資治通鑑

【漢紀五十六】起重光大荒落,尽旃蒙作噩,凡五年。

孝獻皇帝己建安六年(辛巳,西暦201年)

 

春,三月,丁卯朔,日有食之(日蝕が有った)。

曹操は安民に於いて就谷<就穀>した。以って袁紹が新たに破られたため,以って其の間に劉表を撃とうと欲したのである。荀ケ曰く:「袁紹が既にして新たに敗れたため,其の衆は心を離しております,宜しく其の困(困窮)に乗じるべきです,そうすれば遂には之を定めることでしょう。なのに而して師を江、漢へ遠ざけんと欲するなど,若し袁紹が其の余燼を収めて,虚しきを承り以って人後に出たなら,則ち公の事は去ってしまいましょう矣。」曹操は乃ち止めた。夏,四月,曹操は兵を河上に揚げると,袁紹を倉亭に撃たんとして軍し,之を破った。秋,九月,曹操は許に還った。

曹操は自ら劉備を汝南に於いて撃ったため,劉備は劉表のところへ奔り,龔都等は皆散りぢりとなった。劉表は劉備が至ったと聞くと,自ら郊に出て迎えるに,上賓の禮を以ってして之を待(遇)し,其の兵を益してやると,使わして新野に駐屯させた。劉備が荊州に在ること数年して,劉表の坐に於いて嘗し起って廁に至ると,慨然として流涕した(涙を流した)。劉表が怪しみ,劉備に問うと,劉備曰く:「平常にあって身は鞍を離れず,髀肉が皆消えておりました。今騎(乗)すること復せずにいるため,髀裡の肉が生じました。日月は流れるかの如くして,老いた将となるに至ったのですが矣,而して功業は建たずにおります,是が以って悲しませただけなのです耳。」

曹操は夏侯淵、張遼を遣わして東海に於いて昌豨を囲ませた,数月して,糧が尽きんとしたため,議して軍を引きつれ還ることになった。張遼は夏侯淵に謂いて曰く:「数日已來,諸囲に行く毎に,昌豨は輒<すなわ>ち目を屬してこの遼を視ます,又た其の矢を射たれること更に稀となっております。此は必ずや昌豨が猶も豫らんことを計ってのことで,故に力戦しないのです。この遼欲挑与語,倘可誘也。」乃ち使いとなって昌豨に謂いて曰く:「公有命(公の命が有って?),この遼を使て之を伝えさせんとしている。」昌豨は果たして下ってきて張遼と<与>語りあった。張遼は曹操の神武を説くこと為すと,方じるに徳を以って四方を懐けんとしているため,先に附いた者は大いに賞を受けるとしたため,昌豨は乃ち降ることを許(諾)した。張遼は遂に単身で三公山に上ると,昌豨の家に入り,妻子に拝したため,昌豨は歓喜すると,張遼に隨って曹操に詣でたのである。そこで曹操は昌豨を遣わして還らせた。

趙韙は劉璋を成都に於いて囲んだ。東州人は誅滅に見えることを恐れて,相与して力戦したため,趙韙は遂に敗退し,(東州人は)追って江州に至ると,之を殺した。龐羲は懼れて,吏の程祁を遣わして其の父であった漢昌令の程畿に於いて旨を宣べさせ,索賨兵。畿曰く:「郡が部曲を合わせたのは,本より乱を為さんとしたのではない,讒諛の有ること縦となっているからであって,要在尽誠,遂に異志を懐くが若ければ,敢えて命を聞くことなどすまい。」龐羲は更めて程祁を使わして之を説かせた,程畿曰く:「我は牧に恩を受けたからには,当に為すべきは節を尽くすこと;汝は郡吏と為っているのだから,自ら宜しく效力すべし。不義之事など,死すこと有ろうとも為さないものだ。」龐羲は怒ると,人を使わして程畿に謂わせて曰く:「太守に従わなければ,禍が将に家に及んでしまいましょう!」程畿曰く:「楽羊が子を食んだのも,父子之恩が無かったに非ず,大義こそ然りとするゆえである也。今(我が息子である)祁を羹<あつもの>にして以ってこの畿に賜られると雖も,この畿は之を啜ってみせよう矣。」龐羲は乃ち劉璋に於いて謝を厚くすることになった。劉璋は程畿を擢んで江陽太守と為した。朝廷は益州が乱れていると聞くと,五官中郎将の牛但を以って益州刺史と為した。征璋為卿(劉璋を征伐して卿と為らんとしたのだが?),至らなかった。

張魯は鬼道を以って民を教え,病となった者を使て其の過ちを自首させると,之に為して請禱(祈祷を請わせた),実<まこと>は病を治すに於いて益の無いことであったのだが,然るに小人は昏愚であるため,競って之に共事した。法を犯した者は,三たび原<ゆる>し,然る後に乃ち刑を行った。長吏を置かず,皆祭酒を以ってして治を為した。民、夷は之を便じ楽しみ,其の地に流れ移り寄り在した者は,敢えて其の道を奉じないことなどしなかった。後に遂に巴郡を襲い取ったが,朝廷の力は征すこと能わなかったため,遂に張魯を就寵して鎮民中郎将と為し,漢寧太守を領させて,貢獻を通じさせる而已<のみ>とした。民で地中から玉印を得た者が有った,群下は張魯を尊んで漢寧王と為そうと欲した。功曹である巴西出身の閻圃は諫めて曰く:「漢川之民,戸(数)は十万を出て,財は富み土は(肥)沃で,四面は險固であります。上は天子を匡<ただ>せば,則ち桓、文と為りましょうし,次ぐこと竇融に及ぶなら,富貴を失いません。今承製署置,勢足斬断,不煩於王。願わくば且つは称さず,禍ちを先に為すこと勿れ。」張魯は之に従った。

 

 

孝獻皇帝己建安七年(壬午,西暦202年)

 

春,正月,曹操は譙に軍し,遂に浚儀に至ると,睢陽渠を治めた(治水し浚渫した)。使いを遣わして太牢を以って橋玄を祀<まつ>った。軍を官渡に進めた。
袁紹は軍が敗れてより<自>,慚<は>じて憤るようになり,病を発して嘔血した;夏,五月,薨じた。初め,袁紹には三子が有った:譚と、熙と、尚である。袁紹の後妻の劉氏は袁尚を愛で,何度も袁紹に於いて称えた。そのため袁紹は以って後と為さんと欲するようになったが,而して未だ之を顯らかに言わなかった。そうしておいて乃ち袁譚を以って兄の後を継がせ,出して青州刺史と為した。沮授は諫めて曰く:「世が称えるに万人が兔<うさぎ>を逐<お>っても,一人が之を獲ると,貪者は悉く止めるのは,分かち定まった故だからです也。袁譚さまは長子です,当に嗣と為すべきですのに,而して斥けて使わし外に居らしめんとする,禍は其れ此れに始まりましょう矣。」袁紹曰く:「吾は諸子に各々一州に拠るよう令しようと欲しているが,以って其の能を視んとしてのことなのだ。」是に於いて中子の袁熙を以って幽州刺史と為し,外甥の高幹を并州刺史と為した。逢紀、審配は素より袁譚に疾まれる所と為っており,辛評、郭図は皆附くこと袁譚に於いていたため,而して審配、逢紀と<与>は隙を有した(仲が悪かった)。袁紹が薨ずるに及んで,衆は袁譚が長であることを以って,之を立てんと欲した。審配等は袁譚が立つと而して辛評等が害を為すことを恐れて,遂に袁紹の遺命を矯めて,袁尚を奉じて嗣と為した。袁譚は至っても,立つこと得られず,車騎将軍を自称して,黎陽に駐屯した。袁尚が之に兵を与えること少なかったうえ,而して逢紀を使て之に隨わせた。袁譚は兵を益してくれるよう求めたが,審配等は又た議して与えなかった。袁譚は怒ると,逢紀を殺した。秋,九月,曹操は渡河して袁譚を攻めた。袁譚は袁尚に於いて急を告げたため,袁尚は審配を留めて鄴を守らせると,自ら将いて袁譚を助けにゆき,曹操と<与>相拒みあった。連戦し,袁譚、尚は何度も敗れたため,退いて而して守りを固めた。袁尚は所置した河東太守の郭援を遣わして,高幹、匈奴の南単于と<与>共に河東を攻めさせ,使いを発して関中の諸将である馬騰等に与して兵を連ねるようにとしたところ,馬騰等は之を陰ながら許(諾)したため,郭援が経し所の城邑は皆下ることになった。河東郡の吏であった賈逵は絳(地名)を守っていたが,郭援が之を攻めること急であった;城は将に潰えんとすると,父老は郭援と<与>約(束)し,賈逵を害さずば乃ち降るとしたため,郭援は之を許(諾)した。郭援は賈逵を使て将と為そうと欲すると,兵を以って之を劫(略)させたが,賈逵は動<おのの>かなかった。左右が賈逵を引きつれ叩頭させ使めんとすると,賈逵は之を叱って曰く:「安んぞ國家の長吏で賊の為に叩頭するものが有ろうか!」郭援は怒ると,将に之を斬ろうとしたが,或るひとが其の上に伏せて以って之を救った。絳の吏民は賈逵が将に殺されようとしていると聞くと,皆城に乗って呼んで曰く:「約を負いながら我らの賢君を殺すというなら,寧ろ倶に死ぬのみだ耳!」乃ち壺関に於いて困(窮)させられることとなった,土で窖中を著わし,車輪を以って蓋とした。賈逵は守者に謂いて曰く:「此間に健兒など無いのだな邪,而して義士を使て此中で死なせるわけか乎?」祝公道という者が有って,其の言を聞くこと適った,乃ち夜往きて,賈逵を盜み引きつれ出させると,折械(枷を壊して)遣わし去らせたが,其の姓名を語らなかった。

曹操は司隸校尉の鍾繇を使て南単于を平陽に於いて囲ませたが,未だ抜けないうちに而して郭援が至った。鍾繇は新豐の(県)令である馮翊出身の張既を使わし馬騰を説かせると,利害を言うことを為した。馬騰は疑って未だ決めなかった。傅幹は馬騰を説いて曰く:「古人に言が有ります『道に順う者は昌らかとなり,徳に逆らう者は亡ぶ』と,曹公は天子を奉じて暴乱を誅さんとしております,法は明らかで政は治まり,上下が命を用いられておりますから,道に順っていると謂う可きでしょう矣。袁氏は其の強大なるを恃んで,王命に背きそれを棄てて,胡虜を驅<は>せさせて以って中國を陵(虐)させておりますから,徳に逆らっていると謂う可きです矣。今将軍は既にして有道に事<つか>えながら,其の力を尽くさず,陰ながら兩端を懐いて,以って坐したまま成敗を観ようと欲しておられるようです;しかし吾が恐れますのは成敗定まること既にすれば,辞を奉じて罪を責められるのではということです,そうなれば将軍が先ず誅首と為されることでしょう矣!」是に於いて馬騰は懼れることになった。傅幹は因って曰く:「智者は禍を転じて福と為すものです。今曹公と<与>袁氏が相持(対峙)しあっており,而して高幹、郭援が合わさって河東を攻めにきました。曹公が万全之計を有すと雖も,河東之不危を能く禁じえないでしょう也。将軍が誠に能く兵を引きつれて郭援を討つなら,内外が之を撃つことになりますから,其の勢いは必ずや挙がることでしょう。是ぞ将軍が一たび挙げれば,袁氏之臂を断つことになり,一方之急を解くことになります,曹公は必ずや将軍を徳として重んじましょうし,将軍の功名はこれと<与>比すこと無いものとなりましょう矣。」馬騰は乃ち子の馬超に兵万余人を将いさせて遣わし鍾繇と<与>会すこととなった。初め,諸将は郭援の衆が盛んなるを以って,欲釋平陽去。鍾繇曰く:「袁氏の方じて強くなり,郭援之來たるや,関中が陰ながら之に与して通じたのだが,それでも未だ悉く叛かない所以というのは<者>,吾が威名の故<のこ>りを顧みているだけなのだ耳。若し棄てて而して去ったなら,弱きを以ってして之に示すことになろうから,所在之民は,誰が寇仇するに非ざることになろうか?縱にして吾が帰らんと欲しようと,其の至ること得られようか乎?此は未だ戦いを為さずして先に自ら敗れることだ也。且つ郭援は剛愎にして勝ちを好む,必ずや吾が軍を(組み)易しとしよう,若し汾(水)を渡って営を為そうとするなら,其の未だ済るに及ばずして之を撃てば,大いに克つ可くことになろう也。」郭援は至ると,果たして徑前して汾(水)を渡ろうとし,衆が之を止めても,従わなかった。水を済ること未だ半ばならずして,鍾繇は撃って,之を大破した。戦が罷わると,衆人が皆言うことに郭援は死んだが而して其の首を得られないでいるとした。郭援は,鍾繇之甥であった也。晩となって後,馬超の校尉であった南安出身の龐徳が,鞬中に於けるより一つの頭を出したところ,鍾繇は之に見えると(甥の郭援の首であったため)而して哭した。龐徳が鍾繇に謝すと,鍾繇曰く:「郭援は我が甥と雖も,乃ち國賊である也,卿は何をか之に謝ること有ろうか!」南単于が遂に降った。

劉表は劉備を使て北侵させ,葉に至った,曹操は夏侯惇、於禁<于禁>等を遣わして之を拒ませた。劉備は一旦にして屯(営)を燒きすて去ったため,夏侯惇等は之を追いかけた。裨将軍であった巨鹿出身の李典が曰く:「賊が故も無く退いた,疑われるのは必ずや伏(兵)有ることかと。南道は窄狹にして,草木深し,追う可からず也。」夏侯惇等は聴きいれず,李典を使て守りに留まらせると而して之を追いかけ,果たして伏(兵)の裡に入ってしまい,兵は大敗した。李典が之を救いに往いたため,劉備は乃ち退いた。

曹操は書を下して孫権の任子のことを責めた,孫権は群僚を召して会議したところ,張昭、秦松等は猶も豫ったまま決しなかった。孫権は周瑜を引きつれて呉夫人の前に詣でて議を定めんとした,周瑜曰く:「昔楚國が初めて封じられると,百里之地に満ちませんでした。しかしその繼嗣は賢能でありまして,土を廣げ境を開き,遂に荊、揚に拠って,南海に於けるに至ったわけです,そうして業を伝え祚を延ばすこと,九百余年となりました。今将軍は父や兄の余資を承り,六郡之衆を兼ねて,兵は精(強)で糧(秣)は多く,士を将いて命を用い,山を鑄て銅を為し,海を煮て鹽を為し,境内は富み饒むこととなりました,人は乱を思わないものですが,何の逼迫有って而して質を送ろうと欲するのです!質が一たび入れられれば,曹氏に与しないことを得られず相首尾しあうことになります,与し相首尾することになれば,則ち命召あれば往かないということを得ないでしょう,此の如くなれば,便じては人に於いて制されるに見えましょう也。極めたとしても一侯印に過ぎず,僕従は十余人,車は数乘,馬は数匹ていどでしょう,豈に南面して孤と称するのと<与>同じであるでしょうか哉!遣わすこと勿るに如かず,徐ろに其の変を観ることとしましょう。若し曹氏が能く義を率いて以って天下を正すなら,将軍は之に事えても未だ晩ならず;若し暴乱を為すを図るなら,彼は自ら之に亡び(こちらをどうこうする)暇などなくなりましょうから,焉ぞ能く人を害せましょう!」呉夫人曰く:「公瑾の議こそ是です也。公瑾と<与>伯符とは年を同じくしていて,小一月のみ(違うの)です耳,我が之を視ること子の如しです也,汝は其れ之に兄事しなさい。」遂に質を送らなかった。

 

 

孝獻皇帝己建安八年(癸未,西暦203年)

 

春,二月,曹操は黎陽を攻めると与袁譚、袁尚と<与>城下に於いて戦い,袁譚、袁尚は敗走して,鄴に還った。夏,四月,曹操は追って鄴に至ると,其の麥を収めた。諸将は勝ちに乘じて遂に之を攻めようとしたが,郭嘉曰く:「袁紹は此の二子を愛しましたが,莫適立(後継として立てるに適うものは莫かったのです)也。今権力相rち,各々が党与を有しています,之を急げば則ち相保ちあいましょうが,之を緩めれば則ち爭わんとする心が生じるでしょう。南して荊州に向かい以って其の変を待つに如かず,変成って而して後に之を撃つことにすれば,一挙にして定める可きこととなりましょう也。」曹操曰く:「善し!」五月,曹操は許に還り,其の将である賈信を留めて黎陽に駐屯させた。

袁譚は袁尚に謂いて曰く:「我が鎧甲は不精である(精鋭なものではない),故に前は曹操の為に敗れる所となった。今曹操軍が退き,人は帰志を懐いている,其の未だ済らざるに及び,出兵して之を掩うなら,大いに潰えさす<令>可けん,此の策は失う可きではない也。」袁尚は之を疑い,既にして兵を益さないでいたが,又た甲<よろい>も(新しいものに)易えなかった。袁譚は大いに怒った,郭図、辛評は因って袁譚に謂いて曰く:「先公を使て将軍を出して(袁紹さまの)兄(の)後(嗣)と為したのは<者>,皆審配之謀なのです也。」袁譚は遂に兵を引きつれて袁尚を攻め,門外に於いて戦った。袁譚は敗れて,兵を引きつれ南皮に還った。別駕であった北海出身の王修は吏民を率いて青州より<自>袁譚を救いに往いた。袁譚は更めて還って袁尚を攻めようと欲したが,王修曰く:「兄弟とは<者>,左右の手です也。譬えるなら人が将に斗<たた>かわんとして而して其の右手を断って,曰く『我は必ずや勝たん』とするようなもので,其は可きことでしょうか乎?夫れ兄弟を棄てて而して親しまないなら,天下は其れ誰が之に親しむでしょうか!彼の讒人どもは骨肉を離間させて以って一朝之利を求めようとしているのです,願わくば耳を塞いで聴きいれること勿れ也。若し佞臣数人を斬って,復して相親睦しあい,以って四方を御すなら,天下に於いて横行すること可(能)でしょう。」袁譚は従わなかった。袁譚の将である劉詢が兵を漯陰に起こして以って袁譚に叛くと,諸城は皆之に応じてしまった。袁譚は歎いて曰く:「今州を挙げて皆叛いた,豈に孤之不徳といえようか邪?」王修曰く:「東萊太守の管統は,海表に在ると雖も,此人は反しません,必ずや來たるでしょう。」後になること十余日,管統は果たして其の妻子を棄てて袁譚のところへ来たり赴いた,その妻子は賊の為に殺される所となった。袁譚は更めて管統を以って楽安太守と為した。

秋,八月,曹操は劉表を撃ち,西平に於いて軍した。

袁尚は自ら将いて袁譚を攻めると,之を大破した。袁譚は平原に奔ると,城を嬰<かた>めて固守した。袁尚が之を囲むこと急であったため,袁譚は辛評の弟の辛毘を遣わして曹操に詣でさせ救いを請わせた。劉表は書を以って袁譚を諫めて曰く:「君子は難を違うも仇國に適わず,交わり絶つも惡聲を出さないものです,況んや先人之仇を忘れ,親戚之好みを棄て,而して万世之戒と為り,同盟之恥を遺そうとは哉!冀州が不弟之傲を有す若くも,仁君なれば当に志を降して身を辱しめるべきでしょう,済事を以ってして務めと為し,事が定まりし之後に,天下を使て其の曲直を平らげさせるのも,亦た高義と為さずや邪?」又た袁尚に書を与えて曰く:「金、木、水、火は剛柔を以ってして相済しあい,然る後に其の和を克ち得,能く民用を為すものです。今青州は天性峭急のようで,曲直に<於>迷っているようです。仁君ならば度数弘廣,綽然有余,当に大を以ってして小を包み,優を以ってして劣を容れるべきでしょう,先ずは曹操を除いて以って先公之恨みを卒し,事が定まりし之後に,乃ち曲直を議す之計とするも,亦た善からずや乎!若し迷って而して反らないなら,則ち胡夷は将に譏誚之言を有すとあります,況んや我が同盟においてや,復た能戮力為君之役哉?此韓盧、東郭自困於前面遺田父之獲者也。」袁譚、袁尚は皆従わなかった。

辛毘は西平に至って曹操に見えると,袁譚の意を致した,群下の多くが以為<おもへら>く劉表は強いため,宜しく先ず之を平げるべし,袁譚、袁尚は憂うるに足りずとした也。荀攸曰く:「天下が有事を方じているとき,而して劉表は坐して江、漢之間を保ったままであった,其の四方へ之志の無いことは(推して)知る可きである矣。袁氏は四州之地に拠って,帯甲は十万を数える,袁紹はェ厚を以ってして衆心を得ていた;二子を使て和睦せしめ以って其の成業を守らせたなら,則ち天下之難は未だ息つかないこととなろう也。今兄弟は遘惡(構えて悪みあっており),其の勢いは不兩全(全うすること両つせず),若し並ぶ所有れば則ち專らにするよう力<つと>めるだろう,專らにするよう力<つと>めれば則ち図ること難しくなる也。いまは其が乱れているのだから而して之を取るに及べば,天下は定まらん矣,此の時は失う可きでない也。」曹操は之に従った。後れること数日,曹操は更めて先ず荊州を平らげんと欲し,袁譚、袁尚を使て自ら相敝しあわせることとした,辛毘は曹操の色<顔色>を望み,変が有ったことを知ったため,以って郭嘉に語った。郭嘉が曹操に曰く(白)すと,曹操は辛毘に謂いて曰く:「袁譚は必ず信じられる<可>だろうか,袁尚は必ず克つ可きこととなろうか不か?」辛毘は対して曰く:「明公は信と<与>詐を問うこと無かれ也,直すは当に其の勢いを論ずのみです耳。袁氏が本より兄弟相伐しあっているのは,非謂他人能間其間,乃ち謂わば天下は己に於いて定まる可しとしているのです也。今一旦にして明公に於いて救いを求めたこと,此は知る可きです也。顯甫が顯思の困(窮)を見ていながら而して能く取らないでいるのは,此は力が竭きたからです也。兵革敗れること外に於いて,謀臣誅なること内に於いて,兄弟が讒鬩して,國が分かれて二つと為って,年を連ねて戦い伐し,介冑は蟣虱を生じ,加えて旱蝗と,饑饉が並んで臻<いた>るを以ってして;天災が上に於いて応ずることとなり,人事は下に於いて困(窮)することとなり,民には愚智など無く,皆土崩瓦解したのを知ったのです,此が乃ち天が袁尚を亡ぼさんとする之時であるのです也。今往きて鄴を攻めたのに,袁尚が救いに還らなければ,即ち自ら守ること能わないでしょう;救いに還るなら,即ち袁譚が其の後を踵することになりましょう。明公之威を以ってして,困窮之敵に応じ,疲敝之寇を撃つというのは,迅風が<之>秋葉を振るいおとすのと異なることが無いのです矣。天は袁尚を以ってして明公に与えんとしています,明公が取らずに而して荊州を伐さんとするなら,荊州は豐かに楽しんでおり,國は未だ釁ること有していません。仲虺に言が有ります,『乱るを取り亡ぶを侮る』と。今を方じますに二袁は遠略に務めず而して内で相図りあっています,これは乱ると謂う可きです矣;居る者には食とて無く,行く者には糧とて無いのは,亡ぶと謂う可きです矣。朝にあって夕を謀らずにいて,民の命は靡繼としているのに,而して之を不綏,他年を待とうと欲しています;他年に或いは登れば(収穫が登れば),又た自ら亡ぶを知って而して改めて厥徳を修めましょう,そうなれば用兵之要を失う所以というものです矣。今其の請救に因って而して之を(慰)撫するは,利が焉より大なるは莫いのです。且つ四方之寇は,河北に於けるより大なるは莫く,河北が平げば,則ち六軍は盛んとなって而して天下は震えおののきましょう矣。」曹操曰く:「善し!」乃ち袁譚を平げることを許(諾)した。冬,十月,曹操は黎陽に至った。袁尚は曹操が渡河したと聞くと,乃ち平原を釋して鄴に還った。袁尚の将であった呂曠、高翔は畔して曹操に帰(順)し,袁譚も復た陰ながら将軍の印を刻んで以って呂曠、高翔に假した。曹操は袁譚が詐りをなしたことを知ったが,乃ち子の整の為に袁譚の女<むすめ>を娉<めと>ることで以って之を安んじることとし,而して軍を引きつれて還った。

孫権は黄祖を西に伐し,其の舟軍を破ったが,惟だ城だけが未だ克てなかった,而して山寇が復た動きだした。孫権は還ると,豫章を過ぎたあたりで,征虜中郎将の呂范を使わして鄱陽、会稽を平らげさせ,蕩寇中郎将の程普には楽安を討たせ,建昌都尉の太史慈には海昏を領させ,別部司馬の黄蓋、韓当、周泰、呂蒙等を以ってして縣の令長を守劇させたうえで,山越を討って,之を悉く平げた。建安、漢興、南平の民が乱を作り,衆を聚めること各万余人となった,孫権は南部都尉である会稽出身の賀齊を使わして進み討たせ,皆之を平げると,復た縣邑を立てて,兵万人を料<はか>り出した;賀齊を拝して平東校尉とした。

 

 

孝獻皇帝己建安九年(甲申,西暦204年)

 

春,正月,曹操は河を済<わた>り,淇水を遏いて白溝に(水を)入れて以って糧道を通じさせた。

二月,袁尚は復た袁譚を平原に於いて攻め,其の将である審配、蘇由を留めて鄴を守らせた。曹操は軍を進めて洹水に至ると,蘇由は内応を為そうと欲したが,謀は洩れ,曹操のところへ出奔した。曹操は進んで鄴に至ると,土山、地道を為して以って之を攻めさせた。袁尚の(任命した)武安の(県)長であった尹楷は毛城に駐屯していた,以って上党に糧道を通じさせていた。夏,四月,曹操は曹洪を留めて鄴を攻め,自ら撃楷を将いて,之を破ると而して還った。又た袁尚の将であった沮鵠を邯鄲に於いて撃ち,之を抜いた。易陽令の韓范、渉長の梁岐が皆縣を挙げて降った。徐晃は曹操に於いて言いて曰く:「二袁が未だ破られておりません,諸城で未だ下らない者は耳を傾けて而して(この二県に対する曹操の処置の仕方を)聴いておりましょう,宜しく二縣を旌賞すべきです以って諸城に示しましょう。」曹操が之に従うこととし,韓范、梁岐は皆賜爵されて関内侯となった。黒山賊帥の張燕が使いを遣わして助けを求めてきたため,曹操は拜して平北将軍とした。

五月,曹操は土山、地道を毀し,塹(壕)を鑿って城を囲んだ,周り回ること四十里,初めは淺くしてくよう令し,越えることできる<可>が若きように示した。審配は望見すると,之を笑い,出て利を争うことしなかった。そうしておいて曹操は一夜にして之を浚(渫)し,廣さと深さ二丈,漳水を引きこんで以って之を灌たさせた;(兵站を断たれて)城中の餓死者は半ばを過ぎることになった。

秋,七月,袁尚は兵万余人を将いて還って鄴を救おうとした;未だ到らずして,審配に外の動きを知らせて止まるよう令しようと欲し,先に主簿である巨鹿出身の李孚を使わして入城させた。李孚は問事の杖を斫って,馬邊(馬の体の脇)に繋げ著わし,自らは平上幘を著わす(平上幘という帽子を被ると?),三騎を将いて,投暮(暮れに投げいれられると/日没間際になって)鄴下に詣でて;自称して都督とすると,北の囲みを歴し,表に循<したがっ>て而して東し,歩き歩きながら囲みを守っていた将士を呵責し,輕重に隨って其の罰を行った。遂に曹操の営に歴すと,前にすすんで南の囲みに至った,章門に当ったため,復た囲みを守っていた者を責め怒った,之を收め縛めた。因って其の囲みを開かせると,馳せて城下に到り,城の上の人を呼びつけた,城の上の人は繩を以って引きあげ,李孚は入るを得た。審配等は李孚に見えて,悲喜(こもごも)となり,鼓噪して万歳を称えた。囲を守っていた者は状を以って聞かせたところ,曹操は笑って曰く:「此は徒に入るを得たに非ず也,方じて且つ復た出てこよう。」李孚は外の囲みが益すます急となり,復た冒す可からざることになったことを知ると,乃ち審配に請うて城中の老弱悉くを出して以って谷<穀>を省かせることとし,夜,数千人を簡別すると,皆白幡を持たせ使め,三門より<従>並んで出て降らせた。李孚は復た三騎を将いて降人が服したように作り,輩に隨って夜に出て,囲みを突いて去るを得た。

袁尚の兵が既に至ると,諸将は皆以って為すに:「此は帰師です,人が自ら戦いを為すもの,之を避けるに如かず。」曹操曰く:「袁尚が大道に従って來たのなら,当に之を避けるべきだ;若し西山を循にして來たるなら<者>,此は禽われと成るのみ<耳>だ。」袁尚は果たして西山を循にして來ると,東して陽平亭に至った,鄴を去ること十七里,滏水に臨んで営を為した。夜になり,火を挙げて以って城中に示すと,城中も亦た火を挙げて相応じあった。審配は城の北から出兵し,欲与尚対決囲。操逆擊之,敗還,袁尚も亦た破られ走ると,曲漳に依って営を為し,曹操は遂に之を囲んだ。未だ合わさずして,袁尚は懼れ,使いを遣わして降らんことを求めてきた;しかし曹操は聴きいれず,之を囲むこと益すます急となった。袁尚は夜に遁れ,祁山を保ったが,曹操は復た進んで之を囲んだ。袁尚の将の馬延、張等が陳に臨んで降ったため,衆は大いに潰え,袁尚は中山に奔った。其の輜重を尽く収め,袁尚の印綬、節鉞及び衣物を得ると,以って城中に示したところ,城中は崩沮した。審配は士卒に令して曰く:「堅守して死にものぐるいで戦わん!曹操の軍が疲れ矣,幽州が方じて至らば,何をか主を無くしたことを憂えることあろうか!」曹操は出て囲みに行ったところ,審配は弩を伏せて之を射ったところ,幾らか中った。審配の兄の子の審榮は東門校尉と為っていたが,八月,戊寅,審榮は夜に門を開いて曹操の兵を内にいれた。審配は城中で拒み戦い,曹操の兵は之を生け獲りにした。辛評の家のものは鄴の獄に系(留)されていた,辛毘は馳せ往き,之を解かんと欲したが,已にして悉くが審配の為に殺される所となっていた。曹操の兵が審配を縛って帳下に詣でてきた,辛毘は逆って馬鞭を以って其の頭を撃ち,之を罵って曰く:「奴めが,汝は今日真に死ぬのだ矣!」審配は顧みて曰く:「狗輩が,正に汝曹に由って我が冀州は破れたのだ,汝を殺し得なかったことを恨みにおもうぞ也!且つ汝は今日能殺生我邪(この我を殺すことも生かすことも能くできまいが)?」有頃(しばらくして),曹操が引見し,審配に謂いて曰く:「曩日孤之囲みに行ったおり,何ぞ之を弩ること多かったのか也!」審配曰く:「猶も其の少なかったのを恨むものだ!」曹操曰く:「卿の袁氏に於ける忠は,亦た自ら爾でなければ得られなかったろう。」意<きもち>は之を活かさんと欲した。審配の意氣は壯烈であり,終於橈辞,而して辛毘等が号哭して已まなかったため,遂に之を斬った。冀州の人である張子謙は先に降っていたが,素より審配とは<与>善くしていなかった,そこで笑って審配に謂いて曰く:「正南よ,卿竟何如我?」審配は弱゚して曰く:「汝は降虜と為り,この審配は忠臣と為った。死すと雖も,豈に汝の生を羨もうか邪!」刑が行われるに臨み,兵<処刑道具>を持っていた者を叱って令して北に向かわせ,曰く:「我が君は北に在わせり也。」曹操は乃ち袁紹の墓を祀るに臨み,之を哭して流涕した;袁紹の妻を慰労すると,其の家人と寶物を還し,雜<さまざまな>上Pを賜ると,之を稟食した。
初め,袁紹と<与>曹操は共に兵を起こした,袁紹は曹操に問うて曰く:「若し事が不輯なれば,則方面何所可拠?」操曰:「足下意以為何如?」袁紹曰く:「吾は南は河に拠り,北は燕、代を阻み,戎狄之衆を兼ねて,南して向かい以って天下を争おう,庶くば以って済す可けん乎!」曹操曰く:「吾は天下之智力に任せ,道を以って之を御す,可からざる所など無くなろう。」

九月,詔あって曹操を以って冀州牧を領させることとしたが;曹操は讓って兗州に還った。

初め,袁尚は従事である安平出身の牽招を遣わして上党に至らせると軍糧を督させた,未だ還らずして,袁尚は中山に走った,牽招は高幹を并州を以って袁尚を迎え,力を並べて変を観るよう説いたが,高幹は従わなかった。そこで牽招は乃ち東して曹操を詣で,曹操は復して以って冀州従事と為した。又た崔琰を辟(招)して別駕と為した,曹操は崔琰に謂いて曰く:「戸籍を昨案すると,三十万の衆を得る可けん,故より大州と為っているのだな也。」崔琰は対して曰く:「今九州は幅裂しており,二袁兄弟が干戈を親しく尋ねたため,冀方は蒸庶し,骨が原野に暴されておりますのに,未だ王師が風俗を存問し,其の塗炭を救ったと聞きません,而して甲兵(がどの位徴兵できるか)を校計しておられる,唯だ此だけが先ず為されるなど,斯くは豈に鄙州の士女が明公に於いて所望することでしょうか哉!」曹操は改容して(容貌を改めて)之に謝した。許攸は功を恃み驕嫚となった,嘗て衆坐に於いて曹操の小字を呼んで曰く:「某甲よ,卿は我が非ずば,冀州を得られなかったのだ也!」曹操は笑って曰く:「汝の言や是り也。」然るに内では楽しまず,後になって竟<つい>に之を殺してしまった。

冬,十月,有星孛於東井。(流れ星が東井に於いて没した)

高幹は并州を以って降った,曹操は高幹を以って并州刺史と為し復してやった。

曹操之鄴を囲むや也,袁譚が復た之に背き,甘陵、安平、勃海、河間を略取した。袁尚を中山に於いて攻め,袁尚は敗れて,故安に走ると,袁熙に従った;袁譚は其の衆を悉く收め,還って龍湊に駐屯した。曹操は袁譚に書を与えて,以って負約した(約束を違えた)ことを責め,これと<与>の<之>婚(姻)(関係)を絶った,女<むすめ>が還ってきてから,然る後に進んで討った。十二月,曹操が其の門に軍すると,袁譚は平原を抜いて,走って南皮を保ち,清河に臨んで而して駐屯した。曹操は平原に入ると,諸縣を略定(略奪平定)した。

曹操は公孫度を表して武威将軍と為すと,永寧郷侯に封じた。公孫度は曰く:「我は遼東に王たるのに,何ぞ永寧なのか也!」印綬を武庫に於いて藏<しま>った。是歳,公孫度が卒し,子の公孫康が位を嗣いだため,永寧郷侯を以って其の弟の公孫恭を封じた。曹操は牽招が嘗て袁氏の為に烏桓を領していたことを以って,遣わして柳城に詣でさせ,烏桓を撫慰(慰撫)させることとした。峭王嚴の五千騎が袁譚を助けんと欲しているに値し,又,公孫康が韓忠を使いに遣わして峭王に単于の印綬を假した。峭王は群長をあつめて大会し,韓忠も亦た坐に在った。峭王は牽招に問うた:「昔袁公は天子之命を受けたと言ってくると,假して我を単于と為した;今曹公も復た言ってきて当に更めて天子に白し(建白し),假して我を真の単于とするとしている;遼東も復た印綬を持ってやって來た。此の如くは,誰が当に正しきを為すのだ?」牽招は答えて曰く:「昔袁公は承製されて,拜假する所を有すことを得たのです。しかし中間(途中間を置いて)天子の命に違錯することになっため,曹公が之に代わりました,当に天子に白し,更めて假して真の単于をするとの言は,是れであります也。遼東は下郡にすぎません,何ぞ称拜假を(専)擅することを得たとできましょうか也!」韓忠曰く:「我が遼東は滄海之東に在って,兵百余万を擁す,又た扶余、濊貊之用を有すのだ。当今之勢いは,強者が右を為すもの,曹操だけが何ぞ獨り是と為すこと得られようか也!」牽招は韓忠を呵<しかりとば>して曰く:「曹公は允恭明哲であらせられ,天子を翼戴しておられるのだ,叛いたものを伐し服したものを柔らげ,四海を寧靜させてきた。汝ら君臣は頑囂にして,今は險遠を恃んでいるが,天命に背き違えているのだ,拜假のさたを擅ぜんと欲しているが,神器を侮弄しているのだぞ;方じて当に屠戮すべきもの,何ぞ敢えて慢易咎毀大人!」便じて韓忠の頭を捉えて頓築すると,抜刀して之を斬ろうと欲した。峭王は驚き怖れて,徒跣して牽招を抱えると,以って救わんとして韓忠(の身柄)を請い,左右は色を失った。牽招は乃ち坐に還ると,峭王等の為に成敗之效と,禍福が帰す所を説いた;皆席を下って跪伏し,敬しく敕教を受け,便じて遼東之使いを辞して,嚴騎する所を罷めることとなった。

丹楊の大都督であった嬀覽、郡丞の戴員が太守の孫翊を殺した。将軍の孫河が京城に駐屯していたため,宛陵に馳せ赴いたところ,嬀覽、戴員は之をも復た殺してしまった;そうして人を遣わして揚州刺史の劉馥を迎えにきたため,歴陽に往くよう令し,丹楊を以って之に応じた。嬀覽は軍府の中に入居すると,孫翊の妻であった徐氏を逼取しようと欲した。徐氏は之に紿じて曰く:「乞いねがわくば須く晦日なって,祭を設けて服を除き,然る後に命を聴きいれましょう。」嬀覽は之を許した。徐氏は潛かに親しくしていた所のものを使わして孫翊の親近にして旧将であった孫高、傅嬰等に語りこれと<与>共に嬀覽を(どうするか)図ることとした,孫高、傅嬰は涕泣して許諾すると,密かに孫翊が時に侍養していた者二十余人を呼びよせこれらと<与>盟誓して合謀した。晦日が到ると,祭を設けた。徐氏は哭泣して哀を尽くし,畢わると,乃ち除服して,檮◆迫≠オ,言い笑って歓悦した。大小の心は妻愴として,其が此の如くなるを怪しんだ。しかし嬀覽は密かに覘<のぞきみ>ていたため,復た疑う意を無くしたのである。徐氏は孫高、傅嬰を呼んで戸内に置くと,人を使わして嬀覽を召して入れた。徐氏は戸を出て嬀覽を拝さんとし,適って一拜を得たため,そこで徐ろに大呼した:「二君は起つ可し!」孫高、傅嬰が倶に出てきて,共に嬀覽を殺し,余人が即ちに外へ就いて戴員を殺した。徐氏は乃ち還って縗絲し至ると,嬀覽、戴員の首を奉じて以って孫翊の墓を祭ったところ,軍を挙げて震駭したのである。孫権は乱あると聞いて,椒丘より<従>還った。丹楊に至ると,悉く嬀覽、戴員の余党を族誅し,孫高、傅嬰を擢んで牙門と為すと,其の余りには賞賜したが差が有った。

孫河の子の孫韶は,年十七であったが,孫河の余衆を収めて京城に駐屯した。孫権が軍を引きつれて呉を發すると,夜に京城の下営に至ったため,試みに攻めて之を驚かそうとした;兵は皆が城に乘って,檄を伝えて備警(警備)をしていたため,歓聲が地を動かし,外の人へむけて頗る射(撃)した。孫権が曉に使いをやって諭したため,乃ち止まった。明くる日に孫韶に見えると,拜して承列校尉とし,孫河の部曲を統めさせた。

 

 

孝獻皇帝己建安十年(乙酉,西暦205年)

 

春,正月,曹操が南皮を攻めたところ,袁譚が出てきて戦ったため,士卒の多くが死ぬことになった。曹操は之を緩めようと欲したところ,議郎の曹純曰く:「今縣師が深く入り,以って持久すること難いでしょう,若し進んでも克つこと能わず,退けば必ずや威を喪うことでしょう。」としたため乃ち自ら桴鼓を執って以って攻める者を率いると,遂に之に克った。袁譚が出て走ったため,追いかけて之を斬りすてた。李孚は冀州主簿を自称すると,求めて曹操に見えて曰く:「今城中は弱きも強きも相陵しあい,人心が擾乱しております,以為<おもへら>く宜しく令新降為内所識信者宣伝明教。」曹操は即ち李孚を使て往かせて城に入らせると,吏民に告げ諭し,各々を使て故業に安んじさせたため,相侵しあうこと得なくなり,城中は乃ち安んずることになった。曹操は是に於いて郭図等及び其の妻子を斬りすてた。袁譚は王修を使わして楽安に於いて糧を運ばせていた,(王修は)袁譚の急を聞いて,領する所の兵を将いて之に往き赴かんとし,高密に至ったが,袁譚が死んだと聞き,下馬して号哭して曰く:「君を無くした焉ぞ帰さん!」遂に曹操に諧して,袁譚の屍を収めて葬うしたいと乞うたところ,曹操は之を許し,復た王修を使わして楽安に還らせ,軍糧を督させた。袁譚が部していた所の諸城は皆服したが,唯だ楽安太守の管統だけが下らなかった。曹操は王修に管統の首を取ってくるよう命じたところ,王修は以って管統は亡國の忠臣だからとして,其の縛めを解き,使わして曹操に詣でさせた,曹操は悦んで而して之を赦すと,王修を辟(招)して司空掾と為した。

郭嘉が曹操に青、冀、幽、並(各州)の名士を多いに辟して(数多辟招して)以って掾屬と為させ,人心を帰附させ使むよう説いたところ,曹操は之に従った。官渡之戦,袁紹は陳琳を使って檄書を為させたところ,それは曹操の罪惡を数えあげ,連って家世に及び,其の醜詆を極めた。袁氏が敗れるに及び,陳琳は曹操に帰した,曹操曰く:「卿は昔本初の為に書を移したが,但だ孤が身に罪状す可きのみであろうに,何ぞ乃ち上は父祖に及んだのか邪!」陳琳は謝罪すると,曹操は之を釋<ゆる>し,陳留出身の阮瑀と<与>倶に記室を管(理)させ使めた。是より先に漁陽出身の王松が涿郡に拠っていたのだが,郡人の劉放が王松に説いて地を以って曹操に帰(順)させたため,曹操は劉放を辟(招)して參司空軍事とした。

袁熙は其の将の焦觸、張南に攻められる所と為ると,袁尚と<与>倶に遼西烏桓に奔った。焦觸は幽州刺史を自号し,諸郡太守や令長を驅せ率いると,袁(氏)に背いて曹(氏)に向かった,陳兵は万を数え,白馬を殺して而して盟すると,令して曰く:「敢えて違う者は斬る!」衆で敢えて仰ぎ視るものは莫く,各々は以って次歃した。別駕であった代郡出身の韓珩は曰く:「吾は袁公父子に厚恩を受けた,今其が破れ亡びんとしているのに,智は救うこと能わず,勇は死すこと能わず,義に於いて闕いている矣。そうしておきながら乃ち曹氏に北面するが若くは,為すこと能わざる所だ也。」一坐は韓珩の為に色を失った。焦觸曰く:「夫れ大事を挙げんとするにあたっては,当に大義を立てるべし,事之済否は,一人を待たず,可卒珩志(韓珩の志を卒す可くして),以って君に事えしを獅ワさん。」として乃ち之を捨ておいた。焦觸等は遂に曹操に降ったところ,皆封ぜられて列侯と為った。

夏,四月,黒山賊の帥であった張燕が其の衆十余万を率いて降ってきたため,安國亭侯に封じた。

故安出身の趙犢、霍奴等が幽州刺史及び涿郡太守を殺すと,三郡烏桓が_平に於いて鮮於輔<鮮于輔>を攻めた。秋,八月,曹操は趙犢等を討ち,之を斬った;乃ち潞水を渡って_平を救いにでると,烏桓は走って(逃亡して)塞から出ていった。

冬,十月,高幹は曹操が烏桓を討ったと聞き,復た并州を以って叛くと,上党太守と執らえ,兵を挙げて壺関口を守った。曹操は其将である楽進、李典を遣わして之を撃たせた。河内出身の張晟は,衆万余人をあつめ,崤、澠の間を寇すと,弘農出身の張琰が兵を起こして以って之に応じた。

河東太守の王邑が征を被ると,郡掾の衛固及び中郎将の范先等が司隸校尉の鍾繇を詣でて,之を留めるよう請うてきた。しかし鍾繇は許さなかった。衛固等は外では以って王邑を請うことをして名(分)を為していたが,而して内では実は高幹に与して通牒していた。曹操は荀ケに謂いて曰く:「関西の諸将は,外では服しながら内は貳いている,張晟が殽、澠を寇乱し,南は劉表と通じ,衛固等が之に因っていて,将に深害を為そうとしている。当に今や河東は,天下之要地たるべきである也,君は我が為に賢才を挙げて以って之を鎮めさせよ。」荀ケ曰く:「西平太守であります京兆出身の杜畿は,勇は以って難に当るに足り,智は以って変に応じるに足りるものです。」曹操は乃ち杜畿を以って河東太守と為した。鍾繇は王邑に交符するよう促し,王邑は印綬を佩びたまま,河北を逕従して許に詣でて自ら帰した。衛固等は兵数千人を使わして陝津を絶たせたため,杜畿は至ったが,数月しても渡るを得なかった。曹操は夏侯惇を遣わして衛固等を討たせたが,未だ至らなかった,杜畿曰く:「河東は三万戸を有すが,皆が乱を為そうと欲しているに非ず也。今兵が迫ること(之)急なれば,善を為そうと欲する者も主<つかさど>るところ無く,必ずや懼れて而して衛固に於いて聴きいれることだろう。衛固等は勢いからして專らにし,必ずや死を以ってして戦うことだろう。之を討っても勝てなければ,未だ已み難きことと為ろうし;之を討って而して勝つことになるのなら,是ぞ一郡之民を残(戮)することとなろう也。且つ衛固等は未だ王命を絶ったことを顯らかにしておらず,外では故君を請うことを以ってして名(分)と為しているのだから,必ずや新君を害さないだろう。吾が単車にて直ちに往き,其の不意に出たなら,衛固の為人は計多かれど而して(決)断(力)が無い,必ずや偽って吾を受けいれよう。吾が郡に居ること得られるなら一月すれば,計を以って之を縻かせ,(ことをおさめるに)足ることとなろう矣。」遂に道を詭って<豆偏にオオザト>津より<従>度<わた>った。范先は以って衆を威<おどす>ために杜畿を殺そうと欲したが,且つ杜畿の去就を観ようとし,門下に於いて主簿已下三十余人を斬殺したところ,杜畿の挙動は自若としていた。是に於いて衛固曰く:「之を殺すも損ねることなど無く,徒らに惡名を有することになろう;且つ之を制するは我に在る。」とし遂に之を奉じた。杜畿は衛固、范先に謂いて曰く:「衛、范は,河東之望である也,吾は成るのを仰ぐ而已<のみ>だ。然りながら君は固より義を定めるを有し,成敗は之を同じくするものだから,大事あれば当に議を平らげるを共にしよう。」衛固を以って都督と為し,丞事を行わせ,功曹を領させた。将校吏兵三千余人は,皆范先が之を督すことになった。衛固等は喜び,雖陽事畿(表立っては杜畿に事えたと雖も),意を為すこと以ってしなかった。衛固が大いに兵を(徴)發しようと欲したため,杜畿は之に患い,衛固に説いて曰く:「今大いに兵を(徴)發すると,衆情は必ずや擾えることでしょう,以って兵を貲募するのを徐にしてゆくに如かず。」衛固は以為<おもへら>く然りとし,之に従ったところ,得られた兵は甚だ少なかった。杜畿は又た衛固等に喩して曰く:「人情は家を顧るもの,諸将掾史は,分けて遣わし休息させる可きです,急緩(緩急あったときに)之を召しても難からず。」衛固等は衆心に逆らうことを惡<にく>むと,又た之に従った。是に於いて善人が外に在って,陰ながら己の為に援けとなり;惡人は分散して,各々其の家に還ることになった。

白騎(※張晟のこと。出自が卑しい黒山賊の首魁の一人で字を白騎としていた)が東垣を攻めるに会ったため,高幹は濩澤に入った。杜畿は諸縣が己に附いていることを知っていたため,乃ち出て,単<わず>か数十騎を将いて,堅壁に赴いて而して之を守ったところ,吏民多挙城且畿者(吏民で城と且つ杜畿を挙げる者が多くでたため),比すこと十日を数えると,四千余人を得た。衛固等と<与>高幹、張晟は共に杜畿を攻めたものの,下せず,諸縣を略(奪)せんとしたが,得る所無かった。曹操は議郎の張既を使わして関中諸将の馬騰等を西征させると,皆兵を引きつれて張晟等を撃つに会し,之を破ると,衛固、張琰等を斬って著し,其の余りの党与は皆之を赦すことにした。

是に於いて杜畿は河東を治めたが,務めてェ惠を崇めた。民に辞訟が有ると,杜畿は義理を陳べるを為し,遣わして帰らせ之を諦思させた,父老は皆が自ら相責め怒ったため,訟えること敢えてしなくなったのである。耕桑を勧めて,畜牧を課したところ,百姓の家家は豐かに実った。然る後に学校を興して,孝弟を挙げ,戎事を修めて,武備を講じたため,河東は遂に安んじることになった。杜畿が河東に在ること十六年,常に天下の最と為った。

秘書監にして、侍中の荀悦は《申鑒》五篇を作ると,之を奏(上)した。荀悦は,荀爽之兄の子である也。時の政は曹氏に在ったため,天子は己を恭しくしていた,荀悦の志は獻替に在ったが,而して謀は用いられる所が無かったため,故に是の書を作ったのである。其の大略に曰く:為政之術は,先ずは四患を屏し,乃ち五政を崇めることである。偽りは欲(望)を乱し,私すれば法を壊し,放(埓)であれば軌を越え,奢れば制を敗る:この四つ<者>が除かれなければ,則ち政は末となり行いに由る矣,是が四患を為すことになる。農桑を興して以って其の生を養い,好惡を審らかにして以って其の俗を正し,文教を宣べて以って其の化を章かにし,武備を立てて以って其の威を秉し,常罰を明らかにして以って其の法を統める,是が謂わゆる五政である。人が死を畏れないなら,罪を以ってしても懼れさせることはできない<不可>;人が生を楽しまないなら,善を以ってしても勧めることはできない<不可>。故に上に在る者は,先ず民の財を豊かにして以って其の志を定めてやる,是が養生と謂うのである。善惡の要は功罪に乎けるもの,毀譽が效ずるは准驗に於けるものである,言うことを聴きいれて事を責め,名を挙げて実を察し,偽りを或作すること無くして以って衆心を蕩かすのである。故に奸怪を無くそうと欲すれば,民には淫風など無くなる,是が謂わゆる俗を正すというのである。榮辱とは<者>,賞罰之精華である也。故に禮は榮辱を教えるにあたり以って君子に加えることで,其の情を化すのである也;桎梏と鞭撲は以って小人に加え,其の形を化すのである也。若し教化之廢れるは,中人を推して而して小人之域に於けるまで墜とすからであるし,教化之行われるは,中人を引きあげて而して君子之塗に於いて納めるからである,是が謂わゆる章化というものである。上に在る者は必ずや武備を有して以って不虞を戒める,そうして安んじ居れば則ち之を内政に寄せ,事が有れば則ち之を軍旅に用いる,是が秉威と謂うのである。賞罰は,政之柄である也。人主が賞を妄りにしないのは,其の財を愛でているからに非ず也,賞が妄りに行われると,則ち善が勸められないのである矣;罰を妄りにしないのは,其の人を矜っているに非ず也,罰が妄りに行われるなら,則ち惡は懲められないのである矣。賞しても勸めない,之を善を止めると謂う,罰しても懲しめない,之を悪を縱にすると謂う。上に在る者が能く下が善を為すのを止めさせず,下が惡を為すのを縦にさせなければ,則ち國法は立つことになる矣。是が統法と謂うのである。四患が既にして蠲かれ,五政も又た立ち,之を行うにあたって誠を以ってし,之を守るにあたって固きを以ってする,簡にして而して怠らず,疏にして而して失わず,垂拱揖讓すれば,而して海内は平げられよう矣。

【ここまで通鑑漢紀五十六】