巻第七十一

 

【魏紀三】 起著雍涒灘,尽上章閹茂,凡そ三年。

烈祖明皇帝上之下太和二年(戊申,西暦二二八年)

 

  春,正月,司馬懿は新城を攻め,旬有六日にして,之を拔き,孟達を斬った。申儀は久しく魏興に在り,承製刻印を擅じると,假りに授ける所が多かった;司馬懿は召して而して之を執らえると,洛陽に於いて帰させた。

  初め,征西将軍であった夏侯淵之子の楙は太祖の女<むすめ>である清河公主を尚,文帝は少なきより之と親しく善くしていた,即位するに及んで,以って安西将軍と為し,都督関中とすると,長安を鎮めさせ,使って夏侯淵が処すところを承らせた。諸葛亮が将に入寇せんとし,與群下謀之,丞相司馬の魏延曰く:「聞けば夏侯楙は,婿を主<つかさど>るが也,怯にして而して謀が無いとのこと。今わたくし延に精兵五千を假され,糧五千を負わせてくだされば,直ちに褒中より<従>出て,秦嶺を循じて而して東し,子午に当たって而して北にゆかん,十日を過ぎずして,長安に到る可し。夏侯楙はこの延が奄至したと聞けば,必ずや城を棄てて逃走しましょう。長安の中には惟だ御史、京兆太守があるのみです耳。横門の邸閣と散民之谷とで,周食するに足ります也。比東方が相聚を合わせるに比すまで,尚も二十許日かかりましょうから,而して公は斜谷より<従>来たれば,亦以って達するに足りましょう。此の如かれば,則ち一挙するだけで而して咸陽以西は定可きかと矣。」諸葛亮は以って此を為すのは危うい計であるとすると,坦道に従<よ>って安んずるに如かず,隴右を平らげ取らんことを以ってことこそ,十全にして必ず克って而して虞の無いことであるとし,故に魏延の計を用いなかった。諸葛亮は声を揚げて斜谷道を経由して郿を取らんとした。鎮東将軍の趙雲,楊武将軍のケ芝を使わして疑軍と為させると,箕谷に拠らせた。帝は曹真を遣わして都督関右諸軍とした。諸葛亮は身から大軍を率いて祁山を攻めた,戎陳は斉しく整えられ,号令は明肅であった。始め,魏は以って漢の昭烈(帝=劉備)が既に死んでおり,歳を数えても寂然として聞くこと無かったため,以って略して備えや豫りが無かったがそれを是としたのである;而して諸葛亮が出てきたと卒聞すると,朝野は恐懼した。是に於いて天水、南安、安定は皆叛いて諸葛亮に応じ,関中は響き震え,朝臣は未だ計が出る所を知らなかった。帝は曰く:「諸葛亮は山を阻んで固めを為し,今者自来,正合兵書致人之術,破亮必也。」乃ち兵馬歩騎五万を勒すると,右将軍の張郃を遣わして之を督させ,西して諸葛亮を拒ませた。丁未,帝は長安に<如>行った。

  初め,越太守の馬謖は才器人を過ぎ,軍計を論じることを好んだ,諸葛亮は器が異なると深加していた。漢の昭烈(帝)は臨終するにあたり諸葛亮に謂いて曰く:「馬謖の言は其の実を過ぎる,大きく用いる可きではない,君は其れ之を察せよ!」諸葛亮は然らざると謂うが猶,馬謖を以って参軍と為すと,引見する毎に談論し,それは晝より<自>夜にまで達した。軍を祁山に出すに及んで,諸葛亮は旧将の魏延、呉懿等を先鋒と為すことを用いず,而して馬謖を以って諸軍を督させ前に在らしめ,張郃と街亭に於いて戦うこととなった。馬謖は諸葛亮の節度を違え,挙措は煩擾し,水を捨てて山に上ると,下って城に拠らなかった。張郃は其の汲道を絶つと,撃って,之を大いに破ったため,士卒は離散した。諸葛亮は進んでも拠る所が無くなったため,乃ち西縣の千余家を抜いて漢中に還り,馬謖を収めて獄に下すと,之を殺した。諸葛亮は自ら祭に臨み,之が為に流涕した,其の遺孤を撫し,恩あたえること平生の若くであった。蔣琬は諸葛亮に謂いて曰く:「昔楚殺得臣,文公喜可知也。天下が未だっていないのに而して智計之士を戮するとは,豈に惜しまないではいられましょう乎!」諸葛亮は流涕して曰く:「孫武が天下に於いて能く勝ちを制した所以というのは<者>,法を用いることが明らかであったためである也;是こそ以って干揚げ法乱したとして,魏絳が其の僕を戮したところである。四海は分裂し,兵が交わり方始しているのに,若し復法を廃したなら,何ぞ賊を討つことを用いられようか邪!」馬謖之未だ敗れざるに也,裨将軍で巴西出身の王平は規を連ねて馬謖を諫めたが,馬謖は用いること能わなかった;敗れるに及んで,眾の尽くが星散したが,惟王平が領する所の千人だけが鼓を鳴らして自守したため,張郃は其が伏兵の有ることを疑い,往って逼ろうとしなかった也,是に於いて王平は徐徐に諸営を収め合わせると遺迸し,将士を率いて而して還った。諸葛亮は既に馬謖及び将軍の李盛を誅すると,将軍黄襲等の兵を奪ったが,王平は特に崇顯されるに見え,加えて参軍を拝し,五部を統めることと営事に当たることを兼ね,位を討寇将軍に進められ,亭侯に封じられた。諸葛亮は上疏すると自ら三等貶めんことを請い,漢主は諸葛亮を以って右将軍と為して,丞相事を行わせた。是時趙雲、ケ芝の兵も亦た箕谷に於いて敗れた,趙雲は眾を斂めて固く守ったため,故に大いに傷つかられることなかったが,趙雲も亦坐して貶められ鎮軍将軍と為った。諸葛亮はケ芝に問うて曰く:「街亭の軍が退くとき,兵将は復相録せず,箕谷の軍が退くとき,兵将は初め相失うことなかった,何故だろうか?」ケ芝曰く:「趙雲どのが身をていし自ら後ろを断ったため,軍資什物は,略しても棄てる所が無く,兵将も縁って相失うこと無かったのです。」趙雲は軍資に余った絹を有していた,諸葛亮は将士に分けて賜らせ使もうとしたところ,趙雲曰く:「軍事では利が無かったのです,何為して賜を有させようというのです!其物は請いますに悉く赤岸の庫に入れ,須く十月に冬の賜りものと為さいますよう。」諸葛亮は之を大いに善しとした。

  或るひとは諸葛亮に更めて兵を発する(徴発する)こと<者>を勧めたが,諸葛亮は曰く:「大軍が祁山、箕谷に在ったとき,皆賊に於けるより多かった,而るに賊を破らずして,乃ち賊に破られる所と為った,此病は兵が少ないのに在らず也,一人に耳<のみ>在るのだ。今欲するのは兵減らし将省き,罰を明らかにして過ちを思い,将来に於ける変通之道を校ずることだ;若し然ること能わざるなら<者>,兵が多いと雖も何の益があろうか!今より<自>已後は,諸有忠慮於國,但勤攻吾之闕,則ち事は定まる可し,賊は死す可し,功可蹺足而待矣。」是に於いて微かな労も考じ,甄壮烈,咎を引いて躬を責めた,境内に於いて失われた所を布し,兵を獅オて武を講じ,以って後図を為させ,戎士を簡(抜)して練(兵)したため,民は其の敗れたことを忘れた矣。諸葛亮が祁山に出るや也,天水の参軍であった姜維が諸葛亮を詣でて降ってきた。諸葛亮は姜維の膽智を美しとすると,闢して(辟招して)倉曹掾と為し,使って軍事を典じさせた。

  曹真は安定等の三郡を討ち,皆平げた。曹真は以って諸葛亮は祁山に於いて懲りたため,後には必ずや陳倉より<従>出てくるだろうとすると,乃ち将軍の郝昭等を使わして陳倉を守らせ,其の城を治めさせた。

  夏,四月,丁酉,京を洛陽に還した。

  帝は燕國出身の徐邈を以ってして涼州刺史と為した。徐邈は農に務めて積穀し,学を立てて訓を明らかとし,善を進めて悪を黜したため,羌、胡と從事するに,小過を不問とした;若し大罪を犯せば,先ず部帥に告げて,死に応じている者を知ら使,乃ち斬るに徇を以ってした。是に由って其の威信に服させていったため,州界は肅清されていった。五月,大旱があった。

  呉王は鄱陽太守の周魴を使って山中にいる旧族名帥で為北方のことを聞き知る所と為っている者を密かに求めさせると,令して揚州牧の曹休を譎挑させようとした。周魴曰く:「民帥は小丑でありまして,杖任するに足りません,事が或いは漏洩すれば,曹休に致すこと能わないでしょう。親人を遣わして箋を継がせ以って曹休を誘わんことを乞います,譴を被って誅を懼れており,郡を以ってして北に降らんことを欲しているから,応じて接してくれるよう兵を求めるものであると言うつもりです。」呉王は之を許した。時に頻る郎官が周魴を詣でて諸事を詰問することが有ったため,周魴は(それに)因って郡の門下に詣でて,下って謝を発した。曹休は之を聞くと,歩騎十万を率いて皖に向かうこととし以って周魴に応じることにした;帝は又た司馬懿を使わして江陵に向かわせ,賈逵には東関に向かわせ,三道から倶に進んだ。

  秋,八月,呉王は皖に至ると,陸遜を以って大都督と為すと,黄鉞を假し,親しく鞭を執って以って之に見えた;硃桓(朱桓)、全jを以って左右の督と為すと,各々に三万人を督させ以って曹休を撃たせた。曹休は欺きに見えたのを知ったが,而して其の眾<兵力>を恃んで,遂に呉と戦った。硃桓は呉王に於いて言いて曰く:「曹休は本より親戚を以ってして任じらるに見えたもので,智勇ある名将に非ず也。今戦えば必ずや敗れん,敗れれば必ずや走らん,走ら当に夾石、掛車に由らん。此の両道は皆険厄でありますから,若し万兵を以ってして路を柴(で塞が)せば,則ち彼の眾は尽く,曹休も生け虜りとす可からん。臣は部する所を将いて以って之を断つことを請いねがいます,天威を蒙る若ければ,曹休を以って自ら效ずるを得させましょう,便ずるに勝ちに乗じて長驅し,進んで壽春を取り,淮南を割有すれば,以って許、洛をも規<はか>けん,此こそ万世の(/にない)一時というもの,時を失う可からず!」孫権は以って陸遜に問うたところ,陸遜は以って為す可からずとしたため,乃ち止めた。尚書の蔣済が上疏して曰く:「曹休は虜地に深く入り,孫権の精兵と対しております,而して硃然等が上流に在って,曹休の後ろに乗じようとしております,臣には未だ其の利が見えません也。」前将軍の満寵も上疏して曰く:「曹休は果を明らかにせんとして而して兵を用いんことを希っていると雖も,今従っている所の道は,湖を背にして江を旁らにしたもの,進むに易く退くに難いものです,此は兵之絓地です也。若入無強口,寵深為之備!」満寵の表が未だ報われないうち,曹休と陸遜が石亭に於いて戦った。陸遜は自ら中部と為ると,硃桓、全jに左右の翼と為るよう令すると,三道から倶に進み,曹休を伏兵で沖し,因って之を驅走させ,追亡して北に逐った,夾石に逕至して,斬獲すること万余,牛馬、騾驢、車乗万両,軍資器械は尽くを略したのである。

  初め,曹休は表すると深く入って以って周魴に応じんことを求めたため,帝は賈逵に兵を引きつれて東にゆかせ曹休と合わさるよう命じた。賈逵曰く:「賊には東関之備えが無いため,必ずや皖に於いて軍を並べてこよう,曹休が深く入って賊と戦えば,必ずや敗れよう。」乃ち諸将を部署すると,水陸で並び進み,行くこと二百里,獲た呉人が,言うことには曹休は戦って敗れ,呉は兵を遣わして夾石を断とうとしているとのことであった。諸将は知(恵)出ずる所を知らず,或るひとは後軍を待とうと欲した,賈逵曰く:「曹休の兵は外に於いて敗れ,路が内に於いて絶たれた,進んでも戦うこと能わず,退いても還ること得られない,これは安危之機,終日するに及ばず。賊は以って軍には後継が無いのだからとして,故に此に至ったのだ,今疾く進みて,其の不意に出る,此こそ所謂<いわゆる>人に先んじて以って其の心を奪うというもの也,賊は吾らが兵に見えれば必ずや走ろう。しかし若し後軍を待っているなら,賊は已に険を断ってしまうことになる,兵が多いと雖も何をか益さんか!」乃ち道を兼ねて進軍すると,旗鼓を多く設けて疑兵を為した。呉人は賈逵の軍を望見すると,驚いて走ったため,曹休は乃ち還るを得た。賈逵は夾石に拠ると,以って兵糧を曹休に給したため,曹休の軍は乃ち振うことになった。初め,賈逵と曹休は(仲が)善くなかったが,曹休が敗れるに及び,賈逵をョって以って免れたのである。

  九月,乙酉,皇子の曹穆を立てて繁陽王を為した。

  長平壮侯の曹休は上書して謝罪した,帝は宗室であることを以ってして不問とした。曹休は慚じて憤ったあまり,疽が背に於いて発することとなり,庚子,卒した。帝は満寵を以って都督揚州とすると以って之に代えたのである。

  護烏桓校尉の田豫が鮮卑の郁築鞬を撃った,郁築鞬の妻の父である軻比能が之を救いにき,三万騎を以って田豫を馬城に於いて囲んだ。上谷太守の閻志は,閻柔之弟であった也,素より鮮卑が信ずる所と為っていたため,往って之を解諭したため,乃ち(馬城の)圍みを解いて去った。

  冬,十一月,蘭陵成侯の王朗が卒した

  漢(蜀漢)の諸葛亮は曹休が敗れたと聞くと,魏兵が東下し,関中は虚しく弱くなっているとして,出兵して魏を撃たんことを欲した,群臣の多くは以為<おもえらく>疑わしいとした。諸葛亮は漢主に於いて上言して曰く:「先帝が深く慮られましたのは以って漢と、賊は両立しないということでありまして,王業は偏安しないものということであります,故に臣に以って賊を討つようにと託されたのです。先帝之明を以ってして,臣之才を量られたのは,固より当に知臣伐賊,才は弱く敵は強いのです;然るに賊を伐しないなら,王業も亦亡ぶもの,惟坐して而して亡びを待つのみと,之を伐さんことと孰くでありましょうか!是が故に臣に托して而して弗疑(疑うこと無かったのです)也。臣は之を受命した日,寝ようとも席に安んじられず,食しても不甘味(味が分からず),思うのは惟北征せんことのみでしたが,宜しく先ず南に入るべきとみて,故に五月には瀘(水)を渡り,深く不毛(の地)に入ったのです。臣は自らを惜しまざるに非ず也,王業を顧みるに蜀都に於いて偏る可からず,故に危難を冒して以って先帝之遺意を奉じているのですが也,而して議者は以って為すに計に非ざるとしています。今賊は西に於いて疲れるに適い,又東に於いて務めあるようす,兵法では労に乗じるもの,此こそ進趨之時であります也。謹んで其の事左の如きであることを陳べるしだいです:高帝は明るいこと日月を並べ,謀臣は淵深でありましたが,然るに険渉り創被り,危うくしてから然る後に安んじたのです。今陛下は未だ高帝に及ばずして,謀臣は張良、陳平の如からず,而しながら欲するのは長計を以ってして勝を取り,坐して天下を定めようとのこと,此は臣之未だ解せざることその一であります也。劉繇、王朗は各々が州郡に拠って,安んぜんことを論じて計を言い,動くに聖人(の言葉を)引きあいにだしましたが,群は満腹を疑い,眾難塞胸,今歳戦わず,年が明けても征さず,孫策をして坐したまま大なら使,並んで江東を遂われたのです,此は臣之未だ解さざることその二であります也。曹操の智計は殊に人に於いて絶しており,其の用兵たるや也,孫子、呉起を彷彿させるものでした,然るに南陽に於いて困じ,烏巣に於いて険まれ,祁連に於いて危うくなり,黎陽に於いて逼られ,伯山では幾らもなく敗れ,潼関では殆んど死せんばかりとなり,然る後に偽りながら一時を定められただけでした耳;況んや臣の才は弱く,而して欲するのは不危を以ってして而して之を定めんとすることです,此が臣之未だ解せざることその三であります也。曹操は昌霸を五たび攻めても下せず,四たび巣湖を越えても成らず,李服を任用すれば而して李服は之を図り,夏侯に委ねれば而して夏侯は敗亡しました;先帝は事毎に曹操は為すこと能くすると称えましたが,それでも猶も此のような失を有したのです,況んや臣は駑馭であります,何必ず勝つこと能わりましょうか!此は臣之未だ解せざることその四であります也。臣は漢中に到って自,中間期年耳,然るに趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、ケ銅等及び曲長、屯将七十余人,突将、無前、賨叟、青羌、散騎、武騎一千余人を喪いました,皆数えてみると十年之内に,四方之精鋭を糾合したもので,一州が所有する所に非ざるものなのです;若し複数年すれば,則ち三分之二を損なうでしょう,(そうなってから)当に何をか以って敵を図るというのです!此は臣之未だ解せざるその五であります也。今民は窮し兵は疲れておりますが,而るに事は息つく可からず,事が息つく可からざるなら,則ち住<往>與行わん,労費が正に等しく,而して之を虚しく図るに及ばざれ,一州之地を以ってして賊と久しきを支えんと欲す,此は臣之未だ解せざることその六であります也。夫難平者事也,昔先帝が楚に於いて敗軍されたとき,当に此時にあたって,曹操は拊手して,天下は已に定まれりと謂いました。然る後に先帝呉、越と連なり,西は巴、蜀を取り,兵を挙げて北征し,夏侯がその首を授けることになったのです,此こそ曹操之失計にして而して漢事が将に成らんとしたものであるのです也。然る後に呉は更めて盟を違え,関羽が毀敗することとなり,秭帰では蹉跌することとなり,曹丕が称帝するにいたったのです。凡そ事は是の如くして,難もまた逆に見える可けん。臣は鞠躬尽力し,死して而る後に已まんとするものです,成敗利鈍に於けるに至っては,非臣之明所能逆睹也。」

  十二月,諸葛亮は兵を引きつれて散関を出ると,陳倉を囲んだ,陳倉には已に備えが有ったため,諸葛亮は克つこと能わなかった。諸葛亮は郝昭の郷人である靳詳を城外に於いて遣わすと遙かから郝昭を説かせたが,郝昭は樓上に於いて之に応じると曰く:「魏家が法を科すのは,卿が練する所である也;我之為人<ひととなり>は,卿が知る所である也。我は國恩を受けること多く而して門戸は重かりし,卿に言う可こと<者>は無い,但だ必ず死なんとすること有るのみ耳。卿は還って諸葛に謝し,攻める可きと便じたまえ也。」靳詳は以って郝昭の語を諸葛亮に告げたところ,諸葛亮は又た靳詳を使わして重ねて郝昭を説かせた,言うことには「人も兵も敵しなかろう,空しく自ら破滅を為すことなど無い。」郝昭は靳詳に謂いて曰く:「前言已に定まれり矣,我が識るは卿耳<のみ>,箭は識らず也。」靳詳は乃ち去った。諸葛亮は以って自ら眾数万を有しており,而して郝昭の兵才は千余人であることから,又度って東の救(援)が未だ能く到ること便じられなかったため,乃ち兵を進めて郝昭を攻め,雲梯沖車を起てると以って城に臨んだ。是に於いて郝昭は火箭を以ってして其の梯を逆に射つと,梯は然ることとなり,梯上の人は皆燒死した;郝昭は又た繩を以って石磨を連ねると其の沖車を壓させたところ,沖車は折れた。諸葛亮は乃ち更めて井闌百尺を為すと以って城中を射させ,土丸を以ってして塹(塹壕)を填めさせると,直ちに攀城しようと欲したが,郝昭も又内に於いて重牆を築いた。諸葛亮は又た地突を為すと,城裡に於いて踴出せんと欲したが,郝昭も又城内に於いて地を横に穿って之を截った。晝夜相攻め拒むこと二十余日,曹真が将軍の費耀等を遣わして之を救った。帝は張郃を方城に<於>召すと,諸葛亮を撃た使ことにした。帝は自ら河南城に幸ずると,酒を置いて張郃を送った,張郃に問うて曰く:「将軍が到るのが遅れたなら<遲>,亮得無已得陳倉乎?(諸葛亮は陳倉を得てしまいはしないだろうか?/諸葛亮はなにも得ないだろうかそれとも已に陳倉を得てしまっているだろうか?)」張郃は諸葛亮が深入無谷(深く入りこんでいるのに谷<穀>が無いのを)知っていたため,指を屈して計って曰く:「臣が到るかどうかというあたりで<比>,諸葛亮は已に走っていましょう矣。」張郃は晨夜かたず道を進んだが,未だ至らずして,諸葛亮は糧が尽きて,引きはらい去った。将軍の王雙が之を追ってきたため,諸葛亮は撃って王雙を斬った。詔あって郝昭は関内侯の爵を賜られることになった。

  初め,公孫康が卒すると,子の公孫晃、公孫淵等が皆幼かったため,官属は其の弟である公孫恭を立てた。公孫恭は劣弱であった,國を治めること能わなかった,公孫淵が既に長じると,脅して公孫恭の位を奪うと,上書してその状を言ってきた。侍中の劉曄が曰く:「公孫氏は漢の時に用いられる所となり,遂に世に官を相承ることになりましたのは,水が則ち海にまでつながり<由>,陸が則ち山で阻まれているうえ,外は胡夷と連なっておりまして,絶遠であって制すること難かったがためです。而して権を世々にして日久しくなりました,今若し誅さず,後には必ずや患いを生みましょう。若し(公孫淵が)貳を懐いて兵を阻んでしまってから,然る後に誅を致そうとするなら,事に於いても為すこと難いでしょう。其が新たに立ったいま因るに如かず,党が有り仇が有るのだから,其の不意に先んじ,兵を以ってして之に臨み,賞募を開設すれば,師を労さずして而して定まる可ことでしょう也。」帝は従わず,公孫淵を拝して揚烈将軍、遼東太守とした。

  呉王は揚州牧の呂范を以ってして大司馬と為したが,印綬が未だ下らないうちに而して卒した。初め,孫策は呂范を使って財計を典じさせたが,時に呉王は年少なく,私ごとで求めるものが有るに従えば,呂范は必ず関白して,敢えて專許しなかった(自分の権限で勝手に許したりはしなかった),当時は此を以って望みに見えたのである(望んだものが手に入ったのである)。呉王が守陽羨長となると,私用とする所が有れば,或るひとに料って覆うよう(隠蔽するよう)策した,功曹の周谷が輒ち傅著簿書を為すと,譴問を無から使たため,王は時に臨んで之を悦んだ。後になって事を統めるに及んで,以って呂范は忠誠であるとして,厚く信任されるに見えたが,以って周谷は能く簿書を更めて欺いたとして,用いられなかった也。

 

 

烈祖明皇帝上之下太和三年(己酉,西暦二二九年)

 

  春,漢(朝)の諸葛亮は其の将陳戒を遣わして武都、陰平二郡を攻めさせたため,雍州刺史の郭淮が兵を引きつれて之を救いにきた。諸葛亮は自ら建威を出てきたため,郭淮は退くこととなり,諸葛亮は遂に二郡を抜いて以って帰さしめた;漢主は策して復諸葛亮を拝して丞相と為した。

  夏,四月,丙申,呉王が皇帝に即位し,大赦して,黄龍と改元した。百官が畢會すると,呉主は功を周瑜に帰した。綏遠将軍の張昭が笏を挙げて功徳を褒贊しようと欲したが,未だ言うに及ばずして,呉主曰く:「張公之計の如かれば,今では已に乞食となっていよう矣。」張昭は大いに慚じると,地に伏せて汗を流した。呉主は父である孫堅を追尊して武烈皇帝と為し,兄の孫策を長沙桓王と為すと,子の孫登を立てて皇太子と為し,長沙桓王(孫策)の子の孫紹を封じて呉侯と為した。諸葛恪を以って太子左輔と為すと,張休が右弼と為り,顧譚が輔正(都尉)に、陳表が翼正都尉に為った,而して謝景、范懼、羊慎等は皆賓客と為り,是に於いて東宮は多士を為すと号されたのである。太子は侍中の胡綜を使って《賓友目》を作らせて曰く:「英才卓越し,超逾倫匹するは,則ち諸葛恪;精識時機(時機を精緻に識り),達幽究微せるは(幽に達して微細を究めしは),則ち顧譚;凝弁宏達(凝った弁舌は宏達したもの),言能釋結(言能く釋結せるは),則ち謝景;究学甄微(学を究めて微細を甄じ),游夏同科(夏(中原)に遊学して科を同じくするは),則ち范懼。」羊道は胡綜に私駁して曰く:「元遜の才は而しながら疏であるし,子嘿の精は而しながら很である,叔発の弁は而しながらついており,孝敬の深みは而しながら狭いものである。」羊道が卒すると此の言を以ってして諸葛恪等が惡む所と為ったが,其後四人が皆敗れてしまったありさまは,羊道が言う所の如くであった。

  呉主は使いをやると二帝を並んで尊(称)するという議を以ってして漢に於いて往かせ告げさせた。漢人は以為<おもえら>くは之に交わっても益が無く而して名體が順うに弗<不/あら>ざるから,宜しく明を顯らかにし義を正し,其の盟好を絶つべきであるとした。丞相の諸葛亮は曰く:「孫権は僭逆之心を有すること久しい矣,しかし國家が其の釁情を略する所以というのは<者>,掎角之援けを求めてのことである也。今若し顯絶を加えたなら,我らを讎むこと必ずや深からん,更めて当に兵を東戍に移し,之と角力いたし,須く其の土(領土)を並べてから(併合してから),乃ち中原を議すことになろう。彼らのほうは賢才が尚も多い,将に相輯穆せんとしても,未だ一朝にして定まる可からざらん也。兵を頓じて相守りあえば,坐したまま而して須く老わせてしまい,北賊をして計を得させ使ことになろう,算之上者に非。昔孝文は辞を匈奴に卑くし,先帝は伏して呉に与して盟されたが,皆権に応じ変に通じたもので,遠い益を深く思ってのことであるのだ,匹夫之忿というもの<者>の若くでは非ざるものなのだ也。今議者は鹹(歯噛み)して以って孫権の利は鼎足に在るのであって,力を並べること能わず,且つ志望が已に満たされたのだから,上岸之情とて無かろうというが,此れを推してみるに,皆是に似てはいるが而して非なのである也。何者(なぜか)?其の智と力は不r,故に江を限って自らを保っている。孫権が長江を越えること能わざる,猶も魏賊が漢に渡ること能わざるがごとし,力に余り有るに非して,而して取らざるを利<よろ>しいとしているのである也。若し大軍が討ちに致らんとすれば,彼らは高きは当に其の地を分け裂いて以って後規を為すべく,下は当に民を略して(略奪して)境を広げるべく,内に於いて武を示そうとするだろう,端に坐すような者に非ざるのだ也。若し其れ動かざるに就きて而して我らに於いて睦んでくるなら,我らが北伐しようとも,東顧の憂い無く,河南之眾が尽く西するということ得られないのだから,此が利を為すこと,亦已に深いものである矣。そうであるのだから孫権の僭逆之罪については,未だ宜しく明らかにすべきではない也。」乃ち衛尉の陳震を遣わして呉に於ける使いとすると,尊号を称したことを賀(慶賀)した。呉主は漢人と盟(約)するにあたり,天下を中分することを約(束)し,以って豫、青、徐、幽は呉に属させることとし,兗、冀、並、涼は漢に属させることとし,其の司州之土については,函谷関を以って界(境)と為すものとした。

  張昭は老病であることを以って上に官位及び統領する所を還したが,更めて輔呉将軍を拝することとなり,班は三司に亞<つ>ぐとされ,改めて婁侯に封じられ,食邑は万戸とされた。張昭は朝見する毎に,辞気は壮獅ナあり,義は色に於いて形<あらわ>れていた,曾つて直言を以って旨に逆らったことがあったため,中って進見されなかったのである。後に漢の使いが来たとき,漢の徳美を称えたところ,而して群臣で能く屈させるもの莫かったため,呉主は歎じて曰く:「張公をして坐に在ら使めていたなら,彼は折れず則ち廃されていただろう,安んぞ復自らを誇っていようか乎!」明くる日,中使を遣わして労問させると,因って張昭に見えんことを請うた,張昭は席を避けて謝そうとしたところ(感謝しようとしたところ),呉主は跪いて之を止めた。張昭は坐して定まると,仰ぎみて曰く:「昔太后、桓王は老臣を以って陛下に属させることなく,而して陛下を以って老臣に属させました,是ゆえに以って臣節を尽くさんことを思い以って厚恩に報いんとしたのです,而るに意慮が浅く短かったため,盛旨に違え逆らってしまいました。然るに臣は愚かしくも心は國に事えるを以ってする所,志は忠益に在って畢命する(命を果てさせんとする)而已<のみ>です;乃ち心を変えて慮りを易えて以って偸栄取容(栄容を偸<ぬす>み取る)が若きこと,此は臣が能わざる所です也!」呉主は辞して焉に謝した。

  元城哀王の曹礼が卒した

  六月,癸卯,繁陽王の曹穆が卒した

  戊申,高祖大長秋を追尊して曰く高皇帝とし,夫人の呉氏を曰く高皇后とした。

  秋,七月,詔に曰く:「礼では,王后に嗣が無ければ,支子から擇び建てて以って大宗を継がせるものであるから,則ち当に正統を纂じて而して公義を奉ずるべきである,何私親を顧みること得られようか哉!漢の宣(帝)は昭(帝)の帝后を継いだが,悼考に加えるに皇号を以ってした;哀帝は以って外藩が援け立てたものであった,而るに董宏等は亡びさった秦のことを引きあいにだして称えると,時期を惑わし誤らせた,既にして恭皇を尊び,廟を京都に立てると,又た董宏は妾を藩すると,使わして長信に比させ,前殿に於いて昭穆に敘してやると,東宮に於いて四位を並べた,その僭差には度というものが無く,人も神も祐けるに弗<あら>ざるものであった,而るに非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍。是より<自>の後は,之を相踵行しあうものとせよ。昔魯の文(公)は祀に逆らったが,その罪は夏父に由ったものであった;宋國の非度については,譏が華元に在った。其れ公卿有司に令す,前世に行われた事を以って戒めと為すことを深くせよ,後嗣が万が一にも諸侯由り入って大統を奉じること有れば,則ち当に人後之義を為して明らかとすべし;敢えて君に佞邪を為し時に諛って導かんとするもの,非正之号を妄りに建てて以って正統を干すもの,考を謂うに皇と為し,妣を称するのに後<皇后>と為すものあれば,則ち股肱や大臣は之を誅して赦すこと無かれ。其れ之を金策に書し,之を宗廟に蔵<おさ>め,著すこと令典に於けるものとせよ!」

  九月,呉主は建業に遷都したが,皆故の府に因ると,復た増改(築)せず,太子の孫登及び尚書九官を武昌に於いて留めると,上大将軍の陸遜に太子を輔けさ使,並んで荊州及び豫章二郡の事を掌らせ,軍國を董督させた。南陽出身の劉は嘗て《先刑後礼論》を著したところ,同郡の謝景が之を陸遜に於いて称えた,陸遜は謝景を呵して曰く:「礼が刑に於けるより長たりて久しい矣;劉は細弁を以ってして而して先聖之教えを詭くしている,君は今や東宮に侍っているのだから,宜しく仁義を遵んで以って徳音を彰らかとすべきである,彼之談の若きは,須く講じないように也!」太子は西陵都督の歩騭に書を与え,啓誨に見えんことを求めた,歩騭は是に於いて條於時事業在荊州界者及諸僚吏行能以報之,因って上疏して奨勧して曰く:「臣が聞きますに人君は小事に親しまず,百官有司を使わして各々其の職に任せるものです,故に舜は九賢に命じて,則ち心を用いる所が無く,廟堂を下らずして而して天下は治まったのです也。故に賢人が在る所,万里を折衝するもので,信に國家之利器というものでありまして,崇替之所由<ゆえん>なのであります也。願わくば明太子には重んじるに経意を以ってされますよう,そうすれば則ち天下は幸甚というものでございます!」

  張紘は呉に還って家を迎えたが,道で病にあって卒した。困に臨んで,子の靖に留箋を授けて曰く:「古より<自>國が有り家が有るのは<者>,徳を修めんことを鹹欲し政するにあたり隆盛の世に比べんことを以ってする,其れ治まるに於けるに至って,多くが馨香しないのは,忠臣や賢佐が無いからではない<非>也,主が其の情に勝てないことに由って,能く用いるに弗<あら>ざるだけなのだ耳。夫人情とは難き憚り而して易きに趨くもの,同じきを好み而して異なりしを惡むものだが,道を治めるものとは相反するものなのだ。《傳》に曰く『善に従うは登るかの如くにして,惡に従うは崩れるかの如く』とは,善の難き言うのである也。人君は奕世之基を承り,自然之勢いに拠って,八柄之威を操るもの,之に歓びを同じくするのは甘く易いことで,敢えて人に於いて假りるものが無い,而して忠臣は難進之術を挟んで,逆耳之言を吐くものだ,其が合わないのも也,亦宜しからずや乎!離れれば則ち覚ることも有ろう,巧弁が間に縁り,小忠に於いて眩まされ,恩愛に於いて恋わずらい,賢愚が雜錯し,黜陟が失敘する,其が由来する所は,情が之を乱すということなのである也。故に明君は之に寤<覚>めていて,賢を求めること飢え渇えるが如くなのである,諫めを受けても而して厭<いと>わず,情を抑えて欲を損ない,義を以ってして恩を割きあたえれば,則ち上には偏謬之授は無く,下には希冀之望は無くなるのである矣!」呉主は書を省みて,之が為に流涕した。

  冬,十月,平望観を改めて曰く聴充観とした。帝は常に言うことに:「獄というのは<者>,天下之性命である也。」大獄を断ずる毎に,常に観に詣でて之を臨聴した。初め,魏文侯の師の李悝は《法経》六篇を著し,商君は之を受けて以って相秦じた。蕭何は《漢律》を定めると,益して九篇と為し,後に稍増して六十篇に至った。又《令》三百余篇、《決事比》九百六卷が有ったが,世有増損(世を経るごとに増損することが有り),錯糅して常無く,後人が各々章句を為した,馬、鄭らの諸儒十有余家があって,以って魏に於けるに至ったのである。当用する所の者は合わせて二万六千二百七十二條,七百七十三万余言,覽者は難を益していた。そこで帝は乃ち詔して但だ鄭氏の章句のみを用いることとした。尚書の衛覬は奏して曰く:「刑法というのは<者>,國家之貴び重んずる所であり而して私議之軽んじ賤しむ所です;獄吏というのは<者>,百姓之が命を縣ける所にして而して選び用いる者之卑下する所です。王政が敝ずるのは,未だ必ずしも此に由るのではありません也。律博士を置かれんことを請うしだいです。」帝は之に従った。又司空の陳群、散騎常侍の劉邵等に詔をくだして漢法を刪約させて,制定させること《新律》十八篇,《州郡令》四十五篇,《尚書官令》と、《軍中令》の合わせて百八十余篇,《正律》に於いては九篇が増されることと為り,旁章科令に於いては省かれることと為った矣。

  十一月,洛陽の廟が成ったため,迎高、太、武、文四神主於鄴。

  十二月,雍丘王の曹植が東河に封を徙された

  漢の丞相である諸葛亮が府営を南山の下原の上に於いて徙すと,沔陽に於いて漢城を築き,成固に於いて楽城を築いた。

 

 

烈祖明皇帝上之下太和四年(庚戌,西暦二三〇年)

 

  春,呉主は将軍の衛温を、諸葛直を使わすと甲士万人を将いさせ,海に浮かんで夷洲、但洲を求めさせた,其の民を俘して以って眾を益そうと欲したのである。陸遜、全jは皆諫めるにあたり,以って為すに:「桓王(注:長沙桓王、即ち孫策のこと)が基を創ったおり,兵は一旅でさえなかったのです。(注:一旅は軍の規模。2000〜3000人程度) 今江東は眾を見るに,事を図るに自足しておりまして,当に不毛を遠く渉るべきでありません,万里(の遠さは)人を襲うもの,風波は測り難いものです。又民が水土を易<か>えれば,必ずや疾疫を致すことでしょう,益を欲して更めて損ねることとなり,利を欲して反って害うこととなりましょう。且つ其の民は禽獣の猶くでありますからには,之を得ても済事するには足らず,無之不足虧眾。」としたが呉主は聴きいれなかった。

  尚書で琅邪出身の諸葛誕、中書郎で南陽出身のケ颺等は相與して結し党友と為ると,更めて相題表しあい,散騎常侍の夏侯玄等四人を以ってして四聰と為し,諸葛誕の輩ら八人を八達と為した。夏侯玄は,夏侯尚之子である也。中書監の劉放(字は)子熙,中書令の孫資(字は)子密,吏部尚書の衛臻(字は)子烈ら,三人は鹹すれ比すに及ばなかった,其の父が勢位に居るを以ってして,容之為三豫。行司徒事の董昭が上疏して曰く:「凡そ天下を有する者は,敦樸にして忠信之士を貴び尚ないことは莫く,虚偽不真之人を深く疾まないことは莫いというのは<者>,以って其れが教え毀し治乱すため,俗を敗れさせ(王)化を傷つけるためです也。近くは魏諷が建安之末に誅に伏し,曹偉が黄初之始まりに斬戮されました。伏して惟いますに前後の聖詔からすると,浮つき偽りを深く疾み,以って邪党を破り散らさんと欲されておられるようで,常用切歯(常に歯噛みされているようです);而しながら執法之吏は,皆が其の権勢を畏れておりまして,能く糾擿するものが莫かったため,風俗を毀壞し,侵欲は滋甚となっているのです。竊い見ますに当今では年少が学問を以ってして本を為すことを復せず,専ら更めて交遊を以ってして業を為そうとしています;國士は孝悌清修を以ってして首と為すことせず,乃ち趨勢游利を以ってして先と為しております。合党連群し,互いに相褒歎しあい,毀訾を以ってして罰戮を為し,党譽を用いて爵賞を為し,己に附く者は則ち之を歎じて盈言し,附かない者は則ち作を為して瑕釁します。至って乃ち相謂うことに:『今世は何度<わた>らざるを憂うるか邪,但だ人を求めるだけ道は勤しまない,之を下博に羅すだけだ耳;人は何其の知己がないことを憂うだろうか,但だ当に薬を以ってして之を呑むべし而して調を柔らげんとするのみ耳。』又聞きますに或有使奴客名作在職家人,之を冒して出入し,禁奧に往来して,書疏を交わり通じさせ,問いを探る所が有るとか。凡そ此れらの諸事は,皆法の取らざる所でありまして,刑の赦さざる所です,魏諷、曹偉之罪と雖も,以って加えるものが無いものです也!」帝は其の言を善しとした。二月,壬年,詔に曰く:『世之質文は,隨教して而して変わってしまった。兵乱以来,経学が廃絶している,後生は講趣すれ,典謨に由らない。豈に訓導が未だ洽がっていないものだろうか,進用者を将いるに徳を以ってして顯らかにしないとは乎!其の郎吏で一経に学び通じていれば,才任牧民とする,博士は試(験)を課し,其の高第となった者を擢んで,亟用せよ;其の浮華で道の本に務めない者は,之を罷め退かせよ!』是に於いて諸葛誕、ケ颺等の官を免じることとなった。

  夏,四月,定陵成侯の鐘繇が卒した

  六月,戊子,太皇太后の卞氏が殂した。秋,七月,武宣皇后(として)葬った。

  大司馬の曹真が以ってするに「漢人がたびたび入寇してくるため,斜谷から<由>之伐さんこと請います。諸将が数道から並び進めば,以って大いに克つ可ことでしょう。」帝は之に從うと,詔をくだし大将軍の司馬懿には漢水を溯って西城から<由>入らせ,曹真と漢中で会するように,諸将には或いは子午谷から<由>、或いは武威から<由>入るようにとした。司空の陳群が諫めて曰く:「太祖が昔陽平に到って張魯を攻めたおりには,豆麥を多く収めて以って軍糧を益させましたが,張魯が未だ下らないうちに而して食は猶も乏しくなったのです。今既に因る所無く,且つ斜谷は阻険でありますから,以って進退するに難しく,転運すれば必ずや鈔截に見えましょうから,兵を多く留めて要を守らせれば,則ち戦士を損なうことでしょう,熟慮しない可きではありません也。」帝は陳群の議に従った。曹真は復表して(行軍計画を斜谷ではなく)子午道から<従>としたところ;陳群も又其の不便を陳べるとともに,軍事用度之計を並んで言うこととなった。詔あって以って陳群の議が曹真に下され,曹真は之に拠って遂行することになった。

  八月,辛已,帝は東巡を行い;乙未,如許昌(についた)。

  漢の丞相である諸葛亮は魏兵が至ったと聞くと,成固赤板に於いて次ぐと以って之を待った。李厳を召して二万人を将いらせ使むと漢中に赴かせるとともに,李厳の子の李豊を江州都督と為して,軍を督させて李厳の後事を典じさせるよう上表した。天が大いに雨ふらせること三十余日となるに会い,棧道が断絶したため,太尉の華歆が上疏して曰く:「陛下には聖徳を以ってして当に成、康之隆たるべく,願わくば先ず心治めることに於けるよう留められ,以って征伐は後の事と為されますよう。為國というものは<者>民を以ってして基と為すもの,民は衣食を以ってして本を為すものです。中國をして饑え寒さの患いを無くさ使めば,百姓は上之心から離れること無く,則ち二賊之釁もまた坐して而して待つ可こととなりましょう也!」帝は報いて曰く:「賊は山川に憑き恃みとしているため,二祖は前世に於いて労したものの,猶も克ち平げられなかった,朕は豈に敢えて自ら多く,之を必ず滅ぼさんなどと謂うものだろうか哉!諸将以為不一探取,無由自敝,是以観兵以窺其釁。若し天の時が未だ至らないというのならば,周武が師を還したことは,乃ち前事之鑒であるのだから,朕は敬って戒めとする所を忘れまい。」少府の楊阜が上疏して曰く:「昔武王が魚を白して舟に入ったため<白魚入舟>,君臣は色を変えました,動くに吉瑞を得たとしましても,尚も憂懼するが猶きであったのです,況んや災異が有ったのに而して不戦竦者哉!今呉、蜀は未だ平げられず,而して天は屢ねて変を降したもうたのに,諸軍が進み始めていますが,天雨之患い有るを便じ,閡山の険を稽うるに,已に日を積もらせております矣。転運之労といい,擔負之苦といい,した所は已に多く,若し断じないこと有れば,必ずや本より図ったものと違えてしまうことでしょう。《傳》に曰く:『可と見て而して進み,難と知って而して退くは,軍之善政である也。』徒らに六軍をして山谷之間に於いて困じさせ使,進んでも略する所とて無く,退いても又得ることないのは,王兵之道というものではありません<非>也。」

  散騎常侍の王肅も上疏して曰く:「前志に之が有ります:『千里饋糧,士有饑色,樵蘇後爨,師不宿飽,』此が謂わば平塗之行軍者というものです也;又況んや阻険に深く入らんとするに於いては,路を鑿<うがって>而して前にすすむわけですから,則ち其が為す労というのは必ずや相百ともなりましょう也。今は又た之に加えるに霖雨を以ってしているわけです,山板は峻しく滑りやすくなっており,眾が迫ってきても而して展じられず,糧は遠いため而して継ぐこと難しく,実に軍を行う者が大いに忌むものです也。聞けば曹真が発して(兵を発して)から已に月を逾しておりますのに而して行裁したのは谷を半ばとするだけ,道を功夫に治めさせ,戦士が悉く作しているとか。是では賊が偏得して(一方的に利を得るもので)逸を以ってして労を待たせているもので,乃ち兵家之憚る所です也。之を前代に言うなれば,則ち武王が紂(王)を伐したおり,関を出て而して(すぐ)復還ったことがありますし;之を近くの事で論じるなら,則ち武、文が孫権を征したおり,江に臨んで而して済しませんでした。(彼らは)豈に所謂<いわゆる>天に順時を知るもの,権変に於いて通じる者に非ずとできましょうか哉!兆民は上が聖なることを知っておりますからには水雨が艱劇したという故を以って,休ませて而して之を息つかせ,後日に釁すこと有れば,乗じて而して之を用いることにすれば,則ち所謂悦んで以って難を犯し,民は其の死者を忘れるというものでしょう矣。」王肅は,王朗之子である也。九月,曹真等に班師するよう詔をくだした。

  冬,十月,乙卯,帝は洛陽に還った。時に左僕射の徐宣が留事を總統していたが,帝が還ったため,主者が文書を奏呈した。帝曰く:「吾が省るのは僕射が省るのと何か異なるところがあろうか!」竟に視なかった。

  十二月,辛未,文昭皇后を朝陽陵に於いて改葬した。

  呉主は声を揚げて合肥に至ろうと欲したため,征東将軍の満寵が兗、豫の諸軍を召して皆集めるよう上表した,呉が尋退き還ったため,詔あって其の兵を罷すこととなった。しかし満寵が以って為すに:「今賊が大挙して而して還るのは,本意に非ず也,此は必ずや偽り退いて以って吾が兵を罷めさせ,而して倒還して虚に乘じ,不備に掩ろうと欲してのことであろう也。」罷兵しないよう上表した,十余日してから後,呉は果たして更めてやって来た。合肥城に到ったが,克てずに而して還っていった。

  漢の丞相である諸葛亮は蔣琬を以って長史と為した。諸葛亮が何度も外に出たが,蔣琬は常に食兵を足し,以って相供給した。諸葛亮は言う毎に:「公琰托志忠雅,当に吾と共に王業を贊ずべき者である也。」

  青州の人である隠蕃が逃れ奔って呉に入ると,呉主に於いて上書して曰く:「臣が聞きますに紂が無道を為したところ,微子が先ず出たとか;高祖がェ明であったところ,陳平が先ず入ってきたとか。臣は年二十二にして,封域を委棄し,命を有道に帰し,天靈をョ蒙し,得自全致。臣至止有日,而主者同之降人,未見精別,使臣微言妙旨不得上達,於邑三歎,曷惟其已!謹しんで闕に詣でて章を拝し,引見を蒙らんことを乞うしだいです。」呉主が即ち召し入れたところ,隠蕃は進謝し,答問あって時務を陳べるに及んだが,甚だ辞に観るべきものが有った。侍中で右領軍の胡綜が坐に侍っていたため,呉主が問うた:「何如か?」胡綜は対して曰く:「隠蕃の上書は大語するところ東方朔に似たものが有り,詭弁を巧みに捷するのは禰衡に似たものが有りますが,而して才は皆及びません。」呉主は又問うた:「何の官なら堪えられようか?」胡綜は対して曰く:「未だ以って民を治めさせる可からず,且つは都輦(の)小職にて試みられますよう。」呉主は以って隠蕃が盛んに刑獄を語っていたことから,用いて廷尉監と為した。左将軍の硃拠、廷尉の郝普が隠蕃には王佐之才が有ると何度も称え,郝普は之と親善すること尤もであったため,常に其が屈したままであることを怨み歎いた。是に於いて隠蕃の門には車馬が雲のごとく集まり,賓客が堂を盈たし,自ずと衛将軍の全j等らは皆が心を傾け接待することとなった;惟羊道及び宣詔郎で豫章出身の楊迪だけは拒絶してこれと通じなかった。潘濬の子の潘翥,も亦た隠蕃と周旋し,之に饋餉した。潘濬は聞くや,大いに怒って,潘翥を疏責して曰く:「吾は國より厚恩を受け,志報するに命を以ってせんとしているのだ,爾輩<おまえ>は都に在っては,当に恭順を念じて,賢に親しみ善を慕うべきであろう。それなのに何故に降虜と交わり,糧を以って之に餉そうとするのか!遠くに在って此れを聞いて,心震え面熱く,惆悵すること累旬している。疏が到ら,急就往使受杖一百(急いで使いに就き往きて杖一百(打ちの刑罰)を受け),促責所餉!(隠蕃に餉をした所を(件について)責めるよう促すがよい!)」当時の人は之を鹹怪とした。この頃,隠蕃は呉に於いて乱作さんこと謀っていたのであるが,事が発覚したため,亡び走らんとし,捕得されて,誅に伏した。呉主は郝普を切責し,郝普は惶懼して,自殺した。硃拠は止まるを禁じられたが,暦時して乃ち解けた。

  武陵の五溪蛮夷が呉に叛いた,呉主は以って南土が清定したことから,交州剌史の呂岱を召すと長沙漚口に還し駐屯させた。