擁する郡国の太守か州内で彼と馬が合う太守との連携を以て行われ、軍権への間接的なコミットメントで軍事力を振るうことになる。(監察官から発展してきた刺史は郡太守への監察権の発動と言う形式を通してしか軍事力を振るうことが出来ない。そのため使用出来る軍事力(指揮系統レベル)は郡規模となる。各太守の軍権を顕す割符を刺史が各太守から集めて行使でもしない限り州として統一した軍事行動を取れないのだ。)こうした刺史と言う立場の弱さを見た上で袁術側の揚州刺史陳禹*が(九江郡)寿春に居て袁紹側の九江太守周昴が(九江郡)陰陵にいることを考えるなら、袁遺より先に陳禹*がやってきて陳温亡き後の寿春(州都で、かつ九江郡一の都市)を押さえてしまったため、周昴はそれまで蓄えられた寿春の軍事力を背景にした陳禹*を力で追いだすことが出来ず、陰陵で様子を見ていた。そういう流れが自然だろう。これは反董卓の諸侯連合が成立した時の袁術と劉表の関係が参考になる。この場合、袁紹側の揚州刺史袁遺が居るとするなら、周昴の居た陰陵に同じく居たということになる。或いは先に陳禹*と袁遺との間で衝突が生じて袁遺が排除されてしまった後かもしれない。その場合、袁遺は陳禹*によって揚州から追いだされ沛国に逃れる途中殺害された、となるが(袁術伝の裴松之注『英雄記』の記述)、此処では袁遺は周昴と一緒だったのでは?と言う選択肢の方で話を進めてゆく。

 こうした状況のところへ袁術はやってき、そして陳禹*に拒まれる。自分が任命した揚州刺史に受容れを拒まれる、こんな不思議な状況が生じたのは、このとき袁術が曹操に大敗北を喫していたばかりでなく、いや、それよりは寧ろこのときの揚州が微妙なパワーバランスの均衡線上に乗っかっていて、袁術はそのバランスを壊しかねない存在だったからだ。

 袁術が曹操から逃れて揚州入りした時、袁術が任命した揚州刺史陳禹*は袁紹が任命した九江太守周昴と共存していた。(揚州州都寿春は九江郡の中にある。九江郡郡都として周昴が居た陰陵は寿春とさほど離れていない。)本来まともには軍権を行使できない刺史が反対勢力の太守が治める郡の中に州都を定めて居続けている状況がどうやって生みだされたか(の推測)は先ほど述べた。先ほどの推測に従えば先に郡下の軍事力を押さえられてしまった周昴が圧倒的に優勢な軍事力を有することになった陳禹*を排除できないのは分かる。が、陳禹*が周昴を排除しない理由はなぜか。

 第一に、(袁術に任命された)陳禹*の配下は(ここまで述べた推測で寿春を手に入れたとするなら)もともとは(曹操に好意的でそのため袁紹側の九江太守周昴を受容れた)陳温の配下だったからだ。陳温が病死するまで寿春と陰陵は平穏にやってきたのだ、その関係を(新参者の)陳禹*が破ろうとした場合(つまり寿春の軍をもって陰陵攻撃を命じた場合)何が起こるか分からない。今まで平穏にやってきた関係、それもそれまで前任の上司(陳温)の下では仲間同士といってよかった関係を壊そうとする行為に皆反発を抱き、それを命じた新参の上司(陳禹*)排除に動くことは充分有りうる。そのため陳禹*は周昴を攻撃せず(できず)また袁術の受容れを拒んだ(拒まざるをえなかった)のだ。

 第二に、(袁術側として)陳禹*が押さえていたのは寿春だけであり、揚州として区割りされている他の郡の太守が袁術側でなかったからだ。九江郡は揚州として北端にある。その九江郡の中にある寿春から見て、南方にある揚州の他の郡太守たちの存在が心理的に牽制としてはたらいていたのだろう。九江郡の南に接して廬江郡がある。此処の太守は陸康、漢の末に任命された、と言う記述があるから関東諸侯が蜂起する前に任命された太守(袁紹・袁術が任命した太守ではない)で袁紹・袁術に掣肘されない存在であったようだ。(当サイト掲示板でのむじんさんの書込みを受けてあらためて読み直してみました。)取りあえず中立的立場に立っている彼は、陳禹*の行動次第では敵対する立場に立つかもしれなかった。更にその南にある丹楊郡は太守が九江太守周昴の兄、周斤*である。陳禹*が周昴を攻撃した場合、こちらは敵対することが明らかだった。丹楊兵と呼ばれる精強な兵を出す土地柄の丹楊を押さえているこの周斤*と揉めるのはどう考えても得策ではない。陳禹*が周昴を攻撃しない理由の二つ目である。

 このように寿春内部の事情と寿春を巡る揚州の地域事情が陳禹*と周昴の共存をもたらしていたのだ。しかし袁術はこうした情勢を斟酌しなかった、斟酌しない存在と見なされた、のである。袁術は陳禹*に拒まれる。

 

 寿春入城を拒まれた袁術は初めどういうことかわからなかったのではないだろうか、そしてどういうことかわかった途端、烈火のごとく怒ったのではないだろうか。本来なら袁術を奉じて州を押さえにかかるべき人間が州を押さえられず取込まれた(ということな)のだから。寿春に入れなかった彼は九江太守周昴のいる陰陵攻略へ向かう。先に述べたように陳禹*が寿春で揚州の兵(と言ってもその実態は九江郡の兵)を押さえていたとするなら、陰陵の兵は少ないか新規に集められたものか、その両方であったろう。袁術側の主将は孫賁であった<孫賁伝>。

 やはり周昴の兵は少なかったのかも知れない。この時、周昴の弟、周禺*が救援に向かっている(討逆伝の裴松之注『会稽典録』。討逆伝は孫策の伝であるが、誰の伝であるかわかり易くするため、以下便宜上孫策伝と言う。)。救援は丹楊郡から出された。193年のこの頃には、孫堅が未だ生きている時に始まった豫州刺史位の任命権を巡って行われた袁紹側と袁術側の争いは袁術側が袁紹側を追いだすと言う形で決着がついていた。その豫州刺史位任命権を巡る袁紹と袁術の争いの時に袁紹側の豫州刺史であった周禺*は従ってこの193年の時、無官だったと思われる。その彼が次兄である九江太守周昴の下へ兵を率いて救援に赴いたと言うなら、彼はこの時長兄である丹楊太守周斤*の下にいたのだろう。

 しかし周禺*の救援は無駄に終わる。陰陵は陥落した。袁紹側の揚州刺史袁遺が袁術側の攻撃を受けて敗走し、沛国へ逃れる途中殺害されるのはこの時と考えられる。出身地である汝南に逃れるのではなく沛国に向かっているのは(汝南が袁術の勢力圏にあったために)袁紹の下へ逃げ込むか復命する積もりだったのだろう。

 そして、陰陵を陥落させた袁術は淮北で盛んに兵を募る。先の曹操との戦いに於て逃走するなか散り散りになった兵たちを呼び戻したのだろう。揚州刺史陳禹*はその間なんら有効な手を打てないでいた。外から見たら袁術の受容れを拒んだ経緯がある以上、袁術の矛先が次に向かうのは陳禹*であることは明かなのに、袁術からの外交攻勢でありもしない期待を抱いてしまったと見える。陳禹*がその判断を誤らせたのはそれだけが理由ではない。弟である九江太守周昴を攻撃された丹楊太守周斤*が袁術と断交したのは予想されていたことだったろうが、九江郡のすぐ南にある廬江郡の太守陸康が袁術の下に挨拶の使者を派遣したのは予想外だった。この廬江と丹楊の対応の違いに陳禹*は迷ったのかもしれない。陸康が直接出向いたかどうか分からないが、陸績伝に『陸績は六歳の時、九江で袁術に目通りした』と言う記述がある、これは廬江太守である陸康が袁術に挨拶の使者を送った時のことを指していよう。袁術が孫賁を主将として九江郡の拠点陰陵を陥として拠点にし、寿春を手に入れてそちらに移るまでの短い(九江)滞在期間に、陸績は袁術と会っていたようだ。(三国志は他の人物の所でもそうだが、何処で、と言うのと、どう言う地位に居たときに、と言うので大体それが行われた時期を同定出来るようになっている。すべてに当てはまるわけではないようだが、殆どの記述はそうしたところを拠り所にできるようだ。勿論根っ子の方で年が確定している記述と噛みあわせる作業が必要だが。)そして廬江太守陸康の息子陸績が六歳という年齢で袁術と会っている意味は、廬江太守陸康が袁術と敵対する意志はないと言うことを示すことにあったと思われる。(そしてそして更に突っ込むと、九江を収めた程度でもう蜜柑をデザートに出してるあたり、際限の無い贅沢で自分が治めている地域を疲弊させる、後の袁術の姿が窺えたりする。)ともかく、この時、廬江は袁術の勢力圏に入った。廬江郡を攻撃したと言う記述がなく、そのあと呉景によって丹楊郡の攻撃が行われることを見てもそれは明かだろう。

 寿春は完全に囲まれた。

 寿春から見て北と西は豫州、袁術の勢力圏であった。すぐ南の廬江郡はあっさり袁術に挨拶しにいき敵対の意志が無いことを表明、寿春を助ける積もりのないことが明らかになる。そして東方には九江郡の拠点陰陵、もとは周昴が治めていたがこの度袁術が治めるところとなった九江郡郡都がある。そしてその陰陵から、淮北で募られた兵が袁術の命の下、寿春へ向かっていると言う。ここに至って陳禹*は袁術と和解を図ろうと弟の陳宗*<ちんそう>(宗*は玉ヘンがつく。読みはソウ)を派遣する。が、彼は袁術に捕えられた。

 淮北で兵を集め、準備万端整えた袁術が寿春へ向かうと、一戦も交えることなく陳禹*が逃亡するのは、この状況を見れば無理のないことだった。かくて193年冒頭、劉表によって南陽を失い、曹操によって封丘で大敗北を喫し、襄邑、太寿、寧陵と敗走に次ぐ敗走で豫州を飛ばし揚州にまで逃れ(色んな意味で大ダメージを受けた筈だっ)た袁術は、193年3月、その季節も替わらない内に揚州州都寿春を掌中にし、九江郡と廬江郡を勢力圏下に収めるのである。

 それにしても、実に見事である。この袁術の淮南占拠は軍事的に見れば、潜在敵対勢力の分断と各個撃破の好例であり、軍事と外交を噛みあわせて寿春を包囲してゆくに至る流れは軍事理論の教科書に手本として例示されてもおかしくないくらい美しい。電撃的マジックと言う他ないこの所業を成し遂げた袁術は、次に丹楊郡攻略を目標に定める。太守周斤*が袁術と断交したのである。その袁術の丹楊郡攻略は、長安から任命された揚州刺史劉ヨウを利用して行われることになる。

 

【陶謙の勢力拡張政策とその失敗、袁術の丹楊郡攻略】

 193年夏、袁術と曹操の戦が終わり、曹操に破れた袁術が淮南を取得に走っている頃、また淮南を手に入れた袁術の(あるかもしれない)エン州への再侵攻に備え曹操が定陶に留まっている間に、徐州で動きがある(曹操が定陶に留まったのは他にも定陶を補給地にして青州兵を食わせる必要があったことも見逃せない。武帝紀には多数の青州兵を引連れたと思われる曹操が領内の主な拠点を転々とする記述がよく見られ、兵を養うのに苦労している様子が分かる。関連テキスト)。

 この頃徐州を治めていたのは陶謙である。陶謙はこの時期、長安政権に使者として徐州別駕趙イクを派遣して刺史から牧に官位を変更するのに成功したばかりでなく、安東将軍の位も与えられていた。しかし牧になった陶謙はどうしたことか、かなり血迷った行動をとる。下ヒの賊、闕宣<けっせん>が天子を自称したのに加担、泰山郡の華県、費県を攻め落とし任城国を攻め荒らしたのである。この歳の夏早々、徐州牧に任じられてからのことと思われる。牧になる前に天子を自称する賊と結んでいたら牧位は許されないだろうからだ。加えるなら、劉ヨウ伝に彭城国の相、薛礼が陶謙の圧迫を受けて秣陵へ拠点を移したと言う記述があるが、この闕宣の時のことを指しているのかも知れない。これについては後で考察する。

 陶謙の泰山郡侵攻と任城国での略奪行為は、当然のことながら曹操の反撃を受ける。泰山郡も任城国もエン州に属しており、曹操はそのエン州牧を公言していたからだ。193年夏に行われた陶謙の泰山郡侵攻は秋に至って曹操軍による徐州南部への逆侵攻と言う反撃を招き、結果、徐州南部十余城の陥落と略奪、つまり徐州に於ける経済基盤の深刻な破壊喪失に至る。泗水を下って徐州に攻め込んだ曹操に対し初め陶謙は迎撃に出た。彭城での大会戦である。しかしこの戦いは陶謙軍の壊滅的な敗北に終わる。数万にも及ぶ人々が屠られて死骸となり、泗水の流れは滞留したと言う。以降陶謙は曹操の撤退まで泗水を盾にしてその北岸の徐州を守って動かなかった。泗水を挟んだ南の徐州は見捨てられた。(陶謙の下で下ヒの相を務めていた丹楊出身の筰*融<さくゆう>が自分の抱える男女1万を引連れて下ヒから逃げ出すのはこの時と考えてよい。後に呆れるほど様々な無道を尽すこの男がこうした逃亡で何もしなかったとは思えない。今では確認する術もないが曹操軍の凶行とされたことの幾許かは恐らく筰*融の所行であったろう。(筰*融の逃亡時期は他にも考えられる。要再考))曹操軍は翌年正月まで実に半年近くこの徐州南部に駐屯し続けるが、ついに彼らが撤退したのは、食べるものがなくなったからであった。彼らはその軍事行動に於てエン州ではなく侵攻先の徐州南部を兵站にし、ことごとくこれを食い尽くして去ったのである。鶏犬皆尽く、とはそう言うことであった。

 この頃、陶謙の勢力圏は豫州北端の魯国・沛国北部にまで及んでいたが、その地と徐州をつなげる交通路(水運)は未だ袁術の勢力圏にある豫州の影響も受ける状態にあったと思われる。その圧迫を緩和するのに泰山郡の華県・費県は魅力的だった。何より泰山郡華県・費県を中継地とする陸路を陶謙領として獲得・打通できれば魯国と瑯邪国の通路が拓かれ水陸両路が獲得されることになってその利便は(陶謙にとって)かなりのものになったと思われる。(費県を中継地とした陸路は魯と瑯邪を結ぶ。瑯邪からは沂水が流れているためこれを利用すれば陶謙が拠点にしていた東海郡炎*(炎*はオオザトがつく。読みはタン)を通って下ヒに至る。徐州をぐるりと巡る通運が確保されるわけだ。)しかし、そうした地政学的な視点での戦略判断があったものと酌量してみても、山がちで獲っても然程得るものが無い泰山郡の二県に青州黄巾賊に荒らされた任城国から略奪して得た物資を加えたものと、董卓の乱以来の混乱で中原から多くの豪族・商人たちが人と富を抱え逃れて来て豊かな経済活動を始め、活気を呈していた徐州南部とを交換したのは、陶謙の愚断であった。名目上はエン州だが実質として曹操の勢力圏外にある、山がちでそれ自身としては生産力が低い泰山郡の二県を攻め取った位で、兵站に窮する曹操は動くまいと判断したのだろう。しかし兵站に窮しているからこそ逆に徐州へ侵攻して来るとは、陶謙は考えなかったのだろうか? 陶謙の行った華県・費県の攻略と任城国での略奪行為は餓えた曹操に豊かな徐州南部の攻略と徹底した略奪を許し正当とするまたとない好機を与えたのである。本当に、またとない好機であった。地政学的な視点を以て量ると言うなら、そこまで陶謙は量るべきだった。

 陶謙が血迷った行動を取ったのは、それまで彼を輔佐していたブレーンが彼の下を離れたと言うのが大きいだろう。使者として長安に赴いた徐州別駕の趙イクは徐州東南端の広陵太守に、同じく長安への使者派遣を進言した徐州東海出身の茂才、王朗は揚州南端の会稽太守になって郡に赴任、どちらも陶謙の側から居なくなってしまったのだ。この頃の陶謙には北海国の相、孔融も協力しているので、彼経由の人脈で選択されたと思われる青州東來*(來*は草カンムリがつく)出身の劉ヨウなども陶謙が徐州牧になった時に揚州刺史にされている。趙イク・王朗・劉ヨウについては臧洪と共に若い頃、同じ時期に三署(五官中朗、左中朗、右中朗)の朗になっていて、彼らが同僚同士であったことが臧洪伝に残されているから、彼らの間に交友関係があってその関係から劉ヨウの揚州刺史任命が出てきた可能性の方が高いかもしれない。(更にネット上で確認した後漢書朱儁伝http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/sangoku.htmから推し量ると、この彭城国の相、薛礼も陶謙の徐州牧就任に伴って長安から任命されたようである。朱儁が董卓が死んだ直後に陶謙らからこの混乱をまとめるよう推挙される中に、彭城の相として汲廉と言う別の人の名前が挙げられているからだ。とすると、薛礼が陶謙の圧迫を受けて秣陵に拠点を移し((友達?の)趙イクが治める広陵郡と接している)、更に後に揚州刺史劉ヨウを頼ったのは、彼らが仲間同士(またはかなりよく知っている者同士)だったからではないかと言うことが窺える。)

 劉ヨウの揚州刺史任命は二袁の争いで起きる袁紹・袁術の任じた揚州刺史の後釜と言うよりは192年に病死した正規の揚州刺史陳温の後釜と見た方がいいようだ。徐州からの使者が長安まで往復するのに要する時間を考えるとその方が無理が無さそうに思える。ともかくこうした経緯と状況で揚州刺史に任じられた劉ヨウは、しかし、揚州州都(州の治所)寿春を含む淮南を袁術に押さえられてしまっていたため、任地(寿春)で職務を遂行しようがなく、淮南をうろうろしていた。

 袁術はその揚州刺史劉ヨウを確保すると呉景・孫賁の部隊を輔佐につけ、曲阿へ落ち着かせる。(呉景伝にそう書かれてるが、曲阿は広陵郡(太守は趙イク)に長江を挟んで隣接していると言う事情も大きかったのではないか。劉ヨウ自身の希望でもあったのだろう。)袁術が(揚州で)この時手にしていたのは揚州州都寿春を擁する九江郡(郡の方の拠点はこの時は陰陵)と廬江郡だけであったのだが、彼は後漢王朝が正規に任命した揚州刺史劉ヨウを擁したと言う形をとって、丹楊太守に呉景を丹楊都尉に孫賁を上表し任じると、後任の太守が来たのだからその座を明け渡せとばかりに丹楊太守周斤*を攻撃させた。193年晩夏・初秋のことと思われる。

 袁術の命を受けた呉景・孫賁が丹楊郡の攻略を行っている最中に、曹操は徐州への侵攻を開始している。呉景・孫賁の丹楊攻略が晩夏に始められたとすると、曹操の徐州侵攻はその後と言うことになる。曹操軍はこの時の徐州侵攻で徐州彭城・下ヒ国の諸県を攻略・略奪して食料を得ているのだが、下ヒの東隣にある徐州広陵郡へは略奪に向かわず、翌年正月に食料が尽きたとして撤退している。地理的に広陵郡中南部は泗水と淮水が合流する場所にあたり、射陽湖を中心として沼沢地帯が広がっていたようで進軍は容易ではなかったろうと思われるのだが、それを差し引いても曹操が広陵に手をつけず撤退してしまったのは不思議な気がする。まさか広陵太守趙イクを憚った、と言うのではあるまい。ここで呉景らの丹楊攻略が意外に苦戦していたことなどを合わせ、ひとつ、次のような楽しい想像をしてみよう。

 淮南を手に入れた袁術は自分と断交した丹楊太守周斤*の討伐にとりかかれず、じりじりしていた。と言うのも曹操が定陶に駐屯して袁術を睨み、その動向に注意を払っていたからだ。曹操が(たちどころに淮南を占拠してしまった)袁術を警戒していたように袁術もまた曹操を警戒していた。先の封丘から続く連戦で受けた曹操軍への恐怖はまだ薄らいでいなかった。曹操が定陶に留まってこちらに注意を向けている以上、袁術と断交した丹楊太守周斤*を討伐したくても、それは難しい。(兵を派遣した途端、曹操が攻め込んでくるかもしれない。)そこに徐州牧陶謙の泰山郡・任城国侵略が起こる。好機、と袁術は見たのではないだろうか。袁術はこの事件で曹操の目が自分から陶謙に向かう可能性が高くなったと考えた。先に自分が陳留郡へ侵攻した時もエン州から追い払うだけでなく州を踏み越えて(寧陵まで)曹操は追撃し続けてきた。陶謙に対しても曹操は同じことを行うだろう。そこに漁夫の利が生ずると見た袁術は早速画策する。呉景・孫賁らを丹楊郡攻略に向けて派遣し、それを喧伝したのだ。袁術の淮南占拠の功績がこの呉景らのはたらきにあることを曹操が聞き知っているならば、呉景ら(袁術軍主力)が丹楊郡に向かったと知れば曹操は袁術がエン州へ侵攻してくる積もりは暫く無さそうだと見当をつけるだろう。そしてそう見当をつけた曹操は陶謙に返礼するため徐州へ侵攻するに違いない。徐州へ侵攻した曹操と徐州牧陶謙が互いに争いあい、疲弊してくれればもうけもの、その争いが深刻になるのを見届けてから呉景たちに増援を送れば丹楊郡のことは曹操と陶謙が争っている間に片をつけることができる。

 袁術の目論み通り、袁術が呉景らを丹楊郡の攻略に向けて派遣したと聞いた曹操は袁術への警戒を解き、大々的に徐州へ侵攻した。ところが誤算が起きる。袁術の胸の内では袁術の実効支配圏を遠く離れた(泰山郡と徐州の境か)徐州のど真ん中で陶謙と争いあうはずの曹操が、なんと徐州南部で陶謙と争い、次々に県城を落としながら淮水流域まで南下してきたと言う。曹操にも誤算があった。(袁術軍の主力とも言うべき)呉景らが丹楊郡攻略に向かったと聞いたから徐州へ侵攻したのだ。それなのに淮水を臨む徐州南部まで来てみれば寿春にかなりの大兵力が残留していると言う。公孫贊*・陶謙・袁術の結びつきを思えば曹操はそれ以上進むことが出来ず(東の広陵郡へ進めば陶謙と袁術に包囲され退路を断たれる、南と西は淮水なので侵せば袁術が反応するのは確実で二正面作戦を強いられることになる)、淮水と泗水の両方を睨みながら陶謙が我慢しきれず泗水を渡ってくる(そして二度目の会戦になる)のをじりじりと待つ以外なかった。袁術も淮水下流に曹操が居る以上、そしてその曹操軍が腹を空かせて寿春を眺めているように見える以上、危険過ぎて寿春から兵を動かせず、呉景らに援軍を送れない。袁術・曹操・陶謙ら群雄たちのじりじりと焦されてゆくような待機時間は、曹操が徐州下ヒ国南部を略奪しきったことで終わりとなった。曹操はエン州へ帰還した。袁術はほっと安堵の溜息をつく。呉景らから丹楊太守周斤*を逐い落としたとの報告が届いたからだ。最初に謀ったものと多少経緯は違ったものの、曹操と陶謙が争っている間に丹楊郡を落とすことが出来たのは上手くいったと言ってもいいだろう。

 こんなことがあったのではと想像してみた。

 

 呉景・孫賁らの丹楊攻略は193年末、遅くとも194年冒頭には完了したと思われるが、この丹楊攻略に孫策が深く関っていた。

 

【呉書から省かれた孫策の活躍:なぜ暗史は生じたか】

 武帝紀の初平4年(193年)に不思議な記述がある。

『この歳、孫策は袁術の命を受けて長江を渡り、数年の内に江東を平定してしまった。』

 初めこれは三国志本文に時折見られる陳寿の単純ミスかと思ったのだが、どうやら違うようだ。陳寿のこの記述は193年の呉景・孫賁らが行った丹楊郡の攻略に孫策が関っていたと言いたいらしい。呉書では194年からデビューしたように描かれているのだが、孫策は193年には既に袁術に従い、活動していたようなのだ。

 これからそれを論証してゆこう。

 孫策が関わる丹楊郡の攻略は193年に呉景・孫賁が袁術の命を受けて行ったものと、孫策自身が江東制覇の過程で主導した丹楊郡平野部の占領、太史慈を得る丹楊郡山岳部の鎮定、袁胤を丹陽太守の座から追い出した時に袁術側のはたらきかけで不穏になった丹楊郡を再び鎮定したもの等がある。しかしここに出てくる丹楊攻略とは『三国志呉書』呉夫人伝に付された呉景伝に孫策が呂範と孫河をおじの呉景に預けて手伝わせた丹楊攻略のことで、193年の出来事だった。孫策は江東を制覇するにあたって揚州刺史劉ヨウを追い払った後、呉景・孫賁を袁術の下へ帰し、以後は自力で呉郡・会稽郡の攻略に取り組むことになるため、呉景・孫賁両者が関わる丹楊郡の攻略となるとこの193年のもの(のみ)である。これが193年であることはこれとは別に孫策・呂範・孫策の母呉夫人の動きからも同定できる。呂範伝には、呂範は寿春で孫策と会い、自分に従っていた食客らを連れて孫策の下に身を寄せたとある。そしてこの時まだ孫策の母である呉夫人は江都に居ると付記されている(この頃は二張の一人、張紘に世話を頼んでいた←これは曲阿に移ってからのことかも知れない)。また孫策伝では興平元年(194年)の記述に先んじて徐州牧陶謙を避けてこのころ丹楊太守になっていたおじの呉景を頼って江都から曲阿に母を移し、自分は呂範や孫河と共に呉景のところに身を寄せたとの記述が存在する。呉景が袁術によって丹楊太守に任じられるのは193年夏以降である。となると孫策が呉景の所に身を寄せるなら193年夏以降と言うことになる。孫堅の妻であり孫策・孫権の母である呉夫人はその前、孫策の父、孫堅が戦死するまで廬江郡舒県にある(舒はこの頃廬江郡の郡都だったようだ)周瑜の家に庇護されており、孫堅が戦死すると遺体を呉郡曲阿に運んで葬儀を行った孫策に連れられ、江都へ居を移し張紘の所で世話を受けている(192年)ことから孫策が呂範と寿春で会ったのは192年〜193年夏までの間の何処かでとなる。この内192年の相当期間は漢朝の任命した揚州刺史陳温が寿春に居り、親曹操つまり袁紹派と見られる彼がいる以上孫策が寿春で呂範と会うことは考えがたい。また、陳温が死んだ後は袁紹・袁術がそれぞれに揚州刺史を派遣して寿春を争わせるから未だ十代で兵も持たず実力も定かでない孫策が情勢の目まぐるしく変わる寿春に居たとも思えない。(居たとしたら何のために?どう言う経緯で?などが問題になる。)となると孫策が呂範と寿春で会うのは袁術が寿春を占拠してから(193年夏以降)と言うことになるだろう。こうしたことから整合的に考えるなら、孫策は父の葬儀を終えてからはもと父の軍団の誰か(直接軍を率いる後継となった孫賁か、母方のおじと言う関係にあった呉景か)の下にいて袁術のところで活動していた、そして袁術が寿春を占拠すると(もうこの頃にはそれなりに名前を知られていたようで)呂範と会い、彼を従えて丹楊攻略へ向かった呉景にくっついてゆき、途中で江都から母親を連れだして曲阿に居を移したのでは?と言うことが見えてくる。呂範が袁術のスパイだと疑われ陶謙側に拘束されて、ちょっぴり(どころか死にかけるくらい)痛いメに遭ったりするのはこの時と言うことになる。(外から見た場合、曹操に大敗北を喫した筈の袁術は州を跨いだ敗走などなんのことかと嘯いてもいいほど速やかに淮南を占拠している。そして陶謙側がワザワザ長安へ派遣して得た揚州刺史劉ヨウを抱き込んでしまい(そのように見える)、彼を擁して曲阿に軍を送り込み、南方に影響力の浸透を図ろうとしていた陶謙側と摩擦を起こすように勢力を浸透させてきた。この時期は193年晩夏、曹操は徐州略奪を期して秋の収穫が来るのを待っていた時期で、徐州牧位を得てエン州を侵した陶謙は(そうした曹操の意図に気づかず)最も調子に乗っていた時期だった。陶謙が劉ヨウを擁した袁術側の行動に不快感と警戒感を抱いてもおかしくない。この後起きる曹操の第一回徐州戦役を生き延びると陶謙は劉備を小沛に駐屯させたのみならず、彼に豫州刺史位を上表して与える。この時の豫州は袁術勢力なのだが(刺史はおそらく郭貢)、魯国とわずかに沛国北部が陶謙の実効支配下にあった。袁術と陶謙の関係が良好なら陶謙は袁術側の豫州刺史がいる事に配慮して自分の方で豫州刺史を準備すると言うことはやらない筈だ。(その場合、劉備は魯国の相になっていただろう。)しかし陶謙は自分の近くに進出してきた袁術に警戒感を抱いてしまった。曹操の第一回徐州攻略で公孫贊*が援軍を派遣したのに対して、寿春に居た袁術は陶謙を救援した節が見られない、それが決定打となったのか、陶謙は袁術を潜在敵(または頼るに足りない相手)と見なしこれみよがしに(または当て付けのように)劉備を豫州刺史へ任命するのである。…なんだか劉備だけボロ儲けしてるような…。)

 孫策は呉景・孫賁らの丹楊攻略に協力したばかりではない。単に呂範・孫河を派遣して呉景に協力したに止まらない深い関与と相当の働きがあったと見られる。単に呂範らを派遣したに止まらないのでは?と思うのは呂範・孫河と孫策の結びつきを考えてみたときに思えることで、彼らが孫策から離れて行動したとは考えがたいためだ。呂範と孫河は孫策が不遇を囲っていたとき、いつも孫策と行動を共にし山野を跋渉して辛苦を舐めた仲である。孫策の不遇時代とされるこの時期にその傍に侍り常に行動を共にしていた彼ら二人がこの時だけ別行動というのもおかしな話だ。(ありえないことではないが。)恐らく孫策自身も呉景・孫賁らの丹楊攻略に参加していたのではないだろうか。(しかしそれが孫策伝(討逆伝)に描かれない説明は今暫く置く。)

 次に孫策がその呉景・孫賁の行った丹楊攻略で相当の働きをしたのではないか?と言うことだが、それを仄めかしているのが、朱然伝の記述である。

『朱治はまだ子がなかったことから朱然が年十三であったときに孫策に上言して朱然を自分の跡継ぎにしたいと願い出た。孫策は丹楊郡の役所に命令を下し、羊の肉と酒とを供えて[鄭重な礼で]朱然を召し出させ、朱然が呉(蘇州)へやって来ると、孫策はあつい礼でもって[この養子縁組を]祝ってやった。』<朱然伝>

 朱然伝にある朱然の死去した年と年齢から逆算すると(249年、68歳。朱然死去の年については他に呉主伝(孫権伝)でも確認できる)朱然が朱治の養子になったのは194年であることが判る。これから書き記してゆくことだが194年の袁術周辺は孫策が朱治の勧めに従って寿春へ出かけて袁術の下に出仕したあと、徐州牧陶謙が病死、その死に乗じて徐州を得ようと考えた袁術が軍事行動を企図、そのための兵糧3万石を廬江太守陸康に要請したところ陸康の拒絶にあって軍事行動を起こせず、徐州は劉備にもっていかれる、みすみす好機を失った袁術は怒って廬江を攻め、その廬江攻めを見て揚州刺史劉ヨウが呉景・孫賁を追い出し長江沿いの諸口、津を固め195年へ、という流れになっている。孫策が朱然伝に記されるように朱治の願いを聞いて丹揚の役所に命令を下し、朱然を呉(ちくま文庫版ではカッコして蘇州とあるが恐らく当時呉景らに擁された劉ヨウが政庁を置いていた曲阿ではないかと思われる)に迎えるといったことが可能な時期を194年の中に求めると194年の極めて早い時期で、袁術の下へ(公に)出仕する以前ではないかと考えられる。袁術の下へ出かけてからだと曲阿で朱然を出迎える余裕が無くなるのだ。勿論寿春で袁術に会ってのち、太傅馬日テイから懐義校尉の官を授けられ、そのあと廬江攻撃を指揮するまでの間に呉へ戻って朱治の願いを受容れて朱然を招くと言うことは不可能ではないが、孫策が懐義校尉の官を馬日テイから授けられた時には同じく朱治も馬日テイの掾(つまり太傅掾)になっており、また呉郡都尉になっている。それだとわざわざ孫策に希うまでもなく、自分で直接(当時丹楊太守であった)呉景に願えばいいことだ。つまり朱治が孫策に朱然を養子にしたいと願い出て朱然を呉へ迎えると言う事態は、朱治が呉景らに対してお願いできる立場になく、孫策なら朱治の願いを聞き入れまたそれを実行できる立場にある、と言った状況でないと成り立たない話である。馬日テイに会ってからでは遅すぎる(つまり寿春で袁術に会ってしまってからだと遅すぎる)わけだ。朱然が朱治の養子になるのは従って、孫策が寿春で袁術に会って出仕を表明する前、丹楊郡が呉景らの領するところになった後、194年の極めて早い時期となるだろう。朱然伝では孫策は丹楊郡に命令を下して朱然を呉に招いたとあるが、そこまで力があったかどうか幾分割り引いて見なければならない点はあるにせよ、この時の孫策が丹楊郡の役所に対して強くものを言えたことを示しているのは確かだ。そうした物言いが可能であったと言うことは、呉景の丹楊攻略について孫策が単に(殆ど唯一の部下と言うか仲間である)呂範・孫河ら(と彼らが率いていた食客、孫策が糾合して得た兵卒併せて数百人余り)を派遣しただけではなく、その攻略において十分大きな功績を上げていたことを示すのではないかと思われる。(つまり、孫策自身も丹楊攻略に参加し呂範・孫河らを率いて色々功績を挙げたのではないか?と言うことだ。)そしてこの孫策・朱治・朱然の動きをまとめると、孫策が194年に袁術の下に出仕するまでの流れは次のようなものになるだろう。

 まず193年晩夏から始まる丹楊攻略で正規軍でもない孫策率いる呂範・孫河らの部隊は呉景・孫賁の丹楊攻略に於て度々大きな貢献をする。(直接の軍事力(量)として役に立ったと言うより戦機を作りだすとか拠点攻略でなにか策略を立てたとか作戦を進言したとかいった側面援護で重要な役割を果たしたと考えるのが妥当だろう。)こうして丹楊郡はなんとか呉景・孫賁らの実効支配下に組込まれる。その直後の194年初春、孫策の下に居てそうした孫策を輔佐していた朱治は、主であり、丹楊郡を実行支配するに多大な貢献をした、したがって丹楊太守である呉景に発言力を有するまでになった孫策に自分が丹楊出身であり、子がないことから姉の子の施然を養子に招いて朱然としたいと希う。孫策はそれを快諾、丹楊郡の役所に命令を下し(おじの呉景に要請して)丹楊郡から朱然を呉(曲阿)へ招き、朱治の養子にする。無理な願いと思っていたことが叶えられた朱治は感激し、孫策に向かって、このまま才能を埋もれさせてはいけない、正式に袁術の元に出仕して飛翔すべきと説く。朱治の熱意にほだされた孫策は一同を引連れ寿春へ向かい、袁術の下へ顔を出す。これが194年春半ばの頃か? こういったところになるだろうか。

 さて、ここからは話が本筋から完全に外れ、更に大きく想像の領域へ入る。それにしても、なぜ朱治はこの時期に朱然を養子に、などと言い出したのだろう。不思議に思わないだろうか。この時の丹楊郡を獲得するための戦いはかなり凄惨なものだったようだ。太守周斤*は後漢王朝が任命した正式の太守であると言う矜持を持ち、弟たち(周昴・周愚*)が被ったことへの雪辱を期していたと思われる。また、長らくその統治に親しんだ丹楊郡は余所者である呉景・孫賁らに激しく抵抗したと見える。攻めあぐねた呉景は周斤*に協力するものは民衆であろうと敵兵として扱う(つまり容赦なく討伐の対象とする)と宣言、実行に移したようだ。これ以上の徹底した抵抗は寧ろ民の怨みを自分に向けさせてしまうと考えた周斤*は怨みがまだ呉景らに向かっていて、かつ組織的な抵抗が難しくなった段階で太守の座を退く。『民になんの怨みがあるのか、そんなに丹楊が欲しいと言うなら勝手にすればいい』周斤*が故郷へ帰った後、呉景らは丹楊諸県を自勢力へ組込んでいくが、恐らく民の怨みは残ったろう。そしてこうした凄惨な丹楊攻略の過程で朱治の一族が無事だったとは考えがたいのだ。(朱治は丹楊郡故章*の出身(章*はオオザトがつく読みはショウ))郷里に戻って見ると、残してきた妻をはじめ一族の影姿がない。血を吐くような現実に打ちのめされた朱治は辛うじて姉が他家に嫁いでいたために無事だったことを知る。自分が死ねば一族は全滅する。そこで朱治は姉の子の一人、施然を養子に得たいと望む。殆ど慟哭である朱治の願いを孫策は何としても実現させようと丹楊郡の役所に強く要請、そうして十三歳の施然は曲阿で孫策に迎えられ、朱治の養子、朱然となったのではないだろうか。只普通に他に兄弟がいなかっただけかも知れないが、朱治が兄弟の子など近縁の他の朱氏の子をではなく、他家に嫁いだ姉の子を養子に願ったのは実に示唆的だ。また、こうした状況があったのだとするなら、遥か後の事になるのだが、(朱治が死んでその喪が明けた後)朱然が施姓に戻りたいと願った時に孫権がそれを許さなかったわけも理解出来てくる。当時、孫権は未だ少年で母と共に曲阿に居たが、そこには孫策も居た。孫権は兄の孫策から朱治が養子を願った背景をつぶさに聞いていたのだろう。そうした背景があったとするなら朱然が如何に施姓に戻りたいと言っても(この頃には朱治には息子がいて爵位を継いだのだが)孫権が決して許すはずはないのだ。なぜならかつてあった朱治が朱然を養子に迎えるにあたって起きた出来事、背景にあった物語を蔑ろにすることになってしまうから。それは孫権の許容しがたいことだったに違いない。(後に朱然の子の施績が大功を立てて施姓に戻ることになるがそれは孫権が亡くなった後のことである。もう事情を知る者、知っていたとしても斟酌する者は誰も居なくなっていたのだろう。)以上、朱治にまつわる想像である。

 

 閑話はここまでにして、ここまで、孫策は袁術の寿春占拠時には既に袁術の下に居たことが確認できた。また193年晩夏から始まる呉景・孫賁らの丹楊攻略にもどうやら大きく貢献したことも判ったと言っていいだろう。そこで出てくる疑問は、孫策は本当は一体いつごろから袁術の下で行動していて、そしてそれが孫策伝に描かれなかったのはどういうことか、といったことだろう。

 袁術によって丹楊出身の陳紀が九江太守に任じられる前にはもう孫策が袁術の下に居たのは確かだろう。丹楊の陳紀が(丹楊の、とワザワザ書くのは後に魏に仕える陳羣の父親の陳紀と混同しないため)九江太守に就任した時期が判ると面白いのだが、判らないので先に話を進める。想像ではあるが、袁術が九江郡(陰陵)を攻略した時には孫策はその下に居たのではないかと思われる。この頃、孫策は二十歳に満たない(194年で数え二十歳になる)。後ろ盾もなく実力も定かでない孫策にただ孫堅の息子だと言うだけで袁術(やその周辺)が九江太守の地位を約束するのはおかしなことだ。考えられるのは袁術が寿春を占拠するまでの何れかの段階で達成困難な目標が存在しており、その目標を達成するのに功あった者への成功報酬として九江太守の座が提示され、そして孫策はその目標達成に大きく貢献した、袁術はそこで九江太守の座を約束したが何らかの事情でそれを反古にした、と言うことだろう。孫策伝に裴松之が注する『呉歴』では家族を連れて曲阿で父の葬儀を終えた孫策が母と幼弟たちを江都へ連れていった時のこととして張紘とのエピソードを記している。そこに張紘へ母と弟たちを預けて孫策が(功績を挙げようと(何処かへ))出立する様子が表されている。実際にこの後出立できたかどうか、疑問は無いでもないが、順調にゆけば孫策はこの後出立したことになる、192年のことだ。192年と言えば、孫策は齢十八、功績を挙げようとしても一人では如何ともしがたい。当然拠るべき所あっての出立と見なければならない。何処か。袁術の下にあった孫堅の残した軍団の下、その中の誰かの下、と言うことになるだろう。完全に確かに同定できたわけではないが、孫策は袁術と曹操の封丘の戦いの時には袁術の軍団の中にいたかも知れない、その可能性は大きい、と此処に書いておく。

 それでは孫策は袁術に九江太守の座を約束させた、どんな目標を達成するのに関ったのだろうか。封丘の戦い以降、袁術の軍団の中に孫策がいるとしたら、考えられる功績は次のような幾つかがある。

 1・九江郡(陰陵)を攻略するのに決定的な行動を成功させた。

 2・廬江太守陸康を袁術側(少なくとも敵対させない)に付かせた。

 3・寿春から陳禹*を逃亡させるのに何らかの功を立てた。

 4・呉景の丹楊郡攻略で何らかの功を立てた。(これはかなり後のことになるが)

 これらの内、一つ以上のミッションをクリアしたために袁術は孫策に九江太守の座を約束したのではないかと思われる。1と3、4は置いて、2について思うところを書いておく。

 孫策は一度陸康のところに会見を申し込んでいて、そのとき陸康は主簿に応対させていることが孫策伝に書かれているが、それは袁術が陸康を味方に付けようとしたこの時のことであった(袁術からの使者として訪問した)可能性がある。勿論他にも二つばかり選択肢はあって、一つは孫策が舒に居たときに何か理由があって会見を申し込んだのでは?と言うもの、もう一つは孫策が江都を出立して袁術の下に辿り着くまでの間に陸康の下を訪れて何か援助を願ったのでは?と言うものがある。しかし陸康が主簿に応対させていることから考えると、(役所にいるときに対応したと見られるため)この時の孫策の訪問は公事としての訪問であった可能性が高そうだ。とすると私事としての行動と見なされる舒にいるときに陸康を訪れた選択肢や江都から袁術の下にいる孫氏の誰かを頼る途中で陸康を訪れた選択肢は可能性として低く見積もっていいだろう。そこで孫策と陸康の会見は袁術の命を受けて九江(陰陵)から中立または袁術側に付くよう使者として派遣され、その時に起きた出来事ではないかと考えて話を先に進めよう。孫策は192年までこの頃廬江郡の郡都であった(と思われる)舒に暮らしていたこと、また父の孫堅はかつて宜春の県長をしていた陸康の従子<おい>が賊徒の襲撃を受けた時に助けを求められ、孫堅はそれに応えて境界を侵す罪を冒してまで救援の軍を派遣して陸康の従子を救った(破慮伝(孫堅伝)に裴松之が『呉録』を注に引いて述べている。)関係から、自分こそ使者として適任であると訴え、陸康の所へ行ったのではないだろうか。孫策と陸康の会見が袁術の命で廬江を袁術側に付かせた時に行われたものであったのだとするなら、この時孫策に対して陸康が自分では応対せず主簿に応対させたことには一つの理由が存在する。それはまたこうした功績を上げたのにも関らず袁術が約束を反古にして九江太守に丹楊の陳紀(こちらは恐らく孫堅麾下にあった丹楊兵を統率していたとか、九江郡(陰陵)を陥落させるときに周昴・周愚*側にいた丹楊兵の寝返りを成功させたとか、そういった功績を上げたのだろう。)を就けたのは何故かと言うことにも繋がっている。それは何故か。

 礼に服喪三年と言う言葉がある。

 孝を尽すなら父母の喪に3年服するのが礼であるとされる。例えば袁紹は母の喪に服すること3年、喪が明けると今度は幼いころ養子に来た自分は父(養父)の喪に服していないとして遡って父の喪に服すること3年、6年の喪を経てさすがは袁紹よとその名を高めている。三国志に注釈した裴松之はそんなことは礼の定めにもないことでそんなことをするのはおかしいと非難するが、時は後漢末、とかく名分や礼儀に煩く、また煩くあることが名を高めた時代、前漢には必ずしも3年でなかった父母への服喪はこの頃には3年が常態となっていた。甚だしい者に至っては親の喪に二十年余りも服し「孝なり」と賛嘆された、この時代。

 孫策は3年の喪に服していないのである。これは孝とは言えない。それどころか彼は功を求めて軍事に手を染めている。これは不祥である。父の喪に服するべきをなおざりにして凶事である軍事に手を染めるのは礼に外れる。そんな姿を『呉書』に記すわけにはいかないのである。そしてまた、記してしまえばその彼に仕えた者たちの道義が成り立たないのである。やはり『呉書』に記されるわけにはいかないのである。

 子が孝を尽し父母への恩に応える服喪と言う礼を邪魔するのは憚るべきであり、親の喪の3年間はその門に声を掛けてはならないと言う。袁術は孫策に九江太守の地位を約束したとしても喪中であるこの時期に、そうした官位を与えることは憚らねばならないのである。後に王朗が孫策に攻められた時、兵禍が目前に迫っていたにも関らず、部下の虞翻が親の服喪中であったため頼りたくても堪えて虞翻を呼ばなかった事を思うなら、このとき袁術が約束を反古にしたのは親の喪の3年間はその門に声を掛けないと言う定めに従ったまでで非難すべきではない。また、廬江太守陸康が自分で応対せずに主簿に応対させたのも会見を求めてやってきている以上応対しないわけにはいかないが、親の服喪期間にある相手に太守自らが応対するのは憚らねばならないことと考えたからと見るべきだろう。(但し、孫策を九江太守に任命しようと言う約束が194年以降なら袁術が一方的に約束を破ったことになるが、それでもその約束が194年より前にあった功績に報いると言うことであるならやはり官位を与えるのはどうかと言うことになる。)

(孫策はその当時の価値観として重く置かれておくべき筈の礼と言うものをそれほど重いものと考えずに簡単に礼から外れた振るまいをすることが多々見受けられる。192年に張紘の下に自分の母親と弟たちを預けた時にしても(これは193年の江都→曲阿の時のことかも知れない。要再考)この時張紘は自分の母親の喪に服していたのである。にも関らず会見を行って自分の母親を預けている。孫策時代、孫策の下で部下にはならず客分になっている人材が随分沢山いるが、彼らはこうした孫策に対して果たしてこのまま仕えていいものかどうか態度を保留していたのではないかと考えると随分興味深いことである。例えば諸葛瑾や魯粛など。)

 こうして孫策は、実際には193年から袁術の下で活躍していたのだが、父母の喪には3年服すのが孝であると礼に述べられている為に、193年までの活動は暗史として竹簡から除かれたのである。

 

【太傅馬日テイの来臨】

 193年は袁術にとって重要なことが起きていた。

 長安(にあった朝廷)から太傅馬日テイが派遣され、袁術の下を訪れたのだ。長安では袁術を取込もうと彼を左将軍に任命し、加えて陽擢*侯<ようてきこう>(擢*は手ヘンが無い)封爵したのである。太傅馬日テイは叙任の使者として派遣された。袁術はこの馬日テイを逆に取込む。馬日テイは太傅、かつて袁術の叔父袁隗が就いたこともある役職にあり、その役目は幼い天子を補導すると言うもの、その位は三公(司徒・司空・太尉)に上する、その彼が叙任のために節を持って袁術の所を訪れたのである。この僥倖を利用しない袁術ではなかった。

 面白いことに197年に皇帝を僭称するまで、袁術は自分で州牧や刺史に就いたことは一度もなく(従って『呉歴』が袁術を「袁揚州」(揚州刺史袁術、または揚州牧袁術の意味)と述べるのは実情から言ってそうであっても名称に於て正しくはない)常に正規の(または自分が就けた)刺史や牧を擁し、その彼らの擁護者として秩序恢復のため行動する(敵対者を排除する)と言う形式を踏んでいた。実際、袁術は孫堅が献上した南陽太守に就いた節はないし(実効支配はしていたが)、自らの出身地、汝南郡を治下に含む豫州刺史さえ孫堅に与えている。193年初頭に行った陳留郡への侵攻にしても形式は長安から派遣されてきた正規のエン州刺史金尚が曹操に追い払われたことを受け、その正当な地位を回復するための出兵であったし、陶謙側の幕僚たちが行った劉ヨウの揚州刺史就任にしても追い払うことはせず寧ろ(逃げようとしていた)彼を積極的に受容れて曲阿へ落ち着け、逆に揚州全域を袁術の勢力圏の中に取込もうとさえしているのである。(と言ってもこの状態の劉ヨウは米軍に捕まってぶら下げられた小っちゃな宇宙人を連想させるもんがあるが。)この段階の袁術は甚だ胡散臭い部分はあるにしても別段自分が刺史や牧位に就きたいわけではないと言う態度を取り続けていて、その点では献帝(劉協)を見捨てて劉虞を立てようとした袁紹より余程勤皇なのだと主張できた。金尚も馬日テイもそれゆえに彼の下を去らない。彼らが袁術の下を辞去しようとしたのは、建安元年冬、献帝が曹操の下に転がり込み許に移ってから、或いはそれを知った袁術が帝位を窺う風を見せてからになる。馬日テイなどは建安元年、袁術と劉備が徐州を争っている最中、袁術の戦陣でその節を振るい、華キンを豫章太守に任じているのである。(この為に馬日テイは後に袁術の下を去ろうとして殺害され、遺骸が許都に送られることになっても同じ運命を辿った金尚と違って献帝から哀惜されなかった。)

 これから197年、帝位を僭称するまで袁術は太傅馬日テイらを擁してその威を奮うことになる。

 

【呉郡都尉許貢、太守盛憲を追い出し太守となる】

 193年末、この歳の最後を飾る事件が呉郡で起きる。呉郡都尉許貢が呉郡太守盛憲(孝章)を追いだし、呉郡太守になったのである。許貢が呉郡太守になったのは正しくいつ起きたことか三国志(と裴松之注)からだけでは伺い知ることが出来ないが、許靖(文休)が許貢の下を去って王朗の下へ向かっていることから、彼のこの移動を許貢が盛憲を追いだした騒動に関ることを避けてのものと考え、193年末ではないか?としてみた。許靖は反董卓連合が起きてから御史中丞の官を捨てて豫州刺史孔チュウの下に逃れ、孔チュウが死ぬと揚州刺史陳韋*(蜀書では陳韋*。魏書では陳温に該当すると考えられる)を頼り、また陳韋*が死ぬと乱を避けて長江を渡って当時呉郡都尉であった許貢の下へ身を寄せている。その後、会稽太守王朗の下へ居を移すが、これが193年のことであるらしい。(許靖が死去する222年に王朗が許靖宛に手紙を送っていて、それに『貴方と別れて三十余年になる…』と書かれている。193年から29年、数えで30年丁度。許靖は移ってきた最初に挨拶しただけで後は王朗とは疎遠であったらしい。)事件が起きるとそれを避けるために住居を移すと言う許靖の行動パターンから考えると、許靖が許貢の所から王朗の所へ住居を移したのには理由があったと見ていいだろう。それは許貢の呉郡太守襲名(盛憲追い出し)であったのではないだろうか。

 許貢に追われた盛憲は高岱の手引きで許劭の下へ身を寄せる。手引きした高岱は徐州牧陶謙の下へ走り、軍を要請する。(この事と後に孔融が盛憲の身を案じることを合わせると陶謙は呉郡と会稽郡、そしてそれを監察する揚州刺史に陶謙閥とも言うべき人材を送り込んだと見える。)これが恐らく明けて194年初め、曹操が徐州から撤退した後のことだろう。高岱への返答をしぶって漸く頷く陶謙の様子から大まかな時期を推測した。陶謙は許貢に手紙を書いたようだが、兵は送らなかった(この後曹操の第二次徐州征伐が行われるため)。)

 この許貢の呉郡太守襲名を受けて、袁術は194年春、太傅馬日テイの掾になっていた朱治を呉郡都尉に任じ、呉郡へ勢力の浸透を図ろうと試みることになる。

 

 

 194年(興平元年)。

 この歳は廬江郡攻略と江東再出兵の歳である。

 

【陶謙と袁術の決裂、孫策の出仕】

 194年、袁術周辺の諸侯の動きを追うと、この歳が明けてすぐ、曹操軍が徐州から撤退する。また公孫贊*の下から助力に来ていた劉備が公孫贊*の下へ還らず陶謙の下に留まった。劉備が公孫贊*の下を離れて陶謙の下に留まったのには名実二様の理由があった。それは後で述べるので今は置く。勿論劉備が公孫贊*の下を離れて陶謙の下に留まるのに劉備勢の全員が納得したわけではない。漁陽郡雍奴出身の田豫はこの後すぐ母の老齢を理由に劉備の下を辞去することになるが、これは劉備が公孫贊*閥から陶謙閥に乗り換えたことが理由だろう。(劉備に好意的に見るとこんなところまで来てしまっては老母の下に帰れなくなるかも知れないと危惧して田豫は離れたと考えることが出来るが、劉備にきつく当たるならやはり公孫贊*の下を離れて陶謙の下に留まることに利を見る群雄のあざとさを感じて自分の義に沿わないと田豫は離れたと言うことができよう。)陶謙は自分の下に留まった劉備を豫州刺史に任命する。陶謙の勢力圏は豫州北方の魯国および沛国北部に及んでおり、劉備はその陶謙勢力下の豫州を監察する刺史となったのである。これは劉備への厚遇であると同時に対曹操最前線への投入であった。ハイリスク・ハイリターンである。劉備はこれを快く受けた。しかしこの劉備の豫州刺史就任は一つの重大な事実を露にしていた。陶謙と袁術の決裂である。なぜならこの時豫州には刺史として袁術閥の郭貢が在任していたはずだからである。陶謙が袁術を慮るなら劉備を豫州刺史に任じるべきではない(魯国の相あたりにしとくのが無難)。これは陶謙が袁術の意を顧慮せずに劉備を豫州刺史に任じたと見るしかない。その前年までは確かに陶謙は袁術の権威を冒していないのだからこれは大きな方向転換であった。

 この当時、袁術と公孫贊*の協力関係は広く知られていた。また公孫贊*と陶謙の協力関係も人の良く知るところのものだった。そのため人々は袁術と陶謙もまた協力関係にあると見なしていたのである。実際、曹操は初めの徐州征伐の時、彭城で会戦を行い陶謙軍をさんざんに破ったあとは泗水沿いに泗水南岸の徐州諸都市を落としてゆくが、陶謙・袁術の挟撃を怖れてか淮水に近づこうとはしなかった節がある。

 陶謙と袁術がこのように割れたのには幾つかの理由が考えられる。前年、193年の段階で陶謙は自分の閥を作ろうとして朝廷に使者を派遣、王朗を会稽太守に劉ヨウを揚州刺史に就け、徐州南部から揚州への勢力浸透を図ろうとしていた。袁術は曹操に破れて寿春を占拠すると陶謙閥(の予定)の揚州刺史劉ヨウを抱き込み(陶謙から見るとそう見える)陶謙の目論みを無にしてしまったのである。こうした経緯からすれば劉備の豫州刺史任命は陶謙から袁術に向けた報復行為だった。曹操が徐州に攻め込んだ初めの徐州討伐で公孫贊*が援軍を派遣したのに袁術は派遣した風でもない。先の劉ヨウの件に加えてこれでは陶謙の袁術に対する不信を決定付けてしまっても仕方の無いことと言えた。

 

 こうした状況の中、この歳、袁術の下に孫策が出仕してくる。父、孫堅に対する3年の服喪期間が明けたのだ(礼の定めでは父母の喪に服する期間は3年とある)。実際には孫策はそれ以前から袁術の下で働いていたし、この194年も最初の内は曲阿で朱治のために丹楊郡の役所に命令を下し、朱治の姉の子、施然を曲阿に迎えて朱治の養子とし朱然とさせる、などといったことをしていたのだが朱治の勧めに従って寿春へ向い、袁術の下についたのである。孫策が公の舞台に現れるのは此処からとなる。

 袁術は孫策の参加を嘉し、太傅馬日テイを動かして孫策に懐義校尉の官を与える。(その名称から鑑みて父である孫堅の義を懐かしんでの「懐義校尉」なのだろう。)また孫策と袁術の縁を取持った朱治を馬日テイに請い、太傅掾にして貰った。

 袁術のところでこうした慶事があった中、徐州が再び荒れた。曹操による二度目の徐州侵攻が行われたのである。

 

【曹操の徐州再侵攻】

 前年秋、徐州に侵攻した曹操軍は侵攻先の徐州南部をあらかた食いつくし、194年正月には徐州から撤退していた。徐州牧陶謙は曹操の徐州侵攻が前年の夏、曹操が州牧を公言するエン州を闕宣と組んで自分が侵したことに反撃したのだと分かっていたため、まず事の発端となった下ヒの賊闕宣を殺害、その軍を吸収すると同時に関係の修復を図ろうとする。陶謙はこのころ徐州瑯邪に居た曹操の父、曹嵩の身柄を確保、彼を曹操の下へ送り届けると言う名目で曹操との関係改善を模索した。先に、曹操が徐州から撤兵したのは下ヒ南方をあらかた食い尽くしたからと説明したが、父である曹嵩が陶謙に確保されてしまったのが大きな理由だったかも知れない。曹嵩は董卓の乱が起こると息子である曹操の挙兵がもとで自分に難が及ぶことを怖れて徐州瑯邪へ逃れていたのだ。曹嵩が曹操の最初の徐州侵攻の際、すぐさま陶謙に捕まえられなかったのは不思議な気がするが(そこを考えるとまず最初に曹嵩殺害があって徐州侵攻があったのでは?となる)、それは曹嵩が逃れた先が瑯邪であったからだろう。この時の瑯邪国は陶謙の直接支配が及んでいない。泰山出身の臧覇らが仲間たちと一緒に治めていて、陶謙は彼の統治を認めるといった間接支配の状態にあった。そのため曹操との争いが深刻な状態になるまで曹嵩のことは問題にならなかったと思われる。(或いは曹嵩が琅邪に逃れていることを知らなかったか。)陶謙はこの曹嵩の身柄を利用して曹操との関係改善を求めたのである。だが、これが裏目に出た。曹操の下へ送り届ける途中、曹嵩は殺害された。武帝紀に裴松之が注として入れた韋曜の『呉書』は、場所は泰山郡華県と費県の間、下手人は陶謙の部下、都尉の張闔*<ちょうがい>(闔*は門がまえの中が豈)であったと言う。この事件を知った泰山太守応劭は後難を怖れて直ちに出奔、(曹操が手を出せない)袁紹の下へ走った。<後漢書『応劭伝』興平元年(194年)の項目>陳寿は触れていないが、応劭はかつて朱儁が董卓の下を離れて洛陽を出奔した時に、朱儁を自分たちの諸侯連合の盟主にしようと画策する陶謙に賛意を示し、その計画に加担したことがあったのだ。過去において陶謙との間でそうした関係があった以上、己の無実を申し立てたとしても曹操は受容れまいと考えたのだろう。陶謙もまた蒼ざめる。曹操との関係修復はこれで不可能となった。そればかりでない。曹操の徐州再侵攻が確実となったのである。(このように曹嵩殺害を曹操の二度の徐州討伐の間としたのには理由がある。二度の陶謙討伐を比較した時に見える曹操軍の動きの違いだ。最初の軍事行動は略奪目的で徐州南部に半年余りも駐留して諸県を攻略しつづけているが、二度目の軍事行動は陶謙の拠点、炎*をまっしぐらに目指している。季節も最初の討伐は秋で相手国を略奪しているが、二度目の討伐は夏の最中に行われている。自他の蓄えが乏しい時期にそうした軍事行動を起こし陶謙の居場所にまっすぐ向かっているのだから、損得を考慮していない凄まじさを感じる。曹操の軍事行動に対照的に表れた性格の違いを見ることで曹嵩の殺害時期を押さえることができるのではないだろうか。)

 果たして。194年夏、曹操は徐州へ二度目の侵攻を開始する。父を殺害された報復に燃える曹操は泰山郡を突き抜け、徐州北部の瑯邪国を侵しながら陶謙の拠点、炎*へ進撃し始めた。

 今回、曹操が前回のようにエン州と徐州をつなぐ水運を利用せず陸路を取ったのは、一つは曹嵩殺害の現場となった華県・費県を打擲する目的があった。しかし泰山郡を抜けて瑯邪に向かう陸路を曹操に選択させた最も大きな要因は、小沛を拠点とする劉備の存在にあった。後に三国の一角、蜀漢を建国することになる劉備はこれ以前、曹操が最初に徐州へ侵攻した時に公孫贊*から援軍として派遣され、そして曹操が撤退したあとも公孫贊*の下へは帰らず陶謙に付き、小沛に駐屯していたのである。

 劉備が公孫贊*の下を離れ陶謙に付いたのは公孫贊*が劉備を厚遇しなかったと言うのではない。劉備は公孫贊*によって平原国の相(太守)に任じられており、厚遇を受けたと言っていい。彼が公孫贊*の下を辞したのは、実利と道義、二つの理由があった。まず実利面の理由だが、冀州に於て袁紹と公孫贊*の間で行われていた争いで、公孫贊*側の旗色は段々悪くなっていた。冀州平原国の平原県令を経て国相になった劉備だったが、戦局の悪化に伴い平原を捨て、公孫贊*が任じた刺史田楷の居る青州斉国へ転進することを余儀なくされていたのだ。陶謙の所へ援軍に行った時も公孫贊*から貰った烏丸騎兵の部隊の他は私兵千余りと言う有り様だった。これでは陶謙に向かって(もと平原国の相の地位にいた人間が率いる)援軍だとはとても言えず、餓えた飢民数千を無理矢理軍に加えて戦力を水増ししてから合流している。<先主伝>そうした実利面で劉備は先細りしつつあった公孫贊*から離れたのである。もう一つは道義面である。193年冬、公孫贊*は幽州牧の劉虞を処刑してしまう。劉備が援軍として陶謙の所に赴いている間の出来事である。公孫贊*と劉備は儒学者である廬植門下の兄弟弟子(劉備の方が弟弟子)の関係にある。確かに劉備は蜀書先主伝(劉備の伝)に勉強嫌いで素行の宜しくないヤンキーであったと書かれているが、しかし、その生涯に渡って公に向けられた行動に大義や名分といったものへの配慮が窺われる。廬植門下として恥ずかしくない大度を示し続けようと努めていたのである。その劉備から見ると公孫贊*の行いは師である廬植に対しても恥ずかしく、また同じ廬植門下としてとても道義的に受容れられるものでは無かった(ようだ)。劉備が中山靖王劉勝の後裔を自称する身であったことも、その血を遡れば皇族に連なる劉虞を処刑した公孫贊*の下に留まれない理由になっただろう。劉備が公孫贊*の下を離れるに際し、二人の間にどういうやりとりが(手紙で)行われたかは分からないが、公孫贊*は劉備が自分から離れて陶謙の下に付くことを受容れたようである。

 経緯はともかく、自分の下に付いた劉備に陶謙は魯と沛を与え、曹操と境を接する小沛に駐屯させて西からの脅威に備えた。小沛は西からの攻撃に対して堅く、また西から徐州へ水運を利用して敵が攻め下ろうと試みた時にはその行動を拘束する役目を持つ、徐州から見て西方最重要の戦略拠点だった。その小沛に劉備が篭り、曹操に備えていたのである。曹操との関係改善を求めた陶謙だったが、それが上手くいかなかった時の対策も考えていた、と言うことだろう。(余談だが、今述べたように陶謙が徐州の西の防備の大切さを分かっていたなら最初から気を配っておけばよかったのではないか?と皆思うだろう。そう思って少し見てみたら陶謙は一応配慮していたのだ。ただその配慮は十分ではなかった。曹操の一回目の徐州攻略時、小沛が果たしたような役割を担っていたのは広威であったようだ。しかしこの都市は曹操麾下の于禁によって攻め落とされた。そして広威の陥落により、曹操率いる青州兵は陶謙側の掣肘を気にせず泗水沿いに徐州を攻め下ることが出来たのだ。作戦遂行と言う視点から見て広威を陥落させたことはかなりの功績である。そのためだろうか、広威を落とした于禁は陥陣都尉に任命されている。この職は当時の曹操が任命できる軍事職の中では最上位クラスのもので独立行動を許されることもあり、MVPを取った人材に与えられた職である。尚、この時広威を守備していた守将が誰であったか陳寿は記していないし裴松之も拾い上げていないため分からない。陶謙はこうした経験を汲んで劉備に魯・沛を任せ、そうした曹操の動きを見ていた劉備は拠点として小沛を選択し其処に拠ったのである。)

 小沛で進軍を押し止められることを嫌った曹操は、かくて泰山郡を突き破り、徐州北部の瑯邪へ抜ける陸路を選択して徐州へ侵攻する。そして瑯邪に抜け出た曹操はそこから沂水の流れを攻め下り、陶謙の拠点、東海国炎*へ進むのである。(曹操がそうした行路をとったことは(つまり初期配置で劉備が小沛に拠って曹操が水路から徐州へ入ることを防いでいた/躊躇わせたことは)武帝紀に記される攻略都市名から類推出来る他、小沛と炎*を結ぶ中間地点にある襄賁が曹操の往路ではなく帰路に於て攻略されていることからも推し量ることが出来る。)この侵攻ルートはエン州から兵站をつなぐのが難しいと言う問題を抱えている。(陸送は水運を用いて兵站をつなぐのに比べ、莫大なコストを要し、しかも効率が悪い。)その上小沛の劉備を放っておいてある以上、エン州からの兵站は断たれるものと見なければならない。作戦として無謀である。しかし曹操はエン州から兵站を取る積もりなどさらさら無かった。

 徐州を食んだのである。

 二本足で歩く蝗の群れ、青州兵の饗餐が始まった。前回の徐州侵攻では半年で10余城を落としてみせた。その彼らのはたらきは今回も健在だった。一季節の内に5城が攻められ、彼らの胃袋の中に消えた。

 この時曹操に攻められた都市の中に開陽がある。開陽は瑯邪の中心にある最大規模の都市で(郡都)、当時は泰山の諸将軍たちと呼ばれた臧覇らがここに拠っていた筈なのだが臧覇伝には彼が曹操にどう対抗したか記載が無い。すっぱり抜け落ちている。伝を立てられた人物は、その伝で敗戦記録が記されることが殆どないから、この時臧覇らは曹操に破れて逃げ散ったのかも知れない。或いは最初から対抗する積もりがなくて曹操の鋭鋒を避けた(開陽から逃げ出してしまっていた)と言うこともありうる。これよりずっと後、諸葛亮の北伐期に魏将郭淮は蜀将魏延と諸葛亮に挟撃されそうな状況に陥り、一戦もせずに撤退(敗走)したことがあったがそれは郭淮伝に記されていない。それと似たようなことがあったとしてもおかしくない。

 ここで疑問が一つあるので書き置いておく。二度目の徐州攻略で曹操軍に攻め落とされた都市は曹仁伝によると費・華・即墨・開陽と言うことだが、即墨は地理的に見て青州北海国の東部地域にあり、おおまかに言うと山東半島の中央部に位置している。恐らくここは即墨ではなく即丘の間違いではないだろうか。魯のすぐ北側から開陽へ抜ける回廊地帯(費県はこの回廊上にある)を抜けて沂水西岸の開陽を陥落させ、まっすぐ炎*へ向かうものとして曹操の行軍ルートを考えて見ると次に攻略されたのは即丘になるからだ。即丘は沂水の東岸、開陽と炎*のほぼ真ん中に位置する。瑯邪には斉の田単の故事にまつわる筥県が存在するから書写の時についうっかり即墨と書いてしまったかと思いたいがどうだろう。それとも本当に青州の即墨まで進軍したのだろうか。

 ともかく。

 この時、曹操軍は泰山を抜けて開陽を落とし、そのまま沂水を攻め下り、一路、陶謙の在居する炎*を目指した。なんとしても陶謙を生かしては置かないと言う意志を感じて一度は州を捨てて出身地である丹楊へ逃げ戻ろうと考えた陶謙だったが、なんとか踏止まると決戦兵力の集中を行う。西方を任せた豫州刺史劉備を呼び寄せると共に下ヒに兵力の供出を命じたのである。(彭城は前年秋の対曹操戦で荒廃しきっていた。後背地と言うことだと広陵郡もあるが、この時広陵太守であった趙イクは動いた様子がない。)これに応えて陶謙の下へ劉備と曹豹が救援に駆け付ける。彼らは曹操に備えて炎*の東に駐屯した。曹豹は下ヒからの援軍であった。この曹操の二度目の徐州侵攻の時、劉備と曹豹は炎*の東に駐屯した、つまり城邑の外に駐屯した。察するに二人は共に炎*(東海国)の本軍ではなく、外来の軍だからだろう。劉備だけでなく曹豹も城邑の外に駐屯しているのだから彼もまた外からの援軍だったことになる。それでは曹豹はどこから出された軍なのか。徐州五郡(瑯邪・東海・彭城・下ヒ・広陵)の構成から考えると東海は本拠地であり、現在侵攻されている瑯邪、前回決戦地となった彭城は戦力を差し出すゆとりがない。下ヒ国か広陵郡と言うことになる。地理的に見て拠点炎*のある東海の南に接し沂水・沐水で通じあっている下ヒからの援軍と見るのが自然だ。後に曹豹が下ヒの相となることも考え合わせるとそうなのだろう。(と言うことで陶謙は劉備と下ヒの軍(曹豹)を呼び寄せたのだ、と言う先の記述となる。)

【筰*融はいつ逃亡したのか】

 ここで下ヒの相であった筰*融<さくゆう>(筰*は作→乍)が逃亡を図ったのは何時かを考えて置こう。下ヒの相筰*融は曹操による徐州征伐が行われた時期、1万余の男女を抱え込み下ヒを捨てて逃亡したが、その機会は3度あった。一つは曹操の最初の陶謙征伐時。二つ目はこの二度目の陶謙征伐時。三つ目は陶謙死後の混乱時である。普通、筰*融の逃亡は曹操による最初の陶謙征伐の時のものだと考えられているが、三国志(含む裴松之注)に断片的に残された筰*融に関する記述と筰*融に関った人物の動き、当時の状況を見ると、どうもそれだと説明の難しい部分が出てくる。これから3つあったと思われる筰*融逃亡時期それぞれについて少し考えてみよう。まずは曹操の第一回目の陶謙征伐時から。

 筰*融の逃亡が曹操の第一次陶謙討伐時であったとすれば二度目の陶謙征伐が行われた時広陵太守趙イクは殺害されていたため、広陵から援軍が来ていないのは理解できる。(前段までの流れで陶謙は麾下にある諸郡から援軍を呼んだと考えられる。)しかしこの選択肢を採るには一つ難がある。曹操の第一次の侵攻では下ヒは落とされていない。後に曹操が行う対呂布戦で曹操が荀攸・郭嘉の謀を容れて水攻と言う奇策を用いて下ヒを落とし、下ヒを攻略するやり方が衆に明らかとなるまで、下ヒは平時は泗水・沂水の水運の中核地、戦時は泗水・沂水を盾にする堅城として機能していた。曹操の攻撃を受け(て陥落し)たわけでも無いのに筰*融が逃亡するのは利に沿わない。黙って下ヒを固守していればいいだけのことだからだ。またこの時に広陵太守趙イクが殺害されていたなら、当然後任の広陵太守が陶謙から任命されるはず、194年初頭に曹操軍が徐州から撤退してから二度目の陶謙征伐が行われるまでおよそ1季節の猶予があり、陶謙はその間に劉備を豫州刺史に任じて西方の防備を固めている。当然太守無き後の広陵にも何らかの手を打っただろう。しかしそのようにフォローを行った様子が見られない。(これは三国志(含む裴松之注)には残されていないが別の史料などに残されているのかもしれないのだけど。)

 二つ目の第二次陶謙討伐時に筰*融が逃亡したと言う選択肢を見てみよう。筰*融の逃亡がこの時のものだとするなら、下ヒから曹豹を派遣して後すぐ筰*融は逃亡したことになる。あるいは筰*融がさっさとトンズラした為、曹豹が軍を取りまとめ援軍の指揮を取って炎*へ駆け付けたか。(となると曹豹は相当のタマだと言うことになる。後に劉備の下で下ヒの相になっていることからも考えてそこそこの人物ではあったのだろう。)こちらの場合は曹豹が『下ヒの相』ではなく『陶謙の将』と記述され、また広陵から援軍が来なかったのは理解できる。恐らく丁度太守の趙イクが殺害され混乱していたためだろう。しかし、となると今度は筰*融が逃亡先の臨淮で征討されて広陵へ逃れたと言う、陶謙伝に裴松之が注で入れた謝承『後漢書』の記述が気にかかる。筰*融の逃亡が曹操の二度目の徐州征伐の時だと言うならこの時泗水南岸は戦火を受けていないのだ。徐州牧たる陶謙自身が曹操の進軍に脅えて炎*にいる中、下ヒの相である筰*融は一体誰に征討されて依拠先の臨淮(下ヒ国にある)から広陵へ逃れたと言うのだろう。

 三つ目の陶謙死後の混乱時に筰*融の逃亡が行われたとするなら州をまとめる主が陶謙から劉備に変わったことが原因だろう。(より精確にすると陶謙死後暫くあった混乱期に筰*融の逃亡が行われたのだろう。)彭城・下ヒ・広陵の徐州南部3郡の物資流通を統括して捌いていた筰*融は、しかしその権限を専ら私欲を満たすことに用いて物資を流用していた。同じ丹楊出身である陶謙には丹楊出同士のよしみから温情を期待出来たが劉備にはそれは通用しそうもない。また徐州の拠点が陶謙時代の炎*から劉備時代の下ヒに移ったこともある。(しかし曹豹が下ヒの相になっているので拠点は変わらず炎*だったかも知れない。)筰*融が好き放題してきた証拠があちこちにある下ヒに来られては言い逃れなど出来はしない。加えて劉備が牧伯に就くのに最も熱心だった幕僚に下ヒの豪族陳一族(陳珪・陳登父子、他に陳禹*など)が居たのだから(下ヒで悪さをしていた)筰*融の居場所など無かった。この選択肢の場合、筰*融が討伐されたのは劉備にであり、彼の下で曹豹が下ヒの相になってることから考え合わせて討伐部隊を率いて功績を上げたのは曹豹だったのだろうと言うことになる。この選択肢を採る場合、曹操の2つの徐州征伐のそれぞれに出た調整の難しい点の殆どが解消(説明)出来るだけでなく、この後筰*融が広陵へ逃れて太守の趙イクを殺害したにも関らず劉ヨウが(その点を承知の上で)筰*融を受容れたのはどうしてかと言う理由にも説明がつく。それは曹操の第二次陶謙征伐で陶謙が下ヒからの援軍はあったが広陵からは無かった(多分援軍を求めてはいないのだろう)のはどうしてかといった点にも絡んでくる問題で、袁術くんも一枚噛むことなのだが、それは後で触れる。この袁術伝では(今は明かせないがそうした理由があって)筰*融の逃亡は陶謙死後の混乱時のことではないかとして話を進める。(従ってここでは陶謙の要請を受けた筰*融が曹豹を将にして援軍を派遣したと言うことになる。)

 

 劉備や下ヒの軍を集めて戦力の集中を終えた陶謙と曹操の戦いは最後までゆくことなく、只一戦するだけで終わることになる。曹操が治めていたエン州が覆ったのである。曹操出征中に張貌*<ちょうばく>(貌*にはシンニョウがつく)・張超・陳宮らが呂布を招き入れ、曹操追い落としを図ったのだ。エン州覆るの報せを受けた曹操は炎*の東に駐屯していた劉備・曹豹らを破って追撃の可能性を断ち切ると直ちに撤退する。炎*の西を流れる沂水を渡河すると真っ直ぐ西へ向い途中で襄賁を攻略して退却のための糧秣を確保、退却速度を早め、(一度劉備・曹豹を炎*の東で散々に破って追撃の余力を断ってはいるがまさかの)追撃軍を拘置するためにエン州豫州州境のエン州側に呂虔を留め、撤退していった。(因みに曹操が徐州で虐殺をしたと言うならこの時(第二次陶謙征伐)になるだろう。エン州を覆されて陶謙を殺せないまま徐州から退却しなければならなくなった曹操の心は悔しさに溢れ返っていたに違いない。)曹操はこの後、呂布といつ終わるとも知れない不毛な戦いに突入する。そして陶謙はこの戦いに気力を削ぎ落とされたか、病を発してこの歳、死去する。歳は63であったと韋曜<いよう>『呉書』に記される。

 袁術の視線が徐州に向けられた。

 

【徐州の事情と劉備の登場】

 陶謙は病が重くなると徐州別駕の糜竺<びじく>(趙イクや王朗の後に別駕になった)に向かって自分の死後は劉備を後継にと後事を託す。糜竺は州民を引きつれると劉備の下へ向かい、牧位を受けるよう請うた。これを劉備は一度拒む。

 この時、徐州五郡はボロボロだった。徐州は東海国を中心として北の瑯邪、西の彭城、南の下ヒ、東南の広陵、五つの郡国から成り立っている。この内西方にある彭城と南の下ヒ南部は曹操軍によって壊滅状態にあった。北の瑯邪も沂水沿いの諸都市を曹操に略奪されていたし、何より瑯邪は臧覇らが仲間うちの寡頭体制で分割統治していたところであり、牧伯による直接統治の及ばないところだった。東南の広陵郡もまたこの頃には筰*融によって太守の趙イクが殺害され、混乱に陥っていたと思われる。それに拠点である東海国も陶謙が最後に任じた別駕が東海国句*県で利殖を専らにしていた豪族の糜竺であったことからみて東海国の士大夫層と陶謙との間に冷ややかな距離が存在していたと見られる。(この当時の中国では商人は卑しまれるものだった。利殖に携わる豪族はこの後漢末期、清流とは見なされなかったろう。公孫贊*も商人などを重用し似たような状況に陥ったことに留意。)

 内部がこのような状態で徐州牧を引き受けてもそれは困難を引き受けると言うことにほかならない。加えて、エン州での曹操と呂布の争いがもし曹操の勝利に終わるなら、曹操の三度目の侵略が見込まれるとあっては、劉備が拒むのはしごく当たり前のことと言えた。

 この劉備に対して糜竺が食い下がり、孔融と陳登が勧め、陳羣が反対した。自分の発する美辞に酔い麗句に溺れて正しい現状認識から逸脱する癖のある孔融はともかく糜竺、陳登、陳羣が劉備にそれぞれ徐州牧を勧め、或いは反対したのには三者三様の理由があった。

 劉備に徐州牧に就くよう強く迫った東海国句*県の豪族糜竺は既に述べたが利殖に手を染めている豪族だった。当時の価値観からすると名声を得ようと身を励まずに利殖で身代を潤していることは称賛を得られないどころか非難の対象となるものだった。陶謙は州牧になってから惑乱したような行動を取るが、その原因にブレーンの交替を見ることが出来る。それまでブレーンだった趙イク・王朗らが陶謙の南方政策を立案し、実行部隊としてそれぞれ太守となって郡へ赴任していくと、代わりにブレーンとなったのが曹宏<そうこう>らである。勿論徐州別駕である糜竺も趙イクらが抜けた後のブレーンの一人である。前任者たちと異なり、糜竺や曹宏には名声が無かった。その辺りは陶謙も承知していない筈がないのだがそれでも彼は彼らを用いた。糜竺はともかく、曹宏は陶謙伝に邪悪な小人物と書かれる人物で、彼らを用いたために刑罰と法律は均衡を失ったとまで記されている。そうした状況がある以上、糜竺は陶謙没時にブレーンだった人間の一人として徐州を少しはマシな状態に出来る人物に委ねるべく尽力するしかなかった。彼の尽力には恐らく身の危険を感じていた面もあるだろう。糜竺への風当りが身の危険を感じるほど強かったのだとしたら、陶謙が死去する際に後は劉備にと頼んだと(糜竺が)言うのも、もしかしたら糜竺が自作自演したことなのではないか?と疑えなくもない。ともかくこの後劉備が呂布の為に徐州を失った時、彼が身代を捧げてまでして劉備を支えようとしていたことから見て糜竺の尽力は並々ならぬものがあった。単に陶謙に後事を託されたと言うだけでは理解出来ない力の入れ具合を感じる。やはり陶謙が自分の死後は劉備を徐州にと言ったのは糜竺の仕掛けなのだろうか。それとも劉備の人徳が並々ならないものだったのだろうか。(しかし劉備の人徳に帰そうとすると後に離れた陳羣や心情的には劉備を尊敬していても結局糜竺のように劉備に従ったわけでない陳登のことが気にかかるよな…。もっとも彼らは彼らでそれぞれ事情がある。)此処では東海国の(士大夫層の)中で糜竺の立場が切羽詰まる程悪化していたのではないかとしておく。(考えてみると劉備は「名声」と言う色眼鏡だけで人を判断する人間ではない。糜竺が劉備に心酔したのは、唐突に別駕に引き立てられて「名声」など持ちようがなく(寧ろ無いほうだった。)同僚が小人物の曹宏のため徐州がこうなった原因と見られて立場が悪くなっていた糜竺に普通に接して感激させたといったことなどがあったからなのだろう。)

 下ヒ国淮甫県出身の陳登も徐州牧になるよう劉備に迫った。その迫り方の激しさは糜竺の比ではなく、「貴方が徐州牧に就かないと言うなら、もう私は貴方に協力できません。これで失礼させて頂きます」と辞去さえ仄めかし殆ど脅迫に近い。陳登の立場は極めて明確だ。彼は反袁術の立場にあった。父の陳珪と共に陳登はこの後、劉備・呂布・曹操と仕える(?)相手を変えていくが、その一見変節に見える主替えのことも徐州を守りたいだけと言うにしては時に徐州を兵難に巻き込むことさえ辞さない(不思議に見える)行動も、彼らの立場が反袁術であったのだと考えると全く一貫したものだったと判る。陳珪・陳登父子は下ヒの有力豪族であり(しかも名族)、一族の中にはかつて袁術が自分で揚州刺史にしておきながら寿春から屈辱的な追い出し方をした陳禹*も含まれる。(陳禹*は一度袁術の受容れを拒んでおきながら、袁術が九江郡陰陵を攻略してそこから寿春へ兵を進めて来ると怖れて弟の陳宗*<ちんそう>(宗*は玉ヘンがつく。劉表の子の劉宗*の宗*と同じ)を和解の使者に派遣した。陳宗*は袁術に捕えられ、そのまま袁術軍が進んで来た。そのため陳禹*は怖くなって下ヒに逃げ帰った。(以上呂範伝の中にある裴松之注『九州春秋』より))陳珪・陳登父子は陳禹*が受けた屈辱をなんとしても晴らす所存だった。なんとなれば陳禹*・陳宗*兄弟こそは名士陳球の子であり、陳球の弟の子である陳珪、陳珪の子の陳登から見て一族の宗長格の人間を辱められたと言うことだったのだから。陳珪・陳登父子が含みを残す袁術はこの頃、徐州を望んでいて、下ヒの豪族(恐らくこの時点での最有力豪族)である陳氏を取込むことで速やかに徐州を得ようとしていた。そのため(恐らく陶謙から任じられたと思われる)陳珪の沛国相の地位を黙認していたばかりでなく、陳珪を手許に引き寄せようと誘いをかけてきた。陳禹*と気まずくなったことを補おうとしたのかもしれない。しかしどうにも補いきれなかったようで、痺れを切らした袁術は陳珪の次男、陳登の弟を人質にとって強硬策に出た。これはさすがに不味かった。彼らは完全に態度を硬化させ、反袁術を貫き通すことにしたのである。陳登が劉備へ激しく迫ったのにはこうした背景があった。

 一方、一人反対したのが陳羣<ちんぐん>である。

『袁術は依然として強力です。(#孔融の「袁術は墓の中の骸骨、既に終わってしまった存在」発言に対応するものと思われる。)今、貴方が東に向い徐州を得れば袁術と争いになることは必至、もしその時背後を呂布に襲われたら事が成功するはずもありません。』<陳羣伝> 

 陳羣が諌めた時は(進言内容から量って)早ければ194年9月、蝗害のために呂布が曹操との争いを打ち切って濮陽から撤退、乗氏で李進に迎撃されて山陽に駐屯した時以降のことで194年中のことだろう。陶謙閥の豫州刺史で実効支配地域が魯と沛国北部のわずかな地域でしかない劉備の招きに陳羣が応じたのは父の陳紀とも友交を結んでいた北海国の相孔融と劉備につながりがあったためである。そうでなければいくら陳羣の出身地潁川郡許昌が豫州にあるからといって(実効支配しているわけでもない)劉備の招きに応じるわけはない。その陳羣は「袁術なんて墓の中の骸骨さ」と嘯く孔融と違ってもう少しまともに現状を認識した上で劉備を止めたのである。袁術が徐州を狙っていたのは誰の目にも明かなことだった。一度は公孫贊*・陶謙・袁術の緩やかな紐帯の中に属していた徐州である。それが194年初めに至って陶謙と袁術の仲が上手くいかなくなって半ば縁が切れたような形になった。友邦を望むのは感心できないことだが、かつて友邦であったが間際になって離反し、今は主なき地となれば(袁術の中で)話は別である。その場所の主になろうと言うのだから袁術と交戦する羽目になるのは明かだったと言える。この時の呂布は未だエン州の過半を保持している。呂布は直にでも曹操と決着をつけなければならない状況にあったが、それでもその呂布に対する策を講じずに魯・沛をがら空きにして徐州へ出かけるのは無謀だ。曹操の二の舞いになることだけは止めましょう、そう陳羣は諭した。実際には陳羣が分析したように現実は動かなかったが(なぜなら廬江太守陸康が袁術に歯向かい、それを受けて更に揚州刺史劉ヨウが離反し、袁術の徐州攻略が丸一年遅れることになったから)、大まかな流れで言うと陳羣の分析はほぼ正しかった。

 考えた結果、劉備は徐州牧を引き受けることにした。なんと言っても東海国の豪族にして豪商(当時は豪商、と言う概念はなかったはずだけど利殖を専らにして家産を増やしていることをこう表してみた)糜竺と下ヒ国の豪族陳登が死に物狂いで劉備を助けると言うのである。陳登の父、陳珪は子である陳登と志を同じくしており、沛国の相をつとめている。彼にこの地を任せても裏切られる心配はない。彭城はおいおい復興させることにして、瑯邪は臧覇らと仲良くなればなんとかなるだろう(そうなれば青州北海国の孔融ともつながるし)、そこまで考えたら乗らない手は無い。

 かくて劉備はちゃっかり徐州を領有する。

 さすが反袁術の急先鋒、陳登は早々と対袁術で方策をまとめ、徐州牧劉備のためにフォローを開始した。彼は使者として袁紹の下に赴いてこれからは袁紹閥に入りたいので宜しくと挨拶して来たのである。既に劉備が公孫贊*の下を離れたこと、陶謙がわざわざ袁術が任じた豫州刺史がいるにも関らず自ら豫州刺史を任じて徐州と袁術の間の亀裂を明らかにしたこと、そういったことを知る袁紹はこれを幸いとして鷹揚に認めた。<先主伝に収められた裴松之注『献帝春秋』より> 袁紹閥に入ったのだから徐州は(袁紹に何かと借りがある)曹操が迂闊に攻めるわけにいかなくなった。一石二鳥の陳登の策である。

 

【袁術の徐州政策】

 さて、一方袁術である。袁術も徐州を得ようと画策していた。

 皇帝を僭称して曹操にけちょんけちょんにのされることになる前、袁紹と並んで二袁と呼ばれた袁術の勢力は後漢末の混迷を収める最有力候補の一つだった。その最大の好機(の一つ)がこの時訪れたのである。陶謙没後に速やかに徐州攻略を行うこと、その成否こそ袁術が中原を握るか否かの分かれ目だったのである。董卓亡き後、天子まします長安はごたごたが続き、ライバルの袁紹は今だ冀州を完全に掌握しているとは言いがたい状況にあって公孫贊*と幽州・冀州の境を争っていた。清流の名が高い劉表は袁術から南陽を切り離したものの漢水沿いで長江の北にある荊州中部を掌握したばかり、益州では劉焉<りゅうえん>がこの年194年に死去して混乱に陥る。こうした中、一部欠いているところはあるにしろ、また不安定ながらも袁術は豫州・揚州を手にし、司隷の一部、洛陽を有する河南にまで影響を及ぼす大勢力であった。ここで徐州を手にすれば、その段階で中原はほぼ掌握したに等しい。そしてその勢力の強大と袁家の名望とを合わせて天下に臨めば覇権の確立は成ったも同然だったのである。獲麟の好機であった。

 徐州を得んとする袁術は3つの行動を起こした。かつて袁術は瑯邪国の相(または郡太守)であったことがあるらしい。まず袁術はその時の関係を利用して瑯邪の士大夫たちを召し出した。後に離反した揚州刺史劉ヨウの後任として、袁術により揚州刺史に任じられる恵衢<けいく>、廬江太守に任じられる劉勲<りゅうくん>、豫章太守に任じられる諸葛玄<しょかつげん>(諸葛亮の従父)らがこれに応え袁術の下に赴いた。(恵衢・劉勲は袁術の故吏(袁術に引き立てられ郡の官吏職についた)だったとある。恐らく諸葛玄もそうなのだろう。諸葛玄は瑯邪郡(国)陽都県出身と分かっているが恵衢・劉勲について出身県が分からない。同じ陽都県の出だとすると袁術が県令をやっていた時のことと考えられるが、二人の出身県が分からないことや、この時期、この勢力状態にある袁術の召し出しに応えたことなどから袁術が瑯邪国の相(郡太守)をやっていた時の関係と考えるのが適当だろう。)

 ここで1つわき道に逸れさせて頂きたい。袁術と瑯邪の士大夫たちとの関係が絡んでいそうな話が一つあるのだ。瑯邪出身と言えば、この時期広陵太守であった趙イクも瑯邪出身である。彼は初め陶謙から請われて州郡の官吏となったが、後に疎んぜられるようになる。陶謙が召し出しに応じなかったことから害そうとした彭城出身の張昭を救おうと試みたりしている記述があるから段々陶謙と趙イク二人のソリが合わなくなったのだろうと言うことはあるだろうが、もし、趙イクに対する陶謙の感情が陶謙が袁術から距離を置き始めたのと重なるように悪化しているのだとしたら、陶謙は瑯邪出身である趙イクを袁術の手先ではないかと疑っていた可能性があるだろう。この疑いを濃くさせるかのように、曹操の二度目の徐州征伐(194年夏)、下ヒの援軍(と思われる)として曹豹の名があるのに広陵からの援軍があったように描かれていない。気にかかることだ。もしこの時まだ趙イクが存命であったなら、広陵から援軍がなかったこと(陶謙が広陵に援軍を求めなかったこと)は趙イクが瑯邪出身であるために袁術閥に属しているのではと疑惑を持たれ陶謙から警戒されて援軍を求められなかったことを暗示しているようにも思われる。勿論、普通に書き残されなかっただけと言う可能性の方が大いにあるわけだが。しかし、下ヒを捨てて逃げ出した下ヒの相筰*融<さくゆう>が劉ヨウの下へ身を寄せた時、その途中、広陵に立ちより趙イクを殺害したことを劉ヨウから咎められていない(ような)のは気にかかる。後に袁術へ叛旗を翻す劉ヨウのことを考えるなら、拠点である呉と長江を挟んですぐ北に隣接する広陵太守が袁術閥であったら非常に不都合なわけで、いなくなってしまったなら都合がいいと言うのは確かではある。筰*融がどういう話をして劉ヨウの納得を引きだしたかはよく分からないため迂闊なことは言うべきではないのだが、趙イクを中心にしてあった穏やかには見えない事柄は次のように考えると説明がつくのではないだろうか? 瑯邪出身の趙イクは、陶謙と袁術の間に生じた亀裂が明らかになった194年正月以降、陶謙ら(陶謙、劉ヨウ、王朗など)から彼が袁術閥に組込まれる(或いはもう組込まれている)のではないかと疑いの目を向けられ警戒されていたのではないか。これは彼らの行動にそれなりに妥当な説明であるように思われる。

 曹操から再度徐州を攻められた時に陶謙の本拠炎*<たん>に下ヒから曹豹が小沛から劉備が援軍に来ていたのに(前回曹操の攻撃を受けず無傷であった)広陵から誰も来なかったらしい(来ていたら曹豹に続けて名前が乗せられるだろう)こと、下ヒを捨てて逃げ出した下ヒの相筰*融が広陵に立ちよった時に太守である趙イクを殺害したのに(陶謙の南方政策に基づいて刺史に推された)揚州刺史劉ヨウがその筰*融を咎めず受容れていること、それらはすべて徐州牧である陶謙が彼の牧位獲得に功あった趙イクを疎んじはじめたことに続いて起こったことで、それは、陶謙が袁術と手を切ったところから発していたことだった、そう考えるとこの時期の徐州周辺の諸事情のどろどろした関係の絡み具合が見えてくるようである。総ては状況証拠でしかなく、それも不確かではっきりしたものではない。したがってこれはあくまで想像の域を出ない。しかし。それにしても。如何にも「らしい」想像には見えないだろうか?(趙イクが殺された時期をはっきり特定できるとまた面白いことが分かるのだろうが。)今後、この辺りの事柄を明らかにするような物件(石碑や竹簡など)が出てくることが望まれる。知っている方は一報を頂けるとありがたい。

 さて話を戻して。

 徐州を得ようとした袁術が打った二つ目の手は陳珪・陳登父子の取込みである。陳珪は後漢王朝末期に太尉であった陳球の弟の子であり、袁術は若いころ名家同士の交遊を図って互いに行き来していた関係があった。先に陳珪が沛国の相となった時、これはすでに袁術が任じた豫州刺史がいるにも関らず陶謙が(袁術との関係が破れたことを明らかにするように)劉備を豫州刺史に任じた時一緒に(陶謙に)任じられたと思われるが、袁術は陳珪を追い出そうとはしなかった。若いころの交遊関係を思えば、例え陶謙の任命を受けたと言え、陳珪が沛国の相に任じられたのは逆に好機と思えたのだろう。更に言えば陳珪は下ヒの豪族陳一族の一人である。陳珪を取込むことが出来れば陳珪が太守(相)を務めている豫州沛国ばかりでなく、下ヒもまた無傷で袁術の下に帰させられよう。しかし陳珪は袁術の誘いを拒んだ。これ以前、袁術が寿春を手に入れる際に自ら任命した揚州刺史陳禹*を追い払ったと言うことがあったのだ。それは陳禹*が袁術から離反したからであったのだが、そんな事情のほどは陳珪らの慮るところではなかった。陳禹*は陳珪の従兄で陳球の直系にあたっており、陳禹*に加えられた恥辱は陳珪・陳登父子が受けた恥辱も同然であったのだ。この時になって思えば、先に陳禹*を破ったあと、袁術は下ヒに使者を遣わして陳禹*の名誉回復と陳一族との関係恢復を図るべきだったのだろう。しかしそれは今更であり、遅すぎる認識であった。ここで袁術はどういうわけか下ヒに残っていた陳珪の二男、陳応を人質にとって更に脅しをかける行動に出た。下ヒにいる陳応を袁術が人質にとれるような時期は劉備が徐州牧を継ぐあたりのこの混乱期か、呂布が下ヒを落としたあたりかに絞られる。ここでは袁術伝に書かれている記述順からこの劉備が徐州牧を継ぐあたりの時期として話をすすめるが、もしかしたら呂布が下ヒを落としたころのことかもしれない。陳応を人質にとって陳珪を説得しようとしたこの袁術の行動は力任せの、最悪手も最悪手である。陳珪の抜け目無さや長男である(陳応の兄)陳登の剛毅さといった所に考えを巡らせば逆効果でしかないと分かろうものを、好機を逃すまいとして焦りに焦った挙句テンパってやってしまったようにしか見えない。この袁術の所業に、陳珪・陳登父子は態度を完全に硬化させた。

 袁術の3つ目の手は徐州へ軍を進める、であった。先に寿春を得た時は九江郡陰陵から袁術の軍が向かっただけで寿春は屈したのである。その成功体験が脳裏にあったのだろう。軍を進めて徐州に入れば、陶謙没後の混乱期にある徐州諸郡県は雪崩をうつように袁術の前にひれ伏すことになるのではないか? そう考えたか、袁術は徐州へ派遣する軍の編成にとりかかり、また兵站を整える準備に入った。そうして袁術は廬江太守陸康に米3万石の供出を要請する。太守陸康は拒んだ。これで袁術が徐州を得る計画は潰えた。覇権は幻と消えた。好機が去った瞬間であった。

 

 米3万石(単位は石ではなく斛だとか。ここでは全部石で話をしていきます。)が廬江郡にとってどの程度負担だったかどうかは分からない。董卓が乱世を拓いたとは言え、廬江はまだ後漢王朝末の温んだ空気の中にあり、関東諸侯が蜂起した中原のように民力が疲弊することになっていたわけではない。さほどの負担であったように思われないのだが、陸康は拒んだ。あるいは穀物3万石ではなく「米」3万石と言うところがなにか関係するのだろうか。拒絶は袁術への反旗に当たると理解していただろうに、陸康は何ゆえにか拒んだ。

 ここで3万石の穀物の使い方を少し考えてみたい。3万石の穀物は普通に費消すれば3万の軍の6〜7日間の行動を支える。(登*艾伝より換算) これは袁術軍3万が寿春を発し、淮水沿いに下って徐州下ヒ国淮陵あたりに到る行程である(ただし急ぐことになるかもしれない)。(淮陵は下ヒ国にあり、淮水の南岸に位置する。そのため曹操の第一回目の陶謙征伐で略奪を免れた数少ない都市の一つである。)更にこの淮陵からは、水運をうまく利用すれば6〜7日ほどで、曹操が第一回目の徐州征伐で下ヒを略奪したルートを逆に辿ればそれより少し遅れる程度(と思われる)で、下ヒに到る。廬江に準備させていただけでなく寿春の方でも糧秣を半分準備していたとするなら、袁術は史書に「数万」と書かれる規模の軍で行軍して下ヒ入りしようとしていたのではないかと考えられる。そうでなく糧秣の総てを廬江に準備させようとしていたとするなら、袁術はおなじく史書に「数万」と書かれる規模の軍でまず徐州入りして淮陵を占拠し、ついで淮陵に備蓄された糧秣を使って下ヒへ進軍し下ヒ入りを果たす(それだからどうあっても下ヒの有力豪族陳珪・陳登父子は押さえて置きたかったのだろう)、それから先に召し出した瑯邪の士大夫たちを州郡の刺史や太守に任じて徐州を完全掌握する、と言うプランだったのではと考えられる。陶謙が死去した時期はこの後行われる袁術の廬江攻略などを考えると194年晩秋から初冬あたりかと思われる。その時期なら徐州各地に食料が十分蓄えられていたと見ていいわけで、袁術がほとんど片道(どころか取りあえず徐州入りできるだけ)の糧秣だけで軍事行動を起こそうとしていたとしても不思議ではない。士気の低下や兵の途中離散なども覚悟すると言うなら糧秣の配分をもっと薄くしてより多くの兵で行動するか、より長い期間行動するかできるが、ここでは3万前後の軍ですばやく徐州入りを果たして寿春を押さえたように下ヒを押さえ、徐州を手にしようとしていた、と考えておく。

 袁術がどういったプランをもって徐州へ軍を進めようとしていたかは分からないが、ともかくそうしたプランは廬江太守陸康の離反で崩れ去った。袁術がぶち切れまくったとしても驚くにはあたらない。袁術は廬江攻略戦にとりかかる。そしてこの袁術の廬江攻略がまたまた袁術にとって悪い目にでる。この袁術の陸康攻めを見た揚州刺史劉ヨウが、袁術に背くのである。踏んだり蹴ったりであった。(更に言うと、劉備が結局徐州牧を引き受けたのが、袁術勢力のこの内訌を目にしてからと考えると面白いだろう。(自分はそうではないかと思っているが。)『蒼天航路』では是非このあたりのことを描きだして欲しかった。うまく『鬼幽』劉備の顔と能天気劉備の顔を使い分けつつ徐州を得る場面までもっていったら、もっと読み手を劉備好きにさせることが出きたんではなかろうか。惜しいなぁ…。誰か次に三国志マンガとか描く人は是非是非そこらへん宜しくね。)

 

【廬江太守陸康の離反と揚州戦役の勃発】

 廬江太守陸康がなにゆえこの時期(陶謙没後、194年晩秋〜冬のあたり)になって袁術との対立を決めたか分からない。いずれ対立する積もりだったのなら、そもそも袁術が曹操に破れて揚州に入ってきた段階で九江太守周昴・丹楊太守周斤*兄弟ら(周斤*が兄。後漢王朝から任命された郡太守。周昴は袁紹の上表で太守に就いた。)と力を併せて袁術を撃てばよかったのである。その時期なら袁術を撃つことは容易であったし、勢力を消滅させることも出来た筈である。しかし陸康はそうしなかった。そればかりでなく、袁術が九江郡(郡都陰陵)を占拠した段階では袁術と友交を結んで彼の寿春占拠を外交的背景から助力し、また丹楊太守周斤*が討伐されるのも黙認していたのだから、彼、陸康のこの度の拒絶はまったく理由がわからないし、利にも沿わない。この段階で廬江太守陸康は外交的に全く孤立しており、地勢的にも他所から援助を受けられるようなものではなかったのである。

 陸康が袁術の要請を拒絶したと聞いても、袁術はにわかには信じられなかったろう。しばらく使者のやりとりが続いたかもしれない。しかし陸康が袁術勢力に再帰することはなかった。袁術は徐州を手に入れるために勧めていた準備を廬江攻略に充てなければならなくなる。直にでも手に入るはずだった徐州を諦めなければならなかった袁術の怨みは深かったろう。袁術との交戦を覚悟していた陸康は廬江郡郡都舒から自分以外の陸一族を故郷へ逃れさせる。この退去で一族をとりまとめたのは陸遜。まだ十二の子供であった。七つでしかない幼子、陸績(陸康の息子)の手をとっての逃避行を、彼は果たしてのける。

 陸康と袁術の仲が決裂し、廬江での戦火が避けられないものになったことは直に揚州刺史劉ヨウの耳に入る。廬江太守を務めている陸康の妻子一族が廬江を脱出して長江を下り、ぞろぞろと呉に(恐らく曲阿。呉郡の東部及び南部は厳白虎や他の在地豪族が力に任せて占拠していたため、直接戻ったとするには無理がある。)入ってくれば噂にもなろう。劉ヨウは好機を確信する。彼は袁術との敵対姿勢を明らかにし、袁術勢力を長江以南の揚州から追い出しにかかった。袁術の廬江攻略戦が開始されてまもなくのこと、194年仲冬のことと思われる。同時期、劉備が徐州を領有する。彼が一旦は固辞した徐州牧襲名を終に受けたのは、袁術が徐州攻略どころではなくなったのを見たからだろう。その時期は陸康が離反して廬江攻略戦が開始され、この歳いっぱい徐州へ袁術軍が向けられることが無いと判った時か、更に続いて劉ヨウが袁術との敵対を明らかにしてからかのどちらかだが、劉ヨウの袁術への敵対が廬江太守陸康の離反だけではなく、劉備の徐州牧襲名も受けた上でである可能性もあるので、劉備と劉ヨウの行動については同時期と言うことで両者の(時期的な)関係を不明のままにして置きたい。判断がつかないのだ。(劉備と劉ヨウの行動が袁術の廬江郡攻略を受けて行われただろうと言う処はほぼ確実と思われるのだが。)

 それまで劉ヨウが袁術と敵対するには、3つの困難があった。一つは自前の戦力を持てなかったこと。二つ目は自分の治めている地域の豪族の協力が得られるかどうか不安があったこと。三つ目は体勢が整わない内に自分一人だけで袁術軍を引き受けることについて勝算が立たなかったこと。一つ目の困難はこの時、彭城の相薛礼と下ヒの相筰*融が劉ヨウの下に転がり込んできたことで解消される。筰*融が江東に逃げ込んだのが何時かと言うのが重要になるのは彼が劉ヨウが袁術と敵対するのに大きく影響しているのではないかと考えられるからだ。また、この時期、劉ヨウの治める地域に、徐州から多数の人材が流れ込んでくる。二度に渡る曹操の徐州征伐の時ばかりでなく、徐州牧陶謙の死と袁術が徐州へ食指を動かしたことも、呉書で『江東』と書き残されるこの地域への人材の流入を招いていた。そして袁術が引き起こすだろう動乱をいやがって流入してきた人材たちは、曹操の敖掠を逃れて逃げ込んで来た人材たちと決定的に異なる点があった。彼らは劉ヨウが袁術に敵対した時、協力してくれる可能性があったのだ。当時劉ヨウの下に許劭が寄ったことも劉ヨウを力づけた。二つ目の困難も解消される。呉郡については、呉郡の有力豪族陸氏の取込みを期待できた。丁度廬江から逃れてきたばかりの彼ら陸一族を保護し厚く遇することで、その周辺の有力豪族の協力を期待できるわけだ。丹楊郡については、もと下ヒの相筰*融の協力を得て丹楊郡の豪族たちを糾合すればこと足りる。会稽郡は太守が勝手知ったる王朗である。その彼はどうやら会稽郡を上手く掌握できたようだった。豫章郡だけはどうにもならないが、豫章郡については初めから関りが希薄であり、今回袁術に敵対するにあたっても関りはない、中立であろうと思われた。三つ目の困難も廬江太守陸康が袁術から離反し、その兵を引き受けたことで解消された。そればかりではない。廬江が袁術と交戦状態に入ったことで劉ヨウに有利な状況が生じたのである。呉景・孫賁らの孤立である。劉ヨウはそこまで見た上で袁術との敵対を明らかにしたと思われる。

 この時、呉景は丹楊太守、孫賁は丹楊都尉(丹楊郡の警察ごとを司り、警察力を用いて解決される司法関係の仕事も担うが、乱時にあっては軍事を覧る役職と捉えた方がいいかも知れない。)として丹楊郡を治めていた。しかしこの時の丹楊郡は先に後漢王朝の任命した太守周斤*を追い出した際に戦乱を味わっており、その時に呉景らは周斤*に協力するものは皆敵とみなすとして各所で鎮圧行動を行っていた関係もあって治下の民からよく思われていたとは言い難かった上、丹楊郡のすべてが服属していた訳ではなかった。更に言うと、先の太守周斤*は旗色が悪くなった段階で太守の職を辞して故郷(会稽郡)へ帰る前に、丹楊郡の軍を解散させていた。兵たちに郡下の武器を預けた上での解散(郡の武器庫の解放)であったと思われる。(丹楊郡を治めにくくする行動をした上で、彼は太守を辞して会稽へ帰ったのである。)呉景・孫賁らは敵地のような丹楊郡の中にいて、さてこれから丹楊を治めようか、と言う処だったのである。そうしたところに、廬江太守陸康が唐突に離反し、続いて揚州刺史劉ヨウが袁術との敵対を表明したのだ。呉景・孫賁にとって有りえないことに、(ただの御輿にしか過ぎなかったハズの)揚州刺史劉ヨウはいつ集めたのか、軍を持つ身になっていた。孤立を怖れた呉景・孫賁は劉ヨウの圧迫を受けただけでたちどころに丹楊郡を放棄、長江を北に渡って撤退する。

 劉ヨウは彼らを逐っただけでは終わらせなかった。それだけでは不十分だからである。彼は治下の長江流域にある渡河地点を押さえると、対岸の渡河地点、横江津も押さえ、軍を駐屯させて対処に万全を尽した。完璧なまでの、電撃的接収であった。

 ただ一つ、遺漏があったとすれば、孫策の母、呉夫人の身柄を確保しなかったことである。しかしそれは小霸王と噂される後の孫策を知る後世の目で語るからであって、もとより劉ヨウに求めるべきではないのだろう。

 

 

 195年(興平2年)。

 この歳、諸勢力の混迷につけこみ、孫策らを江東に派遣して南方を図った歳である。

 

【小霸王孫策の華麗なる戦歴:廬江郡の攻略と揚州戦役】

 194年、冬、廬江太守陸康の離反は、徐州牧陶謙が死去した直後に生じた徐州獲得の好機を失わせただけでなく、続いて揚州刺史劉ヨウを背かせてしまう。徐州に食指を動かしたことで、袁術はいきなり勢力の危殆に瀕することになる。

 袁術は廬江攻略軍指揮官に孫策を起用した。

 孫策は、この歳194年春(から夏までの間に)、袁術の下へ出向いてその傘下に入り、そしてそれからそれほど時を経ずして太傅馬日テイ(袁術の処に寄留していた)より懐義校尉の官を授かっていたのである。(義を懐かしむと言う意味のその名称は恐らく父孫堅を偲んだ袁術の意向が働いてのことと思われる。)年は若干、即ち二十。袁術の下に出向いたその歳の冬にこの若さで一郡を攻略する指揮官に抜擢されたことを考えると、やはり孫策は(先に孫策の暗史として述べたように)それまでにも何度か部隊を率いたことがあるばかりでなく、この時抜擢されるに足るだけの戦果をそれまでに挙げたことがあったのではないだろうか、と思えてくる。

 ともかく。そのように袁術の抜擢を受けた孫策は軍を率いると早々と廬江へ攻め込んだ。194年冬のことと推測される。(陶謙の死が194年秋ごろ、陸康の離反がその後と考えられるため)

 この廬江攻略、正史三国志(輩松之注含む)中、その従軍が確認される者は呂範、程普、直接の記述は無いが加わっていて当然と思われるのがこの時期側仕えしていた蒋欽、周泰、それに加えて父孫堅死後配下に加わっていたとされる黄蓋である。この時の軍規模は陳寿の筆、輩松之の注からだけではまるで分からないが、主将が語られている通り孫策であるとするなら、彼の官位が懐義校尉であることから推し量るに、孫策直下の部隊は(本来なら)五千程度ではなかったかと考えるのが普通だろう。

 しかし三国志などの記述から見ると廬江は孫策軍に囲まれたように見える。郡太守の拠点を包囲する軍規模ということで考えると孫策率いる廬江攻略軍は万単位の軍でなければおかしなことになる。もしかしたら、孫策は当初は廬江攻略軍の総指揮を執る予定ではなかったのかも知れない。この時、離反した廬江太守陸康に対して、長江を隔てて南接する丹楊郡に丹楊太守として呉景が、丹楊都尉として孫賁が控えていた。袁術軍の主力打撃部隊を率いていた彼らをそのまま北上させると共に孫策に兵を預けて寿春から南方廬江へ軍を進めさせれば、南北から廬江郡を挟み撃ちに出来る。たとえばこのような考えであったとするなら、孫策が校尉職で軍を率いて廬江へ攻め込むのを疑問に思う必要はない。孫策は飽くまでも呉景、孫賁ら主力打撃部隊に対する側面援護として袁術本隊から派遣された支援部隊と言う位置づけになるから『校尉』で丁度良いわけだ。ところが廬江太守陸康の離反に好機を見た揚州刺史劉ヨウが袁術に背き、呉景、孫賁らが身動き出来ないようになってしまった。そのため本来なら支援部隊を率いる役目でしかなかった孫策が、そのまま廬江攻略の総指揮を執ることになったのではないだろうか。太守陸康が拠点としていた廬江郡都(治所)舒は孫策が少年期を過ごした街だった。その背景から袁術軍の将官の中、誰よりも舒の内部に詳しいと見られた孫策が、(呉景、孫賁が動けないこの状況で)廬江攻略軍の総指揮を執るのは、臨機の処置として最適と思われただろう。あるいは只単に孫策はまだ彼の才能を公に示したわけではないため、まずは校尉の役職で起用し、功績に伴って次第に官を上に遷してゆく、そういう袁術の考えであったのかもしれない。

 廬江攻略を担当した孫策周辺には地位に比べて実際の権限が大きかったように見えること、率いていた軍規模が明確でないこと(とはいえ大きそうだ)など、調べてみると面白そうなことが潜んでいると思われるが、力及ばないので諦めて次に話を進め、劉ヨウの取った戦略を説明することで、孫策が登場する舞台がどう整えられていったかを明らかにしよう。

 揚州刺史劉ヨウは、筰*融らの助力を得て自前の軍事力を揃えると、その軍事力を背景に呉景、孫賁らに圧迫を加え、長江の北に追いやっただけでなく、長江北岸の横江津に樊能、于糜を派遣して歴陽に留まる呉景、孫賁と対峙させた。これは彼らが再度長江を渡って江東へ軍を進めるのを阻むと言う考えだっただけでなく、胴口や濡須口など横江津西方にある長江渡河地点を経て彼らが南方から廬江へ侵入するのを阻む意図もあったと思われる。廬江太守陸康への間接支援である。劉ヨウの英眼はそれに留まらない。更に加えて当利口に張英を派遣、東西から歴陽を挟むように軍を置き、呉景、孫賁を挟撃できる体勢を確保して彼らの行動を拘束したのである。正史版、掎角の計である。『三国志演義』で徐州に攻め込んだ曹操軍を破る策として陳宮が呂布に進言したのは戦術級のものだったが、劉ヨウが行ったこれはその対象地域の広がり、規模から見て作戦級と言ってよい。視点の高さもそれに相当する。軍事的には力の分散と言うリスクを冒しているが、なんらかの防御拠点を設けてそこに篭らせ、分散した軍事力の各個撃破を防ぐ予防策さえとっているなら、袁術軍主力打撃部隊を歴陽に拘束させ、袁術本隊から切り離した劉ヨウの戦略、その表れとしての作戦級『掎角の計』は袁術と呉景らの分断ならびに主力打撃部隊である呉景らの拘束、廬江郡への間接的掩護を兼ねた、実に的確、妥当で容赦の無い差配であったと言える。(更に加えて水軍を充実させ長江の水利を生かして機動防御を行えばもう言うところなどないのだが、劉ヨウがそこまで手を打っていたかどうかは分からない。ただ牛渚を軍事物資集積拠点としていたことなどから見て、もしかしたらこの点についても考えを巡らせていた可能性がある。劉ヨウの軍事面はもっと評価されてよいように思う。)実際、劉ヨウのこの戦略の前に呉景、孫賁らは歴陽への拘束を余儀なくされる。彼らが自由に軍事行動を取れるようになるのは、廬江を降した孫策が援軍として駆け付け、後に小霸王の名を恣にするその才能で以て膠着した状況を打ち壊してからとなる。

 揚州刺史劉ヨウの定めた戦略によってそれまで袁術軍の主力打撃部隊を務めていた呉景、孫賁らは袁術本隊から切り離され、歴陽に拘束されて『死んだ』戦力となった。ここに孫策が廬江攻略軍の総指揮を任される状況が出現し、彼が歴史に華々しく登場する舞台が整えられたのである。

 

 孫策の廬江攻めは翌年まで続く。

 三国志(含む輩松之注)の方では割とあっさり流されているが、後漢書の方の記述では廬江太守陸康を支えるために陸氏の大人は殆どが廬江郡都(治所)舒に残留したようだ。三国志の方で少年陸遜(12歳)が幼い陸績(7歳)を連れて廬江から逃れるというかなり無茶な行動を取っているのはそのためなのだろう。包囲から攻囲、陥落までは年を挟んで実質4ヶ月かそれ以下ではなかったかと見積もられるが(なぜならこの廬江攻略直後の195年春、孫策はただちに江東制覇に取り掛かるからだ)、終盤、廬江は飢餓と疫病に悩まされた。この飢餓は太守陸康に協力した陸氏の人々からも餓死者が出たと書かれていることから深刻だっただけでなく、かなり長期に渡っての飢餓であったと考えられ(こうした戦時において上級将校となり得、保護も篤いはずの太守の一族に餓死者が出ることは相当長期に渡っての飢餓であると見るのが理に適う)、廬江の蓄えが乏しかったことを示すと見ていいだろう。その廬江の蓄えの乏しさが廬江郡全域に及んでいたのだとしたら、そもそも今回の開戦の切っ掛けとなった陸康が袁術からの糧秣供出要請を拒んだこと自体、廬江の秋の実りが十分でなかったことに由来していたのではないかと考えることが出来る。そうでない場合(つまり廬江郡下では実りがあったが治所たる廬江郡都舒には最長でも4ヶ月程度の篭城で重篤な飢餓に陥る程度の蓄えしかなかったという場合)には、袁術と陸康の間で戦争になるのは避けられないとの認識が得られて殆ど時を置かずに孫策軍が廬江に到着、陸康側は郡下の諸県から充分な糧秣を集め確保することが出来ないまま包囲を受けたのだろうと考えられる。この場合、開戦が避けられないとの認識が得られてから実際に戦争に突入するまでの袁術側の意思決定の迅速さと侵攻軍を抽出して派遣するまでの手際のよさ、戦争経験の少ない孫策を主将とする侵攻軍の、にも関わらず電撃的な進撃など、従来の演義などで語られる袁術軍閥に対する見方ではありえないほど袁術側の行動は「有能」であったことが見て取れる。

 戦いの詳しい経緯は分からないが、195年春、廬江郡都(治所)舒は陥落した。後漢書陸康伝に拠れば、この時、陸氏の半数が飢餓と疫病に斃れたという。太守陸康も病に倒れ、廬江陥落後ほどなく、死去した。78歳であった。

 

 廬江を陥落させた孫策は寿春へ軍を還し復命する。この廬江攻略がなった暁には彼は廬江太守の座を褒賞として提示されていたのだ。だが、寿春に帰った孫策の目に映ったのは廬江太守に就任する劉勲の姿だった。約束は、反古にされたのである。

 孫策の落胆は大きかったろう、この時以来彼はいつか必ず袁術の下から独立しようと言う思いを頑なとも言えるほどの強さで抱くようになる。それは様々な言明の仕方で諸書に記される通りである。輩松之によって抜き出され、連ね並べられた注から強く匂いたつのは功業への飢餓感に苛まされ焦燥する若き孫策と彼のその若さである。そして彼がこの後江東に渡り、三郡を降したあと周到なまでの人材配置と戦力移動で袁術が派遣した新たな丹楊太守袁胤を長江の北へ追い払い、実質的な独立を果たしてしまうところまで目にして漸く、我々は、思い描いた画を実現してゆくにはどうすればいいか胸中に秘め通したまま考えを巡らし続けついに独立を成し遂げた孫策の、若さゆえに積み増された飢餓感に身悶えする青年の姿ではなくその中にある飢餓感を糧に時代を掴むに至る英雄としての姿に、気づくのである。

 

 孫策の憤りはさておき、袁術がこの時約束を反古にしたのには孫策に対する扱いという点では無思慮だったが別に理由があった。

 廬江郡を攻略する前と、状況が大きく変わっていたからである。言うまでもない、揚州刺史劉ヨウの背反である。

 先の陳ウといい陸康といい劉ヨウといい、袁術が何か事を起こそうとする度に彼の足元を崩して目論んでいた大いなる計画を台無しにしてくれるのは一体どういうことなのか。傍から見ている分には喜劇にしか見えないこうした動きは後漢末有数の群雄の一人として覇権の確立を目論む袁術にとって、質の悪い悪夢でしかなかった。信頼していた者に人事を任せ、有能を謳われ名士に列せられる者たちを起用した所、揃って挙兵して自分に背いたというのは、初平元年に董卓の蒙った悪夢だったが、袁術も董卓が囚われた疑心暗鬼に同じように囚われたようだ。彼は本当に信頼できる者にしか郡太守を任せないことにしたのである。信頼できる者とは誰か。

 門生故吏と言う言葉がある。

 門生とは師に対する生徒の関係を示し、故吏は官吏として引き立てられた元部下という関係を示す。

 学問としての儒学ではなく、後漢末、この世界を遍く覆っていた人の生き方を律する規範としての儒教は、生まれては親に従い、学んでは師に従い、仕えては上に従うことを無上のこととして教え諭す。そして、その規範に導かれ出来上がってきた習いこそが故吏というもの。郡太守に諸従事として引きたてられ、あるいは孝廉に察せられた者はその恩顧に応えるべく引き立てた者に誠心を尽くす。州(刺史・牧)から諸従事として引きたてられ、あるいは茂才として推挙されたものはやはり後々までその時の刺史(牧)だった者の期待に応えることを求められる。公府を持つ三公、上将軍(大司馬、大将軍、驃騎将軍など)は郡や州ではなく全土から人を招く。一度その招きを受けてしまえば彼らが苦境に陥ったとき、手助けしないことは心情として許されない。それが道義であった。(そのため我が身を託せないと思う相手からの招きは当然、断らざるを得ない。後漢末、多くの人士が公府の招きを断る様子が描かれているが、それは許劭などの著名人による人物評と対になる、招かれた人間(たち)が招いた人間に対して行う暗黙裡の人物評であると同時に後漢末にあった複雑な人物相関図、派閥関係を反映したものでもあったようで、意味深長なものである。興味のある人はこうした所から地道に攻め調べてみてゆくと、随分と面白いことが分かるかもしれない。)

 袁術は、自分を裏切ることのない者として、かつて太守であった時期に吏僚として彼に仕え、今また彼の呼びかけに応じて寿春にやってきた、彼ら琅邪の故吏たちを頼ったのである。地方を統治する者として袁術は恵衢、劉勲、諸葛玄らを充てた。

 

 孫策が太守に充てられなかったのにはもう一つ理由がある。

 彼は、若すぎたのだ。

 後漢末、任官に関して暗黙の約定が存在した。どのような権門の子息であろうと、孝廉に推挙されるのは二十歳以上でなければならない、という。名士にも一目置かれた大宦官曹騰の孫という立場から新興の権門を目指した曹操も、四世三公の後漢末随一の名門袁家の若君袁紹も袁術も、孝廉に推挙されたのは量ったように二十である。呉書に列せられた諸人士を見ても張昭の二十歳前後、雇雍の二十歳そこそこ、と名声を博した名家のプリンスたちの任官年齢は揃って二十である。後漢末、豪族たちの権勢の程を推し量る基準の一つが、この、孝廉に推挙された年齢であった。そしてこの孝廉(孝廉は郡太守が推挙する)に推挙された人材たちは、中央に引っ張られて他郡の県長(小さな県は県令)を勤めるなり、その前に刺史や牧などから茂才と言う更にグレードの高い推挙に預かって中央の議官(議郎など)になり、地方官へ任命されるなりして2、3職ほど地方と中央の小さな官職(といってもそうした推挙に預かれない豪族たちからすると垂涎の官職)をつとめてから郡太守を拝命する手はずになっているのである。

 孫策が齢二十か二十一で一郡の太守になるのは、権勢・名声でごり押ししても孝廉になれる(中央から高位の官職を任命される資格を得られる)のは二十、郡太守になるのは、その後キャリアを積んでから、と言う後漢末の諸豪族の間にあった暗黙のコンセンサスを破ることになる。暗黙のコンセンサスと言う明示されない約定だからそれが守られなかった事例もあるが、その事例と言うのが権勢を誇る宦官につながる人物だったり皇帝の座を脅かす外戚につながる人物だったりとあっては(しかも彼らの殆どは必ずと言っていいほど後に指弾を受け落魄を余儀なくされている)敢えて『清流』士大夫間にあったコンセンサスを乱そうと言う気にはなれないだろう。袁術が躊躇ったゆえんである。

 袁術としては、三十前二十代末(27、8)に郡太守、と言う昇進でもほぼトップスピードの昇進であるのだから、暗黙のコンセンサスを破ることで士大夫たちの反発を買い、逆に孫策の官位が軽んじられることになってキャリアに傷がつくよりは、今回は辛抱したらいいではないか、という考えだったのではないかとも擁護出来る。袁術は廬江攻略を成し遂げて帰ってきた孫策を今度は揚州戦役へ送り出すにあたって、折衝校尉に任命しているが、これはかつて袁術自身が就いていたことのある(袁術にとって思い入れのある)役職である。郡太守には出来なかったものの、袁術が孫策に目をかけていることを皆の目に示したいと言う意図に取れる任官であった。江東に渡った孫策は本来の官位・軍権なら舅の呉景の下にあるべきはずなのだが、実際には殆ど独立部隊として行動し、揚州戦役を主導してゆくことになる。その背景には、官位は下であっても、官の由来が呉景の主君である袁術が孫策に期待を込めたことが分かる折衝校尉だったことがあったと見ていいのではないだろうか。(似たような事例は劉備と曹操が直接対決する漢中戦役に至る過程で曹操が下卞に派遣した軍の司令官、曹洪とその参軍、曹休の関係があげられよう。)

 袁術にそうした期待や意図があったとしても、しかし、それは孫策には受け入れられないものだった。齢二十余の血気盛んな相手に五年あるいは十年待てと言うことは殆ど永劫に待てと言うに等しいことを、袁術は理解すべきだった。孫策の飢餓感は満たされず、焦燥はますます激しく、憤りは煩悶の域を越え、彼は袁術から心を離してゆく。

(ここまで前編)

 

 195年春、離反した廬江郡を再び膝下に組み据えた袁術は、二度と廬江郡が離反することのないよう太守として自分の故吏であった琅邪の劉勲を任じ、また、前年冬から膠着状態にあった揚州刺史劉ヨウとの戦いに本拠寿春から援軍を投入する。

 その援軍の中に、この春、廬江攻略の功を評価され、懐義校尉から折衝校尉に官を遷された孫策がいた。功業とそれに見合う評価を渇望する彼は、朱治の勧めに従い、今度こそ太守の座を得ようとこの度の派兵に自分を起用してくれるよう袁術に懇願し、許されたのである。孫策の懇願を受けて、元父の兵が彼に返されたが、それはわずか千余りであった。三国志の記述から鑑みるにこの兵の中に程普・韓当らが含まれていたと思われる。彼らは北方遥か彼方、遼東方面の出身であるから、この時孫策に返された兵は、北方出身者で固められた兵たちであったのではないかと考えられる。華夏の広大さとそれに伴う方言の多様さ遷移の酷さを思えば、袁術軍の中にあって彼らは意思疎通がうまくとれず扱い辛い兵たちと思われていたのだろう。度重なる戦いで兵力が磨り減っても方言の違いによる意思疎通の問題から補充も再編成もままならなかったと思われるその彼らを、袁術は体よく孫策に預けたのではないかと疑われる。孫策は寿春から呉景らが駐屯する歴陽にいたるまでの間に盛んに兵を募り、歴陽に到着する頃には五千余りの兵を率いるようになっていた。孫策伝での記述をそのまま信ずるなら孫策は千の兵を瞬く間に五千に増やしたと言うことになるが、これは陳寿ら史家独特の叙述トリックかも知れない。孫策の下には袁術から返してもらった元父の兵千の他に孫策自身の手持ちの兵、孫策にほれ込んで彼の下に寄った呂範らが引き連れていた食客由来の兵などが居たと考えられ、その兵たちなどを併せた上で兵を募り、歴陽に到って五千の兵を率いることになっていた、そういうことかもしれないのである。(この場合我々は陳寿の叙述トリックに釣られて、孫策の兵は千しかいなかったものと思い込まされていることになる。もちろん、勝手に思い込むのは我々であり、陳寿が嘘をついているわけではない。)歴陽で孫策はある人物の助力を得る。かつて孫策が幼少の頃、友好を深めた周瑜である。周瑜はこの時、従父の周尚が丹楊太守に任じられたことでご機嫌伺いにやってきていたのだった。

 袁術の人物任用の姿勢から見て、この時周尚が丹楊太守に任じられたことは、その前に彼がなんらかの功績を挙げていたのではないかと推測出来る。その功績と言うものが何か史書では明らかでないが、その出身が廬江郡舒の豪族であることから、孫策が行った廬江郡攻略になんらかの助力をしたのではないかとも思える。しかしそうしたことが無かったとしたら、周一族が先ごろ後漢王朝中央に三公を出した廬江屈指の名族であるところが、袁術の抜擢を得た理由かも知れない。実を言えば、周氏は袁氏の抜擢によって中央政界に登場した家門である。四世三公の家門を謳われるようになる袁氏の始め、司徒袁安が周栄(あざなは平孫)の才能に目を留めて司徒府に辟招(引き立て)、その腹心となってから周氏の繁栄が始まるのである。(それまでの周栄は自ら「私は江淮の狐生」と言うほど人脈を持たなかったようだ。<後漢書周栄伝>)そういえば袁術は他に陳圭・陳登父子へも以前、付き合いがあった関係から誘いの手を伸ばしている。とするならこちらは袁術のもうひとつの任用姿勢に従ったものと見ることが出来るだろうか。その始めを袁安−周栄に求められる廬江郡舒の豪族にして三公を出したこともある名門周氏のこれからの助力を期待しての任用であったのだろう。他にも考えられることはある。舒が戦禍を被ったことから周氏への謝意が込められた任用であったのかも知れない。舒が戦渦から立ち直るのに周氏の協力を願っての任用であったのかも知れない。そういったことなどだ。どれが主因であったかはもはや推し量りようなどなくなっているのだが、何か相応の理由があって袁術は周尚を丹楊太守に任じたのだろう。(後に周尚は丹楊太守の任を解かれ、寿春へ召還される。そしてその後任として袁術の従弟、袁胤が任じられる。袁術が帝位を僭称するに先立ってのことと推測されるその時期の召還から考えて、帝位を僭称した時には、袁術は若しかしたら周尚が陸康のように郡を挙げて離反することを危惧したと思われる。また、そのように袁術が危惧していたのだとするなら、周尚の任用は、功績へ報いると言う意味よりも将来の協力を期待してのものだった、と言うところに重心があったようにも思える。しかし、それにしても、この周尚の丹楊太守就任が、もし此処で考えたように廬江郡攻略に際して助力したことへの褒賞ということであったのだとしたら、はるか後に起こる周瑜の息子たちの零落と陸遜の台頭は運命の流転する有様とその非情を我々に見せつけてくれる。尤も彼ら周氏の一党が孫策の廬江攻略に何ら貢献が無かったとしても、孫策は幼少時、周瑜の勧めで舒にある周瑜の家を仮の宿として数年を過ごしたことがあったのだから、舒の街並みは孫策の記憶に刻まれていたことだろう。特に周一族による情報提供が無くとも廬江郡都(治所)舒の城塞としての情報を得るのに問題はなかったとしたいところだ。)

 とまれ。幼少時の友、周瑜の参加を得て、孫策は心を逸らせる。早速彼はこの膠着状況の打開に向け、行動を開始した。

 

 この時、背反した揚州刺史劉ヨウを討つ袁術側の布陣は次のようになっていた。まず背反した劉ヨウの代わりの揚州刺史として琅邪の恵衢<けいく>。彼は袁術にとって故吏にあたる。次に討伐軍として督軍中郎将呉景。劉ヨウ背反時に丹楊太守だった彼は、官を遷されていた。劉ヨウの背反を抑えられず江北へ逃れた彼の遷官に何らかの懲罰的側面を見たいところだが、どうもそういうわけでもないようだ。というのも督軍御史中丞、督軍糧御史など漢朝に見られる役職などから推し量ると、督軍中郎将はその作戦に関係する諸部隊を統括する中郎将と言うことだったと考えられるからだ。先の恵衢が揚州刺史と言う政治面での頭、呉景が軍事面での総司令官と言うことだろう。呉景の職が『将軍』職でなく『中郎将』職であったのは、この作戦を行うにあたって大局での戦況判断や作戦変更の指示など戦略面での判断について左将軍である袁術自らあたる(指揮権はあくまで袁術にある)姿勢だったからと思われる。(これは黄巾の乱時、朱儁や皇甫嵩らが中郎将職にあって朝廷からの指示で作戦を実行したのと同じ形式だ。また呉景伝にはこの作戦の指示が袁術から出されている様子が描かれている。)これに丹楊都尉・征慮将軍として孫賁、揚武校尉として孫輔、折衝校尉として孫策が加わる形になる。

 前年冬から膠着状態が続いていた長江北岸での劉ヨウとの対峙は、195年春、廬江郡を押さえた結果、戦力の再編と抽出が可能となった寿春からの援軍を得て、動き始める。先に述べたように、この膠着状態を打開したのは、孫策の行動であった。

 

 後漢末の群雄乱舞劇を見ていて思うのは、後漢末の諸群雄・英傑たちの中で戦争と言うものが元々持っている無邪気な野蛮さと言うものに誰よりもよく馴れていたのは彼、孫策だったのではないかと言うことだ。孫策の軍事行動の大きな特徴の一つに、極端なまでの戦力配分の偏りがある。この直後に行われる牛渚攻防戦などを見れば分かるが、孫策は殆ど拠点を空にするようなことをしてまで戦力の抽出・集中を行い、作戦を実行する。(そのため一旦得た拠点を敵に奪われるような羽目に陥ったりする。他の将帥たちではまず見ることがないような拠点喪失の仕方だ。)それは確かに高いリスクを伴う作戦で、実際、このあと行われた牛渚を巡る攻防で一度は得た劉ヨウ側の物資集積拠点、牛渚を敵に取り戻されていることからもそのリスクの高さは分かる。

 しかし。相手よりも早く戦力の集中を行い、相手がこちらの行った戦力の集中に対応して戦力を集中させるよりも早く行動し、相手の枢要を射抜くことこそ、軍事の要諦と言うものだろう。ほぼ拮抗する戦力の相手に対してどうあっても戦果を得ようと欲するなら、どこかでリスクを冒さなければ戦果など得ようがない。この時指揮に当たっていた呉景および孫賁は、これ以前に行われた、丹楊太守周マを相手にした丹楊郡制圧戦での作戦指導や、この後に起こる、劉ヨウを曲阿から追い払ったあと揚州をどう攻略するかと言うところで漸進策を主張し孫策と対立することで分かるように、堅実な軍事行動を好む将帥だった。つまるところ彼らのこうした作戦指導が、この194年冬から翌年春までの膠着状態を生じさせたのである。戦略規模での極端な戦力配分の偏りと集中と壮大な運動戦を以って相手の防御を突き破り、大規模な包囲を完成させて(あるいはその突破の勢いを生かして直接相手首都を撃って)敵を打倒しようとしたシュリーフェンプランを、リスクが高いとして堅実さを求めてその戦力の偏りをなだらかにし、実行したところ、得られたのは長大かつ突破不能なマジノ線の現出とそこを巡る不毛で果てのない出血だったと言うのが、第一次大戦時のドイツが見せた戦力の集中とリスクと戦果を巡る軍事についての教訓だったが、この時の歴陽周辺の状況も同じような膠着状況になっていたと考えて差し支えないだろう。

 すでに出来上がってしまった膠着状態を崩すにはどうするか。その時だけの特殊な奇策や偶然を得ずに膠着状況を崩そうとするなら、その状況では有り得ない程の戦力の集中と、集中した戦力を用いての運動戦、それも相手が妥当で堅実な作戦行動を執る余裕をもてない(保てない)ほどの速度で行われるそれしかない。孫策が行ったのは、正しくそういうことであった。と思われる。と思われる、と書くのはこの時期の孫策や彼が属していた袁術軍閥諸将の軍事行動が殆ど掴めないからだ。だからこの長江を渡河するまでの孫策たちの行動は殆ど想像のものと申し添えて置く。しかし全く零からの想像ではなく、彼の母、呉夫人の動き、横江津・当利口を巡る戦いを叙述した部分に見られる若干の異同、孫策の軍事行動に見られる特徴を考え合わせての想像である。

 歴陽周辺の膠着状況を打開しようとした孫策がまず行ったのは、母、呉夫人と弟たち家族を歴陽から後方にある阜陵へ移送することだった。それまで歴陽で呉景の下、安全が確保されていたと思われる彼らの移送が示すものは、これから孫策が提唱し取り仕切る作戦が歴陽の安全を図れないものだったのだと言うことだろう。孫策が極端なまでの戦力の集中を生かした作戦を行ったのではないかと疑われる理由の一つだ。これは他にも部隊長クラスにあたる徐琨の母が作戦行動中の軍内にいたりするといった、どういう事態でそうしたことが起こり得るのか考えあぐねるような事柄も傍証となるかも知れない。孫策の作戦が行われている間、拠点である歴陽には軍がいなかったのではないかと言うことだ。(歴陽を空にして出撃する作戦だったために、将校クラスの家族は軍に同行していたと考えられる。)。孫策は歴陽にあった軍を二つに分け、歴陽の守りを空っぽにして、全軍を挙げて呉景に横江津を、孫賁に当利口を攻撃させた。(呉景が横江津を、孫賁が当利口を攻撃したとしたのは、それぞれ『呉景伝』『孫賁伝』での記述のあり方から判断した。)混乱は、まず当利口を守る張英に訪れたと思われる。張英は、横江津を守る樊能から呉景が大部隊を率いて攻勢に出てきたとの連絡を受けて、増援を送り出したばかりのところで大部隊を率いた孫賁の攻勢を受けたようである。孫策の部隊に属していたと考えられる徐琨の伝などの記述から判断する限り、所期配置で孫策の部隊は呉景の方に居たと思われるが、樊能からの通報の動きで張英が援軍を横江へ送り込んだことを察知した孫策は、横江津から離れて当利口へ急行した。これは恐らく勝手な戦線離脱であった。予め計られたものであったなら、この行動は横江津・当利口の戦いで勝利を決定付けた行動として、孫策の伝に大きく取り上げられているべきはずのものだったろうからだ。ところが孫策の伝では一言も触れられずこの作戦は一括して『転戦した』と述べるに留められている。勝手な戦線離脱など、本来なら重い処罰を課せられるはずなのだが、孫策は袁術に贔屓にされ『折衝校尉』を授かっている上、呉景を舅としていた関係から大目に見られたようである。大目に見たと言うが、先の丹楊郡制圧戦での孫策の助力やつい先だって行われた廬江郡攻略戦での戦果など見れば、この戦線離脱も考えあってのことだと、呉景が擁推してくれただけなのかも知れない。とにかく、孫策は横江津を離れ、当利口へ急ぎ向かう。当利口では張英が孫賁の軍を前にし、困惑の中にいた(と思われる)。横江津に呉景が大部隊で来寇したと言うが、こちら(当利口)でも孫賁が大部隊で来寇して来たではないか。横江津に攻め込んだ呉景は袁術軍側の大規模な陽動で、本命は、この当利口の攻略なのではないか? まさか袁術軍が拠点である歴陽を空にして乾坤一擲の二正面作戦を仕掛けてきたとは思わない張英は自分たちが陽動にひっかかったと判断し、逆に横江津の樊能に伝令を走らせ援軍を要請したと考えられる。孫策の部隊の動きも、張英の判断をそういう方向へ傾けたことだろう。張英からの連絡を受けた樊能はこれに応え、于麋を送り込んだ。樊能もまた、孫策の部隊が横江津の戦場を離脱したことを知ることになったろうし、張英からの報告と併せて自分の方(横江津)は陽動だと判断したのだろう。(実際はどちらも本命だったのだが。)ここまでは孫策伝で『各地を転戦した』としか書かれていない軍事行動について、孫策の部隊に配属され、転戦していた程普の伝、孫策と親分子分のような関係にあってこの時の作戦では行動を共にしていたと考えられる呂範の伝で『横江・当利に軍を進め、張英・于麋らを打ち破り』とあって、樊能の下に配属されていた于麋が張英と共に撃破されている様子が描かれていることから孫策の行動をそのように推量した。(徐琨伝でも同じような描かれ方をしてある。)

 本来なら掎角の体勢にあって相互に援護可能で、守備としては万全の形にあったはずの横江津・当利口の戦線は、まさにその掎角の体勢を孫策に利用され、翻弄されて、崩壊する。相手の行動を読み違え、援軍をやりとりしあった樊能と張英は、その軍事行動の時間差、それゆえに生じる戦力配置のズレを孫策につけこまれ、敗北するのである。まず敗れたのは張英・于麋、ついで于麋を送り出したために戦力が減じ、張英らが孫策らに敗れたことで敗勢を支えきれなくなって樊能が呉景に屈し、敗走したと推測される。

 孫策は、張英・于麋を破って当利口を占拠した段階で、長江の渡河に取り掛かった。この後自分がわざわざ横江津へ向かわずとも樊能の敗走は時間の問題と思えたからだろう。(孫策の部隊に属していた程普の伝では張英・于麋を破る場面は描かれていても、樊能を破る所は描かれていない。孫策は呉景が樊能を破る場面には居なかったと考えられる。なお、呉景への援軍は全くなかったわけではない。周瑜が呉景軍への援軍に向かっている。恐らく当利口の陥落を大々的に喧伝して相手の士気を阻壊させたことだろう。予断だが呉書各処の伝から窺うに、この時周瑜の部隊だけが横江津と当利口、両方の陥落に立ち会っている。)それよりも孫策が行わなければならなかったのは、敵が敗北の衝撃から立ち直って長江を盾に抵抗しはじめる前に、とにかく長江を渡って、敵を追撃することだった。

 第一目標は長江の渡河。作戦自体の目的は、劉ヨウ側の物資集積拠点、牛渚の占領である。

(ここまで中編)

 

 孫策の軍事行動を見ていると、若干二十歳をわずかに過ぎたばかりの年齢にも関らず、軍事を知悉しているとしか思えない要点を衝いた行動をしばしばするところに驚かされる。呉景・孫賁なら横江・当利の戦いに大勝した段階で満足して一旦軍事行動を留め、袁術に報告して次の指示を仰いでいたはずだ。劉ヨウを撃ち払うには結局長江を渡らなければならず、敵が対応できていない今、長江を渡ることこそ好機を生かすことである。孫策はそのことをよく分かっていた。同僚たちの行動を温いとしか感じられない孫策は、そのまま渡河準備に入る。一方、孫賁ら同僚には、こちらを温いと思う孫策が血気に逸って無謀なことをしているとしか映らなかったろう。なぜなら、これから孫策が占拠しようとする牛渚には、劉ヨウが居た(はずだ)からである。

 当利口への攻撃時、孫策の部隊は渡河行動を必要としたことが徐琨伝から窺える。孫策はこの時、徐琨の母が徐琨に伝えた策を採って蒲や葦で即席の筏を組んで不足する舟の代わりとして兵を渡し、当利口で張英を破る。(この部分から当利口への渡河は長江のような広大な川幅を渡ったのではないと推測できる。幅数キロになんなんとする長江を蒲や葦の筏で渡るのは余りに無謀だと思われるからだ。)注目すべきは、この献策の際、徐琨の母の言ったこととして、『揚州の役所の方から水軍を多数動員して迎え撃ってくると戦いは不利になります。このまま軍を駐めおいたりしてはなりません。蒲や葦を刈って筏を作り、本物の船を補いつつ軍を渡せばよいのです。』ということが伝えられていることだ。このあたりの記述を信じるとするなら、次のようなことが見えてくる。

 一、当利口へ本格的な攻撃をかけるにあたって、孫策は数日かけて舟をあつめようとする時間的猶予があった。またこの時すでに孫策はいくばくかの舟を所有していた。これらのことと、先に推測した横江津・当利口の戦いでの孫策の行動を重ね合わせれば、孫策は横江津から当利口への部隊移動の途中で舟を持つことになったのではないかと思われる。さらにこの所有した舟が自部隊を運ぶのに全く足りない状態にあり、当利口への攻撃前に周辺から舟を求めようとしたことから見ると、孫策が所有するに至ったいくばくかの舟は敵から鹵獲したものである可能性が高くなる。その場合、その鹵獲した舟は張英への援軍として樊能の下から派遣された于麋の部隊のものと言うことになるだろう。わざわざ舟を求めようとするだけの猶予があることから見て、この段階で既に孫策は当利口へ援軍として遣わされた于麋を横江津〜当利口の間の何処かで(待ち伏せか遭遇戦かどちらか不明だが)交戦して破っていたのではないかと想像できる。(そしてあとは孤立した張英に攻撃をかけるだけという状態になっていたのではないだろうか。)

 二、当利口へ本格的な攻撃をかけるにあたって新たに舟を求めた場合、その間に横江津・当利口の戦況が『揚州の役所』に伝わり、そこから援軍として多数の船舶が派遣されてくると言う予想が孫策たちの了解を得たこと。新たに舟を求め、舟を得るのに何日かかるかは分からないが、性急な孫策でも一旦は新たに舟を求める案を一考したように、数日あれば十分なことだったのだろう。しかし徐琨の母はそれでは遅いと急を促した。つまり、『揚州の役所』はこの時、当利口からその程度の距離しか離れていない場所にあったと考えられる。そう考えた場合、その『揚州の役所』が曲阿にあるのでは少し遠すぎる。では曲阿でないとするなら何処か。それこそ牛渚であろう。(または牛渚近くの県城か。)曲阿に居て秣陵の薛礼・笮融を督戦したことといい、孫策に敗れて曲阿を脱したあと豫章を押さえた際に自らは後方拠点の彭沢を押さえた上で笮融を遣わして袁術の豫章太守諸葛玄を討ったことといい、劉ヨウは、戦域全体が見渡せるような近傍の後方拠点に自らを置いて戦域全体を俯瞰しながら適宜前線に指示を出すタイプの将帥だった。その点を考えるとこの時の拠点が曲阿なら戦域全体を見渡すのにはよくてもそこから時宜を得た指示を出すには遠く不適切なのだ。当時、劉ヨウは牛渚まで出張って来て、そこで長江の向こうに指示を送っていたのだろう。輩松之が注として遺している『江表伝』で孫策が牛渚で劉ヨウを破った旨描かれているのは、その通りと言うことになる。

 戦闘が始まり戦局が動けば戦いの場面は『戦場の霧』に包まれる。正しい情報、間違った情報、不完全な情報、敵の流した嘘の情報、味方がよかれと思いもたらす勘違いした情報、そうしたものが次々に届けられ、そしてまたそれらの中の幾つかは時間が相前後しさえして、全く錯綜し混沌とした情勢を形作る。戦場では将帥はそうした『戦場の霧』の中で戦局を把握し、的確な判断を下さなければならない。孫策は『戦場の霧』をこれ以上ないほど発生させ、殆ど濃霧と化した中で自在に行動し戦いの主導権を取り、取った主導権を決して離さず敵を翻弄しつくして勝利を手にする。そういう孫策にとって時間が経ち、『戦場の霧』が晴れるのは何よりも痛手である。『戦場の霧』が晴れて戦局が明らかになれば、劉ヨウが的確な手を打つのは当たり前のことで(これまでの劉ヨウの差配を見ると当然のことだ)、そしてそうなってしまえば今度は長江を挟んだ長い対峙が続くことになる。孫策にはどうしても『戦場の霧』が晴れる前に牛渚を落とし、長江対岸に拠点を確保する必要があった。そしてその必要性を理解していたからこそ、また『戦場の霧』が立ちこめる中でなければ攻撃側は守備側のミスにつけこめないことを知るからこそ、孫策は無謀にも見える連戦、当利口陥落直後の長江渡河と牛渚襲撃を敢行するのである。長江渡河には、当利口を陥落させた時手に入れた舟を利用したと考えられる。

 幸運の女神は若者の無謀さとその手荒な企てによく従うとは『君主論』を著したニッコロ・マキャベリの言だが、女神はこの若者のアプローチに応え、その唇を許す。牛渚襲撃は成功し、劉ヨウ側の物資集積拠点は孫策の手に落ちた。

 

 ところで、この牛渚襲撃には分からないところがあって、この時、劉ヨウはどういう対応をしたか不明なのだ。敗北した側の劉ヨウ伝に記載がないのは(本人にとって不名誉なことはなるたけ記載しないため)分かるのだが、孫策が勝ったと言われるこの牛渚襲撃も戦闘があり勝利したと描かれるのは『江表伝』だけで、他は「牛渚を得た」と言うような書き方に終始している。劉ヨウが直接指揮した部隊と戦闘があったなら孫策伝に記されていてもいいのだが、それがない。牛渚襲撃は相当な混乱がありなんだかうやむやの内に孫策が手に入れたような印象を拭えない。もしかしたらこの時、牛渚に劉ヨウは不在だったのかも知れない。228年春、諸葛亮が最初の北伐を行った時、時の雍州刺史は丁度州内を巡察中で、州に属する各郡太守、上級官吏らはその刺史に随行しており、諸葛亮への対処覚束ないこと甚だしかった事例がある。孫策が牛渚を襲撃したこの時も、それと似たような状況だったかも知れない。そう考えると、牛渚を得てから孫策および彼の周辺の人物たちの行った軍事行動が理解できる。

 牛渚を得た孫策は、呂範を分遣して丹楊郡南方の小丹楊を攻略させている。その後の秣陵への攻撃参加行動から見て彼自身は拠点牛渚を固めていたようだ。呉景は秣陵の攻略に向かった。袁術の指示である。孫賁の行動は記されていないが丹楊南方の攻略に向かったと考えられる。孫策から分遣され丹楊南方に向かった呂範の小部隊1つでは県城を攻略できるはずはないから、丹楊都尉を兼務していた孫賁が(袁術軍の構成と官職から考えて呉景と同程度の軍規模だったと考えられる)丹楊南方の攻略に向かい、呂範は孫策の指示でその軍に随行したと見るのが自然だろう。呂範を分遣した孫策の部隊規模は5千程度。それほど多いわけではない部隊を分散させるのは、何か相応の理由でもない限り理に合わない。その理由を色々考えるとこの時期、行動をぼかされている人物が何名か存在しているのに気づかされる。呂範に並ぶ孫策の腹心孫河(伯海)、孫賁の弟で揚武校尉の孫輔(国儀)などだ。(孫輔はその後孫策の下で呉郡・会稽郡の攻略に随行することから考えて作戦行動で孫策の意を汲むことが多かったのではないかと想像される。)彼らは孫策の指示で呂範が孫賁に随行したように、孫策の指示或いは要請を受けて呉景など他の軍に随行していた可能性がある。このような孫策を含めた袁術軍諸部隊の分散は、薛礼・笮融ら残された軍事力を総指揮官である劉ヨウが把握統制していたのならリスクが高く、問題行動である。しかし、これは先に述べたように孫策が牛渚を得た際、牛渚に居るべきはずの劉ヨウの姿がなく、牛渚襲撃の混乱でその所在が不明となったと考えたときに、次のようなことだったのだとして理解出来る。つまり、孫策は行方不明となった劉ヨウをやっきになって探し出そうとしており(小部隊の呂範を分遣する行動)、呉景・孫賁らは牛渚の乱戦で劉ヨウが行方不明になって当然起きた敵側の指揮系統の混乱を突いて掃討作戦(又は制圧作戦)を行っていたのではないかと言うことだ。戦いとなると前線に出張って主導権を取らなければ気がすまない気質の孫策が暫くの間牛渚の押さえに回り、呂範を孫賁に随行させただけで大人しくしていたのは彼が劉ヨウの生存を信じており、牛渚で呂範や他の部隊からの情報を集めつつ劉ヨウの所在を突き止めようとしていたと言うことかも知れない。この揚州戦役は劉ヨウによって引き起こされた。またこの揚州戦役は孫策がやってくるまで殆ど劉ヨウに主導されたものであったと言っても過言ではない。そうしたことを踏まえるなら、劉ヨウの確保こそこの戦役最高の戦果と言ってよく、孫策はその最大の戦果を狙って虎視眈々、牛渚に留まっていたのだと言える。

 勿論、孫策の牛渚駐屯はただ大功を望んでの待機行動だっただけでなく、牛渚には暫く留まっていなければならないもう一つの理由があったことも指摘しておきたい。この揚州戦役に参加した袁術軍の行動を時系列に沿わせてみると次のようになる。孫策が牛渚を占領し、孫賁らがそれに続いて長江を渡河、丹楊郡南方の攻略へ向かう(呂範の小丹楊攻略)。続いて孫策の牛渚占領の戦果報告と孫賁の丹楊南方攻略の予定など戦況を袁術に報告した呉景が秣陵攻略の指示を受けて長江を渡河、秣陵の攻略を開始する、と言うものだ。呉景の遅れは周瑜伝の記述から読み取れる。周瑜伝を見ると周瑜は牛渚攻略に参加していず、遅れて秣陵へ向かっている。先の横江津・当利口の戦いで、当利口陥落後、周瑜は孫策と分かれて横江津へ向かい(戻り)、呉景を援護して横江津の攻略に一功をあげた。(彼一人だけが横江津と当利口、両方の陥落に立ち会っている。)この時点で周瑜は呉景と行動を共にしていることになるから、周瑜が遅れて長江を渡っているとするなら、同じように呉景も遅れて長江を渡っていることになる。孫賁が長江を渡り丹楊南方へ軍を進めた段階(つまり呂範が小丹楊攻略に向かった段階)では、呉景に率いられた揚州攻略軍本隊は到着していなかった。孫策は揚州攻略方面軍本隊、呉景の到着まで秣陵にいた劉ヨウ側の薛礼・笮融らに備えて牛渚を確保していなければならなかったのだ。

 揚州攻略の為に編成された軍が長江を渡り、この編成軍の総指揮官として袁術から指令を受けている呉景が秣陵の攻略に向かうと、孫策が動く。呉景の秣陵攻撃が開始されてすぐなのか暫く経ってからなのか、いつ、どの時点でとははっきりいえないが、まだ呂範らが丹楊諸県の攻略に勤しんでいる最中かと思われる。秣陵への攻撃に参加したのだ。呉景の秣陵攻略が始まると聞いて居ても立ってもいられなくなったか、あるいは秣陵の攻略がもたついているのを見かねてのことか。孫策は秣陵への攻撃に参加するに際し、先に横江津・当利口で行ったのと同じ手を使った。牛渚の守りを手薄にして戦力の集中を図った、ぶっちゃけ、拠点を空にしたのである。直前までの牛渚駐屯の慎重さは何処にいったのか、このままでは大功を上げることなく揚州戦役を終えることになると焦り、劉ヨウのことはもうどうでもよくなったのか、あるいは劉ヨウが曲阿にいると判明したからか。

 孫策の参戦で秣陵の戦局は袁術軍側有利な情勢となった。孫策は一旦秣陵の南に野戦陣地を築いていた笮融を撃って反撃の意志を折り取り、秣陵に篭る薛礼と連携する可能性を潰すと、続いて秣陵を包囲し締め付けた。(秣陵には薛礼が篭り、笮融は秣陵の南を流れる長江の支流を挟んで南側に野戦陣地を構築し、戦いに備えていた。なおこの支流は西北へ向かって流れ、石頭付近で長江に合流する。これは張紘伝の注『献帝春秋』に孫権の言として『秣陵には百里に及ぶ長江の支流があって大船を留めて置ける』とある支流のことだろう。孫策伝に注された『江表伝』で笮融を破ったあと孫策が薛礼のところへ攻撃をかける際に長江を渡ったとある行動は、この秣陵南を流れる長江の支流を下って石頭から上陸進入し、秣陵を攻囲したのだと考えられる。これよりずっと後になって弟の孫権が秣陵を建業と改め拠点に定めた時、石頭に城を築いているが、それは秣陵防衛上石頭を固めておくことが必要不可欠だったこと、秣陵へ敵が侵攻してくるとしたら石頭からであったことを推測させてくれる。孫呉がついに滅んだ時も、この石頭城でイベントが生じている。)この秣陵の防衛も薛礼・笮融の二人を用いた掎角の布陣だったがこのように掎角の体勢を潰されてはどうにもならない。薛礼は包囲を突破して敗走した。この時誰もが明日にも揚州戦役は終結すると見た。しかし、孫策が牛渚を空けて出たことが問題となった。後方兵站拠点牛渚が劉ヨウ側の手に奪還されたのだ。牛渚を奪い返したのは樊能・于麋ら。彼らは虜囚の身を脱し(或いは身を潜めていたところから姿を現し)、散り散りになった敗残の兵を糾合して逆襲に出たのである。袁術軍の攻勢は頓挫し、孫策・呉景らは牛渚奪還を余儀なくされる。

 防御拠点と言うものは普通に戦力を整えて守っていれば、よほどの戦力差か奇襲でも受けない限り、そうは陥落しないものである。そのことから考えると孫策の秣陵攻略参加は牛渚にあった部隊の殆どを率いて行われたものだっただろうことを窺わせる。牛渚を取り戻したのが、敗れて散り散りになった兵を集めた樊能・于麋らであったことから見ても、牛渚にはやはり、殆ど人がいなかったのではないかと疑われる。

 博打にも似た戦力の集中を図って(恐らく呉景や孫賁らには黙って、あるいは事後承諾で)秣陵を攻めた孫策だったが、今度のそれは性急すぎたのである。

 

 しかし、劉ヨウ側の逆襲もここまでだった。袁術軍側が一旦攻勢を収めて牛渚奪還に動くと樊能・于麋らは破れ、牛渚は取り返された。孫策の失策は大事にならない内に収まったのだ。この牛渚奪還に誰よりも素早く動き、功績を立てたのが孫策だったのは言うまでもない。牛渚を敵に取り返されたことで生じた発言力の低下を最小限に押さえるためにはどうあっても孫策自ら牛渚を取り戻すことが必要だったのだ。牛渚を取り戻した袁術軍は再び攻勢を開始する。最終的に曲阿を目指し行われてゆく袁術軍の軍事行動は、相手方の拠点を一つ一つ攻め落としていく制圧作戦の様相を呈してくる。その作戦指導の癖からみて軍事行動のイニシアティブは孫策の手を離れ、漸進主義を採る呉景の手に戻されたようだ。この牛渚失陥が確かに孫策の失策であり、彼は自分の才能とそれが実際に示す勝利ゆえにそれまで他の将官たちを動かし得た影響力をその失敗で大きく失ったのだと言えるだろう。

 曲阿を目指す袁術軍は次のような軍事行動を行う。まず呉景は牛渚で全軍を掌握した。ついで呉景を主将とする方面軍本隊は湖熟、江乗を経て曲阿へ向かい進軍する。(この進軍ルートは周瑜伝での周瑜の行動から推測した。先にも述べたがこのとき周瑜は呉景に随行している。)湖熟を陥落させるとそこの長官に彼は呂範を任命したが、この直前まで呂範は孫賁に随行して小丹楊を陥落させ(更に作戦行動を継続)ていたから、その呂範が湖熟攻略に参加していることは牛渚を奪い返した段階で呉景が全軍を掌握し直したことを示唆している。また、恐らく孫賁に随行していた彼がこのように占領後の行政官に任じられたことから見て、丹楊都尉を兼務していた孫賁にまとめられた部隊を占領都市の守備に割く方針だったと推察される。呉景本隊はこのような進路を採る一方、孫策を主将とする軍集団には秣陵の県南に陣営を築いて抵抗していた笮融への対処を任せた。(これを見ると孫策は呉景を方面指揮官とする揚州攻略軍全体への影響力を失ったが、それでも別動軍を率いることは出来たようだ。戦術指揮官としての信頼は揺るがなかったのだろう。)孫策は笮融と何度も戦闘を繰返した。戦闘は激しく、自身も負傷した孫策は笮融の篭る野戦陣地が強固で攻め落とし難いと感じるようになったため、笮融の軍事力をある程度減らした段階でその完全打倒を諦め、呉景の湖熟攻略に参加する。恐らく先に薛礼が捨てた秣陵に軍を割き、笮融の動きを封じた上での行動だろう。湖熟が陥落すると孫策は句陽攻略へ向い、句陽を落とすと曲阿へ侵攻する。湖熟陥落以降、呉景は江乗へ向かっているから(周瑜の行動と重なる)兵站の負担と言う問題から水路を利用しやすい長江沿いのルートで都市を攻略し曲阿へ向かう呉景の大部隊と、部隊規模が比較的小さく、兵站の負担はそれほどでもないため内陸寄りのルートをとって曲阿へ向かう孫策の部隊に分かれたようだ。

 呉景らが兵站の確保に長江の水運を利用したのだろうと言う推測は根拠の無いものではない。この時期、笮融の打倒を諦めてその戦力を拘置するに留めた孫策が呉景の助力に向かうと、彼は早速長江下流の北岸地域にあり広陵郡に属する海陵近傍で劉ヨウの別働隊を破っている。<三国志『孫策伝』> これは劉ヨウ側との間で兵站線の確保を巡って何らかの軍事衝突があったことを窺わせる記述である。そのように相手の兵站を脅かそうとする作戦が行われていた(と思われる)ことは、戦争の様態が、互いの主戦力が機動せず(出来ず)正面から対峙しあい拮抗した状態に移っていたことを示している。(迂回襲撃の作戦が敵主戦力への直接アプローチではなく、敵の兵站を脅かす間接アプローチへシフトしているため。)それは戦況が、呉景が全軍を掌握し、軍事方針を漸進主義に切り換えたことで、拠点の一つ一つを順次攻略してゆく袁術軍とそれに対して兵站線を脅かすことでその侵攻を出来る限り遅滞させようとする劉ヨウ軍と言う状況に変化したことを示している。『江表伝』に記される劉ヨウ側の、恐らく海陵を拠点とした別働隊による兵站侵害作戦が、秣陵に居る笮融の打倒を諦め転戦してきた孫策によって崩壊させられてから湖熟が陥落していることから見て、湖熟攻略にはかなりの時間が費やされたと見られる。(笮融打倒に時間をかけた孫策がその打倒を結局諦めて湖熟方面へ転戦して来て海陵で劉ヨウの別将を撃破するまでの間、湖熟攻略が続いたと考えられるため。)劉ヨウ側の抵抗も激しく、膠着した戦だったのだろう。しかしその抵抗も袁術軍主力(呉景軍)が後方を脅かされる心配が無くなった段階で勝負がついたといってよかった。兵站を脅かされる心配の無くなった呉景ら(プラス孫策)は、長期の攻撃を受けて疲弊した湖熟に対し、その戦力を思うまま集中運用することが出来たからである。かなりそっけなく描かれているが、湖熟攻略は時間もかかったし激しくもあった戦だったのだ。(推測)

 湖熟以後、江乗と句陽が共に陥落すると呉景・孫策の行動は奇しくも曲阿を挟撃する動きとなった。身軽な孫策の部隊が(恐らく)先行して曲阿に迫ると劉ヨウは曲阿を捨てて逃げ出した。195年冬のことである。劉ヨウに従っていた郡守・県長らも逃亡し、揚州戦役はここに終結を迎える。

 

【揚州戦役の終結とその評価】

 195年冬、揚州情勢が定まる。揚州牧劉ヨウが拠点である曲阿を捨て敗走したのである。劉ヨウが曲阿を捨てたのは事情を知らない(記述漏れがあるだろう三国志しか知らない)我々から見ると情けないの極みだが、彼は彼なりの合理的判断に基づいてそうしたと考えられる。我々が推量して見せることが出来るのは袁術が差向けた劉ヨウ討伐軍の将帥の中に孫策が居たからではないかと言うこと位だ。極めて限定された条件の下でではあるが、孫策は曹操に次いで(場合によっては曹操よりも)攻城戦の巧い将帥だった。(余談だが、攻城戦能力に秀でた将帥を挙げろと言われたら曹操、孫策、袁紹の順で挙げておきたい。袁紹は彼自身の攻城戦能力には疑問があるが、部下を統率して多くの城邑を落とした実績は動かしがたい。公孫贊*との戦いなどを見ると重厚で隙のない攻め落とし方をしている。官渡で張合*らに曹操の居ない拠点を攻めさせたのも彼は自分の部下と軍が有する城攻めの力に自信を持っていたからだろう。)孫策は自分が訪れたことのある都市についてなら、ほぼ間違いなく攻略してのける特異な城攻めの才能を持っていた(と思われる)。周斤*を相手に行われた呉景の丹楊郡攻略で呉景に従って曲阿に居たことのある孫策にとって(内部をよく知る)曲阿に劉ヨウが篭ったならそれこそしてやったり、生け簀の中で調理待ちしている魚を捕えるように、簡単に曲阿を攻略して劉ヨウを虜に出来ていただろう。それを知らない劉ヨウではないだけに彼は曲阿を捨てたと思われる。

 劉ヨウ討伐軍の将帥の一人として袁術軍を率いた孫策は曲阿に入城すると呉景・孫賁を寿春に返し戦勝報告を行わせた。この呉景・孫賁の帰還は大きく3つの要因がある。一つに孫策が袁術からの独立を胸に秘めていてその下準備として彼らを遠ざけようとしたのだろうと言うこと、一つに間もなく袁術の徐州攻略が始まるため将帥として彼らは袁術の下に向かわなければならなかったのだろうと言うこと、一つに孫策と呉景・孫賁の間で生じた戦略上の対立があり呉景・孫賁らは一旦袁術の意見を伺いに戻ったのだろうと言うこと、である。

 一つめはずっと後で、二つ目はこの直後に触れる予定なので此処では孫策と呉景・孫賁の間で生じた戦略上の対立を説明する。

 曲阿に入城した袁術軍はこの後行う作戦について、このまま呉郡・会稽郡と順次郡県を攻略していく(その第一段階として近くの大勢力である厳白虎をまず攻略しようと言う)呉景・孫賁らの漸進策と、まず(遥か南に居る)会稽郡太守王朗を討ってから諸郡県を攻略すると言う孫策の飛び石戦略に割れた。

 彼らの意見が割れたのは確かで、孫策伝に劉ヨウが軍を捨てて逃亡したと言う記述の後に『呉人の厳白虎らはそれぞれ1万余りの人数を集め、処々に在拠していた。呉景らはまず厳白虎らを打ち破り、それから会稽に軍を進めようと企てた。孫策が言った、「厳白虎らは群盗に過ぎません。大きな野望があるわけでなくいつでも虜にできます。(だから王朗をまず攻めるべきでしょう。)」そう主張すると兵を率いて浙江を渡り会稽を拠点にして東冶城を落とし、そのあとで厳白虎たちを打ち破った。』<三国志『孫策伝』>とあることから判断できる。この書き方では厳白虎のことに焦点を合わせて話しているように誘導されるが実際には劉ヨウ逃亡後の揚州をどう攻略していくかと言う意見対立であって厳白虎はあまり関係ない。会稽郡への進軍はこの後に寿春から使者が訪れて孫策の昇進と長江以南の揚州軍事政策の一任が伝えられるまで(195年12月後半)行われていない。この件について(呉景らと孫策の考えが対立したままだったために)袁術の判断を仰いだことが窺える。孫策伝では一見些細な意見の相違のように見せているが、呉景らはこの後袁術が皇帝を僭称して孫策から離反を促されて孫策の下へ戻るまで孫策と別行動を取ることになる。対立がどの程度深刻であったかは判断できないが、漸進策を主張した呉景らが袁術の下で次の徐州攻略の軍事行動を担当し、飛び石戦略を主張した孫策がそのまま南方の軍事作戦を任されたのは興味深い。

 呉景と孫策の意見対立についてはここまでにして、次に孫策の飛び石戦略について考えてみる。

 オーソドックスで意図も明確な漸進策に対して孫策の飛び石戦略はこの後得られた戦果と併せ英雄論の視点で語られがちである。しかし孫策のこの戦略は軍事的に見れば奇手ではなくごくごくまっとうなものであった。孫策の7年程にしかならないその短い活動期間を見ていくと分かることだが、彼の勝利の方程式はこの飛び石戦略に集約される。それは相手の組み立てた防御をどのように無効化するかという思想に拠ったもので、今回のことに関して言えば相手が有効な防御を講じる前に相手の拠点を攻略してしまおうとしたのである。

 戦術、作戦、戦略に於ておよそ防御と言うものは相手の進んでくる方向を出来るだけ縛って限定させ、その進んでくるところに障害を設けて相手の打撃力・進む速度、つまり戦力の減衰を図り、最終的にこちらの中枢に辿り着く前に相手戦力を壊滅させるか、中枢に辿り着こうと言う意志をくじかせるものとして組み立てられる。

 拠点となる城邑、その周辺にある地勢、複数ある拠点間の(地勢も含んだ)ネットワーク、そのネットワークをどう活用するかと言うこと。無思慮な漸進策は防御と言う思想で組み立てられるこうした戦略レベルでの防御コンプレックスに対して力押しすると言うことに他ならない。(防御コンプレックス=防御複合体。通常要塞や城郭とその周辺地形を含んだハードウェアを指す(と思う)。此処では敵の進軍に対して自分の勢力圏(広い地域)を防衛するために一つの防御構想に基づいて構築された拠点・防衛作戦・部隊配置・その防御構想そのもの(ソフトウェア)まで含んだものを戦略レベルでの防御コンプレックスと言う言い方で表してみた。)城邑を攻めるとき、力押しは下策であると言う。この場合、(王朗討伐を最後に回すことになる)呉景らの漸進策は力押しに当たる下策であった。寧ろそうした防御コンプレックスを構築されてしまう前にその意図を排除しようと言う孫策の考え、その現れとしての飛び石戦略(王朗討伐)こそ採るべき策であった。

 孫策が会稽太守王朗を討とうとしたのは、長江以南の揚州に於ける組織的な抵抗可能性の排除が目的だった。思えば王朗こそは徐州牧陶謙が画策した南方への勢力浸透政策の立案者(の一人)なのである。厳白虎のような対抗する戦略も方針も持たない在地勢力より一段高いレベルで揚州情勢を見て取り、一貫した防衛構想を以て戦略レベルで防御コンプレックスを構築し孫策らに対抗してくることの出来るような人物が郡守を務める会稽郡を放置し、斬新策を取って処々に在拠する在地勢力を逐次征討してゆくことは、相手に会稽を中心として揚州をまとめる時間を与え有効な防御コンプレックスを作らせてしまうことにしかならない。それこそ最も避けなければならないものだろう。劉ヨウを追い払った今、行わなければならないのは王朗の準備が整わない内に彼を破り、揚州での組織だった抵抗可能性を除くことである。孫策が自説を枉げず結局呉景・孫賁らの帰還と袁術の判断待ちにまで事態を持ち込んだのは確かな理由があってのことであった。

 もう一度言うが、孫策の王朗討伐は単なる英雄論と言う視点で語られるべきものではない。彼の行動は高度な情勢判断に基づかれなされたと思われる部分が多分にあり、その一見奇手に見える軍事行動にも背景にはこのようにきちんと地に足のついた理が存在している。(尤も孫策の軍事采配はまだまだ彼の直感やセンスに多くを負っており、(曹操と違って)誰かに伝えられるほど彼自身の中で理論づけも体系化もなされていなかったようだ。このあと会稽郡に攻め込んだ孫策は王朗の防御を前にそれを抜く手段を見出せず意外な苦戦を強いられることになるが、それはその証左と言えるかも知れない。)

 呉景・孫賁らを寿春へ戻らせた孫策は曲阿に留まり、散り散りになった劉ヨウや筰*融の残兵を糾合して準備を整えつつ袁術からの指令を待った。

 興平二年(195年)12月20日、孫策は曲阿で袁術からの命を伝えられる。(孫策伝の裴松之注『呉録』に載せられた孫策の上表文より)これまで折衝校尉として援軍、又は監察軍のような役割を与えられていた彼だったが(「校尉」なので督軍中朗将の呉景より位は低い。呉景が主将だったろう。後から派遣されて来た孫策は援軍か監察軍のような役割にあったろう。)、この度、殄寇将軍<てんこうしょうぐん>に任命されたのである。三国時代はやたらと将軍が出てくるので見過ごされ易いが、後漢の制度では「将軍」はなかなか選出されないものである。中央に所属する、または朝廷から派遣される中央(直轄)軍は「中朗将」かその下位職にあたる「校尉」が率いる。「将軍」は外の職(または臨時の職)である。(大将軍や車騎将軍が幕府を開くのも本来はその職が(皇帝を頂点とする)朝廷と言う官僚組織の外に置かれたものであり、朝廷(の官僚組織)と関りなく動く大将軍(車騎将軍)直下の官僚(幕僚)組織が必要となる場合に備えて開府と言うオプションが設けられていると見るべきである。)この中朗将・校尉と将軍の違いを乱暴かつ大雑把に言ってしまえば、中央に所属しそのため中央に作戦行動の裁可を仰ぎ、指示を受けなければならない中朗将・校尉と、外に置かれるために戦略目標を除き軍事行動の多くの部分で(中止命令が出されない限り)自由裁量が許される将軍、と言う区分けになるだろうか。(後漢末、各群雄が派遣する中朗将については各群雄が直轄する軍から派遣された将帥(将軍)と読み替えて見るといい。)殄寇将軍は雑号将軍と言って将軍位としては大したことのないもの(らしいの)だが(と言っても袁術自身が左将軍なのでそれより低い官位しか与えられない)、孫策が袁術勢力の中で「将軍」位を任命されたことが示す意味は(一つの名誉であると共に)かなりの自由裁量を任されたと言うことで、それこそ押さえておくべき重要な点である。孫策がこの後、かなり自由に、従って袁術から恰も独立したように行動しているところの根拠はここに由来する。(そして後にそれまで積み重ねた実績を延長させて実際に独立を図ることになるわけだ。)この処置で自由裁量権を得た孫策は呉郡に朱治を派遣すると自らは会稽郡へ向い、王朗と対戦することになる。

 

 劉ヨウが破れた原因はいくつもあるだろうが、大きなものとしてやはり彼が刺史でしかなかった点がある。監察権を行使する形で間接的にしか軍事力を行使できない刺史では郡太守の協力を得られないと有効な軍事行動を採れないのである。(軍事力も「州」刺史なのに郡レベルの力しか発揮できない。)劉ヨウは後に揚州牧となり振武将軍を得ているが、これはかなり大分相当に後のことであるらしい。彼が自分で刺史と牧の違いを熟知していて刺史から牧への換官を求めて朝廷に使者を派遣したのだとすれば、彼が揚州牧になったのは195年の春ころになるだろうか。しかし当時は親袁術と思われる楊彪や董承らが朝廷に侍っていた時期だ。袁術と事を構えてしまった劉ヨウに、彼らが刺史より遥かに権限の強い牧位を与える動きを看過したかどうか疑問が残る。しかしながら、この時期は李カクらの影響の方が未だ大きいと思われるので或いは上手く牧位を得ることが出来たのかも知れない。(袁術と劉ヨウの争いが知られていたなら権限の強い牧への移行を許さなかった可能性の方が高そうなのだが。)そうでない場合、(つまり劉ヨウが自分で牧への変更を求めていなかったとした場合)彼が州牧になる時期は二つ、195年冬か196年春となる。

 この頃エン州牧を公称していた曹操は彼の子房、荀イクの立てた戦略の下、劉ヨウと組んで袁術を挟撃しようとしていた。そこで劉ヨウが揚州牧を得たのを曹操のはたらきかけによるのではないかと考えると彼の州牧任官は195年10月、曹操がエン州牧を認められた時同時にと言うことになる。この段階では朝廷は長安脱出直前または脱出直後の状態にあって相当の混乱があり、その混乱に紛れる形でなんとかしてしまったのかも知れないと言う面はある。(曹操の下に任名書が届いたのが10月だと見れば実際にはそれより少し前に任命されたのかも知れない。曹操より遠くにいた劉ヨウには曹操より遅くなって任命書が届いただろう。)しかし195年10月では如何にも遅い。これだともうすでに揚州情勢はほぼ決していて、最終決戦直前の状況で任命されたことになる。この場合劉ヨウは牧位の権限で兵を糾合した直後に孫策に破れ、丹徒に逃れ、更に豫章へ向かったことになる。劉ヨウが軍を捨てて逃げたのもあるいは決戦直前に集めた兵だったからと思えば執着の無さも頷ける。また逃亡先に会稽郡をまず選択しようとしたのも彼がこの段階ではまだ刺史か、牧になったばかりで郡に対して命令する力がない(その為、関係のある王朗の会稽郡が何よりも先ず劉ヨウの考えにあった)ことを示すと考えられる。

 劉ヨウが州牧になったもう一つの時期は、196年春以降が考えられる。こちらもやはり曹操の助力があったのでは?と言う考えだ。196年2月に曹操は汝南・潁川の黄巾賊を掃討するが、この戦果を朝廷に上表して建徳将軍に任命されている。劉ヨウの州牧任官については彼が州牧になったと言う記述と並んで振武将軍になったと書かれている。このことを考えると曹操が劉ヨウを牧に推したのだとするならそれは曹操が将軍位を得られるくらい朝廷と関係を結んでからのことになるだろう。(それは曹操が将軍位を貰えるようになる196年春以降のことではないだろうか、となる。)こちらは楊彪や董承らが親袁術の立場でこの頃朝廷に居たため袁術と紛争を起こしてしまってからでは劉ヨウが州牧に換官するのは難しかろうと言う前提であっても州牧に就ける。(この時には曹操が朝廷から求めたら官位を得られる程度にまで関係を深めていたことになるから。)

 

 群雄の多くは刺史と牧の違いを確かに理解していた。部下を任命する時には彼らは同格といっても牧ではなく刺史の位で上表し、任命していた。袁紹・袁術・公孫贊*・陶謙、いずれも刺史は任じても牧は注意深く避けている。表向きは同格(与えられる禄は牧の方が上だが、と言ってもこの乱世ではあまり意味はない)ではあるけれども権限が違うため、何かトラブルが生じて歯向かわれてもすぐ相手を潰せるようにと言うことである。この辺り、彼らは確かに「群雄」と言われるだけの抜け目無さを有していたのである。

 

【豫章の情勢】

 ここで少し豫章郡の情勢について触れておこう。

 後漢王朝が派遣した豫章太守周術の死後、豫章郡は袁術の派遣した諸葛玄(瑯耶国陽都出身。諸葛亮の叔父)が太守となった。袁術と諸葛玄との関係は諸葛玄が袁術の故吏と言う関係である(恐らく)。(そのような関係で)同じ頃瑯邪から招かれた劉勲や恵クらがそれぞれ太守や刺史に任命された時期などから考えて諸葛玄は194年末から195年半ばまでの間に太守に任じられたと思われる。諸葛玄が劉表に任命されたと言う説もあるが、これは諸葛玄が元々劉表と交友があったことに加え、後に諸葛玄が豫章を追い出された後、劉表を頼ったとあることから後付けで考え出されたものだろう。諸葛亮マニアである三国志の篇者陳寿が蜀書の諸葛亮伝で諸葛玄が袁術に任命されたと書いていること、曲阿を脱出した劉ヨウに対して許劭が豫章に拠って曹操と劉表の支援を受けるよう進言したと言う記述が見られること(当時の太守は諸葛玄を追い出した朱皓。漢朝の任命した太守。許劭の言からは諸葛玄を追い出した朱皓と劉ヨウが一緒になっても劉表から支援を望めるように描かれている。諸葛玄が劉表の上表で任命されていたとしたらとても劉表からの支援は望めない。そうした懸念が示されていないのだから、諸葛玄は劉表の任命ではなく袁術の任命、しかも漢朝の正式な任命ではなかったことが窺える。)などから諸葛玄は袁術の任用を受けて豫章へ赴いたと見て間違いないだろう。

 後漢王朝もまた後任の太守を送り込んできた。朱皓(あざなは文明)である。会稽出身の彼は太尉朱儁の子であった。朱皓の任官が誰の上表に拠ったかは不明だ。劉ヨウか王朗(そして二人より可能性はずいぶん低くなるが曹操)の可能性が高い。朱皓が出身地である会稽にいたのなら王朗の画策である可能性が大きいがはっきりしない。(王朗はかつて陶謙が徐州刺史だった頃、彼のブレーンの一人だった。陶謙らは董卓から朱儁が離反して南陽へ出奔した時に既にあった袁紹を主宰とする反董卓諸侯連合とは別に新たな反董卓諸侯連合の組織を企て、その連合の主宰として朱儁を推戴しようとした。そうした経緯から朱儁の子である朱皓と関係を持とうとしてもおかしくない。)揚州刺史(牧になっていたかもしれない)劉ヨウは孫策に破られて曲阿を捨て拠点を移す時に当時彼の参謀を務めていた許劭の進言で豫章を選択している。始めは会稽太守王朗を頼ろうとしていた劉ヨウが許劭の進言であっさり豫章に選択し直したところから見て朱皓が劉ヨウとは敵対関係を持たず寧ろ味方だと見られていたことが判る。劉ヨウ伝や劉ヨウ伝・諸葛亮伝に輩松之注で入れられた『献帝春秋』には丹徒から逃れてきた劉ヨウの助力で諸葛玄を追い出した様子が描かれているので、朱皓の赴任は王朗が豫章に逃れてくる直前のこと、195年秋から冬にかけてと見られる。劉ヨウは朱皓に連絡をつけると共に筰*融を派遣して助力させ、諸葛玄を豫章から追い出した。(筰*融は抹稜から逃げ出して劉ヨウと合流するまでの間に(もとの)彭城太守薛礼を殺害しているのだが、劉ヨウはどういう態度で彼を迎えたのだろうか。筰*融が余程弁の立つ人物だったか、どう見てもそんなことなどしそうにない人物に見えたか。あるいは筰*融の薛礼殺害を未だ知らなかったか。(この場合は筰*融の唐突な離反に絡むかも知れない))

 ところが筰*融は豫章の根元がはっきり固まっていないのを見て取ったからか、突然朱皓を殺害して劉ヨウに叛いた。劉ヨウにとって筰*融の離反は如何にも唐突だったろう。彼は直ちに筰*融を討つが敗北してしまう。陶謙はもう既に亡くなり(陶謙に進言した政策を実行する意味も意義も失われているにも関わらず、そして)漢朝の威光など無いに等しいこの状況の下で、孫策に破られても(職を辞して帰郷、と言う自己都合退職をせず)なお抵抗する可能性を探って豫章へ向かうところなど見ると、劉ヨウは相当に義理堅いか責任感の強い人間だったのだろう。彼はここでも職を辞して帰郷する(理由をつけて故郷に逃げ帰る)と言う選択肢を選ばず踏みとどまり、兵を集め直して筰*融を討つ。筰*融は敗れ、逃亡する中で現地の住民に殺害された。徐州三郡の物資を私し、趙イク・薛礼・朱皓と三太守を殺害して無道を積み重ねた、仏教徒とするには余りに憚りある男はここにその生を終えた。

 

 豫章を保持し、劉表や曹操の助勢を得て再度袁術に対抗しようとしていた劉ヨウは筰*融を討った後、しばらくして病死する。三国志呉書『孫賁伝』に遺された記述から見ると、劉ヨウは袁術の死後亡くなったことが窺える。劉ヨウ伝ではしばらくして病死とあるため、早々に死亡したような印象を受けてしまうが、実は意外なほど長い間、勢力を保って袁術に対抗していたことが判る。なお、劉ヨウ亡き後、豫章は太守華キンが治めることになる。

 さてこの豫章太守華キンの赴任、話は朱皓の死に遡る。諸葛玄が追い出され、豫章太守が朱皓に替わったと見る間もなくその朱皓も殺害され、豫章太守の座が再び空いたことは当然袁術の耳に入った。この時袁術は劉備と徐州を争っている真っ最中だったが、即座に同行させていた太傅馬日テイを動かすと、豫章太守に華キンを任命、派遣した。あるいはこれは華キンが願い出たことかもしれない。華キンはもうこの頃には広がっては崩れ、広がっては崩れる袁術勢力に呆れ、そこからの離脱を考えていたのかも知れない。華キンは豫章太守を拝命し豫章へ向かうと袁術から見てあろうことか揚州牧劉ヨウの下へ赴く。そして彼は劉ヨウからも豫章太守の任命を受けた。華キン伝に記されるところと華キンが自ら表して言うところを信ずるなら彼は袁術(馬日テイによる任命)からばかりでなく劉ヨウからも豫章太守の任命を受けたことになる。勿論これは袁術には秘密にしておかねばならない類のものだ。恐らくそのためだろう、劉ヨウが死ぬと残された兵や家族たちが華キンを頼ろうとして彼の下に集まるが、彼は丁寧ながらも固辞している。面倒なことになると思ったからだろう。色々考えを巡らしたら受けるべきだったと思うのだが、このとき華キンは袁術勢力との関係がどうなるかと言うことしか頭になかったようだ。確かに袁術勢力のことだけを思えば華キンの選択は難ずるようなものではないかもしれない。しかしもう少し視野を広げ豫章郡を押さえると言う視点に立って見れば彼の選択は致命的な間違いだったと言えた。それは間もなく判明する。彼のこの行動を見て在地豪族たちは華キン組み易しとみなす。そしてそれぞれ勝手に自衛自治を続け、華キンは豫章をまともに治めることができなくなり、結局孫策がやってくると彼に対処できるだけの基盤がなく、太守の印綬を手渡してしまうことになるのである。

 豫章情勢はここまで。

 

 195年仲冬、呉景・孫賁が帰還し、その報告を受けた袁術は念願の徐州攻略に取り掛かる。11月末乃至12月のことと思われる。ここに到るまで、いくつかイベントがあり、それぞれが重要な絡み方をしているので【袁術の徐州攻略と対曹操戦略】と題して話をしよう。

 

【袁術の徐州攻略と対曹操戦略】

 195年8月。曹操軍はエン州に残された叛乱側最後の拠点、雍丘包囲を開始した。この年の夏初め、呂布を定陶に破ってエン州から追い払った曹操は続いて離反したエン州諸郡県の攻略に入った。雍丘包囲はこの一連の作戦行動の最後にあたった。ここで曹操は長安(朝廷)へ使者を派遣する。エン州の叛乱を収めるにあたって彼はどうしても自称エン州牧ではなく正規のエン州牧の位でもって叛乱を鎮圧する必要に駆られていた(ようだ)。この時まで曹操がエン州牧を公称できたのは、先に青州黄巾賊がエン州に乱入した際、刺史劉岱が戦死した危難をしのぐために州吏の総意で曹操をエン州牧とすることが認められたからであった。その州吏一同の合意を引き出したのが、他ならぬ陳宮、今回エン州を覆した男だったのである。緊急避難という状況と陳宮の謀<はかりごと>でエン州牧を公称することが出来るようになった曹操は、ために彼を推し立てた陳宮・張バクらが彼を否として反曹操を掲げるとたちまち州牧を公称している拠り所を失い、その地位を虚しくしてしまったのである。(これより少し前、長安から派遣された正規の州刺史金尚を曹操は拒んだ。それも彼の牧位を公称している根拠を無くさせていた。)長安に派遣された使者は、途中、河内太守張楊の下に寄留していた董昭の助けにより張楊の勢力圏を無事通過(この時董昭は袁紹に疑われてその下を辞し、張楊に強引に引き止められて彼の所に寄留することになっていた。)、また長安では鍾ヨウの積極的な協力と関与を得て使命を果たすことが出来た。195年冬10月、曹操は正規のエン州牧位を拝命する。195年冬と言えば長安を脱出した後漢朝廷が弘農の曹陽で李カク・郭シの追撃を受け敗走した時期である。考えるに実際の任命はそれ以前で(遅くとも9月)曹操が拝命したのが(手元に任命書が届いたのが)10月と言うことなのだろう。洛陽−長安間の行軍日程が20日余り(魏書明帝紀などより)と言うことを考えるとそう思える。曹操がエン州牧位を得るのに鍾ヨウが事に預かり影響を与えたことから察すると、この時既に賈クが枢機を預かる立場から離れたあとの事だったのかも知れない。とするとそれは朝廷が長安を脱出した直後、賈クが華陰に駐屯していた段ワイを頼って官を辞したあとのことになるのではないか。などと想像を巡らすと三国志の群雄乱舞劇にまた一つ華を添えられそうな気がする。さて、余談は置いて、曹操の予定では、この月10月が雍丘陥落の月であったと思われる。この時期、青州兵を率いる曹操の攻城戦能力には手のつけられないものがあった。先の徐州討伐時の実績からすれば、移動と準備の時間を除くと、彼らはおよそ半月で一つの城を攻略していたと考えられる。この力を雍丘に向けたなら、10月中の陥落はほぼ確定していたはずだったのだ。が、それはならなかった。なぜか。

 寿春の軍事力が膨張を開始したのである。

 この動きに曹操側は懸念を深くした。寿春の動きは今冬の楊州戦役の終結を控え、またこの歳の年末から翌年春夏にかけて行われることになる徐州戦役を睨んで袁術が行った軍の増強と兵站の整備であったのだが、そうした事を知りうる立場に無い曹操らには袁術が雍丘援助に動きだしたように思われたのだ。曹操らが、雍丘攻略に(曹操に対立する形で)袁術が関与して来たのではと考えたのには理由がある。195年夏、定陶で呂布が敗れると、叛乱軍の首脳陣は呂布と共に東へ落ちのびていく。その中にいた叛乱軍の首魁の一人、張バクが、雍丘の包囲が始まった頃(と思われる)、弟の張超が守将をつとめる雍丘を救うおうと自ら袁術のところへ援軍を求めに行き、途上、部下の手にかかって命を落としたという事があった。張バクは袁術の下へ援軍要請に向かう途中で殺害されたため、援軍要請が袁術のところに届いたかどうかそれに袁術が対応したかどうか対応したとするならどう対応したのか判然としない。そのことについて陳寿は言葉を残さず、輩松之も核心部分の記述を他の史書から拾い上げることが(でき)なかったからだ。存在する記述は張バクが袁術の下へ援軍を求めに行った、そしてその途上、部下に襲われ命果てたというところだけである。しかしその程度であれともかくも記録が遺されているのだから、袁術のところに正規の援軍要請が届かなかったとしても、張バクが何を求めてそのような行動を起こしたかくらいは袁術の耳に届いていたのではないか、と考えて差し支えはないだろう。輩松之が注に引いた「」の中で殺されて実際には会うことが無かった筈の張バクと袁術が互いに会話している様子が作り込まれ実しやかに語られているのを見ると、袁術の所に張バクが何を求めにやってこようとしたか当時から広く噂されていたようにも思える。袁術は陳国の相袁嗣に陳国武平への駐屯を指図した(と思われる)。本来、陳国の国都は武平ではない。(平時は陳。)後に雍丘を陥落させた曹操が年の替わった翌月196年正月、陳国に攻め入った際、袁術が任命した太守袁嗣が武平に駐屯していたのはそうした背景あっての袁術の差配と思われる。この武平の袁嗣と寿春の軍事力の膨張が、雍丘を攻略しようと言う曹操の意思を凍りつかせた。陳国武平は雍丘の南南東遠からぬ所にあり、袁術の本拠地寿春とは渦水の水運で通じ合っている。雍丘を包囲する曹操から見て、武平は雍丘を援助する形勢をとる袁術側の前哨拠点であり、また渦水の通運を通じて寿春から素早く大軍を運び入れることができる兵站拠点であった。もし雍丘の攻略に全力を振り分けたところで寿春の大軍が速やかに武平へ入り、武平から進発して曹操軍へ向かってきたなら、そしてまたそれを見た張超が雍丘から反撃に出たなら、曹操軍は腹背に攻撃を受け、危地に陥る可能性がある。曹操はこの武平への袁嗣の駐屯と寿春の軍事力の膨張を見て警戒心を抱き、雍丘包囲から雍丘陥落へと方針を転換すべきところを敢えて留め、袁術がどういう行動を見せることになるのか暫く静観することにしたのである。軍事に通暁した曹操のことであるから只々寿春での袁術軍の膨張を恐れ観望していただけではなく、万一袁術が寿春を進発して雍丘に向かって来た時の対応策など考えながらの静観だったろう。それというのもこの間曹操は兵站拠点をケン城にとった一軍を曹洪に預け、袁術の影響力下にあった河内郡東部諸県を攻略させているからだ。この攻略は一つには雍丘を河内郡諸県から切り離してその孤立の完全を図るという考えがあり(寿春の軍事力が増強する前の主目的)、また、万一袁術が雍丘に向かって来た場合、河内方面からも包囲を受け、雍丘を囲む曹操軍自体が敵中に孤立するのを避ける意図があったと思われる。(寿春の軍事力が増強してからの主目的) 同時に雍丘までやってきた袁術が河内方面からも兵站を取ると言う可能性を予め排除しておくという意味もあった。袁術がもしこちらに兵を向けた場合、出来るだけ有利な状況で迎え撃ちたいと言う、曹操側の考えが分かるようである。曹操自身は雍丘の包囲を維持しながら静観していたが、これは事態が大きく動いた場合、それに縦横に対処しリスクをコントロールしてのける最強の手駒が曹操自身に他ならないため、自分自身を雍丘包囲に振り分けざるを得なかったということなのだろう。万一雍丘を包囲する曹操軍が敗走すれば、折角掌握し直したエン州諸郡県は再び動揺することになる。また、まだ動いてもいない袁術軍を恐れて包囲を解けば、やはりエン州諸郡県は不穏に包まれるだろう。曹操としては包囲を続けざるを得なかったのである。そしてその包囲軍はどのような事態が起こっても崩れてはならなかったのである。曹操の、雍丘を前にしての静観は、この年12月まで、足掛け3月を連ねることになる。

 曹操はこのように寿春での袁術の動きに警戒せざるを得ず、雍丘の包囲に無駄に時間を費やすことになったわけだが、これは袁術側が徐州攻略を成功に導こうとして行った大がかりな仕掛の中に彼がいたからである。その仕掛けとは、曹操が自由に行動できないような状況を作り、その状況が維持されている内に徐州を攻略する。その状況は徐州の油断を誘うようなものであればなお宜しい。そういうものであった。前年194年こそまさしくそうした状況であったのだが、廬江太守陸康の背反と揚州刺史劉ヨウの離反によって好機と言えるその状況を生かせなかった。そこで袁術は、195年末、揚州戦役を終えた時にそうした状況がまだ成り立っているよう、その状態で徐州攻略に向かえるよう、人為を尽くしたのである。考えられた計略は次のようなものでなかったかと推量する。

 袁術は武平に陳国相袁嗣を篭らせて雍丘を助勢する形を示し、自身は寿春で兵を整えて更にその武平を助勢する形を示す。このようにして雍丘を包囲する曹操の軍事行動を牽制し消耗させていたのである。そしてこの形は徐州を油断させるためのものでもあった。表面だけを見れば袁術の形勢は雍丘を助力し対曹操を意識したものである。曹操が雍丘を攻め落とそうとして軍事力のベクトルすべてを雍丘に向けたとき武平の袁嗣が先発し、寿春の袁術本軍が後続する。武平−寿春間は渦水で通運が確保されているので兵站を整えるのが楽な上、移動による軍の消耗は余り考慮しなくてよい。進軍のために要する時間も短くて済むだろう。その動きは攻勢を本格化させた曹操軍を背後から襲う形になる。これは河を半ば渡った軍を攻撃することに等しく、軍事をよく知る曹操はそれゆえに容易には雍丘攻めを本格化させない筈。曹操はいつ雍丘を落とそうとして攻撃を本格化させるのか、そのとき袁術はどう動くのか。そういったことを徐州はまったく関係ない第三者の目で見ているだろう。その油断を見越した上で寿春から淮水を一気に下って徐州を衝く。

 袁術の、エン州と徐州に対する壮大なブラフである。声東撃西のお手本として教科書に載せたいくらい、描かれた絵は大きく美しく、織り込まれた虚実の綾なす様がまた、素晴らしい。実際195年冬に本格化したと思われる兵站を整え軍事力を膨張させてゆく寿春での袁術の動きの虚実を曹操は量りかねているし(曹操が雍丘攻め落としに踏み切ったのは袁術が徐州に攻め込んでからと考えられる)、徐州もまた袁術の動きをまったく予測していなかったようである。(もし予想していたなら劉備の伝である先主伝の中、或いは蜀書の他の個所で、劉備に警告するブレーンの姿が描かれているだろう。先主伝では唐突に袁術との間で戦端が開かれた記述が始まる。袁術が実際に徐州へ向けて軍事行動を開始してから対応したのではと読める。もっとも陳寿のスタイルから考えて見ると時折あるこうした唐突な叙述には採られず切り捨てられた物事があることが多いので、ここでもそうした事はあったかも知れない。この時期の劉備についての記述は貧しいためそもそも陳寿が書き残せる情報は無かったと言う可能性もある。) これが軍事の教科書にサンプルとして載らないのは、袁術が徐州をものにするという結果を伴えなかったこと、それから三国志の中で勝者ではなかった袁術の行動は断片化されて各所に散り散りになっているのみならず、そもそも最初から除かれ記述されないことも多く、山の端に対する山際のように曹操・劉備・孫策ら他の人物の行動から影絵のように浮かび上がらせるしかない部分が多いためだ。(解釈に依存する形になって素材として信頼性が劣り、教科書に事例として載せるには不適切なのだ。)

 それにしても、この作戦は見事である。袁嗣を武平に駐屯させた差配なども、考えるほど袁術側が組み上げた戦略級の作劇の見事さを見せられているようで震えがくる。雍丘を救援するのに水運を利用するとした場合、大きく二つのルートを示すことができる。一つは寿春から淮水を東下して義成近傍で淮水と合流している渦水に入り、その通運を利用して(遡り)武平に到着、そこから北北西へ進んで雍丘を目指すルート、もう一つは寿春から淮水を西に遡ってやはり淮水と合流している穎水・汝水に入り、その通運を利用して陳国国都陳に到着、そこから北へ進んで雍丘を目指すルートである。正攻法で雍丘を援助すると言うなら袁嗣は陳で兵威を示し、雍丘を包囲する曹操軍へ牽制を図ってもいいはずだ。わざわざ袁嗣を武平へ駐屯させたのは、この作戦があくまで雍丘を援助すると言う名目で徐州攻略の準備を整えるところにあり、そして行動が行われた後もぎりぎりまで徐州攻略と言う目的を判らせないところにあったからだろう。袁嗣が陳にいたままだと袁術軍が寿春を出立した途端、その目論みが衆目に晒されてしまうのだ。寿春を出発して西に移動すれば雍丘を援助する、東に下れば徐州に攻め込む。これほど分かりやすい行動はあるまい。そのため武平に駐屯させたのである。前哨拠点が武平なら、雍丘を援助する積もりでも徐州に攻め入る積もりでもどちらであっても、寿春を出立した袁術軍は淮水を東に下る。その行動は淮水と渦水が合流する近傍の都市、義成まで判断しようがないのである。描かれた作戦そのものが作戦目的を秘匿する、この作画はただ見事と言うしかない。

 もっとも、これは深読みのしすぎかもしれない。武平−寿春間には、淮水に合流する穎水でも渦水でもない支流が直通で水運を確保できるような状態で存在していて、そのために袁術は袁嗣を武平に籠もらせた可能性があるからだ。1800年も前のことだからそうした判らない部分があるので、あくまで深読みだと断り置いた上でだが、袁術らが画策したこの画は、ほんとうに素晴らしい。惚れ惚れとする。袁術勢力に人なしなど、どこの誰が言うのか。全く信じられない。

 そんな深読み感想はともかく。

 こうした準備を整えた上で袁術は揚州で行われている対劉ヨウ戦の戦果を待った。195年冬(おそらく11月あたり)、呉景、孫賁らが帰還し、劉ヨウが曲阿を棄てて落ちのびたことを告げた。しかし同時に彼らは対劉ヨウ戦後、長江以南の揚州にどう軍を展開させていくかで意見が分かれたことも告げた。呉景・孫賁の作戦と孫策の主張する作戦は袁術勢力のブレーンたちの手で検討されただろう。結論は孫策の意見を採用する、であった。袁術は孫策に「将軍」位を与えて孫策にかなりの自由裁量を認めて南方を彼に任せると共に、呉景を広陵太守に任じてその中核部隊を徐州攻略へ振り分けた。呉景を広陵太守に任じたのは正当性を確保して占拠に踏み切る、いつもながらの袁術のセオリーである。また丹揚太守である周瑜の叔父周尚にはそのまま任地を守備するよう求めたと見られる(孫策に周瑜がここから先は自分でできるから無理に助力を図らなくていいとして彼を叔父の所に帰すのはこのように袁術からの指令があったからと思われる。孫策を助ける積もりの周瑜は別段袁術に仕えているわけではないのでこのまま同行するつもりだったようだが、孫策は気にすることはないと彼を叔父のところに戻らせている。) 揚州南部の情勢は袁術軍に対抗する存在としてまだ会稽太守王朗が残っていたし、劉ヨウも豫章へ逃れて再起を図っていた。楽観できる状況ではなかったが、袁術は孫策に南を任せて自分は徐州へ向かうという2正面作戦を敢行したのである。それというのも、徐州を攻略するのに必要とされた状況が崩壊しつつあったからだ。前年冬にはまだ圧倒的であったエン州における反曹操勢力は殆ど駆逐されてしまっており、彼らは拠点雍丘を残すのみとなっていたのだ。その雍丘も8月から始まった包囲が5ヶ月目に突入しようとしており、いつ陥落するともしれなかった。雍丘が陥落してしまえば曹操は行動の自由を得てしまう。そうなってしまえば寿春を手薄にして徐州へ攻め込むことは非常に難しくなる。加えるなら曹操もまた徐州を獲得しようと言う意思を一度示したことがある。徐州争奪と言う点でまたまた袁術は曹操と争うことになる。袁術には嫌な必然だ。袁術としては曹操が身動きできない内に徐州を手に入れ、動けるようになる頃には迎え撃つ体制を整えておきたいところだろう。なお、曹操が徐州を得ることについては彼の参謀荀或も認めていた。彼が曹操に対して徐州攻略を非としたのは曹操が呂布とエン州を争っている最中にある種のニ正面作戦と言う形で徐州を獲得しようという意思を示したからであり、その作戦概要も曹操自身の軍事能力と青州兵の力に頼りきり過ぎ、周辺の流動する状況を考慮していない非常にリスキーなものであったためだ。荀或が示した反対の主旨も今は時期が悪く状況が整っていないからというものであって徐州を獲得することそれ自体を非と言ったわけではない。彼は曹操による後漢末乱世の鎮定と中原再統一のグランドデザインを描き、そのための一連の行動をプランニングして曹操に説いているのだから、結局のところ中原を統一する過程でいずれ徐州を獲得し曹操の膝下に組み込むことは彼の目算の中にあったと見ていい。もとより徐州を巡る利害について、両者は相容れなかった。各々覇権の確立を目指す群雄である以上、それはごく当たり前のことだろう。

 かくて袁術は195年11月末乃至12月初め、徐州へ進発した。

 

 袁術の動きは彼の進軍先である徐州ばかりでなくエン州にも波及した。いや寧ろその波及は必然だったと言っていいだろう。なぜなら、袁術の虚実を交えて描かれた声東撃西の画はエン州を含んでいたからである。そして含まれたエン州とは曹操と言うことだったからである。

 

【袁術の徐州攻略:曹操のリアクション】

 195年12月、寿春で威容を整え膨らみきった袁術の軍勢が渦水を西上するのでなくそのまま淮水を東下していったとの情報を得た曹操は、ついに軍事力の照準を雍丘攻略に絞り込み合わせた。自分に向けられた袁術の手がブラフであると判ったからである。この時まで10月から足掛け3月、曹操は袁術の画策によってありもしない袁術の寿春からの動きを警戒せざるを得ず、行動の引き伸ばしを余儀なくされ、時間を、糧秣を、兵の鋭気を無駄に費消していた。その溜め込んだストレス全てを向けたと見える怒涛の攻勢を曹操は展開する。三国時代を通じ、他を断然引き離し隔絶した攻城戦能力を誇る曹操を前に、雍丘はその月の内に陥落した。戦功の第一は楽進であった。彼の部隊は雍丘の防御を突き崩し、城中へ一番に躍りこんで攻略のための突破口となったのである。雍丘が破られると雍丘の守将であった張超は自決した。陥落した雍丘に入った曹操は朝廷に任じられた正規のエン州牧の名において、叛乱側の首魁であった張バク・張超兄弟の三族を皆殺しにしてエン州叛乱の結末をつけた。そして翌月、年明けて建安元年(196年)1月、曹操はそのまま陳国武平に攻め寄せる。寿春に袁術の本軍は既になく、武平では本国の援軍など望みようがなかった。加えて攻め寄せた相手が1季節の内に5つの城を楽々と落として見せる曹操と彼に率いられた青州兵である。この状況を前に武平に篭る陳国相袁嗣は降伏した。転んでもただでは起きず、転ばされたら相手をひっくり返して起き上がる曹操は、続いて汝南・穎川の黄巾賊攻略に乗り出す。196年2月のことである。黄巾賊の討伐と書くと曹操が対袁術の矛先を一旦収めて自勢力周辺地域を押さえにかかったというように見えるが事はそう簡単ではない。曹操の汝南・穎川の黄巾賊攻略には、自勢力周辺を押さえにかかった面が確かにある。しかし、これは飽くまで袁術に対する戦略の中に置かれ行われたものだった。汝南・穎川は袁術勢力圏に含まれており、黄巾賊と言うものの、彼らは袁術に協力する姿勢を示すことでこの地域でそれぞれ好きなように割拠していたのである。そして彼ら汝南・穎川の黄巾賊はこの頃になると、袁術の任命した汝南太守孫香を仰ぐようになっていた。三国志『武帝紀』には孫堅とあるが、こればかりは陳寿の混乱だろう。この時期、孫堅は既に死んでしまっており、また孫策は汝南へ影響を及ぼすような実績をこの方面で挙げてはいない。当時孫香が(袁術に任命された)汝南太守であったため彼のことを指すと考えた方が自然である。ここでは孫香ということにして話を進める。

 196年1月、武平を陥落させ、袁術の任命した陳国相袁嗣を降伏させた曹操はこのまま一気に袁術勢力の拠点、寿春に迫り、そこを陥落させても良かったはずである。196年春の段階で曹操の行動が対袁術の戦略に沿った上で行われたのだと言うなら、この時こそ、袁術勢力に大打撃を与えられる好機ではなかったか。

 否。寿春は攻略すべきではない。寧ろ放置が最適。その上で汝南・穎川の黄巾賊を討つ。それが、奸智窮まりない曹操の弾きだした結論だった。

 畢竟、戦争とは経済である。経済行為であるところを免れ得ない。196年年頭のこの段階で、曹操側がうち続く戦争で得たものはほとんどない。反乱の鎮圧、来るか来ないか判らず来るかもしれないと言うだけの敵の影に怯え効率より効果を求めての軍事力のすりつぶし、可能性を餌に待ちぼうけを食わされて費やした戦費、収支決算は赤字も赤字、大赤字であった。ちょー赤字、と言っていい。そうしたところを踏まえて寿春攻略を考えよう。本腰を入れて徐州攻略に向かった袁術の居ない寿春に何が残されているか。(何も残されていないだろう。不思議ではない。)残されたものがあったにしろ、ろくなものはないだろう。また、あったなら、本拠を脅かされた袁術は徐州攻略を諦め急いで軍をとって返すだろう。そうなれば、徐州を攻略しようとして準備を整えた袁術の大軍と会戦することになる。ちなみにこの時、寿春には汝南太守の孫香が後詰めで入っていた可能性がある。(彼は寿春で死んだと言う。示唆的である。)その状態で会戦しても得られるものはない。寿春は落ちない。得られるものが無いと言うことは、赤字である。そうなれば(兵たちに与える糧秣が尽き、)曹操軍は秋の収穫を待たずして瓦解するだろう。それより汝南・穎川の黄巾賊を討った方が確実に食料を得られる。彼らは袁術勢力と言っても名前だけのことで、バラバラに独立して割拠しており、実際袁術の組織に組み込まれているわけではない。彼らの拠点に蓄えられた糧食は袁術が欲しても得られるものではなく、彼らの下に留まったままと見ていい。名前だけ袁術勢力に入っている賊腹が曹操に攻められた所で、袁術は気にもかけまい。なにしろ大切な徐州攻略の真っ最中だ。こうして、汝南・穎川の黄巾賊(と呼ばれた小勢力群)は曹操の餌食となることが確定した。(曹操の胸の内で。) 未だある。寿春を衝かず、汝南・穎川の黄巾賊狩りに熱中するのは、ただ彼らの糧食を得るだけが目的ではない。寿春を攻める積もりが無いことを明らかにして袁術の懸念を払拭させ、袁術にそのまま徐州攻略を続けさせて置くためでもあった。袁術と劉備、両者が互いにがっぷり四つに組み合い、消耗し合うのをそのままにさせておこうと言うのである。正史版、二虎競食の計である。二つの敵対勢力が噛みあうのを邪魔せずそのままにして消耗を図り、その間に(敵対勢力が動けないのをいいことに)一方の勢力に属する小勢力を刈り取って我が方の利益とする。えげつなさもここまでくれば芸術である。

 196年2月から行われる曹操の汝南・潁川の黄巾賊狩りは、袁術と劉備に疲れ果てるまで徐州を争わせ、その隙に今まで支払わされたツケを返し収支を黒字に戻すべく袁術の勢力圏に対して行われた軍事行動であった。(それも、寿春を衝いたりして袁術を刺激したりしないように注意した上での!) 以上は状況証拠とそれに基づいた推測と言う域を出ないものだが、一つの見解として此処に記す。

 この後、彼ら汝南・潁川の黄巾賊から得た糧秣で一息ついた曹操はそのまま彼らから奪った穀物と占拠した地域を利用して屯田制を開始、無数の倉から粟穀を溢れさせる成果を得て、軍事行動を起こす度に喰うものさえ満足にない飢餓状態に陥る国政状態を脱し、二袁と並んで中原3強の一角へのし上がることになるのだが、それは曹操の所で記されるべきことなので余談として此処に留めておく。

 

 ブラフで曹操を翻弄する袁術とブラフと判った途端、抜く手も見せずに諸郡県を切り落としてゆく曹操、195年はそのようにして暮れ、196年はそのようにして明ける。

 

 

 196年(建安元年)。

 この歳は徐州攻略とその蹉跌、孫策の独立があった。

 

【袁術の徐州攻略と劉備の対応・呂布の裏切り】

 196年正月、袁術は歳の初めを徐州で迎えていた。徐州攻略の真っ最中だったのである。前年末、揚州戦役の終結を受けて寿春に呉景らを戻した袁術は、未だ乱れたままの南方を孫策に任せると淮水を下って徐州に入り、劉備を追い出して徐州を得ようと目論んだ。徐州入りした袁術は後漢王朝の太傅馬日テイの節を用いて笮融に殺害された趙イクの後任の徐州広陵郡太守に呉景を任じ、実効支配に乗り出した。後漢末諸群雄中最もサバイバル能力に長けたタフな群雄劉備との間で行われた、泥沼の徐州戦役の開始である。

 興平元年(194年)秋口、曹操との争いに生命力を使い果たして徐州牧陶謙が病死した後、(恐らく)冬に至って徐州は劉備のものとなっていた。あっけない陶謙の病死に徐州獲得のまたとない好機を見ていた袁術が勢力圏下にあった廬江太守陸康の唐突な背反で徐州に手が回らなくなったのを見た上での、徐州牧継承だった。陸康に続き揚州刺史劉ヨウも叛旗を翻したため、ほぼ一年、徐州を狙った袁術の行動は遅滞を余儀なくされていた。その間、劉備は下ヒの有力豪族陳登の献策を受けて袁術と覇権を争うもう一方の袁氏、袁紹の盟下に入り、同じく袁紹の盟下にあった曹操と徐州の間に生じた因縁を取り敢えず抑えることに成功、笮融など陶謙時代からの問題分子の掃討も終えていた。また曹操とエン州を争っていた呂布が翌、興平二年(195年)秋8月にエン州の拠点のほぼ総てを失って劉備の下に寄留することになっていてもおり、ブレーンの一人、陳羣が眉を顰めた、徐州を治める上で最も懸念された軍事上の不確定要素も影を潜めていた。磐石とは言いがたいが、しかしそれでも考えられる限り良好な状態で劉備は袁術軍を迎え撃ったことになる。衝突はクイ・淮陰の辺りで生じた<三国志『先主伝』>。

 後漢書『呂布伝』では袁術が徐州へ攻め込んだ時、劉備は下ヒを拠点にしていた旨書かれている。恐らく笮融に関わる不穏状態を鎮めるためにタン(郯)から移ってそのまま拠点としていたのだろう。(笮融が下ヒを逃げ出したのは何時かの傍証になりそうだ。)本当なら下ヒの不穏は袁術にとって望むべきことだったが、こればかりは劉備に幸いした。下ヒ(下邳)に居たため袁術の侵攻になんとか対処することが出来たからだ。劉備は袁術の侵攻を淮上で(淮水を盾に)阻んだ、と後漢書『呂布伝』では描いている。

 袁術は徐州を攻略するに際して、【袁術の徐州攻略と対曹操戦略】に述べたように見事な声東撃西の一大作戦を企画して臨んだ。その作戦は当初の企図どおり、徐州を不意討することができたのだろうか。目論みは当たったが事は破れた、と言うのが妥当な評価と思われる。事が破れた理由は幾つかあるがその一つ目は袁術が淮水を用いて速やかに軍を進めたように、劉備も下ヒの側を通って淮水へ注ぐ泗水を用いて速やかに軍を進めることができた。そのため袁術の徐州侵攻が奇襲効果を伴っていたとしても、州の主たる劉備さえ動揺せず対処するなら、戦場となっている地域へ速やかに辿り着くことが可能だった。後漢書『呂布伝』三国志『先主伝』の記述から窺うに劉備はなんとか対処できたのだろう。

 理由の二つ目は都市の攻略に時間を取られすぎたのではないかと言うことがある。これは単純に一つの都市の攻略に手間取ったと言うことではないかも知れない。揚州戦役の終結を受け、徐州攻略軍を編成するに際し、袁術は揚州に孫策を残し、徐州攻略へ呉景を連れて行った。これが奏功しなかった可能性がある。すでに揚州戦役の項目で指摘していることだが、孫策は相手の防御コンプレックスの無力化を図る飛び石戦略を採るため大勢力の攻略で最終決戦へ向け収束してゆくグランドキャンペーンを主宰するのに向き、呉景は漸進主義を取るため決戦後の制圧戦、残存勢力の掃討戦に向く。呉景の戦争指導によってこの徐州侵攻を行っていたなら、それはまず淮陰を攻略し、然る後にクイへ向けて逐次その間にある県城を陥とし、つづいて淮水の南側の徐州諸都市を陥とし、それから漸く淮水を渡って徐州中央へ進出することになるだろう。それでは徐州中央へいつまでたっても進出できないことは明らかである。相手はそこまで待つはずも無く、淮水という大河を盾に頑強にその侵攻を拒むだろう。丁度劉ヨウが長江を盾に呉景・孫賁らを拒んだように。事実、袁術の徐州侵攻は建安元年(196年)秋を臨み、ついに淮北へ渡った記述もなく、非常に中途半端な形で中止される。袁術は侵攻軍として連れてゆく将官の選択を間違えたのだ。

 袁術の覇権が成る可能性を考えるものとしては、孫策だったなら!と思わずにはいられない。孫策だったなら、徐州侵攻の兵站拠点となる淮陰を陥落させた段階で直ちに淮水を渡ったことだろう。長駆して徐州内部にある他の重要拠点の攻略に向かっただろう。考えられるオプションは3つ。一つは淮水から泗水へ入り、泗水をそのまま遡って淮水南の戦場へ急ぐ劉備を待ち伏せて撃破、そのまま下ヒを強襲して陥落させると言うもの。(後に劉勲を破った戦いを参考にした。曹操でさえ正攻法では攻めあぐね、水攻の奇策をもって城を開かせた下ヒの堅きを彼がどうやって攻略するかには興味があるが、この場合状況が状況だけにあっさり陥落しそうだ。)二つ目は淮陰攻略後、他の拠点には目もくれず、泗水と淮水の合流地点の近く、泗水の東方にあり、淮水の北に接する淮浦を長駆侵攻して攻略し、泗水を下ってきた劉備軍を拘置もしくは撃破、続いて泗水から沐水にかけての東岸地域を一飲みに制圧すると言うもの。三つ目はこれとは逆方向に軍を展開させるもので劉備を泗水沿いの何処かで迎撃したあと、泗水西岸地域を制圧するというものである。(しかしこの地域は曹操が通過した後の地域なので得る利益は他のオプションより少ないだろう。)

 しかし袁術は孫策ではなく呉景を選んだ。天命は袁術に無かったと言うことなのだろう。

 理由の三つ目は徐州の主が劉備だったことだ。その生涯にわたり、劉備は如何なる群雄をも恐れたことはなかった。勝算が無い時、戦機が見えない時は字義通り戦略的撤退を図り逃げ出すこともあるが、それはあくまで「勝算が無く、戦機が見えない」からであって決して「恐れて」逃げ出したのではなかった。この点、袁術が先に寿春を占拠した時に対戦した州刺史陳禹*とは異なる。劉備は奇襲を受けたにも関わらず動揺したり取り乱したりせず、袁術とあくまで戦うことを選択した。恐らく淮陰から急報を受けたに違いない劉備は、袁術軍が淮水南の淮陰からクイに至るまでの諸都市の攻略に時間を費やしている間に迎撃準備を整え終えると泗水を下って淮水に臨み、袁術軍と対峙した。これによって果てしない長期戦となることが確定したのである。何故なら、この三国志に書かれる時代を通じ、継戦能力、継戦意欲と言う点で、劉備こそは曹操さえ寄せ付けず、他を断然引き離した、殆どバケモノの領域にいる群雄なのである。三国志の時代の長期戦ベスト3は夷陵の戦い、益州平定戦、漢中争奪戦であるが、いずれも劉備が関わったもので一年を軽く越える。次点が曹操・袁紹の官渡の戦い、赤壁の戦に続いて南郡を攻略した周瑜の戦い、孫策の会稽郡攻略戦、袁術と劉ヨウとの間で起きた揚州戦役、公孫サンに止めを刺した袁紹の易京攻略戦などである。戦いが長引くのは兵家の忌むところだが、ここまで戦いを継続させられると却って評価の対象とせざるを得ない。どんな相手も根をあげたくなろうからだ。195年晩冬に始まった袁術の徐州攻略戦も結局196年秋(と思われる)に劉備が呂布へ投降して作戦が中途終了するまで続けられた。これも屈指の長期戦だったのだ。どんな群雄をも恐れず、果てしない長期戦の中で延々と作戦の継続を図る劉備。「劉備なぞドコのダレよ?」と嘯いて袁術が対峙した相手はそうしたとんでもない曲者の傭兵隊長であった。それは袁術の不運であり不幸と言うしかない。

 クラウゼヴィッツは西洋軍事理論の金字塔たる著書『戦争論』で『つきつめれば軍事力を構成するものは(兵員、弾薬、糧秣、工業力など一切を含めた)資材の量と精神力である』と言い切っている。また『純理論的に考えるなら、戦争を終わらせるには敵方の戦闘意欲を完全に折り取ることが出来ねばならない』とも彼は説く。『なぜなら、資材は時間が経てばいずれ回復させることができるものだからだ』と。先の徐州牧継承時に見られた自他の戦力・勢力・状況を過たず精確に把握し計算し決断する知性に加え、単なる知識人出ではおよそ持ちえない比類なき精神力、尽きることなく折れることない精神力を持つ最もタフな群雄、それこそが劉備であった。クラウゼヴィッツの言葉に則するなら、無尽の精神力の持ち主であるこの群雄には、決して十分な兵力を持たせてはならないのである。そうした状況を、この群雄に許して敵対してはならないのである。この段階での自他の勢力、兵力差を鑑みるなら袁術側有利であったとはいえ、それは隔絶と言えるだけの差ではなかった。袁術にとって劉備は充分危険な対戦相手であった。

 さて。

 劉備が軍勢を整え、泗水を下って淮水に至り、袁術軍と対峙するに及び、袁術は作戦の失敗を悟った。劉備と袁術の戦いは「勝ったり負けたりを繰り返した」と史書にあるように、膠着状態に陥ったからである。どれほどに素晴らしい作戦を描こうと、そもそもの作戦の枢要を理解しない凡庸な運営をされては元も子もないという好例だろう。淮上に劉備が現れた段階で袁術は作戦の失敗を悟ったろうが、このまま撤兵することは袁術の考えになかった。兵を起こした以上、少なくともそれに見合うだけのものを手に入れなければ勢力を賄えなくなるからだ。戦争とは、相手のみならず己をも焼き滅ぼしかねない業火なのである。その身を焦がされないためには、奇策が必要であった。

 袁術の幕僚たちは呂布に目を付けた。

 呂布は、あざなを奉先といい、五原(郡)九原の出身である。「人中に呂布あり」と言われる無類の武勇を誇り、三国志演義では悪の総帥董卓の側に控え、天下無双の剛勇で反董卓連合の腕自慢たちを連破することで知られている。史書でも弓馬驍武の才幹、その剛勇を恃まれて并州刺史丁原に用いられ、誘われて董卓に乗り換え、また司徒王允に引っ張られて董卓を殺害する。この時の呂布は張バク・張超・陳宮のエン州叛乱に参加したものの、結局曹操にエン州から逐われて劉備の下へ逃げ込み、小沛に寄留していた。

 袁術の幕僚たちはこの呂布を劉備から背かせてその背後を襲わせ、劉備がとってかえして呂布と戦う隙に徐州を飲み込もうと考えたようだ。袁術は呂布に手紙を送った。

『私、袁術が兵を挙げて闕に詣で、未だよく董卓を屠り裂くことができないでいたときに将軍は董卓を誅されました。これは(叔父である太傅袁隗・兄である袁基らをみすみす董卓に殺害されてしまった)私に代わってその恥に報いてくれたと言っていいでしょう。功績のその一です。昔、金元休(金尚のこと。長安から派遣された正規のエン州刺史。)が封丘に至って(私の助力にも関わらず)曹操に敗れるところとなりました。将軍は曹操を征伐し、ために私は再び世間に顔向けできたのです。功績のその二です。私、袁術は生まれてからこれまで天下に劉備有りとはついぞ聞いたことがありませんでした。その劉備が兵を挙げて私と対戦しました。将軍の威霊が憑いて、もって劉備を破ることが出来ました。功績のその三です。将軍は私に三つの大きな功績が有ります。私袁術は不敏と雖も死生をもって奉じましょう。将軍は連年戦い、軍糧少なく苦しんでいることでしょう。今、米二十万斛をお送りします。勿論、これだけに止まらず、続けて駱驛致す所存です。凡そ短長とする所については、また唯命じて下さるだけで結構です。』<三国志『呂布伝』輩松之注『英雄記』、後漢書『呂布伝』>

 初め呂布は袁術からの手紙が届いたとき、訳が判らなかったかも知れない。袁術の手紙にあった三つの功績の内二つは覚えのあるものだったが、三つ目の功績として挙げられていること、袁術が劉備を破る手助けを自分がしたなどといったことは身に覚えのないことだった。やってもいない行動を功績に挙げる袁術の手紙に、彼は暫し首を捻ったことだろう。しかし直ぐに呂布とその幕僚たちは合点する。これは袁術のレトリックだと。糧秣、米二十万斛を与えるので劉備の後背を襲ってくれと要請しているのだと。

 呂布は首肯した。

 ここで袁術が呂布に送った手紙をその内容にも関わらず呂布が劉備を襲う前と規定したのには理由がある。呂布軍は袁術からの糧秣なくては、軍事行動を起こせなかったと考えられるからだ。劉備が袁術と対峙した所期、呂布は徐州西方を防御する軍事力として小沛に寄留していた。そしてそこには国相である陳珪も居て兵站を押さえていたと思われる。こうした状況で呂布が陳珪の兵站支援を得ずに軍事行動を起こすのは至難である。物語である三国志演義の延長線上にある視点で史書でも彼は愚かしいと語られがちな劉備だが、決して愚かではない。寧ろ抜け目無いと言っていい程である。兵站と言う後方支援を欠いた状態では軍と言うものは動けない。劉備は、軍事力として呂布が徐州の西(恐らく曹操)を押さえ、兵站を押さえて陳珪がその呂布に目を光らせる、万全のリスク管理を試みたわけだ。(いつも自分が雇われている)『傭兵隊長』ならではの視点がそこに見える。

 しかし。呂布は軍事行動を開始してしまう。兵站を縛られることで小沛に縛りつけられていた呂布に、袁術が糧秣を給し、鎖を解き放ったからだ。万全と思われた劉備のリスク管理は袁術の策略で崩壊した。あざといともえげつないとも抜け目無いともとれる劉備の『呂布縛り』の盲点を袁術は衝いたのだ。兵站を縛ることで呂布を縛る劉備のやり方は、劉備にとって都合のいいものだが、縛られた呂布にとっては窮屈極まりなかったことだろう。ことに袁紹の下で黒山賊を討ったあと増長して様々なものを袁紹に要求し辟易させた呂布にとっては。それゆえに「糧秣さえ与えれば、呂布は動くだろう」と言う推測は自然なものとなる。

(後に徐州を獲た呂布は袁術軍が劉備を滅ぼそうとして寄留先の小沛へ兵を進めると彼を助けようとする。その時呂布の幕僚たちが「将軍はそれまでいつも劉備を悪んで(憎んで)いたのにどうして彼を助けようとなさるのか」と語る様子が史書に描かれている。幕僚らが指摘した劉備に対する呂布のその感情こそ兵站管理に由来した気持ちであったと考えたい。小沛へ寄留した当初、呂布は劉備への単純な好意を示していたのだ。それが半年ほどたった時には劉備に対して含むものを持つようになっていた。それが兵站を管理されていたために不自由を感じて始まった負の感情だとすると、次に生じる呂布が劉備を助ける行動も理解できる。兵站を縛られたことに対する不自由感は個人的な怨讐を含んだ憎しみといったものではなかったことになるため、劉備が袁術旗下の紀霊らに攻められるとあっさり劉備擁護に走ることが出来た、呂布の中で劉備を擁護することは別段深い葛藤を要する行動ではなかった、と考えられるからだ。)

 そして劉備の『呂布縛り』は一見強力な手だけに(そのゲーム盤の上にいる限り、ひっくり返せない。袁術はゲーム盤の外からやってきたのだ。)、縛った本人がその盲点に気づかず、異変を見逃すことになってしまう。呂布が軍を動かしたのを陳珪は見す見す看過してしまったが、それは沛国の兵站は自分が押さえている以上、呂布が軍を動かすのは本当に劉備からの要請あってのことだろうと考え、兵站支援は行軍先で得るのだろうと斟酌し、彼の出立を止めず見送ってしまったと言うことなのだろう。そのあたり、呂布軍の謀主である陳宮あたりが上手く言いくるめたのかも知れない。(新本格派の三国志モノを描くならこのくらいのところまで描写して欲しいなぁ…)

 袁術サイドの奇策は成功し、かくて呂布は泗水を下る。

(ここでは袁術からの働きかけで呂布が動いたと考えたが、逆に呂布からの働きかけに袁術が応えたと言う可能性もある。袁術の手紙はそうした視点から見たほうがより納得できる解釈が成り立つようにも見えるからだ。しかしやはり呂布からの働きかけに袁術が応えたと言う見方よりは袁術からの働きかけあって呂布が動いたと見たい。と言うのもこれまで呂布は常に他者からの働きかけで動いてきた、受動的行動に終始している。董卓然り王允然り陳宮然り。そうしたそれまでの呂布の受身の姿勢を考えると、呂布が袁術に話を持ちかけた可能性より袁術が呂布を巻き込んだ可能性の方が高いと思われるのだ。しかし、しかしである、陳宮が事を謀ったのなら、やはり呂布サイドからの働きかけで行われたのかもしれない。このあたりは諸氏の解釈の分かれるところだろう。)

 袁術側の謀略はそればかりで終わらなかったようだ。呂布が下ヒを攻める直前、下ヒでは下ヒ国相曹豹が張飛と争って殺害され、それに動揺して劉備の中郎将である丹楊出身の許耽が叛乱している。<三国志『呂布伝』輩松之注『英雄記』> これも丹楊郡を押さえている袁術が丹楊出身者たちに働きかけ、それが奏功して生じた事件なのかもしれない。その場合張飛と曹豹の揉め事も袁術からの謀略を掴んだか何かおかしいと感じた張飛が曹豹を問い詰めて起きたものと言うことになる。呂布の下ヒ急襲と連動した形になったこの騒憂は呂布が下ヒを得る上で非常な助けとなった。実際袁術が何か謀ったかと言うと証拠らしき証拠も証言も残されていない。しかし許耽が自分の副官として司馬を務める章誑を真っ直ぐ呂布の下へ遣わして変事を告げている描写があることから、なんらかの謀はあったのだろう。

 章誑は呂布の下へ辿り着くと下ヒを急いで襲うよう要請した。この時、呂布軍は深更を迎えて下ヒの西方四十里の地点にいた。古代中国では、一日のうちに無理なく行軍できる距離を一舎といい、軍事計画の多くはそうした行軍行程で計画された。この一舎はおよそ三十里である。つまりこの時呂布は下ヒまで通常の行軍で一日と三分の一の距離を残し章誑の訪問を受けたのである。許耽らは既に張飛の鎮圧を受け追い詰められていた。普通に行軍すればあと1日半。とても間に合わない。許耽は張飛に鎮圧され、内応者のいない下ヒはその堅さに拠って呂布を容易に拒んだだろう。呂布は急いだ。三国志でも類を見ない速度が此処に記録される。夜半に出立した呂布は恐らく水陸両路を用い進軍することおよそ3〜4時間、夜明け前下ヒを目に捕らえた。この行軍速度は、一日あたりに換算すると三百里を超えたかも知れない。曹操が長阪で叩き出した行軍速度は騎兵のみで出されたものだが、これは歩兵も含めてのものと見える。それでいながら曹操の記録と同程度かそれより速い。短期短距離での行軍速度としては三国志中、これが最速と見られる。この速度は騎兵を陸路、歩兵を水路で運んで得られたものだろう。

 ここから分かることがある。水運を用いた行軍は騎兵とほぼ同じ速度を出せると言うことだ。後に三国志時代後半、合肥を何度も襲う呉の孫権の軍が素早くやってきてすばやく立ち去る様語られているが、それがどの程度のものだったか、ここから推し量ることができる。『南船北馬』と言う言葉を確かに実感できるエピソードである。

 この水陸両路を用いた行軍計画は、陳宮が策定したと推量される。陳宮はあざなを公台と言う。東郡出身で、袁紹の引き立てで東郡太守の座を預かった曹操に郡の功曹として協力し、青州黄巾族がエン州に押し入ってきた時に謀を巡らして曹操を州牧に押し上げた人物である。曹操が興平元年(195年)に二度目の陶謙征伐に赴き徐州で殺戮を繰り広げる中、張バクを説き呂布を引き込んで曹操に背いた。陳宮はその時斉水の水運を用いて東郡東部、東平国との境界へ向けて兵を侵入させ、徐州に居た曹操と本拠地にいた苟イクらとの分断を図った。計画はその始まりを苟イクに気づかれ、その実行では程イクに津(渡し場)を破壊され阻まれ、所期の計画は肝心のところで成功せず終わっていたが、黄河や斉水が郡国を走り分断している東郡出身で郡の(諸官吏を統括する)功曹を務め実務を積んだことのある陳宮だからこそ考え付くことができ、また発起できた計画であろう。その経験はここでも活かされたと見える。前段で水運を用いた行軍は騎兵とほぼ同じ速度をだせると言ったが、それは当時、陳宮だからこそ可能なことだったのかも知れない。陳宮は呂布の滅亡と運命を共にしたが、彼が曹操の下に帰参していたら、赤壁の敗戦は無かったかも知れない。水利の玄妙を知る彼なら江陵からの行軍計画を難なく策定し、長阪での騎兵さえ上回るほどの速度で軍を進めて孫権軍に先んじて陸口を押さえ、曹操が陥った烏巣への駐屯を余儀なくされる事態には至らせなかったかも知れない。後に曹操は河北での袁家との戦いで盛んに運河を整備し水運を利用した兵站計画で戦争を主導してゆくが、それは着想を陳宮(の活躍)に得て、彼から大いに学んだところがあったのかも知れないと、考えたいところだ。

 本題に戻ろう。

 四十里の距離を数時間で詰めた呂布軍の行動は二つの成果を得た。一つは、許耽が鎮圧されてしまう前に下ヒに辿り着いた、好機に間に合ったことである。もう一つは、これが索敵範囲外からの突然の攻撃、奇襲となったことである。内側から城門は開かれ、下ヒは陥落した。張飛は手もなく遁走、劉備の妻子は呂布の獲るところとなる。

 かく下ヒは陥落した。が、それは余りにも早すぎた。呂布が下ヒを得てしまうことは、袁術の望むところではなかったのだ。

 

【呂布軍への調略】途中

 呂布によって下ヒが攻略されたことはすぐさま劉備に知らされた。劉備は直ちに下ヒに引き返すと奪還を図ろうとした。しかし、下ヒを攻略した時点で呂布は下ヒに居た将吏の家口を虜としていたため<資治通鑑>、下ヒを目前にして劉備の軍は崩壊した。恐らく中堅官僚らが動揺してしまったのだろう。

 普通なら群雄としての劉備の生命はここで潰えていた筈だ。二袁の一雄たる袁術と戦端を開いてしまっている上に、豪勇無双の呂布に拠点中の拠点たる下ヒを陥とされ、更に麾下の部下たちの家口を囚われている。かつ兵站さえ定まらぬ状況にあって、どうやって再起を図れるというのか。

 しかし。しぶとさとしつこさとしたたかさに掛けてこの後漢末で圧倒的な強靱さを誇る劉備は諦めない。散り散りになりつつある兵を収めつつ東に向かう。東に向かい、袁術との対峙を継続しようとする。このまま呂布と対峙しつつけることは徒に麾下の将吏たちを動揺させてしまい、生き残る芽を自ら潰してしまうと見たのだろう。恐らく淮水沿いに東下した劉備は広陵(恐らく郡都である淮陰)を強奪し(三国志は「広陵を奪った」とし通鑑は「広陵を取った」とするからこの時広陵は袁術側のものだったのだろう。袁術は呉景を広陵太守に任じているが、この時呉景が広陵に駐屯していたかどうかは分からない。)、兵站地を収める。そして袁術に対して逆撃を図る。

 この選択は結局袁術に破れてしまうことから一般に愚かしいと見られるが、手としては悪くない。状況は未だ流動的であった。呂布が下ヒを急襲・強奪したという事実が余りに急だったのだ。そのため徐州諸郡はその帰趨を息を潜めて見守っていたと見られる。例えば東海出身の簫建はこの時期から既に瑯邪相になっていたと推察されるが、呂布が実質徐州を支配してからも猶も好みを通じさせようとせずあくまで瑯邪(キョ県)を守っていたとある。<三国志『呂布伝』裴松之注『英雄記』>(簫建は東海出身なので、瑯邪(の出身者)に故吏を有する袁術側の人間ではないと考えられる。そして呂布とは距離を置いていたことから、彼は東海出身の糜竺と同じく劉備を奉戴した官吏だったのではなかったかということが窺える。)この段階で劉備が袁術を退けることが出来たなら、劉備を支持する郡吏たちが徐州の諸郡府を押さえている状態で呂布は一人下ヒに孤立することになる。奪還は容易であったはずだ。

 危機に陥った時に事態が未だ流動的である内に逆転の手を打つ。そういう決断を行う。それは群雄に求められる必須の資質である。袁紹は何進が殺害された直後、問答無用とばかりに後宮に巣くう宦官を皆殺しにし、反董卓連合が瓦解して自らの軍が崩壊に向かうと有無を言わさず冀州を詐取した。曹操もまた刺史を殺害して地を埋め尽さんばかりであった青州黄巾賊へ果敢に立ち向かったし、遠征先の徐州で州が覆ったときも驚くほど機敏に動いて死地を脱した。後世愚かな群雄だったと評されることの多い袁術でさえ、曹操に散々に破られて軍が瓦解したそこから揚州を奪取してのけたのだ。そうした決断が出来るという意味に於いて劉備もまた確かに群雄であったと言える。

 とは言え、彼はその賭けに破れて海西へ撤収する。

 そして、この段階で袁術の徐州攻略は複雑な様相を見せ始める。大軍を抱える袁術が淮水を渡れないまま其処を境に南におり、軍の規模としては最も小さい呂布軍が徐州の要である下ヒを自分のものとし、州全般で広範な支持を得ていた劉備が未だ滅んだわけでなく、海西で勢力の回復を図っている、そうした状況となったからである。

 この時期の徐州情勢に関する記述は混乱していること夥しい。先ず最も混乱しているのがあろうことか三国志『先主伝(劉備の伝)』で、この時期に「楊奉・韓暹が徐・揚の間(徐州・揚州の間)を寇したため、邀撃<ようげき・むかえうつ>して之を尽く斬った」と記述している。そもそも彼らはこの時期には(建安元年(196年)秋まで)未だ献帝の洛陽への移動に付き従っていた筈で、この時期この場にいる筈がない。彼らの挙措について最も確からしいのは後漢書『董卓伝』で、その末辺りで記されている顛末を記すと「(曹操が車駕を許へ遷そうとしたとき(即ち建安元年(196年)9月))楊奉、韓暹は車駕を要遮しようと欲したが,及ばず,曹操がこれを撃つと(三国志『武帝紀(曹操の伝)』に拠ると冬10月。資治通鑑もこれを採る),楊奉、韓暹は袁術の下へ奔って,遂に楊州、徐州の間で暴を縱<ほしいまま>とすることになった.明くる年(即ち建安二年(197年)),左将軍劉備が楊奉を誘ってこれを斬った.(恐らく呂布と連合して袁術に逆撃を加えた後のこと(建安二年(197年)夏か秋以降)だろう。)韓暹は懼れ,走って并州に還ろうとし,道半ばで人に殺される所となった.」ということである。また三国志『先主伝』にはそれに続けた文に「先主は呂布に和を求めたところ、其の妻子を布<ほどこ>された。そこで先主は関羽を遣わして下ヒを守らせた」とあって、この状況で呂布が関羽に下ヒを守らせることが有りうるのかという疑問が出てくる。これは建安五年(199年)に自立できなくなって青州へ向かった袁術を迎え撃ちに出たあと、徐州に留まり曹操に背いて独立したときのことが混在しているように見える。しかしこの点については別に一つ可能性が有るので後に考えてみる。

 記述が最も慎重なのが『華陽国志』で、劉備が袁術と戦いに出たところで呂布に裏切られたので切羽詰まって彼に降ったと、最も確からしい歴史の流れ、概要を記すに留めている。陳寿の誤りに気づいたが、訂正して詳述できる資料を持たなかったのだろう。

 そもそも袁術が徐州へ攻め込んだこの時の徐州情勢には、大きな疑問がある。袁術は何故徐州を手に入れることを諦めて呂布に徐州を任せてしまったのかということである。先にも述べたが呂布の軍は一部隊程度であり、規模として最も小さい軍であった。その呂布軍は下ヒを確保するので精いっぱいな筈で、袁術軍が徐州の他の地域(事に徐州西部地域)を接収する挙に出なかったのは不可思議極まり無い。これを解く鍵はどうやら呂布に対する劉備の降伏と献帝の洛陽帰還にあるようだ。献帝の東遷は時期が判っているので論じるまでもない。問題は劉備の降伏が何時の時点で行われたものであったか、である。

 システィマティックではあるものの、流れを読もうとすると途端に錯綜へと迷い込む紀伝体の史書群が織り成す千四百年余年を通史化してのけた驚嘆の史書(ヒストリア・ミラビリス)とも言うべき資治通鑑は、事の次第を劉備が降伏を申し出たところ、呂布は先に袁術が糧秣を好きなだけ給するとしながら二度と送ってこなかったことに怒っていたためその降伏を受容れた。呂布は劉備を豫州刺史に復位してやると共に袁術を撃って(袁術軍を追いだすと?)劉備を小沛に駐屯させた。そして自らは徐州牧を称した。としている。そしてその次の段で三国志の中に裴松之が注する『英雄記』では建安元年6月にあったとされる呂布の部下で河内出身の赫*萌の叛乱が記されている。(通鑑ではこの段の次の段が七月のことを記述してゆくことになるので、通鑑はこれが六月にあったことだと見なしていたと考えていいかもしれない。)

 ところで通鑑には『英雄記』に有る、この赫*萌の叛乱が袁術の内意を受けたもので陳宮も共謀していたと言う記述が無い。後漢書『呂布伝』にはそもそも赫*萌の叛乱に関する記述は無く、呂布は先に袁術が糧秣を好きなだけ給するとしながら二度と送ってこなかったことに怒っていたため劉備の降伏を受容れて彼を豫州刺史にし、自ら徐州牧を号したところ、袁術は呂布が己に害を為すことを懼れ、子で為そうと求婚してきたため(それぞれの子供同士で婚姻を結ぼうと提案してきたため)、呂布は復た之を許した。とある。そして通鑑には後漢書『呂布伝』にある、この太字で記したところが続けられていない。袁術が帝位を窺う記述が間に置かれ、かなり時間が経ったようにしておいてから徐に「袁術は呂布が己に害を為すことを懼れて,乃ち子を為して求婚した,呂布は復た之を許した。」と書き、続けて紀霊が軍を率いて劉備を討ちに向かうことにしている。面白いことに三国志(の本文)では『呂布伝』『袁術伝』共にこの呂布が下ヒを奪った経緯が袁術に使嗾されてのものだとの記述がそもそも無いのである。これは一体どういうことだろうか。

 三国志、後漢書、資治通鑑、彼らの参照していた資料に殆ど変わりはない筈なのに、これ程のバリエーションが生まれる所以はなんだろうか。それはこの徐州を巡る袁術・劉備・呂布のかくも目まぐるしい離合集散に関する因果関係について、それぞれの史書が辻褄を合わせようとした結果、自らの描いたストーリーにそぐわない部分を書かずに済まそうとしたからではなかろうか。

 三国志はそもそもの袁術が呂布をそそのかして劉備の背後を襲わせたという所から書かない。それは其処を描いてしまえば、袁術がどうして其処まで固執していた徐州獲りを諦めたのか説明できないからだろう。

 後漢書はそれについては糧秣を送らなかったことで怒らせてしまっていた呂布があっさり徐州を獲て牧伯まで自号してしまったために、呂布の力を怖れて(徐州獲得を諦め)好みを結ぶことにしたのだと説明している。しかし、後漢書は?赫*萌の叛乱について記述が無い。それを記してしまえば、『呂布の力を怖れて』と言うところに説得力が無くなるからだ。実を言えばこの時点での呂布軍は一部隊程度の軍事力しかない。それに呂布はこのあとも驚くほど少ない軍しか率いていない。(逆に言えば僅か数千の軍だけで一州を保持したのだから『人中に呂布有り』との評判は伊達では無かったとも言えるのだが。)恐らく最後まで呂布の手勢は少ないままだったのだろう。その少ない手持ちの軍の一部が叛乱を起こしたこと、それも先にエン州に引込んだ仲間と言うべき陳宮まで袁術に共謀しての叛乱だったことなど記したなら(袁術が呂布を怖れて慌てて好みを結んだと言う)ストーリーの説得力がまるで無くなってしまう。故に記述されなかったのだろう。

 通鑑は袁術が使嗾して呂布に劉備の背後を襲わせたことを記す。また赫*萌の叛乱も記しているが、『英雄記』に記載されているそれが袁術の内意を受けたこと、仲間と言うべき陳宮まで与しての叛乱だったことについては描いていない。それはそこを記述してしまえば、何故赫*萌が叛乱し、陳宮まで共謀していたのか、それも袁術の内意を受けて、ということへの説明が出来かねるからだろう。何故なら先に劉備の降伏を受容れて徐州刺史に復位させてやったおり、呂布は袁術の勢力を追い払って劉備を小沛へ着けていると、通鑑は記しているからだ。その袁術勢力を追い払った呂布軍の一部がいきなり袁術の内意を受ける事態はどうして成立したのかと言う点が問題となろう。なお、赫*萌の叛乱を記さなかった後漢書と違って通鑑はここで間を空けることで呂布の勢力が安定し、強大になってきたことを暗に示し、それゆえに「袁術は呂布が己に害を為すことを懼れて,乃ち子を為して求婚した,呂布は復た之を許した。」と言うストーリーで事の顛末をつけている。

 こうして見ると、三国志も後漢書も資治通鑑もそれぞれに取捨選択を行っていることが理解できる。一番偏りが少ないのは三国志で、外の第三者から見たらこう見えたという視点で事を記述しているが、これだと唐突に劉備を攻撃したり救ってみたりまたまた攻撃してみたりと何を考えているか分からない呂布という描き方になってしまっており、これはこれで問題のある描き方なのだ。呂布の去就には単に気分の問題というのではない相応の理由があるのだから。

 それでは。これまで記された出来事が総てあったのだとした場合、三書のように取捨選択をせずにこれらを総て受容れた場合、袁術・劉備・呂布が徐州を巡ってどのように動いたとするのが最もらしいのか、そのストーリーを描きだしてみたい。この三書はこれらの辻褄を合わせられずに悩み、それ故にそれぞれの視点でいくつかの記述を取捨選択せざるを得なかったわけだが、それは劉備の去就、呂布への降伏が何時の時点で行われたかをある一時点に置けば解決する。

 恐らく劉備は、赫*萌の叛乱後に呂布へ降伏を申し出たのである。

(つづく)

 

【後漢皇帝の東帰と許遷都】

 

【会稽郡の攻略と孫策の独立】未

 

 197年(建安2年)。

 この歳は帝位僭称と袁術勢力大敗北の歳となった。

 

【袁術帝位に就く】未

 

【対呂布戦争】未

 

【曹操による袁術包囲網の構築とその瓦解】未

 

【もう一つの袁曹決戦(1):袁術、陳国を欲す】

 197年秋、旻天疾く威<ちから>す。天は篤く喪を降し、江淮は蝗害と饑饉に悩む。『詩経』大雅の召旻冒頭の句を髣髴とさせるかのように、この歳の秋、江淮は蝗害が発生して大飢饉に見舞われた。幾つかの史書はこれを袁術の帝位僭称を天が罰したかのように描くが、この大飢饉は僭称の沙汰と何の関係も無い。この歳、江淮に蝗が湧き、飢饉となったのは、前年に行われた徐州戦役と翌年の対呂布戦争が江淮をこれ以上ないほど疲弊させたからである。天が袁術を罰したとするならそれはその帝位僭称を咎めたのではなく、徐州戦役を支えて疲弊した江淮の民に更に戦禍を加え、そのまま捨て置いたことに対してであった。

 蝗が湧いて飢饉となるのは全くの偶然、天災としか言いようがない時もあるが、197年秋に江淮で起きた蝗害と続く大飢饉は、袁術の失政の結果起きた人災である。彼は前年に起きた徐州戦役で生じた民力の疲弊に対し、何の手当てもしなかったと思われる。

 古代中国では日照りや洪水など天災が生じると、天が人主になにか咎があって責めているのだとし、人主もそれを天の警告と受け取り身を慎んだ上で、それから3年(これは理想で実際はその歳のみか、あって翌年まで程度)、その地域での税の徴収をとりやめる。まったく迷信じみているように見えるが、これは周朝以来積み重ねられた経験によって認められた政事の知恵だった。税の徴収をとりやめて(その力を)民に還流させ、災害の傷を癒して荒れた社会基盤の復興整備に充てる。そのようにして民力の回復に努めなければ翌年(或いは翌々年)やってくるのは、間違いなく蝗害である。蝗害による飢饉である。何故か。蝗害は民力が疲弊したところに発生するからである。

 蝗害を引き起こすイナゴは中国では飛蝗と言う。普通のイナゴに比べて褐色で身体が小さく羽が大きい(長い)。飛行する距離は普通のイナゴを遥かに凌駕し、群れ集って土地から土地へ飛行して移り、その土地の緑を喰い尽くす。(飛蝗に見舞われた土地では一切の収穫を得ない。種もみさえないのだから翌年の農作は不可能となる。蝗害の被害が甚大になる理由だ。)ところがこの蝗害を引き起こすイナゴと普通のイナゴは同じイナゴである。同じイナゴが、ある条件で飛蝗形態になり、群れ集い、蝗害を引き起こす。イナゴが普通のイナゴではなく飛蝗形態のイナゴになるのは、生育時の密度が関係している。仲間がうじゃうじゃいる密な環境で成育したイナゴが、飛蝗となるのである。そしてイナゴがうじゃうじゃいるような状態を放置しているのは、民が疲弊していて見かけ上生産性のないイナゴを取り除く労働を棚上げし、自分の生活を確保しようとして他の労働に換え、イナゴのことを捨て置くためである。そこから飛蝗が発生する。

 こうしたことを踏まえてみると日照りや洪水などの災害から蝗害に至るまでの災害連鎖コンボは次のような因果で発生することが分かる。まず旱魃や洪水があり(場合によっては戦争や疫病による荒廃も含まれる)、その地域の緑(生きている農作地)が減少する。その歳のイナゴはそれら少なくなった緑の地にたどり着いて卵を残す。翌年、民力が回復していなければ緑(生きている農作地)は少ないままで、(旱魃の場合は乾いて固くなった荒地を耕作するところから始まる。洪水の場合は壊れた堤防の修繕から始まる。次に雨が降ったらまた洪水に見舞われることが分かりきっているため洪水の被害にあったところは耕作地にならない。また洪水に見舞われた地は石ころが散乱し荒地となる。農地として用いるにはそれらを取り除くところからはじめなければならない。疫病や戦役の場合は人の数が減っている。あるいは戸籍の再調査と耕作地の振り分け直しから始まる。マイナスのところから始まるわけだ。どの場合であれ、回復と言うのは民に余裕が無ければ無理な話と分かる。)生まれたイナゴは少ない緑の地を少しずつ食い荒らしながら育つ。食い荒らしながら緑の地を求めて少しずつ移動する彼らは、やがて小さな川がよりあつまって大河となるように大集団となって少ない緑の地で成長し、密集して最後の脱皮の時を迎える。飛蝗の発生である。(イナゴというかバッタ類は不完全変態と言う昆虫の成長様式を取る。これは成虫と同じような身体の幼虫が何度も脱皮を繰り返し、段々大きくなってゆき、最後の脱皮で完全な成虫になると言うもの。因みに完全変態とは芋虫から蛹を経て成虫になる様式。)発生した飛蝗は他の地へ移動して緑を食いつくし、(一部は)卵を残し、また他の地へ移動して緑を食い尽くし、卵を残し、去ってゆく。更に翌年は、より広い地域で最初の地域と同じサイクルが繰り返される。人の力でこの蝗害を防ぎとめる方法は唯一、民力に余裕を持たせ、大事に至る前に(手作業で)民にイナゴを駆除させ飛蝗を発生させないようにするしかない。それは毎年毎年繰り返し行われなければならない。民力が疲弊すると真っ先に打ち捨てられるが、それは農作の一環なのだ。間接的な寄与の仕方だから民に余裕がなくなると真っ先に投げ出されるが、それは生産なのだ。知者はそこまで目が行き届くから苛烈と言われる法治でも災害の連鎖を発生させずに国力を増大させることができるが、そうでない者はせめて災害が災害の連鎖を呼ばないよう儒教が説く仁政で緩治を行い民に余力を残して置くしかない。漢王朝が皇帝の統治には王道と覇道を兼ねるよう子孫に伝え、大臣以下には仁政を求めたのは王朝の永寧にとって適切な処置だったと言える。そしてここに至って後漢王朝が斃れたのも、民への仁政が失われたからであったと言うのが、この蝗害に見られる災害の連鎖とそのことへの対処と言う点から見て理解できる。

 196年の徐州戦役はおよそ3つの季節にまたがり江淮の地を疲弊させた。すぐ北方のエン州で蝗害が広がっていることを当然袁術は知っていただろう。(先に述べたように蝗害は民力の疲弊を放置するところから生じる。曹操が治めるエン州は呂布の乱が起こる前、疲弊しきった状態にあったと言える。陳宮らエン州の高級官吏たちが曹操に叛旗を翻したのは、こうしたところにも理由があったのだろう。自分が治める州の疲弊を捨て置いて徐州劫略に耽る曹操は州を治める資格がない、と言うわけだ。)とするなら、197年に袁術が行わなければならなかったのは、苛政を改め、徴税を緩めて民力の回復を図り、北方から広がってくるだろう蝗害の予防に努めることであった。しかし袁術は呂布と徒な抗争に力を費やす。

 彼の、後世から見て明日に迫った災害を見取れない行動は愚かしく見えるが、或いは時代がそうさせたのかも知れない。ここで言う、旱魃・洪水・蝗害などの天災は人主の不徳を天が咎めたためで身を正して民に謝し、緩治を布いて更なる天の咎めを避けなければならないと言う、後に災異説として説明される周朝から春秋戦国期に成立した政事上の慣習などは、歴史の中で積み重ねられ真の原理は不明だが実践的対症的処置としては有効であるために災異説のような考え方を理屈として与えられ説明付けられた政事経験知の産物だった。しかしそういった事柄は、儒教が儒学に転じ、所期の実学に沿った政治哲学から一句一句の字義を尋ね論じる煩瑣な経典解釈学へ移る過程で忘れられてゆく。そして同時に迷妄を軽んじ、言葉の力、論理を尊ぶ知性ある人間としての「士大夫」たちからあるいは馬鹿馬鹿しいとして貶され、あるいは儒教を更に高度に理論付けるためにかつてあった慣習から理由付けの部分だけが切り離されて論じられるようになると、元々の(経験知との)つながりや由来を定かでなくされて、経験知の方は消えていったのである。当代の名士・名族を招いた袁術と招かれた袁術のブレーンたちがエン州の災いを他人事として見、自分たちの足元を疎かにしたのは、理由のないことではなかった。

 秋に至り、災害の全容が明らかになって袁術陣営は愕然とする。袁術と彼のブレーンたちが先ず行ったのは、各地を巡察して(臨時)徴発を行うことだったようだ。居巣の県長を務めていた周瑜が部下を引き連れ、県下の富豪たちの下を巡って彼らが溜め込んでいる糧秣を徴発する中、魯粛と出会うのはこの頃のことだろう。勿論、疲弊しきった国内の糧秣をかき集めても更に民力を疲弊させるばかりで先は見えている。どうにもならない。そこで次に袁術が目をつけたのが寿春北西にある、豫州陳国だった。

 陳国には王が封じられていた。陳王劉寵である。彼は董卓の乱の頃、国相許湯に説かれたか豫州刺史孔チュウと共に反董卓連合へ参加し、董卓陣営から廃される。しかし実際に劉寵が陳国を去ったことはなく、董卓陣営から送り込まれた陳郡太守も(董卓側から見ると陳王が廃されて国で無くなったので国相ではなく郡太守の派遣となる)陳へたどりつくことはなかった。(董卓の任命を受けて陳郡太守となった胡軫<こしん>は洛陽を守る関を出てすぐの辺りで孫堅と戦いを交え、部下の華雄を失って戦いに敗れ、逃げ帰った。)陳国の扱いは反董卓連合側の手に帰し、劉寵は彼らからの国相を迎えて陳国を治めていた。二袁の争いの際は袁術側に付いた国相袁嗣が入り、196年春、曹操が袁嗣を降伏させると長安政権が任じた会稽出身の駱俊が国相となった。あるいはこの頃、国相は駱俊と袁嗣の二人が並立しており、袁嗣は陳へ入れず為に武平に駐屯していたのかもしれない。(先にそれは袁術の大戦略に基づいた行動だったと評価したがこういうことだったのかも知れない。とはいえ先に評した戦略が見事だと言うところに変わりはない。) 劉寵はその間、彼らを好きと言うこともなく嫌いと言うこともなく国相として受容れていたようだ。そもそも劉氏の一人として封国されている彼は政治に口出しすることを許されていなかった。後漢末、諸侯王に封じられている劉氏は王朝から正に「封じ」られており、中央政治への参与は許されなかった。食うことに困らずやることのない彼らは色々趣味に耽溺した。劉寵の場合は弩を作って射撃して楽しむと言うものだった。それ以外することのなかった劉寵は自分の趣味に耽って弩を作り溜め込む他は寛治に努める。寛大な統治と言うと聞こえはいいが、単に鷹揚に過ぎたかやる気が無かったか、国相任せでゆるゆるとよきに計らえ、であったかなのだろう。しかし、劉寵のその統治姿勢は陳国に幸いした。陳国の近くで何度か蝗害は起こったが、陳国に波及することは無かったのだ。治め方が緩やかだから民に余力があり、すぐ近くで蝗害が発生しても陳国では駆除されて蝗害と言われるだけの害になり得なかったのだろう。こうした時に民に余力を残す緩やかな統治は威力を発揮する。優れた宰相が全土から集められた情報を握り、透徹した知性で隅々まで目配りし、法家思想に基づいてシステマティックに国家の富と力を再配分するのと比べ、効率は目も当てられないほど落ちるが誰でも災害を抑えることができる。敢えて言うなら、これこそが積み重ねられた『徳』の力と言うものなのだろう。何度もあっただろう周囲の蝗害を退けた劉寵は、そのような意味で人徳の持ち主であり民の安寧をよく保ったと言える。劉寵の趣味が弩だったと言うことも幸いした。一人豊かに保たれる陳国は周囲から見て格好の略奪対象だったに違いない。しかし彼の趣味で蓄えられた数千丁もの最新の彊弩が想像させる軍事力は、周辺の賊ばらが陳国を略奪しようとする心を十分冷え込ませた。陳国は黄巾賊の乱からこの197年に至るまで緩い統治の中、平穏を過ごすことができたのである。

 袁術は劉寵に使いを出し、糧秣の援助を求めた。劉寵は拒んだ。

 

 198年(建安2年)。

 呂布が袁術につき、曹操に滅ぼされた歳である。

 

 

 199年(建安3年)。

 この歳、袁術の命数が極まる。