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【袁術の徐州侵攻作戦と劉備の対応(195年晩冬〜196年晩夏)】

 

 興平二年(195年)年末、袁術は徐州広陵太守に呉景を任ずると徐州へ侵攻した。寿春を出立した袁術軍は領内にある淮水沿いの諸都市、西曲陽、当塗、義成、鍾離などを逐次補給拠点としながら淮水を東に下り、劉備の治める徐州へ攻め込んだ。

 袁術軍の襲来を聞いた劉備はこの時拠点としていた下邳から出立、泗水を下り、下相、淩、淮陰、東陽を逐次補給拠点としながら淮水を遡り、盱台<くい>を前にして袁術軍を阻む。盱台<くい>近傍にあって淮水の北に広がる広大な沼沢地帯と南から淮水を押しつぶすかのように存在する丘陵地帯で挟まれた狭隘な地域を主戦場に設定、戦術としては(様々な策を施した)遅滞戦術を採り、作戦としては盱台<くい>から淮陰までの淮水沿いの回廊様の地域を利用して縦深防御を敷き、抵抗したと考えられる。(作戦行動図1を参照(600kb.PNG)

 袁術軍は下邳の淮陵を抜くのに手間取り(推測)、そのため見す見す劉備に地の利を利用された作戦を採られてしまう。劉備の作戦の前に膠着状態に陥った戦線を打開するため、袁術は呂布を誘って劉備の背後を襲わせる。袁術からの誘いに乗り、呂布は下邳を急襲、陥落させる。劉備は淮陰までは淮水を東に下り、淮陰から下邳までは泗水を西へ遡って急行するが、呂布軍は劉備軍の部下たちの家口を人質としていたため軍が動揺して対抗できず壊滅状態となる。劉備は残兵をかき集めて下邳から離れ、(恐らく)袁術軍の先行部隊によって占拠されていた淮陰(広陵)を強襲、奪って兵站を確保する。

 袁術軍は先行部隊を淮陰に急行して接収させて万一劉備軍が下邳から取って返してきたときに盱台<くい>〜東陽間の回廊地域を袁術軍本隊が抜けるまでの時間を稼ごうとする。(しかしこれは劉備の淮陰強襲によって失敗する。)同時に本隊は盱台<くい>、東陽などを陥落させて回廊地域を制圧し、拠点を確保する行動に出る。 

 淮陰強襲に成功して軍を整え直した劉備は盱台<くい>〜東陽間の回廊地域を抜かれる前に取って返そうとするが、間に合わず、東陽を抜けた袁術軍本隊と開けた場所で戦端を開くことになる。

 劉備軍が下邳へ急行した隙に袁術軍は不期の出来事(呂布による下邳陥落)で動揺著しい盱台<くい>、東陽を抜き、盱台<くい>周辺の地勢と盱台<くい>、東陽といった拠点に扼されて回廊状態となっていた戦域から抜け出すことに成功する。袁術軍は大軍を広く展開させることが出来るようになり、劉備は広く展開された袁術の大軍との会戦を強いられて抗しきれず、敗北、撤退する。(作戦行動図2を参照(600kb.PNG)

 劉備は海西を最終拠点とし沐水と淮水を盾として両河川で囲われた徐州東部(徐州のおよそ三分の一)を保持して抵抗を続ける。袁術は呉景の漸進主義に基づき、淮水南方の諸都市の接収に入る。

 淮水より南にある徐州諸都市を獲た袁術は徐州の他の地域へ食指を動かす。しかし呂布が下邳を確保しているため、下邳を拠点にできず、他地域への進出がままならない。(呂布へ下邳を明け渡すよう求める(推測))

 占領した下邳を自分のものとして明け渡さない呂布に苛立つ袁術は糧秣を供給せず、また呂布軍内にいる河内出身者たち、及び陳宮と謀って内紛を起こさせ呂布の追い落としを謀る。しかしこれは失敗する。(建安元年(196年)6月)

 袁術と呂布の仲に亀裂が生じたのを見た劉備は保持していた地域を担保にして呂布へ降伏を打診する。下邳城一つしか確保出来ていない上に袁術からの謀略が入り込んでいたことで将来の展望が暗かった呂布はこれを受け容れる。呂布は劉備を厚遇することで彼の徐州に対する影響力を後ろ盾にできた。また彼を(政治的)人質とすることで様子見していた他の徐州地域に帰属を求めることができた。結果、徐州獲得に成功する。

 劉備と呂布が結び、突如徐州(袁術が手に入れた淮水より南の徐州地域を除く)が呂布を主に受け容れてしまった事態に袁術は仰天する。せめて淮水以南の徐州(広陵郡)を確保して置きたい袁術は『呂布を懼れて』彼と手を結び、和睦する。

 

 以上の経緯を経て、建安元年秋の段階で袁術の徐州獲得作戦は一旦終了する。