-2002-

師古曰く:杼,音食汝翻。胡才、李楽は河東に留まっていた,胡才は怨みもった家のものに殺される所と為り,怨,於元翻。李楽は自ずと病死した。郭は其の将である伍習に殺される所と為った。

14潁川出身の杜襲、趙儼、繁欽は乱を荊州に避けた,繁,音婆。左伝:殷の民は七族,繁氏が有る。西漢には御史大夫の繁延寿が有った。劉表は賓禮を以って倶待した。繁欽が劉表に於いて何度か奇に見えたところ,数,所角翻。見,賢遍翻;下見能同。杜襲は之をして曰く:「吾所以与子倶来者,徒欲全身以待時耳,豈謂劉牧当為撥乱之主而規長者委身哉!長,知両翻。子<きみ>が若し已まざること能うに見えれば,吾が徒に非ず也,吾は子と(関係を)絶つ矣!」繁欽は慨然として曰く:「請敬受命!」曹操が天子を迎えて許に都するに及び,趙儼は繁欽に謂いて曰く:「曹鎮東は必ずや能く華夏を匡済するだろう,夏,戸雅翻;下同(同じきに下らん)。吾は帰しかたを知る矣!」遂に還ると曹操に詣で,曹操は趙儼を以って朗陵の県長と為した。朗陵県は,汝南郡に属する。長,知両翻。

陽安の都尉であった江夏出身の李通の妻の伯父が法を犯した,曹操は汝南を二県に分けて陽安都尉を置いた。趙儼は收治すると,之を大辟に致した。治,直之翻。辟,亦翻。時に殺生之柄は,決するに牧守に於いてであったため,守,式又翻。李通の妻子は号泣して以って其の命を(救ってくれるよう)請うた。号,戸刀翻。利通曰く:「方ずるに(わたしは)曹公と戮力している,義では私を以って公を廃することをしないものだ!」趙儼を嘉すると執憲して阿らず,かれと親交を為した。

三年(戊寅、一九八)

1春,正月,曹操は許に還った。張繡を攻めて而して還ったのである也。三月,将に復た張繡を撃とうとした。復,扶又翻。荀攸曰く:「張繡は劉表と相恃み強きを為しています;然るに張繡は遊軍を以って食を劉表に於いて仰いでいます,仰,牛向翻。劉表が供すること能わないなら也,勢いから必ずや乖離することでしょう。軍を緩めて以って之に待するに如かずというもの,誘って而して致すことできましょう也誘,音酉。若し之に急なことをすれば,其の勢いからいって必ずや相救いあうことでしょう。」曹操は従わず,穰に於いて張繡を圍んだ

-2003-

2夏,四月,謁者僕射の裴茂を使うと,姓譜によると:伯益之後である,郷に封じられたため,因って以って氏と為したのである,後に解邑に徙封されたため,乃ち「邑」を去って「衣」に従った。詔して関中諸将である段煨等に李傕を討たせ,其の三族を夷した(滅ぼした)。董卓之党は,是に於いて尽きたのである矣。煨,烏回翻。傕,古岳翻。段煨を以って安南将軍と為し,闅郷侯に封じた。闅,音旻。

3初め,袁紹は詔書を得る毎に,其の己に於いて便じない者が有ることに患い,天子を自らの近くに移そうと欲し,使いをやって曹操に説いたが以って許下は埤溼であり,近,其靳翻。説,輸芮翻;下同。埤,皮弭翻,又讀与卑同。洛陽は残破しているため,宜しく都を鄄城に徙<うつ>して以って實を全きに就かせようとした;鄄,音絹。曹操は之を拒んだ。田豊は袁紹に説いて曰く:「徙都之計については,既に従うことに克ちませんでした,宜しく早く圖許して,天子を奉迎され,詔書に託して動き,海内に号令されますよう,此は算之上というものです。不爾(そうでなければ),終には人に禽われる所と為って,悔いたと雖も益無きこととなりましょう也。」袁紹は従わなかった。

会紹亡卒詣操,田豊が袁紹に許を襲うよう勧めたと云われ,曹操は穰の圍みを解いて而して還ろうとした,還,従宣翻,又如字。張繡はを率いると之を追いかけた。五月,劉表は兵を遣わして張繡を救いにでると,安に於いて駐屯し,險を守ると以って(曹操の)軍の後ろを絶った。水経註では:梅溪水は南陽の宛県にある北紫山を出て,杜衍県の東を南に逕る,土地は墊下となり,湍溪は是に注ぐ,古人は安に於いて之を堨し,令遊水是瀦,之を謂うに安港であるという。郡国志では,南陽郡に安侯国が有る。曹操は荀ケに書を与えて曰く:「吾が安に到れば,張繡を破ること必ずあろう矣。」安に到るに及び,曹操の軍は前後に敵を受けたが,曹操は乃ち夜に險を鑿って遁れたと偽った。劉表、張繡は悉く軍して追って来たが,曹操は奇兵を縦にして歩騎で夾攻すると,之を大いに破った。他日して,荀ケが曹操に問うた:「前の策では賊は必ず破れるとありましたが,何ででしょうか也?」曹操曰く:「虜は吾が帰師を遏して,而して吾に死地を与えた,兵法に曰く:帰師は遏する勿れ。又曰く:之を死地に置けば而して後に生きるものである。吾は是で以って勝ちを知ったのだ矣。」

張繡が曹操を追うや也,賈詡は之を止めようとして曰く:「追う可きではありません也,追えば必ずや敗れます。」張繡は聴きいれず,兵を進めて交戦したが,大敗してしまい而して還ってきた。賈詡は登城すると張繡に謂いて曰く:「之を更めて追うよう促してください,更めて戦えば必ず勝ちます。」張繡は謝すと曰く:「公の言を用いず,以って此に於いて至ったのだ,今や已に敗れたのに,柰は何で復追えとするのか?」復,

-2004-

扶又翻;下同。賈詡曰く:「兵勢は変有るもの,之を追うよう促してください!」言うに兵勢に常無し,其の変を審らかに知れば,則ち敗れたことに因って而して勝ちを為すものだ。張繡は素より賈詡の言うことを信じ,遂に散卒を収めると更めて追いかけ,合戦したが,果たして以って勝って還ってきた。此は亦小勝であっただけである耳。そのため乃ち賈詡に問いかけ曰く:「この張繡は精兵を以って退く軍を追いかけたのに而して公は曰く必ず敗れるとし,敗れた卒を以って勝った兵を撃とうとしたのに而して公は曰く必ず克つとした,悉く公の言の如くなったのだが,何でなのか也?」賈詡曰く:「此は知るのに易いものです耳。易,以豉翻。将軍は用兵にしていると雖も,曹公の敵ではありません也。曹公の軍が新たに退くとき,必ず自ら後ろを断とうとするでしょう,断,丁管翻;下同。故に必ず敗れると知ったのです。曹公は将軍を攻めましたが,既に(別段)失策など無く,力は未だ尽きずして而して一朝にして引き退いたのです,これは必ず国内に故(理由)の有る(撤退な)のでしょう也。有故,謂有変也。已に将軍を破ったからには,必ず軍を軽くし進むのを速めます,諸将を留めて後ろを断つでしょうが,(曹操の)諸将は勇であると雖も,将軍の敵ではありません,故に敗兵を用いたと雖も而して戦えば必ず勝ったのです也。」張繡は乃ち(心)服した。

4呂布が復たも袁術と通じ,其の中郎将である高順及び北地太守で鴈門出身の張遼を遣わして劉備を攻めた;呂布は張遼を以って北地太守を遙領させたのである耳。曹操は将軍の夏侯惇を遣わして之を救わせたが,高順等に敗れる所と為った。敗,補邁翻。秋,九月,高順等は沛城を破ると,劉備の妻子を虜とし,劉備は単身走った。

曹操は自ら呂布を撃とうと欲したため,諸将は皆曰く:「劉表、張繡が後ろに在るというのに,而して遠く呂布を襲おうとなさる,其の危うきは必ずしょう也。」荀攸曰く:「劉表、張繡は新たに破られ,勢いからして敢えて動きはしません。呂布は驍猛ですし,又袁術を恃んでいます,若し淮、泗の間で縦横すれば,驍,堅堯翻。従,子容翻。豪傑は必ず之に応じることでしょう。今其の叛いた初め,心が未だ一つでないことに乗じて,往って破る可きでしょう也。」曹操曰く:「!(その通りだ!)」比行(はたしてそのように行動すると),泰山の屯帥である臧霸、孫観、呉敦、尹礼、昌豨等は皆呂布に附いた。比,必寐翻。帥,所類翻。豨,許豈翻,又音希。史言攸料敵之審。姓譜では:昌姓は,昌意之後である。曹操は劉備と梁に於いて遇うと,進んで彭城に至った。陳宮は呂布に謂い:「宜しく之を逆撃しましょう,逸を以って労を待てば,克たないことは無いものです也。」呂布曰く:「其の来るを待つに如かず,泗水の中に蹙著しよう。」著,直略翻。冬,十月,曹操は彭城を屠った。広陵太守の陳登は郡兵を率いると曹操の先驅と為り,進んで下邳に至った。呂布は自ら屢を将いると曹操と戦ったが,皆大敗したため,将,即亮翻。還って城を保つと,敢えて出ようとしなかった。

-2005-

曹操は呂布に書を遣わして,禍福を陳べる為した;遺,于季翻。為,于偽翻。呂布は懼れて,降ろうと欲した。降,戸江翻。陳宮曰く:「曹操は遠くから来ています,勢いからして久しいこと能わないでしょう。将軍が若し歩騎を以って外に於いて出て駐屯すれば,わたし宮が余を将いて内に於いて閉守しましょう,若し将軍に向かえば,わたし宮が兵を引きつれて而して其の背を攻めます;若し但たんに城を攻めてくるなら,則ち将軍が外に於いて救うのです。旬月を過ぎずして,曹操軍の食は尽きるでしょうから,之を撃てば,破ることできましょう也。」呂布は之を然りとし,陳宮と高順を使って城を守らせ,自らは騎を将いて曹操の糧道を断とうと欲した。断,丁管翻。(それを聞くと)呂布の妻は呂布に謂いて曰く:「陳宮、高順は素より不和です,将軍が一に出てしまったなら,陳宮、高順は必ずや心を同じくして共に城を守ることないでしょう也,蹉跌有る如きです,蹉,昌何翻。跌,徒結翻。将軍は当に何に於いて自立するというのです乎!且つ曹氏は公台を恃むこと赤子の如しでした,それなのに猶も舍して而して我<こちらに>帰したのです。陳宮は字を公台という;呂布に帰した事については,上卷の興平元年に見える。舍,讀曰捨。今将軍は公台に厚くあること曹氏に過ぎるものではありません,而して(それなのに)城を全く委ね,妻子を捐し,孤軍で遠くに出ようと欲しています,若し一旦変が有りましたなら,妾豈得復為将軍妻哉(妾<わたし>はどうして復将軍の妻と為ること得られましょうか)!」復,扶又翻;下同。それで呂布は乃ち止めた;其の官属である許、王楷を潛め遣わすと袁術に救いを求めさせた。,音祀。袁術曰く:「呂布は我に女<むすめ>を与えなかった,理めてみると自ずと敗れるに当たって,何で復来るようなことに為ったのか?」許、王楷は曰く:「明上におかれましては今呂布を救わずにいれば,自らが敗れることに為るだけです耳;呂布が破れましたなら,明上も亦(曹操によって)破れることになりましょう也。」袁術は時に僭号していたため,故に之を称えるに明上と為したのである。袁術は乃ち厳兵する(軍勢を整える)と呂布に声援を作るようにした。呂布は袁術のところに女<むすめ>が至らないことに為ったために,故に救いの兵が遣わされなくなることを恐れ,|纏を以って女<むすめ>の身を縛って馬上に著すと,夜自ら女を送りだしに出たが,曹操の守兵が相觸して,格射してきたため過ぎること得られず,復城に還った。為,于偽翻。著,直略翻。射,而亦翻。

河内太守の張楊は素より呂布としていたため,之を救おうと欲したが,能わなかったため,乃ち兵を東市に出すと,野王県の東市である也。遙為之勢とした(遙かかなたから救援の形勢をつくってみせた)。十一月,張楊の将であった楊醜が張楊を殺して以って曹操に応じたが,別将の眭固が復たも楊醜を殺すと,眭,息隨翻。其のを将いて北に袁紹と合わさろうとした。張楊の性は仁和であったため,刑で威嚇すること無く,下人の謀反が発覚しても,之に対して涕泣して,輒ち原して(解放して)不問とした,故に難に及ぶことになったのである。難,乃旦翻。

曹操は掘塹して下邳を圍んだが,積もること久しく,士卒は疲敝して,還ることを欲していた。荀攸、郭嘉は曰く:「呂布は勇ましいが而して謀が無い,今屢戦して皆北(敗北)し,

-2006-

鋭気は衰えている矣。三軍とは将を以って主と為すもので,将,即亮翻。主が衰えれば則ち軍もまた意を奮うこと無くなるものだ。陳宮は智が有るが而して遲である,今や及んで呂布の気が未だ復せず,陳宮の謀が未だ定まらないうちに,急に之を攻めれば,呂布を拔くことも可である也。」とし乃ち沂、泗を引いて城に灌いだ,泗水は東南に流れて,下邳県の西を過ぎる,沂水は南に流れて,亦た下邳県の西に至ると,而して泗にて南より入る,故に二水を併わせて引き以って城に灌いだのである。水経註では:沂水は下邳県北に於いて,西に流れて分かれて二水と為る:一水は城の北西に於いて南より泗に入り,一水は城の東を巡って屈して県南に従い,亦た泗に注ぐ,之を小沂水と謂う,水上には橋が有る,張良が黄石公と遇った処である也。曹操は此処に於いて沂、泗を引いて城に灌いだのである。月余して,呂布は益々困迫し,考異曰く:范書の呂布伝に云うには「其城に灌いで三月である」とある,魏志伝も亦曰く「之を圍むこと三月である」としている。按じるに曹操は十月を以って下邳に至った,呂布を殺すに及んで,共に一つの季節に在った,三月と言うことはできない。今は魏志の武紀に従う。城に曹操軍の士に謂いて曰く:「卿ら曹が我を相困らせることは無い,我は当に明公に於いて自ら首をさしだそう。」首,式救翻。陳宮曰く:「逆賊曹操に,何でまた明公などと!今日之に降るなど,降,戸江翻;下同。卵に石を投げつける若きものです,豈可得全也(どうして全うすること得られましょうか)!」

呂布の将の侯成は其の名馬を亡くしたが,已んで而して復た之を得たため,諸将が合礼して以って侯成を慶賀した,侯成は酒肉を分けると先ず入って呂布に献じた。呂布は怒って曰く:「この呂布が禁酒しているのに而して卿等は醞釀(酒を醸すのか),それを為すのは酒に因ってこの呂布になにか共謀しようと欲してのことだろう邪!」侯成は忿り懼れた,十二月,癸酉,侯成は諸将の宋憲、魏続等と共に陳宮、高順と執らえ,其のを率いて降った。呂布は麾下とともに白門樓に登った。水経註では:下邳城の南門が白門という名である。宋武の北征記に曰く:下邳城は三重の城である,大城は周四里で,呂布が守った所である也。魏武は呂布を白門に於いて禽えたが,それは大城之門であった也。宋白は曰く:下邳の中城は,南に白樓門を臨む。兵が之を圍むこと急であったため,呂布は左右に令して其の首を取らせて曹操に詣でさせようとしたが,左右は忍び,乃ち下りて降った。

呂布は曹操に見えると曰く:「今日已に往く,天下は定まったな矣。」曹操は曰く:「何をか以って之を言うのか?」呂布曰く:「明公が患う所はこの呂布に於いて過ぎない,今已に服したのだ矣。若しこの呂布に令して騎兵を将いさせ,明公が歩兵を将いれば,天下は定めるに不足だろう也(簡単に定めることができよう)。」将,即亮翻。騎,奇寄翻。顧りみて劉備に謂いて曰く:「玄徳よ,卿は坐して上客と為っており,坐,徂臥翻。我は降って虜と為っている,我を縄縛すること急であるのだ,独り一言もできないのか邪?」曹操は笑って曰く:「虎を縛るのに急でないことは得られないものだ

-2007-

」乃ち命じて呂布の縛りを緩めさせようとした,劉備は曰く:「不可です。考異曰く:獻帝春秋に曰く:「太祖の意は呂布を活かしたいと欲していた,使いに命じて縛させようとしたところ,主簿の王必が趨進してきて曰く:『呂布については,勍虜であるのです也,其の近く外に在ります,可きではありません也。』太祖曰く:『本とうは相緩めたいと欲しているのだが,主簿が復聴きいれないのだ,之は如何したものだろう?』今は范書、陳志に従う。明公は呂布が丁建陽、董太師に事<つか>えたことを見ていないのですか乎!」丁原は,字を建陽という,董卓は,官は太師に至った,呂布は之を皆殺した,事は五十九卷靈帝の中平六年及び六十卷初平三年に見える。曹操は之に頷いた。之に頷くとは,頤を微動して頷き以って之に応じることである。呂布は劉備を目して(睨みつけて)曰く:「大耳兒(この大耳野郎),最叵信(てめえが一番信用できねぇだろうが)!」劉備は自らを顧みると其の耳を見れた,故に然るように云う。叵,普火翻,不可也。洪邁曰く:叵は不可を為す,此は以って切腳稱也。

曹操は陳宮に謂いて曰く:「公台平生自ら智に余り有ると謂っていたが,今や竟に何如なったものだろう!」陳宮は呂布を指差して曰く:「是の子がわたし宮の言を用いなかった,そのため以って此に於けるに至ったのだ。若し其が従うに見えていたら,亦未だ必ずしも禽われと為らなかったろうに也。」曹操曰く:「柰卿<きみ>の老母はどうするのだ?」陳宮曰く:「この陳宮、孝を以って天下を治める者とは人の親を害しないものと聞いている,治,直之翻。老母の存否については,明公に在る,宮に在るのではない也。」曹操曰く:「柰卿<きみの>妻子はどうするのだ?」陳宮曰く:「この陳宮、天下に於いて仁政を施す者とは人の祀を絶やさないものだと聞いている,妻子の存否については,やはり明公に在って,宮に在るのではない也。」曹操は未だ復言しなかった。陳宮は刑に就くことを請うと,遂に出たが,顧みなかった,曹操は之の為に泣涕した(涙を流した),復,扶又翻。為,于偽翻。布、高順は皆之を縊り殺し,首を許の市に伝えた。曹操は陳宮之母を召すと,之を其の身が終えるまで養った,嫁宮女,其家を撫視すること,皆初めに於けるように厚かった。曹操は陳宮之家に厚くしたが而して孔融之嗣を存することには肯わなかった,必ずや陳宮之妻子は,其の為すこと能わざるゆえに保つことできたのだろう也。

前の尚書令であった陳紀、陳紀の子である陳羣は呂布軍の中に在ったが,曹操は皆礼して之を用いた。張遼が其のを将いて降ってきたので,拝して中郎将とした。臧霸は自ら亡匿していたが,曹操は募って捜索して之を得ると,索,山客翻。臧霸を使いとして呉敦、尹礼、孫観等を招かせたため,皆曹操に詣でて降ることになった。曹操は乃ち琅邪、東海を分けて城陽、利城、昌慮郡を為すと,城陽は,西漢のときには王国であった,光武が省き,琅邪に併せ入れた。利城、昌慮の二県は,皆東海に属した。此は蓋し諸屯帥が居った所に因って,而して分けて郡を為したのだろう也。慮,師古音廬。悉く臧霸等を以って守相(郡守、国相)と為した。

-2008-

初め,曹操が兗州に在ったおり,徐翕、毛暉を以って将と為していた。兗州が乱れるに及んで,徐翕、毛暉は皆叛いた。兗州が既に定まると,徐翕、毛暉は亡命して臧霸のところに(身を)投げいれた。曹操は劉備に語って,語,牛倨翻。臧霸に二人の首を送るよう令してくれとしたところ,臧霸は劉備に謂いて曰く:「この霸が以って能く自立する所であるのは,以不為此也(そうしたことをしないからです)。この霸は主公より生きて全うする恩を受けましたからには,敢えて命を違えるものではありません;然れども王霸之君というのは,義を以ってして告げる可きです,願わくば将軍よ之を辞と為してくださいますよう。」劉備は以って臧霸の言を曹操に白したところ,曹操は歎息して臧霸に謂いて曰く:「此は古の人がおこなった(今ではありえない)事なのに,而して君は能く之を行った,孤<わたし>の願いでもある也。」皆徐翕、毛暉を以って郡守と為した。守,式又翻。陳登は功を以って伏波将軍を加えられた。

5劉表は袁紹と深く相結び約していた。治中のケ羲が劉表を諫めると,劉表曰く:「内は貢職を失わず,外は盟主に背かない,背,蒲妹翻。此は天下の義を達するものだ也。治中は独り何をか怪しむのか乎?」ケ羲は乃ち疾として辞すと而して退いた。

長沙太守の張羨は,性は屈強であったため,屈,渠勿翻。強,巨兩翻。屈強,梗戾不順従貌。劉表は礼しなかった焉。郡人の桓階は張羨に長沙、零陵、桂陽三郡を挙げて以って劉表を拒み,使いを遣わして曹操に於いて附くよう説いたため,張羨は之に従った。説,輸芮翻。考異曰く:魏志の桓階伝では,袁、曹が官渡で相拒んでいるときに而して桓階が張羨に説いたことになっている。按ずるに范書の劉表伝では,建安三年に,張羨が劉表を拒んだとして,官渡の前に在ったことになっている也。

6孫策が其の正議校尉の張紘を遣わして方物を献じてきた,正議校尉は,亦孫策が私ごとで署置した所のものである。曹操は之を撫納しようと欲し,孫策のことを表して(上表して)討逆将軍と為すと,討逆将軍は,亦た創置されたものである也。呉侯に封じた;烏程から呉に徙封したために,其の封を進めたのである也。考異曰く:江表伝には曰く:「元年に於いて献じた所に倍した。其年,書を制して拝して討逆とし,呉侯に封じた。」按ずるに孫策の貢献は二年に在った,元年ではない也。又陳志の張紘伝では曰く:「建安四年,張紘を遣わして章を奉じさせ許に詣でさせた。」とあるが按ずるに呉書では張紘は孫策の材略、忠款を述べたところ,曹公は乃ち文(孫策の様子/張紘の述べ方)を優れているとして褒崇し,改号加封したのである。然るに則ち張紘が来たのは孫策が呉侯に封じられる前に在ったことで,本伝の誤りである也。弟の女を以って孫策の弟の孫匡に配し,又子の曹彰に孫賁の女<むすめ>を取るよう為した;為,于偽翻。取,讀曰娶。また孫策の弟の孫権、孫翊を礼辟した;曹操が孫権、孫翊を礼辟したのは,其が至ったなら以って質と為そうと欲しただけである耳。張紘を以って侍御史と為した。

-2009-

袁術は周瑜を以って居巣の県長と為し,臨淮の魯肅を以って東城の県長と為した。居巣県は,廬江郡に属する。東城県は,前漢では九江郡に属した,後漢では省かれていたが,当に是は袁術が復置したのである也。長,知兩翻。周瑜、魯肅は袁術が成す所無く終わるだろうことを知るため,皆官を棄てて長江を渡ると孫策に従った,孫策は周瑜を以って建威中郎将と為した。魯肅は曲阿に於いて家に因った。

曹操は表して王朗を徴したため,孫策は王朗を遣わして還すことになった。曹操は王朗を以って諫議大夫と為し,司空軍事に参じさせた。魏、晉之間に於いて参軍事がムずると,位は頗る重きを望んだ,孫楚が石苞に謂いて曰く:「天子は我に卿の軍事に参ずるよう命じられた」とあるのが是である也。しかし是自り以後は,位は軽き望むことになった矣。

袁術は間使を遣わすと間,古莧翻。使,疏吏翻。印綬を齎して丹陽の宗帥である祖郎等に与え,帥,所類翻。山越を使って激動させると,共に孫策を囲ませた。劉繇が豫章に奔ったため也,太史慈は蕪湖山中に於いて遁れると,丹陽太守を自称した。孫策は已に宣城以東を定めていたが,惟以西の六県が未だ服していなかったため,太史慈は因って進むと県に住み,大いに山越が附く所と為った。蕪湖、県は皆丹陽郡に属する。宣城県は前漢でも亦丹陽に属したが,後漢では省かれた。晉太康元年,丹陽を分けて宣城郡を立てたおり,復置して県属となった焉。山越は,越民が山險に依って阻み而して居る者である。是に於いて孫策は自ら将いると祖郎を陵陽に於いて討ち,之を禽えた。陵陽県は,丹陽郡に属する。陵陽子明が此に於いて仙を得たため,県山は因って名づけられたのである。孫策は祖郎に謂いて曰く:「爾は昔孤<わたし>を襲うと,事は上卷興平元年に見える。孤の馬の鞍を斫した,今軍創り事立てんとするにあたり,宿恨を除き棄てよう,惟うに能く用いることを取れば,天下と通じる耳である,但汝のみに非,汝は恐怖すること勿れ。」怖,普布翻。祖郎が叩頭して謝罪したため,即ち械<かせ>を破り,門下賊曹に署した。又太史慈を勇里に於いて討ち,勇里は,県に在る。之を禽えると,縛を解き,其手を捉えて捉,執也。曰く:「寧識神亭時邪?若卿爾時得我云何?」神亭の事は上卷興平二年に見える。太史慈曰:「未だ量る可からず也。」量,音良。孫策は大いに笑うと曰く:「今日之事は,当に卿と之を共にすべきものだ,聞くに卿は烈義を有する,天下の智士であるとか也,太史慈は,東萊の人である,少なきより郡の奏曹史と為った。時に郡は州と隙が有り,章を交われば以って聞きいれられた,而して州の章が先に洛陽に到ったが,太史慈が劫取して之を壊してしまった,是ゆえに名を知られたのである。後に孔融之急に赴いて,劉備のところに救いを求めに詣でた,此孫策謂う所の烈義である也。但託す所は未だ其人を得られないことだけなの耳。謂劉繇

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也。孤は卿が知己であることを是とする,如かざる意を憂えること勿れ也。」即ち門下督に署した。軍が還ると,祖郎、太史慈は倶に前導に在ったため,軍人は以って栄えと為した。

劉繇が豫章に於いて卒するに会うと,士万余人が,豫章太守の華歆を奉じて主と為そうと欲した;華歆は以って為すに「因時命,人臣が宜べる所に非」とし,之を守すること月を連ねた,卒謝遣之,卒,子恤翻。華,戸化翻。未だ附く所を有しなかった。孫策は太史慈に往って之を撫安するよう命じると,太史慈に謂いて曰く:「劉牧は吾について吾が袁氏の為に廬江を攻めたことを往責していたが,劉繇は王命を奉って揚州を牧した,故に以って之を称えたのである。廬江を攻めた事については上卷興平元年に見える。為,于偽翻。吾は先君の兵数千人,尽く公路の許に在ったのだ。吾が志は事を立てるに在った,安んぞ公路のところに於いて意を屈しないでいて而して之を求めること得られただろうか乎!其後臣節を遵じなかったのは,之を諫めたが従わなかったからである,事は建安元年に見える。(大)丈夫が義交して,苟くも大故有るなら,離れないこと得られないもの,吾が公路に交わり求め及んで之を絶ったことの本末は此の如しである,恨むのは其の(劉繇が)生きている時に共に論辯を与えるに及ばなかったことである也。今兒子が豫章に在るという,卿は往って之を視て,其の部曲に於いて孤<わたし>の意<きもち>を宣してくれ,部曲で楽来する者とは倶に来て,楽来しない者は且つ之を安んじ慰めてくれ。楽,音洛。観また華子魚が所以牧を以って方規を御す所は何如なるかを観してきてくれ。華歆は,字を子魚という。卿(の手元にある兵の数)は須く幾兵である,(兵を増やすと言うなら)多少は意に隨おう。」太史慈曰く:「この慈には赦されざる罪が有ります,将軍は量るに桓、文と同じです,当に死を尽くして以って徳に報いましょう。今は兵を並べて息つかせましょう,兵が多いのは宜しくありません,数十人を将いれば足ります矣。」左右皆曰く:「太史慈は必ずや北に去って還ってこないでしょう。」孫策曰く:「子義どのが我を捨てるというなら,当に復誰に従うというのか!」復,扶又翻。餞送昌門(昌門で餞けし送る際),孫権は註に記して曰く:呉の西にある郭門が曰く閶門である,夫差が作ったという,天門を以って閶闔に通じさせた,故に之と名づけたのである。後に春申君が改めて曰く昌門とした。腕を把んで別れるに曰く:腕,烏貫翻。「何時<いつ>還ること能うだろうか?」答えて曰く:「六十日を過ぎないでしょう。」太史慈が行くと,議者のなかに猶も紛紜として之を遣わしたのは計に非ずと言うものがいた。孫策は曰く:「諸君はもう復言すること勿れ,孤は之を詳らかにして断じたのだから矣。断,丁亂翻。太史子義どの勇にして膽烈有ると雖も,然るに縦横の人(謀略を画策するような人)には非縱,子容翻。其の心は道義を秉するもので,諾うことを重く然りとする,然は,是である也,決辞ということである也。諾とは,応じることである也,許辞ということである也。重とは,不輕ということである也。一に以って意は知己を許したのだから,死亡しても相負わないのだ,諸君は憂うること勿れ也。」太史慈は果たして期した如く而して反ってき,孫策に謂いて曰く:「華子魚は,良徳というものです也,然れども他の方規は無く,自ら守って而して已んでいるだけです。又,丹陽の僮芝は,

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廬陵を自僮は,姓である也。風俗通には:漢のときに交趾刺史で僮尹というものが有った。一に曰く:僮とは,即ち童である也,顓頊子老童之後である,或いは「人」に従う。廬陵県は,豫章郡に属する。番陽の民帥が別に宗部を立て,『我は已に別に海昏上繚を郡に立てたのだから,発召(徴発やお召し)は受けない』と言っています,番陽県は,豫章郡に属する。宗部とは,即ち江南の宗賊を謂う所である也。帥,所類翻。海昏県は豫章郡に属する。時に県民数千家が,自ら相結聚し,宗伍を作ると,上繚に於いて壁とした。水経註で:僚水の導源は建昌県である,漢元帝の永光二年,海昏を分けて立てた。僚水も又新呉県を東に逕るが,漢の中平中に立てられた。僚水は又海昏県を逕るが,之を謂うに上僚水という。繚,讀曰僚。子魚は但たんに之を視し而して已むのみです。」孫策は掌を拊して大笑すると,遂に兼之志を有することになった。

7袁紹は連年公孫瓚を攻めたが,克つこと能わなかったため,書を以って之を諭した,相与に釋憾して連和しようと欲したのである;公孫瓚は答えず,而して守備を増脩すると,長史であった太原出身の関靖に謂いて曰く:「当今は四方が虎争している,無有能坐吾城下相守経年者明矣,袁本初其若我何!」袁紹は是に於いて大いに兵を興すと以って公孫瓚を攻めた。是より先に公孫瓚の別将で敵に圍まれ所と為った者が有ったが,公孫瓚は救わなかった,先,悉薦翻。曰く:「一人を救えば,後に将に救いを恃みとして,力戦することを肯わなくなるだろう。」袁紹が来攻するに及んで,公孫瓚の南の界にあった別営は,自ら度って守っても則ち自ら固きこと能わないとし,度,徒洛翻。又救いが必ず見えないことを知っていたため,或いは降り或いは潰れてしまった。降,戸江翻。袁紹軍が徑って其門に至ると,易京之門也。公孫瓚は子の公孫続を遣わして黒山の諸帥に於いて救いを請わせ,黒山諸帥とは,張燕等のことである也。帥,所類翻。而して自らは突騎を将いて西山の傍らに出ようと欲した,易京から西に抵すれば故の安閻郷以西は,諸山が連なり接して中山との境界となっている,山谷は深く広く,皆黒山の諸賊が阻に依る所である也。傍,歩浪翻。黒山之を擁して冀州を侵掠し,袁紹の後ろを横あいから断とうとしたのである。断,丁管翻。関靖は諫めて曰く:「今将軍が士を将いていればこそ瓦解之心を懐くこと莫いのです,猶も能く相守る所以であります,顧戀しますに其居る処は老少でありますが,処,昌呂翻。而して恃んでいるのは将軍が主と為っている故だけであるのです耳。堅守すること曠日すれば,或いは袁紹が自ら退くように使うこともできるかもしれません;若し之を舍して而して出てしまえば,舍,讀曰捨。後ろは重き鎮め無いため,易京はこれ危ういでしょう,立って待つ可きです也。」公孫瓚は乃ち止めた。袁紹は漸く相攻め逼ったが,瓚,子六翻。王崇武標點容肇祖聶崇岐覆校