-1-

晉書卷一

帝紀第一

【宣帝紀】
宣皇帝は諱を懿といい,字を仲達という,河内郡温県孝敬里の人で,姓は司馬氏である.其の先<先祖>の出自は帝高陽之子の重黎で,夏官である祝融と為った.唐、虞、夏、商を歴して,世に其の職を序した.周に及び,夏官を以ってして司馬と為した.其の後は程伯休父であり,周の宣王の時に,世官を以って徐方を克ち平,官族を以ってして錫されたため,因よって而して氏と為した.楚漢の間には,司馬卬が趙の将と為り,諸侯とともに秦を伐った.秦が亡ぶと,立って殷王と為り,河内に都した.漢は其の地を以って郡と為し,子孫は遂に焉<これ>に家したのである.司馬卬より<自>八世して,征西将軍の司馬鈞,字は叔平が生まれた.司馬鈞は豫章太守の司馬量,字は公度を生んだ.司馬量は潁川太守の司馬儁,字は元異を生んだ.司馬儁は京兆尹の司馬防,字は建公を生んだ.帝は即ち司馬防之第二子である也.少なきより奇節を有し,聰朗にして大略が多く,博学洽聞であって,儒教を伏膺した.漢末が大いに乱れると,常に慨然として天下を憂う心を有した.南陽太守で同郡の楊俊は名が人に知られていたが,[一]帝を見ると,未だ弱冠ならずして,以って非常之器であると為した.尚書で清河出身の崔琰は帝の兄の司馬朗と善くしていたが,亦司馬朗に謂いて曰く:「君の弟は聰亮にして明允,剛断にして英特であり,子が及ぶような所ではない也.」といった

-2-

漢の建安六年(201年),郡が上計掾に挙げた.魏の武帝が司空と為ると,聞くや而して之を辟招した.帝は漢の運は微かになろうと方じていることを知っており,曹氏に節を屈することを欲しなかったため,辞すに以って風痹であるから,起居すること能わずとした.魏武は人を使わして夜に往かせ密かに之を刺そうとした,帝は堅く臥せて動かなかった.魏武が丞相と為るに及び,又辟(招)して文学掾と為すにあたり,(その命令を)行う者に勅(令)して曰く:「若し復た盤桓なれば,便じて之を收めよ.」帝は懼れて而して職に就いた.是に於いて使与太子游処,黄門侍郎に遷り,転じて議郎、丞相東曹属となり,尋転して主簿となった.

張魯を討つのに従ったおり,魏武に於いて言いて曰く:「劉備は詐力を以ってして劉璋を虜となしたため,蜀人は未だ附かず而して遠く江陵を争っています,此の機は失う可きではありません也.今若し漢中に曜威をあらわせば,益州は震え動きましょうから,兵を進めて之に臨めば,勢いからして必ず瓦解しましょう.此之勢いに因るなら,易為功力(功力を為すは易いことでしょう).聖人は時を違えること能わないもの,亦時を失わないものです矣.」魏武曰く:「人は足ること無きに苦しむものだ,既にして隴右を得たのだ,復蜀を得んことを欲しようか!」言うと竟<つい>に従わなかった.既にして而して孫権を討つのに従い,之を破った.軍が還るにあたり,孫権は使いを使わして降らんことを乞うてくると,上表して臣と称し,天命を陳べ説いた.魏武帝は曰く:「此兒は欲踞吾著爐炭上邪!」とすると答えて曰く:「漢運は垂終しており,殿下におかれては天下を十に分けて而して其の九を有されていながら,以って之に服し事えております.わたくし権が臣と称するのは,天人之意でございます也.虞、夏、殷、周は以って謙讓しなかったのですがそれは<者>,天を畏れて命を知っていたからなのです也.」

魏国が既に建てられると,太子中庶子に遷った.大謀に与る毎に,輒ち奇策を有したため,太子が信重する所と為った,陳羣、呉質、朱鑠とともに号された曰く四友である.

遷って軍司馬と為り,魏武に於いて言いて曰く:「昔箕子陳謀,以食為首.今天下不耕者蓋二十余万,非経国遠籌也.雖戎甲未卷,自宜且耕且守.」魏武は之をれた,是に於いて務農に務めて積穀したため,国用は豊贍となった.帝は又言うに荊

-3-

州刺史の胡脩は粗暴であり,南郷太守の傅方は驕奢であるから,並んで辺(境)に居らせる可きではないと言った.しかし魏武は不之察(察しなかった).蜀将の関羽が曹仁を樊に於いて囲み,于禁等の七軍が皆没するに及び,胡脩、傅方は果たして関羽に降り,而して曹仁が囲まれること甚だ焉<これ>急なものとなってしまった.

是時漢の帝は許昌を都としていた,魏武は以って為すに賊に近いからとして,河北に(都/皇帝を)徙さんと欲した.帝(司馬懿)は諫めて曰く:「于禁等は水に没する所と為ったのであって,非戦守之所失,国家に於ける大計は未だわれた所が有ったわけではありません,而るに遷都を便じるなら,既にして敵に以って弱き示してしまうことになります,又た淮沔之人が大いに不安となるでしょう矣.孫権、劉備は,外では親しくしながら内では疏んじあっております,関羽が意を得るのは,孫権が願わない所でしょう也.可喩権所,令掎其後,則樊囲自解.」魏武は之に従った.孫権は果たして将の呂蒙を遣わして西して公安を襲わせて,之を拔いたため,関羽は遂に呂蒙が獲る所と為ったのである.

魏武は以って荊州の遺黎及び屯田しているもので潁川に在った者は南寇に逼近していることから,[二]皆之を徙そうと欲した.帝曰:「荊楚は軽脱でして,動くに易く安んずるに難いものです.関羽が新たに破ったため,諸為惡者(諸々の悪を為していた者は)藏竄して観望しています.今其の善なる者を徙そうというのは,既に其の意を傷つけることになりましょうから,将に去る者は敢えて復還らなくてよいと令してはどうでしょうか.」としたところ之に従った.其後に諸亡者は悉く復業することになった.

魏武が洛陽で<于>薨ずるに及び,朝野は危懼した.帝が綱紀喪事したため,内外は肅然とした.乃び梓宮を奉じて鄴に還った.

魏の文帝が即位すると,河津亭侯に封じられ,転じて丞相長史となった.孫権が兵を帥して西に過ぎるに会うと,朝議では樊、襄陽には穀が無いことを以ってして,以って寇を禦ぐこと不可であるとした.時に曹仁が襄陽に鎮していたため,曹仁を召して宛に還すよう請うた.帝は曰く:「孫権は新たに関羽を破った,此は其れ自結之時を欲するや也,必ずや敢えて患いを為すことないでしょう.襄陽は水陸之衝であり,禦寇の要害ですから,棄てる可きではありません也.」としたが言は竟に従わなかった.曹仁は遂に二城を焚き棄てたが,孫権は果たして寇を為さなかったため,魏の文帝は之を悔いた.

-4-

魏が漢の禪を受けるに及び,帝を以って尚書と為した.頃之(この頃),転じて督軍、御史中丞となり,安国郷侯に封じられた.

黄初二年(222年),督軍官が罷めることになり,遷って侍中、尚書右僕射となった.

五年(225年),天子が南巡して,観兵呉疆.帝は許昌に留まり鎮め,改封されて向郷侯となり,転じて撫軍となり、假節をえて,兵五千を領し,給事中、録尚書事を加えられた.帝は固辞した.天子は曰く:「庶事に於いて吾は,夜を以って晝に継ぎ,須臾とて寧息することが無い.此は以って栄えと為すに非,乃ち憂いを分かたれたものなの耳.」

六年(226年),天子は復大いに舟師を興すと呉を征そうとし,復帝に居守して,内では百姓を鎮め,外では軍資を供するよう命じた.行うに臨み,詔があって曰く:「吾が深くおもうのは後事を以って念ずる為させることで,故に以って卿に委ねるのだ.曹参は戦功を有したと雖も,而して蕭何が(その彼よりも)重きを為したのだ.吾をして西顧之憂を無から使めるのも,亦可からざるかな乎!」天子は広陵より<自>洛陽に還ると,帝に詔をくだして曰く:「吾が東したなら,撫軍(将軍であるそなた司馬懿)は当に西事を總めるべし;吾が西したなら,撫軍は当に東事を總めるべし.」是に於いて帝は許昌に留鎮した.

及天子が疾篤くなるに及び,帝は曹真、陳羣等とともに崇華殿之南堂に於いて見え,並んで輔政するようにとの顧命を受けた.太子に詔あって曰く:「有間此三公者,慎勿疑之.」明帝が即位すると,改封されて舞陽侯となった.

孫権が江夏を囲むに及び,其の将の諸葛瑾、張霸を遣わして并わせて襄陽を攻めてきた,帝は諸軍を督して孫権を討つと,之を走らせた.進撃,敗瑾,斬霸,并首級千余.驃騎将軍に遷った.

-5-

 

太和元年六月(227年),天子は帝に宛に<于>駐屯するよう詔をくだすと,督荊、豫二州諸軍事を加えた.

初め,蜀将の孟達が降るや也,魏朝は之を遇すること甚だ厚かった.帝は以って孟達の言行は傾巧しているため任ず可きでないとし,驟諫したが聴きいれられるに見えず,乃ち孟達を以ってして新城太守を領させ,侯に封じ,假節をあたえた.孟達は是に於いて呉と連なって蜀を固めとし,潛かに中国を図ったのである.蜀相の諸葛亮は其の反覆を悪んでおり,又其が患いを為すことを慮った.孟達は魏興太守である申儀と有隙(関係が冷却していたため),諸葛亮は其の事を促そうと欲し,乃ち郭模を遣わして詐って降らせ,申儀(のところ)を過ぎたおり,因って其の謀を漏泄させた.孟達は其の謀が漏泄したのを聞くと,将に挙兵せんとした.帝は孟達が速やかに発することを恐れ,書を以って之を喩えて曰く:「将軍は昔劉備を棄て,身を(わが)国家に託されました,国家では将軍に疆埸之任を以ってして委ねられ,将軍に図蜀之事を以ってして任されました,心は白日を貫いたとも謂う可きでしょうか.蜀人は愚智でありまして,将軍に於いて切歯しないものは莫かったのです.諸葛亮は相破らんと欲しているようですが,惟路が無いことに苦しんでいるだけです耳.之を模して言う所は,小事に非ざること也,諸葛亮は豈に之を軽んじて而して宣露するよう令したとできましょうか,此は殆んど知るに易いこと耳.」孟達は書を得て大いに喜び,猶も決しないことに与した.帝は乃ち軍を潛めて進んで討とうとした.諸将孟達二賊と交構しているのだから,宜しく観望してから而る後に動くべきであると言った.帝曰く:「孟達には信義が無い,此は其れ相疑之時というもの也,当に其が未だ定まらざるに及んで之を決するよう促すべきだ.」乃ち道を倍にして兼行し,八日にして其の城下に到った.呉蜀は各々其の将を遣わして西城の安橋、木闌塞に向かわせ以って孟達を救おうとしたが,帝は諸将を分けて以って之を距った(拒ませた).

初め,孟達は諸葛亮に書を与えて曰く:「宛は洛を去ること八百里であり,吾から去ること一千二百里である,吾が挙事したと聞いたとしても,当に天子に表を上げるべきなのだから,比相反覆(連絡を取り合うだけで),一月間かかる也,則ち吾が城は已に固まり,諸軍は辦に足ることとなっていよう.(そうなっていれば)則ち吾が在する所は深險であるから,司馬公は必ずや自ら来ることはない;諸将が来たとしても,吾は患うものでは無い矣.」兵が到るに及ぶと,孟達は又諸葛亮に告げて曰く:「吾が挙事して八日,而るに兵は城下に至る,何をか其れ神速ならんか也!」上庸城は三面が水<河川>に阻まれており,孟達は城外に於いて木柵を為して以って自ら固めていた.[三]帝は水<河川>を渡ると,其の柵を破り,直ちに城下に造った.八道から之を攻め,旬有六日,孟達の甥であるケ賢、将の李輔等が

-6-

開門して出てきて降った.孟達を斬ると,首を京師に伝えた.俘獲は万余人,振旅して宛に<于>還った.乃ち農桑を勧め,浮費を禁じたため,南土は悦んで焉<これ>に附いた.

初め,申儀は久しく魏興に在って,威を専らにして疆埸していた,輒ち承制刻印して,假に授ける所が多かった.孟達が既に誅されたため,自ずと疑心を有した.時に諸郡守は以って帝<司馬懿>が新たに克捷したため,禮を奉じて賀を求めてきていたことから,(司馬懿は)皆之を聴きいれた.帝は人を使わして申儀を諷させ,申儀が至ったところで,承制していたことについてその状(況)を問うと,之を執らえ,京師に<于>帰した.又孟達の余七千余家を幽州に<於>徙した.蜀将の姚靜、鄭他等が其の属七千余人を帥して来降してきた.

時に辺郡が新たに附いたが,多くが戸名など無かったため,魏朝は隱実を加えるよう欲した.属帝朝於京師,天子訪之於帝.帝は対して曰く:「賊は密網を以ってして下を束ねていたため,故に下は之を棄てたのです.宜しく大綱を以ってして弘ずるべきです,そうすれば則ち自然と安楽しましょう.」又二虜は宜しく討つべきであるが,何れ<者>を先に為すべきか?と問うたところ対して曰く:「呉は以って中国が水戦を習っていないため,故に敢えて東関に散居しています.凡そ敵を攻めるにあたっては,必ず其の喉を扼し而して其の心をするものです.夏口、東関は,賊之心喉です.若し陸軍を為して以って皖城に向かえば,孫権を引きつけて東下させることができましょう,(そこで)水戦を為して軍が夏口に向かい,其の虚に乗じて而して之を撃つ,此が神兵は天に従い而して墮すというもの,之を破ること必ずしょう矣.」天子は並んで之を然りとし,帝に宛に於いて駐屯するよう復命した.

四年(230年),遷って大将軍となり,大都督を加えられ、黄鉞を假され,曹真と蜀を伐つことになった.帝は西城の斫山から<自>道を開いて,水陸で並び進み,沔(水)を泝して而して上ると,に於けるに至り,其の新豊県を抜いた.軍は丹口を次いだが,雨に遇ったため,班師した(撤退した).

明くる年(231年),諸葛亮は天水を寇すると,将軍の賈嗣、魏平を祁山に於いて囲んだ.天子は曰く:「西方が有事である,君に非ざれ付けられる者は莫い.」とすると乃ち帝を使わして長安に西屯させ,都督雍、梁二州諸軍事とすると,[四]車騎将軍の張郃、後将軍の費曜、征蜀護軍の戴

-7-

淩、雍州刺史の郭淮等を統めさせて諸葛亮を討たせた.張郃は帝に軍を分けて雍、郿に往かせ後鎮と為すよう勧めた,帝は曰く:「前軍を料<はか>るに独りで能く之に当たるというなら<者>,将軍の言は是である也.若し当ること能わざるのに,而して分為すること前後なれば,此は楚之三軍が以って黥布の為に禽われた所と為ろう也.」とすると遂に軍を隃麋に進めた.諸葛亮は大軍が且つ至ったと聞くと,乃ち自ら将を帥して上邽之麥を芟そうとした.諸将は皆懼れたが,帝は曰く:「諸葛亮は慮ることが多いくせに決することが少ない,必ずや営を安んじて自ら固め,然る後に芟麥しようとするだろう,吾が二日の兼行を得れば(芟麥の企みを挫くのに)足りるだろう矣.」是に於いて卷甲して(兵の武装を解いて身軽にすると)晨夜して之に赴いた,諸葛亮は塵たつのを望むと而して遁した.帝曰く:「吾は道を倍して疲労したが,此は曉兵者が貪る所である也.諸葛亮は敢えて渭水に拠らなかった,此は与するに易いもの耳.」進んで漢陽を次いで,諸葛亮と相遇った,帝は陣を列して以って之を待った.使って牛金に軽騎を将いらせて之を餌とし,兵が才接したところ而して諸葛亮が退いたため,追って祁山に至った.諸葛亮は鹵城に駐屯し,南北二山に拠ったため,水を断って重囲を為した.帝は其の囲みを攻めて抜こうとしたところ,諸葛亮は宵に遁れたため,追撃して之を破り,俘斬すること万計となった.天子は使者を使わして軍を労わり,(司馬懿の)封邑を増した.

時に軍師の杜襲、督軍の薛悌が皆言うことに明くる年には麥が熟するから,諸葛亮は必ず寇を為さん,隴右には穀が無いから,宜しく冬に及んだところで運を預からそうということであった.帝は曰く:「諸葛亮は祁山に再出し(二度も攻め寄せ),陳倉を一攻して,衄を挫かれて而して反った.縱其後出(その後たてつづけに出てきたが),不復攻城(復た城を攻めることがなかった),当に野戦を求めるべく,必ずや隴東に在らんとするだろうから,西は不在だろう也.諸葛亮はことごとに以って糧が少なく恨みを為していよう,帰ら必ずや積穀しよう,以って吾が之を料るに,三稔に非ざれ能く動くまい.」是に於いて冀州の農夫を徙して上邽を佃させ,京兆、天水、南安に監冶を興すよう(上)表した.

青龍元年(233年),成国渠を穿ち,臨晉陂を築き,田すること数千頃となり,国は以って充実したのである焉.

二年(234年),諸葛亮は又たも十余万を率いて斜谷を出てくると,郿(県)の渭水の南原に<于>壘をつくった.天子は之を憂い,征蜀護軍の秦朗に歩

-8-

騎二万を督させて遣わすと,帝に節度を受けさせた.諸将は渭北に往って以って之に待そうと欲したところ,帝曰く:「百姓が積聚しているのは皆渭南に在る,此こそ必爭之地である也.」として遂に軍を引きつれて而して済すると,水を背にして壘を為した.因って諸将に謂いて曰く:「諸葛亮が若し勇者なら,当に武功に出て,山に依って而して東すべき.若し五丈原に西上すれば,則ち諸軍は無事であろう矣.」諸葛亮は果たして(五丈)原に上り,将に渭(水)を北に渡らんとしたため,帝は将軍の周当を遣わして陽遂に駐屯させ以って之を餌とした.日を数えたが,諸葛亮は動かなかった.帝曰く:「諸葛亮は五丈原を争わんと欲して而して陽遂には向かわなかった,此の意は知る可きである也.」将軍の胡遵、雍州剌史の郭淮を遣わして共に陽遂で備えさせたところ,諸葛亮と積石で<于>で会った.原に臨んで而して戦ったため,諸葛亮は進むことを得ず,五丈原に<於>還った.長星が諸葛亮の壘に墜ちることが有るに会い,帝は其の必ず敗れる知った,奇兵を遣わして諸葛亮之後ろを掎させ,斬ること五百余級,生口千余を獲て,降った者は六百余人であった.

時に朝廷は以って諸葛亮が軍を僑して遠く寇してきているため,利は急戦に在るとし,ことごとに帝に持重するよう命じ,以って其の変を候とした.諸葛亮は何度も戦いを挑んできたが,帝が出てこなかったため,因って帝に巾幗婦人之飾りを遣わした.帝は怒って,決戦せんことを請わんと(上)表したが,天子は許さず,乃ち骨鯁の臣である衛尉の辛節を杖として軍師と為して遣わすと以って之を制させた.後に諸葛亮が復た来たりて戦いを挑んできたが,帝が将に兵を出して以って之に應じようとしたところ,辛が節を杖にして軍門に立ったため,帝は乃ち止めた.初め,蜀将の姜維は辛来たと聞いて,諸葛亮に謂いて曰く:「辛が節を杖にして而して至ったとか,賊不復出矣(賊は二度と出てくることはないのでしょうね).」諸葛亮曰く:「彼は本より戦おうという心が無いのだ,固く請うた所以というのも<者>,以って其のに武を示そうとしてだけのこと耳.将に軍に在ら,君命にも受けざる所有りという,苟くも吾を制すこと能うるなら,豈に千里(の距離を連絡しあって)而して戦を請うものだろうか邪!」

帝の弟である司馬孚が書で軍事を問うたところ,帝は復書して曰く:「諸葛亮は志大きかれ而して機を見ず,謀<はかりごと>多かれ而して決すること少なし,兵を好みながら而して権(変)が無い,卒十万を提すると雖も,巳に吾が畫中に墮ちたり,之を破ること必ずやならん矣.」之と壘を対すること百余日,諸葛亮が病卒するに会って,諸将は営を焼いて遁走した,百姓が奔ってきて告げたため,帝は兵を出して之を追った.諸葛亮の長史である楊儀が旗を反して鼓を鳴らせ,若将距帝者.帝以窮寇不之逼(帝はそれが窮寇であることを以って之に逼らなかったため),是に於いて楊儀は陣を結んで而して去った.経日して,乃ち其の営壘に行き,其の遺事を観て,其の図書、糧穀を獲ること甚だしかった.帝は其の必ず死んだことを審らかにして,曰く:「天下の奇才であった也.」としたが辛は以って為すに尚も

-9-

未だ知る可からざるところであった.帝は曰く:「軍家が重んずる所は,軍書密計、兵馬糧穀であるが,今皆之を棄てていった,豈に人が其の五藏を捐ねながら而して以って生くる可こと有ろうか乎?宜しく急いで之を追うべきだ.」関中に蒺垂ェ多かったため,帝は軍士二千人を使わして軟材で平底の木屐を著させると前に行かせた,蒺セの悉くが著屐し,然る後に馬歩が倶に進んだ.追って赤岸に到ったところで,乃ち諸葛亮の死を知り審問したのである.時に百姓は之を諺と為して曰く:「死せる諸葛が生ける仲達を走らせた.」帝は聞くと而して笑って曰く:「吾は生けるものを料ること便ずるも,死故を料ることは便じない也.」

是より先に,諸葛亮の使いが至ったとき,帝が問うて曰く:「諸葛公の起居は何如であろう,食可幾米(どれほどを食されようか)?」としたところ[五]対して曰く:「三四升です.」次いで政事を問うと,曰く:「二十罰已上<以上>は皆自ら省覽されます.」としたため帝は既に而して人に告げて曰く:「諸葛孔明は其れ久しきこと能うるや乎!」竟に其の言の如くとなった.諸葛亮の部将である楊儀、魏延が権を争い,楊儀が魏延を斬って,其并わせた.帝は隙に乗じて而して進もうと欲したが,詔が有って許されなかった.

三年(236年),太尉に遷り,封邑を累ねて増された.蜀将の馬岱が入寇してきたため,帝は将軍の牛金を遣わして之を撃たせ走らせ,千余級を斬った.

武都の氐王である苻雙、強端が其の属六千余人を帥して来降してきた.[六]

関東が饑(飢餓)となったため,帝は長安の粟五百万斛を運ばせ京師に<於>輸(送)した.

四年(237年),白鹿を獲たため,之を献じた.天子曰く:「昔周公旦が成王を輔<たす>けたおり,素雉之貢が有ったという.今君は陝西之任を受けて,白鹿之献が有る,豈に忠誠協符に非ざるか,千載して契りを同じくし,邦家を俾乂した,以永厥休邪!」

遼東太守の公孫文懿が反するに及び,帝は徴され京師に詣でた.天子曰く:「此は以って君に労させるには不足なのだが,事は必ず克つことを欲している,故に以って相煩わせるだけだ

-10-

耳.君度其作何計?」対して曰く:「豫め城を棄てて走るは,上計です也.遼水に拠って以って大軍を距むは,次計です也.坐して襄平を守るなど,此こそ擒われと成るだけのこと耳.」天子曰く:「其の計は将に安んぞ出るものだろうか?」対して曰く:「惟明るい者だけが能く深く彼と己とを度ます,豫め棄てる所が有れば,此は其が及ぶ所に非というもの也.今軍を懸けて遠征しますからには,将に持久すること能わずと謂うもの,必ずや先んじて遼水を距んでから而して後に守る,此が中下計です也.」天子曰:「往還には幾らの時がかかる?」対して曰く:「往くに百日,還るに百日,攻めるに百日,六十日を以って休息と為しますから,一年で足りるかと矣.」

是時宮室が大修されており,之に加えて以って軍旅があったため,百姓は饑弊した.帝は将に即戎すると,乃ち諫めて曰く:「昔周公は洛邑を営み,蕭何は未央を造りました,今宮室は未だ備えることありませんおは,臣之責です也.然るに河以より<自>北では,百姓が困窮し,内外に役が有りまして,勢いからして並んで興こせるものではありません,宜しく内務を假に絶たれて,以って時急を救われますように.」

景初二年,牛金、胡遵等の歩騎四万を帥して,京都より<自>発した.車駕が西明門から送り出て,詔がくだされ弟の司馬孚、子の司馬師が温を過ぎて送ることとなり,賜るに穀帛牛酒を以ってされ,郡守典農以下皆会に焉<これ>往くよう勅(令)がだされた.父老故旧に見え,讌飲すること日を累ねた.帝は歎息し,悵然として有感すると,歌を為して曰く:「天地開闢,日月重光.遭遇際会,畢力遐方.将掃穢,還過故郷.肅清万里,總斉八荒.告成帰老,待罪舞陽.」遂に師を進めて,孤竹を経て,碣石を越え,遼水を<于>次いだ.文懿は果たして歩騎数万を遣わして,遼隧で阻み,堅壁して而して守った,南北六七十里,以って帝を距んだ.帝は兵を盛んにして旗幟を多く張って其の南に出たところ,賊は鋭を尽くして之に赴いてきた.乃ち舟を泛して潛み済し以って其の北に出ると,賊営と相逼り,舟を沈めて梁を焚くと,遼水を傍らにして長囲を作り,賊を棄てて而して襄平に向った.諸将は言いて曰く:「賊を攻めずして而して囲みを作るなど,非所以示也.」帝曰:「賊は営を堅くして壘を高くし,以って吾が兵を老わせんことを欲している也.之を攻めるには,正に其計に入るべきだ,此こそ王邑が

-11-

昆陽を過ぐることを恥じた所以である也.古人は曰く,敵が壘を高くすると雖も,我と戦わないこと得ないようにするには<者>,其の必ず救わんとする所を攻めればよい也.賊の大が此れに在れば,則ち巣窟(本拠地)は虚しからん矣.我が直ちに襄平を指さんとすれば,則ち人は内に懼れを懐こう,懼れれば而して戦いを求めてくるだろうから,之を破ること必ずならん矣.」遂に陣を整えると而して過ぎた.賊は兵が其の後ろにつづいて出てゆくのを見て,果たして之を邀<むかえ>うった.帝は諸将に謂いて曰く:「其の営を攻めなかった所以は,正しく此を致さんと欲したのだ,(時宜を)失う可からず也.」乃ち兵を縱にして逆撃し,之を大いに破ると,三戦して皆捷った.賊が襄平を保ったため,進軍して之を囲んだ.

初め,文懿(公孫淵)は魏師之出るを聞くや也,孫権に<於>救いを請うた.孫権も亦出兵して遙かに之に聲援を為すと,文懿に書を遣わして曰く:「司馬公は用兵を善くし,変化すること神の若くであって,向う所で前にあたるもの無いから,深く弟の為に之を憂う.」

霖潦あるに会い,大水が地を平らげること数尺となったため,三軍は恐れて,営を移そうと欲した.帝は軍中に令して敢えて(営を)徙そうと言ってくる者が有れば斬るとした.都督令史の張靜が令を犯したため,之を斬ったところ,軍中は乃ち定まった.賊は水を恃み,樵牧すること自若としていた.諸将は之を取らんことを欲したが,皆聴きいれなかった.司馬の陳珪が曰く:「昔上庸を攻めたとき,八部が並んで進み,晝夜しても息つかせませんでした,故に一旬之半ばにして,堅城を抜き,孟達を斬ること能くしたのです.今者(今の状態は)遠くより来たりて而して更めて安緩としていますが,(わたしは)愚かしくも焉<これ>に竊惑するものです.」帝曰く:「孟達は少なく而して食は一年を支えるものであった,吾が将士は孟達の<于>四倍あったが而して糧は月を淹れず,(そのように)一月を以ってして一年を図るとするなら,安んぞ速やかならざらんとす可きだろうか?四を以って一を撃つのだから,正令半解,猶当為之.以って死傷を計らずして,糧と競う是としたのである也.今賊は我は寡なく,賊は飢えて我らは飽いている,水雨が乃ち爾しているのだから,功力は設けないものだ,当に之を促すべきと雖も,亦何をか為す所あらん.京師を発してより<自>,賊が攻めてくるのを憂いはしなかった,但だ賊が(逃)走しはしないかと恐れていたのだ.今や賊の糧は垂尽せんとしておりながら,而して囲落は未だ合っていないため(包囲が閉じきって完成しているのではないため),其の牛馬を掠め,其の樵采を抄しているが,此こそ故驅之走である也.夫兵とは<者>詭道なり,事変に因ることを善しとする.賊は憑き雨を恃みとしている,故に飢え困っていると雖も,未だ手を束ねる肯んじないでいるのだ,当に無能を示して以って之を安んずるべきであろう.小利を取らんとすれば以って之を驚かして(逃走させて)しまう.それは計というものに非ざるなり也.」朝廷は師が雨に遇っていると聞くと,咸じて召還せんことを請うてきた.しかし天子は曰く:「司馬公は危うき臨んで変を制す(男だ),日を計るに之を擒えることだろう矣.」既に而して雨止んだため,遂に合囲した.土山地道,楯櫓鉤橦を起こして,矢石を雨が下るように発し,

-12-

晝夜(昼夜を分かたず)之を攻めた.

時に長星が有り,色は白く,芒鬣を有した,襄平城の西南より<自>東北に<于>流れ,梁水に於いて墜ちた,城中は震慴した.文懿(公孫淵)は大いに懼れ,乃ち使其の署す所である相国の王建、御史大夫の柳甫を使わして降らんことを乞わせ,囲みを解き面縛するよう請うてきた.しかし許さず,王建等を執らえると,皆之を斬った.そうして檄で文懿に告げて曰く:「昔楚も鄭も列国であったおり,而して鄭伯は猶も肉袒牽羊して而して之を迎えた.孤為王人,位は則ち上公であり,而して王建等は孤<わたし>に囲みを解いて退舍するよう請うてきたが,豈に楚鄭之謂われがあったろうか邪!二人は老耄であり,必ずや言を伝えるに旨を失ったのだろう,だから已に相為して之を斬った.若し意に未だ已まないところ有れば,可更めて年少にして明決を有する者が来るよう遣わす可きであろう.」文懿は復侍中の演を遣わして剋日送任せんことを乞うてきた.帝は演に謂いて曰く:「軍事の大要には五つ有る,戦うこと能わば当に戦うべし,戦うこと能わば当に守るべし,守ること能わば当に走るべし,余りの二事は惟降ることと死すこと有るのみ耳.汝は面縛する肯じなかった,此は死に就くを決めたと為るのだ也,須く送任しない.」文懿は南囲を攻めて突出し,帝は兵を縱にして之を撃って敗ると,梁水之上で星が墜ちた所で<于>斬った.既に入城すると,兩標を立てて以って新旧を別にした焉.男子で年が十五已上<以上>のもの七千余人は皆之を殺し,以って京観を為した.偽の公卿已下は皆誅に伏し,其の将軍の畢盛等二千余人を戮し.戸四万,口三十余万を収めた.

初め,文懿は其の叔父である公孫恭の位を簒(奪)し而して之を囚えた.将に反するに及び,将軍の綸直、賈範等は苦諫したが,文懿は之を皆殺しした.帝は乃ち公孫恭之囚を釋すと,綸直等之墓を封じて,其の遺嗣を顯らかにした.令して曰く:「古之伐国では,其の鯨鯢を誅す而已<のみ>,諸為文懿所詿誤者(公孫淵の誤りを詿さんとした所の諸々の者は),皆之を原<ゆる>す.中国の人で旧郷に還ろうと欲するものは,恣に之を聴きいれる.」

時に兵士で寒さに凍えたものが有り,襦を乞うたため,帝は弗を之に与えた.或るひとが曰く:「幸いにして故襦が多いから,以って之を賜る可きではないでしょうか.」帝曰く:「襦は<者>官物である,人臣が私ごとで施すものでは無い也.」乃ち軍人で年六十已上の者千余人を罷めさせ遣すことと,将吏で従軍して死亡した者について喪を家に還させるよう致すことを奏上した.遂に班師された.天

-13-

子は使者を遣わして軍を薊で<于>労り,(司馬懿の)封を増して昆陽を食(邑)とし,前と併せて二県となった.

初め,帝が襄平に至ったとき,夢で天子が其の膝を枕として,曰く:「吾が面を視よ.」俛視すると常に於けるのと異なるところ有ったため,心に之を惡んだ.是より先に,詔あって帝に道を便じて関中を鎮めるようにとのことだった;しかし白屋に次ぐに及び,詔が有って帝を召すこと,三日之間に,詔書が五つも至った.手から詔して曰く:「こうしている間にも側息として到らんことを望んでいる,到ら便じて直ちに閤を排して入り,吾が面を視よ.」帝は大いに遽すると,乃ち追鋒車に乗って晝夜兼行し,白屋より<自>四百余里,一宿にして而して至った.引きて嘉福殿の臥内に入ると,御った.帝(司馬懿)は流涕して疾を問うた,天子は帝の手を執ると,斉王に目をやって曰く:「以後の事は相託す.死も乃ち復忍ぶ可けんか,吾は死を忍んで君を待った,相見えるを得て,復恨む所無い矣.」大将軍の曹爽と並んで遺詔を受けて少主を輔けることとなった.

斉王が帝位に即するに及び,侍中に遷り、持節、都督中外諸軍、録尚書事となり,曹爽と各々兵三千人を統,共に朝政を執り,殿中に更直し,輿に乗って入殿することになった.曹爽は尚書を使わすと己より<由>先に事を奏らせようと欲し,乃ち天子に於いて言うと,帝を徙して大司馬と為そうとした.朝議があり以って為すに前後して大司馬が累ねてその位に於いて薨じていたことから(大司馬とするのは不吉であるとして),乃ち帝を以って太傅と為すと,入殿不趨,贊拜不名,劍履上殿(の特礼をあたえること)とし,漢の蕭何の故事の如くとした.嫁娶喪葬は官に於いて取給されることなり,世子の司馬師を以って散騎常侍と為し,子弟三人は列侯と為り,四人は騎都尉と為った.帝は固く子弟の官を譲り受けなかった.

正始元年春正月,[七]東倭が重譯して納貢してきた,焉耆、危須の諸国,弱水以南にある,鮮卑の名王が,皆使いを遣わし来獻してきた.天子は美を宰輔に帰し,又帝の封邑を増した.

初め,魏の明帝は宮室を修(築)するのを好み,制度は靡麗であったため,百姓は之に苦しんだ.帝が遼東より<自>還って,役についていた者は猶も万余人あり,雕玩之物動は

-14-

以って千を計った.是に至って皆奏して之を罷めることとし,用を節して農に務めたため,天下は焉<これ>を欣ョとしたのである.

二年夏五月,呉将の全jが芍陂を寇し,朱然、孫倫が樊城を囲み,諸葛瑾、歩騭が柤中を掠めたため,帝は自ら之を討たんことを請うた.議者は咸言して,賊は遠くより来たりて樊を囲んでおり,卒拔すること不可(能)である.堅城之下に於いて挫かれれば,自ら破れる勢いを有することとなろうか,宜しく長ずる策で以って之を御すようにとした.帝曰く:「辺城が敵を受けながら而して廟堂に安坐していれば,疆埸は騷動し,心が疑惑しよう,是は社稷之大憂である也.」

六月,乃ち諸軍を督して南征し,車駕が津陽門から送り出された.帝は以って南方は暑であるから,宜しく持久すべきでない,軽騎を使って之に挑ませれば,然不敢動.是に於いて戦士を休ませて,精鋭を簡(抜)し,先登を募り,号令を申しわたし,必攻之勢いを示した.呉軍は夜に遁走したため,追って三州口に至り,斬獲すること万余人,其の舟船軍資を収めて而して還った.天子は侍中常侍を遣わして軍を宛で<于>労わった.

秋七月,摯浮オて郾、臨潁を食とすることとなり,前と并わせて四県となり,邑は万戸となった,子弟十一人は皆列侯と為った.帝の勳徳は日ごと盛んとなったが,而して謙恭愈することしかった.以って太常の常林が郷邑の旧歯であったために,之に見えるとことごとに拜した.子弟に恆戒して曰く:「盛んとなって滿つるのは<者>道家の忌む所だ,四時は推移することが有る猶くである,吾は何の徳あって以って之に堪えようか.之を損ねて又之を損ねん,庶くはそれを以って免れる可からん乎!」

三年春,天子は追封諡皇考京兆尹為舞陽成侯.

三月,広漕渠を穿って,河を引いて汴(水)に入れ,東南の諸陂をして(止めて),淮北に於いて大いに佃することを始めるよう奏上した.

先是,呉が将の諸葛恪を遣わして皖に駐屯させたため,辺鄙は之に苦しんだ,帝は自ら諸葛恪を撃とうと欲した.議者の多くが以って賊は堅城に拠って,積穀しているため,

-15-

官兵を引致することを欲した.今や軍を懸けて遠く攻めれば,其れ救うこと必至であろうが,進退は易くないのだから,未だ其が便ずるものに見えないとした.帝曰く:「賊が長じている所というのは<者>水である也,今其の城を攻めるにあたり,以って其の変を観ることとする.若し其の長ずる所を用いれば,城を棄てて奔走しよう,此が廟勝を為すことである也.若し敢えて固守したなら,湖水は冬には淺くなり,船は行くことを得ない,勢いからして必ず水を棄てて相救おうとしてこよう,其の短じる所に由<よ>るのも,亦吾が利となろう也.」

四年秋九月,帝は諸軍を督して諸葛恪を撃ちにでた,車駕が津陽門から送り出された.軍が舒に於いて次ぐと,諸葛恪は積み聚めたものを焚燒し,城を棄てて而して遁れた.

帝は以って賊を滅ぼす要とは,積穀に於けるに在るとすると,乃ち大いに屯守を興し,淮陽を広く開いて、百尺ともなる二つの渠をつくり,又た潁之南北に於いて諸陂を修めること,万余頃とした.[八]是より<自>淮北の倉庾は相望むこととなり,壽陽が京師に於いて至り,[九]農官屯兵は焉に連なり属すことになった.

五年春正月,帝が淮南より<自>至ったため,天子は持節を使わして軍を労った.

尚書のケ颺、李勝等が曹爽に欲して令して功名を建立させようとして,蜀を伐させ使もうと勧めた.帝は之を止めようとしたが,不可(できず),曹爽は果たして功無くして而して還ってきた.

六年秋八月,曹爽は中壘や中堅営を毀すと,以って兵を其の弟で中領軍の曹羲に属させようとした.帝は以って先帝の旧制が之を禁じているからと,不可とした.

冬十二月,天子が詔して帝は朝会では輿に乗って升殿することとした.

-16-

七年春正月,呉が柤中を寇したため,夷夏万余家が寇を避けて北して沔(水)を渡ってきた.帝沔南賊に近いことを以って,若し百姓が奔り還ったなら,必ずや復た寇を致すだろうから,宜しく之を権留すべきとした.曹爽曰く:「今は沔の南を修め守り而して百姓を留めること能わざるから,(その策は)長ずる策に非ず也.」としたが帝は曰く:「然らず.凡そ物が之に致されるとき地が安んじられていれば則ち安んじられ,地が危うければ則ち危うくなる.故に兵書に曰く『成敗とは,形である也;安危とは,勢である也』というのだ.形勢は,御之要めであり,以って審らかにすることはできない.設令賊以二万人断沔水,三万人与沔南諸軍相持,万人陸梁柤中,将何以救之?」曹爽は従わず,卒令して南に還った.賊は果たして柤中を襲って破ったため,失う所が万計となった.

八年夏四月,夫人張氏が薨じた.

曹爽は何晏、ケ颺、丁謐之謀を用いると,太后を永寧宮に於いて遷し,朝政を專擅した,兄弟は禁兵を并わせ,多樹親党,制度を屢改した(頻繁に改めた).帝は禁ずること能わず,是に於いて曹爽と隙を有することになった(関係が冷却することになった).

五月,帝は疾と称して政事に与らなかった.時の人は之に謠を為して曰く:「何、ケ、丁,京城を乱す.」

九年春三月,黄門の張当が掖庭の才人である石英等十一人を私出させ,曹爽に与えて伎人と為した.曹爽、何晏は帝の疾が篤いと謂い,遂に君を無いがしろにする心を有し,当に密謀に与して,社稷を危うくせんことを図り,期有日矣.帝は亦た潛かに之に備えを為したため,曹爽之徒属も亦頗る帝を疑った.河南尹の李勝が将に荊州にすることとなるに会い,帝に来候した.帝は疾が篤いように詐すと,兩に婢を使って侍らせ,衣を持ったところで衣を落とした,口を指して渇いたと言うと,婢が粥を進めたが,帝は杯を持たずに飲もうとし,粥は皆流れ出て胸を霑とした.李勝は曰く:「情謂明公旧風發動,何意尊體乃爾!」帝使聲氣纔属,説くに「年老いて

-17-

枕疾んで,死は旦夕に在るようだ.君は当に并州に屈するとか,并州は胡に近いから,善く之に備えを為すといい.恐らくは復相見えることなかろう,子の師、昭兄弟を以って託すこと為したい」.李勝曰く:「当に還るべくは忝くも本州でして,并州ではありません.」帝は乃ち其の辞にも錯乱して曰く:「君は方じて并州に到るのか.」李勝復曰く:「当に忝くも荊州です.」帝曰く:「年老いると意が荒んで,君の言も解さないようだ.今本州に還り為すとは,盛徳壯烈なことだ,好く功勳を建てたまえ!」李勝は退くと曹爽に告げて曰く:「司馬公は尸が余りの氣に居るようなもので,形神は已に離れております,慮るに足りません矣.」他日,又言いて曰く:「太傅は復済することができず,令人は愴然としております.」故に曹爽等は復備えを設けなかった.

嘉平元年春正月甲午,天子が高平陵に謁し,曹爽兄弟は皆従った.是日,太白が月を襲った.帝は是において<于>永寧太后に曹爽兄弟を廃するよう奏上した.時に景帝が中護軍と為っており,兵を将いて司馬門に駐屯していた.帝は闕下に列陣させると,曹爽の門を経た.曹爽の帳下督であった嚴世が樓に上って,弩を引いて将に帝を射ようとしたため,孫謙は之を止めて曰く:「事は未だ知る可からず.」三注三止,皆其の肘を引いたため發すること得なかった.大司農の桓範は出て曹爽のところへ赴こうとした,蔣済は帝に於いて言いて曰く:「智囊が往かんとしています矣.」帝曰く:「曹爽は桓範とは内あるから而して智は及ぶまい,駑馬は短豆を恋うもの,[一0]必ずや能く用いることなかろう也.」是に於いて司徒の高柔に節を假すと,行大将軍事とし,曹爽の営を領させ,高柔に謂いて曰く:「君は周勃と為れ矣.」太僕の王観に命じて行中領軍とし,曹羲の営を攝らせた.帝は帥を親しくし太尉蔣済等は兵を勒して出て天子を迎え,洛水の浮橋に於いて駐屯すると,上奏して曰く:「先帝詔陛下、秦王及臣升於御,握臣臂曰『深以後事為念』.今大将軍の曹爽はその命を顧みることを背棄し,国典を敗乱させ,内では則ち僭擬し,外では威権を専らにしています.官要職は,皆親しむ所に置かれました;宿旧人ばかりで,並んで斥黜に見えています.槃互を根拠として,縱にし恣とすること日ごとしいものがあります.又黄門の張当を以って都監と為すと,專共交関,神器を伺候しました.天下は洶洶として,人は危懼を懐きました.陛下便為寄坐,豈得久安?此非先帝詔陛下及臣升御之本意也.臣は朽邁と雖も,敢えて前言を忘れたりしません.昔趙高が意を極めると,秦は以って亡ぶ是とすることとなりました;(その一方で)呂霍が早断したため,漢

-18-

祚は永らえ延びたのです.此は乃ち陛下之殷鑒,臣が授命之秋です也.公卿臣は皆が以って曹爽には君を無いがしろにする之心を有しておりますから,兄弟が典兵し宿するのは宜しからずとしておりますとして;皇太后に奏上したところ,皇太后は敕として奏じられた如く施行せよとされました.臣は輒ち敕主<つかさど>った者及び黄門令に曹爽、羲、訓の吏兵を罷めさせ,各々は本官を以って第に侯就することとさせました.車駕を稽留する若かれば,軍法を以って事に従わせるものです.臣は輒ち疾く将兵に力<つとめ>させ洛水の浮橋に詣でさせて,非常を伺察しましょう.」としてきたが曹爽は通奏せず,車駕を留めて伊水の南に宿すると,樹を伐して鹿角を為し,屯兵数千人を発して以って守らせた.桓範は果たして曹爽に天子を奉じて許昌に御幸し,檄を移して天下の兵を徴発するよう勧めた.しかし曹爽は用いること能わず,而して夜に侍中の許允、尚書の陳泰を遣わして帝に詣でさせると,風旨を観望させた.帝は其の過失を数えあげたが,事は免官に止まるとした.陳泰は還ると以って曹爽に報(告)し,之に通奏するよう勧めた.帝も又た曹爽が信じる所とする殿中校尉の尹大目を遣わして曹爽を諭させ,(彼は)洛水を指して誓いを為したため,曹爽の意は之を信じた.桓範等は古今を援引して,万端を諫め説いたが.終に従うこと能わずして,乃ち曰く:「司馬公は正しく当に吾が権を奪わんと欲しているだけ耳.吾得以侯還第,不失為富家翁.」桓範は拊膺して曰く:「卿に坐し,吾が族は滅ぼされたわ矣!」遂に帝に通奏した.既にして而して有司が黄門の張当を弾劾しており,并わせて曹爽与何晏等が反事していたと発すると,乃ち曹爽兄弟及び其の党与であった何晏、丁謐、ケ颺、畢軌、李勝、桓範等を収め之を誅した.蔣済曰く:「曹真之勳があるのだ,以って不祀とするのは不可である.」としたが帝は聴きいれなかった.

初め,曹爽の司馬の魯芝、主簿の楊綜は関を斬って曹爽のところへ奔った.曹爽之将に罪に帰さんとするに及ぶや也,魯芝、楊綜は泣いて諫めて曰く:「公は伊周之任に居って,天子を挟み,天威を杖にしているのです,孰敢不従?(どうして敢えて従わないでおかないのです?)此を舎して而して東市に就かんことを欲するなど,豈に痛ましくないことありましょうか哉!」有司が魯芝、楊綜を収めて罪を科りたいと奏上したが,帝は之を赦した,曰く:「以って君に事える者を勧めるのだ.」

二月,天子は帝を以ってして丞相と為すと,潁川之繁昌、鄢陵、新汲、父城を増封し,前と并わせて八県,邑は二万戸となった,事を奏するにあたって名のらなくてよいこととなった.しかし(司馬懿は)丞相を固讓した.

-19-

冬十二月,九錫之禮を加えられ,朝会で拜さなくてよいこととなった.しかし九錫を固讓した.

二年春正月,天子は帝に洛陽に<于>廟を立てるよう命じ,左右長史を置き,掾属、舍人を増して十人を満たすこととし,歳ごとに掾属を挙げて御史、秀才各一人を任ずることとし,官騎百人,鼓吹十四人を増し,子の肜を封じて平楽亭侯とし,倫を安楽亭侯とした.帝は以って久しく疾となって朝請に任じられなかったが,大事が有る毎に,天子は第に親幸して以って諮ろうとして焉に訪れたのである.

兗州刺史の令狐愚、、太尉の王淩が帝に於いて貳すると,謀って楚王彪を立てようとした.

三年春正月,王淩は詐言して呉人が涂水を塞いだから,兵を発して以って之を討ちたいと請うてきた.帝は潛かに其計を知ったため,聴きいれなかった.

夏四月,帝は自ら中軍を帥すると,舟を汎げて流れに沿い,九日して而して甘城に到った.王淩の計は出る所とて無く,乃ち武丘に於いて迎えると,[一一]面縛して水次した,曰く:「この淩に若し罪有ら,公は当に折簡して淩を召せばよかろうに,何苦しんで自ら来たのだ邪!」帝曰く:「以ってするに君は折簡之客に非ざる耳.」即ち王淩を以ってして京師に<于>帰らせた.道すがら賈逵の廟を経たとき,王淩は呼んで曰く:「賈梁道!王淩こそ是れ大魏之忠臣である,惟爾のみが神有らば之を知っていよう.」項に至ると,鴆を仰いで而して死んだ.其の余党を収めると,皆夷三族とし,并わせて曹彪を殺した.魏の諸王公の悉くを録して鄴に<于>置くと,有司に命じて監察させ,交関すること得させなかった.

天子は侍中の韋誕に持節させて遣わすと軍を五池にて<于>労わらせた.帝は甘城に至ってから<自>,天子も又た太僕の庾嶷に大鴻臚を兼ねさせ持節させて使わすと,策命して帝を相国と為し,安平郡公に封じ,孫及び兄の子各一人を列侯と為した,前後の食邑は五万戸となり,侯となった者は十九人であった.相国、郡公を固讓して受けなかった.

-20-

六月,帝は寢疾し,夢で賈逵、王淩が祟りを為すのをみて,甚だ之を惡んだ.秋八月戊寅,京師に於いて崩じた,時に年は七十三.天子は素服で臨弔し,喪葬の威儀は漢の霍光の故事に依ることとされ,相国、郡公を追贈された.弟の司馬孚が先の志を表陳して,郡公及び轀輬車を辞した.

九月庚申,河陰にて葬られた,諡して曰く文,後に改めて諡されて宣文である.[一二]是より先に,預作終制として,首陽山に於いて土藏を為し,不墳不樹(墳墓とはせず樹もうえなかった);顧命三篇を作っていた,それには斂めるに時服を以ってし,明器を設けず,後終者(殉死した者)は合葬すること得させないことなっていた.そこで一えに遺命の如くされたのである.晉国が建てられて初めに,追尊され曰く宣王とされた.武帝が受禪すると,尊号を上らせ曰く宣皇帝とされ,陵は曰く高原とされ,廟称は高祖とされた.

帝は内では忌んでいても而して外はェであり,猜忌して権変多かった.魏武は帝に雄豪の志が有ることを察しており,狼顧の相を有していると聞くと,之を驗めんことを欲した.乃ち召して前に行かせ使と,反顧するよう令したところ,面は正しく後ろを向いているのに而して身は動いていなかった.又た嘗つて夢に三馬が一槽で食を同じくしているのをみて,甚だ焉を悪んだ.因って太子の曹丕に謂いて曰く:「司馬懿は人臣に非ざるなり也,必ずや汝が家の事に預からん.」太子は素より帝と善くしていたため,毎相全佑,故に免れたのである.帝は是に於いて吏職に於いて勤め,夜になっても以って寢るのを忘れ,芻牧之間に於けるに至った,悉皆臨履,是によって<由>魏武の意は遂に安んじたのである.公孫文懿を平らげるに及び,大いに殺戮を行った.曹爽を誅する際には,支党は皆夷されそれは三族に及んだが,男も女も少長(の別)無く,姑姊妹女子で人に適っていた者であっても之を皆殺しとしたため,既に而して竟に魏を遷したと云う.

明帝の時に,王導が坐に侍っていた.帝は前世で天下を得た所以を問うたため,王導は乃ち帝の創業之始めを陳べ,文帝の末にあった高貴郷公の事に及んだ.明帝は以って面覆せるとして曰く:「若し公の言の如かれば,晉祚も復安んぞ長遠を得んか!」其猜忍,蓋し符を有すること狼顧に於けるものであった也.

制に曰く:夫れ天地之大なるは,黎元が本を為す;邦国之貴かるは,元首が先を為す.治乱には常無く,興亡するに運有り.是故に五帝之上は,万乘に居っても以って憂いを為した;三王が已に来たりて,其の憂いに処し而して楽を為した.智力を競い,利害を争い,大小が相呑み,強弱が相襲った.逮すること

-21-

魏室において<乎>,三方が峙し,干戈は息つかず,氛霧が交わり飛んだ.宣皇は天挺之姿を以ってして,期に応じて命を佐け,文(帝)は纘治を以ってし,武(帝)は棱威を以ってした.人を用いること己に在るが如くであり,賢を求めること及ばざるが若きであった;情は深阻すれ而して測られることは莫く,性はェ綽にして而して能く容れた.和光同塵,時に与って舒卷し,戢鱗潛翼し,思は風雲に属した.已詐之心において<于>忠を飾りたて,将危之命において<于>安き延ばした.観其雄略内断,英猷外決,公孫を百日に於いて殄じ,孟達を盈旬に於いて擒え,自ら以って兵動かすこと神の若く,謀して再び計ること無し矣.既に而して擁して西に挙げ,諸葛と相持した.其の甲兵を抑えたのは,本より志が無かったからであり,其の巾幗を遣わされて,憤心を発することを方じた.節を杖にして門に当たらせると,雄図は頓屈し,戦を千里に請うたのは,詐して示威せんことを欲したのである.且つ秦蜀之人は,勇は懦にして敵するに非,夷險之路については,労逸は同じからず,此を以って功を争うに,其利は見る可ものであった.而して軍を返して閉じると壘を固めると,敢えて鋒を争うこと莫かった,(諸葛亮が)生きているときは実に怯えて而して未だ前にゆかず,死んでもその虚を疑って而して猶も遁れた,良将之道,失すること斯く在るものであろうか乎!文帝之世では,輔翼して権は重く,許昌(を任されたの)は蕭何之委ねと同じくされたもの,崇華(殿での待遇)は霍光之寄とおなじように甚だしいものであった.当に竭誠して節を尽くしたと謂うべきであり,伊傅は斉しかる可ものであろう.明帝が将に終らんとするに及んで,棟梁が是属され,二主を受遺されて,佐命すること三朝となり,既にして忍死之託を承ったが,曾<すなわ>ち殉生之報は無かった.天子が外に在ったときに,内で甲兵を起こし,陵土が未だ乾かずして,遽<にわ>かに相誅戮した,貞臣之體とは,寧んぞ此の若きものであろうか乎!尽善之方(善を尽くすやり方というの)が,斯くなるを以って為すとは惑うものである.夫れ征討之策,豈に東では智でありながら而して西では愚かであったのか?輔佐之心,何前には忠であったのに而して後に乱れたのか?故に晉の明(帝)は掩面して,欺き偽って以って成功したことを恥じたのである;石勒は肆言すると,姦回して以って業を定めりと笑った.古人に云うこと有り,「善を積むこと三年,之を知る者は少ない;惡を為すこと一日,聞こえること天下において<于>である」,然りと謂わざる可きであろうか乎!自ら隱れて当年を過ごすと雖も,而して終に後代に嗤われるに見えるのである.亦猶も竊鍾掩耳,以人為不聞;鋭意盜金,謂市中為莫.故に知るのである、近くにおいて<于>貪る者は則ち遠き遺し,利に<于>溺れる者は則ち名を傷つけると;己を損ねずして(他)人を以って(自らの)益とする若かれば,則ち当に人に禍して而して己に福とすべきこととなろう.理に順って而して挙げれば力を為すこと易く,時に背いて而して動けば功を為すこと難し況んや未だ成らざる晉の基を以ってして,有余ある魏の(帝)祚に逼らんとするとは?雖復道格區宇,徳は蒼生を被った,而して天は未だ啓時せず,寶位すれ猶も阻んだ,智を以って競う可くに非,力を以って爭う可からず,

-22-

慶流に則り後に昆たりしと雖も,而して身は北面するに於けるに終わったのである矣.

 

校勘記

[一]南陽太守同郡楊俊にある「南陽」は,各本では皆作「南郡」と作る.錢大マの廿二史考異では(以下考異と簡称する):「魏志では楊俊は南陽太守と為っている,南郡に非.」とあるため今は拠って改める.

[二]屯田在潁川者逼近南寇張讀史挙正以下簡称挙正:「南寇」は呉のことを謂う,潁川は未だ逼近を為されていなかった,資治通鑑(以下は簡称して通鑑とする)六八では「漢川」と作るのが,是である也.

[三]為木柵以自固は何超の晉書音義(以下簡称して音義とする)では「木柵」を「水柵」と作る.

[四]都督雍梁二州諸軍事のことは三国志魏志(以下僅称して魏志、蜀志或いは呉志とする)に拠る.陳留王紀では,梁州が置かれたのは景元四年十二月に於いてである,此が在るのは三十余年の後のことである.司馬懿の督二州は曹真から係代したもので,景初三年には趙儼が司馬懿に代わっている,魏志曹真伝、趙儼伝では「雍涼」と都作する.当に魏志に従うべきではないかと疑われる.

[五]食可幾米は太平御覽の(以下簡称して御覽とする)三七八で魏の明帝が曹植に詔して云った「食幾許米」を引いたもの,幾許は即ち幾何のことである,漢魏の常語と為っていたもので,「幾」の下に当に「許」の字が有るべきではないかと疑われる.

[六]武都氐王苻雙強端帥其属六千余人来降というのは蜀志張嶷伝、華陽国志七に拠る,武都の氐王苻健は蜀に降り,其の弟を卒して魏に就いた.苻雙は並んで氐王に非,「王」字は衍でないかと疑われる.

-23-

[七]正始元年「正始」上各本皆有「魏」字.周家祿の晉書校勘記(以下周校と簡する)では:「『魏』字は衍文である,蓋し前に『魏国既建』,『魏文帝即位』が有ったのだろう,黄初以下は皆蒙上為文.」今は刪に拠る.

[八]又修諸陂於潁之南北万余頃呉仕鑑晉書斠注以下簡称斠注:食貨志では「大治諸陂于潁南潁北,穿渠三百余里,田二万頃」と作っている.紀文「万余頃」上似脱「田」二字.

[九]壽陽至於京師にある「壽陽」は,食貨志では「壽春」と作る.按ずるに:東晉の時に始めて壽春を改めて壽陽と為したのである,此処は当に「壽春」と作るべきである.書中では壽春、壽陽が雜出している,類此以下不再校(そこで一々訂正したりしない).

[一0]駑馬恋短豆は武英殿本(以下殿本と簡称する)及び魏志曹爽伝注に引く干寶の晉紀、資治通鑑七五では「短豆」は「棧豆」と作る,御覽八九五に引く干寶の晉紀では「芻豆」と作る.

[一一]武丘は魏志王淩伝、通鑑七五では「丘頭」と作る.魏志文帝紀の甘露三年に「魏帝が丘頭を改めて曰く武丘とするよう命じた」とある,高貴郷公紀も同じである.改名は後に在ったことで,此時には当に「丘頭」と作るべきである.

[一二]諡曰文後改諡宣文について各本皆「諡曰文貞,後改諡文宣」と作る.考異では:「禮志を按ずるに,魏朝は初め宣帝に諡して文侯と為し,景帝を武侯と為した.そこで文王が表して二祖に同じきを与えるは宜しからずとしたため,是に於いて改めて宣文、忠武と諡したのである.然るに則ち初め文と諡したのであり,『貞』字は無かったのである也.禮志及び文帝紀では並んで舞陽宣文侯と称している,宋書の禮志も同じである.此が『文宣』と云うのは,亦た転寫之誤りであろう.」今拠って改める.

-24-