巻第七十二

 

【魏紀四】 起重光大淵獻,尽閼逢攝提格,凡そ四年。

烈祖明皇帝中之上太和五年(辛亥,西暦二三一年)

  春,二月,呉主は太常の潘濬に節を假すと,呂岱とともに諸軍五万人を督させ使むると五溪蛮を討たせた。潘濬の姨史であった蔣琬が諸葛亮の長史と為っていたため,武陵太守の衛潘濬が密使を蔣琬に<与>遣わして相聞かせ,自托之計有らんことを欲していると奏上してきた。呉主は曰く:「承明は此んなことを為さない也。」とすると即ち衛の表を封じて以って潘濬に示し,而して衛に還るよう召すと,免官とした。

  衛温、諸葛直が軍行かせて歳経て,士卒は疾疫で死んだ者が什のうち八九あまりにもなった,但洲は絶遠であり,卒不可得至(率いて到着できそうになかったため),夷洲の数千人を得たところで還ってきた。そこで衛温、諸葛直は功が無かったことに坐して,誅された。

  漢丞相の諸葛亮は李厳に命じて以って中都護として府事を署させた。李厳は名を平と更めた。諸葛亮は諸軍を帥して入寇すると,祁山を囲み,木牛を以って運ばせた。是に於いて大司馬の曹真が疾を有したために,帝は司馬懿に命じて西へゆかせ長安に駐屯させると,将軍張郃、費曜、戴陵、郭淮等を督させて以って之を御させた。

  三月,邵陵元侯の曹真が卒した

  十月より<自>雨がなく,(それは)ここに於けるに至った。

  司馬懿は費曜、戴陵を使って精兵四千を留めさせ上邽を守らせると,余眾は悉く出て,西へむかい祁山を救うことになった。張郃は兵を分けて雍、郿に駐めさせたいと欲したところ,司馬懿は曰く:「料るに前軍が能く独り之に当ることできるならば<者>,将軍の言は是である也。若し当ること能わずして而して分為すること前後するなら,此は楚之三軍が黥布の為に禽われた所以となろう也。」として遂に進んだ。諸葛亮は兵を分けて留めると祁山を攻めさせ,自らは逆に上邽に於いて司馬懿にむかった。郭淮、費曜等は諸葛亮を徼した(迎え撃った)が,諸葛亮は之を破り,因って大いに其の麥を芟刈すると,司馬懿と上邽之東に於いて遇うこととなった。司馬懿は軍を斂して険に依ったため,兵は交わること得ず,諸葛亮は引き還した。司馬懿等は諸葛亮の後ろを尋ねて鹵城に於けるに至った。張郃曰く:「彼は遠くから来て我らに逆らっています,戦をせんことを請うて得られないのは,謂我利不在戦,欲以長計制之也。且つ祁山では大軍が已に近くに在る知っておりますから,人情は自ずと固まっていることでしょう,可止屯於此(此処での駐屯を止める可きです),分けて奇兵を為して,其の後ろに出んことを示しましょう,進んで前にして而して敢えて逼らないのは宜しからず,坐して民望を失うでしょう也。今諸葛亮は孤軍であり食は少なく,亦行き去らんとしているのです矣。」司馬懿は従わず,故尋亮。既に至ると,又山に登って営を堀り,戦うこと肯んじなかった。賈詡、魏平は何度も戦いたいと請うと,因って曰く:「公は蜀を畏れること虎の如し,奈天下笑何!(天下が笑うのを如何するつもりですか!)」としたため司馬懿は之に病んだ。諸将は鹹して戦いを請うた。

夏,五月,辛已,司馬懿は乃ち張郃を使って無当監の何平(王平)を南囲に於いて攻めさせると,自らは中道を案じて諸葛亮に向かった。諸葛亮は魏延、高翔、呉班を使わし逆に戦いにでてき,魏兵は大いに敗れ,漢人は獲甲すること三千を著し,司馬懿は還って営を保つことになった。

六月,諸葛亮は糧が尽きたことを以って軍を退かせたため,司馬懿は張郃を遣わして之を追わせた。張郃は進んで木門に至ったところで,諸葛亮と戦い,蜀人は高みに乗じて佈伏し,弓弩が乱髮し,飛矢が張郃の右膝に中ったため而して卒した

 

  秋,七月,乙酉,皇子殷が生れたため,大赦した。

  黄初以来,諸侯王(について)法禁が厳切であった。吏察之急たるや,親姻に於いて皆敢えて相通問しないことに至ったのである。東阿王の曹植は上疏して曰く:「堯の教えを為すや,親を先にし疏を後にしたため,近くから<自>遠くに及んだのです。周文王が刑するは寡妻に於いてから,兄弟に於けるに至ったため,以って家邦を<於>御したのです。伏して惟いますに陛下は帝唐(の有していた)欽明之徳を資しておられ,文王(の有していた)翼翼之仁を体(現)されており,恵みは椒房に洽がり,恩は九族に昭されて,群後百寮(百寮を群れつどって後ろに従い),番休遞上(遞上に番休しております),執政しては公朝に於いて廃さず,情を下しては私室を展示するを得て,親理之路が通じ,慶吊之情が展じられ,誠に己を恕して人を治められますのは,推して恩を恵み施す者と謂う可きでしょう矣。至於臣者(至って臣に於けるについては<者>),人道が緒を絶っており,禁錮は時に明らかとなっておりますが,臣が竊うに自ら傷つけているのでしょう也。そこで乃ち気類に交わろうとの望みを敢えてせず,人事を修め,人倫を敘してきました。とはいえ近くは且つ婚媾は通じず,兄弟は乖絶しまして,吉凶之問が塞がれ,慶吊之禮が廃されています。恩紀之違えるのが,しいこと路人に於けることとなっております;隔閡之異なるは,殊なること胡越に於けるものとなっております。今臣は一切之制を以ってして,永らく朝覲之望みが無かったのです,(そのため今わたくしが上疏の沙汰に及んだことは)心を皇極に注ぐに於けるに至って,情を紫闥に結ぼうとしましたのは,神明が之を知るというものです矣。然るに天が実<まこと>に之を為そうとするなら,之を何と謂うのでしょうか哉!退いて惟いますの諸王常に戚戚として具爾之心を有しているということです,願わくば陛下には沛然として詔を垂れたまい,諸國に慶問させ使,四節には展を得られるようにされ,以って骨肉之歓恩を叙し,怡怡之篤義を全うさせてくださいますよう。妃妾之家は,膏沐之遺です,歳には(年に一度は)再び通じる得させてくださって,貴宗に於いて義を斉しくされ,百司に於いて恵みを等しくなさいますよう。此の如くなれば,則ち古人之歎ぶ所となりましょうし,風雅之詠ずる所となりましょうから,聖世に於いて復とないことと存じます矣(聖世に於けるからこそ存るを復されたというものでしょう)!臣は伏して自らを惟い省みますに,錐刀之用にもされて無いようです;陛下が抜授される所を観るに及び,若し臣を以ってして異姓と為らしめていたなら(と思うばかりです),自らを竊い料度しますに(料<はか>度<はか>り/自らの才幹を推し量るに),(今いる並み居る)朝士に於いても後れるものでありません矣。若し辞を得られて遠遊できますなら,武弁を載せ,硃組を解き,青紱を佩<は>いて,駙馬、奉車(を給わる成果を出し),一号(何らかの爵号)を趣き得て,宅を京室に安んじたいものです,鞭執り筆を珥し,出ては華蓋に従い,入りては輦轂に侍り,聖問を承ってそれに答え,左右を拾遺するのが,乃ち臣の丹誠之至願でありまして,夢想するに於いて離れざること<者>です也。遠く慕いますのは《鹿鳴》にある君臣之宴,(吾が心)中に詠みますのは《常棣》にある匪他之誡め,思わざりきは《伐木》にある友生之義でありまして,終に懷くのは《蓼莪》にある罔極之哀しみでございます。四節之会のある毎に,塊然として独り処しています,左右は惟僕の隸だけ,対する所は惟妻子のみ,高談すれ与し陳べる所とて無く,精義も与し展所が無く,未だ嘗て楽しきを聞かずして而して心を拊<なぐ>さめ,觴に臨んで而して歎息するばかりです也。臣が伏しておりますのは犬馬之誠を以ってしても人を動かすこと能わず,譬人之誠も天を動かすこと能わざるゆえ,崩城、隕霜あれば,臣は初めて之を(至誠が人を動かし天に通じることを)信じましょう,以臣心況(臣の心を以ってして況やとしても),徒に語を虚しくするだけでしょう耳!若し葵藿が葉を太陽へ傾け,回光為らずと雖も,然るに之に向うというのは<者>誠というものです也。自らを竊って葵藿に比してみますと,天地之施しを降され,三光之明を垂れられます若きは<者>,実<まこと>に陛下に在るのです。臣が聞きますに《文子》に曰く:『不為福始,不為禍先。』とありますのは今之否隔,友於同憂,而して臣が独り倡言するのは<者>,実不願於聖世有不蒙施之物(聖世に於いて施之物を蒙らないことが有るのを実<まこと>に願わないからなのです),(わたくしは)陛下の崇光を欲し時雍之美を被りたいとするものです,宣しく章明之徳を緝熙してくださいますように也!」詔が報われて曰く:「蓋し教化が由る所は,各々に隆敝が有るのであって,皆(が皆)善が始まり而して惡が終えるとならないこと也,事は之を使て然りとしている。今令するに諸國兄弟の情禮は簡怠となり,妃妾之家の膏沐は疏略となっているが,本より諸國の通問を禁錮するなどといった詔などは無い也。矯枉すること正しきを過ぎ,下吏は懼れて譴った,そのため以って此に於けるに至っただけなのであろう耳。已に有司に敕した,王が訴える所の如くせよ。」

  曹植は復た上疏して曰く:「昔漢の文(帝)が代を発したおり,朝に変有ることを疑いましたが,宋昌が曰く:『内には硃虚、東牟之親が有り,外には斉、楚、淮南、琅邪が有ります,此は則ち磐石之宗でありますから,願わくば疑うこと勿れ。』臣が伏して惟いますに陛下は遠く姫文二虢之援けを覽ておられますし,中は周が召、畢之輔けにより成ったことを慮られております,また下には宋昌の磐石之固めが存しております。臣が聞いておりますのは羊が虎皮を質としても,草に見えれば則ち悦び,豺に見えれば則ち戦<おのの>き,其の皮が虎であることを忘れるものだということです也。今置かれている将が良しからざること,此に於けるに似たものが有ります。故語に曰く:『患為之者不知,知之者不得為也。(患いが之を為すということ<者>は知らない,之を知るところ<者>は為す得ていないことだ)』とあります。昔管、蔡は誅を放ち,周、召は弼けを作りました;叔魚は刑に陷ち,叔向は贊國しました。三監之釁は,臣自らが之に当らんとするしだいです;二南之輔けは,求めれば必ずや遠くないことでしょう。華宗貴族籓王之中で,必ずや応じて斯く挙げる者が有ることでしょう。夫能く天下をして傾耳注目させ使むる者は,権に当たっている者が是れであります也。故に謀れば能く主を移すことになり,威<おど>せば能く下を懾することになるわけです。(そうしたことを考えますと今の状況は)豪右が政を執って,親戚が不在であります,権之在る所は,疏と雖も必ずや重くなりましょう,勢之去る所は,親と雖も必ずや軽んじられましょう。蓋し斉を取りし者は田(氏の一)族であって,呂(の)宗(族)ではありませんでした也;晉を分かつた者は趙、魏でありますが,姫姓ではなかったのです也。惟陛下には之を察せられますよう。苟しくも吉となれば其の位を専らにし,凶となれば其の患いから離れんとした者は,異姓之臣でありました也。國之安んぜんことを欲し,家之貴からんことを祈って,存するにあたって其の栄えを共にし,歿するにあたって其の禍を同じくした者は,公族之臣でありました也。今や反って公族が疏かにされ而して異姓に親しまれておりますが,臣は竊って焉<これ>に惑うものです。今臣は陛下とともに踐冰履炭し,登山浮澗し,寒温燥濕,高下之を共にしております,豈に陛下を離れること得られましょうか哉!憤懣に勝らずして,拝し表して陳情いたします。若し不合すること有れば,乞いますのは且つは之を書府に蔵して,滅ぼし棄てるなど便じませんよう,臣が死してから後に,事あって或いは思うことある可きにそなえてくださいますよう。若し毫(ほんのわずか)釐(すこしばかり)少(すくないながらも)聖意を掛けてくださること有るというのでありますなら<者>,乞いますのは之を朝堂に出され,夫れ博古之士を使わして,臣の表之義に合わないところを糾させてくださること<者>です,是の如かれば則ち臣の願いは足ることになります矣。」帝は但だ優文を以ってして答報した而已<のみ>であった。

  八月,詔に曰く:「先帝が著した令に,諸王で京都に在る者を使わすのを欲しないとあるのは,幼主が在位し,母后が攝政しているばあい,漸(しだいしだいにすること/幼主の成長に伴い権限を移してゆく)を以ってして微かとなるのを防ぎ,諸々の盛衰への関としようということを謂っているのである也。朕が惟うに諸王で十有二載に見えざる,悠悠之懷で,思を興すこと能わないものである!其れ諸王及び宗室公侯に令す各々は適子一人を将いて明くる年の正月に朝(廷の大会に参加)するよう,後に少主、母后で在宮している者が有れば,自ずと先帝の令の如くせよ。」

  漢丞相である諸葛亮が祁山を攻めるや也,李平が後ろに留まり,運事を督する主<つかさ>どった。天に霖雨あるに会い,李平は運糧が継がなくなる恐れて,参軍の孤忠、督軍の成藩を遣わして喩指させ,諸葛亮が来還するよう呼んだ;そこで諸葛亮は承って以って軍を退いた。李平は軍が退いたことを聞くと,乃ち更めて陽驚してみせて,説くことに「軍糧は饒し足りていたのに,何でまた以って帰らんことを便じたのですか!」とすると又た督運の岑述を殺そうと欲し以って己が不辦之責を解こうとした。又漢主に(上)表して,説くことに「軍は偽退したのです,欲するのは以って賊を誘いこれと戦おうということです。」諸葛亮は具さに其の前後の手筆書を出して,本末の違錯を(上)疏した。李平の辞は窮し情は竭し,首謝して罪負うことになった。是に於いて諸葛亮は李平の前後の過惡を上表すると,免官し,爵土を削り,梓潼郡に徙したのである。復李平の子の豊を以って中郎将、参軍事と為すと,教敕を之に出して曰く:「吾は君ら父子と戮力して以って漢室を奨めんとした,表して都護には漢中を典じさせ,君には東関を<於>委ねたのだ,至心が震動すれば,終始は保たれると謂う可き,何ぞ中乖を図らんか乎!都護が一えに意を負わんことを思い,君と公琰とが心を推して事に従う若くなれば,否となったものも復通ず可,逝きしものも復還る可くとなろう也。斯く戒めを詳らかに思い,明吾用心(吾に用いし心を明らかとされよ)!」諸葛亮は又た蔣琬、董允に書を与えてく曰:「孝起は前に吾に為すに正方には腹中に鱗甲が有る,郷党は以って為すに近づく可からずと説いていた。吾は以って鱗甲を為すというのは<者>但だたんに不当犯之耳,図らずも蘇、張之事が不意に於いて出てくること復有った,孝起に之を知ら使可きだ。」孝起というのは<者>,衛尉であった南陽出身の陳震のことである也。

冬,十月,呉主は中郎将の孫布を使って詐降させた,以って揚州刺史の王凌を誘おうとしたのである,呉主は阜陵に於いて伏兵すると以って之を俟した

  孫布は人を遣わして王凌に告げて云うことに:「道が遠く自ら致すこと能わざるに,兵が迎えに見えんことを乞う。」王凌は布書を騰げると,兵馬を請い之を迎えようとした。征東将軍の満寵は以為<おもえらく>必ずや詐<いつわ>ならんとして,兵を与えず,而して王凌に書を作報して為すと曰く:「(孫布が)邪と正を識っていることを(わたしは)知った,禍ちを避けて順うに就かんと欲し,暴を去って道に帰さんとするは,甚だ相嘉し尚ものである。今遣兵して相迎えんと欲するが,然るに兵を計って少なければ則ち相衛るに不足し,多ければ則ち事は必ずや遠きに聞こえん。且つ先ず計を密かにして以って本よりの志を成すこととし,時節に臨んで其の宜しき度<はか>らん。」満寵は書を被って入朝するに会ったため,留府長史に敕すと,「若し王凌が往って迎えようと欲しても,兵を与えること勿れ也。」王凌は後に於いて兵を索すれ得られなかったため,乃ち単<ひとり>一督将歩騎七百人のみを遣わして往って之を迎えたところ,孫布は夜に掩襲してきて,督将は迸走し,死傷すること半ばを過ぎた。王凌は,王允之兄の子である也。是より先に王凌満寵年が過ぎて酒に耽っているから,方任に居らせる可きではないと上表していた。帝が将に満寵を召そうとしたとき,給事中の郭謀が曰く:「満寵は汝南太守、豫州刺史と為って二十余年,方岳に勳を有しております;淮南を鎮めるに及んで,呉人は之を憚っております。若し表された所の如からざれ,将に(敵が此方を)窺う所と為るでしょう,朝に還るよう令し,以って東方の事を問うて以って之を察す可きです。」帝は之に従った。既に至って,体気は康強であったため,帝は労を慰めて遣わし還させた。

  十一月,戊戌晦,日食が有った。

  十二月,戊午,博平敬侯の華歆が卒した

  丁卯,呉が大赦し,明くる年の元曰を改めて嘉禾とした。

 

 

烈祖明皇帝中之上太和六年(壬子,西暦二三二年)

  春,正月,呉主の少子で建昌侯の孫慮が卒した。太子である孫登は武昌から<自>呉主のところに入省すると,因って久しく省を離れ定まって,子としての道に闕が有ると自ら陳べ;又た陸遜は忠勤であるから,顧みて憂うこと無いようにと陳べた。乃ち建業に留まった。

  二月,詔あって諸侯王を改封すると,皆郡を以って國と為した。

  帝が愛していた女<むすめ>淑が卒して,帝は之を痛むこと甚だしく,追謚して平原懿公主とすると,廟を洛陽に立て,南陵に於いて葬った。甄の後である従孫の黄を取って之と合葬し,黄を追封して列侯と為し,之を為して後を置くと,襲爵させた。帝は自ら送葬に臨もうと欲し,又た許に御幸しようと欲した。司空の陳群が諫めて曰く:「八歳より下は殤でありまして,禮では備えない所です,況んや未だ月を期せず(して卒したのです),而して以って成人の禮で之を送ろうとされ,加えて制服を為して,朝を挙げて素衣とし,朝夕に哭臨される,これは古より<自>以来,未だ此に比べられたことは有りません。而るに乃ち復自ら往って陵を視ようとされ,親しく祖載に臨まれようとは!願わくば陛下には無益有損之事を抑割されんことを,此は万國之至望であります也。又聞きますには車駕が許昌に御幸されることを欲されておりますが,二宮上下,皆悉くが倶に東して,朝の大小を挙げるなど,驚き怪しまないものは莫いことでしょう。或るひとが言うには以って衰えを避けんことを欲しているとし,或るひとが言うには以って便ずるに殿を移して捨てんと欲しているとし,或るひとは何故か知らないというさまです。臣以為<おもえらく>吉凶には命が有り,禍福は人に由<よ>ものです,移し走って安き求めようとしても,則ち亦益の無いことです。若し必ず当に移し避けんとするべく,金墉城の西宮及び孟津の別宮を繕治することになりますが,皆可権時分止,何宮を挙げて野次に暴露することを為そうというのです!公私ともに費を煩わせ,計量できないほどです<不可>。且つ吉士や賢人というのは,猶も其家を徙すを妄りにせず,以って郷邑を寧んじ,恐懼之心を無から使むるものです,況んや乃ち帝王にして万國之主においてや,行うにしろ止めるにしろ動くにしろ靜まるにしろ(どのような挙動でも),豈に軽脱す可ことでしょうか哉!」少府の楊阜が曰く:「文皇帝、武宣皇后が崩じられたおり,陛下は皆葬を送りませんでした,社稷を重んじられ,不虞に備えられた所以でございます也;何でまた赤子を之に孩抱されて而して葬を送ろうとするに至ろうというのですか也哉!」帝は皆聴きいれなかった。

三月,癸酉,行は東に巡った。

  呉主は将軍の周賀、校尉の裴潛を遣わして之を遼東へむけ海を乗りこえさせ,公孫淵から<従>馬を求めさせた。初め,虞翻は性が疏直であったため,何度も酒での失態が有り,又人に抵忤することを好んで,謗毀に見えること多かった。呉主が嘗て張昭と論じて神仙に及んだおり,虞翻は張昭を指さして曰く:「彼は皆死人であるのに而して神仙を語ろうなど,世に豈に仙人など有るものか也!」呉主が怒りを積みあげること一つに非,遂に虞翻を交州に徙した。周賀等が遼東に及ぶや,虞翻は之を聞き,以為<おもえらく>は五溪こそ宜しく討つべき,遼東は絶遠なのだから,聴使来属,尚も取るに足りない,今人財を去らせて以って馬を求めさせたところで,既にして國の利に非,又恐らくは獲ること無からん。とすると諫めようと欲したが敢えてせず,表を作って以って呂岱に示したが,呂岱は報じなかった。愛憎が建白する所に為されたため,復たも蒼梧(郡)の猛陵に徙された

  夏,四月,壬寅,帝は許昌に如くこととなった。

  五月,皇子殷が卒した

  秋,七月,衛尉の董昭を以って司徒と為した。

  九月,帝は摩陂に<如>行くと,許昌宮を治め,景福、承光殿を起てた。

  公孫淵は陰ながら貳心を懐き,何度も呉と通じあった。帝は汝南太守の田豫に青州諸軍を督させ使むると海道より<自>,幽州刺史の王雄には陸道より<自>之を討たせた。散騎常侍の蔣済が諫めて曰く:「凡そ相呑之國に非,不侵叛之臣,軽々しく伐するは宜しからず。之を伐して而も制すること能わず,是こそ驅使させ賊と為させてしまいましょう也。故に曰く:『虎狼が路に当たっていれば,狐狸を治めず。』先ずは大害を除けば,小害は自ずと己みましょう。今海表之地は,累世にわたり質を委ね,歳ごとに計、孝(計吏、孝廉)を選んできております,職貢が乏しからざるのですから,議すこと<者>が之に先となりましょう。正使一挙便克(正に一挙に克つを便じさせ使まんとも),其の民を得ても國を益すに足りず,其の財を得ても富を為すに足りません;倘すこと意の如からざれ,是怨み結び信失うこと為してしまいましょう也。」帝は聴きいれず。田豫等が往いたが,皆功が無かったため,軍を罷めるよう詔令した。田豫は以って呉の使いの周賀等が垂還しようとしているが,歳晩(歳の暮れには)風が急なため,必ずや漂浪を畏れようが,東の道には岸が無いのだから,当に成山に赴くべしとした,成山には無藏船之処(船を之に蔵している処が無かったため),遂に輒ち兵を以って成山に屯拠させた。周賀等は還ろうとして成山に至ったところで,風に遇った,田豫は兵を勒して周賀等を撃つと,之を斬った。呉主は之を聞いて,虞翻之言を始めに思うと,乃ち虞翻を交州から<於>召そうとした。虞翻が已に卒しているに会ったため,其の喪を以って還らせた。

  十一月,庚寅,陳思王の曹植が卒した

  十二月,帝は許昌宮に還った。

  侍中の劉曄は帝が親重とする所と為っていた。帝は将に蜀を伐さんとしたところ,朝臣の内外は皆曰く不可とした。劉曄は入って帝と議したところ,則ち曰く伐すとした;出て朝臣と言いあうと,則ち曰く不可とした。劉曄は膽智を有したため,之を言うに皆形有るものであった(このことを言うのにどちらにも説得力が有った)。中領軍の楊,帝之親臣であり,又た劉曄を重んじていたため,不可伐之議を執って最も堅いとし,内より<従>出る毎に,輒ち劉曄に(のところで)過ごすと,劉曄は不可之意を講じた。後に楊と帝が伐蜀の事を論じたおり,楊が切諫するために,帝曰く:「卿は書生ではないか,焉<なん>兵事を知ろうぞ!」楊謝して曰く:「臣の言は誠に采るに足りません,しかし侍中の劉曄は,先帝の謀臣でありまして,常に曰く蜀は伐す可からずとしています。」帝曰く:「劉曄は吾に言うに蜀は伐すとしているぞ。」楊曰く:「劉曄を召して質す可きです也。」詔あって召され劉曄が至ると,帝は劉曄に問うたところ,終に言わなかった。後に独り見えると,劉曄は帝を責めて曰く:「伐國とは,大謀でありますぞ也,臣は大謀を聞くことに与る得たときには,常に夢のなか漏洩し以って臣の罪を益しはしないかと恐れますのに,焉ぞ敢えて人に向って之を言ってしまうのですか!夫兵とは詭道なり也,軍事が未だ発しないうちは,其の密なることを厭わないものです。陛下が顯然として之を露わにされましたからには,臣は敵國が已に之を聞いてしまったのではないかと恐れています矣。」是に於いて帝は之を謝った。劉曄は出るに見えると,楊を責めて曰く:「夫釣る者が大魚に中れば,則ち縱にして而して之に隨う,須く制す可して而る後に牽けば,則ち得ないことは無いものだ也。人主之威は,豈に大魚の徒というだけにとどまろうか<而已>!子は誠に直臣だが,然るに計は采るに足らないのだから,思うのを精(練)しない可きではないぞ也。」楊た之を謝った。或るひとが帝に謂いて曰く:「劉曄は忠を尽くしていません,上意を善く伺うからこそ趨けば而して之に合う所となっているのです。陛下は試みに劉曄と言いあうのに,皆意に反して而して之を問われよ,若し皆与すのが問う所に反すというなら<者>,是ぞ劉曄が常に聖意と合っていることになりましょう也。問う毎に皆同じであるなら<者>,劉曄之情は必ずや復逃れる所(言い逃れる所)とて無くなりましょう矣。」帝は言を如くとすると以って之を験<あらた>めたところ,果たして其の情を得た,此によって<従>焉<これ>を疎そかにされることになったのである。劉曄は遂に発狂すると,出て大鴻臚と為り,以って憂死した。

  《傅子》曰く:巧詐は拙誠に如かずとは,信<まこと>であろう矣!劉曄之明智権計を以ってして,若し之に居るに徳義を以ってし,之を行うに忠信を以ってしたならば,古之上賢といえど,何以って諸を加えられるべきであったろうか!独り才智に任せて,誠愨を敦くしなかったからには,内では君心を失い,外では俗に<於>困じることになり,以って自らを危うくし卒してしまったのである,豈に惜しずにいられようか哉!

  劉曄は嘗て尚書令の陳矯が権を専らにしていると譖じたことがあった,陳矯は懼れ,以って其の子の陳騫に告げた。陳騫曰く:「主上は明聖であられ,大人は大臣でしょう,今若し合わなかったとしても,公を作されないだけに過ぎません耳。」後に数日して,帝の意は果たして解けた。

  尚書郎で楽安出身の廉昭は才能を以って幸を得たため,廉昭は群臣の細かな過ちを抉り擿みあげ以って上に於いて媚を求めんとした。黄門侍郎の杜恕が上疏して曰く:「伏して見ますに廉昭奏左丞曹璠以罰当関不依詔,坐判問。又云うに:『諸々の当に坐すべき者は別奏いたす。』としているのに尚書令の陳矯は自ら奏して罰を辞すこと敢えてしないとし,亦理を陳べる敢えてしないとしていまして,志意は懇惻なものです。臣が竊いますに愍然として朝廷の為に之を惜しむものです!古之帝王が能く輔世し民を長じさせた所以というのは<者>,百姓之歓心を得るを遠ざけないこと莫く,群臣之智力を尽く近づけたということです。今陛下は万機を憂い労られ,或るいは燈火に親しまれておりますのに(燈火を要する夜にまで執務に励んでおられますのに),而して庶事は康んじず,刑禁は日ごとに弛んでおります。其れ原<もと>となっている所由<ゆえん>は,独り臣が忠を尽くさないのに非,亦主も能く使っていないからです也。百里奚は虞に於いて愚かで而して秦に於いて智となりました,豫讓は苟しくも中行(氏)を容れて而して智伯に節を著わしました,斯くは則ち古人之(行った)明らかな験<しるし>なのです矣。若し陛下は以為<おもえら>今世に良才無く,朝廷に賢佐が乏しいとされておりますが,豈に稷、契之遐蹤を追い望み,坐して来世之俊乂を待たんと可きでしょうか乎!今之所謂<いわゆる>賢者は,尽くが大官を有し而して厚い禄を享けております矣,然るに而して奉上之節(お上を奉じようとする節義)が未だ立たず,向公之心(公事へ向かおうとの心)が一つになっていないのは<者>,委任之責が専らでないため,而して俗の多くが忌諱する故なのです也。臣が以為<おもえら>くは忠臣は必ずしも親ならず,親臣は必ずしも忠ならず。今疏んじられること有る者が人を毀せば而して陛下は其が私ごとで憎んでいる所に報いんとしているのではないかと疑い,人を誉めれば而して陛下は其が親しむ所を私ごとで愛でているのではないかと疑われる,左右は或るいは之に因って以って憎愛之説を進め,遂に疏んじられている者を使て毀誉を敢えてさせないこととなりましょう,そうなれば以って政事が損益するに至らされますから,亦皆が嫌うところ有ることでしょう。陛下には当に朝臣之心を闡広する所以を思しめされるべきです,それは有道之節を篤く獅ワし,之を使わすに自ずと古人と同じくし,竹帛に名を垂れられることなのですが,反って廉昭なる者の如きを使わし其の間を擾乱させておられます,臣が懼れますのは大臣が将に遂には身を容れて位を保とうとするあまり,坐して得失を観るばかりとなり,(その結果王朝が滅んでしまい)来世への戒めと為るのではないかということです也。昔周公は魯侯を戒めて曰く:『無使大臣怨乎不以。』としたのは賢ならざれ則ち大臣と為す可きでなく,大臣と為すなら則ち用いない可きではないと言っているのです也。《書》は舜之功を数えあげるに,四凶を去らせたことを称えました,罪が有っても言わず(,)大小を問うこと無かったため則ち去ったのです也。今者朝臣不自以為不能,以陛下為不任也(今や朝臣が自ら以為<おもえら>能わずとしないのは,以って陛下が任せないからです);自ら以為<おもえら>知らずとしないのは,以って陛下が問わないからです也。陛下は何周公が用いられた所以,大いなる舜が去らせた所以を遵ぼうとされないのですか,侍中、尚書を使して坐して則ち帷幄に侍らしめ,行じては則ち華輦に従わせ,親しく詔問を対して,各々に有す所を陳べさせれば,則ち群臣之行いは皆得て而して知る可ものとなりましょうから,患い能くする者は進み(昇進し),闇劣なる者は退くこととなりましょう,誰が敢えて違に依って而して自ら尽くさないことになりましょうか。陛下之聖明を以ってして,群臣と政事を論議することに親しまれれば,群臣を使て人に自ら尽くさせることを得ましょうから,賢愚能否は,陛下の用いる所に在ることとなりましょう。此を以ってして事を治めるなら,何の事が辦じないというのでしょう;此を以ってして功を建てんとするなら,何の功が成らないというのでしょう!軍事が有る毎に,詔書に常に曰く:『誰が当に此を憂う者であるのか邪?吾が当に自ら憂うるのみ耳。』とおっしゃられ近くの詔に又曰く:『公憂い私忘れる者は必ずや然らず,但だ公を先に私を後にして即ち自ら辦ず也。』とおっしゃられておりますが伏して明詔を読みますに,乃ち知聖思究尽下情(聖朝の思しが下の情を究め尽くさんとされていることを知りました),然るに亦陛下が其本を治めずに而して其の末を憂いているのではと怪しむものです也。人之能否は,実に本性に有ます,臣と雖も亦以って為すに朝臣が職を称えるのを尽くしていないとするものです也。明主が人を用いるや也,能者を使て其の力を遺すこと能わず,而して不能者には其の任に非ざる処を得させないとか。其の人に非ざるを選び挙げるは,未だ必ずしも有罪と為っていません也;ですが朝を挙げて其の人に非ざるを共容すれば,乃ち怪しむ為すだけでしょう耳。陛下は其が力を尽くさないのを知るや也而して之を代えて其の職を憂えられ,其が不能であると知るや也而して之に教えて其の事を治められていますが,豈に徒に主が労して而して臣が逸している(楽をしている)のでしょうか哉,(そのようなことでは)聖賢が世に並ぶと雖も,終には此を以ってして治を為すこと能わないことでしょう也!陛下は又台閣の禁令が密かにならないこと,人事で属を請うことが絶えないことを患われ,迎客出入之制を作られましたが,惡吏を以ってして寺門を守らせております,斯くは実<まこと>に未だ為禁之本(何かを禁止しようとすることの根本)を得ないことです也。昔漢の安帝の時に,少府の竇嘉が廷尉であった郭躬無罪之兄子を辟招すると,猶も挙奏に見え,章劾すること紛紛としました;近くは司隸校尉の孔羨が大将軍狂悖之弟を辟招したおり,而して有司が嘿爾したため,風を望み指(引き抜きの指)を希って,属を受けるに於いて甚だしいものあり。選挙は実を以ってしないもの<者>であったのです也。親戚之寵が有るのを嘉するのは,躬が社稷重臣に非とも,猶も尚こと此の如きです;以今況古,陛下自不督必行之罰以絶阿党之原耳(陛下は以って阿党之原<もと/みなもと>を絶たんとするのに之に罰を必ず行うことについて自ら督していません)。出入之制について,惡吏に守門を与らせるのは,治世之具えに非ず也。臣之言を使て少しく察納を蒙らせられますなら,何ぞ奸が削滅しないのに於けるを患い,而して廉昭等の若きを養うものでしょうか乎!夫れ奸宄を糾擿するは,忠事であります也;然るに而して小人が之を行うのを世が憎むのは<者>,以って其が道理を顧みずに而して苟しくも容進を求めるものだからです也。若し陛下が其の終始を考えるを復せずん,眾に違え世に迕<さから>うを以ってして奉公を為させること必ずならん,(そうなってしまえば)密行白人為尽節(密告誹謗が為されて節(忠節、節義)を尽きさせましょう),焉有通人大才而更不能為此邪?誠に道理を顧みられ而して弗為(決して為さないようにするのみです)耳。天下を使て皆に道に背かせ而して利に趨かせてしまうのは,則ち人主の最も病む者とする所でしょう也,陛下には将に何で焉<これ>に楽しまれんとするのですか!」杜恕は,杜畿之子である也。

  帝は嘗て(倉)卒に尚書門に至ったことがあった,陳矯は跪いて帝に問うて曰く:「陛下は何を之に欲されるのですか?」帝曰く:「欲するのは文書を案行せんということだけだが耳。」陳矯曰く:「此は自臣の職分でして,陛下が宜しく臨むべき所に非ず也。若し臣が其の職を称しないというのなら,則ち請うて黜退に就かせてください,陛下は宜しく還られるべきです。」帝は慚じると,車を回して而して反った。帝は嘗て陳矯に問うたことがあった:「司馬公の忠貞は,社稷之臣と謂う可きだろうか乎?」陳矯曰く:「朝廷之望ではあります也,社稷については則ち未だ知りません也。」

  呉の陸遜が兵を引きつれて廬江に向かうと,論者は以って為すに宜しく速やかに之を救うべきとした。満寵曰く:「廬江は小と雖も,将は勁<つよ>兵は精(鋭)だ,守れば則ち経過するだろう。又,賊は船を捨てて二百里を来たりて,後尾が空絶せり,来たらざる尚も誘致せんことを欲す,今は宜しく其の遂進を聴きいれるべき。但だ恐らくは走ってしまい及ぶ可からざることになろう耳。」乃ち軍を整えて楊宜口に趨いた,呉人は之を聞くと,夜に遁れた。是時,呉人には歳ごとに来計が有った。満寵は上疏して曰く:「合肥城江湖に臨み,北は壽春より遠いため,賊が之を攻め囲み,水に拠って勢いを為すのを得ているのです;官兵が之を救けようとすれば,当に先に賊の大輩を破って,然る後に囲みが乃ち解くこと得られます。賊が往くは甚だ易く,而して(こちらの)兵が往いて之を救けんとするのは甚だ難しい,宜しく城内の兵を移すべきです,其れ西へ三十里とし,奇険が有れば依る可,更めて城を立てて以って固く守らせます,此が賊を平地に引きこんで而して其の帰路を掎すを為すというもの,計に於いて便を為すものです。」護軍将軍の蔣済は議して以って為すに:「既にして天下に以って弱いと示された,且つ賊の煙火を望んで而して城を壊すとは,此は未だ攻めずに而して自ら抜くことです;一此に於けるに至れば,劫略は限りが無くなり,必ずや淮北で守りを為すことととなりましょう。」としたため帝は未だ許さなかった。満寵は重ねて(上)表して曰く:「孫子は言っております:『兵とは<者>,詭道なり也,故に能なれ而して之を示すに不能とする,之に驕らせるに利を以ってし,之に示すに懾を以ってする,』とあるのは此為形実不必相応也。又曰く:『善く敵を動かす者は之を形<あらわ>す。』とあります 今賊が未だ至らざるに而して城を卻内に移すは,所謂<いわゆる>形<あらわ>して而して之を誘うというもの也。賊を引きつけて水から遠ざけ,利を擇んで而して動く,外に於いて挙が得られ,而して内に於いて福生じましょう矣!」尚書の趙咨が以って満寵の策は長と為るとしたため,詔が遂に報われ聴きいれられることとなった。

 

 

烈祖明皇帝中之上青龍元年(癸丑,西暦二三三年)

  春,正月,甲申,青龍が摩陂の井中に見えた,二月,帝が摩陂で龍を観たため<如>,改元した。
  公孫淵は校尉の宿舒、郎中令の孫綜を遣わして表を奉じて呉に於いての臣と称してきた;呉主は大いに悦ぶと,之が為に大赦した。三月,呉主は太常の張彌、執金吾の許晏、将軍の賀達に兵万人を将いらせて遣わすと,金寶珍貨,九錫備物が,海を乗りこえて公孫淵に授けられ,公孫淵を封じて燕王と為さんとした。そのため朝を挙げて大臣たちが顧雍以下より<自>皆諫め,以って為すに:「公孫淵は未だ信じて而して寵待すること太厚と可きではありません,但だ吏兵を遣わし宿舒、孫綜を護送させる而已<のみ>と可きです。」としたが呉主は聴きいれなかった。張昭曰く:「公孫淵は魏に背いたからには討たれんことを懼れていましょうが,遠来へ求援するのは,本志に非ざるものとみました也。若し公孫淵が図りごとを改めて,魏に於いて自らを(弁)明しようと欲すれば,両使は反らないことでしょう,亦天下に於いて笑いを取らざるや乎!」呉主は張昭を反覆し難かったが,張昭の意は彌切であった。呉主は堪えること能わず,刀を案じて而して怒って曰く:「呉國の士人は宮に入っては則ち孤を拝するが,宮を出れば則ち君を拝す,孤が君を敬うのも亦至を為さんか矣,而るに何度も眾中に於いて孤を折る,孤は常に失計を恐れているのだ!」張昭は呉主を熟視して曰く:「臣は言が用いられないことを知っていると雖も,毎竭愚忠者(ことごとに愚かしいまで忠を竭すのは<者>),誠に以って太后が臨崩されたおり,老臣を床下に於いてお呼びになりました,そのときの遺詔顧命之言が故在するのみ耳(まだこの耳に残っているが故になのです)。」因って涕泣するとに流れた。呉主は刀を地に<於>擲つと,之と対して泣いた。然るに(倉)卒に張彌、許晏を遣わし往かせた。張昭は言の用いられざるに忿ると,疾と称して朝さなくなった(朝廷に出仕してこなくなった)。呉主は之を恨むと,其の門を土で塞ぎ,張昭も又内に於いて土を以って之を封じた。

  夏,五月,戊寅,北海王蕤が卒した

  閏月,庚寅朔,日有食之。

  六月,洛陽宮の鞠室に災あった。

  鮮卑の軻比能が塞を保っていた鮮卑の歩度根を誘うとこれと深く結んで和親し,自ら万騎を勒して陘北に於いて其の累重を迎えた。并州刺史の畢軌が輒ち出軍せんことを上表し,以って外は比能を威<おど>し,内は歩度根を鎮めようとした。帝は表を省みて曰く:「歩度根は已に比能が誘う所と為り,自ずと疑心を有していよう。今畢軌は軍を出そうとしているが,慎んで塞を越えても句注を過ぎること勿れ也。」詔書が到るに比し,畢軌は已に軍を進めて陰館に駐屯し,将軍の蘇尚、董弼を遣わして鮮卑を追わせた。軻比能は子を遣わして千余騎を将いて歩度根を部落に迎えさせると,蘇尚、董弼と相遇って,樓煩に於いて戦いとなった,二将は沒し,歩度根は洩帰泥の部落に与して皆叛いて塞を出ると,軻比能に与して合わさり辺を寇した。帝は驍騎将軍の秦朗を遣わして中軍を将いさせて之を討たせたところ,軻比能は乃ち幕北に走り,洩帰泥は其の部眾を将いて来降した。歩度根は尋しく軻比能に殺される所と為った。

  公孫淵は呉が遠いために恃むに難いことを知っていたため,乃ち張彌、許晏等の首を斬ると,京師に伝送し,其の兵資珍寶を悉く没(収)した。冬,十二月,詔あって公孫淵を拝して大司馬とし,楽浪公に封じた。呉主は之を聞くと,大いに怒って曰く:「朕は年六十,世事難易あれ靡すのは嘗てせぬ所である。近くは鼠子が為に前に卻す所となり,人に令す気が踴ること山の如くであった。鼠子の頭を自ら截って以って海に於いて擲つことしないうちは,顔が復た万國に臨むこととて無からん。就令顛沛,不以為恨!」

  陸遜は上疏して曰く:「陛下は神武之姿を以ってして,期運を誕膺され,曹操を烏林で破り,劉備を西陵で敗れさせ,関羽を荊州で禽えました。斯く三虜となった者は,当世の雄傑でありましたが,皆其の鋒を摧<くじ>かれたのです。聖化の綏する所,万里にわたり草偃とし,方ますに華夏を蕩平して,大いに猷して總一しようとされております。今小忿を忍ばずに而して雷霆之怒りを発され,垂堂之戒めを違えて,万乗之重きを軽んじられようとは,此は臣之惑う所です也。臣が之を聞きますに,万里を行く者は中道ならずして而して足を輟り,四海を図る者は不懷細以害大。強寇が境に在りますのに,荒服未庭,陛下が桴に乗って遠征なさるなら,必ずや闚□を致しましょう,戚至而憂,之を悔いても及ぶこと無からん。若し大事を使て時に捷たせしむなら,則ち公孫淵は討たずとも自ら服してきましょう。今乃ち遠く遼東の眾が与えし馬を惜しんで,奈何独り江東にある万安之本業を捐<す>てて而して惜しまないなどと欲されるのですか乎!」尚書僕射の薛綜が上疏して曰く:「昔漢の元帝は樓船を御さんことを欲すると,薛広徳は頸を刎ねて血を以って車を染めんことを請いました。何則?水火之険が危うき至るのは,帝王が宜しく渉るべき所に非ず也。今遼東は戎貊の小國でありまして,城隍之固めや,備御之術など無く,器械は銖鈍で,犬羊にも政が無いため,往けば必ずや禽え克ちますこと,誠に明詔の如きでしょう。然るに其の方土は寒埆でして,谷<穀>稼は殖<ふ>えず,民は鞍馬を習い,転徙すること常無くして,卒は大軍之至る聞くと,自ら度<はか>って敵せず,鳥は獣が駭するに驚けば,長驅して奔竄するもの,一人が馬を匹せんとすれ,見えること得られず<不可>,空しき地を獲ると雖も,之を守るに益など無いのですから,此は一つに可きではないでしょう也。加えて又た洪流混滉漾,成山之難が有り,海行くにも常なることなど無く,風波は免れ難いものです,倏忽之間にあって,人船勢いを異なれば,堯、舜之徳を有す雖も,智は施す所とて無く,孟賁、夏育之勇力とて,設けること得られません,此は不可とする二つめのことです也。加えますに以って郁霧が其の上を冥まし,鹼水が其の下を蒸し,善く流腫を生じさせ,転じて相洿染します,凡そ海を行くということ<者>は,斯のような患いが無いのが稀であるのです,此が不可とする三つめです也。天が神聖を生ぜしは,当に時に乗じて乱を平,此の民物を康んぜんとすべきだからです。今逆虜が将に滅びんとし,海内が垂定されんとするのに,乃ち必然之図に違えて,至危之阻を尋ねんとされる,九州之固めを忽<ゆるがせ>にして,一朝之忿りを肆されるのは,既にして社稷之重計に非して,又開闢以来未だ嘗て有らない所です,斯くは誠に群僚が身を傾けて側息する所以でして,食不甘味(食べても味がせず),寝ても席に安んじないもの<者>です也。」選曹尚書の陸瑁も上疏して曰く:「北寇与國,壤地連接,苟有間隙,応機而至。夫海を越えて馬を求めるのを為し,公孫淵に於いて意を曲げる所以というのは<者>,目前之急に赴くを為し,腹心之疾を除くにあるのです也。而るに更めて本を棄てて末を追わんとし,近きを捐てて遠き治めんと忿るに以って規を改められ,激するに以って眾を動かさんと,斯くは乃ち猾虜が聞くを(そうなるのを)願う所でありまして,大呉之至計に非ざるものです也。又兵家之術では,以って功と役が相疲れ,労と逸が相待するのは,得失之間にあるもので,覚る所は輒ち多いものです。且つ渚を沓みこえて公孫淵を(取り)去ろうとすれば,道裡は尚も遠く,今其の岸に到らんとするに,兵の勢いは三分されましょう,強者を使わし進んでは取らんとし,次いでは当に船を守らんとし,又次ぐは糧を運ばんとするに,行人は多いと雖も,悉く用を得ること難しいでしょう。加えまして単歩(乏しい歩兵/整った輜重によらずに人力のみ)を以ってして糧を負わせ,遠き経て深く入りこもうとされています,賊の地には馬が多いとはいえ,それを邀<むか>えて截せんとしても常など無いのです(いつも同じようにうまくいくものではありません)。若し公孫淵の狙いが詐にあって,北と未だ(交わり)を絶っていなければ,之に眾を動かした日には,脣歯となって相済するでしょう;実<まこと>に孑然として(その地で我らは孤然となり)憑きョりとする所とて無きが若きなれば,其れ畏怖は遠く迸ることでしょう,或いは(倉)卒に滅ぼすことも難く天誅(即ち呉による遼東討伐軍のこと)を使て朔野(北朔の大地)に於いて稽らせんとしても,山虜が間を承って而して起たんとするでしょうから(※遼東へ出兵したその間隙を計って山越が我らの領地内で蜂起するでしょうから)恐らくは万安之長慮に非ざるかと也!」呉主は未だ許さなかった。陸瑁は重ねて上疏して曰く:「夫兵革めるとは<者>,固より前代が暴乱を誅し、四夷を威<おど>した所以です也。然るに其の役は皆奸雄が已に除かれるの在ったのですが,天下が無事であるため,廟堂之上に従容として,余議を以ってして之を議しただけなのです耳。中夏に於いて鼎が沸きたつに至り,九域で互いが盤(居)する時,率いんとするなら須く根を深くして本を固め,費を惜しむことに愛で力<つと>めるべきです,未だ此のような時に於いて近き捨てて遠き治めんとし,疲れた軍を以ってして旅する者は有らざりき也。昔尉佗が叛逆して,僭号して帝を称するも,時に於いて天下は乂安とし(治まり安らいでおり),百姓は康阜していました,然るに漢文(漢の文帝)は猶も遠征を以ってして易きとせず,告喩した而已<のみ>でした。今凶桀が未だ殄じず,疆場は猶も警(戒)するごとくですからには,未だ公孫淵を以ってして先に為すは宜しからず。願わくば陛下には威を抑えられ計を任され,六師を暫く寧んじられて,潛神嘿規され,以って後図を為されますよう,そうされますなら天下は幸甚でございます!」呉主は乃ち止めた。

  呉主は何度も人を遣わし張昭を慰謝したが,張昭は因って起つことなかった。呉主は因って出て,其の門を過ぎて張昭を呼んだが,張昭は疾が篤いとして辞した。呉主は其の門を焼き,以って之を恐れさせようと欲したが,張昭も亦出てこなかった。呉主は人を使て火を滅ぼさせると,門に住むこと良く久しかった。そのため張昭の諸子が共に扶けて張昭を起たせ,呉主は載いて以って宮に還ると,深く自ら克責した。張昭は已むを得ず,然る後に朝会(にでた)。

  初め,張彌、許晏等が襄平に至ると,公孫淵は之を図らんと欲し,乃ち先に其の吏兵を分散させると,中使の秦旦、張群、杜徳、黄強等及び吏兵六十人を玄菟に置いた。玄菟は遼東の北二百里に在る,太守の王贊は,戸二百を領し,秦旦等は皆民家を<於>捨てると,其の飲食を仰ぎ,積むこと四十許日となった。秦旦は張群等と議して曰く:「吾人は遠くへきて國命を辱められ,此に於いて棄てられて自,死となんら異なるところが無い。今此の郡を観るに,形勢は甚だ弱い,若しこの一秦旦に心を同じくして,城郭を焚燒し,其の長吏を殺して,國の為に恥に報じ,然る後に死に伏せば,以って恨むこと無いことに足る。生を偸<ぬす>んで苟しくも活き,長らく囚虜と為るのと孰くであるか乎!」張群等は之を然りとした。是に於いて陰ながら相約を結び,当に用いるべく八月十九日夜に発した。其日中時,郡中の張松が告げる所と為り,贊便会士眾(便じて士眾を会すと),城門を閉じたため,秦旦、張群、杜徳、黄強は皆城を逾<こ>えて走る得た。時に張群は疽創を病んで膝を著わし,旅を輩にすること及ばず,張徳が常に扶け接してこれと倶にし,山谷を崎嶇して,行くこと六七百里となった,創は益すます困じ,復前にすすむこと能わなくなり,草中に臥せると,相守って悲しみ泣きあった。張群曰く:「吾は不幸にして創しく,死亡するのも日が無い(時間の無いことだろう),卿ら諸人は宜しく速やかに道を進むべきだ,達する所有らんことを冀う,空しく相守って窮谷之中に於いて倶に死すなど,何益さんか也!」杜徳曰く:「万里に流離して,死生は之を共にする,相委ねて忍ばず。」是に於いて秦旦、黄強を推して前にすすませ使,杜徳は独り留まって張群を守ると,菜果采って之食した。秦旦、黄強は別れて数日し,句麗に達するを得たため,因って呉主の詔を句麗王の位宮及び其の主簿に於いて,言を給わり賜りものが有ったが,遼東に劫奪される所と為ったと宣べた。位宮等は大いに喜ぶと,即ち詔を受け,人を使わして秦旦に随い還って張群、黄徳を迎えるよう命じ,皁衣二十五人を遣わし,秦旦等を送って呉に還らせると,表を奉じて臣と称し,貂皮千枚,鶡雞皮十具を貢いだ。秦旦等は呉主に見えると,悲喜こもごもとなって自ずと勝ること能わなかった。呉主は之を壮とすると,皆拜して校尉とした。

  是歳,呉主は出兵して(合肥)新城を囲まんと欲したが,以って其が水から遠かったため,(日を)積むこと二十余日となったが,敢えて下船しなかった。満寵は諸将に謂いて曰く:「孫権は吾らに城を移させることを得たから,必於其眾中有自大之言。今大挙来,欲要一切之功,敢えて至らずと雖も,必ずや当に岸に上がって兵を耀して以って有余(猶予/余裕の有ること)を示すだろう。」乃ち潛めて歩騎六千を遣わすと,肥水に伏せて隠処して(隠れて滞在し)以って之を待った。呉主は果たして岸に上がって兵を耀してきたが,満寵の伏せていた軍卒が起って之を撃ち,斬首すること数百となった,或いは水に赴いて死ぬ者も有った。呉主も又た全綜を使わして六安を攻めさせたが,亦克たなかった。蜀の降都督である張翼は,法を用いること厳峻(峻厳)であったため,南夷の豪帥である劉冑が叛いた。丞相の諸葛亮は参軍で巴西出身の馬忠を以って張翼に代えさせると,張翼を召して還ってくるよう令した。其人が謂うことに張翼は宜しく速やかに帰って即ち罪にふせるべきだとした。張翼は曰く:「然らず,吾は以って蛮夷が蠢動したために,職を称せず,故に還るだけ耳。然るに代わりの人は未だ至らずして,吾が方は戦場に臨んでいる,当に糧運び穀積んでおき,滅賊之資(賊を滅ぼすための資)と為すべきであろう,豈に黜退之故を以って而して公家之務めを廃す可ものだろうか乎!」是に於いて統攝不懈,代わりが到ってから乃ち発した。馬忠は其の成された基に因って,劉冑を破ると,之を斬ったのである。

  諸葛亮は農を勧めて武を講じると,木牛、流馬を作り,米を運び斜谷口に集め,斜谷に邸閣を治めた;民を息つかせ士を休ませると,三年して而る後に之を用いることにした。

 

 

烈祖明皇帝中之上青龍二年(甲寅,西暦二三四年)

 

  春,二月,諸葛亮は悉く十万を大眾すると斜谷から<由>入寇し,使いを遣わして呉と時を同じくして大挙することを約した。

  三月,庚寅,山陽公が卒された,帝は素服で喪を発した。

  己酉,大赦した。

  夏,四月,大疫があった。

  崇華殿に災あった。

  諸葛亮は郿に至ると,渭水之南に於いて軍した。司馬懿は軍を引きつれて渭(水)を渡ると,水を背にして壘を為して之を拒み,諸将に謂いて曰く:「亮が若し武功を出て,山に依って而して東したなら,誠に憂うきを為さん;若し西して五丈原に上ら,諸将は無事であろう矣。」諸葛亮は果たして五丈原に駐屯した。雍州刺史の郭淮が司馬懿に<於>言って曰く:「諸葛亮は必ずや北原を争わん,宜しく先んじて之に拠るべきです。」議者の多くは然らずと謂ったが,郭淮は曰く:「若し諸葛亮が渭(水)を跨いで(北)原に登り,兵を北山に連ね,隴道を隔て絶てば,民も夷も搖蕩することになります,此は國之利には非ざることです也。」司馬懿は乃ち郭淮を使わして北原に駐屯させた。塹壘が未だ成らずして,漢兵が大いに至ったため,郭淮は逆撃して之を卻した。諸葛亮は以前には<者>何度も出たが,皆運糧が継がなかったことを以って,己志を使ばさしめなかったため,乃ち兵を分けて屯田させ久駐之基と為そうとした,耕者は渭濱に居る民之間に於いて雑(居)したが,而して百姓は安堵し,軍にも焉を私にすることが無かった。

  五月,呉主は居巣湖口に入ると,合肥新城に向かい,眾は十万を号した;又た陸遜、諸葛瑾を遣わして万余人を将いらせて江夏、沔口に入らせ,襄陽に向かわせた;将軍の孫韶、張承には淮(水)に入らせ,広陵、淮陰に向かわせた。六月,満寵は諸軍を率いて新城を救おうと欲したところ,殄夷将軍の田豫が曰く:「賊が眾を悉くして大挙してきたのは,小利を図るに非,欲しますは新城を質として以って大軍を致さんとするのみ耳。宜しく城を攻めさせ使むを聴きいれ,其の鋭気を挫き,これと鋒を争うに当たらせないようにすべきです也。城は抜く可くもなく,眾は必ずや罷怠いたしましょう;罷怠してから然る後に之を撃たば,大いに克つ可ことでしょう也。若し賊が計を見やぶれば,必ずや城を攻めず,勢いからして将に自ら走ることでしょう。兵を進める便ず若きなれば,其の計に入るに適ったもの矣。」

  時に東方の吏士は皆が分かたって休んでいたため,満寵は(上)表して中軍の兵を召すとともに,並んで休んでいる所の将士を召し,須く集まって之を撃たんことを請うてきた。散騎常侍で広平出身の劉邵が議して以って為すに:「賊眾が新たに至り,心は気鋭を専らにしている,満寵は少ない人を以ってして自ら其の地に戦っている,若し便じて進撃すれば,必ずや制すこと能わず。満寵が兵を待たせるよう請うたのは,未だ失う所を有していないからでしょう也,以って為すに先に歩兵五千,精騎三千を遣わす可きです,軍に先んじて前発し,声を揚げて道を進めば,形勢を震曜とさせましょう。騎が合肥に到ったなら,其の行隊を疎にして,其の旌鼓を多くし,兵を城下に曜して,引きつれて賊の後ろに出ます,其の帰路を擬し,其の糧道を要することにします。賊は大軍が来たと聞き,騎が其の後ろを断ったと聞けば,必ずや震え怖れて遁走いたしましょう,戦わずして自ら破れることになります矣。」帝は之に従った。満寵は新城の守りを抜いて,賊を壽春に致させようと欲したが,帝は聴きいれず,曰く:「昔漢の光武は兵を遣わして略陽に拠って,終に以って隗囂を破った,先帝が東は合肥を置き,南は襄陽を守り,西は祁山を固め,賊が来たれば輒ち三城之下に於いて破ることとしたのは<者>,地には必ず争うべき所が有るためだ也。孫権に新城を攻めるのを縦とさせても,必ずや抜くこと能わないだろう。諸将に堅く守るよう勅令する,吾は将に自ら往きて之を征さん,比至(まさに至ろうとして/ことが成ろうとして),恐れるのは孫権が走る(逃走する)ことだ也。」乃ち征蜀護軍の秦朗を使って歩騎二万を督させ司馬懿が諸葛亮を御すのを助けさせ,司馬懿に勅令するに:「但だ堅壁拒守して以って其の鋒を挫くこととせよ,彼が進んでも志を得られず,退いてもこれと戦うこと無いようにせよ,久しく停まれば則ち糧は尽きようし,虜略せんとして獲る所無ければ,則ち必ずや走ろう;走ったなら而して之を追う,それが勝ちを全うする道である也。」秋,七月壬寅,帝は龍舟を御して東征した。満寵は壮士を募って呉の攻具を焚かせると,呉主之弟の子である孫泰を射殺した;又呉の吏士は多くが疾病にかかった。帝が未だ数百里に至らなかったが,疑兵が先ず至った。呉主始め帝出ること能わないと謂っていたのだが,大軍が至ったと聞いて,遂に遁れていった,孫韶も亦退いた。

  陸遜が親人の韓扁を遣わして表を奉り呉主に詣でさせたところ,邏者が之を得た。諸葛瑾が之を聞いて甚だ懼れ,陸遜に書して与えて云うことに:「大駕が已に還ったという,賊は韓扁を得て,具さに吾らの闊狹を知ることになった,且つ水が干あがったのだから,宜しく当に急いで去るべきだ。」陸遜は未だ答えず,方じて催人に葑、豆を種まかせ,諸将と弈棋、射戲をすること常の如きであった。諸葛瑾は曰く:「伯言には智略が多い,其れ必ずや当に以ってすること有るのだろう。」乃ち自ら来たりて陸遜に見えた。陸遜曰く:「賊は大駕が已に還ったと知り,復た憂うる所が無くなったため,吾らに於いて力を専らにするを得た。又已に要害之処を守って,兵は将に意動こうとしており,且つ当に自ずと以って之を安んじ定めようとしている,変術を施し設けて,然る後に出るだけ耳。今便じて退かんことを示せば,賊は当に吾らが怖れていると謂い,仍ち来りて相蹙しよう,それでは必敗之勢いということになる也。」乃ち密かに諸葛瑾と計を立てると,諸葛瑾に舟船を督するよう令し,陸遜のほうは悉く兵馬を上げて以って襄陽城に向かった。魏人は素より陸遜の名を憚っていたため,遽って還ると城に赴いた。諸葛瑾は便じて船を引きつれて出て,陸遜は徐ろに部伍を整えると,張拓声勢,歩(兵)が船に趣いたが,魏人は敢えて逼らなかった。行って白囲に到ると,言を託して往獵しているとしながら,潛かに将軍の周峻、張梁等を遣わして江夏、新市、安陸、石陽を撃たせ,斬獲すること千余人として而して還った。群臣は以って為すに司馬懿の方が諸葛亮と相守っていて未だ解けないでいるのだから,車駕は長安に西幸す可きとした。帝曰:「孫権が走ったため,諸葛亮の膽<胆>も破れたことだろう,(司馬懿の方は)大軍であって以って之を制すに足るのだから,吾には憂うもの無い矣。」遂に進軍して壽春に至ると,諸将の功を録し,封賞したが各々差が有った。

  八月,壬申,漢の孝獻皇帝を禪陵に於いて葬った。

  辛巳,帝は許昌に還った。

  司馬懿は諸葛亮と相守ること百余日,諸葛亮は何度も戦いを挑んできたが,司馬懿は出なかった。諸葛亮は乃ち司馬懿に巾幗婦人之服を贈った。司馬懿は怒ると,上表して戦を請うてきたため,帝は衛尉の辛毘使いとし節杖とさせて軍師と為させると以って之を制させた。護軍の姜維は諸葛亮に謂いて曰く:「辛佐治が節を杖にして而して到ったからには,賊は復出することないでしょう矣。」諸葛亮曰く:「彼は本より戦う情が無いのだ,固く戦を請う所以というのは<者>,以って其眾に於いて武を示さんがためだけ耳。将に軍に在っては,君命といえど受けざる所が有るもの,苟くも吾を制すること能うるなら,豈に千里して而して戦を請うものだろうか邪!」諸葛亮が使者を遣わして司馬懿の軍に至らせてきたため,司馬懿は其の寝食及び事之煩簡について問うたが,戎事については問わなかった。使者は(そのため口を滑らせ)対して曰く:「諸葛公は夙に興きて夜に寐し,罰二十已上は,皆焉<これ>を親覽します;啖食する所は数升に至りません。」司馬懿は人に告げてく曰:「諸葛孔明は食少なく事に煩っている,其れ能く久しからんか乎!」諸葛亮は病篤くなり,漢主が尚書僕射の李福を使わして省侍させると,因って以って國家の大計を諮らせた。李福が至って,諸葛亮と語って已むと,別去したが,数日して復還ってきた。諸葛亮曰く:「孤<わたし>は君が還ってきた意を知っている,近日に言語って彌日したと雖も,尽くさない所が有ったから,更めて来て亦決することになろうとおもったのだ耳。公が問う所については<者>,公琰が其れ宜しい也。」李福は謝すといった:「前には実に失して請を咨らなかったのです,如公百年後誰可任大事者,故に輒ち還ってきたのです耳。復た請を乞いますが蔣琬之後は,誰が任ず可者でしょうか?」亮曰:「文偉が以って之に継ぐ可きだろう。」又其次を問うたが,諸葛亮は答えなかった。

  是月,諸葛亮は軍中に於いて卒した。長史の楊儀が軍を整えて而して出ていった。百姓が奔ってきて司馬懿に告げたため,司馬懿は之を追った。姜維は楊儀に旗を反し鼓を鳴らすよう令し,将に司馬懿に向かってこようとする若き<者>であったため,司馬懿は軍を斂めて退くと,敢えて逼らなかった。是に於いて楊儀は陳を結んで而して去り,谷に入って然る後に喪を発した。百姓は之に諺を為して曰く:「死せる諸葛が生ける仲達を走らせた。」司馬懿は之を聞くと,笑って曰く:「吾は能く生を料るも,死を料ること能わざる故也。」司馬懿は諸葛亮之営壘が処した所に案行すると,歎じて曰く:「天下の奇才である也!」追って赤岸に至ったが,及ばずして而して還った。

  初め,漢の前軍師の魏延は,勇猛たること人に過ぎ,善く士卒を養った。諸葛亮が出るのに随う毎に,輒ち兵万人を請い,諸葛亮とは道を異なって潼関に於いて会し,韓信の故事の如くせんことを欲したが,諸葛亮は制して而して許さなかった。魏延は常に諸葛亮は怯を為していると謂い,己の才が之を用いられること尽くされないことを歎き恨んだ。楊儀の為人<ひととなり>は干敏であったため,諸葛亮が軍を出す毎に,楊儀は常に規畫分部し,糧谷<穀>を籌度して,思慮を稽えることなく,斯くは須く便了した,軍戎が節度できたのは,楊儀に於いて辦を取ったからであった。魏延の性は矜高であったため,当時は皆之を避けて下っていたが,唯だ楊儀のみは魏延に假借しなかったため,魏延は以って為すに至忿し,水火の(相容れない)如きものが有った。諸葛亮は二人之才を深く惜しみ,不忍有所偏廃也(どちらかに偏って一方を廃する点について忍びなかった)。

  費禕が呉に使いしたとき,呉主が醉うて,費禕に問いかけて曰く:「楊儀、魏延は,牧豎小人だろう也,嘗ては時務に於いて鳴吠之益を有したと雖も,然るに既にして已に之を任せたからには,勢いからして軽んずる得まい。若し一朝にして諸葛亮を無くしたなら,必ずや禍乱を為すことだろうな矣。諸君は憒憒として,此れに於ける防慮のことを知るまい,豈に所謂<いわゆる>貽厥孫謀乎!」費禕は対して曰く:「楊儀、魏延之不協は,私忿に於いて起きているだけであって耳,而して黥布、韓信のような難御之心は無いのです也。今方ずるに強賊を掃除して,混一函夏せんとしているわけです(華夏を函にいれて一つに混ぜようというのです),功は才が成るを以ってするものですし,業は才広きに由<よ>ものですのに,若し此を捨てて任せず,其の後の患いを防がんとするなら,是は風波が有るのに備えようとして而して逆に舟楫を廃するが猶<ごと>きであって,長計には非ざるというものです也。」

  諸葛亮は病となって困じると,楊儀及び司馬の費禕等と身が歿して後に軍を引く節度を作ると,魏延に後ろを断たせ,姜維が之に次ぐよう令した;若し魏延が或いは命に従わなければ,軍が自ずと発するよう便じた。諸葛亮が卒すると,楊儀は秘して喪を発せず,費禕に令して往って魏延の意<きもち>と指<さしず>を揣<くじ>くようにとした。魏延曰く:「丞相が亡ぶと雖も,吾は自ら在るに見える。府で親しい官属は,便じて喪を将いて葬を還す可きだが,吾は当に自ら諸軍を率いて賊を撃たん;雲何一人の死を以ってして天下之事を廃すべきというのか邪!且つ魏延は何の人となって,当に楊儀之所部が為に勒して,作断後将乎(作して後将を断ってやらねばならんのか)!」自ら費禕と共に作って行留(行くものと留まるものと)の部を分けると,費禕に令して手から書させて己と連名させ,諸将に告げ下した。費禕は魏延に紿して曰く:「当に君が為に還って楊長史を解かん。長史は文吏ですから,稀更軍事(軍事を更めること稀でしょう),必ずや違命いたしますまい也。」費禕は門を出ると,馬を奔らせて而して去った。魏延は之を尋悔したが,已に及ばなかった矣。

  魏延が人を使って楊儀等を覘<のぞきみ>させた,諸葛亮の成規を案じようと欲してのことだったが,諸営が相次いで軍を引きつれて還っていったため,魏延は大いに怒ると,楊儀が未発であることを攙し,領する所を率いて徑り先んじて南に帰そうとし,過ぐる所で閣道を焼き絶った。魏延、楊儀は各々相表して(互いを)叛逆したとし,一日之中に,羽檄が交至したのであった。漢主は以って侍中の董允、留府長史の蔣琬に問うと,蔣琬、董允は鹹ずるに楊儀を保ち而して魏延を疑った。楊儀等は山を槎して道を通じさせるよう令すると,晝夜(昼夜わかたず)兼行し,亦魏延の後ろに継いだ。魏延は先に至ると,南谷口に拠って,兵を遣わして楊儀等を逆撃したが,楊儀等は将軍の何平(王平)に令して前に於いて魏延を(防)御させた。何平は先登を叱って曰く:「公が亡くなり,その身は尚も未だ寒からざる(冷たくなっていない)というのに,汝らの輩は何敢えて乃爾!」魏延の士眾は曲が魏延に在ることを知っていたため,命を用いること為すこと莫く,皆散ってしまった。魏延は独り其の子数人と逃亡して,漢中に奔ったが,楊儀は将の馬岱を遣わして之を追って斬らせ,遂に魏延の三族を夷した。蔣琬は宿衛の諸営を率いて難に赴いて北に行ったが,行くこと数十里して,魏延が死んだとの問が至り,乃ち還ったのである。始め,魏延は楊儀等を殺そうと欲していたのは,時論を冀うに以って己が諸葛に代わって輔政しようとしたためであった,故に北して魏に降ろうとせず而して南して還って楊儀を撃とうとしたのであり,実に反意など無かったのである也。諸軍が成都に還ると,大赦があった,諸葛亮に謚して曰く忠武侯とした。初め,漢主への<於>諸葛亮の表に曰く:「成都に桑八百株,薄田十五頃を有しております,子弟の衣食は自ずと余り饒するものでありますから,臣不別治生以長尺寸。若し臣が死した日には,内をして余帛を有さ使めず,外に贏財を有さ使めず,以って陛下に負うものといたします。」卒するにあたり其の言う所の如きであった。丞相長史の張裔は常に諸葛亮を称えて曰く:「公が賞するに遠き遺さず,罰するに近くに阿らず,爵は功無きを以ってして取る可からず,刑は貴勢を以ってしても免れる可からず,此賢愚が其の身を僉忘する所以ということであった<者>のだ也!」══陳壽の評に曰く:諸葛亮の相國と為るや也,百姓を撫し(慰撫し),儀軌を示し,官職を約し(倹約し),権制に従って,誠心を開き,公道を布<し>いた;忠を尽くし時に益した者には,讎と雖も必ず賞し,治を犯して怠慢であった者には,親と雖も必ず罰した,罪に服して輸情であった者は,(その罪が)重いと雖も必ず釋<ゆる>し,游辞巧飾なる者は,軽いと雖も必ず戮した;善は微かであっても而して賞さないことは無く,惡は纖であっても而して貶めないことは無かった;庶事精練し,物は其の本を理,名に循<したが>って実を責め,虚偽は不歯(歯牙にかけなかった)。終に邦域之内に於いて,鹹畏され而も之を愛された,刑政は峻と雖も而して怨む者とて無く,以って其の用いる心で平らかとし而して勧戒は明らかとなったのである也。識治之良才(政治というものをよく識っている良才)であり,管、蕭之亞匹(管、蕭に次ぐ彼らの仲間)と謂う可きであろうか矣!

  初め,長水校尉の廖立は,自ら才名は宜しく諸葛亮之副と為すべきと謂い,常に以って職位が游散としていたため,怏怏と怨み謗って已むこと無かったため,諸葛亮は廖立を廃して民(庶民)と為すと,之を汶山に徙した。諸葛亮が卒するに及んで,廖立は垂泣して曰く:「吾は終に左衽と為らんか矣!」李平は之を聞くと,亦発病して死んだ。李平は常に諸葛亮が復己を收めてくれることを冀っていた,自らを得て補い復してくれることについて,後人に策しても能わざる故(に死んだの)であった也。

  習鑿歯は論じて曰く:昔管仲は伯氏の駢邑三百を奪ったが,沒歯して而して怨み言など無かった,聖人は以って為すに難しいことだとしたものだ。諸葛亮が廖立をして垂泣せ使,李厳には死を致させたが,豈に徒らに怨言など無かった而して已んだのである哉!夫水は至平であるため而して邪者も法を取り,鑒は至明であるため而して丑者も怒りを忘れる;水鑒が能く物を窮めて而して怨む者が無い所以は,其が無私であることを以ってしているからである也。水鑒は無私であるから,猶も以って謗りを免れるもの,況んや大人君子が懷楽生之心,流矜恕之徳,法が行われるのは不可不用に於いて(用いないではいられないからであるし),刑が加えられるのは自犯之罪において<乎>であり,之を爵すに而して私ごとに非,之を誅するに而して怒ってのことではない,天下で服しない者が有るだろうか乎!

  蜀人所在求為諸葛亮立廟(蜀の人々がいたるところから諸葛亮の廟を立てようと求めてきたが),漢主は聴きいれなかった。百姓は遂に時節に因んで道陌上に於いて之を私祭したため,歩兵校尉の習隆等が上言した:「其の墓の近く,沔陽に於いて一廟を立てまして,其の私祀を断つことを請う次第です。」としたところ漢主は之に従った。

  漢主は左将軍の呉懿を以ってして車騎将軍,假節,督漢中と為させ;丞相長史の蔣琬を以って尚書令と為させ,國事を總統させると,蔣琬に行都護,假節,領益州刺史を尋加した。時に新たに元帥を喪ったばかりであり,遠近は危ぶみ悚<おそ>れた,蔣琬が類を出て抜萃され,群僚之右に処すことになったが,既にして戚容が無く,しかし又喜色も無く,神守挙止は,平日の如くに有ったため,由是(これによって)眾望は漸服(次第に服していった)。呉人は諸葛亮が卒したと聞くと,魏が衰えを承って蜀を取ってしまうことを恐れ,巴丘の守兵万人を増した,一つには以って救援と為そうと欲してのことであり,二つには事を以って分割せんと欲してのことであった。漢人は之を聞くと,亦た永安之守りを増して以って非常(に備え)防がせた。漢主が右中郎将の宗預を使って呉に使いさせると,呉主は問うて曰く:「東之与西(東が西に与するのは),譬えるなら一家の猶きもの,而るに西が更めて白帝之守りを増したと聞くが,何でなのかね也?」対して曰く:「臣が以為<おもえらく>東が巴丘之戍を益せば,西は白帝之守りを増す,皆事の勢いからして宜しく然るべきこと,倶に以って相問うに足らないことでしょう也。」呉主は大いに笑うと,其の抗尽を嘉し,之を禮するに亞<つ>ぐことケ芝に於けるものであった。

  呉の諸葛恪は以って丹楊は山険しく,民の多くが果たして勁く,前に兵を(徴)発したと雖も,徒らに外の縣の平民を得た而已<のみ>であった。其余りは深遠(に逃げ),能く禽え尽くされるものが莫かった,屢<たびたび>自ら求めて官の為に之を出すこととすれば,三年すれば甲士四万を得る可とした。眾が鹹を議して以って為すに:「丹楊の地勢は険阻であって,呉郡、会稽、新都、番陽の四郡と鄰接しており,周旋すること数十里,山谷は万重(やたらと重なり合っている)。其の幽邃している民人は,未だ嘗て城邑に入って,長吏と対せず,皆仗兵すれば野に逸がれ,林莽に於いて白首している;逋亡は宿惡となって,鹹じて逃竄と共になっている。山は銅鉄を出すから,自ら甲兵を鋳る。俗は武を好んで戦を習い,気力を高尚させている;其の山に升って険に赴けば,叢棘に抵突すること,魚が淵に走るが若くであり,猿狖が木に騰るが若くである也。時に間隙を観ては,出て寇盜を為し,兵を致して征伐する毎に,其の窟藏を尋ねる。其れ戦えば則ち蜂至るがごとく,敗れれば則ち鳥竄するがごとく,前世より<自>以来,羈ずること能わないものだ也。」皆は以って為すに難しいとした。諸葛恪の父の諸葛瑾は之を聞くと,亦以って事は不逮に終わるとして,歎じて曰く:「諸葛恪は吾が家を大いに興すのではない,将に吾が(一)族を赤さんとしている也!」といった 諸葛恪が盛んに其の必捷を陳べたため,呉主は乃ち諸葛恪を拝して撫越将軍と為し,領丹楊太守とすると,使って其の策を行わせた。

  冬,十一月,洛陽に地震があった。

  呉の潘濬が武陵蛮を討った,数年して,斬獲すること数万となった。是より<自>群蛮は衰弱してゆき,一方が寧靜となったのである。十一月,潘濬は武昌に還った。