巻第七十

 

【魏紀二】 起昭陽單閼,尽強図協洽,凡五年。


世祖文皇帝下黄初四年(癸卯,西暦二二三年)


  春,正月,曹真は張郃を使わして呉兵を撃破し,遂に江陵の中洲を奪うとそこに拠った。
  二月,諸葛亮が永安に至った。
  曹仁は歩騎数万を以ってして濡須に向かうと,先ず声を揚げて東して羨溪を攻めんと欲しているとしたため,硃桓は兵を分けて之に赴いた。既にして行ったところで,曹仁は大軍を以ってして徑進してきた。硃桓は之を聞くと,追って羨溪の兵を還させたが,兵が未だ到らずして而して曹仁が奄至した。時に硃桓の手下及び所部の兵で在った者は才五千人であった,諸将は業業として各々が懼れる心を有したため,硃桓は之に喩えて曰く:「凡そ兩軍が交わり対したなら,勝負は将に在るのであって,眾の寡なきに在るのではない。諸君は曹仁の用兵行師を聞いて,この硃桓と孰くであるとおもうのか邪?兵法では所以<いわゆる>『客は倍而して主人は半』と称するところ<者>は,倶に平原に在って城隍之守りが無いじょうたいでのことを謂うのだ,又士卒の勇怯が斉しい等の故を謂うのだ耳。今曹仁は既に智勇非して,加えて其の士卒は甚だ怯えている,又千里から歩渉してきており,人馬が罷困している(困憊しきっている)。この桓と諸君とは共に高い城に拠って,南は大江を臨み,北は山陵を背にして,逸を以ってして労を待っており,主と為って客を制そうというのだ,此は百戦百勝之勢いである,曹丕が自ら来たと雖も,尚も憂うるには足りない,況んや曹仁等においてや邪!」とすると硃桓は乃ち旗鼓を偃すると,外に虚弱を示して以って曹仁を誘致した。曹仁は其の子曹泰を遣わして濡須城を攻めさせると,将軍の常雕、王雙等を分遣して油船に乗せて別に中洲を襲わせた。中洲には<者>,硃桓の部曲の妻子が所在していた也。蔣済曰く:「賊は西岸に拠っており,船を上流に列しています,而して兵は洲中に入っている,是は自ずと内地が獄と為るもの,危亡之道です也。」曹仁は従わなかった,自ら万人を将いると橐皋を留めて,曹泰等の為に後援となった。硃桓は別将を遣わして常雕等を撃たせると而して身から自ら曹泰を拒んだため,曹泰は営を焼いて退いた。硃桓は遂に常雕を斬り,王雙を生け虜った,陳に臨んで殺し溺死した者は千余人であった。
  初め,呂蒙の病が篤かったおり,呉王は問うて曰く:「卿が起たざる如くなれば,誰が代わる可者か?」呂蒙は対して曰く:「硃然の膽守は余り有るものです,愚かしくも以為<おもえら>くは任す可きかと。」硃然というのは<者>,九真太守であった硃治の姊子である也;本の姓を施氏といい,治養されて以って子と為ったのである,時に昭武将軍と為っていた。呂蒙が卒すると,呉王は硃然に節を假して,江陵を鎮めさせた。曹真等が江陵を囲むに及んで,孫盛を破ったため,呉王は諸葛瑾等に兵を将いさせて遣わすと往って囲みを解かせようとしたが,夏侯尚が之を撃卻した。江陵は中外が断絶し,城中の兵の多くが腫病をわずらい,戦に堪える者は五千人を裁った。曹真等は土山を起て,地道を鑿つと,樓櫓を立てて城に臨み,弓矢は雨のように注がれ,将士は皆色を失った;硃然は晏ぜんとして恐れる意など無いかの如く,吏士を獅ワすことを方じて,間隙を伺うと,魏の両屯を攻め破った。魏兵が硃然を囲むこと凡そ六月となった,江陵の令であった姚泰は兵を領して城の北門に備えていたが,外を見て兵が盛んであり,城中の人が少なく,谷食が且つ尽きんとしていたため,済まなくなることを懼れ,謀って内応を為そうとした,硃然は覺ると而して之を殺した。時に江水が淺狹となっていた,夏侯尚は船に乗って歩騎を将いて渚中に入り屯を安んじようと欲し,浮橋を作ると,南北から往来するようにした,議者の多くが以って為すに城は必ずや抜くことが出来るであろうとした。董昭は上疏して曰く:「武皇帝の智勇は人に過ぎたもので,而して用兵は敵を畏れさせましたが,之を軽んじること此の若くには敢えてしませんでした也。夫兵とは進む好み退くを惡むもの,常に之を然りとし数えるものです。平地で険が無くとも,尚も艱難とする猶しであるますのに,就いては当に深く入らんとするなら,還道に宜しく利あるべきです,兵には進退というのが有りますから,意の如く(思うままには)出来ないでしょう。今渚中に駐屯してるのは,至深というもの也;浮橋で而して済っているのは,至危というもの也;一道で而して行くは,至狹というものです也。この三者は,兵家が忌む所で,而して今之を行っています,賊が頻る橋を攻め,誤って漏失すること有れば,渚中の精鋭は魏の有するところに非ざることとなり,将に呉の為のものに轉じ化けることでしょう。臣は之を私戚しまして,寢食を忘れるほどです,而しながら議者は怡然として以って憂うることなど為していない,豈に惑わないでいられましょうか哉!加えて江水(長江の水量)が長じるほうへ向かっております,一旦暴増あれば,何以って防禦できるというのでしょう!就いて賊を破らず,尚も当に自らを完うせんとすべきですのに,奈<なんじら>は何ぞ危うきに乗っているのに,以って懼れを為そうとしないのか!惟陛下には之を察せられますように。」帝は即ち詔を夏侯尚等にやって出るよう促した,呉人は両頭並び前にでてき,魏の兵は一道から引き去ることになったため,不時得洩,僅かに而して獲済。呉将の潘璋は已に荻筏を作ると,以って浮橋を焼こうと欲していたが,夏侯尚が退くに会ったため而して止めた。後に旬日して,江水が大いに漲った,そこで帝は董昭に謂いて曰く:「君が此事を論じていたが,何其れ審らであったことか也!」天が大疫するに会ったため,帝は諸軍を悉く召して還した。
  三月,丙申,車駕が洛陽に還った。初め,帝は賈詡に問うて曰く:「吾は命に従わないものを伐し,以って天下を一つにしようと欲するのだが,呉、蜀何れを先とすべきだろうか?」対して曰く:「攻め取らんとする者は兵権を先にし,本を建てんとする者は徳化を尚ものです。陛下は期に応じて受禪され,率土を撫臨され,若<けだ>し之を綏すに文徳を以ってして而して其の変を俟<待>ちますれば,則ち之を平げるのは難からず矣。呉、蜀は蕞爾<はびこっている>と雖も小國でして,山に依り水で阻んでいます。劉備は雄才を有し,諸葛亮は治國を善くします;孫権は虚実を識,陸遜は兵勢を見ます。険に拠って要を守り,舟を江湖に泛<浮か>べていて,皆(倉)卒に謀ること難しいものがあります也。用兵之道というのは,先に勝ってから後に戦い,敵を量って将を論じるのです;故に挙げれば遺策というのが無いのです。臣が群臣を竊い料りますに劉備、孫権に対せるもの無いのですから,天威を以ってして之に臨もうと雖も,未だ万全之勢いに見えません也。昔舜は干戚で舞ったところ而して有苗が服しました,臣が以為<おもえら>くは当今は宜しく文を先に武を後にすべきでしょう。」帝はれず,軍は竟に功が無かった。
  丁未,陳忠侯の曹仁が卒した
  初め,黄元は諸葛亮が善くしない所と為っていたため,漢主が病を疾んでいると聞き,後患有ることを懼れ,故に郡を挙げて反し,臨邛城を焼いた。時に諸葛亮は東行して疾を省みていたため,成都は単虚であった(空しく虚ろとなっていた),そのため黄元は益すます憚る所が無かった。益州治中従事の楊洪は,太子に啓(発)して将軍の陳
、鄭綽を遣わすと黄元を討たせた。眾議では以って為すに黄元が若し成都を囲むこと能わず,当に越に由って南中に拠るだろうとした。楊洪曰く:「黄元は素より性が凶暴であり,他に恩も信も無い,何能く此れを辦じえようか!水に乗って東下し,主上に平安を希うに過ぎまいが,面縛して死に帰すこととなろう;そして其れ異なることが有る如くとも,呉に奔って活を求めんとするだけ耳。但だ陳、鄭綽に敕<ことのり>して南安峽口に於いて邀遮させれば(迎えうち遮断させれば),即ち得るを便じられよう矣。」黄元は軍が敗れると,果たして江に順って東下していったため,陳、鄭綽が生け獲りにし,之を斬った。漢主の病は篤く,丞相である諸葛亮に太子を輔けるように,尚書令の李厳を以ってして副と為るように命じた。漢主は諸葛亮に謂いて曰く:「君の才は曹丕に十倍す,必ずや能く國を安んじ,終には大事を定めよう。若し嗣子が輔ける可くば,之を輔けよ;其が不才である如く,君が自ら取る可し。」諸葛亮は涕泣して曰く:「臣は敢えて股肱之力<つと>めを竭かさず,忠貞之節を效<効>かせ,之を継ぐに死を以ってせん!」漢主は又詔敕を太子に為して曰く:「人五十なれば夭と称さず,吾が年は已に六十有余,何恨む所あろう,但だ卿ら兄弟を以ってして念を為すのみ耳。之に勉めよ,之に勉めよ!惡は小を以ってしても而して之を為すこと勿れ,善は小を以ってしても而して為さざること勿れ!賢を惟<おも>徳を惟い,以って人を服させる可し。汝の父は徳薄く,效に足らざりき也。汝は丞相と従事し,之に事えること父の如くせよ。」夏,四月,癸巳,漢主は永安に於いて殂したまわられた,謚して曰く昭烈である。丞相の諸葛亮は喪を奉じて成都に還り,李厳を以って中都護と為すと,永安に留め鎮めさせた。
  五月,太子の劉禪が即位した,時に年は十七である。皇后を尊んで曰く皇太后とし,大赦すると,改元して建興とした。丞相の諸葛亮を封じて武郷侯と為すと,益州牧を領させ,政事は鉅細無く,諸葛亮に於いて鹹決することとなった。諸葛亮は乃ち官職を約す(省く)と,法制を修め,教えを発して群下に与えて曰く:「夫署に参じる者は,眾思を集め,忠益を広げよ也。若遠小嫌,難相違覆,曠闕損矣。違覆而得中,猶も敝趫を棄てて而して珠玉を獲るごとし。然るに人心は尽くすこと能わざるに苦しむのだが,惟徐元直のみは処茲して惑わず。又,董幼宰は署に参ずこと七年,事に至らないこと有れば,至るまで十たび反るに於いたもので,来たりて相啓告しあった。苟くも元直之十に一つ,幼宰之勤渠を能く慕いうるならば,國に於いて忠なること有ろうから,則ちこの亮も以って過ちを少なく出来よう<可>矣。」又曰:「昔初め州平に交わり,得失を屢聞した;後には元直と交わり,勤めて啓誨に見えた;前には幼宰に於いて参事になってもらったところ,言う毎に則ち尽くしてもらった;後には偉度に於いて従事となってもらったところ,何度も諫止してくれるところが有った。雖(わたしの)資性は鄙暗としており,悉くを納れること能わなかったと雖も,然るに此四子とは終始好合したものだし,亦直言に於いて其の疑わざることは足るに以って明らかであった。」偉度という者は,諸葛亮の主簿で義陽出身の胡済のことである也。諸葛亮が嘗て自ら簿書を校(閲)しようとしたおり,主簿の楊顒が直ちに入ってきて,諫めて曰く:「治を為すにも體が有りまして,上下は相侵す可きでないのです。請うらくは明公の為に家を作るのを以って之に譬えん。今人が有り,奴を使って耕稼を執らせ,婢には炊爨を典じさせます,雞<にわとり>が司晨を主<つかさど>り,犬が吠盜を主,牛が重載<重荷>を主,馬は遠路を渉るものです。私業に曠ずるところ無ければ,求める所は皆足ることとなり,雍容として枕を高くし,飲食する而已<のみ>となります。一旦にして尽く身を以ってして其の役に親しもうと欲すこと勿れ,復任かすに付かせず,其の體力を労して,此に碎務を為し,形疲神困したとしても,終には一つとて成ること無いでしょう。豈に其れ智が奴婢や雞狗に如かざるか哉?(そうではなく)家主之法を為す失ったということなのです也。是故に古人は『坐して而して道を論ず,之を王公と謂う;作して而して之を行う,之を士大夫と謂う。』と称えたのですし故に丙吉は道に死人が横になっていても問わず而して牛が喘ぐのを憂い,陳平は錢谷之数を知る肯んじず,『自ずと主者が有ろう』と云ったのです,彼らは誠に位分之體に於いて達していたのでしょう也。今明公は治を為さんとして,乃ち躬をもって自ら簿書を校(閲)されようとしていますが,汗を流すこと終日しようと,亦労せざるや乎!」諸葛亮は之を謝した。楊顒が卒すに及び,諸葛亮が垂泣すること三日となったのである。
  六月,甲戌,任城威王の曹彰が卒した
  甲申,魏の壽肅侯であった賈詡が卒した
  大水があった。
  呉の賀斉が蘄春を襲い,太守の晉宗を虜にして以って帰さしめた
  初め,益州郡の耆帥であった雍闓は太守の正昂を殺すと,士燮に因って以って呉に於いて附かんことを求めた,又太守である成都出身の張裔を執らえると以って呉に与えた,そこで呉は擁闓を以って永昌太守と為した。永昌の功曹であった呂凱、府丞の王伉は吏士を率いて境を閉ざすと拒み守ったため,擁闓は進むこと能わず,郡人の孟獲を使わして諸夷を誘扇させたところ,諸夷は皆之に従った。牂柯太守の硃褒、越
の夷王であった高定が皆叛いて擁闓に応じた。諸葛亮は以って新たに大喪に遭っていたため,皆撫して而して討たず,農に務め谷<穀>を殖やすと,関を閉ざして民を息つかせたため,民は安んじ食は足りることになって而る後に之を用いたのである。秋,八月,丁卯,廷尉の鐘繇を以って太尉と為し,治書執法の高柔が代わって廷尉と為った。是時三公には事えるものが無く,又朝政に与らんことを希った,高柔は上疏して曰く:「公輔之臣は,皆國之棟樑でして,民が具瞻する所です,而して置之三事,不使知政,遂には各々が偃息養高するばかりで,進納有ること鮮なく,誠に朝廷は大臣之義を崇用するに非,大臣獻可替否之謂也。古には<者>刑政に疑いが有れば,輒ち槐、棘之下に於いて議したとか。今より<自>の後には,朝(廷)に疑議及び刑獄の大事が有ったなら,宜しく何度か以って三公に咨訪なさいますよう。三公が朝(会)にでるのを朔、望之日とし,又特に延入して得失を講じ論じさせる可きです,事情を博尽くして,庶が(こいねがわくば?)天聴に補われて起つところ有るようになれば,光は益し大いに(王)化すこととぞんじます。」帝は嘉して焉をれた。
  辛未,帝は滎陽に於いて校獵すると,遂に東巡した。九月,甲辰,如許昌。(許昌についた)
  漢の尚書であった義陽出身のケ芝は諸葛亮に於いて言いて曰く:「今主上は幼弱でありまして,初めて尊位に即したばかりです,宜しく大使を遣わして呉に好を重ね申しのべるべきではないでしょうか。」諸葛亮曰く:「吾は之を思うこと久しいが矣,未だ其の人を得ないのみ耳,今日始めて之を得た。」ケ芝は問うた:「其の人とは誰です?」諸葛亮曰く:「即ち使君だ也。」乃ちケ芝を遣わすにあたり中郎将(の役職)を以ってして呉に於いて修好させた。冬,十月,ケ芝は呉に至った。時に呉王は猶も未だ魏と(関係を)絶っていなかったため,狐疑して,不時見芝(ケ芝に見える時間をつくらなかった)。ケ芝は乃ち自ら表して見えんことを請うて曰く:「臣が今来たのは,亦呉の為を欲してのこと,但だたんに蜀の為だけに非ず也。」呉王は之に見えて,曰く:「孤は誠に蜀と和親したいと願っているが,然るに蜀主が幼弱であり,國が小さく勢が逼っているため,魏が乗ずる所と為り,自ら保ち全うできないのではないのかと恐れているだけ耳。」ケ芝は対して曰く:「呉、蜀の二國は,四州之地です。大王は命世之英でありまして,諸葛亮も亦た一時之傑なのです也;蜀には重険之固めが有りますし,呉には三江之阻が有ります。此の二長を合わせて,共に唇歯と為れば,進んでは天下を並べ兼ねることも出来ましょう<可>し,退いては鼎足して而して立つことも出来ましょう<可>,此は理之自然というものです也。大王今若委質於魏,魏は必ずや上は大王之入朝を望みましょうし,下は太子之内侍を求めましょう,若し命に従わなければ,則ち辞を奉じて叛を伐そうとするでしょう,蜀も亦流れに順見て可とすれば而して進むことでしょう。此のと如くなれば,江南之地は復た大王之有するところに非ざることとなりましょう也。」呉王は默然として良く久しくして曰く:「君の言は是<もっとも>だ也。」遂に魏と絶って,專ら漢と連和することにした。
  是歳,漢主は妃の張氏を立てて皇后と為した。

 


世祖文皇帝下黄初五年(甲辰,西暦二二四年)


  春,三月,帝は許昌より<自>洛陽に還った。
  初平以来,学道は廃れ墜ちていた。夏,四月,初めて太学を立てた;博士を置き,漢制に依って《五経》課試之法を設けた。
  呉王は輔義中郎将で呉郡出身の張温を使わして漢に於いて聘(問)させた,是より<自>呉、蜀の信使が絶えなくなった。時事で宜べるべき所あれば,呉主は常に陸遜に令して諸葛亮と語らせた;又刻印を陸遜の所に置き,王が漢主及び諸葛亮に書を与える毎に,常に陸遜に過示し,軽重、可否で不安な所が有れば,ことごとに令して改め定めさせると,印を以って之に封させたのである。漢は復たケ芝を遣わして呉に於いて聘(問)させた,呉主は之に謂いて曰く:「若し天下が太平となり,二主が分かち治めることになったとすれば,それも亦楽しからずや乎?」ケ芝は対して曰く:「天に二日無く,土に二王は無いのです。魏之後に並ぶに如く,大王は未だ天命を深く識らないようです,君は各々其の徳を茂らせ,臣は各々其の忠を尽くし,将に枹鼓を提げて,則ち戦爭が方始するだけです耳。」呉王は大笑して曰く:「君之誠款たること乃ち当に爾たるべきか邪!」
  秋,七月,帝は東巡して,許昌に如いた。帝は大いに軍を興して呉を伐らんと欲したところ,侍中の辛毘が諫めて曰く:「今を方ますに天下が新たに定まったばかりであ,土は広いのに民は稀となっております,而して之を用いんと欲そうとされるなど,臣には誠に未だ其の利が見えません也。先帝は鋭師を屢<ひんぱんに>起こし,江を臨んだのですが而して旋ってきました。今六軍は増さないこと故に於けるものとなっていますが,而して復た之を循じようとする,此は未だ易くないことです也。今日之計は,養民屯田に若くは莫し,十年して然る後に之を用いれば,則ち役は再挙せずともよろしくなりましょう矣。」帝曰く:「卿の意の如かれば,更当以虜遺子孫邪?(更めて当に子孫に虜を遺してしまうことになりはしないか?)」対して曰く:「昔周の文王は以って紂を武王に遺しました,それは惟うに時を知っていたのでしょう也。」帝は従わなかった,尚書僕射の司馬懿を留めて許昌を鎮めさせた。八月,水軍を為すと,親しく龍舟を御して,蔡、穎を循にし,淮(水)に浮んで壽春に如いた。九月,広陵に至った。
  呉の安東将軍である徐盛が計を建て,木を植えて葦を衣とし,疑城と假樓を為し,石頭より<自>江乘に於けるに至るまで,聯綿相接すこと数百里となったものが,一夕にして而して成った;又(長)江に於いて大いに舟艦を浮かべた。時に江の水が盛んとなり長じたため,帝は臨望すると,歎じて曰く:「魏には武騎千群が有ると雖も,之を用いる所が無いとは,未だ図る可きでないというのか也。」帝は龍舟を御していたが,風に暴されて漂蕩するに会い,幾至覆沒(ほとんど転覆せんばかりとなった)。帝は群臣に問うた:「孫権は当に自ら来るか否か?」鹹は曰く:「陛下が親征されましたからには,孫権は恐怖しておりましょう,必ずや國を挙げて而して応じることでしょう。又大眾を以って之を臣下に委ねること敢えてせず,必ずや当に自ら来たることでしょう。」劉曄曰く:「彼の謂いでは陛下は万乗之重きを以ってして己を牽かんとしているのであって,而して江湖を超越することについては<者>別将に於けるに在ろうとみていましょうから,必ずや兵を勒して事を待とうとし,未だ進退を有しないでしょう也。」大駕が住まいに停まったまま日を積みあげたが,呉王は至らなかった,そこで帝は乃ち師を旋した。是時,曹休が降賊の辞を得たと表してきた:「孫権が已に濡須口に在るとか。」中領軍の衛臻が曰く:「孫権は長江を恃み,未だ敢えて亢衡しません,此は必ずや畏怖して辞を偽ってしまっただけでしょう耳!」降った者を考核してみると,果たして守将がかってに作った所のものであった也。
  呉の張温は少なきより俊才を以ってして盛名を有した,顧雍は以って為すに当今無輩(当今に彼と並ぶものはないとし),諸葛亮も亦た之を重んじた。張温は同郡の
艶を薦め引きつれてくると選部尚書と為した。艶は清議を為す好み,百僚を彈射し,三署を覈奏すると,皆を率いて高きを貶しめ下に就け,降損すること数等としたため,其れ故<もと>(の地位)を守った者は,十のうち未だ能く一にもならなかった;其の位に居って鄙を貪り,志節が汚れ卑しい者は,皆以って軍吏と為すと,営府に置いて以って之に処させた;人の闇昧之失を揚げるを多くして以って其の謫を顯らかにした。同郡の陸遜、陸遜の弟の陸瑁及び侍御史の硃拠は皆之を諫止した。陸瑁は(曁)艶に書を与えて曰く:「夫聖人は善を嘉して愚を矜り,過ちを忘れて功を記し,以って美化を成らせるものです。今の如くは王業が始めに建ったばかりで,将に一えに大いに統めようとしているわけです,此は乃ち漢の高(祖)が瑕を棄てて録用した時というものです也。善惡に流れを異なるものとするよう令し,汝、穎にあった月旦之評を貴ぶのが若くは,誠に以って俗獅ワし教明らかにものでしょう,然るに恐らくは未だ行うに易くないでしょう也。宜しく遠くは仲尼之泛愛を模し,近くは郭泰之容済に則られるべきです,庶有益於大道也(そうすれば大道に於いて益有ることとなりましょう)。」硃拠は謂艶に謂いて曰く:「天下未だ定まらざるに,清を挙げて濁を獅ワせば,以って勧めんとするのを沮(喪)させるに足ろう;一時の貶黜を若けば,懼らく後の咎めが有ろう。」艶は皆聴かなかった。是に於いて怨み憤りが路に盈,(皆が)艶及び選曹郎の徐彪は私情を專らに用い,憎愛して公理に由っていないと言を争った。そのため艶、徐彪は皆坐して自殺した。張温は素より艶、徐彪と意を同じくしていたため,亦坐して斥けられ本郡に還って以って給廝吏となり,家に於いて卒した。始め,張温が方じて盛んとなり事に用いられると,余姚出身の虞俊は歎じて曰く:「張恵恕は才多くして智少なし,華やかなれ而して実らず,怨みが聚まる所となって,家を覆すような禍を有すことになろう。吾には其の兆しが見える矣。」幾らも無くして而して敗れた。
  冬,十月,帝は許昌に還った。
  十一月,戊申晦,日食が有った。
  鮮卑の軻比能が歩度根の兄の扶羅韓を誘って之を殺した,歩度根は是に由って軻比能を怨み,更めて相攻撃しあうこととなった。歩度根の部していた眾は稍して弱まったため,其の眾万余落を将いて太原、雁門を保った;是歳,闕に詣でて貢獻してきた。而して軻比能の眾は遂に強盛となり,出て東部大人である素利を撃った。護烏丸校尉の田豫が虚に乗じて其の後ろを掎さんとしたため,軻比能は別帥の瑣奴を使わして田豫を拒ませたが,田豫は之を撃破した。軻比能は是に由って攜貳し,何度も辺寇を為したため,幽、並は之に苦しむこととなった。

 


世祖文皇帝下黄初六年(乙巳,西暦二二五年)


  春,二月,詔をくだし陳群を以って鎮軍大将軍と為し,車駕に隨って眾軍を董督することとし,行尚書事を録させた;司馬懿は撫軍大将軍と為って,許昌に留まると,後台の文書を督した。三月,帝は行って召陵に如くと,討虜渠を通じさせた;乙巳,許昌に還った。
  并州刺史の梁習が軻比能を討ち,之を大いに破った。
  漢の諸葛亮が眾を率いて雍闓等を討たんとし,参軍の馬謖が之を送ること数十里となった。諸葛亮曰く:「之を共に謀って歴年すると雖も,今更めて良規を恵む可し。」馬謖曰く:「南中は其の険遠を恃んで,久しく服しませんでした矣。今日之を破ると雖も,明日には復反するだけでしょう耳。今公には國を傾けて北伐せんことを方ようとして事を以ってして賊に強いんとしています,彼らは官の勢いが内で虚しいことを知っていますから,其の叛くのも亦速やかなものとなるでしょう。若し遺類を殄じ尽して以って後患を除こうとすれば,既に仁者之情に非ざるものとなります,且つ又倉卒に出来るものではないでしょう<不可>也。夫用兵之道は,心を攻めるのが上と為り,城を攻めるは下と為すもの,心戦が上と為り,兵戦は下と為るものです,願わくば公には其の心を服させようとする而已<のみ>とされますよう。」諸葛亮は其の言をれた。馬謖は,馬良之弟である也。
  辛未,帝は舟師を以ってして復呉を征さんとした,群臣が大いに議したところ,宮正の鮑勳が諫めて曰く:「王師が屢<ひんぱんに>征すのに而して未だ克つ所有さないのは<者>,蓋し以って呉、蜀が唇歯となって相依っているからです,山水に憑いて阻んでいるため,難拔之勢いが有る故です也。往年龍舟が飄蕩して,南岸に隔てられ在ったおりには,聖躬は危うきを蹈んでいたのです,臣下は膽が破れんばかりとなりました,此時には宗廟が幾らもなく傾覆に至らんとして,百世之戒めと為ったのです。今又兵を労して遠き襲おうとされていますが,日ごと千金を費やして,中國は虚しく(損)耗しましょう,令しても黠<ずるがしこい>虜<てき>に威を玩ばせてしまうのですから,臣が竊いますところ以って為すに可からざることではないかと。」帝は怒ると,鮑勳を左遷して治書執法と為した。鮑勳は,鮑信之子である也。夏,五月,戊申,帝は譙に如いた。
  呉の丞相である北海出身の孫劭が卒した。初め,呉では当に丞相を置くべしとなると,眾議は張昭に帰したのである,しかし呉王曰く:「今を方ずるに多事(多難)のおりである,職は大事で責は重い,非所以優之也。」孫劭が卒するに及び,百僚が復た張昭を挙げたが,呉王曰く:「孤は豈に子布の為に愛を有しないものだろうか乎!領丞相事はしいものなのに,而して此公は性が剛であって,言う所従わない,怨み咎めが将に興るだろうから,之に益する所以に非ざるのだ也。」六月,太常の顧雍を以って丞相と為し、平尚書事とした。顧雍の為人は言うこと寡なく,挙動が時当(時宜に適っていたため),呉王は嘗歎して曰く:「顧君は言わないが,言えば必ず中るところ有る。」飲宴に至ると歓楽之際には,左右は酒(の上での)失(敗)が有ることを恐れた,而して顧雍は必ず之を見ると,以って敢えて肆情しないことを是とした。呉王は亦曰く:「顧公が座に在ると,使って人を楽しませない。」其が憚れるに見えること此の如きであった。初め尚書令を領すると,陽遂郷侯に封じられた;侯を拝して還寺したが(家に還ったが),而るに家人は知らなかった,後に聞いて,乃ち驚くことになった。相と為るに及び,其の選び用いる所の文武将吏は,各々が能に隨い任に所し,心無適莫。時に民間及び政職を訪逮して宜べるべき所あれば,輒ち密かに以って聞かせた。若しれられ用いられるに見えれば,則ち之を帰すこと上に於いてとした;用いられなければ,終に宣べも洩らしもしなかった。呉王は此を以ってして之を重んじることとなったのである。然るに公や朝(廷)に於いて陳及する所有れば,辞色は順と雖も而して執る所は<者>正した;軍國得失,自非面見,口は未だ嘗て言わなかった。王は常に中書郎に顧雍に詣でるよう令したため咨<はか>所有って訪れると,若し顧雍の意に合っていて,事が施行す可くば,即ち相与して反し覆し究めてみて而して之を論じ,その為に酒食を設けた;意に合わざる如ければ,顧雍は即ち色を正して容を改め,默默として言わず,施し設ける所が無かった。郎が退いて王に告げると,王は曰く:「顧公が歓悦すれば,是の事は宜しきに合っているのだ也;其れ言わざる<者>,是の事が未だ平らがないからだ也。孤<わたし>は当に重ねて之を思うべきだろうな。」江辺の諸将は,各々が功を立て自ら效かさんと欲し,多くが便宜を陳べ,掩襲せんとする所が有った。王は以って顧雍を訪れた。顧雍曰く:「臣が聞くに兵法では小利に於けるのを戒めております,此等が陳べし所は,功名を邀<むか>えて而して其の身を為さんと欲するもので,國の為に非ざるものです也。陛下には宜しく禁じ制されるべきです,苟しくも足らざるのに以って威を曜して敵を損ねようとは,聴きいれるのには宜しからざる所です也。」王は之に従った。
  利成郡の兵である蔡方等が反し,太守の徐質を殺すと,郡人の唐咨を推して主と為したため,詔をくだして屯騎校尉の任福等に之を討たせ平させた。唐咨は海道より<自>呉に亡び入り,呉人は以って将軍と為した。
  秋,七月,皇子鑒を立てて東武陽王と為した。
  漢の諸葛亮は南中に至ると,所在<いたるところで>戦いに捷った,諸葛亮は越
由り入ると,雍闓及び高定を斬った。降督である益州出身の李恢を使わして益州由り入らせ,門下督で巴西出身の馬忠には牂柯由り入らせた,諸県を撃破すると,復諸葛亮と合わさった。孟獲は擁闓の余眾を収めると以って諸葛亮を拒んだ。孟獲は素より夷、漢(の人々)が服す所と為っていたから,諸葛亮は之を生きたまま致さんと募った,既にして得てから,使わして営陳之間に於いて観させ,問うて曰く:「此軍は何如か?」孟獲曰く:「向っていたときには<者>虚実を知らないでいた,故に敗れたのだ。今賜蒙り営陳観させてもらった,若し只此の如くなれば,即ち勝ち易きに定まろう耳。」諸葛亮は笑うと,縱にし使わして更めて戦った。七樅七禽して而して諸葛亮が猶も孟獲を遣わそうとすると,孟獲は止まって去らずに,曰く:「公は,天威である也,南人は復<再び>反すことはない矣!」諸葛亮は遂に滇池に至った。益州、永昌、牂柯、越四郡は皆平らげられたため,諸葛亮は其の渠率を即けて而して之を用いた。或るひとが以って諸葛亮に諫めると,諸葛亮曰く:「若し外の人を留めれば,則ち当に兵を留めねばならず,兵が留まれば則ち食す所無くなろう,一つめの易からざるところだ也;加えて夷は新たに傷破されたばかりで,父兄が死に喪われている,外人を留めて而して兵が無いようにしておけば<者>,必ずや禍患いが成ろう,二つめの易からざるところだ也;又,夷は廃殺之罪を累ねて有しており,自ずから釁重を嫌っている,若し外の人を留めたなら,終には相信じあわないだろう,三つめの易からざるところだ也。今吾は使って兵を留めず,糧を運ばないのを欲するものだが,而して綱紀が粗か定まり,夷、漢が粗か安んじた故だから耳。」諸葛亮は是に於いて悉く其の俊傑孟獲等を収めると以って官属と為し,其の金、銀、丹、漆、耕牛、戦馬を出させて以って軍國之用に給させた。是より<自>諸葛亮之世が終わるまで,夷は復反さなかった。
  八月,帝は舟師を以ってして譙より<自>渦(水)を循にし淮(水)に入った。尚書の蔣済が水道通じ難いと表言したが,帝は従わなかった。冬,十月,広陵の故城に如くと,江を臨んで兵を観た,戎卒は十余万,旌旗は数百里にわたり,渡江之志を有していた。呉人は兵を厳しくして守りを固めた。時に大寒あって,冰<こおり>つき,舟は江に入ること得られなかった。帝は波濤が洶湧とするのを見て,歎じて曰く:「嗟乎,固より天が南北を限る所以であったか也!」遂に帰った。孫韶が将の高壽等に敢死之士五百人を率いさせて遣わし,徑路に於いて夜に帝を要さんとしたため,帝は大いに驚いた。高壽等は副車、羽蓋を獲ると以って還った。是に於いて戦船数千は皆滞って行くこと得られず,議では<者>兵を留めて屯田に就かせようと欲した,蔣済は以って為すに:「東は湖に近く,北は淮(水)を臨んでいる,若し水が盛んとなる時がくれば,賊が寇を為すに易く,屯を安んじられまい<不可>。」帝は之に従い,車駕は即(座)に(出)発した。還って,精湖に到ったところで,水が稍尽きたため,船を尽く留めて蔣済に付けた。船が連なり延びて数百里の中に在ったため,蔣済は更めて鑿って四五道作ると,蹴船令聚;豫め土で豚遏を作らせて湖水を断っておき,皆後船を引きつれてから,一時に開遏して淮中に入れたため,乃ち還ること得られた。
  十一月,東武陽王鑒が薨じた。
  十二月,呉の番陽の賊である彭綺が郡県を攻め没し,眾は万人を数えた。

 


世祖文皇帝下黄初七年(丙午,公元二二六年)


  春,正月,壬子,帝は洛陽に還ると,蔣済に謂いて曰く:「事は(通)曉しない可きでないな。吾が前に決したおり山陽の湖中に於いて船の半ばを分けて焼くなどと謂ったが,卿が後に於いて之を致したのに,略して吾と倶に譙に至った。又ことごとに陳べる所を得てみると,実<まこと>に吾が意に入ってくる。今より<自>討賊の計畫し,善く之を思論してくれ。」
  漢の丞相である諸葛亮は軍を漢中に出そうと欲すると,前将軍の李厳こそ当に後事を知るべしとし,屯を江州に移し,護軍の陳到を留めて永安に駐めおき,而して李厳に於いて統属することとした。
  呉の陸遜は以って所在しているところの谷<穀>が少ないため,諸将に令して農畝を増し広げさせるよう(上)表した。呉王は報いて曰く:「甚だ善きかな!令孤父子親受田,車中八牛,以為四耦,未だ古人に及ばずと雖も,亦た眾<みな>と其の労を均等にせんと欲す也。」
  帝が太子と為るや也,郭夫人の弟に罪が有って,魏郡西部都尉の鮑勳が之を治めた;太子は(赦免を)請うたが,得ること能わず,是に由って鮑勳を恨んだ。即位するに及び,鮑勳は何度も直諫したため,帝は益すます之に忿った。帝は呉を伐して還ると,陳留の界に駐屯した。鮑勳は治書執法と為ると,太守の孫邕が出るに見えて,鮑勳に過ちをした。時に営壘が未だ成らず,但標埒が立つのみであったため,孫邕は邪行(そこを乗りこえて行って),正道に従わなかった,軍営令史の劉曜が之を推そうと欲したところ,鮑勳は以って塹壘が未だ成っていないのだからと,解き止めて(罪を)挙げなかった。帝は之を聞くと,詔をくだして曰く:「鮑勳は鹿を指さして馬と作った,収めて廷尉に付けよ。」廷尉が法議したところ,「正に刑五歳と」としたが,三官が(反)駁し,「律に依って,罰金二斤」とした,帝は大いに怒って曰:「鮑勳は活分すこと無いのに,而して汝等は之を縱にせんと欲すのか!三官已下を収めて刺奸に付けよ,当に令すべく十鼠は穴を同じくせよ!」鐘繇、華歆、陳群、辛毘、高柔、衛臻等が並んで鮑勳の父には信に太祖に於いて功が有ったのだからと(上)表し,鮑勳の罪を請うことを求めたが,帝は許さなかった。高柔が詔命に従わないことに固執したため,帝の怒りはしく,高柔を召して台(閣)に詣でさせ,(その間に)使者を遣わして指(図)を承らせて廷尉に至らせると鮑勳を誅した。鮑勳が死ぬと,乃ち高柔を遣わして寺に還させた。票騎将軍にして都陽侯の曹洪は,家が富んでいながら而して性は吝嗇であった,帝が東宮に在ったおり,嘗て曹洪より<従>絹百匹を貸してもらおうとしたが,称意しなかったため,之を恨んだ。遂に捨客<食客>が法を犯したことを以って,獄に下し当に死すべしとしたため,群臣が並んで救おうとしたが,能く得られるもの莫かった。卞太后は帝を責めて怒ると曰く:「梁、沛之間では,子廉に非ざれ今日の有るは無かったのです!」又郭后に謂いて曰く:「曹洪に令して今日死なせたなら,吾は明日には帝に敕して后を廃させますから矣!」是に於いて郭后は泣涕して屢<ひんぱんに>請うたため,乃ち免官となって,爵土を削られ(死を免れ)るを得たのである。
  初め,郭后には子が無かったため,帝は使わして平原王の曹睿を母養させた;曹睿の母である甄夫人が誅を被ったことを以って,故に未だ建てられて嗣と為らなかったのである。曹睿は郭后に事えること甚だ謹みぶかく,郭后でも亦た之を愛した。帝は曹睿と獵にでたおり,子母(親子)の鹿に見えた,帝は親しく其の母を射殺すと,曹睿には其子を射るよう命じた。曹睿は泣いて曰く:「陛下は已に其の母を殺されました,臣は復其子を殺すに忍びありません。」帝は即ち弓矢を放りだし,之が為に惻然とした。夏,五月,帝の疾は篤く,乃ち曹睿を立てて太子と為した。丙辰,中軍大将軍の曹真、鎮軍大将軍の陳群、撫軍大将軍の司馬懿を召すと,並んで遺詔を受けさせ輔政させた。丁巳,帝は殂したまわられた。
  陳壽は評して曰く:文帝は天資文藻,筆を下せば章と成った,博聞強識にして,才藝該を兼ねた。若し之に曠大之度を加え,公平之誠を以って勵み,邁志存道,克広徳心,則ち古えの賢主であっても,何ぞ之に遠いこと有ったろうか哉!
  太子が皇帝位に即き,皇太后を尊んで曰く太皇太后とし,皇后は曰く皇太后とした。初め,明帝が東宮に在ったおり,朝臣と交わらず,政事を問わず,惟書籍を潛思した;即位してから後,群下はその風采を想聞した。居ること日を数え,獨り侍中の劉曄が見えて,語って日を尽くした,眾人が側で聴き,劉曄が既にして出てくると,問うた:「何如(いかがでしょう)?」曰:「秦の始皇、漢の孝武之儔にして,才具わるも微かに及ばないだけだろう耳。」帝は初め蒞政したおり,陳群は上疏して曰く:「夫臣下が雷同し,是非が相蔽われれば,國之大患です也。若し和み睦じからざれ則ち讎黨を有し,讎黨を有せ則ち毀譽無端し,毀譽無端すれば則ち真偽が実を失いましょう,此は皆深く察しない可きではありません也。」
  癸未,甄夫人に追謚して曰く文昭皇后とした。
  壬辰,皇弟の蕤を立てて陽平王と為した。
  六月,戊寅,文帝を首陽陵に於いて葬った。
  呉王は魏に大喪が有ると聞き,秋,八月,自ら将いて江夏郡を攻めたが,太守の文聘が堅く守った。朝議では兵を発して之を救おうと欲した。帝曰く:「孫権は水戦を習うも,敢えて船を下りて陸攻した所以とは<者>,冀掩不備(不備に付け込むことを冀ってのことだ)也。今は已に文聘と相拒みあってしまった。夫攻めんとすれば守勢の倍という,終には敢えて久しくならないだろう也。」是より先,朝廷は治書侍御史の荀禹を遣わして辺方を慰労させていた,荀禹は江夏に到ると,経る所となった県から兵を(徴)発し及んで従えし所の歩騎千人とで山に乗じて火を挙げたところ,呉王は遁走した。
  辛巳,皇子の曹冏を立てて清河王と為した。
  呉の左将軍である諸葛瑾等が襄陽を寇したため,司馬懿が之を撃破し,其の部将張霸を斬った。曹真も又其の別将を尋陽に於いて斬りすてた。
  呉の丹楊、呉、会の山民が復た寇を為して,属県を攻め歿した。呉王は三郡の険しい地を分けて東安郡と為すと,綏南将軍の全jを以ってして太守を領させた。全jは至ると,賞罰を明らかにして,降附を招き誘ったため,数年して,万余人を得た。呉王は全jを召して牛渚に還すと,東安郡を罷めた。
  冬,十月,清河王の曹冏が卒した
  呉の陸遜が便宜を陳べて,呉王に以って徳施し刑緩め,賦をェめて調を息つかせるよう勧めた。又云うことに:「忠讜之言,不能極陳;求容小臣,数以利聞。」王は報いて曰く:「《書》は載せている:『予が違えたら汝は弼けよ』,而して雲不敢極陳,何得為忠讜哉!」是に於いて令有司尽寫科條,使郎中褚逢繼以就遜及諸葛瑾,意所不安,令損益之。
  十二月,鐘繇を以ってして太傅と為し、曹休を大司馬と為すと,都督揚州であることは故の如しとした;曹真は大将軍と為り,華歆が太尉と為り,王朗が司徒と為り,陳群が司空と為り,司馬懿が票騎大将軍と為った。華歆は位を管寧に於いて譲じようとしたが,帝は許さなかった。征寧が光祿大夫と為り,敕青州給安車吏従,以禮発遣,寧復不至。
  是歳,呉の交趾太守の士燮が卒したため,呉王は士燮の子の士徽を以ってして安遠将軍と為すと,九真太守を領させ,校尉の陳時を以って士燮に代えさせた。交州刺史の呂岱が以って交趾が絶遠であるため,つぎのように(上)表した、海南三郡を分けて交州と為し,将軍の戴良を以って刺史と為す;海東四郡を広州と為し,呂岱自らが刺史と為る;戴良は時に与り南入する、と。而して士徽は自ら交趾太守を署すと,宗兵を(徴)発して戴良を拒んだため,戴良は合浦に留まることになった。交趾の桓鄰は,士燮が吏に挙げたものであったが也,叩頭して士徽を諫め,使わして戴良を迎えさせた。士徽は怒ると,桓鄰を笞殺したため,桓鄰の兄の桓治が宗兵を合わせて撃ったが,克てなかった。呂岱は上疏して士徽を討つことを請うと,兵三千人を督して,晨夜して海に浮かんで而して往いた。或るひとが呂岱に謂いて曰く:「士徽は累世之恩を藉しており,一州が附く所と為っていますから,未だ易く軽んじられません也。」呂岱曰く:「今士徽は逆計を懐いたと雖も,未だ吾が(倉)卒に至るとは慮っていまい;若し我が軍を潛めて軽挙し,其の備え無きを掩<おお>えば,之を破ること必ずならん也。稽うるに留まって速やかにしなければ,使って生心を得させてしまおう,城を嬰して固く守り,七郡百蛮が雲合わさるように響き応じてしまえば,智有る者と言えども,誰が之を能く図りえようか!」遂に行って,合浦を過ぎると,戴良と倶に進んだ。呂岱は士燮の弟の子である士輔を以ってして師友従事と為すと,遣わし往かせると士徽を説かせた。士徽は其の兄弟六人を率いて出て降ってきたため,呂岱は皆之を斬りすてた。
  孫盛は論じて曰く:夫柔遠能邇,信に於けるより善いものは莫い。呂岱は士輔を師友として,使わし通じさせて誓いを信じさせた;そこで士徽兄弟は肉袒となって,心を推して命を委ねたのである,それなのに呂岱は因って之を滅ぼし以って功利を要した,君子は是で以って呂氏の祚が延びなかったこと<者>を知るのである也。
  士徽の大将軍である甘醴及び桓治は吏民を率いて共に呂岱を攻めた,呂岱は奮撃して,之を破った。是に於いて広州を除き,復た交州と為すこと故の如しとした。呂岱は進んで九真を討ち,斬獲すること以って万を数えた;又従事を遣わして南に威命を宣べさせたところ,
徼外扶南、林邑、堂明の諸王が,各々使いを遣わし呉に於いて入貢してきた。

 


烈祖明皇帝上之上


世祖文皇帝下太和元年(丁未,西暦二二七年)


  春,呉の解煩督の胡綜、番陽太守の周魴が彭綺を撃つと,之を生け獲りにした。初め,彭綺は自ら言うに義兵を挙げ,魏の為に呉を討つのだとした,議者は以って為すに此れに因って呉を伐すなら,必ずや克つ所有らんとした。帝が以って中書令で太原出身の孫資に問うたところ,孫資は曰く:「番陽の宗人は,前後して義を挙げる者が何人も有りましたが,眾は弱く謀は浅く,旋れば(帥が旋回されれば)輒ち乖散してしまったものです。昔文皇帝は嘗て密かに賊の形勢を論じたことがありました,洞浦で万人を殺し,船千数を得たのに,数日の間に,船も人も復会してきたと言っております。江陵は囲まれる被って月を歴しましたが,孫権が裁いたのは千数百の兵を以ってして東門に住ませることでした,而しながら其の土地は崩解する者が無かったのです,是法禁が有るために上下が相維していることの明らかな驗<しるし>でしょう也。此を以ってして彭綺を推しはかりますに,懼れながら未だ能く孫権の腹心の大疾と為らないことでしょう也。」是に至って,彭綺は果たして敗亡したのである。
  二月,立文昭皇后寢園於鄴。王朗が往って園陵を視ると,百姓の多くが貧困しているのを見た,而しながら帝は宮室を営修せんことを方じているため,王朗は上疏して諫めて曰く:「昔大禹は天下之大患を拯さんと欲し,故先卑其宮室,其の衣食を倹(約)しました;勾踐は其の御兒之疆を広げんと欲して,亦其の身を(倹)約して以って家に及ぼし,其の家を倹(約)して以って國に施しました;漢之文帝、景帝は祖業を恢弘せんと欲し,故に意を割くこと百金之台に於いて,昭倹すること弋綈之服に於いてとしました;霍去病は之に将たらんとする才に中っていましたが,猶も以って匈奴が未だ滅びていないからと,第宅を治めませんでした。遠くに恤するを明らかとする者は近くを略し,外に事えんとする者は内を簡(素)にするものです也。今建始之前は,用いて朝会を列するに足るものです;崇華之後は,用いて内官を序す足るものです;華林、天淵については,用いて游宴を展じるのに足るものです。若し且つ先ずは象魏を成らせ,城池を修めることとし,其の余一切は須く豊年にすべきです,專ら以って務めの為に耕農に勤めさせ,事の為に戎を習わせ備えさせれば,則ち民充ち兵強くなり而して寇戎も賓服してくることでしょう矣。」
  三月,蜀の丞相の諸葛亮は諸軍を率いて北すると漢中に駐まり,長史の張裔、参軍の蔣琬を使わして留府事を統めさせた。(出)発するに臨み,上疏して曰く:「先帝の創業は未だ半ばならずして,而して中道にして崩殂せり。今天下は三分し,益州は疲敝せり,此は誠に危急存亡之秋である也。然るに侍衛之臣は内に於いて不懈となり,忠志之士は外に於いて身を忘れているのは<者>,蓋し先帝之殊遇を追い,之を陛下に於いて報いんと欲してのことです也。誠に宜しく聖徳を開張されて,以って先帝の遺徳を光かがやかせ,志士之気(力)を恢弘するべきです;妄りに自ら菲薄とし,失義を引喩し,以って忠諫之路を塞ぐは宜しからず也。
  「宮中、府中,は倶に一體を為しております,陟罰臧否が,異同するのは宜しからず。若し作奸したもの犯科したもの及び忠善を為した者が有れば,宜しく有司に付けて其の刑賞を論じさせ,以昭陛下平明之理,私に偏り,内外をして法を異ならせ使むは宜しからず也。侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允等は,此皆良実であり,志慮忠純であります,是は以って先帝が簡拔されて以って陛下に遺されたものたちです。愚かしくも以為<おもえら>くに宮中之事については,事は大小の(区別)無く,悉く以って之に咨<はか>られて,然る後に施行されれば,必ずや能く闕漏を裨補し,益を広げる所有ることでしょう。将軍の向寵は,性行は淑均で,軍事に曉暢しております,昔日に於いて試み用いましたところ,先帝は之を称えて曰く能とされました,是で眾議を以ってして向寵を挙げ督と為したのです。愚かしくも以為<おもえら>くは営中之事は,悉く以って之に咨<はか>られれば,必ずや能く使って陳を行わせ和み睦まじくさせ,優劣所を得ることでしょう。賢臣に親しみ,小人を遠ざける,此が先漢の興隆した所以です也;小人に親しみ,賢臣を遠ざける,此が後漢の傾き頽(廃)した所以です也。先帝在りし時には,ことごとに臣と此の事を論じておりまして,未だ嘗て桓、靈(桓帝、靈帝)に於いて歎息痛恨しないことありませんでした也。侍中、尚書、長史、参軍,此は悉く良臣、死節之臣に端しております,願わくば陛下は之に親しまれ,之を信じられんことを,そうすれば則ち漢室之隆(盛)は,日を計って而して待つ可こととなりましょう也
  「臣は本もと布衣でありまして,躬づから南陽を耕していました,苟しくも乱世に於いて性命を全うせんとして気は諸侯に於いて聞達するを求めませんでした。先帝は臣を以ってして卑鄙とはせず,猥りに自らを枉げ屈されて,臣を草廬之中に於いて三顧すると,臣に当世之事を以って諮問されました<咨>;是に由って感激し,遂に先帝に許されて以って驅馳することとなったのです。後に傾覆に値して,敗軍之際に於いて任を受け,危難之間に於いて命を奉じ,爾来二十有一年となります矣。先帝は臣が謹慎であることを知り,故に崩ずるに臨んで臣に以って大事を寄せられました也。受命して以来,夙夜にまで憂い歎じ,托し付けられたことを效かず,以って先帝之明を傷つけはしまいかと恐れてきました。故<さき>の五月には瀘(水)を渡り,深く不毛に入りました。今や南方は已に定まり,甲兵は已に足りております,当に三軍を獎率し,北のかた中原を定むべし,庶<こいねがう>は駑鈍を竭し,奸凶を攘除して,漢室を興復せん,旧都に於いて還らん,此は臣が先帝に報い,而して陛下之職分に忠たらんとする所以です也。損益を斟酌するに於けるに至り,進んで忠言を尽くすは,則ち攸之、禕、允之任です也。願わくば陛下には臣に以って賊を討たせ興復之效を託されますよう,それが不效となれば,則ち臣之罪を治め以って先帝之靈に告げられますよう,攸之、禕、允等之慢を責めるに以って其の咎を彰らかとされますよう。陛下も亦宜しく自らを謀るべきです,以って善道を諮諏され,雅言を察納され,深く先帝の遺詔を追われますように。臣不勝受恩感激(臣は受けた恩に勝らず感激しております),今当に遠く離れんとして,表に臨みましたが涕零してしまい,言う所を知りません。」遂に行くと,沔北にある陽平の石馬に於いて駐屯した。
  諸葛亮は広漢太守の姚胄を辟招して掾と為すと,姚胄は文武之士を並べ進めたため,諸葛亮は之を称えて曰く:「忠益というのは<者>人を進めるに於けるより大なるものは莫い,進人というのは<者>各々其の尚所を務めることである。今姚掾は剛柔を並存させて以って文武之用を広げた,博雅と謂う可きだ矣願わくば諸掾も各々が此事を希い以って其の望みを属させるように。」
  帝は諸葛亮が漢中に在って,大いに兵を徴発して之を攻めに就かせんと欲していると聞き,以って散騎常侍の孫資に問うたところ,孫資曰く:「昔武皇帝が南鄭を征し,張魯を取らんとして,陽平之役をおこしましたが,危うくなって而して後に済んだのです,又自ら往きて夏侯淵の軍を抜き出されましたが,何度も言われたことに『南鄭は直天獄と為っている,斜谷道は五百里の石穴に中る耳,』とあるのは其の深険を言ったもので,夏侯淵軍を(救い)出したことを喜んだ辞であります也。又,武皇帝は用兵に於いて聖なりしものがあり,蜀の賊が山巖に於いて棲むのを察せられ,呉の虜どもが江湖に於いて竄すのを視られますと,皆橈として而して之を避け,将士之力を責められず,一朝之忿りを争わなかったのですが,誠に所謂<いわゆる>勝ちを見て而して戦い,難き知って而して退くというものでした也。今若し軍を進めて南鄭に就けて諸葛亮を討とうとされるなら,道は既にして険阻でありまして,精兵及び転運、南方の四州を鎮守させ,水賊を遏御させるのに計用されるところは,凡そ十五六万人を用いることになりますが,必ずや当に復めて(徴)発し興こす所が有るでしょう。天下は騷動し,費や力めは広大なものとなります,此は誠に陛下が深慮を宜しくすべき所でしょう。夫れ守戦之力めでは,力役参倍ともうします。但以ってするに今日では兵を分けるに見えさせ大将には諸要険に拠るよう命じ,威が以って強寇を震攝させ,疆場を鎮靜させるに足ることとします,そうすれば将士は虎睡し,百姓は無事でしょう。数年之間にして,中國は日ごとに盛んとなり,呉、蜀の二虜は必ずや自ら罷敝してゆくことでしょう。」帝は乃ち止めた。
  初め,文帝は五銖銭を罷めて,使うにあたり谷帛を以ってして用と為していたが,人間が巧みに偽ること漸<しだ>いに多くなってきた,競って谷<穀>を濕して(水に浸して)以って利を要そうとし,絹を薄くして以って市に為そうとし,厳刑を以ってして処すと雖も,禁ずこと能わなかった也。司馬芝等が朝を挙げて大いに議して,以って為すことに:「銭を用いるのは徒に国を豊かにするに非,亦刑を省かんとする所以でもある,今更めて五銖(銭)を鋳(造)して便と為すに若かず。」夏,四月,乙亥,五銖銭を復行した。
  甲申,初めて宗廟を洛陽に於いて営した
  六月,以って司馬懿を都督荊、豫州諸軍事とし,領する所を率いて宛を鎮めさせた。
  冬,十二月,貴嬪で河内出身の毛氏を立てて皇后と為した。初め,帝は平原王と為ると,河内の虞氏をれて妃と為した;即位するに及び,虞氏は立てられて(皇)后と為ること得なかったため,太皇の卞太后が焉を慰め勉ました。虞氏は曰く:「曹氏は自ら好んで賤しいものを立てたがる,未だ義を以って挙げた者など能く有りはしないのでしょう也。然るに后は内で事を職し,君は外で政を聴くものでしょう,其れ道は相由って而して成るものですのに;苟しくも善を以ってして始めること能ざれ,未有能令終者也(終わりを能く令しえた者など未だ有りはしないのです),殆んど必ずや此に由って國を亡ぼし祀を喪うことでしょう矣!」虞氏は遂に絀されて鄴宮に還された。
  初め,太祖、世祖は皆議して肉刑を復そうとしたが,以って軍事があったため果たせなかった。帝が即位するに及んで,太傅の鐘繇が上言した:「宜しく孝景之令の如くすべきです,其れ当に棄市すべきは右趾を斬るを欲すこと<者>とし,之を許すべきです;其の黥、劓、左趾、官刑とされた者は,孝文の如くより<自>以って髠(刑や)笞(刑)に易えれば,以って歳に三千人を生かすこと出来ましょう<可>。」詔がくだされて公卿以下が議すこととなった,司徒の王朗は以って為すに:「肉刑が用いられなくなって已来,歴年すること百を数えます;今之を行うのを復せば,恐らく之を減じる所が万民の目に於いて文が未だ彰らかでない(と見える)のではないでしょうか,而して肉刑之問いは寇讎に於いて之を宣しむべきに已む耳<のみ>で,遠くの人が来る所以に非ざるものです也。今鐘繇を按ず可くは欲す所は之を死罪より軽くするというものです,それなら死を減じて髠刑にさせ使ことにしましょう,其の軽き論じるというのであれば<者>,其の居作之歳数を倍に可きです。内では生を以ってして死に易えて不訾之恩を有させ,外では刖を以ってして鈦に易えて駭耳之声を無くしましょう。」議者は百余人,王朗と同じとする者が多かった。帝は以って呉、蜀が未だ平らげられていなからとして,且つ寝すこととした。
  是歳,呉の昭武将軍の韓当が卒した,其の子の韓綜は淫乱にして不軌であったため,罪を得てしまうのを懼れ,閏月,其の家属、部曲を将いて来たり奔った。
  初め,孟達は既にして文帝に寵される所と為っており,又桓阿階、夏侯尚と親しく善くしていた;文帝が殂したまい,桓階、夏侯尚も皆卒すに及んで,孟達の心は自ずと安んじなくなった。諸葛亮は聞いて而して之を誘おうとし,孟達はこれと何度も書を通じさせ,陰ながら帰蜀を許してもらおうとした。孟達は魏興太守の申儀と有隙(仲が悪かったため),申儀は密かに表して之を告げた。孟達は之を聞き,惶懼すると,挙兵して叛こうと欲した。司馬懿は書を以って之を慰め解こうとしたため,孟達は猶も豫ること未だ決しなかった,そのあいだに司馬懿は乃ち軍を潛めて進み討ちにでた。諸将は言った:「孟達は呉、漢と交わり通じています,宜しく観望して而る後に動くべきです。」司馬懿曰く:「孟達には信義が無い,此は其れ相疑うという時だ也。当に其の未だ定まらざるに及んでは之を促決すべきだ。」乃ち道を倍にして兼行し,八日にして其の城下に到った。呉、漢は各々が偏将を遣わして西城の安橋、木闌塞に向かわせ以って孟達を救おうとしたが,司馬懿は諸将を分けて以って之を距んだ。初め,孟達は諸葛亮に書を与えて曰く:「宛は洛を去ること八百里,吾を去ること一千二百里である。吾が挙事したと聞いても,当に天子に表上しなければならない,相反覆するのを比べれば,一月の間があろうから也,則ち吾が城は已に固められ,諸軍は辦ずるに足りていよう。吾が所在は深険にあり,司馬公は必ずや自ら来はしまい;諸将が来たところで,吾は患うこと無からん矣。」兵が到るに及んで,孟達は又諸葛亮に告げて曰く:「吾が挙事すこと八日にして而して兵が城下に至った,何其れ神速ならんか也!」