【漢帝国統治白書、あるいは後漢書郡国志に観る帝国の統治状況に関する若干の考察と論評】

 

【後漢の統治形態に関する略式メモ】

 漢朝は全土の統治にあたり秦が設けた郡県制を継承して郡国制を採用した。諸侯王が封じられているかいないかの違いがあるとはいえ、郡国制の実質は郡県制であった。王朝の取った中央集権体制の基本統治ユニットは「県」であった。県の下部組織に郷や里という単位はあるが、王朝の認識は県を基本ユニットと位置づけていたようである。後漢書郡国志で県の数とは書かず「城数」と書いてあることなど、有事にあたり自存できる最小単位を「県」と見ていたことが窺われる。また人物伝に描かれるキャリアの多くが県令(県長)またはそれに次ぐ県丞などから描きはじめられていることからも察せられる。

 以下、行政区画に関して大きなものから小さなものへ列記する。

T.州と州刺史、州牧、司隸校尉

 州は最大の行政区画である。漢は全国を13の州に区画し、内12に刺史、牧を置いた。残る1つは州であって州ではない特別区、司隸である。これは皇帝のいる州であったためで、皇帝が在居する州にそこを治める刺史や牧という呼称の長官がいるのは(皇帝を治めることになるため)都合が悪かったのだろう。ここは司隸校尉が治める。実質は治めていたのであるが、建前は皇帝の統治を代行するということであったようだ。司隸「校尉」という役職名からして皇帝の指揮下にある校尉という軍事職(警察権の行使職)に由来すると考えられるからである。

 刺史と牧には違いがある。州の長官の名称とそれが担う権限は色々変遷があったが、後漢末にいたって刺史は州内にある郡国の監察官、牧は郡を統べる行政官という位置づけとなった。(州牧も監察官の名称であったのだが、後漢末に劉焉が行政権を付与して新たな役目を持たせて州牧を復活させたのである。)刺史が監察官であったという位置どりは、刺史の秩禄からも納得できる。皇帝や王が地方行政官を監察・査察するために派遣する官吏は古今や洋の東西を問わず監察・査察される側に比べて地位が低い。漢もそうであった。秩禄六百石は郡太守の二千石に比べて低く、位階が低いことの証左である。また漢代にかかる人物の伝を見ても刺史職になったあと、郡太守になっていることを順調な出世というように描いていることから、刺史の地位は郡太守に比べて低かったとしてよいだろう。黄巾賊の乱が起こり、劉焉が州牧の復活を提唱した際も、秩禄を本官を以って補うことにしたとあるため、やはり、刺史の位階は低かったと見られる。後漢末、州牧は廃止されていた。州は概ね春秋戦国時代の1国と同等かそれより大きいため、そこに行政権を有する牧を置いておくことは帝国の統治に大きなリスクを抱えることになるためだ。叛乱を警戒したのである。各地に封じられた諸侯王とて叛乱を警戒して郡をもって国として封じているのだから、郡をいくつも束ねた州とそこを視る長官に行政権を与えた場合、万が一叛乱されたら取り返しのつかない事態になりかねない。そういうことであったのだろう。王朝の懸念は後代の諸王朝がまさに州牧に類する職にあったものたちの叛乱で崩壊に瀕したことから全く妥当なことだった。(例:節度使)

 なお、ここに述べた刺史の地位が郡太守に比べて低かったとの見解は、あくまで後漢末までのことである。刺史の地位は後漢末乱世から三国志の時代にかけて徐々に高められてゆき、やがて刺史は郡太守と同じ秩禄を受け、彼等に上する地位になってゆく。

U.郡国と太守、相

 後漢に於ける地方行政の基本単位。漢は郡国制を採用しているため中央政府が直轄する郡と諸侯王が封じられている国とがあるが、その実質は同じものである。(そのため)諸侯王の封地の移動はさほど混乱はなかったと思われる。郡は太守が治め、国は相(国相)が諸侯王の代官として封国を治めるという形となる。京兆と河南は郡ではあるがそこを治める者はそれぞれ京兆尹、河南尹となる。官の名称が違うのは州の時と同じと考えてよい。皇帝が在居する洛陽を含む河南を治めるものは国相が王の代官であるように皇帝の代官としてそこを治めるという形式であったのだろう。京兆に京兆尹がいるのは前漢の時に京都(首都)があったためである。後漢書郡国志に依れば全部で二十七王国相、七十一太守があった。

 郡は下部統治単位である県や邑や道を束ねる。太守と次官である丞、臨時に設けられることが多い軍事警察権を行使する官である都尉を除き、郡の官吏はその郡の出身者で構成される。郡の官吏の筆頭が功曹である。

V.属国と属国都尉

 属国は僻遠の地に郡から県や道を分けて設けられる。北辺の防備を任されていた遼東属国や張掖属国、張掖居延属国などがそれである。しかし益州にある広漢、蜀郡、ケン為の三属国については設けられた理由が遼東属国や張掖属国、張掖居延属国などとは若干異なる面もあると思われる。その理由は後に述べる。

 属国は郡の小さなものと考えて差し支えない。しかしながら属国を統べるのは太守や国相ではなく属国都尉である。「都尉」は郡の中で軍事・警察事を担う役職として設けられた。其の中で固有名詞を得たのが三輔都尉から復活した右扶風都尉、京兆虎牙都尉と、関都尉(後に霊帝によって八関都尉として復活する)である。属国都尉は蛮夷で漢に降ったものの集落(概ねこうした集落があるところは「道」とされる)を治めることが職責とされた。軍事・警察事を担う役職である「都尉」が太守のようなことをしているのにはそうした理由がある。右扶風都尉、京兆虎牙都尉が固有名を持つのは、羌族対策として扶風と京兆に都尉を設ける必要があるとされたためである。

W.県、邑、侯国、道と(県)令、(県)長、侯国相

 県は地方行政の基本単位の一つであり、郡を構成する。県と邑に違いは無い。名称の違いは公主(女性の皇族、王族)の為に化粧、衣装代を捻出する封地として指定された県が邑と称されるだけである。公主が封地を遷されるか死んで封が除かれると邑は県に戻される。侯国は県侯を封じた県のことである。それ以外に県との違いは無い。道は漢に従っている、または降った蛮夷が居留する県(という統治単位)を道と称するものである。

 県を治める長官は県令または県長という。令長の区別は県の規模の大小に拠る。戸数が万以上の県には県令を置き、満たない県には県長を置く。大きな県は他に次官の丞と軍事警察権を担う二人の尉がつく。小さな県は丞のほかに尉が一人となる。侯国を治める長官は相という。もともと由縁が同じであるからなのだろうが国を治める相と名称が同じであり紛らわしい。

X.郷里、その他

 県を構成する下部単位が郷、郷を構成する下部単位が里である。官吏の登用に係る郷挙里選制の拠るところであるが、郷里は中央政府の直接統治するところではない。古代からの村落共同体と中央集権制とが折り合う地点である。

【後漢書郡国志に見る帝国の統治状況に関する考察についての前書き】

 今回、後漢書『郡国志』から城数、戸数、口数といった統計データを抜き出し州ごと、郡ごとに比較した表を作成した。(表:後漢書『郡国志』統計データ

 漢代には一戸あたり五口を単位として税制、統治が行われていたため、先ずは州ごと、郡ごとに一戸あたりの口数(口/戸)を出し、そこに有意な差が無いか見てみた。口/戸を比較してみようと思い立ったのは、三国時代、蜀が滅んだ時の口/戸が3.3口/戸(口数90万、戸数27万)と5口/戸からかけ離れた数値で殆ど崩壊したと言えるほど国力が疲弊していたことを露にしていたことに由来する。そこから後漢末に叛乱や外患が相次いだのはそこの郡県が疲弊していたからではないか、そしてそれは口/戸のデータに顕れているのではないか、という予想を立てたのである。しかし思ったような有意性は見られなかった。そこで今度は後漢末に叛乱や外患が相次いだのはそこの郡が民を掌握しきれなかったのではないかと仮説を立て直し、民を掌握する力を測るものとして一城あたりの戸数、口数を出して見たところ、面白い有意性が出てきたように思ったので、ここに『漢帝国統治白書、あるいは後漢書郡国志に観る帝国の統治状況に関する若干の考察と論評』と題してテキストを遺す。これは後漢書『郡国志』に遺された永和五年(AD140年)のデータから後の後漢末の混乱の要因を解き明かそうと試みたものである。

T.データについて(内憂値、外患値、統治度について)

 表にある内憂値、外患値、統治度は郡国の統治について判りやすくパラメータ化しようとしたものである。書き手のゲームに毒された思考が垣間見えて笑えてくるが、これは飽くまで仮説に基づいて設けられた仮のものである。

 内憂値は1城あたりの戸数及び口数の理想値をそれぞれ8500戸/城、45000口/城としてそれぞれ1対1の重み付けを与えてこの理想値からの乖離状態を示したものである。数値が高いほど内憂状態にあるとする。理想状態は1.00だが、プラスマイナス10%程度は誤差の範囲だろう。外患値は内憂値の逆数である。これは「城」を設備投資と見たてたからで、外からの脅威に曝されている郡ほど少ない人員に対して「1城」を割り当てて県としていると見て定めたことである。これも理想状態は1.00やはりプラスマイナス10%程度は誤差と見ていい。統治度は内憂値と外患値の平均の逆数(×100)である。100が最高値で統治が安定していることを示し、この値から下がるほど統治状況が不安定化する可能性が高く、その対策に多くを費やさなければならない状態にあることを示す。

【北方西方辺境地域の統治状況】

 ここでは涼州、并州、幽州について述べる。まず概括する。一城を何人または何戸に割り当てているか見よう。すると恐ろしいほどの過剰投資に眩暈がしてくる。涼州について辺章,韓遂の叛乱時に涼州放棄論が出たがそれも無理は無い。并州については古今注にあるが、建安二十年になって、雲中、定襄、五原、朔方(郡)を省いて1県を置き新興郡とする処置が取られている。この永和五年段階でもこれらは併せて1万5千戸であって、(4郡を併せているのに)中原の中でも大きな県と同等程度でしかない(のに関わらず併せて32城が配備されている)。三国志の時代にはこれより少ない人員しか掌握できていなかったろうことから考えると、この四郡を省いて1県として(1つの城を割り当て)そのまま郡としたのはコストパフォーマンスの点から見て仕方の無い差配であった。また幽州については、その経営を冀州や青州からの賄いに依っていたことが後漢書『劉虞伝』に描かれており、北辺の防備に裂かれた過剰投資が帝国にとって必要であったと言え大変な重荷であったことが窺われる。

 次に個別に見ていく。

T.涼州

 涼州は全般的に外敵に悩み外敵に備えたものであったと言える。この州は漢陽郡と武都郡が州を支えていた。漢陽郡は州の人口の三割を、武都は二割を占める。ただ内実を見ると、武都は武都道、故道、羌道など異民族居留地を統治していたところが多く、涼州の実質は漢陽郡にあった。辺章,韓遂が叛乱を起こしたとき韓遂は他には(武都などには)目もくれず漢陽に向かって攻め込み、そこを落としてからは三輔に向かって進軍している。(こうした点から見て、韓遂は将帥としてかなりの力量を有していたと考えられる。)また諸葛亮は涼州を一気に獲得する策を諦めると、武都を落として涼州の二割を得ることとし、ついで岐山へ攻め込むがこれは旧漢陽郡の地域であった。

U.并州について

 并州も人口と一城あたりの戸数、口数からみて郡と呼べるのは上党、太原、鴈門だけである。しかしこれらとて併せて中原の1郡となる程度である。

 なお、概括で述べた建安二十年にはるか先立ち、郡国志のデータが採られた永和五年九月以降にはやくも、西河郡の拠点を離石、上郡の拠点を夏陽、朔方郡の拠点を五原にうつしている。やはり并州で人口の少ない郡は、帝国にとって負担であったのだ。

V.幽州について

 さて幽州である。前もって言って置くべきことに遼東郡の口数データに不備があると考えられることだ。これは遼西と全く同じ数値であり、一戸あたりの口数から考えても有り得ない数値である。恐らく遼西のデータをそのまま重ねてしまったのだろう。そのためこの郡については考察することが出来ない。

 この州で触れるべきはたく郡、広陽郡、漁陽郡である。広陽郡は州治(州の治所)があったところであるためか、1城あたりの戸数,口数の点から見てよく整備されている。漁陽郡もよく整備されている。この郡国志から窺えることに、この時、統治と言う点でもっともよく整備が進んでいた州は冀州であったのだが、幽州の広陽郡、漁陽郡も郡が治める総人口は少ないものの1城あたりの戸数,口数が冀州と同等の数値を示している。幽州の他の郡はこれらを守るかのように配されている。ことに広陽郡を上谷郡から切り離しているところからそうした意図を読み取ることが出来る。王朝の統治の意識がよく向けられ、よく手を入れられていたことが窺える。

 例外は涿郡である。幽州の中で最も戸数の多いこの郡は1城あたりの戸数、口数が他の郡から大きく逸脱しており、内憂値が2に近く問題である。帝国がこの郡の内実を把握しきれていなかった可能性を示している。(内憂値が1.5を越えた郡は他に例外なく、騒憂に関わるかその基になっている。)

 このように一城あたりの戸数,口数が大きいことを捕らえて内実を把握しきれなかったと言うのは、城(県)の官吏の員数が決まっているため、彼等が担当する地域の人口が多ければ竹簡と暗記に頼っていた古代にあって、掌握しきれなくなるのは当然だろうとの推測に基づく。電算機とそこに入力され簡単に呼び出し検索し並び替えて比較することが出来るデータベースという代物などなくアナログと人力(個人の能力)に頼る古代では、情報量が多くなればなるほど、それだけより優秀な人間か特殊な才能をもった人間を必要とする。しかし後漢王朝下にあって孝廉制度,郷挙里選制度という、人材選抜システムは、純粋な個人の能力に拠るのではなく、勢力のある豪族に有利に働くようになっていた。彼等とて他の豪族に対する手前もあり当時の最高水準の教育を受けていたであろうから決して無能ではなかったにしろ、群を抜いて優秀であるとは言えなかった。となれば1城あたりの戸数,口数をそこそこに有能な人材であれば掌握できるだけのボリューム(情報量)にしておくことが肝要であったはずなのだ。それなのになぜこのような事態になっていたか。

 表を見れば瞭然のことだが、中原の諸郡国の中で内憂値が高いのは概ね諸侯王の封じられた「国」であった。これが意味するところは諸侯王に問題が無ければ中央政府は無闇にその封地の県を改易できない、そのため県内の人口が増えても再編成できなかったということだろう。また、諸侯王を封ずるにあたり、余程のことが無い限り、その封地は豊かであるよう処置を施したものと考えられる。しかし涿郡の場合は河間孝王開が封じられるにあたって県を分けられているにも関わらず内憂値が高い。(劉開は楽成、渤海、涿郡を分けて封国とされた。<後漢書『章帝八王列伝』>)考えられるのは侯国(統治単位としては県にあたる)の存在である。涿郡には涿迺と范陽の二侯国があった。そうした封国は中央政府の統治下にない。封爵は帝国の気前良さを示すためにかなり(益を)含ませたものであったのかも知れず、それがデータに表れたのかも知れない。しかしそれにしても幽州における涿郡の突出は理解しがたい。(しかしよく問題が生じなかったものだ)

【帝国北辺部の後方支援地域:冀州、青州】

 冀州並び青州は帝国北辺の防備にあたった幽州を賄った後方支援地域である。<後漢書『劉虞伝』>そのため、帝国はこの地域の統治が安定するよう最もよく手を入れていたようだ。一城あたりの戸数を大体7500から8500の間に、口数を45000から50000の間に綺麗に平均させている。ことに冀州は郡の人口もかなり平たくしてあり、どの郡であっても同じ人物なら同じように治められるよう心を砕いていた節が見られる。冀州に配属された郡太守はさぞやりにくかったろう。よその州郡であれば郡ごとのバラツキを理由にもできようが、冀州にあっては隣郡との統治の差(実績)がそのままそれらの太守と自分との能力差として示されてしまうのだから。しかしこれは仕方のないことだろう。幽州を後方支援する役割を負うためにこの州には徹底して安定した統治とそれによって安定的に供給される資物が求められていたのだ。一城あたりの戸数が他の中原諸郡と比べて低く抑えてあるのも、そこそこの人物なら確実に治められるようボリュームを絞ったのだと見ることが出来る。均質均等で確実に掌握できるだけの人口で区画された冀州(青州)諸郡、ここには帝国の腐心ぶりが窺える。また、冀州は中原諸郡に比べて一戸あたりの口数も高めに設定されている。(もちろん青州もそうだが、冀州ほどではない。)一戸あたりの口数の高さは場合場合によって所以が異なるのだが、ここではこのことは、北辺の防備に当たっている幽州の後方支援を担う冀州、青州の民が疲弊して支援を担えなくならないようにとの配慮あって比較的豊かな状態であったことの現れかも知れない。全十三州中、冀州は最もよく、青州はそれに次いで整備された州であった。(一部を除く。)

 なお追記として朝廷が冀州に対して手厚かったのではないかとの情報をここに記しておく。後漢書『順帝紀』に記される永建六年冬十一月の詔勅,陽夏元年甲戌に詔を下したことを見るとよいだろう。帝国は冀州が災害を被るとただちにその歳の田租をのぞいている。この州の安定こそ帝国が北方からの蛮族の侵攻に耐え続けられる要だと認識していたのだろう。

 これらの州にも例外の郡国はある。冀州にあっては、清河、渤海、青州にあっては平原、斉国である。そしてこれらの郡国が後漢末、三国志の開幕にあたって鍵となるイベントに関わってくるのである。

T.冀州

 冀州は全十三州中、最もよく整備された州であった。(一部を除く。)その全般状況は前段で説明し尽くしたため、ここでは冀州にあって例外的に一城あたりの戸数,口数が高い、清河、渤海について述べることにする。

 清河(のちに桓帝の建和二年に甘陵国と改名される)は清河孝王慶が封じられたところである。また渤海はその豊かさゆえに質帝が立つとその父である楽安王劉鴻が改封され王国となったところで、このあと彼が薨去して後嗣がないと桓帝の弟で蠡吾侯の劉悝が後を嗣いで渤海王となる。

 渤海は後漢末の混乱期に董卓が権力を握るとそれを嫌った袁紹が逃げ込んだ地である。史書によってあるいは冀州に奔ったとありあるいは渤海へ向かったとあるため断言は出来ないが、彼が初めから渤海へ向かって逃亡したとするのなら、袁紹と彼に与した仲間たちの慧眼には恐れ入るしかない。渤海に逃げ込まれれば政府側は恐らく彼を探し出せなかったろうからだ。渤海のデータを見ていただきたい。一城あたりの戸数,口数に加え、この地は一戸あたりの口数が8.36口/戸と尋常ではなく高い。これが意味する所は一つの県あたりの人口があまりに多すぎて県の下級官吏が対応しきれず、戸籍の再編が行われず公田の配分がまともになされていないということである。安平も一戸あたりの口数が高いが、ここは一城あたりの口数がすでに他の冀州諸郡と揃えられている。そのため一城あたりの戸数が低くなっている。ここから見て安平はこれから戸籍が再編されてゆく過程にあるのだと推測できる。しかし渤海は一城あたりの戸数も口数も一戸あたりの口数も共に群を抜いて高い。渤海の一戸あたりの口数の高さは他のパラメータと比較したとき、民の豊かさというより寧ろ統治の滞りと混乱を示していると理解できる。その渤海に逃げ込めば、捜査の手が及ばないこと、確実である。郡国志のデータは永和五年(140年)のものだが、渤海はこの後、楽安王劉鴻が改封されてきて王国となって県の整理が行えなくなり、また彼の後を嗣いで渤海王となった桓帝の弟である蠡吾侯劉悝の謀反騒ぎがあったりして、落ち着いて処置を行える状態にない。黄巾賊の乱もあった。状況はさほど改善されていなかったろうと推察される。更に袁紹が逃亡する直前には少帝の弟でその後すぐに献帝となる劉協が渤海王に封じられていてまたまた郡から国への変更が行われていた。政治的にも直近の混乱が期待できた。

 袁紹が渤海太守に任じられたのも理由がある。董卓の傍にありながら袁紹と気脈を通じていたものたちは董卓を説いて袁紹を渤海太守に任じさせることに成功する。渤海は冀州諸郡の中で最も戸数,口数が多いのに、属する県数は比して少なく8県である。他の郡なら十数の県を押さえなればならないが渤海は8県を押さえるだけで郡を掌握できてしまうということである。端から董卓と敵対することを決めていたからこその渤海太守であったと見ることができる。事実冀州牧韓馥の掣肘がなくなり反董卓連合が結成されると袁紹は渤海を出て河内に軍を駐屯させている。広陵太守の張超などは、広陵で軍を集めることもそこから軍を動かすこともならず、殆ど単騎で兄である陳留太守張邈の下へ駆けつけている。ここから考えると、袁紹が渤海に属する諸県を如何に速やかに掌握し、そこから軍を抽出して遥か河内まで進軍してきたか窺える。

 しかし反董卓連合が瓦解するなかその渤海を結局袁紹は棄ててしまう。公孫瓚との争いの過程で彼を恐れて彼の従兄弟の公孫範に太守を譲ったことであるが、かなりあっさり太守の座を明け渡しているように見える。これも理由がある。やはり渤海は混沌としすぎていて保つには困難を伴った、そのため乱を興し兵さえ徴発してしまえば、用済みであったということではなかったろうか。袁紹から渤海太守を譲られた公孫範も渤海から兵を徴発するとそれきり郡のことを顧みていないようにみえる。(当時の混乱も理由の一つではあろうが。)大郡であるのに比べ属する県数が少ないため掌握は容易だが、一城あたりの戸数,口数が高く、一戸あたりの口数が高くて公田の配分が十分でない、つまり統治がなされていないためにそこを保つのが難しい、それが渤海であったと考えられる。袁紹の徒党が彼を渤海太守に押し立てたのも、袁紹が折角得た渤海太守の座を斯くもあっさり明け渡したのも、それぞれに渤海ゆえの理由があったのだと言える。なお、渤海ほど甚だしくはないが同じように一城あたりの戸数,口数の高い郡がこの渤海に隣接していた。同じ冀州に属する清河、州を異にするが青州の平原国、少し離れるが斉国である。そしてこれら内憂値に問題のある複数の郡国が一箇所にまとまって隣接・密集していたことが、一つの問題を引き起こすのである。それは青州の項目で述べる。

U.青州

 青州は全十三州中、冀州に次いで最もよく整備された州である。(一部を除く。)その全般状況はやはりはじめの概括で説明し尽くした。ここでは青州にあって例外的に一城あたりの戸数,口数が高い、平原、斉と青州黄巾賊発生のメカニズムについて述べる。

 青州黄巾賊の名は、資治通鑑では初平二年(191年)夏から秋にかけてのあたりで青州黄巾三十万が渤海に雪崩れ込んだと言う記述で初出される。しかしその初め規模がまだ小さかったころのことは後漢書『孔融伝』に触れられており、董卓が廃立のことを謀ったころに数州で賊が寇をしていたことが分かっている。通鑑でいう初平二年夏から秋にかけて渤海に雪崩れ込んだ青州黄巾が撃退されると彼等は北海にもどったようだ。孔融伝にある冀州から還って来た賊の張饒等が率いていた二十万とはこの渤海で撃退された黄巾賊のことだろう。孔融はこれに逆撃を喰らわせようとして却って敗れたが、しばらくすると『黄巾の為に誤る所となった吏民四万余人が集まってきたため更めて城邑を置いた』とある。暫くは平穏な期間があったようだが、『時に黄巾が復た来たりて侵暴したため』孔融は即ち都昌に出屯、賊の管亥に囲まれるところとなって劉備に救援を要請する。劉備が遣わした兵三千がくると賊は敗走している。

 実は青州黄巾賊はこの段階では徐々にその数を減らしている。当初、青州から渤海に雪崩れ込んだ時には三十万を数えていた。公孫瓚はこれを歩騎二万を率いて東光の南で逆撃し大破、斬首すること三万余級にして、生口七万余人を獲る。<通鑑>この段階で賊は二十万に減っていることになる。実際、後漢書『孔融伝』では冀州から還って来た賊の数を二十万としており、この賊が公孫瓚に敗れた彼の賊であるとすると数はあう。孔融がこの賊に敗れたあと、この集団に従っていたと思しき四万余人が孔融のところにやってきて、彼等を定着させるために孔融は城邑をたてている。賊の数は更に減ったと思われる。それを証明するように、孔融が立て篭もる都昌を囲んだ賊は、劉備が派遣した三千の兵がくると敗走している。賊は確実に減っているのだ。ところが、これが翌年秋にいたって兗州を寇する頃になると黄巾賊は百万を号するようになる。

 問題は清河、渤海、平原、斉という内憂値が高く人口の多い郡国が互いに隣接・密集して巨大な領域を形成していたところにある。青州平原国は冀州の清河並みに一城あたりの戸数,口数、一戸あたりの口数が高い。また斉国は渤海に次いで一戸あたりの口数が高く7.63口/戸となっており問題を抱えていることが分かる。渤海のところで説明したように、一城あたりの戸数,口数、一戸あたりの口数がいずれも尋常でなく高いことは、民を把握しきれず公田の配分が滞り、政が停滞と混沌の極みにあったことを意味する。恐らく初期に渤海へ雪崩れ込んだ三十万は、斉国から溢れた民とその混乱が平原と渤海の平穏を侵し、平原の民もまた渤海・清河へ、そして渤海では南から北へ難民化が波及していった結果生じたものであったと考えられる。そして兗州を寇するに到る百万の青州黄巾賊は、散々に打ち破られた第一波の青州黄巾賊が散り散りばらばらとなって県城ではなく小さな村々を襲い、その村の人々も流民化し、翌年夏になっていよいよ略奪するものがなくなったために県城を落として食料を得ようとして衆を合わせて集まり、食をもとめるに易いところへ、兗州へと流れていったものであろう。このころ冀州は公孫瓚と袁紹の争いが最も激しく、公孫瓚は冀州、青州、幽州の刺史を勝手に任じ、公孫瓚に任じられた県令がそれまでの県令をことごとく追い払う、あるいは公孫瓚を恐れてそれまでの県令が逃げ出すといった様相であった。逃げ出したこれらの官吏が難民を率いていたのは間違いない。後漢書『孔融伝』では『黄巾の為に誤る所となっていた吏民四万余人』と記してあり、こうした難民だか流民だか黄巾賊だかわからないような集団が一部の官吏に率いられていたことを窺わせている。彼らは夏になり、いよいよ食べるものも略奪しやすい所も無くなったため、守りの固い県城を数に任せて攻め落とし、略奪する為に集まったものと考えられる。この集団の中に吏卒が居たのだから、彼らは得られるものがない冀州や青州を捨て、その軍事能力故に(恐らく東海王とその領国を守るために)刺史に任じられた陶謙のいる徐州を避けて、攻めとり易そうな兗州を目指したのだと推測される。

 どのように青州黄巾賊が発生したかについて、それは斉国から始まるとするストーリーをここに描いてみた。しかしお分かりのようにこれには何故斉国から始めたのかが描かれていない。適当に、「らしい」からこのストーリーを作ったのかと言うと、そうではない。斉国から民が溢れたたのは、恐らく東萊の賊乱が波及したのではないかと見ている。

 東萊は青州に属している諸郡国の中で一城あたりの口数が最も少ない。一城あたりの戸数は他と遜色が無いのだから、一戸あたりの口数が低下する。このことは東萊は青州の他の郡国に比べて苛政が敷かれていたか、治安が悪かったことを示している。後に荊州のあたりで触れる予定だが、内憂値の高い郡国に隣接して外患値の高い郡国がある場合、外患値の高い郡国で発生した賊乱は必ずといって良いほど隣接する内憂値の高い郡国に波及し、大規模化する。内憂値の高い零陵,長沙とそこに隣接する外患値の高い武陵の関係などがそれだ。東萊は武陵ほど際立って外患値が高いわけではないし、斉国に直接隣接しているわけでもない。賊寇があってもすぐに鎮圧される可能性の方が高かったと思われる。しかし、時代は董卓に反発して関東諸侯が起った時期であり、これ幸いとばかりに賊乱が頻発した。<三国志『臧洪伝』裴松之注『九州春秋』>そして運悪く、斉国に波及してしまったのだろう。斉国の臨シには刺史の治所が置かれており、そこには青州刺史が居たのだが、その青州刺史が焦和であったことが問題となった。彼は賊に脅えるばかりで為すところを知らず、領域を賊の縱とさせてしまったのだ。そして混乱は斉国から平原や渤海といった、同じように問題のある大郡に波及することになったのだろう。斉国と平原の間には済南国があったのだが、済南国は三国志『武帝紀』に裴松之が註している『魏書』で一部の豪族が民間信仰を利用して暴利を貪っていた様が描かれている。郡国志のデータが採られた頃と比べて情勢が不穏化しやすくなる素地が出来ていたのだろう。偶然と不運に乱の萌芽を孕んだ必然が食われ、大崩壊が生じた。そういうことだったのだ。

 さて。こうして東萊での賊寇をトリガーとして斉国へ、そして平原、渤海、清河へと混乱が波及して百万の青州黄巾賊が生まれたという仮説が出来た。その因果性、論理性を交えたストーリーも披瀝された。で、実際事は東萊から始まったのか?という問いが残る。

 206年、曹操により海賊の管承が討伐を受けて海上の島へ逃れる。彼は東萊郡長広県出身であった。遡って反董卓連合の時代の191年、北海国相の孔融が立て篭もる都昌を囲んだ黄巾賊は管亥であった。そして史書に載るこの二人の名に挟まるように、管統という人物が青州刺史となった袁譚の下で東萊太守や楽安太守を務めていたことが史書に記されている。管氏は東萊(長広県)の豪族であり、管亥はその氏族に属していたのだろう。管亥が管承や管統と同じ管氏に属し、東萊郡長広県出身であることがはっきりすれば尚いいが、それは望むべくもないことだ。不完全ではあるが、これでピースが揃ったとするしかない。

 青州黄巾賊は東萊郡の賊乱によりトリガーを引かれ、斉国から平原、渤海、清河といった内憂値の高い諸郡国に波及した。それらは何れも不安定化しやすい郡国であったのに密集して一つの地域にまとまっていた。それが破滅の規模を大きくした。公孫瓚らにより一旦は砕かれたものの、逆にその為に静かに、一層広く、深く、郡国に浸透してしまった。翌年、蝗が発生するかの如く飢餓に耐え切れず、そして彼ら賊に略奪された民さえ吸収して、彼らは衆を集めて百万を号する大集団と化し、兗州へ流れていったのである。

【次回、【首都圏:司隸】の項目へつづく】