-1859-

資治通鑑巻第五十八

翰林学士兼侍読学士朝散大夫右諫議大夫知制誥判尚書都省兼提挙万寿観公事上護軍河内郡開国侯食邑一千三百戸賜紫金魚袋臣司馬光奉敕編集

後学天台胡三省音註

漢紀五十起重光作噩(辛酉),尽強圉単閼(丁卯),凡七年。

孝靈皇帝中

光和四年(辛酉、一八一)

1春,正月,初めて騄驥丞を置き,領受郡国調馬。賢曰:騄驥とは,馬である也。調えるとは,徴発したことを謂う也。調,徒釣翻;下同。豪右辜榷,前書の音義に曰く:辜は,障である也。榷は,專である也。謂障余人買売而自取其利。榷,古岳翻。馬一匹が二百万に至った。

2夏,四月,庚子,天下を赦した。

3交趾で烏滸蛮が久しく乱を為していたが,烏滸蛮が反した事の始めは上巻光和元年にある。滸,呼古翻。牧守は禁じること能わなかった。交趾の人の梁龍等が復た反すると,郡県を攻め破った。復,扶又翻。詔あって蘭陵令で会稽出身の朱儁を拝して交趾刺史と為すと,蘭陵県,属東海郡。会,古外翻。梁龍を撃ち斬った,降った者は数万人,降,戸江翻。旬月にして尽く定まった;功を以って都亭侯に封じ,徴して諫議大夫と為した。

4六月,庚辰,雨雹がふること雞子の如きであった。雨,于具翻。

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5秋,九月,庚寅朔,日食が有った(日食が有った)。

6太尉の劉免じられた;尉の許太尉と為った。,於六翻。考異に曰く:袁紀:「十月,許郁坐辟召錯繆,免。楊賜が太尉と為った。」とある今は范書に従う。

7閏月,辛酉,北宮の東の掖庭にある永巷署で災あった。

8司徒の楊賜が罷めた;冬,十月,太常の陳耽が司徒と為った。考異に曰く:袁紀では:「三年閏月,楊賜が病久しく罷めた。十月,陳耽が司徒と為った。」とあるが蓋誤置閏於去年。按ずるに長暦では,此年は閏十月である,以って袁紀が之を考じたのは,閏九月が是を為すというものだった,恐らく長暦では一月の差があるのだろう。今は范書の帝紀に従う。

9鮮卑が幽、二州を寇した。石槐が死んで,子の和連が代わって立った。和連の才力は父に及ばなかったうえ而して貪淫であったため,後に出て北地を攻めた,北地の人が之を射殺した。射,而亦翻。其の子の騫曼は尚も幼かったため,兄の子の魁頭が立った。後に騫曼が長じて大きくなると,長,知両翻。魁頭と国を争い,遂に離散した。魁頭は死に,弟の歩度根が立つことになった。

10是歳,帝は後宮に於いて列肆を作ると,諸采女を使って販売させた,更めて相盗み竊い争いした;更,工衡翻。帝は商賈服を著す(着用する)と,著,陟略翻;下同。賈,音古。之に従って飲宴して楽を為した。楽,音洛。又西園に於いて狗を弄び,進賢冠を著すと,(その)綬を帯びた。賢曰く:三礼圖に曰く:進賢冠とは,文官が之を服す,前の高さは七寸,後ろの高さは三寸,長さは八寸。続漢志に曰く:靈帝は寵用便嬖子弟,転じて相汲み引くと,関内侯を売った,直五百万である。強者は貪ること豺狼の如し,弱者は略すこと不類物,真に狗にして而して冠したものであった也。綬,音受。又四驢に駕すと,帝躬自ら轡を操って,驅馳せさせて周旋した;続漢志に曰く:驢というものは,乃ち重きに服し遠きを致す,上下山谷,野人が用いる所であるのみ耳,何ぞ帝王君子に有って而して之に驂駕するのだろうか乎!天意は若し曰く,国且つ大乱す,賢愚が倒植したのは,凡そ執政者が皆驢の如きであったからだと也。操,千高翻。京師は転じて相倣い效い,驢の價(値段)は遂に馬と斉しくなってしまった。

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帝は私を好んで為すと好,呼倒翻。,与蓄同。天下之珍貨を収め,郡国が貢獻する毎に,先ず中署に輸(送)し,名づけて「導行費」と為した。賢曰く:中署とは,内署のことである也。導とは,引である也。貢獻外別有所入,以為所獻希之導引也。中常侍の呂強が上疏して諫めて曰く:「天下之財は,莫不生之陰陽,賢曰:万物稟陰陽而生。之を陛下に帰すのですから,豈に公私が有るものでしょうか!而して今の中尚方は諸郡之寶を斂し,中御府には天下之盾ェ積みあげられています,中尚方、中御府は,皆少府に属す,天子の私藏するものである也。潤C慈陵翻。西園は司農之藏を引きいれ,中太僕之馬を聚<あつ>め,,即騄驥而して輸す所の府は,輒ち導行之財を有し,広く調えて民が困ることになり,費は多く獻は少なく,調,徒弔翻。少,詩沼翻。姦吏は其の利に因ることとなり,百姓は其の敝を受けることになっています。又,阿媚之臣は,其の私を献じることを好み,好,呼到翻。容諂姑息,此より而して(官位を)進むことになっています。旧典では:選挙は三府に委任されたもの,尚書は奏を受けて御す而已です;三府が其人を選んで而して之を挙げる;尚書は其の奏を受けて以って進御する。試みを受けてから任用し,責は功成るのを以ってし,功無なきは察す可きもの,然る後に之に付けた尚書が挙劾(推挙、弾劾)し,廷尉に下して虚実を覆し按じるよう請い,其の罪罰を行わせる;劾,戸概翻,又戸得翻。下,遐稼翻。是に於いて三公が選ぶ所有る毎に,参議掾属は,其の行状を咨し,其の器能を度ることになっています;掾,絹翻。行,下孟翻。度,徒洛翻。然るに猶も曠職廃官有って,荒穢して治らない。治,直之翻。今は但尚書に任せるのみ,或いは用いるようにとの詔が有るだけとしましょう,詔用者,不由三公、尚書,徑以詔書用之也。是の如きなれば,三公は選挙之負を免れるを得,尚書も亦た復して坐すことなく,責賞も帰すこと無いわけで,豈に空しく自ら労苦せんことを肯んじるでしょうか乎!」書は奏されたが,省みられなかった。復,扶又翻。省,悉井翻。

11何皇后は性は強忌であったため,後宮の王美人が皇子協を生むと,后は美人を酖殺した。帝は大いに怒ると,廃后のことを欲した;諸中官が固く請うたため,止むを得た。

12大長秋で華容侯の曹節が卒した;華容県は,南郡に属する。中常侍の趙忠が代わって大長秋を領した。

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五年(壬戌、一八二)

1春,正月,辛未,天下を赦した。

2公卿に謠言を以って挙刺史、二千石で民に蠹害を為した者を挙げるよう詔がくだされた。太尉の許、司空の張済が内官を承望し,貨賂を受け取り,,許六翻。其の宦者子弟,賓客は,穢濁を貪汙と雖も,皆敢えて問われなかった,而して辺遠小郡の清修にして惠化有った者二十六人が虚糾されたため,吏民が闕に詣でて陳訴するさたとなった。司徒の陳耽が上言した:「公卿が挙げる所は,党を率いたもので其は私ごとであります,所謂<いわゆる>鴟梟を放って而して鸞鳳を囚えているようなものです。」考異曰く:劉陶伝には:「光和五年,謠言以って二千石を挙げさせた。陳耽は議郎の曹操と上言した。」按じるに陳耽は已に司徒と為っている,議郎と上言を同じくして応じることはない。王沈の魏書に曰く:「是歳は災異があったため以って博く得失を問うた,太祖は此に因って上書し切諫した」とある,陳耽と同じく上言したとは云っていない也。今は但だ陳耽がしたことだと云う。帝は以って許、張済に讓らせると,是ゆえに諸々の謠言に坐して徴された者は,悉くが議郎を拝した。

3二月,大疫あった。

4三月,司徒の陳耽が免じられた。

5夏,四月,旱あった。

6太常の袁隗を以って司徒と為した。

7五月,庚申,永楽宮署で災あった。楽,音洛。

8秋,七月,星が太微に孛することが有った。孛,蒲内翻。

9板楯蛮が巴郡を寇乱し,連年之を討ったが,すること能わなかった。帝は大いに兵を発しようと欲し,以って益州の計吏で漢中出身の程包に問うたところ,対して曰く:

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「板楯七姓は,板楯七姓とは,羅、朴、督、鄂、度、夕、龔で,皆渠帥であった也。楯,食尹翻。秦の世に功を立ててより,其の租賦を復しました。復,方目翻。其の人は勇猛にして戦します。昔永初中,羌が漢川に入って,郡県が破壊されましたが,板楯が之を救うを得て,羌は死敗して殆んど尽きたのです,事は四十九巻安帝元初元年に見える,註も亦た是年に見える。羌人は号して神兵と為すと,伝語種輩(仲間同士伝え語ったことに),勿復南行(再び南に行くこと勿れとしました)。語,牛倨翻。種,章勇翻。復,扶又翻;下同。建和二年に至って,羌が復たも大いに入ってきたため,実に板楯を頼りにして之を連ねて摧破したのです。前の車騎将軍の馮緄は武陵に南征したおり,亦た板楯を倚として以って其功を成しました。近くは益州郡が乱れたおり,太守の李顒も亦た板楯を以って討つと而して之を平げたのです。緄,古本翻,又音昆。顒,魚容翻。忠功は此の如きでありまして,本より惡心など無いのです。長吏や郷亭では賦を更めること至重であり,長,知両翻。更,工衡翻。僕役すること箠楚でして,過ぎること奴虜に於けるよう,箠,止橤翻。亦た妻を嫁がせ子を売るということが有って,或いは乃ち自ら剄割するに至りました,州郡に冤(罪)であることを陳べんとすると雖も,而しながら牧守は理を通すことを為さず,為,于偽翻。闕庭は悠遠でありまして,自ずと聞くこと能わず,怨みを含んで天を呼び,叩愬する所無く,故の邑落で相聚まって以って【章:甲十一行本「以」下有「致」字;乙十一行本同;退斉校同。】叛くに戻ったわけでありまして,非有謀主僭号以圖不軌(謀主や僭号のことが有って以って不軌を図ったというのではないのです)。今は但能く牧守たりしことに明るいものを選ぶだけで,守,式又翻。自然と安んじ集まるでしょう,征伐で煩うことはありません也!」帝が其言に従って,太守として曹謙を選んで用いると,宣詔して之を赦すことにしたため,即時皆降った。降,戸江翻。

10八月,阿亭道に於いて四百尺観を起てた。観,古玩翻。

11冬,十月,太尉の許罷めた;太常の楊賜を以って太尉と為した。

12帝は上林苑で校獵すると,函谷関を歴し,遂に広成苑にて狩した。十二月,還ると,太学に幸じた。

13桓典が侍御史と為ったため,宦官は之を畏れた。桓典は常に驄馬に乗っていたため,京師は之を為して語ると曰く:「行行として且つ止む,驄馬を避けると御史であった!」驄馬,青白雜色。桓典は,桓焉の孫である也。順帝永建初,焉為太傅。焉,榮之孫也。

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六年(癸亥、一八三)

1春,三月,辛未,天下を赦した。

2夏,大旱となった。

3皇后の母に爵号して舞陽君と為した。

4秋,金城の河水が溢れて出ること二十余里となった。

5五原山の岸が崩れた。考異に曰く:本紀が云うには:「大有年。」とある按ずるに今夏は大旱があり,縦使秋成,亦た大有年と為るのは得ない。今は取らないことにする。

6初め,鉅鹿出身の張角は黄、老を奉り事えたが,妖術を以って教授すると,「太平道」を号した。符水をして以って病を療し妖,於驕翻。,職救翻。病となった者には跪拝首過するよう令した,首,式救翻。今道家が符水を施す所は,祖は張道陵にある,蓋し此術は同じものなのだろう也。或いは時に病が愈えると,神を共して而して之を信じた。張角は弟子を分け遣わして四方を周行させると,転じて相誑かし誘ったため,誑,居況翻。誘,音酉。十余年間にして,徒すること数十万となった,自青、徐、幽、冀、荊、揚、兗、豫八州之人で,畢応しないもの莫かった。或いは財産を棄て売り,流れ移り奔って赴くこと,道路を填塞した,塞,悉則翻。未だ病死するに至らない者も亦た以って万を数えた。郡県は其意を解さず,解,戸買翻。反って張角は以って道して教化していると言ったため,(ますます)民が帰す所と為った。

太尉の楊賜は時に司徒と為ると,楊賜が司徒と為ったのは,熹平五年である也。上書して言った:「張角は百姓を誑曜しています,遭赦不悔(悔いることなかったのに赦しに遭い),稍<ややも>滋しく益すこと蔓のようです。蔓,音万。今若し州郡に捕えて討つよう(命を)下せば,更めて騷擾となり,其の患いが速やかに成ってしまうことを恐れます。宜しく刺史、二千石に,流民を簡別するよう,下,遐稼翻。別,彼列翻。それぞれ本郡に護って帰すよう勅を切られますよう,そのようにして以って其の党を孤りとなるよう弱めて,然る後に其の渠帥を誅すれば,労せずして而して定めることできましょう。」楊賜が位を去るに会ったため,事は遂に途中で留められることになった。賢曰く:事を論じた所は禁中に在ったまま留められ,未だ之を施用しなかったことを謂う。余拠賜以熹平六年免。帥,所類翻。司徒掾の劉陶も復た上疏して楊賜が前に議したことを申しのべたが,掾,

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絹翻。復,扶又翻。言うことには:「張角等は陰謀すること益すます甚だしく,四方に私言しておりまして,張角等は京師に入らんことを竊い,朝政を覘視していると云っています。覘,丑廉翻。朝,直遙翻。鳥声獣心,私共鳴呼;州郡が忌諱しても,是を聞くこと欲せず,但更めて相告げ語るのみで,更,工衡翻。公文を肯うもの莫いようすです。詔を明らかに宜下なさって,張角等を重募して(高額の賞金首とし),賞するに国土を以ってし,敢えて回避すること有れば,之と同罪としてください。」帝は殊に意を為さず,方詔陶次第春秋條例。陶は春秋に明るく,之に訓詁を為した,故に之を詔するに次第條例という。

張角は遂に三十六方を置いた;方とは,猶も将軍ということである也,大方は万余人,小方は六七千,考異曰:袁紀作「坊」,今従范書。各々渠帥を立てた;帥,所類翻。訛言するに「蒼天已に死す,黄天当に立つべし,歳は甲子に在り,天下大吉ならん。」白土を以って京城寺門寺門,在京城諸官寺舍之門。及び州郡官府に書すと,皆「甲子」の字を作った。大方の馬元義等が先ず荊、揚数万人を収め,鄴に於ける発に会わせることを期した。馬元義は何度も京師に往来すると,数,所角翻。中常侍の封諝、徐奉等を以って内応を為させようとし,諝,私呂翻。約するに以って三月五日に内外倶に起つこととした。

中平元年(甲子、一八四)是年十二月改元。

1春,張角の弟子で済南出身の唐周が上書して之を告げた。済,子礼翻。考異曰:袁紀に云うに「済陰の人で唐客という」,今は范書に従う。是に於いて馬元義を収めると,洛陽に於いて車裂きとした。考異曰:袁紀曰:「五月乙卯,馬元義等於京都謀反,伏誅。」今従范書。詔三公、司隸按驗宮省直及百姓有事角道者,誅殺千余人;冀州に張角等を逐って捕らえるよう下した。下,遐稼翻。張角等は事が已に露わになったと知ると,晨夜(昼に夜を番えて)諸方に馳敕すると(知らせを派遣すると),一時にして倶に起った,皆黄巾を著して以って標幟と為した,著,陟略翻。幟,尺志翻,又音誌。故時の人は之を謂うに「黄巾賊」とした。二月,張角は天公将軍を自称し,張角の弟の張寶は地公将軍を称し,張寶の弟の張梁は人公将軍を称すると,考異曰:司馬彪九州春

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秋に云うに:「張角の弟が張梁,張梁の弟が張寶」,袁紀が云うに「張角の弟は張良、張寶」,今は范書に従う。所在では官府を燔燒し,聚邑を劫略したため,聚,才翻。州郡は拠るところを失い,長吏は多くが逃亡した;長,知両翻。旬月之間に,天下は響きに応じ,京師は震動した。安平、甘陵の人は各々が其の王を執って賊に応じた。

三月,戊申,河南尹の何進を以って大将軍と為して,慎侯に封じると,慎県,属汝南郡。左、右羽林五営営士を率いさせて都亭に駐屯させ,器械を修理させて,以って京師を鎮めさせた;函谷、太谷、広成、伊闕、轘轅、旋門、孟津、小平津に八関都尉を置いた。函谷関は,河南の穀城県に在る。賢曰く:太谷は,洛陽の東に在る。広成は,河南の新城県に在る。京相璠は曰く:伊闕は,洛陽の西南五十里に在る。轘轅関は,緱氏県の東南に在る。水経註に曰く:旋門,成皋県西南十里に在る。孟津は,河内河陽県の南に在る。小平津は,河南平県の北に在る。賢曰く:今の鞏県西北に在る。杜佑曰く:洛州新安県東北に漢八関城が有る。

帝は臣を召して会議した。北地太守の皇甫嵩が以って為すに宜しく党禁を解いて,中藏している銭、西園の馬を益して出し以って軍士に班するようにとした。中藏府令は,少府に属すが,宦者が之を為す。中藏銭とは,漢で謂う所の禁銭である也。西園の馬は,即ち騄驥馬である。藏,徂浪翻。皇甫嵩は,皇甫規の兄の子である也。上が中常侍の呂強に於いて計を問うたところ,対して曰く:「党錮は久しく積もっております,人情は怨み憤っていますから,若し赦し宥すことなければ,軽きは張角と謀を合わせ,変を為すこと滋しく大でありまして,之を悔いても救いは無いでしょう。今請いますことは先ず左右の貪濁なる者を誅しまして,党人を大赦し,刺史、二千石の能否を料って簡すれば,料は,音は聊で,量るということ也,度である也。則盗無不平矣。」帝は懼れて而して之に従った。壬子,天下に党人を赦し,諸徙者を還した;謂党人妻子徙辺者也。唯張角だけは赦さなかった。天下に精兵を発すると,北中郎将の盧植を遣わして張角を討たせ,漢には三署中郎将が有る,五官及び左、右署である。又使匈奴中郎将が有る。北中郎将は則ち此時に於いて創置された,蓋し以って河北の黄巾を討たせようとのことであろう也。左中郎将の皇甫嵩、右中郎将の朱儁には潁川の黄巾を討たせた。

是時中常侍の趙忠、張讓、夏ツ、郭勝、段珪、宋典等は皆侯に封じられて貴寵であったため,夏,戸雅翻。ツ,於粉翻。上は常に

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言うことに:「張常侍は是れ我が公である,趙常侍は是れ我が母である。」是ゆえに宦官は憚り畏れる所無く,並んで第宅を起てたが,それは擬すこと宮室に則ったものであった。上は嘗つて永安候台に登ろうと欲したことがあった,続漢志に拠ると:永安宮は北宮東北に在り,宮中に候台が有る。洛陽宮殿を名づけて曰く:永安宮といい,周回は六百九十八丈であり,故の基が洛陽故城中に在る。宦官は其の居処を望見されることを恐れ,乃ち中大人の尚但を使って諫めさせると曰く:賢曰く:尚は,姓である;但が,名である。姓譜では:師尚父之後であるという。後漢には尚士、尚子平が有った。「天子は当に高きに登るべからず,高きに登れば則ち百姓が虚散いたします。」上は是自り敢えて復た台榭に升ろうとはしなかった。靈帝を観るに尚但之言を以って敢えて復た台榭に升ろうとしなかったのは,誠に百姓が虚散するのを恐れたのであろう也,謂無愛民之心可乎!使其以信尚但者信諸君子之言,則漢之為漢,未可知也。賢曰:春秋潛潭巴曰:天子毋高台榭,高台榭則下叛之。蓋し此に因って以って帝を誑したのだろう也。復,扶又翻;下同。封諝、徐奉の事が発(覚)するに及んで,上は諸常侍に詰責して曰く:詰,去吉翻。「汝曹は常に党人は不軌を為そうと欲しているから,皆禁錮するよう,或いは誅に伏す者有るよう令してくださいと言っていたな。今党人は更めて国の用を為しているのに,汝曹は反して張角と通じていた,為可斬未?」皆叩頭して曰く:「此は王甫、侯覽が為した所です也!」是に於いて諸常侍は人人退くを求めると,各自が宗親、子弟で州郡に在った者を徴環した。

趙忠、夏ツ等は遂に共に呂強を譖じて,云うことに党人と共に朝廷を議し,何度も霍光伝を読んでいるとした。言うに其が廃立を謀ろうと欲しているということである也。数,所角翻。呂強兄弟は所在すると並んで皆貪穢であるともした。帝は中黄門を使って兵を持たせると呂強を召した。呂強は帝が召していると聞くと,怒って曰く:「吾が死ぬことになれば,乱が起きるだろう矣!(大)丈夫が国家に忠を尽くそうと欲しているのに,豈に能く獄吏に対そうというのか乎!」遂に自殺した。趙忠、夏ツは復た譖じて曰く:「呂強はお召しに見えると,未だ問う所を知らないのに而して外に就いて自屏しました,賢曰く:自屏とは,自殺のことを謂う也。屏,必郢翻。姦有ったのは明らかで審らかとなったものです。」遂に其の宗親を収め捕らえると,財産を没収した。

侍中で河内出身の向栩が便宜を上し,左右を譏刺した。栩,況羽翻。上,時掌翻;下同。張讓は向栩が張角と心を同じくして,内応を為そうと欲していると誣し,収めて黄門北寺獄に送ると,之を殺した。郎中で中山出身の張鈞が上書して曰く:「竊い惟いますに張角が能く兵を興し乱を作る所以,万民が

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之に楽しみ(喜んで)附く所以というのは,楽,音洛。其の源は皆十常侍が父兄、子弟、婚親、賓客を多く放ち(彼らが)州郡に典拠して,財利を辜榷し,榷,古岳翻。百姓を侵掠するに由するのです,百姓が冤んでも,告訴する所無く,故に不軌を謀議し,聚まって盗賊と為るのです。宜しく十常侍を斬って,その頭を南郊に懸け,以って百姓に謝し,宦者伝に拠れば,是時張讓、趙忠、夏ツ、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典の十二人が,皆中常侍と為っていた。十常侍と言うのは,大数を挙げてのことである也。県は,読んで曰く懸。考異に曰く:范書の宦者伝では上に列された常侍十二人の名は,而して下ると十常侍と云う。未だ詳らかでない。使者を遣わして天下に布告されれば,師旅を須くせず可くして而して大寇は自ずと消えさりましょう。」帝は張鈞の章を以って諸常侍に示したところ,皆免冠し徒跣して頓首すると,自ら洛陽に詔獄致されんことを乞い,並んで家財を出して以って軍費を助けんとした。詔が有って,皆冠履き視事すること故の如きであった。帝は張鈞に怒ると曰く:「此の真狂子めが也!十常侍固当有一人者不!」不,俯九翻。御史が旨を承って,遂に張鈞は黄巾道を学んでいると誣奏すると,収めて掠し,獄中で死なせた。掠,音亮。

2庚子,南陽の黄巾である張曼成が太守の褚貢を攻め殺した。

3帝は太尉の楊賜に以って黄巾の事を問うたところ,楊賜は対する所切直であったため,帝は悦ばなかった。夏,四月,楊賜は寇賊のことに坐して免じられた。太僕で弘農出身のケ盛を以って太尉と為した。已而帝が故事を閲録したところ,楊賜と劉陶が張角について上する所の奏を得たため,乃ち楊賜を封じて臨晉侯と為し,臨晉県は,馮翊に属する。賢曰く:故城が今の同州朝邑県西南に在る。上,時掌翻。劉陶を中陵郷侯と為した。

4司空の張済が罷めたため;大司農の張温を以って司空と為した。

5皇甫嵩、朱儁は合わせて四万余人を将いると将,即亮翻。共に潁川を討った,【張:「川」の下に「黄巾」二字が脱けている。】皇甫嵩、朱儁は各々が一軍を統めていた。朱儁は賊の波才と戦い,敗れた;皇甫嵩は進むと長社を保った。長社県は,潁川郡に属する。賢曰く:今の許州県である,故城は長葛県西に在る。

6汝南黄巾が邵陵に於いて太守趙謙に敗れた。邵陵県は,汝南郡に属する。賢曰く:故城は今の豫州郾陵県東に在る。敗,補邁翻。広陽

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黄巾が幽州刺史の郭勳及び太守の劉を殺した

7波才は長社に於いて皇甫嵩を囲んだ。皇甫嵩の兵は少なく,少,詩沼翻。軍中は皆恐れた。賊は草に依って営を結んでいた,大風に会って,皇甫嵩は軍士に敕を約すと皆苣を束ねて城に乗り,賢曰:苣,音巨。説文に云うに:東葦燒之。鋭士を使って囲みの外に間出させると,火を縦にして大呼させた,間,古莧翻。呼,火故翻。城上では燎を挙げて之に応じ,皇甫嵩は城中に従って鼓譟すると而して出て,賊の陳<陣>を奔撃した,陳,読曰陣。賊は驚いて,乱れ走った。騎都尉で沛国出身の曹操が兵を将いて適至するに会った,五月,皇甫嵩、曹操と朱儁は軍を合わせると,更めて賊と戦い,之を大いに破り,斬首すること数万級であった。皇甫嵩を封じて都郷侯とした。

曹操の父の嵩は,中常侍である曹騰の養子と為った,其の生れ出た本末を審らかにすること能わないが,或いは夏侯氏の子であると云われる也。呉人が作った曹伝及び郭頒の世語では,並んで曹嵩は,夏侯氏之子で,夏侯惇之叔父である,だから曹操は夏侯惇に於いて従父兄弟と為るのだと言う。曹操は少なきより機警あり,権数を有し,而して任侠にして放蕩であり,行業を治めなかった;少,詩照翻。行,下孟翻;下同。世人は之を未だ奇としなかったが也,唯太尉の橋玄及び南陽の何顒のみが異とした焉。顒,魚容翻。橋玄は曹操に謂いて曰く:「天下は将に乱れんとするに,命世の才に非ざれば,済する(救済する)こと能わない也。能く之を安んじる者は,其れ君に在りや乎!」何顒は曹操に見えると,歎じて曰く:「漢家は将に亡びんとするなか,天下を安んじる者は,必ずや此の人ならん也。」橋玄は曹操に謂いて曰く:「君は未だ有名でない,許子将と交わる可きである。」子将なる者は,許訓の従子で許劭のことである也,許劭は,字を子将という。許訓が公と為ったことは,上巻熹平三年、四年に見える。従,才用翻。人倫を好み,多くが賞識する所で,従兄の許靖と倶に高名を有した,共に郷党人物を覈論するのを好み,毎月輒ち其の品題を更めた,故に汝南では俗に月旦評を有した焉。後に州郡中正を置いて此に於いて本づいた。好,呼到翻。更,工衡翻。嘗て郡の功曹と為った,府中が之を聞いたが,莫不改操飾行。曹操は往造劭(許劭のところへ往くと)而して之を問うた造,七到翻。曰く:「我何如人?」許劭は其の為人を鄙として,答えなかった。曹操は乃ち之を劫したところ,許劭曰く:「子は,治世の能臣,乱世の姦雄である。」言うに其の才が世に絶していることである也。天下が治まれば則ち其の能を尽くして世の用いるところを為し,天下が乱れれば則ち其の智を逞しくして時の雄と為るのである。曹操は大いに喜ぶと而して去った。曹操事始此。

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朱儁が黄巾を撃つや也,其の護軍司馬で北地出身の傅燮が上疏して曰く:護軍司馬とは,官が司馬と為したもので,而して使って一軍を監護させるのである。「臣が聞いておりますのは天下が禍つのは外に於けるに由あらず,皆内に於いて興るものだということです。是は故は虞舜が先ず四凶を除き,然る後に十六相を用いた,尚書:舜は共工を幽州へと流し,驩兜を崇山へと放(逐)し,三苗を三危へと竄し,鯀を羽山へと殛して,四罪としたところ而して天下は咸服した。左伝曰く:高陽氏には才子八人が有った,蒼舒、隤、檮、大臨、厖降、庭堅、仲容、叔達である,之を八元と謂う。高辛氏には才子八人が有った,伯奮、仲堪、叔獻、季仲、伯虎、仲熊、叔豹、季貍で,之を八トと謂う。舜は堯を臣とし,四凶族を流し,十六相を挙げた。明惡人不去,則人無由進也。今張角が趙、魏に於いて起って,黄巾が六州に於いて乱しました,此は皆釁発蕭牆而して禍延四海者也。臣は戎任を受けまして,辞を奉じて罪を伐ちました,始め潁川に到ると,戦いは不無く;黄巾は盛んと雖も,不足為廟堂憂也。臣が懼れる所は,在於治水不自其源,末流彌増其広耳(治水するのに其の源からではないということが在れば,末流ではただ其の広さが増えるだけでしょう)。治,直之翻。陛下は仁徳容でありまして,多くが忍びない所でした,故に閹豎が権を弄び,忠臣が進まなかったのです。誠使張角梟夷,黄巾変服,其の党が帰順し,去其の黄巾を去って而して復た時の人之服に服すことを謂う也。梟,堅堯翻。梟夷とは,梟斬して而して之を誅夷することを謂う。臣之所憂,甫益深耳。何者(なぜでしょうか)?夫れ邪正之人は国を共にするに宜しからず,亦猶冰炭不可同器。彼知正人之功顯而危亡之兆見,皆将に辞を巧みにし説を飾りたて,共に虚偽を長じさせました。見,賢遍翻。長,知両翻。夫れ孝子が疑うは屢至に於いて,即ち曾母が杼を投じたことである,事は三巻周赧王七年に見える。市に虎が成るのは三夫に於いてです,韓子:龐共は魏太子と邯鄲に於いて質となることになった。共が魏王に謂いて曰:「今一人が市に虎有りと言えば,王は信じますか乎?」王曰:「否。」「二人が言えば,信じますか乎?」王曰:「否。」「三人が言えば,信じますか乎?」王曰:「寡人は信じるだろう矣。」共曰:「夫れ市に虎無きこと明らかであるのに矣,三人が誠に市に虎有りとしたのを然りとされました。今邯鄲は魏を去ること市に於けるより遠いのです,臣を謗る者は三人を過ぎるのです,願わくば王よ之を熟察なさってください!」若し真偽を詳らかに察しないなら,忠臣は将に復た杜郵之戮が有ることになりましょう矣!白起の事は五巻周赧王五十八年に見える。復,扶又翻。郵,音尤。陛下は宜しく虞舜四罪之挙のことを思われ,速やかに讒佞之誅を行われれば,則ち人は進(言せんこと)を思い,姦凶は自ずと息しましょう。」趙忠は其の疏を見て而して之を惡んだ。惡,烏路翻。傅燮は黄巾を撃つと,功は多く

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当に封ぜられるべしとなったが,趙忠は之を譖訴した;帝は傅燮の言を識っていたため,賢曰:識,記也,音志。罪を加えられないことが得られたが,竟に亦た封じられることもなかった。

8張曼成が宛下に屯すること百余日;宛,於元翻。六月,南陽太守の秦頡が曼成を撃ち,之を斬った。

9交趾の土は珍貨が多く,前後の刺史は多くが清行無かったため,行,下孟翻。財計が盈給すると,輒ち遷代を求めた,故に吏民は怨み叛き,刺史及び合浦太守の来達を執らえると,自称して柱天将軍とした。三府は京の(県)令で東郡出身の賈jを選んで交趾刺史と為した。京県は,河南尹に属する。j,祖宗翻。賈jは部に到ると,其の反状を訊ね,咸じて言った「賦斂は重きに過ぎたものだ,斂,力贍翻。百姓で空単でないものは莫い。京師は遙かに遠く,冤(罪)を告げる所が無い,民は生を不聊とされ,故に聚まって盗賊と為ったのだ。」賈jは即ち書を移して告示し,各々使って其の資業を安んじさせると,荒み散ったものを招撫し,蠲復傜役,蠲,吉玄翻。復,音方目翻,除也。渠帥で大害を為す者を誅して斬ると,帥,所類翻。良吏を簡選して諸県を試みに守らせた,歳間蕩定,百姓は以って安んじた。巷路では之を歌と為して曰く:「賈父が晩に来ると,我を使って先ず反させた;今清平に見えて,吏は敢えて飯をくらわない!」吏が不敢えて民家を過ぎて而して飯をようきゅうすることはしないことを言う也。飯,扶翻。

10皇甫嵩、朱儁は勝ちに乗じて進むと汝南、陳国の黄巾を討ち,陽翟に於いて波才を追い,西華に於いて彭脱を撃つと,姓譜では:波は,姓である也。其の先に王莽に事えて波水将軍と為った,子孫は以って氏と為した。陽翟県は,潁川郡に属する。西華県は,汝南郡に属する。賢曰く:西華の故城は,今の陳州項城県西に在る;又曰く,今の水県西北に在る。並んで之を破った,余賊は降散し,降,戸江翻。三郡は悉く平げられた。皇甫嵩が乃ち其の状を上言すると,以って功を朱儁に帰した,是に於いて封を進めて西郷侯となり,鎮賊中郎将に遷ったのである。此は黄巾の余賊を鎮め安んぜんことを欲したのに因って而して置官したのである。詔あって皇甫嵩は東郡を,朱儁は南陽を討つことになった。

北中郎将の盧植は連戦して張角を破ると,斬獲すること万余人となった,張角等は走ると広宗を保った。広宗県は,鉅鹿郡に属する。賢曰:今の貝州宗城県である。盧植は囲みを築いて塹を鑿つと,雲梯を造作し,垂れて当に之を抜くべしとした。垂,幾也。塹,七艷翻。帝は小黄門の左豊を遣わして軍を視させた,或るひとが盧植に以って賂<まいない>を以って左豊に送るよう勧めたが,盧植は肯わなかった。左豊が還ると,帝に於いて言いて曰く:「広宗の賊は破るに易い耳というのに,易,以豉翻。盧中郎は壘を固めて軍を息つかせ,以って天

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が誅するのを恃んでおります。」帝は怒ると,檻車で盧植を徴したが,死を一等減じた;東中郎将で隴西出身の董卓を遣わして之に代えた。盧植が先ず北中郎将と為り,董卓は東中郎将と為っていた。四中郎将は此れに於いて始まるのである。

11巴郡出身の張脩は妖術を以って人に療病を為していたが,為,于偽翻。其の法略は張角と同じである,令して病家に五斗米を出させた,号して「五斗米師」である。秋,七月,張脩は聚めて反し,郡県を寇した;時に人は之を「米賊」と謂った。考異に曰く:范書の靈帝紀には此が張脩と有る。陳寿の魏志張魯伝には「劉焉の司馬張脩」と有る,劉艾の典略には「漢中出身の張脩」と有る,裴松之は以って為すに「張脩」は是を「張衡」と応じるものだとし,典略之失には非ず,則ち伝寫之誤りだとした。案魯伝云:「祖父は張陵,父は張衡,皆五斗米道を為す。張衡が死ぬと,張魯が復た之を行った。」劉焉の司馬の張脩は張魯と同じく漢中を撃った,張魯は張脩を襲って殺したのだから,其の父に非ず也。今此は范書に拠る。

12八月,皇甫嵩は黄巾と蒼亭に於いて戦うと,蒼亭は,東郡の范県界に在る。其の帥である卜巳を獲た。帥,所類翻。董卓は張角を攻めたが功無く,罪に抵たった。乙巳,詔あって皇甫嵩が張角を討つことになった。

13九月,安平王の劉続が不道に坐し,誅された,安帝の延光元年,楽成国を改めて曰く安平とし,孝王の劉得を以って紹封させた。劉続は,劉得の子である也。国は除かれた。

初め,劉続は黄巾に虜われる所と為り,国人が之を贖ったため還るを得た,朝廷は議して其の国を復したのである。議郎の李燮が曰く:「劉続は藩を守って不称であり,称,尺證翻。聖朝を損い辱しめました,復国するのは宜しからず。」朝廷は従わなかった。(その結果)李燮は宗室を謗毀したことに坐して,左校で輸作することになった;校,戸教翻。未だ歳を満たさずして,王が誅に坐すことになり,乃ち復た議郎を拝した。京師は之を為して語って曰く:「父は立帝を肯わず,李固が質、桓二帝を立てるのに肯わなかったことを謂う也。子は立王を肯わない。」

14冬,十月,皇甫嵩は張角の弟張梁と広宗に於いて戦った,張梁の精勇であり,皇甫嵩はすること能わなかった;明くる日,乃ち営を閉ざして士を休ませると以って其の変を観させたところ,賊の意が稍懈したことを知った,懈,居隘翻。乃ち夜に潛めて兵を勒すると,雞鳴,馳せて其の陳に赴き,陳,読曰陣。晡時に至るまで戦って,之を大いに破ると,張梁を斬り,獲首すること三万級となった,河に赴いて死んだ者は五万許人となった。張角は先に已に病死していたため,棺を剖いて屍を戮すると,首を京師に伝えた。十一月,皇甫嵩は復た張角の

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弟の張寶を下曲陽に於いて攻めると,之を斬った,下曲陽県は,鉅鹿郡に属する;以って常山には上曲陽が有る,故に此が下と称えるのである。復,扶又翻。斬獲すること十余万人となった。即ち皇甫嵩を拝して左車騎将軍と為し,冀州牧を領させ,槐里侯に封じた。皇甫嵩は能く士卒に温卹であり,軍が行って頓止する毎に,須く営幔が修立してから,然る後に舍に就いた,軍士が皆食べてから,爾は乃ち飯を嘗した,爾,如此也。故に嚮する所功有ったのである。

15北地の先零羌及び枹罕、河関の盗が反した,河関、枹罕の二県は,皆隴西郡に属する。零,音憐。枹,音膚。共に湟中義従胡の北宮伯玉、李文侯を立てて将軍と為すと,北宮は,居した所を以って氏と為したのである。左伝には大夫である北宮文子が有る。孟子には北宮黝が有る。従,才用翻。護羌校尉の冷徴を殺した。賢曰く:泠は,姓である也,周に泠州鳩が有る,音零。金城の人である辺章、韓遂は素より名を西州に著していたことから,盗は誘って而して之を劫すると,使って軍政を専らに任せ,誘,音酉。任,音壬。金城太守の陳懿を殺すと,州郡を攻め焼いた。

初め,武威太守は権貴を倚恃すると,恣に貪暴を行ったため,武威太守は,史でも其の姓名を失っている。涼州従事で武都出身の蘇正和が其の罪を案致した。刺史の梁鵠は懼れて,正和を殺そうと欲したがそれは以って其の負を免れんとしてのことであった,(そうして梁鵠は)漢陽の長史である敦煌出身の蓋勳に於いて訪れた。続漢志では:郡太守は丞一人を置く;郡で辺戍に当る者は,丞が長史と為る。敦,徒門翻。蓋,徒盍翻。蓋勳は素より正和と仇(の関係が)有ったが,或るひとが蓋勳に此れに因って之に報いるようにと勧めたところ,蓋勳曰く:「謀事で良を殺すのは,忠に非ざるもの也;人の危うきに乗じるのは,仁に非ざるものだ也。」乃ち梁鵠を諌めると曰く:「夫紲食鷹隼,欲其鷙也。賢曰:紲は,繋ぐである也。広雅に曰く:鷙は,執である也。其の能く鳥を服執するを取る。隼,聳尹翻。食,読曰鷙而亨之,亨,読作烹。将何用哉!」梁鵠は乃ち止めた。蘇正和が蓋勳に謝を求めて詣でんとしたが,蓋勳は見えなかった,曰く:「吾は梁使君の為に謀したのだ,蘇正和の為ではない也。」為,于偽翻。之を怨むこと初めの如しであった。

後に刺史の左昌が軍の穀数万を盗もうとしたたため,蓋勳は之を諫めた。左昌は怒ると,蓋勳と従事の辛曾、孔常を使って阿陽に別屯させて以って賊を拒ませたが,阿陽県は,漢陽郡に属する。これは軍事に因って之を罪にしようと欲したのである;而しながら蓋勳は何度も戦功が有った。数,所角翻。北宮伯玉が金城を攻めるに及ぶや也,蓋勳は左昌に之を救うよう勧めたが

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,左昌は従わなかった。陳懿が既に死ぬと,辺章等は進んで冀に於いて左昌を囲んだ,左昌は蓋勳等を自らを救わせようとして召したところ,辛曾等は疑って赴くことを肯んじなかった,蓋勳は怒って曰く:「昔荘賈が後れて期すと,穰苴は剣を奮った。斉の景公の時に,燕、晉が斉を侵した,景公は司馬穰苴を以って将と為すと,之を禦がせ,寵臣の荘賈に令して監軍とした。穰苴とは旦日に会することを期した。荘賈は素より驕貴であり,夕時に乃ち至った。穰苴は軍正を召して問うて曰く:「軍法では,期したのに而して後れた者は何と云うか?」対して曰く:「当に斬るべし。」遂に荘賈を斬って以って三軍に徇した。今之従事は豈に重きこと古之監軍に於けるや乎!」監,古銜翻。辛曾等は懼れると而して之に従た。蓋勳は冀に至ると,辺章等に誚讓させるに背叛之罪を以ってした;誚,才笑翻。背,蒲妹翻。皆曰く:「左使君が若し早くから君の言に従って,兵を以って我に臨んでいたら,庶可自改;今罪は已に重く,降ることを得ないだろう也。」乃ち囲みを解いて去った。

叛いた羌が校尉の夏育を畜官に於いて囲んだ,前書尹翁帰伝有論罪輸掌畜官。音義曰:右扶風,畜牧所在,有苑師之属,故曰畜官。畜,音許救翻。蓋勳と州郡は兵を合わせて夏育を救いにで,狐槃に至って,晉時,秦苻生葬姚弋仲於狐槃。載記に曰く:天水冀県に在る。羌に敗れる所と為った。蓋勳の余百人に及ばず,身は三創を被っていたため,敗,補邁翻。被,皮義翻。創,初良翻。堅く坐して動かなかった,木を指して表して曰く:「尸我於此!(此処で自分は屍となるのだ)」句就種羌の滇吾は兵を以って扞して曰く:賢曰:句就とは,羌の別種である。句,音古侯翻。種,章勇翻。滇,音顛。「蓋長史は賢人である,汝曹で之を殺す者は天に負いを為すのだ。」蓋勳は仰ぐと罵って曰く:「死反虜(死せんとして反って虜とならんか)!汝は何をか知らん,来たりて我を殺さんことを促せ!」相視而驚。滇吾は下馬すると蓋勳に与えたが,蓋勳は上ることを肯んじなかった,上,時掌翻。遂に羌に執らえられる所と為った。羌は其の義勇に服し,敢えて害を加えようとせず,漢陽に送り還した。後に刺史の楊雍が蓋勳を漢陽太守を領するよう(上)表した。

16張曼成の余党は更めて趙弘を以って帥と為すと,復た盛んとなり,帥,所類翻;下同。復,扶又翻;下同。十余万に至って,宛城に拠った。朱儁は荊州刺史の徐璆等と兵を合わせて之を囲んだが,宛,於元翻。璆,渠尤翻。六月自り八月に至るまで抜けなかった;有司が朱儁を徴するよう奏上した。司空の張温が上疏して曰く:「昔秦は白起を用い,燕は楽毅に任せました,皆年を曠じて歴載し,乃ち敵すること能わったのです。史記:白起は秦の昭王に事えて大いに良

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造を為して,魏を攻め,之を破った。後れること五年,趙を攻め,光狼城を抜いた。後れること七年,楚を攻め,鄢、ケ五城を抜いた。明くる年,郢を抜き,夷陵を焼き,遂に東して竟陵に至った。楽毅は燕の昭王に事えた,上将軍と為って,斉を伐って,臨菑に入り,斉を徇すること五歳,七十余城を下した。朱儁は潁川を討って已に功效が有ります,師を引きつれて南を指したからには,方略は已に設けられたのでしょう;軍に臨んで将を易くするのは,将,即亮翻。兵家が忌む所です,宜しく日月を假しまして,其の成功を責めてください。」帝は乃ち止めた。朱儁は趙弘を撃つと,之を斬った。

賊帥の韓忠が復たも宛に拠って朱儁を拒んだため,朱儁は鼓を鳴らして其の西南を攻めると,賊は悉くが之に赴いた;朱儁は自ら精卒を将いると其の東北を掩し,城に乗りこみ而して入った。韓忠は乃ち退くと小城を保ったが,惶懼として降らんことを乞うてきた;将,即亮翻;降,戸江翻;並下同。諸将は皆之を聴きいれようと欲したが,朱儁曰く:「兵(軍事)には固より形は同じものが有っても而して勢いは異なる者である。昔秦、項之際には,民には主が定まっていなかった,故に附いたことを賞して以って来たらんことを勧めたのである耳。今海内は一統されており,唯黄巾が造逆しているだけである。降(伏)を納め(受け入れ)ることは以ってを勧めるものでは無い,之を討って以って惡を懲らしめるに足らしめるのである。今若し之を受けて,更めて逆意にたいして開くことは(寛容さを示すことは),賊が利せば則ち進んで戦い,鈍せば則ち降らんことを乞うこととなり,敵が長く寇することを縦とすることになる,長,知両翻。良計に非ざるものだ也!」因って急攻すると,連戦したが不であった。朱儁は土山に登って之を望むと,顧みて司馬の張超に謂いて曰く:「吾は之を知る矣。賊は今外は周りを固く囲まれ,内営は逼急している,降らんことを乞うても受けいれられず,出んことを欲しても得られない,死して戦わんとする所以である也。万人が心を一つにすれば,猶も当たる可からずという,況んや十万をや乎!囲みを徹(去)するに如かず,兵入城,韓忠は囲みが解けるのを見て,勢いから必ずや自ら出るだろう,自ら出れば則ち意は散ず,之を破【章:甲十一行本「破」上有「易」字;乙十一行本同;孔本同;張校同。】る道というものだ也。」既に而して囲みを解くと,韓忠は果たして出て戦った,朱儁は因って撃つと,之を大破し,斬首すること万余級となった。

南陽太守の秦頡が韓忠を殺したが,余復たも孫夏を奉じて帥を為すと,還って宛に駐屯した。朱儁は之を急いで攻め,司馬の孫堅がを率いて先ず登った;癸巳,宛城を抜いた。孫夏は走ったが,朱儁は追って西鄂の精山に至ると,西鄂県は,南陽郡に属する。賢曰:故城は今のケ州向城県南に在る;精山は其の南に在る。復たも之を破り,万余級を斬った。是に於いて黄巾は破れて散り,其の余りは州郡が誅する所であった,一郡につき数千人である。

17十二月,己巳,天下を赦し,改元した。

-1876-

18豫州刺史で太原出身の王允は黄巾を破ると,張讓の賓客の書を得た,黄巾と交わり通じたものであったため,之を上した。上,時掌翻。上は張讓を責め怒った;張讓は叩頭して陳謝したため,竟に亦た罪とすること能わなかった也。張讓は是ゆえに以事中允,中,竹仲翻,中傷也。遂伝下獄,賢曰:伝,逮也。伝,株戀翻。下,遐稼翻。赦しに会って,還って刺史と為った;旬日間にして,復た他罪を以って捕われるを被った。被,皮義翻。楊賜は使うに更めて楚辱させようとは欲しなかった,賢曰く:更とは,経である也。楚は,苦痛である。更,工衡翻。客を遣わすと之に謝させて曰く:「君は張讓之事を以ってして,故に一月して再び徴された,凶慝は量り難し,量,音良。幸にも深計を為されんことを!」賢曰く:深計とは,自ら死ぬよう令したことを謂う。諸従事で気決を好む者が,好,呼到翻。共に流涕して薬を奉り而して之を進めてきた。王允は声を獅オて曰く:「吾は人臣と為っているのだ,君に於いて罪を獲たなら,当に大辟に伏して以って天下に謝すべきである,辟,亦翻。豈に乳薬を有して死を求めんか乎!」前書の王嘉伝で:何をか謂わんや薬を咀して而して死せとは。乳,当作咀。杯を投げつけると而して起って,出て檻車に就いた。既に至ると,【章:甲十一行本「至」下有「廷尉」二字;乙十一行本同;孔本同;張校同;退斉校同。】大将軍の何進と楊賜、袁隗が共に上疏して之を請うたため,死を減じるよう論ぜられることを得られた。考異に曰く:王允伝には云うに「太尉の袁隗、司徒の楊賜」とある。按ずるに袁隗、楊賜は時に皆此官に為っていなかった,恐らくは誤りであろう。

二年(乙丑、一八五)

1春,正月,大疫があった。

2二月,己酉,南宮の雲台に災いあった。庚戌,楽城門に災いあった。続漢志に拠れば:蓋し楽成は殿の門である也。「城」は,当に「成」と作るべきである。五行志では「楽城門」と作る。劉昭曰く:南宮中門である也。

中常侍の張讓、趙忠は帝に天下の田から,十銭を斂し,説,輸芮翻。斂,力贍翻。,古畝字。以って宮室を修繕させ,銅人を鋳造させるよう説いた。楽安太守の陸康が上疏して諫めて曰く:「昔魯の宣(公)に税をかけたところ而して蝝災が自ずと生じました,公羊伝に曰く:初めて畝に税をかけたとは何なのか?畝を履けば而して税をかけられたということである也。

-1877-

何休の註に云うことには:宣公は人に於ける恩信無く,人は公田に於いて力を尽くすことを肯んじなかった,起履踐案行其畝,穀好者税取之。蝝,螽子也。伝曰:冬,蝝生。此其言蝝生何?上変古易常也。註云:上,公上。謂宣公変易公田旧制而税畝也。蝝,余專翻。哀公が賦を増すと而して孔子は之を非としました,左伝季孫欲以田賦,使冉有訪諸仲尼,仲尼私於冉有曰:子季孫若欲行而法,則周公之典在;若欲苟而行,又何訪焉!豈に民物を聚奪して以って無用之銅人を営ませること有るものでしょうか,聖戒を損ない捨てて,自ら王之法を蹈亡させるものではありませんか哉!」内倖<宦官など皇帝の傍に仕える寵臣>が陸康は亡国(の言葉を)援引(引用)して以って聖明に譬えている,援,于元翻。大いに不敬であると譖言したため,檻車で徴されて廷尉に詣でることになった。侍御史の劉岱が解釋を表陳したため,免れて田里に帰るを得た。陸康は,陸続の孫である也。陸続について,事は四十五巻明帝永平十四年に見える。

又州郡に材木文石を徴発し,京師に部送するよう詔があった。黄門常侍輒令譴呵不中者,因強折賤買,僅得本賈十分之一,中,竹仲翻。賈,読曰價。因復貨之,宦官【張:「宦官」作「中者」。】復不為即受,材木遂至腐積,宮室連年不成。刺史、太守復増私調,復,扶又翻。調,徒弔翻。百姓呼嗟。又令西園騶分道督趣,騶,側尤翻。趣,読曰促。恐動州郡,多受賕賂。刺史、二千石及び茂才、孝廉は遷除のさいには,皆助軍、脩宮銭を責とされ,大郡は二三千万に至り,余りは各々差が有った。当之官にある者は,皆先ず西園に至って諧價してから,然る後に得て去った;賢曰:諧,謂平定其價也。其の清きを守った者は不之官たるを乞うたが,皆迫って之を遣わした。時に鉅鹿太守で河内出身の司馬直は新たに叙任されたが,以って清名有ったため,減責すること三百万とされた。司馬直は詔を被ると,悵然として曰く:「民の父母に為ろうとして而して反って百姓を割剥することになるのに以って時が求めていると称えられるなど,被,皮義翻。称,尺證翻。吾は忍びない也。」疾だと辞したが;聴きいれられなかった。そこで行って孟津に至ると,上書して当世之失を極陳すると,即ち薬を呑んで自殺した。書が奏されると,帝は為して暫く脩宮銭を絶った。為,于偽翻。

3朱儁を以って右車騎将軍と為した。

-1878-

4張角の乱自り,所在(さまざまなところで)盗賊が並び起った,博陵の張牛角、常山の褚飛燕及び黄龍、左校、于氐根、張白騎、劉石、左髭文八、【張:「文」作「丈」。】平漢大計、司隸縁城、雷公、浮雲、白雀、楊鳳、于毒、五鹿、李大目、白繞、眭固、苦蝤の徒といったものたちで,数えることができないほどであった,朱儁伝に曰く:軽便なる者は飛燕と言う。于氐根は,賢註曰く:左伝に曰く:于思于思。杜預が云うには:于思とは,多須之貌。白馬に騎乗した者は張白騎と為った。大声者は雷公を称した。大眼者は大目と為った。「左髭文八」は「左髭丈八」と作る。校,戸教翻。騎,奇寄翻。眭,息隨翻。蝤,才由翻。勝,音升。大きなものは二三万,小さなものは六七千人であった。

張牛角、褚飛燕が軍を合わせて癭陶を攻めた,癭,於郢翻。牛角が流矢に中り,中,竹仲翻。且つ死んだが,其に令して飛燕を奉じて帥を為すようとのことだったため,帥,所類翻。張姓に改めたのである。飛燕は名を燕といい,軽勇趫捷であった,故に軍中では号して曰く「飛燕」としたのである。趫,丘妖翻。山谷の寇賊は多くが之に附き,部寖広,殆んど百万に至って,黒山賊を号した,杜佑曰:県,漢朝歌県也。紂都朝歌,在今県西。県西北有K山。河北諸郡県は並んで其の害を被った,被,皮義翻。朝廷は討つこと能わなかった。張燕は乃ち使いを遣わして京師に至らせると,書を奉じて降らんことを乞うた;降,戸江翻。遂に張燕を拝して平難中郎将とし,難,乃旦翻。使って河北諸山谷の事を領させると,歳ごとに孝廉、計吏を挙げることを得させた。

5司徒の袁隗が免じられた。隗,五罪翻。三月,廷尉の崔烈を以って司徒と為した。崔烈は,崔寔の従兄である也。崔寔作政論。従,才用翻。

是時,三公(の官位)は往往にして常侍、阿保に因って西園に銭を入れて而して之を得ていた,賢曰く:阿保とは,謂うに傅母のことである也。余りは阿母とは,保母を謂う也。段熲、張温等は功有って名誉に勤しんだと雖も,熲,古迥翻。然るに皆先ず貨財を輸して,乃ち公位に登ったのである。崔烈は傅母に因って銭五百万を入れ,故に司徒と為るを得たのである。日を拝するに及んで,天子が軒に臨み,百僚が畢会すると,帝は顧みて親幸者に謂いて曰く:「悔いるのは少靳でなかったことだ,千万に至る可きとは!」賢曰く:靳とは,

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之を固めることである也,居翻。程夫人が傍に於いて応じて曰く:「崔公は,冀州の名士ですのに,豈に買官を肯うとは!我をョって是を得るとは,反って姝を知らないというものです邪!」賢曰く:姝は,美である也。反って斯くの事之美を知らないことを言う也。姝,春朱翻。崔烈は是ゆえに声誉が頓(座)し衰えることになった。

6北宮伯玉等が三輔を寇したため,左車騎将軍の皇甫嵩に詔をくだして長安を鎮めさせ以って之を討たせた。

時に涼州では兵乱が止まず,天下に役賦を徴発して已むこと無かったため,崔烈は以って為すに宜しく涼州を棄てるようにとした。会するよう詔あって公卿百官が之を議したところ,議郎の傅燮が詞セして曰く:「司徒を斬れ,天下は乃ち安からん!」尚書が傅燮は大臣を廷辱した(朝廷で辱めた)と奏上した。帝が以って傅燮に問うと,対して曰く:「樊噲は冒頓が悖逆であることを以って,憤激し思奮しました,未だ人臣之節を失わなかったものですが,季布は猶も曰く『噲は斬る可きだ也』としたのです。事は十二巻惠帝三年に見える。今涼州は天下の要衝でありまして,国家の藩というものです。高祖が初め興ったおり,酈商を使って別に隴右を定めさせました;高祖は将軍の酈商を以って隴西都尉と為すと,別に北地郡を定めさせた。世宗が境を拓き,四郡を列置いたしましたがこれは,武帝元狩二年,匈奴の渾邪王が降った。太初元年,酒泉、張掖郡を置いた。四年,休屠王の地を以って武威郡と為した。後元年,酒泉郡を分けて敦煌郡を置いた。議者が以って為すに匈奴の右臂を断つことだとしたものなのです。断,丁管翻。今牧が失和を御して,一州を使って叛逆しております;崔烈は宰相と為っておるのに,不念為国思所以弭之之策(国の為を念じず(思わず)思うのは以って弭之の策とする所),為,于偽翻。乃ち一方万里之土を割き棄てようと欲しています,臣は竊いますが之に惑うものです!若し左之虜を使って此地に居ること得させてしまいましたなら,説文曰:,衣衿。夷狄之人左(その)士は勁く甲は堅いため,因って以って乱を為すことでしょう,此は天下が至慮するもので,社稷が深く憂うるものです也。若し(そうしたことを)崔烈が知らないというのなら,是は蔽を極めたものです也;知りながら而して故に言ったというなら,是は不忠であります也。」帝はして而して之に従った。

7夏,四月,庚戌,大雨雹があった。雨,于具翻。

8五月,太尉のケ盛が罷めた;太僕で河南出身の張延を以って太尉と為した。

9六月,張角を討った功を以って,中常侍張讓等十二人が封じられて列侯と為った。

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10秋,七月,三輔に螟があった。説文に曰く:螟とは,蟲で穀葉を食べるものである。

11皇甫嵩が張角を討つや也,鄴を過ぎたおり,中常侍趙忠の舍宅が制(定められた制度を超えたもの)であるのを見たため,之を没収するよう奏上した。又中常侍の張讓が銭五千万を私ごとで求めてきたが,皇甫嵩は与えなかった。二人は是ゆえに皇甫嵩は連戦しても功が無く,費した所のものが多い,皇甫嵩を徴して還し,左車騎将軍の印綬を収めさせて,戸六千を削るよう奏上した。綬,音受。八月,司空の張温を以って車騎将軍と為すと,執金吾の袁滂を以って副と為し,以って北宮伯玉を討たせた;中郎将の董卓を拝して破虜将軍と為し,盪寇将軍の周慎と並んで張温に於いて統めさせた。

12九月,特進を以って楊賜を司空と為した。冬,十月,庚寅,臨晉文烈侯楊賜が薨じた。光祿大夫の許相を以って司空と為した。許相は,許訓之子である也。建寧二年,許訓は司徒と為った。

13諫議大夫の劉陶が上言した:「天下は前に張角之乱に遇い,後に辺章之寇に遭い,今また西羌の逆類が已に河東を攻めております,恐れますことは遂に盛んに転じて,豕突して上京してくることです。河東は東南へむかえば洛陽に至る五百里である耳。民には百走退死之心が有るというのに,而して前には生之計が一つも無い,西寇が前を浸せば,車騎は孤り危うく,車騎とは,張温を謂う也。令を假して利を失えば,其の敗(北)は救えません。臣自知言数見厭,数,所角翻。而言不自裁者,以為<おもえらく>国が安かれば則ち臣は其の慶びを蒙り,国が危うければ則ち臣も亦た先んじて亡ぶものです也。謹しんで当今の要急八事を復陳いたします。」復,扶又翻。大いに較言して天下の大乱は,皆宦官にゆえあるのだとした。宦官は共に劉陶を讒言して曰く:「前に張角の事が発(覚)すると,詔書で以って威恩を示しました,此自り以来,各各が改めて悔いたのです。今では四方は安静でありますのに,而して劉陶は聖政を疾<にく>み害い,妖孽を言うことを専らにしています。妖,於驕翻。孽,魚列翻。州郡が上しないでいるのに,上,時掌翻。劉陶は何の縁あって知っているというのでしょう?疑いますのは劉陶は賊と情を通じさせているのではないかということです。」是に於いて劉陶を収めると黄門北寺獄に下したが,掠按すること日に急であった。下,遐稼翻。掠,音亮。劉陶は使者に謂いて曰く:「臣が恨むのは伊、呂と疇を同じくしなかったことだ,而しながら三仁を以って(吾が)輩<ともがら>と為(して心の慰みにな)そう。孔子曰く:殷に三仁有り焉:微子は之を去り,箕子は之に奴と為り,比干は諫めて而して死んだ。今や上は忠

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謇之臣を殺し,下には憔悴之民が有る,悴,秦醉翻。(とすれば)亦た(この王朝が)在るのは久しからず,後悔して何をか及ばん!」遂に閉気して(窒息)而して死んだ。前の司徒であった陳耽は為人が忠正であったため,宦官は之を怨んでおり,亦た誣され陥れられ,獄中で死んだ。

14張温は諸郡の兵歩騎十余万を将いて美陽に駐屯し,美陽県は,扶風に属する。賢曰:今の雍州武功県北である。杜佑曰:美陽は本は前漢の頻陽県である。辺章、韓遂も亦た兵を美陽に進め,張温と戦ったが,輒ち不利となった。十一月,董卓と右扶風(出身)の鮑鴻等が兵して辺章、韓遂を攻め,之を大破した,辺章、韓遂は楡中に走った。楡中県は,金城郡に属する。賢曰:故城は今の蘭州金城県東に在る。杜佑曰く:蘭州の治所は五泉県にある,漢(代)の楡中故城は今の県の東にある。

張温は周慎を遣わし三万人を将いさせて之を追わせた。参軍事の孫堅は周慎に説いて曰く:「賊の城中には穀が無く,当に外から糧食を転じています,わたし堅に願わくば万人を得させて其の運道を断たせてください,参軍事之官は,此に於いて始め見える。杜佑曰く:漢の靈帝時に,陶謙が,幽州刺史,参司空、車騎将軍張温軍事であった。時に孫堅も亦た参軍と為った。晉時,軍府は乃ち官員を置為した。説,輸芮翻。断,丁管翻;下同。将軍は大兵を以って後ろから継がれれば,賊は必ずや困乏するでしょう而して敢えて戦おうとせず,走って羌中に入ろうとするでそうから,力して之を討てば,則ち涼州は定めること可のうでしょう也!」周慎は従わず,軍を引きつれて楡中城を囲んだ,而して辺章、韓遂は葵園峽に分屯すると,反って周慎の運道を断ったため,周慎は懼れ,車重を棄てて而して退くことになった。重,直用翻。

張温は又使って董卓に兵三万を将いさせて先零羌を討たせた,零,音憐。羌、胡は望垣北に於いて董卓を囲み,望垣県は,漢陽郡に属する。陳寿三国志に曰く:望垣とは,峽名であるとある。糧食は乏しく絶えたため,乃ち於所渡水中立【章:甲十一行本「立」上有「偽」字;乙十一行本同。】W(水中を渡ろうとする所に於いて堰を立てたが)以って魚を捕らえるのだと(誤魔化)して,而して(その実)W下を潛従して軍を過ごさせた。賢曰く:続漢書では,「W」字は「堰」と作る,其の字義は則ち同じである,但だ異體であるだけである耳。比賊が之を追ったところ,比,必寐翻。決水されていて已に深く,渡るを得ず,遂に還って扶風に駐屯した。

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張温は詔書を以って董卓を召したが,董卓は良く久しくして乃ち張温に詣でた;張温は董卓を責讓したが,董卓の応対は不順なものであった。孫堅は(目の)前で耳うちし語りかけて張温に謂いて曰く:耳語とは,耳に附けて而して語ることである也。「董卓は罪を怖れていません怖,普布翻。而して鴟張大語しております,宜しく召あったのに至ったのが不時であったことを以って,軍法を陳べて之を斬られますよう。」張温曰く:「董卓は素より河、隴之間に於いて威名を著している,今日之を殺せば,西は無依を行うだろう。」孫堅曰く:「明公は親しく王師を率いられ,天下に威を震わしております,何で董卓をョむのですか!董卓が言う所を観ますと,明公に假さず,上を軽んじて無礼です,一つめの罪です也;辺章、韓遂が跋扈すること年を経ておりまして,当に時を以って(時が過ぎるのを惜しんで)進んで討つべきです,而しながら董卓は未だ可からずと云い,軍を沮してを疑わせています,二つめの罪です也;沮,在呂翻。董卓は任を受けながら功が無く,召に応じながら留まらんことを稽えており,而して軒昂にして自ら高しとしています,三つめの罪です也。古之名将が仗鉞もてに臨んだおりに,未だ斬ることを断じないで以って成功した者は有りません也。今明公は董卓に於いて意を垂され,垂意,猶言降意也。断,丁乱翻。即(座)に誅を加えられない,威刑を虧損するというのは,是に於いて在るのです矣。」張温は(命令を)発すること忍びず,乃ち曰く:「君よ且つ還りたまえ,董卓が将に(今にも)疑人(こちらのことを疑おうとしている)。」孫堅は遂に出た。

15是歳,帝は西園に於いて万金堂を造ったが,司農の金銭、鋤蛯引きこむと堂中に牣積した,賢曰:牣,満也。復た小黄門、常侍の家銭各数千万を寄せて藏し,復,扶又翻。又河間に於いて田宅を買い,第観を起てた。帝は故は河間の解瀆亭侯に封じられていた。観,古玩翻。

三年(丙寅、一八六)

1春,二月,江夏の兵の趙慈が反し,夏,戸雅翻。南陽太守の秦頡を殺した。

2庚戌,天下を赦した。

3太尉の張延が罷めた。使者に持節させて遣わし長安に就けると張温を拝して太尉と為した。三公が在外するのは張温に於いて始まる。

4中常侍の趙忠を以って車騎将軍と為した。帝は使って趙忠に黄巾を討った功を論じさせたところ,執金吾の甄挙が趙忠に謂いて曰く:甄,之人翻。「傅南容が前に東軍に在ったおり,功有ったのに不侯(侯になっていませんでした),傅燮は,字を南容という。不侯の事は上年に見える。そのため天下は失望したのです。今将軍は親しく重任に当たっています,宜しく賢を理

-1883-

屈のまま進め,以って心に副われんことを。」趙忠は其の言を納れ,弟で城門校尉の趙延を遣わすと傅燮に於いて殷勤を致すことにした。趙延は傅燮に謂いて曰く:「南容よ我が常侍に少答なのは,(注:感謝の気持ちを表現すること、または返礼の財物が少ないことを言っている)少,詩沼翻。万戸侯では得るに不足なのか也!」傅燮は色を正して之を拒んで曰く:「功が有っても論じられないのは,命(運命、天命)だったのだろう也。この傅燮豈に私賞を求めるものだろうか哉!」趙忠は愈懐恨(恨みを懐いたが),然るに其の名を憚って,敢えて害そうとせず,出して漢陽太守と為した。考異曰:袁紀では明くる年の九月のこととして在る。今は范書に従う。

5帝は鉤盾令の宋典を使って南宮の玉堂を修繕させると,南宮には玉堂殿が有った。又掖庭令の畢嵐を使って四銅人を鋳造させ,又四鐘を鋳造させたが,皆二千斛を受けるものであった。賢曰:銅人は倉龍、玄武闕外に於いて列せられた。鐘は雲台及び玉堂殿前に懸けられた。又天祿、蝦蟆を鋳造して平門外にある橋の東に於いて水を吐かせると,水を転じて宮に入れた。賢曰:天祿は,獣である也。按ずるに今のケ州南陽県北に宗資碑が有り,旁に両石獣が有る,鐫其膊,一つは曰く天祿,一つは曰く辟邪である;此が即ち天祿、辟邪,並んで獣名である也。漢には天祿閤が有り,亦た獣に因って以って立名したのであろう。又翻車、渇烏を作ると,橋の西に於いて施し,南北郊路を灑<そそ>ぐのに用い,賢曰:翻車とは,機車を設けて以って水を引きこむものである。烏とは,曲桶を為し,気を以って水を上に引きこむものである也。車,尺遮翻。以って為すに百姓が灑道につかう費を省くことができるようにした。

6五月,壬辰晦,日食が有った。

7六月,荊州刺史の王敏が趙慈を討って,之を斬った。

8車騎将軍の趙忠が罷めた。

9冬,十月,武陵蛮が反し,郡兵が討って之を破った。

10前の太尉の張延が宦官の譖(言)する所と為り,獄に下されて死んだ。

11十二月,鮮卑が幽、二州を寇した。

12張温を徴して京師に還した。

-1884-

四年(丁卯、一八七)

1春,正月,己卯,天下を赦した。

2二月,滎陽の賊が中牟の(県)令を殺した。中牟県は,河南尹に属する。賢曰く:今の鄭州県である。三月,河南尹の何苗が滎陽の賊を討って,之を破った;何苗を拝して車騎将軍と為した。

3韓遂が辺章及び北宮伯玉、李文侯を殺し,兵十余万を擁すると,進んで隴西を囲んだ,太守の李相が叛いた如くして,韓遂と連和した。

涼州刺史の耿鄙が六郡の兵を率いて韓遂を討った。耿鄙は治中として程球を任じたが,百官志:州刺史置従事史,員職略与司隸同,無都官従事;其功曹従事為治中従事,主州選署及事。程球は姦と通じて利をむさぼったため,士民は之を怨んだ。漢陽太守の傅燮が耿鄙に謂いて曰く:「使君は統政して日も浅く,民は未だ教えを知りません。賊は大軍が将に至らんとしていると聞くと,必ずや万人が心を一つにすることでしょう,辺(境の)兵は多くが勇ましく,其の(鋭)鋒は当たるに難いものです;而しながら新合之,上下が未だ和んでいません,万一内に変があれば,悔いると雖も及ぶこと無いでしょう。軍を息つかせて徳を養うに若かず,明賞必罰とすれば,賊は挺を得て,賢曰く:挺,解也,又緩也。必ず我らが怯えていると謂うでしょう,惡が勢いを争えば,其の離れるのは必ずとなる可きもの。然る後に已に教えられた民(教化の成った民)を率い,(互いの心が)離ればなれに成った賊を討つ,其の功は坐して而して待つ可きものといえましょう也!」耿鄙は従わなかった。夏,四月,耿鄙が行って狄道に至ると,州の別駕が反って賊に応じ,別駕従事は,刺史が行部する,則奉引録事。先ず程球を殺すと,次に耿鄙を害し,賊は遂に進んで漢陽を囲むことになった。城中では兵は少なく糧は尽きていたが,傅燮は猶も固守していた。

時に北地胡騎数千が賊に随って郡を攻めていたが,皆傅燮のかけた恩を夙懐しており,共に城外に於いて叩頭すると,傅燮を郷里に帰すよう送りたいと求めてきた。傅燮,北地靈州人。傅燮の子の傅幹は,年十三であった,傅燮に於いて言って曰く:「国家は昏乱しておりますのに,遂令大人不容於朝(朝廷では結局これを受け入れないよう父君に令することでしょう)。朝,直遙翻。今や兵は以って自らを守るには足りません,宜しく羌、胡之請うことをお聴きいれになって,郷里に還りましょう,徐俟有道而輔之(それから徐に有道(道が行われるの)を俟<ま>って而して之を輔ければいいでしょう)。」言うのが未だ終わらないうちに,傅燮は慨然として歎じて曰く:「汝は吾が必ず死なんとしているのを知っているか邪!聖なりしは

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節に達すること,次いでは節を守ることだ。左伝:曹公子臧曰く:「聖なりしは節に達する,次は節を守る,下は節を失うことだ。」殷の紂王は暴虐であったが,伯夷は周の粟を食わずして而して死んだ。吾は世が乱れるのに遭って,浩然之志を養うこと能わなかった,(それなのにそのうえ)祿を食んだまま,又其の難を避けようと欲するなど乎!難,乃旦翻。吾行何之(吾は何をか之を行わん),必ずや此に於いて死なん!汝には才智が有る,之を勉めよ之に勉めよ!主簿の楊会は,吾の程嬰である也。」史記:趙朔娶晉成公姊為夫人。晉景公三年,屠岸賈殺趙朔,滅其族。朔妻有遺腹,走公宮。朔客公孫杵臼謂客程嬰曰:「胡不死?」嬰曰:「朔之婦有遺腹,即幸而生男,吾奉之;即女也,吾徐死耳!」居無何,朔妻生男。屠岸賈聞之,乃索於公宮。朔妻置兒於中,祝曰:「趙宗滅乎,若啼;即不滅,若無声。」及索兒,竟無声。程嬰曰:「今一索不得,後必復索之。」杵臼乃取他嬰兒,負之匿山中。諸将攻殺杵臼兒,然趙孤兒乃在程嬰所,即趙武也。居十五年,景公乃立趙武為卿,而復其田邑。

狄道の人である王国は故の酒泉太守の黄衍を使って傅燮に説かせて曰く:「天下は已に漢の有するところに復することはない,府君は寧ろ吾が属帥と為る意を有してくれまいか乎?」帥,所類翻。傅燮は按劍して黄衍を叱ると曰く:「剖符之臣の若きが,反って賊説を為そうとは邪!」遂に左右を麾して兵を進めると,陳<陣>に臨んで戦歿した。説,輸芮翻。為,于偽翻。陳は,読むに曰く陣である。考異に曰く:袁紀では明くる年五月のこととして在る。今は范書に従う。耿鄙の司馬で扶風出身の馬騰も亦た兵を擁して反し,韓遂と合わさって,共に王国を推して主と為すと,三輔を寇掠した。

4太尉の張温は寇賊が未だ平らげられないことを以って,免じられた;司徒の崔烈を以って太尉と為した。五月,司空の許相を以って司徒と為し;光祿勳で沛国出身の丁宮が司空と為った。

5初め,張温は幽州烏桓突騎三千を徴発して以って涼州を討たせようとした,故の中山相で漁陽出身の張純が之を将いたいと請うたが,張温は聴きいれず,而して涿の(県)令で遼西出身の公孫瓚を使って之を将いさせた。涿郡は,涿県を治める。瓚,藏旱翻。軍が薊中に到ると,烏桓以牢稟逋県(烏桓は糧食が少なかったことを以って懸<を逋<のが>れようとし),県は,読むに曰く懸。牢,價直也。稟,

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給也。賢曰く:前書の音義では:牢は,廩食ということである也。古には廩と名づけるに牢と為した。多くが叛いて本国に還った。張純は将いることを得なかったことに忿り,将,即亮翻。乃ち同郡出身で故の泰山太守の張挙及び烏桓大人の丘力居等と連盟して,薊中を劫略すると,薊,音計。護烏桓校尉の公綦稠、公綦は,複姓である。右北平太守の劉政、遼東太守の陽終等を殺した。は十余万に至り,肥如に駐屯した。肥如県は,遼西郡に属する。応劭曰く:肥子が燕に奔ってきたため,燕が此に於いて封じたのである。賢曰く:故城は今の平州にある。張挙は天子を称し,張純は彌天将軍、安定王を称し,書を州郡に移して,張挙こそ当に漢に代わるべしと云い,天子に告ぐ、位を避けよとすると,公卿に奉迎するよう敕した。

6冬,十月,長沙の賊である區星が将軍を自称し,區,烏侯翻,姓也;又如字。考異曰:范書作「観鵠」,今従陳寿志。万余人をした;詔あって議郎の孫堅を以って長沙太守と為すと,之を討ち撃って平げたため,孫堅を封じて烏程侯とした。烏程県は,呉郡に属する。為堅以長沙兵討董卓張本。

7十一月,太尉の崔烈が罷めた;大司農の曹嵩を以って太尉と為した。

8十二月,屠各胡が反した。屠各胡は,即ち匈奴である也。屠,直於翻。

9是歳,関内侯を売った,直五百万銭である。

10前の太丘の(県)長であった陳寔が卒したところ,長,知両翻。海内で弔に赴く者が三万余人となった。陳寔は郷閭に在って,心を平らかに物を率した,其の争訟が有れば,輒ち判正を求め,判,分也,剖也。剖析而見正理也。曲直を曉譬したため,退いても怨む者無かった;至って乃ち歎じて曰く:「寧ろ刑罰が加えられる所と為っても,陳君が短とする所は為さない!」楊賜、陳耽は,公卿を拝する毎に,僚が畢賀すると,輒ち歎じて陳寔が大位に未だ登らないのに,之に先んじたことを愧じた。先,悉薦翻。

容肇祖標點王崇武聶崇岐覆校