資治通鑑

【漢紀五十七】 起柔兆閹茂,尽著雍困敦,凡三年。


     孝獻皇帝庚建安十一年(丙戌,西暦二零六年)


  春,正月,星が北斗に於いて勃した
  曹操は自ら将に高幹を撃たんとし,其の世子の曹丕を留めて鄴を守らせると,別駕従事の崔琰を使て之を傅けさせた。曹操は壺関を囲んだところ,三月,壺関は降った。高幹は自ら匈奴に入って救いを求めようとしたが,単于は受けなかった。高幹は独り数騎とともに亡と,南して荊州に奔らんと欲した,上洛都尉の王琰が之を捕えて斬ったため,并州は悉くげられた。曹操は陳郡出身の梁習を使わすと別部司馬を以ってして并州刺史を領させた。時に荒乱之余りあって,胡、狄が雄張しており,吏民の亡叛したものは其の部落に入り,兵家は衆を擁し,各々が寇害を為した。梁習は官に到ると,誘い喩えて招き納れたため,皆禮すこと其の豪右の如くなった,稍稍して薦挙すると,使いさせ幕府に詣でさせた;豪右が已に尽きると,次いで諸丁強を徴発して以って義従と為させた;又大軍が出征するのに因ると,諸将に分清するよう令して以って勇力と為した。吏兵が已にして去ってから之後は,稍して其の家を移し,前後して鄴に送ること凡そ万口を数えた;其の命に従わざる者は,兵を興こして討(伐)を致し,斬首すること千数え,降り附いた者は万計となった。単于が恭順してきたため,名王稽顙,服事供職,同於偏戸。邊境は肅清され,百姓は野に布かれ,農桑を勤め勧め,令行禁止。長老は詠を称え,以って為すに自ら聞き識所となったが,刺史で未だ梁習の如き者が有ったことはなかったとした。梁習は乃ち名士を貢達した,地を州界に避けてきた者に河内常林、楊俊、王象、荀緯及び太原出身の王凌之徒があったが,曹操は悉く以って県長と為し,後皆世に於いて顯名となった。初め,山陽の仲長統は遊學して并州に至ると,高幹のところで過ごしたが,高幹は之を善く遇し,訪れるにあたり世事を以ってした。仲長統は高幹に謂いて曰く:「君は雄志有れど而して雄才無し,士を好めど而して人を擇ぶを能くせず,君が為に深く戒めとする所以である也。」高幹は雅自多,仲長統の言を悦ばなかったため,仲長統は遂に之を去った。高幹が死ぬと,荀ケは仲長統を挙げて尚書郎と為した。論を著わして曰く《昌言》,其の言は治乱におよび,略して曰く:「豪傑之当に天命たるべき者は,未始有天下之分者也,無天下之分,故に戦い争う者が競って焉に起ったのである。智を角した者は皆窮し,力を角した者は皆負け,形は復伉するに堪えず,勢は復校するに足らず,乃ち始まりは羈首繋頸し,就我之銜紲のみであった耳。継體之時に及び,豪傑之心は既にして絶え,士民之志は已に定まった,貴ぶには常家が有り,尊ばれるには一人が在るもの。当に此之時にあたり,下愚之才が之に居ると雖も,猶も能く恩を使て天地を同じくさせ,威をして鬼神をrさせるもの,周、孔は千を数えようとも其の聖を復た角す所など無く,孟賁、夏育が百万あろうとも其の勇を復奮う所など無くなろう矣。彼の後嗣之愚主,見天下莫敢與之違(天下を見るに敢えて之と違えるもの莫いのは),自謂若天地之不可亡(自ずから天地の亡ぶ可からざるが若く謂うのである)也。乃ち其の私嗜に奔り,其の邪欲を騁し,君臣宣しく淫し,上下が惡を同じくすべくなれば,庶政を荒廃させ,人物を棄て忘れてしまうだろう。信任されて親愛なる者は,尽く佞諂容説之人である也;寵貴されて隆豊なる者は,尽く后妃姫妾之家である也。そして遂に天下之脂膏を熬し,生民之骨髓を斫<こわ>すに至るならば,怨み毒づいて聊無く,禍乱が並び起ち,中國が擾攘して,四夷が侵叛することになる,そうなれば土崩瓦解し,一朝にして而して去ってしまうだろう,昔之為我哺乳之子孫者,今儘是我飲血之冠讎也。運が徙り勢いが去るに於けるに至って,猶も覚悟しない者は,豈に富貴は不仁を生ずるに非ずとできようか,沉溺して愚疾を致すのである邪!存亡は之を以ってして代を失うものである,治乱は此に従って周<めぐ>復すものである,天道は常然之大数である也。」
  秋,七月,武威太守の張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺した;州兵が討って之を誅した。張猛は,張奐之子である也。
  八月,曹操は東して海賊の管承を討ち,淳於(淳于)に至った,将の樂進、李典を遣わして之を撃破させたところ,管承は走って海島に入った。
  昌豨が復叛いたため,曹操は于禁を遣わして討たせ之を斬った。
  是歳,故の琅邪王である劉容の子の劉熙を立てて琅邪王と為した。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済陰、平原八國は皆除かれた。
  烏桓は天下が乱れたのに乗じて,漢民十余万戸を略し有すことになった,袁紹は皆其の酋豪を立てて単于と為すと,家人の子を以ってして己の女<むすめ>と為し,焉<これ>を妻にさせた。遼西烏桓の蹋頓が尤も強かったため,袁紹が厚くする所と為っていた,故に袁尚兄弟は之に帰すことになり,何度も塞に入って寇を為し,欲助尚復故地。曹操は将に之を撃たんとして,平虜渠、泉州渠を鑿<うが>って以って運を通じさせた。
  孫権は山賊の麻、保二屯を撃つと,之を平げた


     孝獻皇帝庚建安十二年(丁亥,西暦二零七年)


  春,二月,曹操は淳於(淳于)より<自>鄴に還った。丁酉,曹操は大功あった臣二十余人を封ずるよう奏上し,皆列侯と為した。因って万歳亭侯である荀ケの功状を(上)表した;三月,荀ケに千戸を増封した。又以って三公を授けようと欲したが,荀ケは荀攸を使わして深く自ら讓ることを陳べさせ,十数に於けるに至ったため,乃ち止めた。
  曹操は将に烏桓を撃たんとしたところ,諸将は皆曰く:「袁尚は亡虜なるのみ耳,夷狄が貪らんとも而して親無からん,豈に能く袁尚の為に用いられようか!今深く入りて之を征さんとするに,劉備は必ずや劉表を説きて以って許を襲わしめん,万が一にも変為ら,事は悔いる可からざらん。」郭嘉曰く:「公は天下を威震すると雖も,胡は其の遠き恃み,必ずや備えを設けざりき,なれば其の備え無きに因って,卒然として之を撃てば,破り滅ぼす可けん也。且つ袁紹は民や夷に於いて恩有り,而して袁尚兄弟は生存せり。今四州之民,威を以って附かせること徒にし,徳施すも未だ加えざるに,捨てて而して南征すれば,袁尚は烏桓之資に因って,其の死主之臣を招きいれよう,胡人が一たび動けば,民や夷は倶<とも>に応じようから,以って蹋頓之心に生ぜしめ,凱覦之計を成させれば,恐らくは青、冀は己之有するに非ざらん也。劉表は坐して客と談ずるのみ耳,自ら才は以って劉備を御すに足らざりきを知っていよう,之を重任すれば則ち制すこと能わざるを恐れ,之を軽任すれば則ち劉備は用を為すまい,國を虚しくして遠征すると雖も,公は憂うこと無からん矣。」曹操は之に従った。行って易に至ると,郭嘉曰く:「兵は神速を貴ぶもの。今千里をきて人を襲わんとするに,輜重は多く,以って利に趨かんとするは難し,且つ彼が之を聞けば,必ずや備えを為さん。輜重を留めるに如かず,兵を軽くし道を兼ねて以って出でさせるなら,其の不意を掩うことだろう。」
  初め,袁紹は何度も使いを使わして無終に於ける田疇を召そうとした,又綬や将軍の印を即<つ>け,使安輯所統,田疇は皆之を拒んだ。曹操が冀州を定めるに及び,河間の邢顒が田疇に謂いて曰く:「黄巾が起って来り,二十余年,海内は鼎が沸きたち,百姓は流離せり。今聞くに曹公は法令が厳しいとか。民は乱に厭いていよう矣,乱極まれば則ち平らぐもの,身を以ってして先んぜんことを請わん。」遂に裝えると郷里に還った。田疇曰く:「邢顒は,天民之先覚者である也。」曹操は以って邢顒を冀州従事と為した。田疇は烏桓が其の本郡の冠蓋を多殺したことに忿っており,意<きもち>は之を討たんと欲するも而して力は未だ能わなかった。曹操は使いを遣わして田疇を辟召すると,田疇は其の門下に治を厳しく趣くよう戒めた。門人曰く:「昔袁公は君を慕い,禮命すること五たび至ったが,君の義は屈しなかった。今曹公の使いが一たび来たると而して君は弗及を恐れる若くなのは<者>,何ぞや也?」田疇は笑って曰く:「此は君の識所に非ず也。」遂に使者に隨って軍に到ると,拝して蓚の(県)令と為り,軍に隨って無終に次いだ。
  時は夏を方じて水雨おおく,而して濱海洿下は,濘滞して(泥濘となって滞ってしまい)通じず,虜も亦た蹊要を遮守したため,軍は進むことを得なかった。曹操は之に患い,以って田疇に問うた。田疇曰く:「此道は,秋夏には毎常有水(毎々常に水が有りまして),浅くとも車馬を通さず,深くとも舟船を載せず,難を為して(難所となって)久しいものです矣。旧<もと>の北平郡治が平岡に在り,道が盧龍を出て,柳城に於けるまで達しております。建武以来より<自>,陷壞して断絶しており,垂しこと二百載,而しながら尚も微徑<かすかなこみち>が有って従うこと可(能)です。今虜将のほうでは以って大軍であるから当に無終由<よ>きたるだろうとし,進む得ざれ而して退くだろうからと,懈弛して備えが無いことでしょう。若し軍を嘿回<黙回>し,盧龍口より<従>白檀之険を越えて,空虚之地に出ますなら,路は近く而して便じましょうし,其の不備を掩うことになりますから,蹋頓は戦わずして而して禽える可ものとなりましょう也。」曹操曰く:「善し!」乃ち軍を引きつれて還ると,而して大木を署す水の側の路傍に於いて表して曰く:「方ずるに今夏は暑く,道路は通じないでいる,且つは秋冬を俟<ま>って,乃ち復軍を進めん」。虜は騎で候してきて之を見ると,誠だとして以為<おもへら>大軍は去るのだろうとした也。
  曹操は田疇に令して其の衆を将いさせて郷導と為すと,徐無山に上り,山を塹<くず>し谷を堙<う>めること,五百余里,白檀を経て,平岡を歴し,鮮卑の庭を歩んで,東して柳城を(目)指した。未だ二百里に至らずして,虜は乃ち之を知った。袁尚、袁熙は蹋頓及び遼西単于の樓班、右北平単于の能臣抵之等と数万騎を将いて軍に逆らった。八月,曹操が白狼山に登ったところで,卒と虜が(遭)遇し,衆は甚だ盛んであった。曹操の車重は後ろに在り,甲を被った者は少なかったため,左右は皆懼れた。曹操は高みに登って,虜を望んだところ陣が整っていなかったため,乃ち兵を縱にして之を撃った,張遼を使て先鋒と為したところ,虜(の側の)衆は大いに崩れた,蹋頓及び名王已下を斬りすて,胡、漢で降った者は二十余万口となった。遼東単于の速僕丸は袁尚、袁熙と遼東太守の公孫康のところへ奔った,其の衆は尚も教千騎を有していた。或るひとが曹操に勧めて之を遂撃するようにとしたところ,曹操は曰く:「吾が方ずるは公孫康が袁尚、袁熙の首を斬って送ら使まんことだ,兵を煩わすまい矣。」九月,曹操は兵を引きつれて柳城より<自>還った。公孫康は袁尚、袁熙を取って以って功を為そうと欲し,乃ち先ず精勇を(廏)
中に於いて置くと,然る後に袁尚、袁熙に入ってくるよう請うた,未だ坐に及ばずして,公孫康は伏兵に叱って之を禽<とら>え,遂に袁尚、袁熙を斬ると,速僕丸の首並べて之送った。諸将は或るいは曹操に問うた:「公が還るや而して公孫康は尚、熙を斬ったのですが,何ででしょうか也?」曹操曰く:「彼は素より尚、熙を畏れていた,吾が之に急げば則ち力を並べようし,之を緩めれば則ち自ら相図ろうから,其の勢いは然るものとなる也。」曹操は袁尚の首を梟すると,三軍に令した:「敢えて之に哭す者有れば斬る!」牽招は独り祭を設けて悲しみ哭したが,曹操は之を義として,挙げて茂才と為した。時に天は寒く且つ旱であったため,二百里にして水が無く,軍も又食に乏しく,馬数千匹を殺して以って糧と為し,地を鑿ちて入ること三十余丈して水を得るをじたのである。既にして還ると,前に諫めた者を科問したが,衆で其故を知るものが莫く,人人は皆懼れた。曹操は皆之に厚く賞して,曰く:「孤が前に行ったことは,危うき乗じて以って幸を徼んというものであった。之を得たと雖も,それは天が佐<たすけ>し所なのだ也,顧みるに以って常と為す可きではない。諸君之諫めは,万安之計であった,是以って相賞すもの,後に之を言う難ずること勿れ。」
  冬,十月,辛卯,有星孛於鶉尾(星が鶉尾に於いて孛すこと有った)。
  乙巳,黄巾が済南王贇を殺した。
  十一月,曹操が易水に至ると,烏桓単于である代郡の普富盧、上郡の那樓が皆来たりて賀した。師還ると,論功行賞あり,五百戸
を以って田疇を封じて亭侯と為した。田疇曰く:「吾が始めしは劉公の報仇の為でありました,しかし衆を率いて遁れ逃げ,志義が立たず,反って以って利を為させたのは,本志に非ず也。」固讓して受けなかった。曹操は其の至心を知り,許して而して奪わなかった。
  曹操之北伐するや也,劉備は
劉表に許を襲うよう説いたが,劉表は用いること能わなかった。曹操が還ると聞くに及び,劉表は劉備に謂いて曰く:「君の言を用いず,故に此の大会を失うを為した。」劉備曰く:「今天下は分裂しておりまして,日ごと干戈を尋ねております,事会之来たるは,豈に終え極まること有りましょうか乎?若し後に於いて之に能く応ずるなら<者>,則ち此は未だ恨みと為すには足りません也。」
  是歳,孫権は西して黄祖を撃ち,其の人民を虜にして而して還った。
  孫権の母の呉氏は疾篤く,張昭等を引見すると,以って後事を属させて而して卒した。
  初め,琅邪の諸葛亮は襄陽の隆中に寓居しており,毎々自らを管仲、樂毅に比していた。時の人で莫之許也,惟<た>穎川の徐庶と崔州平のみは信<まこと>に然りと為すと謂った。州平は,崔烈之子である也。
  劉備が荊州に在ったおり,襄陽の司馬徽のところに於いて士を訪ねんとした。司馬徽は曰く:「儒生や俗士など,豈に時務を識ろうか,時務を識者は俊傑に<乎>在り。此の間には自ずから伏龍、鳳雛有り。」劉備は誰を為していうのかと問うたところ,曰く:「諸葛孔明、龐士元である也。」徐庶は新野に於いて劉備に見えると,劉備は之を器とした。徐庶は劉備に謂いて曰く:「諸葛孔明は,臥龍です也,将軍は豈に之に見えんことを願いますか乎?」劉備曰く:「君はこれと<与>倶に来てくれないか。」徐庶曰く:「此人は見えるに就く可き,屈致す可からず也,将軍は宜しく駕を枉げて之を顧みられますように。」劉備は是に由って諸葛亮を詣でると,凡そ三たび往きて,乃ち見えた。因って屏人して曰く:「漢室は傾頽し,奸臣が命を竊っている,孤は不度徳量力(徳を度ることも力を量ることもなく),天下に於いて大義を信ぜんと欲しながら,而して智術は浅く短く,遂に猖蹶に用いられ,今日に於けるに至った。然るに志は猶も未だ已まない,君謂計将安出?」諸葛亮曰く:「今曹操は已<すで>に百万之衆を擁し,天子を挟んで而して諸侯に令せり,此は誠にこれと<與>鋒を争う可からず。孫権は江東を拠有し,已に歴すこと三世,國は険しく而して民は附き,賢能が之の為に用いられている,此はこれと<与>援けを為す可きもので而して図る可からざるもの也。荊州は漢(水)、沔(水)に並び拠り,利しきことに南海に尽き,東は呉会に連なり,西は巴、蜀に通ず,此は用武之國である,而しながら其の主は守ること能わざりき,此は殆んど天が以って将軍に資とさせんとしている所です也。益州は険塞にして,沃野は千里,天府之土であります;劉璋は闇弱でありまして,張魯が北に在るため,民は殷し國は富めど而して恤存すを知らず,智能之士は明君を得んことを思っています。将軍は既にして帝室之冑たりて,信義は四海に於いて著わされております,若し荊(州)、益(州)を跨ぎ有し,其の巖阻を保ち,戎、越を撫和し(慰撫懐柔し),孫権と好を結んだうえで,内は政治を修め,外は時変を観るようにすれば,則ち霸業は成る可,漢室も興る可ことかと矣。」劉備曰く:「善し!」是に於いて諸葛亮と<与>情好すること日ごとに密となった。関羽、張飛は悦ばなかったため,劉備は之を解いて曰く:「孤之孔明有るは,猶も魚之水有るがごとしである也。願わくば諸君は復言すること勿れ。」関羽、張飛は乃ち止めた。
  司馬徽は,清雅にして知人之鑒を有していた。同県の龐徳公は素より重名を有していたため,司馬徽は之に兄事していた。諸葛亮は龐徳公の家に至る毎に,独り床下に拝したが,徳公は初めから止めるよう令しなかった。徳公の従子の統は,少なき時は樸鈍であって,未だ識者を有しなかった,惟徳公と司馬徽のみが之を重んじた。徳公は常に孔明は臥龍と為る,士元は鳳雛と為ると謂い,徳操は水鑒を為すとした;故に徳操は劉備に語を与えて而して之を稱えたのである。


     孝獻皇帝庚建安十三年(戊子,西暦二零八年)


  春,正月,司徒の趙温
曹操の子の曹丕を辟召した。曹操は表して「趙温は臣の子弟を辟召した,選挙故不以実」,策して之を免じた。
  曹操は鄴に還ると,玄武池を作り以って舟師を肄した
  初め,巴郡出身の甘寧は僮客八百人を将<ひき>いて劉表に帰した,劉表は儒人であって,軍事を習わなかったため,甘寧は劉表の事勢を観て終には必ず成すこと無からん,恐らくは一朝にして衆は散りぢりとなり,並んで其の禍ちを受くことになろうとみると,東して呉に入ろうと欲した。黄祖が夏口に在ったため,軍は過ぐるを得ず,乃ち留められて,黄祖に依ること三年,黄祖は凡人を以ってして之を畜<やしな>った。孫権が黄祖を撃つと,黄祖の軍は敗走した,孫権の校尉である凌操が兵を将いて之を急追した。甘寧は射を善くし,兵を将いて後ろに在ると,凌操を射殺した,黄祖は是に由って免れる得た。軍が罷め,営に還ると,甘寧を待(遇)すること初めの如くであった。黄祖の都督である蘇飛は何度も甘寧を薦めたが,黄祖は用いなかった。甘寧は去ろうと欲したものの,(追跡から)免れられないことを恐れた;蘇飛は乃ち黄祖に(建)白して,甘寧を以って邾長と為した。甘寧は遂に孫権のところへ亡奔した。周瑜、呂蒙は共に之を薦達したため,孫権は異に礼し,旧臣に於いてと同じくした。甘寧は孫権に於いて獻策して曰く:「今や漢祚は日ごとに微かとなっております,曹操が終には
盜を為すでしょう。南荊之地は,山川が便ずるよう形なし,誠に國之西勢です也。この寧が劉表を観るに,慮りは既にして遠からず,兒子も又劣っており,承業や伝基を能くする者に非ず也。至尊は当に之を早く図るべし,曹操に後れる可からず。図之之計は(之を図るという計とは),宜しく先ず黄祖を取らん。黄祖は今や昏耄すること已に甚だしく,財谷<穀,通鑑では穀を谷と記す>も並んで乏しく,左右が貪り縱にしておりますから,吏士の心は怨んでいます,舟船や戦具も,頓廃して修められず,耕農に於いても怠っており,軍には法伍が無いのです。至尊が今往けば,其の破るは必ず可ならん。一たび黄祖の軍を破れば,鼓して行きて而して西し,楚関に拠るのです,勢いを大きくして彌廣げれば,即ち漸(々)に巴、蜀を規るようにできましょう<可>矣。」孫権は深く之をれた。張昭は時に坐に在ったが,難じて曰く:「今呉下は業業たり,若し軍が果たさんとして行か,恐らくは必ずや乱を致されん。」甘寧は張昭に謂いて曰く:「國家は蕭何之任を以ってせんとして君を付けたというのに,君は居守にあって而して乱を憂うるのか,奚<いずく>んぞ以って古人を慕うことを希っているとできようか乎!」孫権は酒を挙げて甘寧に屬させて曰く:「興霸よ,今年討(伐)を行うのは,此の酒の如く矣,以って卿に付けて決さん。卿は但だ当に方略を勉め建てるべきのみ,必ずせんことを令しよう黄祖に克てば,則ち卿之功なり,何ぞ張長史之言を嫌うものだろうか乎!」
  孫権は遂に西して黄祖を撃った。黄祖は両蒙沖(二つの蒙船)を横おきし,沔口を挟み守ると,以拼閭大紲系石為釘(以って大きな紲<もやいづな>に石を係留して釘と為して船を留め置いた),上には千人が有り,弩を以って交射したため,飛矢が雨のごとく下り,軍は前にすすむを得なかった。偏将軍の董襲と別部司馬の凌統は前部を倶<とも>に為していたが,各々敢死百人を将,人は両鎧<二つの鎧>を被り,大舸に乗って,蒙沖の裡に突入した。董襲は身から刀を以ってして両紲を断つと(船を留めていた二つのもやいを共に断つと),蒙沖は乃ち横むいて流れていき,大兵は遂に進んだ。黄祖は都督の陳就に(命)令して水軍を以って逆戦した。平北都尉の呂蒙は前鋒を勒して,陳就の首を親梟した。是に於いて将士は勝ちに乗じて,水陸並び進み,其城に伝わると,尽く之を鋭く攻め,遂に其の城を屠った。黄祖は身を挺して走りのがれたが,追って之を斬り,其の男女数万口を虜にした。
  孫権は先に両函(二つの函)を作っており,以って黄祖及び蘇飛の首を盛らんと欲した。孫権は諸将の為に酒を置くと,甘寧は席を下って叩頭し,血涕が交わり流れた,為権言飛疇昔旧恩,「この甘寧は蘇飛に値せず,固<もと>より已に溝壑に於いて骸を損ねており,麾下に於いて命を致すを得なかったものです。今蘇飛の罪は当に夷戮すべきものですが,特に将軍より<従>其の首領を乞いたいのです。」孫権は其の言に感じ,謂いて曰く:「今は君の為に之を置こう。しかし若し(彼が)走り去ってしまったなら何とするね?」甘寧曰く:「飛は分裂之禍いを免れ,更生之恩を受けますからには,之を逐おうとも尚も必ずや走りさりますまい,豈に当に亡びを図ることでしょうか哉!若し爾なれば,この甘寧の頭が当に代わって函に入ることでしょう。」孫権は乃ち之を赦した。凌統は甘寧が其の父の操を殺したことを怨み,常に甘寧を殺そうと欲していた,孫権は凌統に之を仇に得ないようにと命ずると,甘寧には兵を将いて它<他>所に於いて駐屯するよう令した。
  夏,六月,三公の官を罷めると,丞相、御史大夫を復置した。癸巳。曹操を以ってして丞相と為した。曹操は冀州別駕従事の崔琰を以ってして丞相西曹掾と為し,司空東曹掾である陳留出身の毛玠を丞相東曹掾と為し,元城令である河内出身の司馬朗を主簿と為し,弟の司馬懿を文學掾と為し,冀州主簿の盧毓を法曹議令史と為した。盧毓は,盧植之子である也。崔琰、毛玠は並んで選挙を典,其の挙用した所は皆清正之士であり,時に於いて盛名を有したと雖も而して行が本に由らない者は,終に進むこと得られるもの莫かった。敦実を抜(擢)し,華偽を斥け,沖遜を進め,阿党を抑えた。是に由って天下之士で廉節を以ってして自ら勵<はげ>ないものは莫く,貴寵之臣と雖も,輿服不敢過度,至乃長吏還者,垢面羸衣して,独り柴車に乗って,軍吏が入府すると,朝服が徒行した。吏は上に於いて潔く,俗は下に於いて移った。曹操は之を聞くと,歎じて曰く:「人を用いること此の如し,天下の人を使て自ら治めしむとは,吾は復何をか為さんか哉!」
  司馬懿は,少なきより聰達しており,大略が多かった。崔琰は其の兄の司馬朗に謂いて曰く:「君の弟は聰亮にして明允である,剛断すること英特しており,子の及ぶ所に非ざるなり也。」曹操は聞くと而して之を辟召しようとしたが,司馬懿は辞すに風痺を以ってした。曹操は怒ると,之を收めんと欲したため,司馬懿は懼れて,職に就いたのである。
  曹操は張遼を使て長社に駐屯させたが,臨発,軍中に謀反者が有った,夜,驚き乱れて火が起ったため,一軍は尽く擾いた。張遼は左右に謂いて曰く:「動くこと勿れ!是は一営が尽く反したのではない,必ずや変を造りし者が有って,以って人を驚かせ動かそうと欲しているだけ耳。」乃ち軍中に令して:「其の反していない者は安坐せよ!」とし張遼は親兵数十人を将いて陳の中にゆくと而して立った,有頃(しばらくして),皆定まり,即ち首謀者を得たため,之を殺した。張遼が長社に在ったおり,于禁が穎陰に駐屯し,樂進が陽翟に駐屯していた,三将は任氣であったため,共に協あわないことが多かった。曹操は司空主簿の趙儼を使わして並んで三軍に参じさせ,事毎に訓諭したため,遂に相親睦しあうようになった。
  初め,前将軍の馬騰は鎮西将軍の韓遂と結んで異姓の兄弟と為った,後に部曲を以ってして相侵しあい,更めて仇敵と為った。朝廷は司隸校尉の鐘繇、涼州刺史の韋端を使て之を和解させると,征騰入屯槐裡。曹操が将に荊州を征そうとしたおり,張既を使,令釋部曲還朝,騰許之。已にして而して更めて猶豫,張既は其の変を為す恐れ,乃ち移諸県促儲人待,二千石郊迎,馬騰は已むを得ず,東に発した。曹操は馬騰を衛尉と為すよう(上)表し,其の子の馬超を以ってして偏将軍と為すと,其の衆を統めさせ,其の家屬を悉く徙して鄴に詣でさせた。
  秋,七月,曹操は南して劉表を撃つことになった。
  八月,丁未,光祿勳である山陽の郗慮を以って御史大夫と為した。
  壬子,太中大夫の孔融が棄市された。孔融は其の才望を恃み,何度も曹操を戲侮した,辞を発すること偏宕し,多く乖忤を致した。曹操は孔融の名が天下に重かりしことを以ってして,外では相容忍ぶとも而して
甚だ之を嫌った。孔融は又上書して言うに:「宜しく准古王畿之制,千里寰不以封建諸侯。」操疑融所論建漸廣,益すます之を憚った。孔融は郗慮とのあいだに隙が有り,郗慮は曹操の風旨を承って,其の罪を構成すると,丞相軍謀祭酒の路粹に令して奏じさせた:「孔融は昔北海に在ましおり,王室が靜かならざるを見るや,而して徒衆を招き合わせましたが,不軌を規さんと欲したのです。孫権の使いと<与>語るに及んでは,朝廷を謗訕しました。又,前に白衣の禰衡と<与>跌蕩放言し,更めて相讚揚しあいました。禰衡は孔融に謂いて曰く『仲尼は死せず』,孔融は答えました『顔回が復生きかえった』,大逆不道であります,宜しく重誅を極めるべきです。」曹操は遂に孔融を収めると,其の妻子を並べ皆之を殺した。初め,京兆の脂習は孔融と善くしていた,孔融が剛直太過である毎に戒めると,必ずや世の患いを罹すだろうとした。孔融が死す及び,許下で敢えて收めようとする者は莫かった。脂習は往くと屍を撫でて曰く:「文挙は我を捨てて死せり,吾何生を用いて為さんか!」曹操は脂習を収めると,之を殺そうと欲したが,既にして而して之を赦した。
  初め,劉表の二子に劉g、劉jがいた,劉表は劉jに其の後妻である蔡氏之侄を娶るを為したため,蔡氏は遂に劉jを愛で而して劉gを悪んだ。劉表の妻の弟である蔡瑁、外甥である張允は並んで劉表に於いて幸ぜられるを得たため,日ごとに劉gを相與毀しあって而して劉jを誉めた。劉gは自ずと寧んじなくなり,諸葛亮に自安之術を謀ろうとしたが,諸葛亮は對さなかった。後に乃ち共に高樓に升<のぼ>ると,因って梯をとり去るよう令すると,諸葛亮に謂いて曰く:「今日天に至らず,下は地に至らず,言は子の口を出でて,而して吾が耳に入るのみ,可以言未?(未だ何も言ってくれないのかね?)」諸葛亮曰く:「君は申生が
に在って而してくなり,重耳が外に居って而して安んじたのを見なかったのですか乎?」劉gの意は感悟すると,陰ながら出計を規った。黄祖が死す会うと,劉gは其の任を代わらんと求め,劉表は乃ち劉gを以ってして江夏太守と為した。劉表の病は甚だしく,劉gは帰って疾を省みんとした。蔡瑁、張允は其の劉表に見えて而して父子が相感じあい,更めて托後之意を有すことになるのを恐れ,乃ち劉gに謂いて曰く:「将軍は君に江夏を(慰)撫し臨むよう命じられたのです,其の任は至重です;今釋衆擅来すれば,必ずや譴怒に見えましょう。傷親之歎きは,其の疾を重ね増すもので,孝敬之道に非ざることです也。」遂に外に於いて遏すと,使わして見えること得させなかった。劉gは流涕すると而して去った。劉表が卒すると,蔡瑁、張允等は遂に劉jを以ってして嗣と為した。劉jは侯の印を以ってして劉gに授けた。劉gは怒ると,之を地に投げうち,将に因って喪に奔り難を作そうとした。曹操の軍が至るに会い,劉gは江南に奔ったのである。
  章陵太守の蒯越及び東曹掾の傅巽等は劉jに曹操へ降るよう勧めて,曰く:「逆順には大體が有り,強弱には定勢が有ります。人臣を以ってして而して人主を拒むは,道に逆らうものです也;新造之楚を以ってして而して中國を御さんとするは,必ず危かるものです也;劉備を以ってして而して曹公に敵さんとするは,当らざるものです也。三者は皆短いのに,将に何をか以ってして敵に待さんとするのです?且つ将軍は自らを料りますに劉備とくらべて如何でしょうか?若し劉備が曹公を御すに足らざれ,則ち楚を全うすると雖も以って自存すること能わず也;若し曹公を御すに足るなら,則ち劉備は将軍の下と為らないでしょう也。」劉jは之に従った。九月,曹操が新野に至ると,劉jは遂に州を挙げて降り,節を以って曹操を迎えた。諸将は皆其の詐を疑ったが,婁圭は曰く:「天下が擾攘すると,各々が王命を貪って以って自らを重くしてきた,今節を以って来たる,是必ず至誠であろう。」曹操は遂に兵を進めた。時に劉備は樊に駐屯していたが,劉jは敢えて劉備に(降伏のことを)告げなかった。劉備は之を久しくしてから乃ち覚ると,親しい所を遣わして劉jに問わせた,劉jは其の官屬である宋忠に令して劉備に旨を宣うよう詣でさせた。時に曹操は已に宛に在ったため,劉備は乃ち大いに驚駭すると,宗忠に謂いて曰く:「卿ら諸人が事を作すこと此の如くなのか,相語ること早くせず,今や禍いが至ってから我に告げんことを方じようとは,亦た太劇ならずや乎!」刀を引き宗忠に向かって曰く:「今卿の頭を断とうとも,以って忿りを解くに足らず,亦丈夫が別れに臨み卿のような輩を復殺するのも恥とするものだ。」宗忠を遣わして去らせた。乃ち部曲を呼ぶと共議した。或るひとは劉備に劉jを攻めれば,荊州は得らるきと勧めた。劉備は曰く:「劉荊州は亡ぶに臨み我に以って孤遺を託されたのだ,背信自済,吾の為さざる所,死して何の面目あって以って劉荊州に見えられよう乎!」劉備は其の衆を将いて去ることとし,襄陽を過ぎんとしたおり,馬を駐<と>めて劉jを呼んだ;劉jは懼れて,起つこと能わなかった。劉jの左右及び荊州の人の多くが劉備に帰した。劉備は過ぎゆくと劉表の墓で辞し,涕泣して而して去った。比して当陽に到らんとするに,衆は十余万人,輜重は数千両,日に行くこと十余里となった,別に関羽を遣わして船数百艘に乗せ,使わして江陵で会すこととした。或るひとが劉備に謂いて曰く:「宜しく速やかに行きて江陵を保つべし,今大衆を擁すると雖も,甲を被る者は少なし,若し曹公の兵が至ら,何をか以って之を拒まんか!」劉備曰く:「夫大事を(決)済すには必ず人を以って本を為すものだ,今人が吾に帰したのに,吾は何忍んで棄て去ろうか!」
  習鑿歯は論じて曰く:劉玄徳は険難に顛沛すると雖も而して信義は愈<いよいよ>明らかになった,勢い逼まられ事危うくなったが而して言うことは道を失わなかった。(劉)景升之顧を追(憶)っては,則ち三軍を情感させた;赴義之士に恋し,則ち与する甘んじ敗れる同じくした。終に大業を(決)済したのも,亦宜しからずや乎
  劉jの将である王威は
jに説いて曰く:「曹操は将軍が既に降り,劉備が已に走ったと聞くと,必ずや懈弛して備えを無くし,軽先単進(軽率にも先んじようとし単身進んでくるでしょう)。若しこの王威に奇兵数千を給わられますなら,之を険(阻)に於いて徼<むかえ>うちましょう,曹操は獲らる可きかと也。曹操を獲たなら,即ち四海を威震できましょうから,徒らに今日を保ち守る而已<のみ>に非ざることになります。」劉jはれなかった。曹操は以って江陵には軍実が有るため,劉備が之に拠るのを恐れると,乃ち輜重を釋し,軍を軽くして襄陽に到った。劉備が已に過ぎさったと聞くと,曹操は精騎五千を将いて之を急追し,一日一夜行くこと三百余里,当陽之長板に於いて及ぶことになった。劉備は妻子を棄て,諸葛亮、張飛、趙雲等数十騎と走りさり,曹操は其の人衆と輜重を大いに獲たのである。
  徐庶の母が曹操の獲る所と為り,徐庶は劉備に辞し,其の心(臓)を指して曰く:「本より将軍と共に王霸之業を図らんと欲したのは<者>,此の方寸之地(即ち心臓)を以ってしてです也。今已に老母を失い,方寸は乱れおり矣,事に於いて無益です,此より<従>別れんことを請うものです。」遂に曹操に詣でた。張飛は二十騎を将いて後ろで拒まんとし,張飛は水に拠って橋を断つと,目を瞋して矛を横ざまにし曰く:「わが身は是れ張益徳なるぞ也,来たりて共に死を決す可し!」曹操の兵で敢えて近づく者は無かった。或るひとが劉備に謂った:「趙雲已に北に走る。」劉備は手戟を以って之に擿つと曰く:「子龍は我を棄てて走らず也。」頃之(このころ),趙雲は身から劉備の子の禪を抱きかかえ,関羽の船と会い,沔(水)を済さんことを得た,劉gの衆万余人と遇い,與
到夏口。曹操は軍を江陵に進めると,劉jを以って青州刺史と為し,列侯に封じた,並んで蒯越等,侯となった者は凡そ十五人。韓嵩之囚を釋<ゆる>し,待(遇)するに交友之禮を以ってし,使條品州人優劣,皆擢んで而して之を用いた。韓嵩を以ってして大鴻臚と為し,蒯越は光祿勳と為り,劉先が尚書と為り,ケ羲が侍中と為った。荊州の大将である南陽出身の文聘は外に在って別に駐屯していた,劉j之降るや也,文聘を呼んで,欲與。文聘は曰く:「この聘は州を全うすること能わず,当に罪を待つ而已<のみ>!」曹操が漢を(救)済すると,文聘は乃ち曹操に詣でた。曹操曰く:「来たるぞ遲かりしか邪?」文聘曰く:「先だっての日は劉荊州を輔弼し以って國家を奉ずること能わず;荊州が沒すると雖も,常に願うは漢川に拠り守り,土境を保ち全うすることでした。生きては孤弱に於いて負うことなく,死しては地下に於いて愧じること無からん。而して計は己に在らず,以って此に於けるに到った,実に悲慚を懐き,無顔早見耳(早々と(曹操に)見えようとする顔などどこにありましょうか)!」遂に歔欷流涕した。曹操は之の為に愴然となり,之に字謂して(感慨を込めてわざわざ字で謂いて)曰く:「仲業よ,卿は真の忠臣なり也!」厚く禮して之を待(遇)すると,使って本の兵を統めさせ,江夏太守と為したのである。
  初め,袁紹が冀州に在ると,使いを遣わして汝南の士大夫を迎えさせた。西平の和洽は,以為<おもへら>く冀州の土は平らかで民は強く,英桀が利さんとする所であるから,四戦之地である,荊州の土は険しく民弱きに如かず,依るに易く倚である也とすると,遂に劉表に従った。劉表は上客を以って之を待(遇)した。和洽曰く:「本初に従わざる所以は,争地を避ければなり也。昏世之主は,黷近す可からず,久しくして而して去らざれ,讒慝が将に興こらん。」遂に之を武陵に南した。劉表は南陽出身の劉望之を辟召して従事と為すと,而して其の友二人は皆讒毀を以ってして劉表に誅される所と為ったが,劉望之は又た正諫を以ってして合わなかったため,伝を投げて帰ることを告げた。劉望之弟の劉
は望之に謂いて曰く:「趙が鳴犢を殺すと,仲尼は輪を回したとか。今兄は既にして不能法柳下惠和光同塵於内,則ち宜しく範蠡を模して外に於いて遷り化すべきです,坐して而して自ら時を<於>絶つなど,殆んど不可です也。」望之は従わず,尋害されるに見えたため,劉<い>は揚州に奔った。南陽出身の韓は袁術之命を避けて,山都山に徙り居した。劉表も又之を辟召したが,遂に孱陵に遁居した。劉表は之を深く恨んだため,韓は懼れて,命に応じ,宜城の(県)長を除(叙任)された。河東の裴潛も亦た劉表に禮重される所と為った,潛かに私ごとで王暢之子である王粲及び河内出身の司馬芝に謂いて曰く:「劉牧は霸王之才に非,乃ち西伯たりて自ら処さんと欲しているが,其の敗れる日をおかないだろう矣!」遂に南して長沙に適った。是に於いて曹操は韓を以ってして丞相士曹屬とし,丞相軍事に潛み参じさせた,和洽、劉、王粲は皆掾屬と為り,司馬芝は管の(県)令と為り,人望に従うことになった也。
  冬,十月,癸未朔,日有食之(日食が有った)。
  初め,魯肅は劉表が卒したと聞くと,孫権に於いて言いて曰く:「荊州と(わが)國は鄰接しており,江山は険固であり,沃野万里,士民は殷富です,若し拠って而して之を有せ,此は帝王之資です也。今劉表が新たに亡くなり,二子は協あっていません,軍中の諸将は,各有彼此。劉備は天下の梟雄でして,曹操とは有隙(仲が良くなく),劉表に於いて寄寓しております,劉表は其の能を悪而して用いること能わず也。若し劉備と彼が心を協あい,上下が齊しく同じくすれば,則ち宜しく撫安し,これと盟や好みを結ぶべきです;如有離違,宜しく別に之を図り,以って大事を(決)済すべきです。この魯肅は請得奉命吊表二子,並慰労其軍中用事者,及
備使撫表衆,心を同じくして意を一つにし,共に曹操を治めることにすれば,劉備は必ずや喜んで而して命に従うでしょう。其の克諧の如くなれば,天下は定める可ことになろうかと也。今速やかに往かざれば,恐らくは曹操が先んじる所に為るかと。」孫権は即ち魯肅を遣わして行かせた。夏口に到って,曹操が已に荊州へ向かったと聞き,晨夜兼道して,南郡に至らんと比したおり,而して劉jは已に降り,劉備は南へ走ったため,魯肅は之を径<みち>して迎えることにし,劉備と当陽の長板に於いて会ったのである。魯肅は孫権の旨を宣べると,天下の事勢を論じ,殷勤之意を致さんとして,且つ劉備に問うて曰く:「豫州どの何に至らんと欲するのか?」劉備曰く:「蒼梧太守の呉巨どのと<与>は旧なじみが有る,之に往き(身を)投じんと欲している。」魯肅曰く:「孫討虜(将軍)さまは聰明にして仁惠です,賢を敬い士を禮しており,江表の英豪は,之に鹹じて帰し附くことになりまして,已に六郡を拠有しています,兵は精(鋭)で糧(秣)は多く,以って事を立てるに足るものです。今君の為に計るならば,腹心を遣わして自ら東に於いて結ぶに若くは莫し,以って世業を共済しましょう。而して呉巨に(身を)投ぜんと欲するとは,呉巨は是凡人というもの,遠郡に偏在し,行将為人所並(その行いや将いることや人となりは(他人と)並ぶ所です),豈に託すに足りましょうぞ乎!」劉備は甚だ悦んだ。魯肅は又諸葛亮に謂いて曰く:「我は,子瑜の友なり也。」即ち共に交わりを定めた。子瑜とは<者>,諸葛亮の兄である瑾のことである也,乱を江東に避けて,孫権の長史と為っていた。劉備は魯肅の計を用い,進んで鄂県之樊口に往いた。
  曹操は江陵より<自>将に江東に順下ろうとした。諸葛亮は劉備に謂いて曰く:「事は急です矣,請奉命を奉じて孫将軍に於いて救いを求めんことを請うものです。」遂に魯肅と倶に孫権に詣でた。諸葛亮は孫権と柴桑に於いて見えると,孫権に説いて曰く:「海内は大いに乱れまして,将軍は兵を江東に起こされ,劉豫州は衆を漢南に収め,曹操と並んで天下を争おうとしています。今曹操は芟夷大難,略已平矣,遂に荊州を破り,四海を威震させました。英雄は用武之地に無く,故に豫州さまは遁逃して此に至ったのです,願わくば将軍には力を量って而して之に処されんことを。若し呉、越之衆を以ってして中國と<与>抗衡せんとすること能うるならば,早く之と<与>絶つに如かず;若し能わず,何兵を按じて甲を束ね,北面して而して之に事えないでいるのでしょうか!今将軍服従之名に託しながら,而して内では猶豫之計を懐いておられますが,事が急なのに而して(決)断されないとは,禍は日も無くして至るでしょう矣。」孫権曰く:「苟くも君の言の如くなれば,劉豫州どのは何ぞ之に事を遂げんとするのか乎!」諸葛亮曰く:「田横は,齊之壮士というだけでした耳,しかし猶も義を守って辱しめられませんでした;況んや劉豫州は王室之冑でありまして,その英才は世を蓋い,衆士が慕い仰ぐさまは,水が海に帰すが若くです!事が済まざる若ければ,此は乃ち天(命)というもの也,安んぞ能く此の難に抗わんか乎!」孫権は勃然として曰く:「吾は全ての呉之地を挙げること能わず,十万之衆も,人に於いて制を受けるものだ。吾が計は決した矣!劉豫州どのに非ざれ以って曹操に当る可者は莫い;然るに豫州どのは新たに敗れた<之>後である,安んぞ能く此の難に抗えようか乎!」諸葛亮曰く:「豫州の軍は長板に於いて敗れたと雖も,今戦士で還ってきた者及び関羽の水軍である精甲万人,劉gが合した江夏の戦士も亦万人を下らず。曹操之衆は,遠くより来たりて疲敝しております,聞けば豫州を追いかけて,軽騎が一日一夜行くこと三百余里であったとか,此は所謂<いわゆる>『強弩之末勢は魯縞を穿つこと能わず』というもの<者>也。故より《兵法》は之を忌むもの,曰く『必ずや上将軍を蹶されん』と。且つ北方之人は,水戦を習わず;又,荊州之民で曹操に附いた者は,近勢に逼られたのみ<耳>であって,心服しているに非ず也。今将軍が誠に猛将に兵数万を統<まと>めるよう命じ,豫州と協規して(規を協<たす>けあい)力を同じくこと能わるなら,曹操の軍を破ること必ずならん矣。曹操の軍は破れれば,必ずや北へ還らん;此の如くなれば,則ち荊、呉之勢いは強まり,鼎足之形が成るでしょう矣。成敗之機は,今日に於けるに在るのです!」孫権は大いに悦び,其の群下と<与>之を謀ることにした。
  是時,曹操は孫権に書を遣わして曰く:「近くは<者>辞を奉じて罪を伐たんとし,旄麾が南して指すと,劉jは手を束ねた。今や水軍八十万衆を治め,将軍と<与>呉に於いて会獵せんことを方じている。」孫権は以って群下に示すと,響き震え失色しないものは莫かった。長史の張昭等が曰く:「曹公は,豺虎です也,天子を挟んで以って四方を征し,動くにあたり朝廷を以ってして辞を為させています;今日之を拒めば,事は更めて順えないでしょう。且つ将軍が勢いを大にして以って曹操を拒んでこれた<可>のは<者>,長江ゆえです也。今や曹操は荊州を得て,其地を奄有しています,劉表は水軍を治め,蒙沖鬥艦は乃ち以って千を数えていました,曹操は悉く以って江に沿って浮かべます,歩兵を兼ね有していますから,水陸倶に下れば,此は為長江之険已與我共之矣,而勢力衆寡又不可論。愚かしくも謂いますが大いに計るに之を迎えるに如かず。」魯肅だけは独り言わなかった。孫権は起つと衣を更めんとし,魯肅は宇下に於いて追いかけた。孫権は其の意を知ると,魯肅の手を執って曰く:「卿は何をか言わんと欲するか?」魯肅曰く:「衆人之議を向察しますに,專ら欲するのは将軍を誤らせようとのこと,かれらと<与>大事を図るに足りません。今この魯肅については曹操を迎える可のみ耳ですが,将軍に如いては不可です也。何をか以って之を言おうとするのか(といいますと)?今この魯肅が曹操を迎えるなら,曹操は当にこの魯肅を以ってして郷党に還付させ,其の名位を品さだめさせましょう,猶も下は曹従事を失わず,犢車に乗り,吏卒を従え,士林と交友し,官を累ねれば故より州郡を失わず也(州刺史、州牧や郡太守の官に至らないことはありません)。将軍が曹操を迎えれば,欲するとも安んぞ帰す所あらんや乎願わくば早く大計を定められんことを,衆人之議を用いること莫かれ也!」孫権は歎息して曰く:「諸人が持議するに,孤が望みを甚だ失ったものだった。今卿は大計を廓開した,正に孤と<与>同じくせん。」
  時に周瑜は使いを受けて番陽(鄱陽)に至っていた,魯肅は孫権に周瑜を還すよう勧めた。周瑜は至ると,孫権に謂いて曰く:「曹操は名を漢相(漢の丞相)に託していると雖も,其の実は漢賊なり也。将軍は神武雄才を以ってして,父兄之烈<はげ>しさを兼仗し,江東に割拠して,地は方数千里,兵は精(鋭)で用いるに足りています,雄に英<すぐ>れて業を楽しみ,当に天下を横行し,漢家の為に殘除き穢れ(取り)去るべきでしょう;況んや曹操自ら死を送らんとしているのに,而して之を迎える可きかとは(どういうことでしょうか)邪?請うらくは将軍が為に之を籌さん:今北土は未だ平らがず、馬超、韓遂は尚も関西に在り,曹操の後患を為しています;而して曹操は鞍馬を捨てて,舟楫を杖にし,呉、越と<与>衡を争わんとしています;今又寒さが盛んであり,馬には蒿草とて無く,中國の士衆驅って遠く江湖之間渉らせていますが,水土を習っていないのですから,必ずや疾病を生じましょう。此らの数えるところ<者>は用兵之患いとするもの也,而して曹操は皆之を冒し行っています。将軍が曹操を禽えるは,宜しく今日に在るべし。この周瑜は精兵数万人を得んことを請います,夏口に進み住み,(その地を)保って将軍の為に之を破ってみせましょう!」孫権曰く:「老賊が漢を廃して自立たんと欲すること久しいものがある矣,徒忌(それを忌んでいたのは)二袁、呂布、劉表と孤<われ>のみだ耳;今数えし(英)雄は已にして滅び,惟だ孤が尚も存すのみ。孤と老賊とは勢いからして両立せず,君の言は当に撃つべしとのことだが,甚だ孤と<与>合うものだ,此は天が君を以ってして孤に授けてくれたのであろう也。」因って拔刀して前の奏案を斫<こわ>して曰く:「諸将吏で敢えて復当に曹操を迎えるべし<者>と言うもの有ら,此の案と<与>同じくなろう!」乃ち会を罷めた。
  是夜,周瑜は復孫権に見えて曰く:「諸人は徒らに曹操の書が水歩八十万と言うのを見て而して各々恐懾していますが,其の虚実を復して科ろうとしていません,此の議を便じ開きますに,甚だ謂われの無いものなのです也。今実を以ってして之を校じましょう:彼が将いし所の中國人は十五六万を過ぎず,且つ已に久しく疲れております;得し所となった劉表の衆も亦七八万を極むのみ耳であって,尚も狐疑を懐いております。夫れ疲病之卒を以ってして狐疑之衆を御さしめるなど,衆の数は多いと雖も,甚だ未だ畏れるに足りません。この周瑜が精兵五万を得たなら,自ら之を制するに足りるのです,願わくば将軍は慮ること勿れ!」孫権は其の背を撫でて曰く:「公瑾,卿の言が此に至るは,甚だ孤心に合うものだ。子布、元表らの諸人は,各々が妻子を顧みて,私慮を挟み持ってしまっており,深失所望(失望を深くしていた所だ);独り卿と子敬と孤が同じくしているのみ耳,此は天が卿ら二人を以ってして孤を讚じさせてくれようとしているのだろう也。五万の兵は(倉)卒には合わせ難いが,已に三万人を選んでいる,船や糧や戦具も倶に辦わえられている。卿と子敬、程公は便じて在前に發し(出発し)てくれ,孤は当に續いて人衆を(徴)発し,資糧を多載し,卿の後援と為ろう。卿能辦之者誠決,邂逅不如意,便還就孤,孤は当に孟徳と<与>之を決さん。」遂に周瑜、程普を以って左右の督と為し,兵を将いて劉備と<与>力を並べて曹操に逆らった;魯肅を以って贊軍校尉と為すと,方略を助畫させた。
  劉備は樊口に在って,日ごと邏吏を遣わし水次に於いて孫権の軍を候望していた。吏は周瑜の船を望見したため,馳せ往きて劉備に白し,劉備は人を遣わして之を慰労させようとした。周瑜は曰く:「軍の任に有ります,不可得委署(部署を委ねること得られません);儻<すぐ>れて能く威を屈されるなら,誠に其の所望に副えるようにしましょう。」劉備は乃ち単舸に乗って往きて周瑜に見えて問うて曰く:「今曹公を拒もうとするにあたり,深く為すは計を得ることでしょう(計を得んことを深く為しましょう)。戦卒は幾ら有るでしょう?」周瑜曰く:「三万人です。」劉備曰く:「恨むらくは少ないかな。」周瑜曰く:「此で自ずと用いるに足ります,豫州どのは但だこの瑜が之を破るのを観られればよい。」劉備は魯肅等を呼び共に会語しようと欲したが,周瑜曰く:「命を受けては妄りに(部)署を委ねることを得ないもの。若し子敬に見えんと欲するなら,可別過之(私とは別れてここで日を過ごすといいでしょう)。」劉備は深く愧<は>じながらも喜んだ。
  (周瑜は)進んで,曹操と<与>赤壁に於いて遇った。時に曹操の軍衆は已に疾疫を有していた,初め一たび交戦すると,曹操の軍には利なく,引いて江北に次いだ。周瑜等は南岸に在ったことから,周瑜の部将の黄蓋は曰く:「今寇は衆我は寡なし,これと<与>持久し難い。曹操軍は方じて船艦を連ね,首尾相接している,燒く可ければ而して走らん也。」乃ち蒙沖や鬥艦十艘を取り,燥荻、枯柴、灌油を其の中に載せ,帷幕を以って裏とし,上は旌旗を建て,備えに走舸を預けて,其の尾に<於>繋いだ。それから先んじて書を以ってして曹操に遣わし,詐雲して降らんことを欲しているとした。時に東南の風が急にあった,黄蓋は十艦を以ってして最著前(その最先頭の艦に姿を著わし),江を中ばにして帆を挙げて,余船は以って次いで倶に進んだ。曹操の軍吏士は皆営を出て立って觀ると,指さして黄蓋が降ったと言った。北へ軍を去ること二里余,時を同じくして火を発した,火は烈しく風も猛しく,船は往くこと箭の如くして,北の船を焼き尽くし,延(焼)して岸に及び営を上って落とした。頃之(このころ),煙炎は天を張りめぐらし,人馬で燒け溺れ死んだ者は甚だ衆<おお>かった。周瑜等は軽鋭を率いて其後ろを継ぎ,雷鼓し大いに進んだため,北軍は大壞した。曹操は軍を引きつれて華容道より<従>歩きで走りのがれようとしたが,泥濘に遇って,道は通じず,天も又大いに風をおこしていた,そこで羸兵を悉く使わして草を負わせて之を填めさせ,騎は乃ち過ぐるを得た。羸兵は人馬に蹈藉される所と為って,泥の中に陷ち,死者は甚だ衆<おお>かった。劉備、周瑜は水陸並進し,曹操を追って南郡に至った。時に曹操の軍は以って饑疫を兼ねており,死者が太半となった。曹操は乃ち征南将軍の曹仁、横野将軍の徐晃を留めて江陵を守らせ,折衝将軍の樂進に襄陽を守らせて,軍を引きつれて北へ還った。
  周瑜、程普は数万の衆を将,曹仁と江を隔てて未だ戦わなかった。甘寧は先んじて徑進して夷陵を取るよう請い,往くと,即ち其の城を得たため,因って入りて之を守った。益州の将である襲肅が軍を挙げて降ったため,周瑜は表して襲肅の兵を以って横野中郎将の呂蒙に益しあたえんとした。呂蒙は盛稱し:「肅は膽用を有し,且つ(王)化を慕って遠くより来たったのです,義に於いて宜しく益すべきです,宜しく奪うべきではありません也。」孫権は其の言を善しとすると,襲肅の兵を還した。曹仁は兵を遣わして甘寧を囲ませたため,甘寧は困急し,周瑜に於いて救いを求めた,諸将は以為<おもへら>兵が少ないため分けるに不足しているとしたところ,呂蒙は周瑜、程普に謂いて曰く:「凌公績を江陵に於いて留めん,この呂蒙と君が行き,解囲釋急,勢亦不久。この蒙は公績が能く十日を守ることを保(証)しましょう也。」周瑜は之に従い,曹仁の兵を夷陵に於いて大いに破ると,馬三百匹を獲て而して還った。是に於いて将士の形勢は自ら倍となった。周瑜は乃ち渡江し,北岸に頓すると,曹仁と相距みあうこととなった。十二月,孫権は自ら将いて合肥を囲み,張昭を使て九江之当塗を攻めさせたが,克てなかった。
  劉備は劉gを表して荊州刺史と為すと,兵を引きつれて南して四郡を徇ったところ,武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙范、零陵太守の劉度は皆降った。廬江の営帥の雷緒が部曲数万口を率いて劉備に帰した。劉備は諸葛亮を以って軍師中郎将と為し,零陵、桂陽、長沙三郡を督さ使と,其の賦税を調えさせて以って軍実を充たさせた;偏将軍の趙去を以って領桂陽太守とした。
  益州牧の劉璋は曹操が荊州に克ったと聞くと,別駕の張松を遣わして曹操に於いて敬いを致させた。張松の為人は短小放蕩であったが,然るに精果に識達していた。曹操は時に已に荊州を定めたところで,劉備を走らせていたため,不復存録松(張松に録を存すこと復さなかった)。主簿の楊修は曹操に張松を辟(召)するよう白したが,曹操はれなかった;張松は此を以ってして怨むこととなり,帰ると,劉璋に曹操と(関係を)絶って,劉備と相結ぶよう勧め,劉璋は之に従うことになった。
  習鑿歯は論じて曰く:昔齊の桓(公)は一たび其の功を矜<ほこ>ると而して叛きし者は九國ともなった,曹操は暫くして自ら驕り伐したところ而して天下は三分した。皆之を勤めること十年を数える<之>内に於けるものであったのに,而して之を棄てること俯仰之頃(つまり僅かな間の内)に於けるものであった,豈に惜しまずにいられようか乎!
  曹操は田疇の功を追念すると,前に其の譲を聴きいれてしまったことを恨み,曰く:「是は一人之志を成したものであるが而して王法大制を虧してしまうことになった也。」乃ち復して前爵を以ってして田疇を封じた。田疇は上疏して誠を陳べ,死を以ってして自ら誓いとした。曹操は聴きれず,之を引きたて拜そうと欲し,(その招きは)四たびを数えるに於けるに至ったが,終に受けなかった。有司は田疇を(弾)劾した:「狷介にして道を違え,苟くも小節を立てんと,宜しく免官して刑を加えるべし。」曹操は世子及び大臣に下して博議させた。世子の曹丕は以って「疇同於子文辞祿,胥に由って賞を逃れんとしているものですが,宜しく其の節に優ることを以ってして奪うこと勿れ。」尚書令の荀ケ、司隸校尉の鐘繇,も亦以って為すに聴きいれる可きであるとした。曹操は猶も之を侯にせんと欲していた,田疇は素より夏侯惇と<与>善くしていた,そこで曹操は夏侯惇を使て自らさせんとして其の情を以って之を喩えさせた。夏侯惇は田疇の宿に就くと而して之を勧めたところ,田疇は其の指を揣知して,不復發言(再び発言しようとしなかった)。夏侯惇は去るに臨み,固く田疇を邀<むかえ>ようとしたが,田疇曰く:「この疇は,負義逃竄之人であるのみです耳;恩蒙り活全うし,幸を為すこと多からんとも矣,豈に盧龍之塞を売り以って賞祿に易<か>える可けんか哉(易えることが出来ようか)!縱國私疇(国を私疇に縦にする/国を縦にしてこの疇に私するなど),(豈に)この疇独り心に於いて愧じないものだろうか乎!将軍はわたくし疇を雅知する者でありますのに,猶も復すこと((猶も爵録を受けるよう)繰り返すこと)此の如し,必ずして已むを得ざるが若くなれば,請願するは效死せんこと,前に於いて首を刎ねられん。」言うや未だ卒せずして,涕泣して横に流れた。夏侯惇は具さにして以って曹操に答えると,曹操は喟然として,知不可屈(屈服出来ないことを知り),乃ち拜して議郎と為した。
  曹操の幼い子である倉舒が卒した,曹操は之を傷み惜しむことしかった。司空掾である邴原の女<むすめ>も早く亡くなっていたことから,曹操は倉舒と<与>合葬せんことを求めようと欲したが,邴原は辞して曰く:「嫁殤は,禮に非ざることです也。わたくし原が<之>明公に於いて容れられし所以<自>,公が<之>わたくし原を待(遇)する所以とは<者>,以って能く訓典を守り而して易えないからです也。若し明公之命を聴きいれましたなら,則ち是凡庸というものです也,明公は焉<なん>以って為させんというのでしょうか哉!」曹操は乃ち止めた。
  孫権は威武中郎将の賀齊を使わして丹楊(郡の)黟、歙の賊を討たせた。黟帥の陳僕、祖山等二万戸が林歴山に(駐)屯しており,そこは四面が壁立し,攻め得る可からざるものであったため,軍が住んで月を經た。賀齊は陰ながら軽捷の士を募ると,隱険に於いて処し,夜には鐵戈を以ってして山を拓いて潛み上り,布を県けて以って下の人を(上ってくるのを)援<たす>けさせた。上ること得た者百余人,四面に分佈するよう令し,鼓角が鳴らされた。賊は大いに驚くと,路を守っていた者は皆逆走し,還って衆に依った。大軍は是に因って上ることを得て,之を大いに破ったのである。孫権は乃ち其の地を分かち新都郡を為すと,賀齊を以って太守と為した。

【ここまで通鑑漢紀五十七】