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華陽国志校補図注巻七

劉後主志

後主は諱を禪,字は公嗣という.先主の太子であった.甘夫人が生んだ所である也.襲位した時には年十七であった.

建興元年【223年】夏五月,後主は即位した.(先主の)皇后[呉氏]を尊んで曰く皇太后とした.大赦し,改元した.於[歳](この歳は),旧本は並んで只だ於の字があるだけである.《三国志》に依れば当に歳の字が有るべきだ.茲補.魏の黄初四年,呉の黄武二年である也.

皇后に張氏を立てた,車騎将軍此下には各旧本は並んで張の字が有る.廖本には無い.張飛の女<むすめ>である也.丞相の諸葛亮を武郷侯に封じた.中護軍の李厳に假節(節を仮し),光祿勳を加え,都郷侯に封じ,督永安事とした(永安事を督させた).中軍師にして、衛尉である、魯国出身の劉琰も亦た都郷侯に封じられた.中護軍の趙雲は[征南将軍と為り,永昌亭侯に封じられた.]江州都督の費観,屯騎校尉で、丞相長史の王連,中部督で襄陽出身の向寵,及び魏延、呉懿も皆都亭侯に封じられた.楊洪、王謀等は関内侯となった.南中諸郡が並んで叛乱した.諸葛亮は以て新たに大喪に遭うことになったため,未だ兵を加えるを便じなかった.尚書で何焯過録元豊本には,此下に方圈が有る;示字不明.蓋し《後主伝》では“尚書郎”と作っている.《ケ芝伝》では“尚書”と作っている.昔の人は之を疑った也.今按ずるに,蜀時には尚書令を有しており,任は機衡を總めることだった.其の下に尚書郎が有った,亦た“尚書”と省いて称するのを得る.脱(字)が有るに非ず也.南陽出身のケ芝を遣わして呉に於いて固く好みを(結ばせた).呉主の孫権は曰く:“吾は誠に願うのは蜀と和親することだ.但だ主が幼く国が小さいので,自存しないのではないかと慮っている.” ケ芝は対して曰く:“呉蜀の二国は,[四州]旧本並此“四州”二字.依《ケ芝伝》補.之地です.呉には三江之阻みが有りますし,蜀には重險之固めが有ります.大王は命世之英でありまして,(われらが丞相)諸葛は元豊及び劉、李、銭、《函》には本もと亮の字が有った.張、呉、何、王、浙、石本には無い.一時之【桀】 [傑] です.元豊、廖本は桀と作り,他の各本は皆傑と作る.此の二長を合わせて,共に唇歯と為せば,進んでは天下を兼并することも可ですし,退いては鼎足して而して峙すことも可でしょう.劉、張、呉、何、《函》、王、浙、石は跱と作る.李、廖は本より峙と作る.大王が魏に於いて臣服する如きなれば,魏は則ち上は大王が入朝されんことを望み,其に次いでは太子が入侍することを求めましょう.若し其の従わざれば,則ち叛くのを伐つのだとの辞を奉じることでしょう.蜀は必ずや流れに順い,可なるに見えれば(可能であると分かったなら)而して進むことでしょう.此れの如くなれば,江南之地は復た大王之有するのに非ざることになりましょう也.”呉主は大いに悦ぶと,蜀と和して報い,元豊、銭、劉、李、《函》、廖本作報.呉、何、王、浙、石本作親.張佳胤所改也.使聘歳通(聘問をおこなわせて歳毎に通礼をおこなうこととなった).ケ芝は後に累ねて往った.孫権曰く:“若し魏を滅ぼした後には,二主が分治するというのも,亦た楽しいことではないか乎.” ケ芝は対して曰く:“魏を滅ぼした後のことについては,大王は天命というものを未だ深く識らないようすですが,戦爭がただ方じられて始まるだけです耳.”孫権曰く:芝伝》は“権大笑曰”と作る.“君之誠懇というのは,乃ち此に於けるに至るものなのか.”書を諸葛亮に与えて曰く:“丁宏は芝伝》と銭寫本はと作る.則ち読むこと肱の如し.掞張であり,元豊本此二字不明.銭寫本倒作“丁掞張.”張佳胤加小注云:“《蜀志》宏作.孫権が謂うには丁宏の言は浮豔が多い.”呉、何、王、浙、石本は並んで此注が有る.他の各本には無い.陰化は元豊本は險と作る.他の各本も《ケ芝伝》と同じくして倶に化と作る,李が改める所で,各本は遵んでいるのだ也.不【実】[尽] であった,《ケ芝伝》では尽と作る.二国を和合させたのは,惟だケ芝が有るだけだ.”

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二年【224年】,丞相諸葛亮は開府し,益州牧を領した.事無巨細,咸於亮.諸葛亮は乃ち百姓を撫すと,儀軌を示し,官職を約し,権制を従えた.《三国志‧亮伝》陳寿評語此下有“開誠心,布公道”六字.忠を尽くして時(時勢に)に益した者は,仇と雖も元豊与廖本作仇.他各本作讎.必ず賞した;法を犯して怠慢であった者は,親しいと雖も必ず罰した;罪に服して輸情した呉、何、王、浙、石本作“辞”.者は,(その罪が)重いと雖も必ず釋し;遊辞巧飾な者は,親しいと雖も必ず戮した.善は微かでも而して賞しないことは無く,惡は纖であっても而して貶しめないことは無かった.庶事精練,物は《三国志》は(究を)理と作る.其の本を究めた.循名には責実し,虚偽は不歯(歯牙にもかけなかった).終乎《三国志》は於と作る.封域之内(終には封域の内において<乎>),此の下《三国志》には咸の字が有る.畏れられながら而して之を愛されることになった.刑政は峻しいと雖も而して怨む者は無く,以其用心平、勧戒明也.尚書郎の蔣琬及び広漢出身の李邵、巴西出身の馬【勳】[斉]旧各本は並んで勳と作る.茲拠《三国志‧楊戲伝》は改めて斉と作る.を辟招して掾と為し,南陽出身の宗預を主簿と為したのは,皆徳挙というものである也.秦宓が別駕と為り,犍為出身の五元豊与劉、李本作王.他各本作五.梁が顧広圻校注云:“《贊》、《目》作伍梁.”謂常氏《先賢志》及《士女目》.功曹と為り,梓潼出身の杜微が主簿と為ったが,皆州の俊彦であった也.而して江夏出身の費禕、南郡出身の董允、郭攸之が始まりに侍郎と為って,日月を贊揚したのである.呉は中郎将の張温を来聘に遣わして,ケ芝(の訪問)に報いた也.将に返らんとするに,百官に餞(別)を命じた焉.惟だ秦廖本外各本皆無秦字.宓だけが未だ往かなかったため,諸葛亮は累ねて之を催した.張温が問うて曰く:“彼は何人でしょうか也?”諸葛亮曰く:“益州の学士です各旧本此下有者字.廖本無.也.”至るに及び,張温は秦宓に問うて曰く:“君は学んだのですか乎?”答えて曰く:“五尺の童子も皆学ぶ,何ぞ況んや小人をや?”張温曰く:“天には頭が有るとされますが乎,それは何方に在るのでしょうか也?” 秦宓曰く:此下呉、何、王、浙、石本有“在西”二字.係張佳胤妄掾D《三国志‧秦宓伝》の文は作る:“温復問曰:天有頭乎?宓曰:有之.温曰:在何方也.宓曰:在西.”常氏併作一問,省其答語也.“《詩》は云う:乃ち眷西して顧みる.だから其が西に在るのを知っています.”又た曰く:“天には耳が有るのでしょうか乎?” 秦宓曰く:“《詩》は云わずや乎:鶴は九に鳴き,声は天に<於>聞こゆ.若し其れ耳無くば,何をか以って之を聴くのでしょう?”又た曰く:“天には足が有るのでしょうか乎?”曰く:“《詩》は云わずや乎:元豊本及銭、劉、李、《函》本作“《詩》不云乎”,張、呉、何、王本作“《詩》云”二字.天歩艱難,之子不猶.若し其に足が無ければ,何をか以って之に歩まんか?”又曰く:“天には姓が有るものでしょうか乎?”曰く:“姓は劉でしょう.”“何をか以って之を知るや?”曰く:“其の子(=天子)の姓が劉だからです.”本伝作“天子姓劉”.又曰く:“日が生まれるのは東に於けるや乎?”曰く:“生まれるのは東に於けると雖も,終には本伝作而.西に於いて没するのです.”問に答えること応声が響くが如くであり,そのため張温は大いに敬服したのである.秦宓は亦た尋遷して右中郎将,長水校尉,大司農となった.

三年春【225年】,長水校尉の廖立が朝廷を謗訕したことに坐して,[廃されて民と為り],【改めて】汶山に徙された.各旧本は並んで“改汶山”と作る.按ずるに《三国志‧立伝》は云う:“立を廃して民と為し,汶山郡に徙した.”とあるのだから当に是は旧から脱文が有ったのである,又民為改也.廖立は荊州では<自>,龐統と銭寫本統字.並んで知と見られていたが,而して性は傲侮であった.後に更めて冗散怨望し,故に黜廃を致されたのである.三月,諸葛亮は四郡を南征した,元豊本無以字.弘農太守の楊儀を以って参軍と為し,従行,[署府事].歩兵校尉である襄陽出身の向朗が長史と為って,(丞相)留府事を統めた.秋,南中は平げられた.軍資が出る所となり,国は以って富饒となった.冬,諸葛亮が還ってきて,漢陽に至ると,魏(から)の降人である李鴻と相見えた,(李鴻は)新城太守の孟達が諸葛亮を<於>委ね仰いで已むことが無いと説いた.そこで諸葛亮は北図を方じて,何、王、盧、石本作推.孟達が外援と為るよう招こうと欲し,参軍の蔣琬、従事の費詩に謂いて曰く:“帰させようとして,当に子度と相聞こえるように書をおくるのが有るべきだろう.” [費詩は] 【対して】各旧本は対と作る.誤りである也.当に詩一人とだけ作るべきだ.曰く:“孟達は小子でしょう,昔は事えて威を振るわせたこともあったが,不忠でした;後に元豊と銭、劉、李、《函》、廖本は奉と作る.張、呉本は命と作る,何本は事と作る.《詩伝》に云う:“後に又た先帝に背叛した.”先帝を奉じていたのに,背叛したのです;そうした反覆之人なのに,何ぞ書を与えるに足るというのです.”諸葛亮は答えなかった.費詩は何度か率意して而して言ったため,故に世に於いて凌遲することになった.呉、何、王、浙、盧、石本有小注云:“率意、凌遲語在《蜀書》伝中.”謂陳寿評語中字也.十有二月,諸葛亮が至ると,元豊与銭、劉、李、《函》、浙、廖本作.張、呉、何、王、石本作郡.官は皆道に迎えた,而して諸葛亮は侍郎の費禕に銭寫本誤作諱.参乘するよう命じた.費禕の官は小さく年は幼かったが,士は是に於いて莫不易観(観かたを易えないものは莫かった).

四年【226年】,永安都護の李厳が還って江州を督すことになり,巴【部】[郡]劉、李本作都.に大城を城<きず>いた.元豊本作“城巴郡大城”.

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張、呉、何、王、石本作“還督江州巴郡”,無“大城”字.張佳胤所妄改也.李厳更作大城,見《巴志》.征西将軍である汝南出身の陳到を以って督永安とし(永安を督させると),亭侯に封じた.是歳,魏の文帝が崩じ.明帝が立った.

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五年【227年】は,魏の太和元年である也.春,丞相の諸葛亮は将に北伐せんとして,上疏して曰く:“今天下は三分し,益州は疲弊せり,此は誠に危急存亡之秋というものです也.然るに侍衛之臣には内に於いて懈せず,忠志之士は外に於いて身を忘れ元豊与銭、張、呉、何、《函》、王、浙、石本並作亡.劉、李、廖本同《三国志》作忘.亡字,先帝之遇を追って咸じ《三国志》の原<もと>の表では蓋と作る.《陳志》の原<もと>の表文では“殊遇”と作る,《常志》の旧本は《文選》と同じくして“殊”字が無い.之を原表には於の字が有る.陛下に報いんと欲しております也.此下節刪原表三百六十八字.先帝は臣が謹慎であることを以って,故に崩ずるに臨んで臣に大事を以って寄せられました.原表有也字.命を受けて以来,夙夜に憂い歎いております.原表有“恐託付不效以傷先帝之明”句.故<さきの>五月には瀘(水)を渡り,不毛(の地)に深く入ってきました.今や南方は已に元豊及銭、張、呉、何、王、浙、石本皆作以,劉、李、廖本同《三国志》作已.下句同.以,已故通.定まり,兵甲は已に足りて,当に元豊与廖本作“帥獎”.劉、李、銭、《函》本作“率将”.張、呉、何、王、浙、石本同《三国志》作“獎率”.三軍を帥獎して,北のかた元豊及銭、劉、李、《函》、廖、浙本作平.張、呉、何、王、石本同《三国志》作定.中原を平らげるべし.庶くは駑鈍を竭し,姦元豊及張、呉、何、王、浙、石本同作奸.劉、銭、《函》本作.廖本作姦.字通.凶を攘除せん.銭寫作●.呉、王、浙本作●.劉、李、何、《函》本作凶.字通.克って《三国志》作興.《常志》各本均作克.漢室を復し,還ること元豊本及浙本作于.銭、劉、李、《函》及張、呉、何、王、石本並作乎.廖本作於.旧都に於いてとせん.此は臣が以って呉、何、王、石本無以字.元豊本有.浙本擠刻有.先帝に報い而して陛下に於いて忠たらんとする所であります.原表有“之職分也”為句.願わくば陛下には臣に以って賊を討ち(漢朝を)興復することを託してくださいますよう.原表有“之效”字為句.は,則ち治臣之罪でありますから,以って先帝之靈に告げられますよう.陛下も亦た宜しく自ら謀って,原表文有以字善道を諮諏し,雅言を察納すべきであります.失誼を引喩されて,元豊及廖、浙本作誼.劉、李本同《三国志》作義.張、銭、呉、何、《函》、王、石本作所.以って忠諫之路を塞ぐのは宜しくないことです也.”不宜以下句,原表在“欲報之於陛下”,下,作“誠宜開張聖聴,以光先帝遺徳,恢弘志士之気.不宜妄自菲薄,引失誼”云云.又た曰く:“賢臣に親しみ,小人を遠ざけたことが,先漢が興隆した所以であるのです.小人を昵し,君子をしたことが,後漢が傾き覆った所以であるのです.原表此語在前節文中.作“親賢臣,遠小人,此先漢所以興隆也.親小人,遠賢臣,此後漢所以傾也.先帝在時,与臣論此事,未嘗不嘆息痛恨於桓靈也”.侍中の郭攸之、費禕,侍郎の董允は,原表作“侍中、侍郎郭攸之、費禕、董允等,此皆良実,志慮忠純”.先帝が簡拔して以って陛下に遺された(臣下です).規益を斟酌し,《三国志》と《武侯集》は“損益”と作る.進んで忠言を尽くすのが,則ち其の任であります也.“斟酌”以下句,原表在“忠於陛下之職分也”句下.作“至於斟酌損益,進尽忠言,則攸之、禕、允之任也”.常氏割移如此.宮省之事については,悉く以って之を諮られれば,必ずや能く闕漏を裨補し,広く益する所有るでしょう也.”原表此句上接“以遺陛下”句.作“愚以為宮中之事,事無大小,悉以咨之,然後施行.必能裨補闕漏,有所広益.”常氏改竄如此.可見依《三国志》以回改《常志》者非是.尚書である南陽出身の陳震を以って【中】[尚]旧刻誤作中.茲改,詳注.書令と為し,治中である張裔を留府長史と為し,参軍の蔣廖本は注して云う:“当に琬の字が有るべき.”[琬]【公琰】と府事を知居させた.二月,諸葛亮は漢中に出屯し,沔北、陽平【石】[白]馬に営をきずいた.旧刻各本同《三国志‧後主伝》作“石馬”.劉、李本石作右.茲改白馬,説詳注.鎮北将軍の魏延を以って司馬と為した.

六年春【228年】,丞相の諸葛亮は声を揚げて斜谷道から<由>郿を取りにゆくと言うと,使って鎮東将軍の趙雲、中監軍のケ芝に箕谷に拠らせて疑軍と為させた.魏の大将軍である曹真はを挙げて之に当たった.諸葛亮は身づから大を率いて祁山を攻めた.賞罰は肅され而して号令は明るいものであった.天水、南安、安定の三郡は魏に叛いて諸葛亮に応じ,関中は響震した.魏の明帝は西して長安を鎮めると,張郃に命じて諸葛亮を拒ませた.諸葛亮は参軍で襄

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陽出身の馬謖、裨将軍で巴西出身の王平及び張【休】[沐]元豊及銭、劉、李、《函》本作沐.張、呉、何、王、浙、石与廖本均作休.蓋張佳胤拠《王平伝》妄改.李盛、黄襲等を使って前に在るようにさせたが,諸葛亮の節度に違えて,張郃に破られる所と為った.王平は独り斂して(兵を収拾して)殿と為った.而して趙雲、ケ芝も亦た利なかった.諸葛亮は西県の千余家を抜いて将いると漢中に還り,馬謖及び張【休】[沐]や李盛を戮すと以って(に謝し,黄襲の兵を奪うと,趙雲を貶めた元豊本では作云秩.長史の向朗は以不時臧否,免じられて罷めた.王平を超遷して参軍とすると,位を進めて討寇《函海》作●.将軍として,亭侯に封じ,【軍】五【年】[部軍]を統めさせた.旧刻各本は均しく“五年”と作る.劉、李本は提行し,《函海》本は空格である.皆“統軍”を以って断句としている.李本は並んで“五年”字を改めて“六年”と為している.惟だ元豊と張、呉、何、王、浙本だけが“五年”の字が上下に連なり,足助判断旧本字.顧広圻の校稿では,此上初有眉批“当衍軍字”四字,意謂当読為“統軍五”,又復泐抹,別批云:“按当作部.《三国志‧王平伝》云:加拜參軍,統五部,兼当營事.進位討寇将軍,封亭侯.”署云“澗濱校定”.再復批云:“又考《南中志》云:移南中勁卒青羌万余家於蜀,為五部.平所統者謂此也.裴松之不注,故読者不知其解.”署“又記”二字.広圻別号澗濱老人也.廖寅刻本,於此仍旧文,小註云:“按当衍軍字,年当作部.《三国志‧平伝》云……可證也.五部,……即此五部矣.”全用澗濱説,仍堅持“衍軍字”.今按,軍字非衍.但旧鈔誤倒耳.原当作“統五部軍”.茲改正.諸葛亮は上疏して曰く:“臣は以って弱才でありまして,叨竊するは拠るところに非ず,そのため旄鉞を親しく秉したのに以って三軍を獅オてしまい,章を訓じ法を明らかとすること能わず,事に臨んでは而して懼れ,街亭では違令之闕を,箕谷では不戒之失を有するに至りました,咎は皆臣に在ります.臣は任を授っても方ずることありませんでした.春秋は帥することを責めたとのことですが,職臣(臣がおこなったこと)が元豊、銭、劉、李、《函》、廖、浙本均作“職臣”.張、呉、何、王、石本同《三国志》作“臣職”.是に当たるものです.自ら三等貶め,以って厥咎を督さんことを請うしだいです.”是に於いて以って諸葛亮を右将軍と為し,行丞相事とした.天水出身の姜維を辟招して倉曹掾と為すと,奉義将軍を加え,当陽亭侯に封じた.諸葛亮は元豊本無亮字.長史の張裔、参軍の蔣琬に書いて与えると,姜維を称えて曰く:“姜伯約は西州の上士である,馬季常、李永南も如かず也.”冬,諸葛亮は復た散関に出ると,陳倉を囲んだ.糧が尽きて還った.魏将の王雙が諸葛亮を追ってきた.そこで諸葛亮は合戦すると,王雙を斬った.

七年春【229年】,丞相諸葛亮は護軍の陳式を遣わして元豊と廖、浙本は《三国志‧後主伝》に同じく式と作る.他各本は並んで戒と作る.下に同じ.宋版の《三国志‧諸葛亮伝》も亦た戒と作るが,《後主伝》では式と作る.戒の字はではないかと疑うものである武都、陰平を攻めさせた.魏の雍州刺史の郭淮が出て将に陳式を撃とうとした.諸葛亮が自ら建威に至ったため,郭淮は退き,遂に二郡を平らげたのである.後主は詔をくだし諸葛亮に策して曰く:“街亭之敗については,《三国志》載原詔作役.咎は馬謖にゆえある<由>,而して君は愆を引いて,深く自ら抑損した.原詔作“貶抑”.重違君意,聴順所守.前年には師を耀して,王雙を馘斬した.今歳には爰《函海》本作授.征したところ,郭淮は遯走した.氐羌を降し集め,二郡を興復したのである.凶暴に威を震わせ,功勳は赫然とした.原詔有“方今天下騷擾,元惡未梟.君受大任,幹国之重,而久自挹損,非所以光揚洪烈矣”句.又下文有今字.そこで君を丞相に復す,君よ其れ原詔作勿.辞すこと無かれ.”夏四月,呉主の孫権が称尊したため,衛尉の陳震を遣わして慶問させた.呉は張、呉、何、王、浙、石本無此呉字.蜀と天下を分かつことを約した.冬,漢、楽に城をきずいた.

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八年春【230年】,丞相諸葛亮は参軍の楊儀を以って長史と為し,綏遠将軍を加えた.姜維を護軍,征西将軍に遷した.秋,魏の大将軍司馬宣王が西城から<由>,征西車騎将軍の張郃が子午から<由>,大司馬の曹真が斜谷から<由>,三道をもて将に漢中に攻めこまんとした.丞相諸葛亮は成固[赤阪]に軍した元豊本与廖本作成固.他各本作“城固”,唐以来地書成為城,李因俗改也.此依《後主伝》補.上表して江州都護の李厳(の位)を進めて驃騎将軍とし,二万人を将いらせて漢中に赴かせた.李厳は初め五郡を以って巴州と為すよう求めた.書して諸葛銭寫作先.亮に告げると,魏の大臣である陳羣、司馬懿は並んで開府していると言った.そこで諸葛亮は乃ち李厳に中都護を加え.此上三十一字,応是常氏本注,寫成正文.李厳の子の李豊を以って《巴志》作農.江州都督と為した.大雨があり,道が絶たれたため,曹真等は還った.丞相諸葛亮は以って当に西【北】に[出]征すべしとして,上にある西の字は,銭、《函》二本は先にあるよう作られている.廖本も同じである.元豊以来の各他本は並んで西と作り,而して注で云うに“当作出”謂全句当作“丞相亮以当出北征”也.茲依《李厳伝》,仍定為西,改為“西出征”.下文“復出祁山”,対行府言,在西也.亮核李厳表亦云“臣欲西征”.因って李厳を漢中に留めると,留府事を署させた.李厳は名を平と改めた.丞相司馬の魏延、将軍の呉懿は西して羌中に入ると,魏の後将軍費曜、元豊与《函》、廖本作曜.銭寫作擢.他各本作耀.《三国志‧魏延伝》と《輔臣贊注》は瑤と作り,《曹真伝》は“耀”と作る.《晉書》と《通鑑》は曜と作る.雍州刺史の郭淮を陽溪に於いて大破した.銭寫は谿と作る.今本《三国志‧魏延伝》も同じである.魏延は前軍師、鎮西将軍に遷り,南鄭侯に封じられた.呉懿は左将軍、高陽郷侯となった.魯王劉永を徙して甘陵元豊、銭、劉、李、《函》、廖本作陵.他本作淩.王と為し,梁王の劉理を安平王と為したが,それは皆以って魯、梁が呉に分けたところに在ったが故であった也.

九年春【231年】,丞相の諸葛亮は復た出ると祁《函海》本作祈山を囲んだ.始めて木牛を以って(糧秣を)運んだ.参軍の王平は南囲を守った.司馬宣王は諸葛亮を拒み,張郃は王平を拒んだ.諸葛亮は糧運が継づかなくなることを慮ると,三策を設け劉本誤作榮.都護の李平に告げて曰く:“上計は其の後道を絶つもの.中計は之と持久するもの.下計は還って元豊銭、劉、李、《函》、廖、浙本作住.呉、何、王本作在.何一本作往.黄土に住むことだ.時に宣王等の糧も亦た尽きようとしており,時下六字応是夾注.盛夏であって雨水があった.李平は漕運が元豊与廖本作“漕運”.他各本倒作“運漕”.給しなくなることを恐れて,書して諸葛亮に宜しく振旅すべしと白<建白>した.夏六月,亮承平指引退(諸葛亮は李平の建白を承って退却を指図した).張郃は青何、王、石本は清と作る.封に至ると戦いを交えてきたが,諸葛亮に殺される所と為った.秋八月,諸葛亮は漢中に還った.李平は諸葛亮から運(糧秣の輸送)が辨じないことを以って《函海》与呉、何、王、浙本作辦責められるに見えることを懼れ,督運領の岑述を殺そうと欲した.それからまた驚い(たふりをし)て諸葛亮に何故来還してきたのかと問うた.又た後主に(上)表して諸葛亮は偽って退いてきたと言った.諸葛亮は怒ると,李平を廃して民と為し,梓潼に徙すようにと上表した.また李平の子である李豊の兵を奪い,以って従事中郎と為すと,長史の蔣琬と共に府事を知居させた.この時に費禕が呉、何、王本は禕と作る,下同じである.司馬と為った也.

十年春【232年】,丞相の諸葛亮は士を休ませ農を勧めた.

車騎将軍の劉琰と劉は本より誤って興と作られていた.軍師の魏延が不和となり,成都に還った.秋に旱があり,諸葛亮は練兵講武した.

十一年【233年】は,魏の青龍元年である也.丞相亮は斜谷閣を治めると,谷口に糧(秣)を運んだ.呉本では“谷口”の二字は小字である.

十二年春【234年】,丞相亮は流馬を以って(糧秣を)運ぶと,斜谷道から<従>武功に出て,五丈原に拠ると,司馬宣王と李本衍宣字.渭南に於いて対(峙)した.諸葛亮はことごとに糧が継づかず,志を伸ば使むことないのに患い,乃ち兵を分けて屯田すると,久住之基と為そうとした.耕者雜於渭濱居民之間,百姓は安堵し,軍には焉を私のものとすることが無かった.秋八月,諸葛亮は病に疾むと,軍(中)に於いて卒した,時に年は五十四.《陳志》には “遺命”二字が原有される.還って漢中定軍山に葬られた.塚は棺を容れるに足るだけで,斂めるにその時の服(装)を以ってした.謚して曰く忠武侯.此下補“先是”二字.[是の先]鎮西大将軍の魏延と長史の楊儀は素より不和であった,諸葛亮は既に魏延の勇猛を恃みとしており,又た楊儀の籌畫を惜しむところであったため,不能偏有

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所廃(どちらかに偏ってもう一方を廃すること能わず),常に之に恨恨として,元豊本下恨字作小二.劉本二恨並作小字,比肩.銭、《函》、廖本作二大字.張、呉、何、王、浙、石本作“常恨二人之不平”.為に《甘戚論》を作った.(しかし)二子は(魏延も楊儀も)感じなかった.魏延は常に刃を挙げて楊儀を擬した.楊儀は元豊本無下儀字.涕涙交流した.惟だ護軍の費禕だけが中間にはいって和解させたため,旧各本並作間.終亮之世,尽其器用(諸葛亮の世が終わるまで其の器が用いられるよう尽くされたのである).楊儀は諸葛亮の成規を案じようと欲した,将喪引退(喪を将<ひき>いて引き退くこととし),使って元豊本此下有魏字.魏延に後ろを断たせ,姜維が之に次ぐこととしたのである.魏延は怒ると,軍を挙げて先に【南鄭】に帰らんとし.各相表反(各々が互いにあいてを反したと表した).《三国志‧魏延伝》は作る:“領する所を率いて徑り先んじて南帰した.過ぐる所で閣道を焼き絶やした.魏延も楊儀もおのおのが相表して叛逆したとしてきた.”留府長史の蔣琬、侍中の董允は元豊本有楊字.楊儀を保って魏延を疑った.魏延は逆に銭、劉、李、《函》、廖本作逆.呉、何、王、浙、石本作道.元豊本無逆道字.楊儀を撃とうと欲した.楊儀は平北将軍の馬岱を遣わして劉、《函》二本作武.銭寫作倵.魏延を討滅させた.魏延は自らを以って武幹であるとして,常に元豊本作長.《延伝》作“出輒欲”.数万を将いて別行せんことを求め,韓信の故事に依ろうとしたが.諸葛亮は許さなかった.そこで以って諸葛亮を怯(惰)であるとした.及ち楊儀が将に退こうとすると,費禕を使って魏延に造(?告の間違いか?/告げさせた).魏延は曰く:“公が亡くなったと雖も,吾が見在しているのだ,当にを率いて賊を撃つべきだ.豈に以って一人が亡くなったからといって,国家の大事を廃す可きものだろうか乎.”費禕を使わして報じさせた.楊儀は不可とした.故に楊儀を討とうと欲したのである.以上の六十八字は,原は是れ常氏の本注であったのが,寫を被って正文と成ったのではないかと疑われる.楊儀は諸軍を率いて成都に還った.大赦した.呉懿を以って車騎将軍と為すと,假節とし,督漢中事とした.初め,諸葛亮は密かに後主に上表しており,以って“楊儀の性は狷狹であるから,若し臣に不幸があったなら,蔣琬を以って臣に代える可きです.”としていたため是に於いて蔣琬を以って尚書令と為すと,国事を統させた.また楊儀を以って中軍師と為し,司馬の費禕は後軍師と為し,征西の姜維は右監軍、輔漢将軍と為し,ケ芝は前軍師、領兗州刺史となし,張翼は前領軍となすと,並んで軍政を典じさせた.廖立は汶山に在って,諸葛亮が卒したと聞き,垂泣して曰く:“吾は終に銭、劉、李、《函》四本作於.左衽を為すことになろう矣!”李平も亦た発病して死んだ.初め,廖立、李平は諸葛亮に廃される所と為ったのだが,“安奄沒歯”.按此是廃置時詔語.常に諸葛亮が当に自ずと補復してくれることを冀っていた.策後人不能(後人に策してもそれは能わざるため),故に感憤したのである焉.

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十三年【235年】,尚書令の蔣琬を拝して大将軍と為すと,益州刺史を領させた.《蔣琬伝》は云う:“諸葛亮が卒すると,蔣琬を以って尚書令と為した.俄にして而して行都護、假節、領益州刺史を加えられた.大将軍録尚書事に遷った.安陽亭侯に封じられた.”費禕を以って尚書令と為した.時に新たに元帥が喪われたおりで,遠近は危悚していた.蔣琬は(周囲を)超えて大位に登ったため,既に戚容が無かったが,又た喜色も無かったため,本伝には“神守挙止有如平日”及び“由是”の字が有る.望は漸服する(次第次第に服してゆく)ことになった.侍郎の董允は虎賁中郎将を兼ねて,呉、何、王、石本には統の字が無い.浙本には擠補されている.宿衛兵を統めた.此下に当に脱文一行が有るべき.茲は董允の本伝に依って十九字を補っている.詳らかにして注釋して説く.[甚だ匡救之理を尽くした.蔣琬は以って刺史を費禕及び董允に譲ったが,皆固辞して受けなかった.]軍師の楊儀は,自以年宦元豊及張、呉、何、王、浙、廖、石本作宦.銭、劉、李、《函》本作官,李依《三国志》改也.宋刻《三国志》与《通鑑》巻七十三作宦.宦字不誤.在琬前(年宦であることを以って蔣琬の前に在るのを自ずのこと(当然のこと)としていたため),同じく元豊及張、呉、何、王、石本無同字.銭、劉、李、《函》、廖本有.浙本擠補.《三国志‧儀伝》作.《函海》小注云本作参軍、長史と為ったと雖も,己が常に征伐に勤苦していたのに,《儀伝》作“従行,当其労劇”.更めて蔣琬の下に処すことになったため,【書】で各本并有書字.銭本作空位.廖本小注云“当衍”.怨望.して[書]費禕に謂いて曰く:“公(諸葛亮のこと)が亡くなった際に,張、呉、何、王、浙、石本有小注云:“按本伝云:往者丞相亡歿之際.”吾が当に《儀伝》作若.を挙げて魏に降ったなら,処世は寧んぞ当に此の如くまで落度していただろうか耶?”此下張、呉、何、王、浙、石本有“令人悔不可追”句.元豊本及劉、李、《函》、廖本無.銭寫本には“令人追悔不可及”七字が有る.費禕は《楊儀伝》には密の字が有る.其の言を(上)表した(密かに表した).そこで廃されて漢嘉に徙された.楊儀は又た上書するもの激切なものであったため,遂に楊儀に重辟を行うことになった.呉は以って諸葛亮が卒するや也,此下に銭寫本には又の字が有るが,他本には並んで無い.巴丘の守りを増して万元豊本は万と作る.人とした.蜀も亦た白帝の軍を益した.右中郎の宗預が呉に使いとしてゆくと,呉主は曰く:“東が西に与するや,共に一家を為そうとしてのことなのに,何ぞ以って白帝の守りを益したのか?”宗預は対して曰く:“東が巴丘之戍を増したのですから,蜀も白帝之兵を益したのです,倶に事の勢いからして宜しく然るべきこと,以って相問うに足るようなものではないでしょう也.”

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十四年夏四月【236年】,後主は西巡して,湔山に至ると廖本は注に云う:“当衍”であると.廖本は《後主伝》注が云うのに依っている:“当有観字”であると.茲は取らない,説は注釋に在る.に登って,汶川之流れを観た.武都にいた氐王の符《三国志‧後主伝》と《張嶷伝》は並んで苻と作る.健が降らんことを請うてきたため,将軍の張尉が之を迎えにいったが,期を過ぎても[至らなかった].大将軍の蔣琬は之を憂いた.牙門将で巴西出身の張嶷は曰く:“符健は附かんことを求めて款至してきたのですから,必ずや返滞すること無からん.張、呉、何、王、石本同《三国志‧張嶷伝》作“必無他変”.元豊及銭、劉、李、《函》、廖本作“返滞”.張佳胤好用《陳志》文改《常志》,非是.聞けば符健の弟は狡いとのこと,功を同じくすること能わずして,各将乖離(それぞれが将に乖離してしまったのでしょう),是以稽李本作耳(以って稽うるのを是とする耳<のみ>です).”符健の弟は果たして叛いて魏に就いた.符健は四百家を将いて張尉に随い,広都県に居すことになった.

十五年【237年】は,魏の景初元年である也.夏六月,皇后の張氏が薨じられた,謚して曰く敬哀(皇后)である.是歳,車騎将軍の呉懿が卒した.後典軍で、安漢将軍の【王平】を以って二字当移至“太守”下.漢中太守を領させると[王平]呉懿に代わって督漢中事とした.呉懿の従弟の呉班は,漢の大将軍であった何進の官属呉匡元豊及劉本作●.銭本作●.張、呉、何、王、浙本作●.《函》、廖、石本作匡.以下同.之子である也,名は常に呉懿に亜<つ>ぎ,官は驃騎将軍、持節、郷侯に至った.顧広圻校稿は云う,“(持節ではなく)假節であるし,(郷侯ではなく)綿竹侯である,《三国志‧季漢輔臣贊》陳寿が注する中に見える”,廖本も拠ると以って注を入れている.時に南郡出身の輔匡【光】 [元]顧校稿は批(批判)して云う:“《輔臣贊》では輔元弼、劉南和である.”廖本は注に云う:“当に元と作るべきだ.”弼、零陵出身の劉邕南和も,官は亦た鎮南将軍に至った;潁川出身の袁綝、旧(出された時期が旧い方)の各本は淋と作る.廖本は綝と作る.下(それ以降の本は)同じである.南郡出身の高翔は大将軍に,袁綝は征西将軍に至った.顧校稿は云う:“袁綝、高翔は未見である.”

延熙元年【238年】,春正月,皇后張氏を立てた,敬哀皇后の妹である也.大赦して,改元した.子の劉璿を立てて太子と為し,劉瑤を安定王と為した.典学従事で巴西出身の譙周を以って太子家令と為し,梓潼出身の李譔を僕射と為したが,皆名儒である也.冬十二月,大将軍の蔣琬は銭寫本では琬の字が抜けている.漢中に出屯し,更めて銭、《函》本は夏と作り,他の各本は更と作る.王平を拝して以って前護軍、署大将軍府事とし,尚書僕射の李福を前監軍、領大将軍司馬と為した.元豊本は“大司馬”と作る.他の各本には大の字が無い.旧刻衍,李刪也.

【延熙】何、王二本誤作“元熙”.浙本剜改作延.承上元年,不当有此二字.廖本注云“当衍”.二年【239年】春三月,大将軍の蔣琬(の官位)を進めて大司馬とし,開府するものとした.治中従事で犍為出身の楊【義】 [羲] を辟招して張、呉、何、王、浙、石本小注云“蜀書作戲”.顧校稿与廖本注云“当作羲”.下同.今按:戲、羲古通用.《南中志》旧刻亦誤作義.東曹掾と為した.楊【義】[羲]は性は簡であったため,蔣琬と言いあうとき,時に応答しなかった.旧刻本作荅.王、浙、石本改竹頭.吏が以って慢と為した.蔣琬は曰く:“夫れ人心は同じからず,各々其の面の如きものだ.面従しておきながら後に言いだすのは,古人が戒める所だ.楊【義】[羲]が吾を是耶だと贊じようと欲すれば,則ち本心に非ず;吾が言に反しようと欲すれば也,当読如耶.則ち吾之非を顯らかにすることになる;是が以って嘿然とするわけなのだ.此こそ楊【義】[羲]之快というものだ也.”此下,元豊、銭、《函》本空格.劉本提行.張、呉、何、王、浙本不空,填“又”字.張佳胤依《蔣琬伝》文所填也.填亦是.督農の楊敏は常に蔣琬を毀していった:“作事にあたり憒憒としている.誠に前人に非ざるものだ也.”《琬伝》作“誠非及前人”.《通鑑》作:“誠不及前人”.“前人”指亮.或るひとが以って蔣琬に白した.蔣琬曰く:“吾は信に前人に如かず.”主る者は:張、呉、何、王、石本には白の字が無い.元豊及び他本には有る.浙本は擠補している.“憒憒について張、呉、何、王、石本も又た《蔣琬伝》に拠って之の字を増している.状を(に)問わんことを乞います.” と白したところ蔣琬は曰く:“苟くも其に如ざれば,則ち憒憒とするものだろう矣.復た何ぞ問うのだ也.”張、呉、諸本も又た《蔣琬伝》に拠って改作して“復問何也”としている.也も亦た読むこと耶の如し.後に楊敏は事に坐して獄に下され,人(ひとびと)は以為<おもえらく>必ず死ぬだろうとした.琬心無適莫.《蔣琬伝》では此下に“得免重罪(重罪を免れるを得た)”という四字が有る.是からというもの以って上下は輯ち睦みあい,帰し仰ぐこと蔣琬に於いてとなったのである.元豊本では此下が空格となっている.蜀は猶も治を称えられた.輔漢将軍の姜維は領大司馬元豊、銭、劉、李、《函》、廖本は並んで此の如くにして断句してある.顧広圻校稿は云う:“按ずるに:此は当に司馬の二字を重んじたのだろう.《三国志‧後主伝》を考えると建興十三年夏四月,蔣琬の位を進めて大将軍と為した.延熙二年春三月,蔣琬の位を進めて大司馬と為したとある.《姜維伝》でも:蔣琬は既に大司馬に遷ると,姜維を以って司馬と為した.然るに則ち領大司馬司馬というのは<者>,領蔣琬大司馬之司馬(大司馬蔣琬の司馬を領したということなのだろう)也.伝寫者誤認為複文而去之耳.”廖本拠以入注.茲并補“司馬”二字.[司馬] となった.【是歳】元豊本此二字在“入羌中”下.銭、劉、李、《函》、

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廖本は “西征”を上に移して在る.李も移す所である也.廖本は注に云うに:“按ずるに此の二字は当に下にある魏の明帝が崩じたという文の上に在るべきだ.”西征して,羌中に入った.此下,元豊本には“是歳”の二字が有る.銭、劉、李、《函》本逕連下“魏明”字.廖本亦無“是歳”字,但空格.茲依元豊本補.[是歳]魏の明帝が崩じ,斉王が即位した.劉、李、《函》本此下不提行,逕連“延熙”字.銭、廖、石本空格.張、呉、何、王、浙本則於“蜀猶称治”下提行.并移“輔漢将軍姜維領大司馬西征入羌中”十五字於“正始元年也”句下.

延熙廖本注云:“当衍此二字.”茲以有魏年故,不刪.三年【240年】は,魏の正始元年である也.[以]安南将軍の馬忠が[将張嶷為]越嶲太守【張嶷】を率いて越嶲郡を平らげた.旧刻原無以、将、為三字.“張嶷”二字倒.茲改正.詳注釋.

四年【241年】,冬十月,尚書令の費禕が漢中に至ると,大司馬の蔣琬と諮って張、呉、何、王、浙、石本無諮字.元豊及他各本有.事計を論じた.歳が尽きて還った.

五年【242年】,春正月,姜維は[漢中から<自>]依《後主伝》補.還って涪県に駐屯した.大司馬の蔣琬は以って丞相の諸葛亮が何度も秦川に入ったのに克てなかったため,沔に順い東下して三郡を征そうと欲した.朝臣は咸じて以って不可と為した.安南将軍の馬忠が建寧から<自>朝に還っており,因って漢中に至ると蔣琬に於いて詔旨を宣べた.蔣琬も亦た疾元豊本作病.動くのを連ねたため,輟計した.馬忠を鎮南大将軍に遷し,彭郷侯に封じた.

六年【243年】,大司馬の蔣琬が上疏して曰く:“臣は既に闇弱となり,加嬰疾疹(疾疹を加えることとなっています),元豊与劉、李、《函海》作疹.銭、張、呉、何、王、浙、石本作疢.疹、疢及●音義並同.辞を奉じて六年になりますが,方を規って元豊本作成(果)が無く,夙夜に憂慘しています.今魏は九州を跨ぎ帯び,之を除くのは未だ易くありません.東西に掎銭、李本作犄.角するが如くして,但だ当に蠶食すべきでしょう.然るに呉は期すこと二三あれど,連ねて克ち果たせませんでした.輒ち費禕、馬忠と議してみましたが,以って涼州は胡塞之要<かなめ>を為しておりますから,宜しく姜維を以って涼州刺史と為させ,河右を銜え持たせますよう.今涪は水陸が四(方に)通じておりますから,惟だ是に赴けるよう急がせるだけです,東北之便については,張、呉、何、王、浙、石本同《琬伝》作“若東北有虞”.之に応じるのは難しくないでしょう.銭、《函》本作艱.冬十月,蔣琬は還って涪を鎮めた.王平を以って鎮北大将軍,督漢中事と為した.姜維は鎮西大将軍、涼州刺史となった.十有一月,大赦があり,尚書令の費禕が大将軍、録尚書事に遷った.江州都督のケ芝が車騎将軍に就遷した.

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七年閏月【244年】,魏の大将軍曹爽、征西将軍の夏侯玄が蜀を征さんとしてきた.按ずるに,当に《劉敏伝》に依って文は“襲蜀”と作るべきだろう.王平は白して:張、呉、何、王、石本には白の字が無い.元豊と銭、劉、李、《函》、廖本には有る.護軍で零陵出身の劉敏と元豊、銭、張、呉、何、王、浙、石本は拒と作る.距も、拒も古には通用していた.興勢囲に距ろうとした.大司馬の蔣琬が病に疾んでいたことを以って,大将軍の費禕に節を假し,軍を率いさせて成都から漢中に赴かせた.呉、何、王、石本有“捄魏”二字.《函海》注云“本作禦魏”.他本無.旌旗が路を啓き,何、王、浙、石本作“起路”.馬や人が《禕伝》作“人馬”.擐甲し,羽檄が交馳し,鼓を厳めて将に発せんとしたおり,《禕伝》作:“厳駕已訖”.光祿大夫で義陽出身の《函海》誤作楊.来敏が囲ソを共にせんことを求めてきた.呉、何、王、浙、石本作碁.費禕は意を留めて博弈し,色は守って(顔色は平静を保って)自若としていた.《禕伝》作“留意対戲,色無厭倦”.来敏は曰く:“聊<わたし>は君を試みただけのこと耳.君は信<まこと>に人たる可し,必ずや能く旧各本作辦.廖本同《禕伝》作辨.賊者を辨じるでしょうな也.”比至(まさに至ろうとしたときに),曹爽等は退いていった.鎮南将軍の馬忠に命じて劉本作中李本作守.尚書事を平らがせた.夏四月,安平王が卒し,子のMが嗣いだ.呉本作“安平王子M卒”.何、王、石本同.浙本剜改,誤作“王率”.秋九月,費禕が還ってきた.大司馬の蔣琬は病を以って,【故】[固]元豊与廖本作故.他各本並同《三国志‧禕伝》作“固”.州職を費禕、董允に於いて譲った.是に於いて費禕は【大将軍】を加えられ旧本並有此三字.当衍.益州刺史を領することになった.董允は輔国将軍を加えられ,守尚書令となった.《董允伝》では“六年に輔国将軍を加えられた.七年に侍中を以って守尚書令となり,大将軍費禕の副貳と為った.”と作る董允が朝に立つと,色を正して中に処したため,上は則ち主を匡し,下は司を帥した.時の蜀人に於いて諸葛亮、蔣琬、費禕顧観光校戡本依《允伝》補琬、禕字.及び董允を以って四相と為した.一号には《函海》作“四英”ともいう.宦人の黄皓は便僻佞慧であったが,董允を畏れ,敢えて非を為さなかった.後主が採擇を欲すると,元豊本作“擇后”.張、呉、何、王、浙、石本此下有小注云:“按《蜀志》云:後主欲採擇以充后宮.”董允は曰く:“妃后之数は,十二を過ぎる可からずです.”本伝作:“古者天子后妃之数,不過十二.”董允は嘗て銭、劉、李、《函》、王、浙、石本作常.呉、何本作嘗.[典]軍で(【軍典】)廖本は倒作して軍典としている,似,不取.茲依銭本作典軍.義陽出身の胡済、大将軍の費禕と共に遊宴を期したことがあり,

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命じて駕して将に出かけようとした.そこに郎中で襄陽出身の董恢が董允に脩敬を造ろうとしにきた.しかし(彼らが出かけるということだったため)自ら以って官が卑しく[年が]少なきことから,張、呉、何、王、石本作年少.元豊及銭、劉、李、《函》、廖、浙本並無年字.《允伝》云:“恢年少官微.見允停出,逡巡求去.”当有年字.索去せんことを行って求めようとした.張、呉、何、王、石本此又作“求去”二字.浙本作“行求去”三字.董允曰く:“本より出る所以であったのは<者>,欲同与好劉、李、廖本作“同与好”.元豊及他各本皆同《三国志‧允伝》作“与同好”.遊談耳(仲間と遊談に興じようと欲していただけのこと).君以【已】呉本《董允伝》に同じく已と作る.自屈,方展闊積(君が以って【已に】自ら屈してやってきたからには,積を展闊せんことを方じてのことだろう).それなのに此れを舍して彼に就くのは,謂う所に非ずというものだ也.”というと驂を解いて駕を止めるよう命じた.董允が<之>士に下り物に接すること,皆此の類であった也.君子は以って為すに周公之徳が有るとした.呉本“之徳”二字作並排小字.元豊本此下空十三格.

八年秋【245年】,皇后の呉氏(先主の皇后で後主にとっては皇太后にあたる)が薨じられた.謚して曰く穆(后)である.此下,元豊本には六つの空位が有る.冬十有一月,大将軍の費禕が漢中に行軍した.

九年【246年】,夏六月,費禕が成都に還ってきた.秋,大赦した.司農の孟光が費禕を責して曰く:張、呉、何、王、浙、石本同《光伝》作“於中責禕曰”.“夫れ(大)赦というのは,偏枯之物であって,明世が宜しく有すべき所のものに非ず也.張、呉、何、王、石本同《光伝》無之字.浙本擠補之字.今主上は賢仁であらせられ,百寮が称職しているというのに,何の旦夕之急が有って,何度も非常之恩を施し,以って奸軌元豊与劉、李、《函》、廖本作軌.銭、張、呉、何、王、浙、石本作宄.二字古通.之惡に恵んでやるのです.上は天時を犯し,下は人の理に違えるもので,豈に之が高い美を具え瞻じるものでありましょうか,明徳に於いて所望されるものでありましょうか哉?”費禕は但だ焉を顧謝するだけだった.初め,丞相の諸葛亮の銭、《函》二本無亮字.時(世)に,公は赦を惜しむ者であるとの言が有った.諸葛亮は《函海》本無此字荅して《函》、王、浙、石本作答.曰く:“治世とは大徳を以ってするもので,小恵を以ってするものではない.故に匡元豊本作●.衡、呉漢は赦を為すことを願わなかったのだ.先帝も亦た言っておられた:吾は陳元方、鄭康成の間を周旋したが,まいまい見啓告,治乱之道【備】[悉]裴注引作悉.矣(治乱の道を[悉く]【この劉備に】啓告してくれるのに見えるも<矣>),元豊、銭、劉、李、《函》本無矣字.曾て劉、李本作嘗.赦について語られなかった也.景升、元豊本作昇.季王父子の若く,歳歳赦し宥めていたなら,何ぞ治に於いて益することあろうか?”故に諸葛亮の時には,軍旅が屢興したが,[赦は]元豊及廖本無此赦字.他本有.妄りに下らなかった也.諸葛亮が沒して後より<自>,茲制して遂に虧となったのである.蜀は初め三司之位を闕いて,以って天下の賢人を待った.其の卿呉本誤士は,皆勳徳融茂した:太常の杜瓊は,学に通じ行は脩められた;衛尉の陳震は,忠に惇く篤く粹した;孟光は,諸葛亮が直ちに著聞するところとなった;皆良幹というものであった也.但だ孟光だけは好指擿張、呉、何、王、浙、石本は摘と作る.字が通じている.利病(利病を指摘するのを好んだ).大呉、何、浙本は太と作る.一何本は大と作る.長秋で南陽出身の許慈は,普く此下,宋、明の旧本は並んで一つ小の闕字が有る.其下,元豊本は三格を空け,銭、劉、李本は五格を空け,又下に並んで性の字が有る.張、呉、何、王、浙、石本には空きがなく,“載籍掌典旧文”の六字が有って,性の字が無い.[旧文を記したが,矜]性(その性から成を矜った?);茲が《三国志‧許慈伝》に依って五字を補った.注釋で詳らかに説いておく.光祿の来敏は,此下張、呉、何、王、浙、石本には“荊楚名族東宮耆宿以”の九字が有る.他の各本には無い.挙措を慎まず,失勢事者指;此の廖刻は元豊本の旧文に依る,銭、劉、李、《函》も同じである.張、呉、何、王、石本には“失勢事者”の四字が無く,“前後数貶”と改作してある,仍有指字.浙本剜改従旧刻.当世の美名であったが,特進に及ばなかった.太常で広漢出身の鐔承、光祿勳で河東出身の裴雋は,元豊、銭、劉、李、《函》、廖本作雋,他本作.字通.[年資皆在其後,而登拠上列,蓋以此]也.旧刻也字上有.茲依《許慈伝》文補十四字.注釋で詳らかに説いておく.其の朝臣といえば:尚書で巴西出身の司学、義陽出身の胡博,僕射で巴西出身の姚呉、何、王、浙、石本作佃.侍中で汝南出身の陳祗が,並んで事業を讚えられた.呉、何、王、浙、石本作贊. [左将軍の向朗は]以って故の丞相長史であった【向朗は左将軍と為ると】[顯明亭侯に封じられて,位特進となった.]旧刻訛奪.茲が《向朗伝》に依って訂正した.並んで八字を補った.注釋で詳らかに説いておく.向朗は長史を去ってから<自>,優遊して事<つか>えること無く,乃ち経籍を鳩合し,門を開いて士を誘うと,李本無此二字.古義を講論して,世務に預からなかった.是だからこそ以って上は執事から<自>,元豊、銭、劉、李、《函》、廖本作事.張、呉、何諸本は《向朗伝》に依って政と改作している.下は童冠に及ぶまで,宗敬しないものとて莫かったのである焉.冬十有一月,大司馬の蔣琬が卒した,謚して曰く恭侯である.【中】[尚]書令の董允も亦た卒した.蜀郡太守で南陽出身の呂乂を超遷して(序列を飛び越えて遷し)《函海》本は又と作る.尚書令と為した.姜維を進めて衛将軍と為し,大将軍の費禕と並んで録尚書事を与らせた.【姜維は隴西に出ると.魏将の郭淮、夏侯霸と戦うと,之をした】.“与魏

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将”の下に劉、李本では“軍”字が有る;“”銭寫は剋と作り,他本では“克”と作る.按ずるに上の十五字は,《三国志‧姜維伝》と《郭淮伝》では皆当に延熙十年に在るべきものである.疑うらくは旧伝寫者が妄りに以って《後主伝》では是年には未だ此事が著されていないとして,改移したものであろうか.茲訂正.

十年【247年】,[将軍姜維が隴西に出て,魏将の郭淮、夏侯霸と戦って,之に克った.]涼州の胡王である白虎文、治無戴等がを率いて降ってきたため,【銭、《函》二本は誤って魏と作る.将軍の姜維は】旧刻は訛乱しているため,茲訂正(正しいものに訂正した).之を繁県に徙した.汶山の平康夷が反したため,姜維は復たも之を討ち平げた.【過ぐるおり廖立に見えると,意気は自若としていた.】此の旧鈔というのは<者>注が正文に誤入したものと批評する.当刪.説詳注.姜維は還ると,假節(をかされることになった).

十一年【248年】,鎮北将軍の王平が卒した.中監軍の胡済を以って即ち上(表)文にある典軍で義陽出身の胡済のことである.驃騎将軍と為し,假節(をあたえ/節を假し),兗州刺史を領させ,王平に代えて督漢中事とした(漢中事を督させた).王平は始まるに軍武から出たものであったため,大いに書を知らなかった,張、呉、何、王、浙、石には小注で“按本伝云:手不能書”と云うのが有る.性は警朗であったが,思理を有したため,馬忠と並んで事績を垂することになった.王平と同郡の勾張、呉、何、王、浙、石本同《三国志》作句.下“句安”同.扶も,亦た果たして壮<さかん>であったため,王平に亜<つ>ぐものとし,官は右元豊、銭、劉、李、《函》本作右.張、呉、何、王、浙、石本も《三国志》と同じく左と作る.茲仍旧本.将軍に至り,宕渠侯に封じられた.後に張翼と襄陽出身の廖化も並んで大将と為った,張、呉、何、王、浙、石本は裴注が引いているのと同じく軍の字が有る.故に時の人は語を為して曰く:“前には何、勾が有り,裴注引は“王句”と作る.後には張、廖が有る.”王平は本もとは外家である何氏に養われた(そのため何平をなのっていたのだが).後に復姓したのである.夏五月,大将軍の費禕が漢中に出屯した.[秋,涪陵属国の民夷が反したため,車騎将軍のケ芝が往って討って,之を平げた.]此は《後主伝》に依って補った.陴与《巴志》にも相応している.

十二年【249年】は,魏の嘉平元年である也.魏が大将軍曹爽を誅したため,右将軍の夏侯霸が来降してきたため,(彼は)夏侯霸淵の子である也,拝して車騎将軍とした.四月,大赦した.秋,将軍の姜維が雍州に出たが,克てなかった.将軍の勾安、李韶が《三国志‧陳泰伝》は歆と作る.魏に降ることになった.

十三年【250年】,将軍の姜維が復た西平に出たが,克てずに而して還ってきた.

[十四年【251年】夏,大将軍の費禕が成都に還った.冬,復た北して漢寿に住んだ.大赦した.]《後主伝》に依って補った.[尚書令の呂乂が卒した.侍中の陳祇を以って守尚書令とし,鎮軍]元豊及び銭、劉、李、《函》、廖本は並んで軍と作り,張佳胤は改めて《三国志》に従って東と作る.[将軍を加えた]此上の二十字は,原<もと/原文>では十五年のところに刻在している,茲依《呂乂伝》に依って此年に<於>移した.

十五年【252年】,呉主の孫権が薨じ,子の孫亮が立った,来【告】赴.[弔](之)(孫権の薨去を告げに来たので之に弔すべく赴いた)元豊与廖本無此字.他各旧本並有之字.王本之字連上斷読,並非.茲補弔字.古義の如くした也.子の劉jを立てて西河王と為した.大将軍の費禕に開府するよう命じた.【尚書令の呂乂が卒したため,侍中の陳祇を以って守尚書令とし,鎮軍将軍を加えた.】二十字は当に十四年に在るべきだ.

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十六年【253年】,春正月朔,魏の降人郭循が元豊、張、呉、何、王、浙、石本は循と作る.銭、劉、李本は脩と作る.《函海》は修と作る.賀会に因って,大将軍の費禕を漢寿に於いて手づから刃殺した.謚して曰く敬侯.費禕は国に当たって,名略は蔣琬と比べられ,而して任張、呉、何、王、浙、石本は功と作る.業を相継ぐことになった;外に於いて典戎したと雖も,慶賞刑威咸咨は己に於いて(おこなわれた);諸葛が成した規を承り,因って循として革めず,故に能く邦家和壹したのである.元豊及銭、李、《函》本作壹.劉、張、呉、何、王、浙、石本同《三国志》作一.費禕が歿して後より<自>,閹宦が権.を【秉】[并]旧各本作并.廖本改秉.顧観光云,“秉,原誤并”.今按:并字不誤.詳注釋. することになった将軍の姜維は才は文武を兼ねると自負し,加えて西方の風俗に練していたため,謂うに隴より<自>以西は制して而して有す可きものとしていたが,費禕は常に[之を]裁制していた張、呉、何、王、浙、石本此下有“不従”二字.,是に至って【費禕】が無くなったため[憚ること無くなったため]廖本は禕と作り,銭本は憚と作る.師旅を屢出することになったが,功績は立たず,政刑は失錯したのである元豊与張、呉、何、王、浙、石本は措と作る.錯は,亦た読むこと措の如し.故より通じている.矣.四月,姜維は数万を将いて南安を攻めた.魏の雍州刺史の陳泰が之を捄した.姜維は糧が尽きて還った.

十七年【254年】は,魏の正元豊与銭、劉、李、《函》、廖本作正.張、呉、何、王、浙本作征.元元年である也.春,将軍の姜維が督中外軍事となった.大赦した.夏六月,姜維は復たも隴西に出た.魏の元豊と廖本は魏の字を作る,他の各本は皆“隴西”の二字を重ね,魏と作らない.当に元豊本に従うべきだろう.狄道長である李簡が県を挙げて降った.姜維は襄武を囲んだが,魏の大将徐質が之を捄した.《姜維伝》は云う:“魏軍が敗退した.姜維は勝ちに乗じて降し下す所多かった.河間、狄道、臨洮を抜いて三県の民が還ってきた.”此は当に脱けが有る.姜維は狄道、河【間】[関]顧広圻校稿云:“《三国志》作間.《通鑑》同.胡三省曰当作関.”廖本拠以入注.茲并改.臨洮を抜くと三県の民を蜀に入れ,|竹及び繁に於いて居させた.是歳,魏帝【斉王】[芳]が廃され,高貴郷公が即位した.旧各本は倶に祚と作る.廖本は改めて位と作る.

十八年【255年】春,将軍の姜維が復た元豊と銭、劉、李、《函》、廖、石本は倶に復と作る.張、呉、何、王、浙、本は出と作る.顧広圻の校稿は云う:“《三国志》の文である也.”蓋し《張翼伝》にある“維議復出軍”の句を指しているのだろう.出征のことを議した.征西大元豊本無大字.将軍の張

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翼は廷爭して(朝廷で争って),以って【小】国なのだから[国は小さいのだから]元豊と廖本は“小国”と作る.他の各本は皆《張翼伝》と同じくして“国小”と作る.張翼は自ら小国と云うのは不当である.“国小”と作るのが是であろう.黷武するのは宜しからずとした.しかし姜維は聴きいれず,夏,車騎将軍の夏侯霸及び張翼を率いて狄道に出ると,魏の雍州刺史である王経を洮西に於いて大破した.王経のは数万が死んだ.王経は退くと狄道城を保った.張翼は曰く:“可矣!(もういいでしょう!)進むは宜しからず.或いは此の成功を毀<こ>わすことになるやも,蛇を為して足を畫すことになりましょう.”《張翼伝》では“止める可きです矣.復た進むは宜しからず.進めば或いは此の大功を毀さんか.姜維は大いに怒って曰く:蛇を為して足を畫すということか.”と作る蓋し張翼(の言葉の中に)は先ず為蛇畫足の語が有ったのだろう.姜維は之を承ると以って悍然として必ず為さんことを示した.姜維は必進した.魏の征西将軍である陳泰が狄道に捄した.姜維は退いて鍾題に駐まった.

十九年【256年】は,魏の甘露元年である也.春,将軍の姜維(の官位)を進めて大将軍と為した.秋張、呉、何、王本には秋の字が無い.他の旧本には有る.浙本擠補.八月,姜維は復た天水に出て,上邽に至ったが,鎮西大将軍の胡済が期を失して《三国志‧維伝》作誓.至らず,魏将ケ艾に大いに破られる所と為り,死者は元豊と銭、劉、李、《函》、廖本には甚の字が無い.他の本には有る.張佳胤補也.(甚だしいものとなった).士庶(士人も庶民も)は是ゆえに姜維を怨み,而して隴より以西も亦た寧歳すること無かった.冬,姜維は還ると,《後主伝》作“維退軍還成都”.過ちを謝して負を引き(引責して),自ら貶削されんことを求めた.是に於いて以って姜維を後将軍と為し,行大将軍事とした(大将軍事を行わせた).銭、劉、李本には事の字が無い.他の各本は《姜維伝》と同じく有る.子の劉瓚を立てて新平王と為し,大赦した.

二十年【257年】春,大赦した.魏の征東大将軍の諸葛誕が淮南を以って叛き,呉と連なった.魏は関中の兵を分けて東下した.後将軍の姜維は復た駱谷から<従>長城に出て,芒水に軍すると,魏の大将【軍】廖本には“軍”字が有る,他本には無い,当に有るべきでない.司馬望、ケ艾と相持した.

景耀元年【258年】,姜維は諸葛誕が破れたことを以って,退き.成都に還って,復た大将軍を拝した.史官が景星が見えたと言ってきた.大赦し,改元した.宦人の黄皓は尚書令の陳祗と相表裏となり,始めて政に預かった.黄皓は黄門丞から<自>今年に至って奉車騎宋、明、清刻本は倶に騎と作る.銭寫本は《三国志》と同じく都と作る.尉、中常侍と為った.姜維は陳祗の右に班在すると雖も,権任は如ざるものであった.蜀の人びとで董允を追思しない者は無かった.時に兵車は久しく駕しており,百姓は疲弊していた,太呉、何、王本作大.中大夫の《三国志》作“中散大夫”.譙周は《仇国論》を著すと,文王と為る可くも,漢祖と為るは難いと言った.しかし人で焉を察するものは莫かった.征北大将軍の宗預が永安から<自>徴され,鎮南顧広圻校稿云:“《三国志》を考えると,是は鎮軍大将軍である.此は恐らく誤りだろう也.”廖本は注に云う,“当に軍と作るべき,《三国志》に見えるためだ”.今按ずるに,《常志》と《陳志》は恆多歧互.往往能證《陳志》之.時には陳祗が尚書令と為って鎮軍大将軍を加えられていた則預不能亦為鎮軍矣.“鎮南”の字は誤りではない.詳らかにして注釋に説いておく.将軍を拝し,領兗州刺史とされた(兗州刺史を領することになった).襄陽出身の羅憲を以って【鎮】[領]《晉書の羅憲伝》に依って改める.《巴志》も亦た“領軍”と云っている.軍と為し,督永安事とした.呉の大臣が其の主である孫亮を廃し,孫休を立てると,来て難を告げ,如同盟也.大将軍の姜維が議して,以って為すに:“漢中の錯守諸囲は,敵を禦ぐ可くに適うも,大利を獲ない.不若退いて漢、楽二城に拠って,穀を積みあげ堅壁するに若かず.敵が平に入るを聴きいれて,顧校稿云:“広圻按,後作坪.”且つ関を重ねて鎮守して以って之を禦がせれば【大】[之]廖本注云:“当作之,句.見《三国志》.”茲拠改.敵は関を攻めて克てず,野には散穀とて無く,千里に懸糧しているのだから,自然と疲れて退くことだろう.此こそ殄元豊本作餌.敵之術というものだ也.”としたため是に於いて督漢中の胡済は漢寿を守し,将軍の王含が楽城を守り,護軍の蔣【舒】[斌]《函海》本の注は云う:“《蜀書》の蔣琬、姜維の二伝では倶に蔣斌と作る.”顧広圻の校稿も亦た註して“斌”字としている.廖本の注は云うに:“当に斌と作るべき,《三国志》を見よ.”が漢城を守ることになった.又た西安、建威、武街)当に“武街”と作るべき.石門、武《函海》本では武の字が脱している.城、建昌、臨遠に於いて皆囲守を立てることにした.

二年【259年】夏六月,子の劉ェを立てて北地王と為し,劉恂を新興王と為し,劉虔を上党王と為した.征西の張翼を以って左車騎将軍と為し,領冀州刺史とした.広武の督であった元豊本無督字.顧広圻校稿云“当有督”.廖化を右車騎将軍と為し,領并州刺史とした.時に南郡出身の閻宇を右【《姜維伝》及び裴注が引いている《襄陽記》の刪に依った.大将軍と為した.秋八月丙子,領中護軍の陳祗が卒した.謚して曰く忠侯である.陳祗が朝に在ると,上は主指を希い,下は閹宦に接したため,後主は焉<これ>を甚だ善きこととした.僕射で南郷侯の董厥を以って尚書令と為した.

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三年【260年】は,《函海》本上衍“景耀”二字.魏の景初元年である也.秋【八】[九]廖本“八月”.他各本同《後主伝》並作“九月”.月,故前将軍の関羽を追謚して曰く壮繆侯とし,車騎将軍の張飛を曰く桓侯とし,驃騎将軍の馬超を曰く威侯とし,軍師の龐統を曰く靖元豊本作靜.侯とし,後将軍の黄忠を曰く剛侯とした.是歳,魏帝である高貴郷公が卒し,張、呉、何、王、石本無卒字.浙本擠補.常道郷公が即【帝】位した.旧各本有帝字.当衍.

四年【261年】,春三月,故の鎮軍である趙雲を追謚して元豊本作云.曰く順平侯とした.冬十月,大赦した.丞相諸葛亮の子で武郷侯の諸葛瞻を中都護、将軍と為した.董厥を遷して輔国大将軍とし,諸葛瞻とともに輔政することになった.侍中で義陽出身の樊建を以って守尚書令とした.諸葛瞻、董厥が用事してから<自>,黄皓が秉権することとなり,無能正張、呉、何、王、浙本同《三国志》作匡.矯者,惟だ樊建のみが特に銭、《函》二本作持.黄皓に与して和んで好みをむすび往来するようなことをしなかった.而して秘書令で河南出身の王、浙本は郤と作る.正(郤正)は黄皓と屋を比べて周旋したが,黄皓が微されてから<従>著わされるに至るまで,既に正しきを憎まれず,又た之を愛されもせず,官は六百石を過ぎず,常に憂患に於いて免れることになった.張、呉、何、王、浙、石本有小注云:“《晉百官表》を按ずるに,董厥は字を龔襲といい亦た義陽の人である.樊建は字を長元という.”張佳胤は裴注の文を録する也.

五年【262年】,春正月,西河王の劉jが卒した.大将軍の姜維は黄皓之恣擅を悪<にく>んでおり,後主(の不明)を啓(発)して,之を殺そうと欲した.後主曰く:“黄皓は趨走の小臣というだけだ耳.往者(かつては)董允が切歯していたが,吾は常に之を恨んでいた.君は何ぞ意に介するに足るとするのか.”姜維は本より羈旅自託であって(つながりがあって助けてくれる同僚がなく),而して功はにして称されること無かったため,黄皓について(後主=木に)枝が附き葉が連なっているように見えたため,失言を<於>懼れ,遜って辞すと而して出た.後主は皓に姜維のところに詣でて陳謝するようした.姜維は《三国志》裴注では引いて此を説と作る.皓を誘って沓中で種麥せんことを求めた,以って内逼を避けようとしたのである.黄皓は承って後主に白した.秋,姜維は侯和に出たが,魏将ケ艾に破られる所と為り,還って沓中に駐まった.黄皓は比して閻宇を協<たす>けると,姜維を廃して閻宇を樹てようと欲した.故に姜維は懼れて敢えて還らなかった.張、呉、何、王、浙、石本には小注が有って曰く:“按ずるに,沓中は即ち古の松州であろう.文州を去ること三百里である.”亦た張佳胤が注を増した所である.

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六年【263年】春,魏の相国である晉の文王が征南廖本の注に云う:“当に西と作るべき,《三国志》に見える.”将軍のケ艾、鎮西将軍の鍾会、雍州刺史の諸葛緒,【益州刺史の師纂李本作慕.】に五道から蜀を伐するよう命じた.顧広圻校稿は云う:“ケ艾は狄道より<自>,諸葛緒は祁山より<自>,鍾会は駱谷、斜谷、子午谷より<従>分けいった.是が五道を為すということである.”大将軍の姜維は後主に(上)表して,左、右車騎の張翼、廖化を遣わして諸軍を督させ分けて陽安関口及び陰平の橋頭を守らせるよう求めた.黄皓は巫鬼が敵は来ないと謂ったのを信じ,後主に啓いて其の事を寝かせておく(そのままにしておく)ようにとした.臣は[それについて敢えて言うことを]【知】らなかった.元豊本に依って改める.夏,ケ艾は将に沓中に入らんとし,鍾会は将に駱谷に向かわんとして,蜀の方に之が聞こえた.張翼、董厥を遣わして陽安関の張、呉、何、王、浙、石本作“安陽関”.外からの助けと為させ,廖化には姜維の援継と為るようにした(遣わした).大赦し,改元して元豊本作年.炎興とした.【比】[(廖)化は]各旧本は倶にを比と作る.《三国志‧姜維伝》も同じく誤っている.茲は改正し,注釋に.陰平に至ったころ,諸葛緒が建威に向かったと聞き,故に待つこと月余となった.姜維はケ艾により摧される所と為り,陰平に還った.鍾会は[漢][二]城を囲み,《姜維伝》に依って補った.別将を遣わして関(陽安関)を攻めさせた.《姜維伝》では関口と作る,陽安関のことを謂う也.分将の蔣舒は開門すると降り,都元豊と廖本には都の字が有る.他の各本には無い.督の傅僉は奮戦して而して死んだ.冬,鍾会は以って[漢][二]城が下らなかったため,徑って長驅すると而して前にすすんだ.張翼、董厥が漢寿に至るや也,姜維、廖化[も亦た]陰平を捨てて,[皆]還って劍閣を保ち,鍾会を拒んだ.《姜維伝》はこう云っている:“張翼、董厥は漢寿に甫至し,姜維、廖化も亦た陰平を舍して而して退いてきて,張翼、董厥と合わさるに適ったため,皆還って劍閣を保ち以って鍾会を拒んだのである.” 鍾会はすこと能わず,糧運は懸遠であったため,議して還ろうと欲した.而してケ艾は陰平、景谷から傍字は当に旁と作るべき.正路には非ずと謂うことである.入した.後主も又た都護の諸葛瞻を遣わして諸軍を督させるとケ艾を拒ませようとした,【漢】涪に至って,各旧本は並んで漢の字が有る.下文には只だ涪と作っている.《三国志‧諸葛瞻伝》も亦た涪と作る.漢の字は当に衍である.(そこから)すすまなかった.尚書郎の黄崇は,黄権の子であった也,諸葛瞻に速やかに行きて險を固めるよう勧め,無令敵得入【坪】[平]各旧本皆作坪.《三国志‧黄権子崇伝》作“平地”.上文言漢中城守,亦曰“入平”.故改.言って流涕するに至った.諸葛瞻は従わなかった.前鋒が已に破れたため,ケ艾は涪に徑至した.諸葛瞻は退いて,緜竹を保った.ケ艾は書で元豊、銭、劉、李、《函》、廖本は並んで誘と作る.張佳胤は与と改作する.呉、何、王、石本は之に依っている.浙本剜改作誘.諸葛瞻を誘って曰く:若し降るというなら,必ずや表して琅琊王に封じよう.旧の各本は並んで“琅

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邪”と作る.廖本は“琅琊”と改めている.諸葛瞻は怒ると,ケ艾の使いを殺し,緜竹に於いて戦った.諸葛瞻軍は敗績した.諸葛瞻は陣に臨んで死んだ.黄崇及び羽林督の李球、尚書の張遵は,皆必死となって,沒命した.諸葛瞻の長子の諸葛尚は歎じて曰く:“父子は恩を荷ったというのに,早く黄皓を斬らなかったために,以って敗国殄民を致すことになった,用生何為(どうして生きて用いられようか).”乃ち馬を驅せさせて魏軍に赴くと而して死んだ.百姓はケ艾が【坪】[平] に入ったと聞くと,山野に驚迸した.後主は臣を会して議すと,南して七郡に入ろうと欲した.顧広圻校稿は云う:“胡三省は曰く:越嶲、朱提、牂柯、雲南、興古、建寧、永昌のことである也.”或るひとが呉に奔ろうと欲した.光祿大夫の譙周は勧めた:“魏に降ったなら,魏は必ずや土を裂いて【後主を】封じることでしょう.”としたため後主は之に従った.侍中の張紹、駙馬都尉のケ良を遣わして元豊、銭、呉、何、王、浙、石本作.劉、《函》、廖本作齎.音義通.璽綬を齎して,奉牋し,ケ艾に詣でて降った.北地王の劉ェは恚<いか>り憤ると,妻子を殺して而る後に自殺した.ケ艾は成都に至ると,後主は輿櫬、面縛、銜璧して之を迎えた.ケ艾は親しく其の縛を釋すと,其の璧を受け,其の櫬を焚き,承制して驃騎将軍を拝すると,其の宮を止めさせ使ました.黄皓を執らえて,将に之を殺そうとしたが.受賄したため元豊及廖本作賄.他各本作賂.而して之を赦した.諸囲守は皆後主の《函海》本此下空格.令を奉じて乃ち下った.

姜維は未だ後主が降ったことを知らず,且つ城を固めるよう謂った.素与執政者不平,欲使其知読如禦.捍也.敵之難,而る後に志を逞しくし,乃ち巴西を由して、五城に出たのである.此説は実際の形勢を頗る謬っている.注釋で辨訂しておく.しかし後主手づからの令を被るに会い,乃ち投戈釋甲すると(武装解除すると)鍾会に詣で,涪に於いて降った.軍士で奮激しないものは莫く,旧各本並作擊.《函海》注云“本作激”.廖本改作激.刃を以って石を斫した.

明くる年【264年】,春正月,鍾会はケ艾を構じたため,檻車があって徴されるに見えることとなった(ケ艾は徴されることになった).鍾会は異計を図った,姜維の雄勇を奇として,其の節蓋や元豊及銭、劉、李、《函》本作益,句下属.張佳胤依《三国志》改作蓋.呉、何、王、浙、石本同.当作蓋.本の兵を還したのである,《三国志‧姜維伝》作“印号”.《常志》改作本兵.元豊、劉、李、銭、《函》、廖本同.張佳胤改依《三国志》作“印号”二字.呉、何、王、浙、石本同.還印号則還本兵.張改非.長史の杜預に謂いて曰く:“姜伯約を中州の名士に比べると,夏侯太初、諸葛公休も如かず也.”《姜維伝》作“以伯約比中州名士,公休、太初不能勝也”.ケ艾も亦た蜀の人に謂いて曰く:“姜維は,雄兒である也.”《三国志‧ケ艾伝》は作る:“姜維は自ずと一時の雄兒である也.与某相値(それがしと相値したため),故に窮まっただけである耳”.鍾会は[則ち与]姜維と【則】車を同じくして出ると,坐すに席を同じくし,《三国志‧姜維伝》では“鍾会と姜維は出るに則ち轝を同じくし,坐すに則ち席を同じくした”と作る.《常志》旧本前三字劉本作“会到維”.銭本作“会維到”.元豊与張、呉、何、王、浙、石本作“会維”.廖本作“会維則”.将に成都に至るにあたり,将字,攜同義.《三国志》作“因将維等詣成都”.益州牧を[自]称して以って叛いた.銭、劉、李、張、呉、何、《函》、王諸本益作“自称”.元豊与廖本無自字.姜維を牙爪にと恃んだのである.元豊与廖本作“牙爪”.他各本皆倒作“爪牙”.(更に彼は)姜維を前将軍と為して中国を伐しようと欲した.姜維は既に失策してから,又た鍾会の銭寫本此下衍意字.他各本無.志が広いことを知ったため,鍾会に北[来]の諸将を誅するようにと教えた(教唆した).張、呉、何、王、浙、石本作“北来諸将”.張佳胤依裴注引摶轣D[欲]欲字原倒在下,当移此.諸将が既にして死んでから,徐ろに鍾会を殺したうえで,魏兵を尽く坑にし,後主を還そうと【欲】したのである.張、呉、何、王、石本作“還復蜀祚”.浙本剜改“還後主”.そこで密かに書を裴注引作与.後主に通じさせて曰く:“願わくば陛下には数日之辱しめを忍ばれんことを,臣は社稷の危うきを而して復た安んぜ使まんと欲しております,日月は幽かとなれど而して復た明るくせんと欲しています.”魏の太后が崩じた,鍾会は[諸]将に命じて喪を発そうとするにあたり,各本旧無諸字.廖本注云:“按《通鑑考異》引,有諸字.当補.”因って之を誅そうと銭、《函》本作追.欲した.諸将が入ること半ばして,而して南安太守の胡烈等は其の謀を知り,成都の東門を焼いて,以って鍾会及び姜維、張翼、後主の太子であった劉璿等を襲って殺した.何、王、浙、石本作璩.抄掠し,数日してから乃ち定まった.三月,後主は家を挙げて洛陽に東遷した.丁亥,安楽県公に封じられた,食邑は万戸であった.元豊本作万.絹万匹,元豊本作万疋.奴婢百人を賜り,他物は此に称えられるものとした.弟兄各旧本作“兄弟”,廖本倒作“弟兄”.子孫で郡《三国志‧後主伝》無“弟兄”二字,郡作三.都尉,侯と為った者は五十余人.譙周を以って国を全うし民を(救)済したとして,城陽亭侯に封じた.秘書令の正は,妻子に舍すと,後主に隨侍し,威儀を相導したため,関内侯に封じられた.是に於いて尚書令の樊建、殿中督の張通、侍中の張紹も亦た封侯されたのである.此下旧

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各本連,当空格.

劉氏が蜀を得ること凡そ五十年正,尊号を称えること四十二年.

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蜀郡太守の王崇は後主を論じて曰く:“昔世祖は内に神武之大才を資し,外は四【屯】 [七]顧広の圻校稿は云う:“屯は,当に七と作るべきだ.《東京賦》は曰く:鉞四七を授ける.丁卯五月,此の一條を得た.”廖本援之為注.并続云,“薛綜は注する:四七とは,二十八将のことだ”とあるから,則ち顧槐三補也.之奇将を抜き,猶も勤めて而して(救)済を獲たのだ.然るに乃ち銭本下有外字,他各本無.張、呉、何、王、浙、石本作後.天衢に登り,車は駕を輟せず,坐して席に安んじず.淵明弘鑒に非ざれば,則ち中興之業は何ぞ容易ならんか哉.後主は庸常之君であった,一亮(一人諸葛亮)之経緯を有したと雖も,内は元豊及廖本作附.読“疏附”.他各本皆作骨附.顧広圻云:“附見《詩》.”之謀が無く,外には爪牙之将が無かったのだから,焉ぞ銭、劉、李、《函》本作苞.天下を包み括る可けんか也.”又た曰く:“ケ艾は疲れた兵二万を以って元豊本作万.張、呉、何、王、浙、石本作遠.江油に溢れ出た.姜維は十万之師を挙げて,道を案じて南に帰し,ケ艾を字当作易.禽えること成るを為したであろう.禽艾已訖(ケ艾を禽えること已に訖してから),復た還って鍾会を拒めば,則ち蜀之存亡は未だ量る可からざることとなっていただろうに也.それなのに乃ち之を巴に迴道して,遠く五城に至った.ケ艾をして軽進させ使め,徑って成都に及ばせてしまった.兵は分かれて家は滅んだが,己が自ら之を招いたことだったのだ.然るに以って鍾会之知元豊本作志.廖本作知,他各本并作智.略は,子房を為すと称えられたというのに;姜維は之を莫至に(いくらもなく)陷れたのだから,銭、劉、李、張、呉、何、王、浙、石本作“捷”.籌斥●元豊、銭、《函》、廖本作●.劉、李本作筭.張、呉、何、王、浙、石本作策.相応優劣(その知略を鍾会と優劣で相応させると克つものであったといえよう).惜しいかな哉!”愚かしいのは以って姜維に徒らに能く一会(一人の鍾会)を謀らしめながら,窮兵十万を制御すること為すことの難きを慮らせず,美意播越となったことであろうか矣.

譔に曰く:元豊、《函海》は“讚曰”と作る.諸葛亮は英霸之能を資すと雖も,而して主は中興之器に非ず,欲以區區之蜀,假已廃之命,北呑強魏,抗衡上国,不亦難哉(區區之蜀を以ってして,已に廃された天命を假り,北に強魏を呑まんとし,上国に抗衡せんと欲したが,亦た難からずや哉).宋襄(宋の襄王)が霸者を求めるにも似たものであったのだ乎!然るに諸葛亮は政は脩め民は理めて,威武は外振された.爰<ここ>から蔣琬、費禕迄は,遵脩弗革して,大国之間において<乎>攝すると,弱を以ってして強と為さしめたため,猶も自ら保つこと可(能)であった.姜維の才は諸葛亮に匹(敵)するものに非ずして,志継いで洪軌したため,民は其の労を嫌い,家国も亦た喪われたのである矣.

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華陽国志校補図注巻八

大同志

古には,国は大小無く,必ず記事之史を有した,それは成を表し敗を著し,以って懲勧を明らかにするためである.之を前式に稽うるに,張、呉、何、王、浙、石本は代と作る.元豊及び他の旧本は倶に式と作る.州部もまた元豊、銭、劉、李、《函》、廖本は部と作る.張、呉諸本は郡と作る.顧観光は云う:“俗本は式は代と作られ,部は郡と作られる.”宜しく然るべきである.劉氏が祚替して自り而して元豊及銭、劉、李、《函》、廖本には而の字が有る.張、呉諸本には無い.顧観光は云う:“原<もともと>而の字は無かったのだ.”というのは非である.金徳は当に陽たるべくも,天下の文明は,曩世に及ばず.逮(#人名?)は元豊本作逢.劉、李、《函》作逯.銭、廖作逮.張、呉、何、王、浙、石作近.以って故多い.族祖である武平府君,顧広圻校稿:“常ェ也,見《後賢志》.”漢嘉の杜府君は,並んで宋、明、清各旧本作.故字通.《蜀後志》を作り,其の大同,及んで其の喪乱を書した.然るに逮は張、呉、何、王、浙、石本作近.李氏に在り,未だ相條貫しない.又た其の始末については,此下,劉、李、張、呉、何、王、浙、石本有或字.銭本作空位.《函海》作頗字.元豊及廖本無,字連.第を詳らかにしないものが有る.このわたくし常璩は蜀に往在し,艱難を櫛沐して,諸故事を備諳してきた,顧広圻の校稿は云う:“故事当倒.事句絶,故下属.”廖本は以って注を入れる,顧観光逕改為“備諳諸事”.更敘次顯挺年号,上は以って明徳を彰らかとし,下は以って違乱を治め,庶幾万元豊本は万と作る.分有益国史之元豊旧本は之と作る.張、呉、何、王、浙、石本以.非.広識焉(こいねがわくは幾万もの(人、あるいは諸地方に)益州の国史の広識を分有されるようにならんことを).

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魏の咸熙元年は,蜀が破れた明くる年である也.以って東郡出身の袁邵が劉本此誤作郡,下仍作邵.益州刺史と為り,隴

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西太守で安平出身の牽弘が蜀郡(太守)と為り,金城銭、劉、李本誤作成.太守で天水出身の楊欣が犍為太守と為った.後主が既に東遷して,蜀の此下銭、劉、李、張、呉、何、《函》、王、浙、石諸本有之字.元豊与廖本無.大臣であった宗預、廖化及び諸葛顯等を内に移して[河]旧各本無.拠《三国志‧顯伝》文及《後賢志‧柳隱伝》補.東及び関中に於いて并わせて三万家とし,二十年田租を復した.董厥、樊建は並んで相国参軍と為った.冬,州を分けて梁州を置き,董厥、樊建に散騎常侍を兼ねさせ,蜀に使いとして慰労するよう遣わした.此下,凡遇年,劉、李、張、呉、何、王諸本皆提行.元豊及銭、《函》、廖、石本只空格.茲遇年提行.下同.

晉の泰始元年春,刺史の袁邵が治城のことを以って,将に徴を被らんとした.故の蜀の侍郎であった蜀郡出身の常忌が相国府に詣でて陳べた:“袁邵は撫卹して方有りました.遠くの国が初めて附いたのですから,当以漸導化(当にすべきは以って次第次第に王化に導くことでしょう),州将を改易するは宜しからず,外の心を失遐いたしましょう.”相国は聴きいれて留めることにした.常忌を辟招して舍人と為した.冬十[二]月,晉の武帝が踐祚した.

二年春,武帝は弘納梁益すると,引援方彦(良賢を引き立てることとし),故の黄金督であった蜀郡出身の柳隱を用いて西河(太守)と為し,何本は“太守”の二字を増している.他の各本には無い.《函海》注に云うに“本もとは太守の二字が有った”とのことだが.並んで非ず.【ニセクロ注:按ずるに文章のロジックからするとこれは並立の構文であり、「故の黄金督で蜀郡出身の柳隠を西河の、巴郡出身の文立を済陰の、太守と為して用いた」ということだろう。従って西河の後ろに「太守」の二字は無いとするのが自然である。改めて注:しかしこの考えは日本語文法に引きずられた考えかも知れない。略すなら最初に書いて後のを略すだろうから。】巴郡出身の文立を済陰太守と為した;常忌は河内県令となった.

四年,故の中軍の士であった王富が,有罪となって逃れ匿われると,密かに亡命していた刑徒と結んで,数百人を得たため,諸葛都護と自称すると,臨邛に起って,転じて江原を侵した.江原(県)は吏である李高閭元豊と銭、劉、李、《函》、廖本は閭と作る.張、呉、何諸本は問と作る.術に方略させると今按ずるに:閭術とは,高の字<あざな>であろう也.“李高問術”というものに<者>作るのには非ず.王富を縛して州に送った.刺史の童策が之を斬った.初め,諸葛瞻はケ艾と緜竹に於いて戦うや也,時に身は死して銭寫本には死の字が無い.喪を失ったため,或るひとは生きて走り深く逃れたと言った.諸葛瞻の銭寫本では瞻の字が脱している.親兵(であったもの)が言うことには王富の貌は諸葛瞻に似ているとのことであった,故に王富は之に假りたのである也.

五年,散騎常侍文立表復假張、呉、何、王、石本無假字.浙本擠補.故蜀大臣、名勳後五百家不預廝劇,皆依故官号為降.張、呉、何、王、石本無“不預廝劇”四字.他各本有.浙本剜改亦有.当有.

六年,益州の南中である建寧、雲元豊本作云.南、永昌、興古の四郡を分けて寧州と為した.呉与浙本寧州二字小字,並肩一格,避及底,混提行也.

七年,汶山の守兵であった呂【匡】[臣]旧各本は臣と作る.廖本は匡と作るが,諱筆では無い,依拠を詳らかにしていない.顧観光は云う:“匡は原<もともと>臣というのを誤ったものである.”というのは亦た解説が無い.取るに不足である.当に仍旧本は臣と作っている.等が其の督将を殺して以って叛いたため.之を族滅した.初め,蜀は以って汶山の西の【五郡】[部]旧各本並誤作“五郡”.衍五字,郡字.茲改正.在注釋.が北は陰平、武都に逼っていたため,故に險要に於いて守りを置き,汶山より<自>、龍鶴、冉駹、白馬、匡用元豊本作“匡用”,《函海》同.銭寫作“●用”,皆避宋諱省筆.張、呉、何、王、浙、石本改作“氐種”二字,大謬.の五囲には,皆脩屯牙門を置いたのである.晉の初め,以って夷徼を禦がせようとし銭寫及び廖本は禦と作る.他の各本は御と作る.古には(意味が)通じあっていたものである.,仍ち其守りに因んだのである.

八年,三蜀の地に毛が生えた,白毫の如くである,三夕にして,長さ七八寸となって,数里にわたり生えた.【十】[是]《晉書‧武帝紀》,皇甫晏が出征して害に遇ったのは八年に在ったこと.《通鑑》も同じである.《常志》は旧刻で“十年”と作っているのが,是字年,汶山の白馬胡が恣縱して,諸種を掠した.夏,刺史の皇甫晏が表して出て之を討った.別駕従事[で広漢出身]依後複衍文,当補此二字.王紹等が固く諫めたが,従わなかった.典学従事で蜀郡出身の何旅が諫めて曰く:“昔周の宣王が六月に北伐したことは<者>,獫狁が孔熾したために,憂いあって諸夏に及んだのに故ありました也.今胡夷は相残しておりますが,戎虜之常でありまして,未だ大患を為さずにいます,それなのに而して盛夏に出軍して,水潦が将に降りかかれば,必ずや疾疫が有ることでしょう,宜しく須く秋冬とすべきでありまして,それから之を図ったとしても未だ晩ではないでしょう(遅くはないでしょう).”皇甫晏は聴きいれず,遂に西行すると.[郫]城に軍した.比【人】[入]元豊本作“軍城比入”.銭寫本同.劉、李本作“軍城比出”.廖本作“軍城比人”而注云:“当有誤.”張、呉、何、王、浙、石則逕刪此四字,張佳胤用“乱絲当斬”法也.今按文情,軍下旧“郫”字.郫在成都西六十里,赴都江者所必経.而在当時為成都西外軍事重地,後文屢

【ニセクロ注:以降(の訳)は当サイトの人物評:西晉『大陸統一』をやる目処が立つまで未定となります。って、いつ目処が立つのか。ってか、多分あと十年はやらんかも。】