卷第六十

 

【漢紀五十九】 起閼逢敦牂,尽柔兆涒灘,凡三年

 

孝獻皇帝壬建安十九年(甲午,西暦214年)

 

  春,馬超は張魯に従って兵を求めると,北して涼州を取った,張魯は馬超を遣わして還らせ祁山を囲ませた。姜敘等は夏侯淵に於いて急を告げた,諸将は議して魏公である操の節度を須らくするよう欲した。夏侯淵曰く:「公は鄴に在って,反覆すること四千里である,比報(返報がくるまでには),姜敘等は必ずや敗れていよう,それでは急を救うに非ざることになる也。」として遂に行くと,張郃を使わして歩騎五千を督させて前軍と為した。馬超は敗走した。韓遂は顯親に在ったが,夏侯淵は之を襲い取ろうと欲したため,韓遂は(逃)走した。夏侯淵は追って略陽城に至った,韓遂は去ること三十余里であった,諸将は之を攻めようと欲し,或るひとが言うに当に興國の氐を攻めるべきだとした。夏侯淵は以為(おもへら)く:「韓遂の兵は精(鋭)であり,興國の城は固い,攻めても(倉)卒に拔く可からざることだろう,長離の諸羌を襲うに如かず。長離の諸羌の多くが韓遂の軍に在るから,必ずや帰って其の家を救おうとするだろう。若し羌を捨てて独り守らんとすれば則ち孤<すくな>く,長離を救わんとすれば則ち官兵はこれと<与>野戦するを得ようから,必ず虜とす可からん也。」夏侯淵は乃ち督将を留めて輜重を守らせると,自ら輕兵を将いて長離に到り,羌の屯(営)を焼き攻めた,韓遂は果たして長離を救いにきた。諸将は韓遂の兵が衆<おお>いのを見ると,營を結び塹(壕)を作ってから乃ちこれと<与>戦おうと欲した。夏侯淵曰く:「我らは転じて千里を斗ってきた,今復た營塹を作ったなら,則ち士衆は罷敝してしまい,復た用いる可からざることになろう。賊は衆いと雖も,与すに易し耳。」乃ち之に鼓し,大いに韓遂の軍を破った。それから進んで興國を囲んだ。氐王の千万が馬超のところに奔り,余りの衆は悉く降った。転じて高平、屠各を撃って,皆之を破った。

  三月,詔あって魏公操の位が諸侯王の上に在ることとなり,改めて金璽、赤紱、遠遊冠を授けた。

  夏,四月,旱があった。五月,雨水があった。初め,魏公操は廬江太守の硃光を遣わして皖に駐屯させ,大いに稻田を開かせた。呂蒙は孫権に於いて言いて曰く:「皖の田は肥えて美しい,若し一たび收孰すれば,彼らの衆は必ずや揩オましょう,宜しく早く之を除くべきです。」閏月,孫権は皖城に親攻した。諸将は土山を作ろうと欲し,攻具を添えようとしたため,呂蒙は曰く:「攻具及び土山を治めんとすれば,必ずや日を歴してから乃ち成ることとなろう;そうなれば城の備えは既にして修まっており,外からの救いが必ずや至ろう,図る可からず也。且つ吾らは雨水に乗じて以って(侵)入したのだから,若し留まって日を經てしまえば,水は必ずや尽きるに向かおうし,道を還ろうとしても艱難(を被ることに)なろう,この蒙が竊うに之を危むものです。今此城を観ると,甚だ固くするに能わず,三軍の鋭気を以ってして,四面から並び攻めれば,時を移さずして拔く可けん;そうして水に及んで以って帰す,これが全勝之道であろう也。」孫権は之に従った。呂蒙は甘寧を薦めて升城督と為すと,甘寧は手づから練(った布)を持ち,身づから城に縁って,士卒の先がけと為った;呂蒙は精鋭を以ってして之に継がせ,手づから枹鼓を執ったため,士卒は皆が騰踴した。晨を侵して進攻し,食時に之を破ると,硃光及び男女数万口を獲た。既にして而して張遼が夾石に至ったが,城が已に拔かれたと聞き,乃ち退いた。孫権は呂蒙を拝して廬江太守と為すと,還って尋陽に駐屯した。

  諸葛亮は関羽を留めて荊州を守らせると,張飛、趙雲と<与>兵を将いて流れを溯り巴東へ克った。江州に至ると,巴郡太守の嚴顔を破って,之を生け獲りにした。張飛は厳顔を呵って曰く:「大軍が既にして至ったのに,何ぞ以って降らず,而して敢えて拒み戦ったのか!」厳顔曰く:「卿等は状など無く,我が州を侵し奪ったのだ,我が州には但だ斷頭将軍が有るのみで,降る将軍など無いわ也!」張飛は怒ると,左右に令して牽去って斫頭しようとした。厳顔の容(色)は止まったまま変わらず,曰く:「頭を斫<き>るならきるで便じて頭を斫<き>ればよいものを,何ぞ為して怒るのか邪!」張飛は壯として而して之を釋すと,引きたてて賓客と為した。趙雲を分遣して外水より<従>江陽、犍為を定めさせ,張飛は巴西、コ陽を定めた。

  劉備は雒城を囲んで且つ一年ともなった,龐統が流矢の中る所と為って,卒した。法正は箋<てがみ>して劉璋に与えると,為して形勢の強弱を陳べて,且つ曰く:「左将軍は挙兵してより<従>以來,旧心は依依として,実に意を薄くすることなど無いのです。愚かしくも以って為すに変化を図る可きです,以って尊門を保ちましょう。」劉璋は答えなかった。雒城が潰えると,劉備は進んで成都を囲んだ。諸葛亮、張飛、趙雲が兵を引きつれて來たりて会した。馬超は張魯が与して事を計るに足りないと知り,又た張魯の将である楊昂等が何度も其の能を害うことあったため,馬超は内で邑に於けるを懐くようになった。劉備は建寧の督郵であった李恢を使わして之に往き説かせ,馬超は遂に武都より<従>氐中に逃れて入ると,密書で劉備に於いて降ることを請うてきた。人を使わして馬超を止めると,而して潛かに兵を以って之に資させた。馬超が到ると,軍を引きつれて城北に駐屯するよう令したところ,城中は震え怖いた。劉備が城を囲むこと十日を数えると,従事中郎である涿郡出身の簡雍を使て入らせ劉璋を説かせた。時に城中には尚も精兵三万人が有り,谷(穀物)帛は一年を支えるものであって,吏民は鹹じて戦に死なんと欲した。劉璋は言った:「父子が州に在ること二十余年,恩コなど無く以って百姓に加えられた。百姓は攻戦すること三年ともなり,肌は膏にまみれ野(田野)に草むしたのは<者>,以ってこの璋に故があるのだから也,何ぞわが心は能く安んじえようか!」遂に開城すると,簡雍と<与>輿を同じくして出て降り,群下で流涕しないものは莫かった。劉備は劉璋を公安に於けるに遷すと,尽く其の財物を帰してやり,振威将軍の印綬を佩びさせた。

  劉備は成都に入ると,酒を置いて,士卒を大いに饗した。蜀城中の金銀を取って,将士に分賜し,其の谷帛を還させた。劉備は益州牧を領すると,軍師中郎将の諸葛亮を以って軍師将軍と為し,益州太守で南郡出身の董和を掌軍中郎将と為し,並んで左将軍府事に置いた,偏将軍の馬超を平西将軍と為し,軍議校尉の法正を蜀郡太守、揚武将軍と為し,裨将軍である南陽出身の黄忠を討虜将軍と為し,従事中郎である麋竺を安漢将軍と為し,簡雍を昭コ将軍と為し,北海出身の孫乾を秉忠将軍と為し,廣漢(県の)長であった黄権を偏将軍と為し,汝南出身の許靖を左将軍長史と為し,龐羲を司馬と為し,李嚴を犍為太守と為し,費観を巴郡太守と為し,山陽出身の伊籍を従事中郎と為し,零陵出身の劉巴を西曹掾と為し,廣漢出身の彭を益州治中従事と為した。

  初め,董和が郡に在ったおり,清儉公直であり,民も夷も愛信する所と為ったため,蜀中が推して循吏と為した,故に劉備は挙げて而して之を用いたのである。劉備が<之>新野より<自>江南に奔るや也,荊楚の群士は之に従うこと雲の如くした,而して劉巴は独り北へむかい魏公操を詣でた。曹操は闢して掾と為すと,遣わして長沙、零陵、桂陽を招き納れさせようとした。劉備が三郡を略有するに会ったため,劉巴の事は成らず,交州の道に由って京師に還ろうと欲した。時に諸葛亮が臨蒸に在った,書を以って之を招こうとしたが,劉巴は従わず,劉備は以って恨みと為すこと深かった。劉巴は遂に交趾より<自>蜀に入って劉璋に依った。劉璋が劉備を迎えるに及び,劉巴は諫めて曰く:「劉備は,人に雄たるため也,入れれば必ずや害と為りましょう。」入ること既にして,劉巴は復た諫めて曰く:「若し劉備を使て張魯を討たしまば,是ぞ虎を山林に於いて放つことになりましょう也。」劉璋は聽きいれなかったため,劉巴は門を閉ざして疾<やまい>と称した。劉備が成都を攻めると,軍中に令して曰く:「劉巴を害する者有らば,誅は三族に及ぶものとす。」劉巴を得るに及び,甚だ喜んだ。是の時益州の郡縣は皆が風を望んで景附したが,独り黄権だけは城を閉ざして堅く守り,須く劉璋が稽服してから,乃ち降った。是に於いて董和、黄権、李嚴等は,本もとは劉璋之用を授けし所であった也;呉懿、費観等は,劉璋之婚親であった也;彭は,劉璋之擯棄せし所のものであった也;劉巴は,宿昔之忌恨とする所であった也;しかし劉備は(彼らを)皆之を顯任に処させ,其の器能を尽くさせたため,志を有する之士は,競い勧めないものは無く,益州之民は,以って大いに和すを是としたのである。初め,劉璋は許靖を以って蜀郡太守と為していた。成都が将に潰えんとするにあたり,許靖は謀って逾城して(城を乗りこえて)劉備に降ろうとした,そのため劉備は此を以って許靖に薄くあたって,用いなかった也。法正が曰く:「天下には虚譽を獲ておりながら而して其の実の無い者が有ります,許靖が是れです也。然るに今主公は大業を創始せんとしております,天下之人は,戸説す可からず(天下の人々の口に戸を立てることは出来ません),宜しく敬重を加えられるべきです,そうして以って遠近之望みを慰めましょう(慰労しましょう)。」そこで劉備は乃ち禮して而して之を用いた。

  成都之囲まれるや也,劉備は士衆と<与>約した:「若し事が定まったなら,府庫の百物は,孤が焉を預かること無いだろう。」成都を抜くに及び,士衆皆捨干戈赴諸藏,競って寶物を取ることになった。軍用が不足したため,劉備は甚だ之を憂いたが,劉巴曰く:「此は易し耳。但だ当に直ちに百錢を鑄(造)し,諸物價を平らげ,吏に令して官市を為すべきです。」劉備は之に従った。数月之間に,府庫は充実した。時に議者は成都の名だたる田宅を以ってして諸将に分賜させたいと欲した。趙雲曰く:「霍去病は以って匈奴が未だ滅ぼされていないとして,無用家為。今國賊は但だ匈奴のみに非ず,未だ安きを求める可からず也。須く天下の都が定まってから,各々桑梓を反し,本土に帰耕させれば,乃ち其れ宜しいことでしょう耳。益州の人民は,初めに罹兵革めて,田宅は皆帰し還す可きです,そうして令して居に安んじさせて業を復させます,然る後に役調を(課)す可くすれば,其の歓心を得られましょう,之を奪って以って私のものとし愛でる所とするのは宜しくすべきではありません也。」劉備は之に従った。

  劉備之劉璋を襲うや也,中郎将で南郡出身の霍峻を留めて葭萌城を守らせた。張魯は楊昂を遣わして霍峻を誘うと求めて共に城を守ろうとしてきた。霍峻曰く:「小人の頭は得る可くも,城は得る可からざらん!」楊昂は乃ち退いた。後に劉璋の将である扶禁、向存等が万余人を帥して閬水上に由って,霍峻を攻め囲み,且つ一年となった。霍峻の城中の兵才は数百人であったが,其の怠隙(怠惰と隙のできるの)を伺い,精鋭を選んで出撃し,之を大いに破ると,向存を斬った。劉備が蜀を定めること既にしてから,乃ち廣漢を分けて梓潼郡を為し,霍峻を以って梓潼太守と為した。

  法正は外では都畿を統め,内では謀主と為ったため,(自分が益州に寄留していた時期に受けた)一飧之コや、睚眥之怨みについて,報復しないことなど無く,己を毀傷した者数人を擅殺した(専断で殺してしまった)。或るひとが諸葛亮に謂いて曰く:「法正は太<おお>いに縱しています(勝手気ままが酷くなっています),将軍は宜しく主公に啓(発)してやり,其の威福を抑えるべきです。」亮曰く:「主公が<之>公安に在るや也,北は曹操之強きを畏れ,東は孫権之逼るを憚り,近くは則ち孫夫人が肘腋に於いて変を生じさせないかと懼れてきた。法孝直が之に輔翼と為るや,令すること翻然として翔し,複製す可からざることとなった。如何に孝直(の勝手)を禁止しようとしても,使不得少行其意邪(其の意<きもち>を行うことを少なくするのは得させ<使>られないだろう)!」諸葛亮は劉備を佐<たす>けて蜀を治めると,頗る嚴峻なるを尚んだため,人は多くが怨歎する者となった。法正は諸葛亮に謂いて曰く:「昔高祖が関(中)に入ると,法を約して三章としたため,秦民はコを知ったとか。今君は威力を假借して,一州に跨拠っています,初めて其の國を有したというのに,未だ惠撫を垂れていません;且つ客主之義では,宜しく相降下しあうもの,願わくば刑を緩め禁を弛めて以って其の望を慰める(慰撫す)べきです。」亮曰く:「君は其の一を知るも,未だ其の二を知らず。秦は無道を以ってしたため,政は苛<ひど>く民は怨んだ,それゆえ匹夫が大呼すれば,天下は土崩したのです;高祖は之に因ったため,以って弘濟すること可(能)だったのです。劉璋は闇弱でして,劉焉より<自>已來,累世之累を有し,文法は羈縻し,互いに相承奉しあっており,コ政は挙げられず,威刑は肅えられていません。蜀土の人士は,專権して自ら恣とし,君臣之道は,漸いに以って陵替してきていたのです。之を寵するに位を以ってするなら,位極まれば則ち(性根で主を)賤しむようになりましょう;之に順うに恩を以ってするなら,恩が竭ければ則ち(性根で主を)慢ることになりましょう。(劉璋が)敝を致した所以は,実は此に於けるに由るのです。吾は今之を威<おど>すに法を以ってしています,(公平に)法が行われれば則ち恩を知りましょう;之を限るに爵を以ってします,爵が加えられれば則ち榮(達)を知りましょう。榮えと恩とが並び濟されれば,上下は節を有すこととなります,為治之要めは,斯に於いて而して著わされるのです矣。」劉備は零陵出身の蔣琬を以って廣都(県の)長と為した。劉備が嘗て遊観に因って,廣都に奄至したところ,蔣琬が衆事して(仕事を積みあげて)治めていないのに見えた,時に又た沉醉していた。劉備は大いに怒ると,将に罪戮を加えようとした。諸葛亮は請うて曰く:「蔣琬は社稷之器でして,百里之才に非ざるものです也。其れ為政とは安民を以って本を為すものであって,修飾を以って先と為すものではありません,願わくば主公には重ねて加え之を察せられんことを。」劉備は諸葛亮を雅<つね>に敬っていたため,乃ち罪を加えず,倉卒に但だ免官する而已<のみ>とした。

  秋,七月,魏公操は孫権を撃つことにすると,少子であった臨菑侯の曹植を留めて鄴を守らせた。曹操は諸子の為に官屬を高選し,刑顒を以って曹植の家丞と為した。刑顒は防閧キるに禮を以ってし,屈撓する所無かったため,是に由って(曹植との仲が)合わなくなった。庶子の劉驍ヘ文辭を美<うるわ>しくしたため,曹植は之を親愛していた。劉驍ヘ書を以って曹植を諫めて曰く:「君侯は庶子之春華を采りながら,家丞之秋実を忘れて,上に謗りを招くようなことを為しております,其の罪は小さからず,愚かしくも実に焉<これ>を懼れるものです。」

 

  魏の尚書令であった荀攸が卒した。荀攸は深密にして智防を有し,魏公操が攻討するに従ってより<自>,常に帷幄にあって謀謨していたが,時の人及び子弟で其の言った所を知るものとて莫かった。曹操は嘗て稱えた:「荀文若の<之>善を進めるや,進まなければ休まないほどのものであった;荀公達の<之>惡を(取り)去るや,去らねば止まないものであった。」又た稱えた:「二荀令の<之>人を論じたものは,久しくすると而して益すます信じられるものとなった,吾は世を沒しても(彼らが亡くなろうと)忘れまい。」

  初め,枹罕の宋建が涼州が乱れたのに因って,自号して河首平漢王とし,改元して,百官を置くこと,三十余年となった。冬,十月,魏公操は夏侯淵を使て興國より<自>宋建を討つと,枹罕を囲んで,之を拔き,宋建を斬った。夏侯淵は別に張郃等を遣わして渡河させると,小湟中に入らせた,河西の諸羌は皆降り,隴右は平げられた。

  帝は許を都として自り以來,位を守る而已<のみ>で,左右の侍衛は曹氏之人に非ざる者は莫かった。議郎の趙彦は嘗て帝の為に時の策を陳言したため,魏公である曹操は惡んで而して之を殺した。曹操は後に事を以って殿中に入り見えたおり,帝不任其懼,因って曰く:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」曹操は失色すると,俛仰して出ることを求めた。旧儀では:三公が兵を領するばあい,朝見すれば,虎賁に刃を執らせて之を挾むよう令したものであった。曹操は出てくると,左右を顧みて,汗が流れること浹背した;これ自り後には朝請すること復たしなかった。董承の女<むすめ>が貴人と為っていた,曹操が董承を誅すると,貴人を求めて之を殺した。帝は以って貴人が妊を有した(妊娠していた)ため,累ねて請うこと為したが,得ること能わなかった。伏皇后は是に由って懼れを懐き,乃ち父の完に書を与え,曹操について殘逼之状を言い,密かに之を図るよう令したが,伏完は敢えて發しなかった。是に至って,事は乃ち洩れた,曹操は大いに怒ると,十一月,御史大夫の郗慮を使て持節させて策にて皇后の璽綬を収めさせると,尚書令の華歆を以って副と為させ,兵を勒して入宮し,後(伏皇后)を収めさせた。【a】後(伏皇后)は戸を閉ざすと,壁中に蔵<かく>れた。華歆は戸を壊し壁を發(掘)し,就きて後(伏皇后)を牽いて出てきた。時に帝は外殿に在ったが,坐に於いて郗慮を引きつれていたが,後(伏皇后)が發(掘)に被って,徒跣してきて,泣きながら行くと,(帝のところを)過ぎるおり訣して曰く:「復た相活かしあうこと能わないのでしょうか邪?」帝曰く:「我も亦た命が何時に在るかを知らないのだ!」顧みて郗慮に謂いて曰く:「郗公,天下に寧んぞ是すること有ろうか邪!」遂に後(伏皇后)を将いて暴室に下すと,以って幽死させたのである;生みし所であった二皇子は,皆之を鴆殺し,兄弟及び宗族で死んだ者は百余人となった。

a】ニセクロ注:「後」は伏完の娘で献帝に嫁いだ伏皇后を指す。後漢書后紀(下)献帝伏皇后の記述によると彼女の名は寿となっている。この「後」は(彼女の名ではなく)「后」の読み替えと考えられる。この前の段で皇后の印綬が既に取り上げられているため皇后とは呼べないという判断なのであろう。

  十二月,魏公操は孟津に至った。

  曹操は尚書郎の高柔を以って理曹掾と為していた。旧法では:軍征したおりに士が亡<はし>れば,考は其の妻子に竟<とど>まるとしていた。而して亡る者が猶も息つかなかった。曹操は更めて其の刑を重くしようと欲した,並ぶこと父母、兄弟に及ぶようにしようとしたのである,そこで高柔は啓(発)して曰く:「士卒が軍から亡るは,誠に疾む可きものが在ります,然るに基中を竊い聞きますに時に悔いる者が有るとか。愚かしくも謂いますに乃ち宜しく其の妻子を貸しとして(生かして人質のようにして)おいてやり,一たびは(一えに)其の還らんとする心を誘わ使む可きでしょう。正に前に科したが如くなれば,固より已にして其の意望を絶ってしまうことになります;(そのうえ)而して猥りに復た之を重くする,この柔は恐らく今より<自>在軍之士は,一人が亡逃するを見れば,誅が将に己に及ぶだろうとして,亦た且つ相隨いあって而して走りさってしまい,不可復得殺(復し得て殺す可からざることとなりましょう)也。此は刑を重くしても亡るを止める所以に非ざるうえに,乃ち益すます走らせる所以となるだけ<耳>でしょう!」曹操曰く:「善し!」即ち止めて殺さないこととした。

 

 

孝獻皇帝壬建安二十年(乙未,西暦215年)

 

  春,正月,甲子,貴人の曹氏を立てて皇后と為した;魏公である曹操之女<むすめ>である也。三月,魏公操は自ら将いて張魯を撃たんとし,将に武都より<自>氐に入ろうとしたが,氐人が道を塞いだため,張郃、硃靈等を遣わして之を攻め破った。夏,四月,曹操は陳倉より<自>散関に出て河池に至った,氐王竇茂の衆万余人が險を恃んで服さなかったため,五月,之を攻め屠った。四平、金城の諸将である麴演、蔣石等が共になって韓遂の首を斬って送ってきた。

  初め,劉備が荊州に在ったおり,周瑜、甘寧等は何度も孫権に蜀を取るよう勧めた。孫権は使いを遣わして劉備に謂いて曰く:「劉璋は不武であり,自守すること能わず,若し曹操を使て蜀を得させてしまえば,則ち荊州は危うからん矣。今欲して先ず劉璋を攻め取り,次いで張魯を取って,南方を一つに統めん,そうすれば十操(十人の曹操が)有ると雖も,憂うる所無からん也。」劉備は報じて曰く:「益州の民は富み地は險しく,劉璋は弱いと雖も,以って自らを守るに足るものです。今蜀漢に於いて師を暴<さら>さんとすれば,万里に於いて転運することとなりましょう(糧秣を万里に於いて輸送することになりましょう),欲使戦克攻取,挙不失利,此は孫呉の難き所です也。議者は曹操が赤壁に於いて利を失ったのを見て,其の力が屈したのだと謂いましたが,無復遠念(遠くへ思いを致すことを復無くしています)。今曹操は天下を三分して已に其の二を有しておりまして,将に滄海に於いて馬に(水を)飲ませようとしており,呉会に於いて観兵(閲兵)しようと欲しております,何ぞ此の坐を守るを肯んじて須く老いたりしましょう乎!而して同盟しながら故無く自ら相攻伐しあうなら,曹操に於いて借樞させることとなります,敵を使て其の隙を承らせるようにする,長計に非ざることです也。且つこの備と<与>劉璋どのとは托して宗室と為っています,英靈に憑けてを冀い以って漢朝を匡さんとしています。今劉璋どのが罪を左右に於いて得んとするなら,この備は独り悚懼し,敢えて聞く所に非ざることとします,願わくばェ貸を加えられんことを。」孫権は聽きいれず,孫瑜を遣わして水軍を率いさせて夏口に往かせた。劉備は軍が過ぎるのを聴きいれず,孫瑜に謂いて曰く:「汝が蜀を取ろうと欲するなら,吾は当に被發して入山し,天下に於ける信(任)を失わないようにするのだ也。」関羽を使わして江陵に駐屯させ,張飛を秭帰に駐屯させ,諸葛亮を南郡に拠らせ,劉備自らは孱陵に往ったため,孫権は已むを得ず孫瑜を召して還らせた。劉備が西へむかい劉璋を攻めるに及んで,孫権曰く:「猾虜めが,乃ち敢えて挾詐すること此の如しであるか!」劉備は関羽を留めて江陵を守らせた,魯肅は関羽と<与>(境)界を鄰にしていた;関羽は何度も疑貳を生じたが,魯肅は常に歓好を以って之を(慰)撫させた。劉備が已にして益州を得るに及ぶと,孫権は中司馬の諸葛瑾に令して以って劉備から荊州諸郡を求めさせた。劉備は許さずに,曰く:「吾は涼州を方じ図っている,涼州が定まったなら,乃ち尽くするに荊州を以ってして相与えるのみ耳。」孫権曰く:「此は假していたのに而して反さない,乃ち虚辭を以って歳(月)を引きのばそうと欲しているのだ也。」遂に長沙、零陵、桂陽の三郡に長吏を置いた。関羽は之を尽く逐いやった。孫権は大いに怒ると,呂蒙を遣わして兵二万を督させて以って三郡を取らせんとした。呂蒙は書を長沙、桂陽に移したところ,皆風を望んで帰服してきた,惟だ零陵太守の郝普だけは城守して降らなかった。劉備は之を聞くと,蜀より<自>親しく公安に至り,関羽を遣わして三郡を争わせた。孫権は陸口へ進み往き,諸軍に節度を為した;魯肅を使わして万人を将いさせて曾陽に駐屯させ以って関羽を拒ませた;書を飛ばして呂蒙を召すと,零陵を捨てさせ使むと急いで還らせ魯肅を助けさせようとした。呂蒙は書を得ると,之を秘し,夜になって,諸将を召して授けるに方略を以ってした;晨,当に零陵を攻めるべく,顧みて郝普の故人であった南陽出身のケ玄之に謂いて曰く:「郝子太は世間では忠義の事を有すと聞く,亦た之を為そうと欲しているが,而して時を知らない也。今左将軍は漢中に在って夏侯淵の為に囲まれる所となっており;関羽は南郡に在るが,至尊身ずから自ら之に臨んでいる。彼方首尾倒縣,救死不給,豈有余力復營此哉!今吾が力を計り慮りを度<はか>り而して以って此を攻めるなら,曾て日を移さずして而して城は必ずや破られよう,城が破れし<之>後なら,身は死すとも,何の益が事に於いてあろうか,而して令百歳老母戴白受誅,豈に痛ましくないことあろうか哉!度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳。君可見之,為陳禍福。」玄之は郝普に見えると,具さに呂蒙の意を宣べたところ,郝普は懼れて而して出てきて降った。呂蒙は迎えると,其の手を執ってこれと<与>倶に下船し,語り畢わると,書を出して之を示し,因って手を拊いて大笑いした。郝普は書を見て,劉備が公安に在って而して関羽が益陽に在ると知ると,慚じて恨み地に入った。呂蒙は孫河を留めて,以って後事を委ね,即日にして軍を引きつれて益陽に赴いた。

  魯肅が関羽と<与>会語せんと欲したところ,諸将は恐らく変が有ることを疑い,議して往く可きでないとした。魯肅は曰く:「今日之事は,宜しく相開譬すべきなのだ。劉備は國を負い,是非は未だ決していない,関羽も亦た何ぞ敢えて重ねて命を干せんと欲しよう!」乃ち関羽を邀えて相見えると,各々兵馬を駐めること百歩上,但だ諸将軍だけが単刀にて倶に会すこととなった。魯肅は因って関羽を以って三郡を返さないとして何度も責めた,関羽曰く:「烏林之役では,左将軍は身づから行間に在って,戮力して敵を破ったのだ,豈に徒勞を得て,一塊<くれ>の土さえ無いことがあろう,而しながら足下は來たりて地を収め(没収し)ようと欲するのか邪!」魯肅曰く:「然らず。始め(劉)豫州どのは<与>長阪に於いて覲すると,豫州どの之衆は一校にも当らず,計は窮まって慮りは極まり,志と勢いは摧<くじ>かれ弱まっており,図ったことは遠竄とならんと欲することで,望んだことは此に及ばないものであった。わが主上は豫州どの之身が處る所を有すこと無くなったのを矜愍し,不愛土地士民之力,使有所庇廕以濟其患;而して豫州どのは私ごとで独り情を飾りたてて,徳を愆し好みを(地に)墮とした。今已にして西州に於けるを手に藉しておられるというのに矣,又た荊州之土を翦並しようと欲されるとは,斯くは蓋し凡夫も行うを忍ばない所である,而して況んや人物を整領する<之>主においてや(どうであろうか)乎!」羽無以答(関羽は無(言)で以って答えとした。魏公である曹操が将に漢中を攻めようとしていると聞く(事態)に会ったため,劉備は益州を失うことを懼れて,使いを使わして孫権に於いて和を求めさせた。孫権は諸葛瑾に令して報命させると,更めて尋盟と好みをむすんだのである。そうして遂に荊州を分けて,湘水を以って界と為すこととなった;長沙、江夏、桂陽以東は孫権に属すこととなり,南郡、零陵、武陵以西は劉備に属すこととなった。諸葛瑾は奉使して蜀に至る毎に,其の弟である諸葛亮と<与>但だ公で会ったおりに相見えるだけで,退けば私面すること無かった。

  秋,七月,魏公操は陽平に至った。張魯は漢中を挙げて降ろうと欲したが,其の弟である張衛は肯んじず,眾数万人を率いて関で拒み堅守すると,山を横(断)するように築城すること十余里。初め,操承涼州従事及武都降人之辭,「張魯は攻めるに易く,陽平城下南北山相遠,不可守也」,信じて以って然りと為したのだ。往って臨履するに及び,聞いた所に如かず,乃ち歎じて曰く:「他人が度<はか>ったのを商いしてみると,人の意(見)の如くであったことは少ないものだ。」陽平山上の諸屯を攻めようとした,山は峻しく登るに難しく,既にして拔くに時せず,士卒で傷夷する者が多く,軍の食は且つ尽きんとしたため,曹操の意は沮(喪)し,便じて軍を截山から抜いて而して還ろうと欲し,大将軍の夏侯惇、将軍の許褚を遣わして山上の兵を呼ばせ還らせようとした。前軍が夜になって迷い惑うに会い,誤って張衛の別營に入ったため,營中は大いに驚いて退散した。侍中の辛毘、主簿の劉曄等は兵の後ろに在ったが,夏侯惇、許褚に語った,言うに「官兵は已に賊の要屯を拠得してしまっており,賊は已に散りぢりになって(逃)走してしまいました」としたが,猶ち之を信じなかった。夏侯惇は前にすすんで自ら見にゆくと,乃ち還って曹操に白し(報告し),兵を進めて張衛を攻めたため,張衛等は夜にまぎれて遁れていった。張魯は陽平が已に陷ちたと聞くと,降ろうと欲した,閻圃は曰く:「今以って迫られ往けば,功は必ずや輕いことでしょう;杜濩や赴樸胡に拠るに如かず,これと<与>ともに相拒みあい,然る後に質を委ねれば,功は必ずや多くなりましょう。」乃ち南山に奔って巴中に入った。左右は寶貨や倉庫などを悉く燒いてしまおうと欲したが,張魯は曰く:「本より國家に帰命しようと欲していたのに,而して意は未だ達するを得ないでいた。今之鋭鋒を避けて走っているのは,惡意を有するからに非ず。寶貨をおさめている倉庫は,國家之有すものだ。」遂に藏を封じて而して去った。曹操は南鄭に入ると,甚だ之を嘉した。又た以って張魯は本もと善意を有していたのだからと,人を遣わして之を慰さめ喩させた。

  丞相主簿の司馬懿は曹操に於いて言いて曰く:「劉備は詐力を以ってして劉璋を虜としましたから,蜀人は未だ附かずにいるのですが,而して遠く江陵を争っています,此の機は失う可からず也。今漢中に克ちましたから,益州は震え動いております,兵を進めて之に臨めば,勢いからして必ずや瓦解しましょう。聖人は時を違えること能わないもの,亦た時を失う可からず也。」曹操曰く:「人は足ること無きに苦しむものだ,既にして隴を得たり,復た蜀を望もうというのか邪!」劉曄曰く:「劉備は,人傑です也,有度而遲;蜀を得てから日は淺く,蜀人は未だ恃みとしていません也。今漢中を破ったことで,蜀人は震え恐れており,其の勢いは自ら傾いております。公之神明を以ってして,其の傾くに因って而して之を壓すれば,克たないことは無いでしょう也。若し小しく之を緩めてしまえば,諸葛亮は治國に於いて明たるもので而して相と為っており,関羽、張飛はその勇三軍に冠たりて而して将と為っております,蜀の民が既にして定まってから,險に拠って要を守るなら,則ち犯す可からざることとなりましょう矣。今取らなければ,必ずや後の憂いと為りましょう。」曹操は従わなかった。居ること七日にして,蜀の降ってきた者が説くことに「蜀の中では一日に十驚を数え,守将が之を斬ると雖も而して安んじること能わないでおります也。」曹操は劉曄に問いかけて曰く:「今も尚撃つ可きであろうか不か?」劉曄曰く:「今は已に小し定まってしまいました,未だ撃つ可からずでしょう也。」乃ち還った。夏侯淵を以って都護将軍と為し,張郃、徐晃等を督させて漢中を守らせた;丞相長史の杜襲を以って駙馬都尉と為し,留めて漢中事を(監)督させた。杜襲は綏懷開導したため,百姓で自ら樂んで洛、鄴へ出て徙る者八万余口となった。

  八月,孫権は衆十万を率いると合肥を囲んだ。時に張遼、李典、樂進は七千余人を将いて合肥に駐屯していた。魏公である曹操之張魯を征するや也,教を為して合肥の護軍であった薛悌に与え,函の邊に署して曰く:「賊が至らば,乃ち發<ひら>け。」孫権が至るに及び,教を発<ひら>くと,教は曰く:「若し孫権が至るなら<者>,張、李将軍は出て戦え,樂将軍は守れ,護軍は戦いに与すること得る勿れ。」諸将は以って衆が寡なく敵しなかったため,之を疑った。張遼曰く:「公は遠征して外に在るのだから,比して救いが至ろうにも,彼らは我らを破っていること必ずであろう矣。是ぞ以って教が指すのは其の未だ合わざるに及んで之を逆撃し,其の盛んなる勢いを折りとって,以って衆心を安んじ,然る後に守る可きということだろう也。」楽進等は對すること莫かった。張遼は怒って曰く:「成敗之機は,此の一戦に在る。諸君が疑う若くならば,この遼は将に独りで之を決しよう。」李典は素より張遼と<与>睦じくなかったが,慨然として曰く:「此は國家の大事である,君の計を省みて何如であるかというだけだ<耳>,吾は私憾を以ってして而して公義を忘れる可きだろうか乎!請う、君に従い而して出よう。」是に於いて張遼は夜に敢従之士を募り,八百人を得ると,牛を椎でうちころし犒饗した。明くる旦,張遼は甲を被って戟を持つと,先登となって陣を陷とし,数十人を殺し,二(人)の大将を斬りすて,大呼して自ら名のると,沖壘して入って孫権の麾下に至った。孫権は大いに驚き,為す所を知らず,走って高塚に登り,長戟を以って自らを守った。張遼は孫権に下りてきて戦えと叱ったが,孫権は敢えて動かずにいた,張遼が将いし所の衆が少ないのを望見すると,乃ち聚まって張遼を数重にも囲んだ。張遼は囲みを急撃して開くと,麾下の数十人を将いて出るを得た。余りの衆が号呼して曰く:「将軍は我らを棄てるのか乎?」張遼は復た還って囲みを突き,余りの衆を抜き出した,孫権の人馬は皆披靡(靡くように動き),敢えて当る者が莫かった。旦より<自>戦って日中に至り,呉人は気を奪われた。乃ち還って守りと備えを修めたため,衆心は遂に安んじたのである。孫権は合肥を守ること十余日,城が拔く可からざることとなったため,軍を徹して還ることとなった。兵は皆が路に就くと,孫権と<与>諸将は逍遙津の北に在った,張遼は覘望して之を知ると,即ち歩騎を将いて奄いに至った。甘寧と<与>呂蒙等は力戦して敵に扞い,凌統は親近を率いて孫権を扶け囲みを出ると,復た還って張遼と<与>戦ったところ,左右の尽くが死んでしまい,身づからも亦た創を被ったが,孫権が已にして免れたのを度ると,乃ち還った。孫権は駿馬に乗って津橋の上にいたところ,橋面が已にして徹しており(崩れ落ちており),丈余りは版が無かった;親近の監であった谷利が馬後に在り,孫権を使て鞍を持たせ控を緩ませると,後ろに於いて谷利は鞭を著して以って馬勢を助けさせ,遂に超度するを得たのである。賀齊は三千人を率いて津の南に在って孫権を迎えたため,孫権は是に由って免れるを得たのである。孫権は大船に入って宴飲すると,賀齊は席を下がって涕泣して曰く:「至尊は人主であります,常に持重に当るべきでありますのに,今日之事は,幾らもなく禍ち敗れるを致すところでした。群下は震え怖き,天地が無くなったが若くでありました,願わくば此を以って終身之誡めと為さいますように!」孫権は自ら前にすすんで其の涙を収める(拭いとってやる)と曰く:「大いに慚じて謹しみ已にして心に刻んでいる,但だ紳に書すだけに非ず也。」

  九月,巴、賨の夷帥である樸胡、杜濩、任約が,各々其衆を挙げて來たりて附いた。是に於いて巴郡を分けて,樸胡を以って巴東太守と為し,杜濩を巴西太守と為し,任約を巴郡太守と為して,皆列侯に封じた。

  冬,十月,名号侯を始め置くこととし以って軍功を賞すこととした。

  十一月,張魯が家屬を将いて出てきて降った。魏公である曹操は張魯を逆に拝して鎮南将軍とすると,客禮を以って待(遇)し,閬中侯に封じた,邑万戸である。張魯の五子及び閻圃等を封じて皆列侯と為した。

  習鑿齒は論じて曰く:閻圃は張魯に王となること勿れと諫め,而して曹公は之を追封した,将來之人は,孰んぞ順うことを思わないだろうか!其の本源を塞げば而して末流は自ら止まる,其此之謂与!若乃不明於此,而重焦爛之功,爵を豊かにし賞を厚くして死戦之士(の身の上)に於いて止めれば,則ち民は乱の有るに於けるを利としようし,俗は殺伐に於けるを競うことになろう,阻兵杖力,干戈不戢矣。曹公之此たびの封は,賞罰之本を知っていると謂う可きである矣。

  程銀、侯選、龐コが皆張魯に随って降ったため,魏公である曹操は程銀、侯選の官爵を復し,龐コを拝して立義将軍とした。

  張魯之巴中に走るや也,黄権は劉備に於いて言いて曰く:「若し漢中を失えば,則ち三巴は振わず,此は蜀之股臂を割くことに為ります也。」劉備は乃ち黄権を以って護軍と為し,諸将を率いて張魯を迎えさせた;張魯が已にして降っていたため,黄権は遂に樸胡、杜濩、任約を撃つと,之を破った。魏公操は張郃を使て諸軍を督させて三巴に徇らせると,其民を漢中に於けるに徙<うつ>そうと欲し,軍を宕渠へ進めた。劉備は巴西太守の張飛を使て張郃と<与>相拒ませあった,五十余日して,張飛は張郃を襲い撃ち,之を大破した。張郃は(逃)走して南鄭に還り,劉備も亦た成都に還った。

  曹操は故の韓遂、馬超等の兵五千余人を徙<うつ>し出そうと欲すると,平難将軍の殷署等を使て督領させ,扶風太守の趙儼を以って関中護軍と為させた。曹操は趙儼を使て千二百の兵を(徴)発させて漢中の守禦を助けさせ,殷署に之を督送させたところ,行くことになった者は樂しまなかった。趙儼は護送して斜谷口に至ると,還ることになったが,未だ營に至らずして,殷署の軍が叛乱した。趙儼は自ら歩騎百五十人を随えていたが,皆叛いた者の親黨であったため也,之を聞いて,(その百五十人)各々は驚き,甲を被って兵を持ち(武器を持ち),復た自ら安んじることなかった。趙儼は成敗を以ってして徐に諭すと,慰め勵ますこと懇切にしたため,皆慷慨として曰く:「死生は当に護軍に随おう,敢えて二つ有ることをしない(二心を有すようなことはしない)!」前にすすんで諸營に到ると,各々諸奸で叛いた者と結んでいたもの八百余人を料り簡(抜)して召すと,原野に散在させた。趙儼は令を下して惟だ取其造謀魁率治之,余りは一つも問わないこととし,郡縣で收送した所は皆放遣することとしたため,乃ち即ちに相率いて還ってきて降った。趙儼は密かに白した:「宜しく将を遣わして大營に詣でさせ,旧兵を請うて関中を鎮守させるべきです。」魏公である曹操は将軍の劉柱を遣わして二千人を将いさせて往かせると,当に須く到ってから乃ち発し遣わすことにした。俄にして而して事が露わとなって,諸營は大いに駭え,安んじ諭す可からざることになった。そこで趙儼は遂に宣言した:「当に差して新兵之温厚なる者千人を留めて,関中を鎮守させ,其の余りは悉く東に遣わすこととする。」便見主者内諸營兵名籍,立差別人。留者意定,与儼同心,其当去者亦不敢動。儼一日尽遣上道,因使所留千人分佈羅落之。東兵尋至,乃復脅諭,並徙千人,令相及共東。凡そ全うする所は二万余口を致すこととなった。

 

 

孝獻皇帝壬建安二十一年(丙申,西暦216年)

 

  春,二月,魏公操は鄴に還った。

  夏,五月,魏公操の爵を進めて王と為した。

  初め,中尉の崔琰は巨鹿出身の楊訓を曹操に於いて薦めたため,曹操は之を禮辟した。曹操が爵を進めるに及び,楊訓は表を発して功徳を稱頌した。或るひとが楊訓のことを世を浮偽することを希っていると笑い,謂わば崔琰は挙げた所を失ったと為したのである。崔琰は楊訓から<従>表草を取って之を視ると,楊訓に書を与えて曰く:「表を省みたが,事は佳きのみ耳。時よ乎,時よ乎!当に変時の有るべきに会ったものだ。」崔琰は本もとの意では論者を譴呵を好んで而して情理を尋ねないと譏り也,時に崔琰と<与>は宿(怨)から平らがない者が有って,崔琰のことを白して「傲世して怨み謗り,意は不遜を指さしている」としたため,曹操は怒って,崔琰を収めて獄に付けると,髠(刑)としてから徒隸と為した。前に崔琰のことを白した者が復た之を白して云った:「崔琰は(刑)徒と為っていながら,賓客に虯鬚のまま対(面)して直視しており,瞋す所が有るかの若くです。」としたため遂に崔琰に死を賜った。尚書僕射の毛玠は崔琰が無辜であったのに傷つけられたために,心ではスばなかった。人が復た毛玠のことを怨み謗っていると白したため,曹操は毛玠を収めて獄に付けた,侍中の桓階、和洽は皆之の為に理を陳べたが,曹操は聴きいれなかった。桓階は其の事を案実するよう求めた。王曰く:「言事者白,玠不但謗吾也,乃復為崔琰觖望。此は君臣の恩義を捐うものだ,妄りに死んだ友の為に怨み歎くなど,殆んど忍ぶ可からざることだ也。」和洽曰く:「事を言いし者の言の如くでありますなら,毛玠の罪と過ちは深く重く,天地が覆載する所に非ざるものです。臣は毛玠を理めるのを敢えて曲げてまでして以って大倫を枉げんとするに非ず,以って毛玠は歴年にわたり寵を荷ない,剛直にして忠公であって,衆の憚る所と為っておりましたから,此(こうしたこと)が有るのは宜しからず。然るに人情は保ち難いものです,要するに宜しく毛玠を考じるにあたっては,其の実を兩つとも驗めるべきです。今聖恩は理に於いて之を致すこと忍ばず,更使曲直之分不明。」操曰:「所以不考,欲兩全玠及言事者耳。」和洽は對して曰く:「毛玠が信<まこと>に謗主之言を有したのなら,当に之を肆して朝に市すべきです;若し毛玠に此の言が無いのなら,事を言った者は大臣を誣して以って主の聽を誤まらせた(罪)を加えるべきです,檢覈を加えないなど,臣が竊いますに安んじますまい。」曹操は卒として治を窮まっていないとし,毛玠は遂に免黜されて,家に於いて終えることとなった。是時西曹掾であった沛國出身の丁儀が用いられ事えていた,毛玠が<之>罪を獲るにあたり,丁儀が焉<これ>に力<つとめ>ること有ったため;群下は之を畏れて側目した。尚書僕射の何夔及び東曹屬であった東莞出身の徐弈は独り丁儀に事<つか>えなかったため,丁儀は何弈を譖し,出して魏郡太守と為した,ョ桓階左右之得免。尚書の傅選が何夔に謂いて曰く:「丁儀は已にして毛玠を害した,子は宜しく少しは之に下るべきだ。」何夔曰く:「為不義,適足害其身,焉んぞ能く人を害しえようか!且つ奸佞之心を懐いて,明朝に於いて立っているのだ,其れ久しきこと得られようか乎!」崔琰の従弟であった崔林は,嘗て陳群と<与>共に冀州の人士を論じたことがあり,崔琰を称えて首と為した,群以智不存身貶之。林曰:「大丈夫為有邂逅耳,即如卿諸人,良足貴乎□」五月,己亥朔,日有食之(日蝕が有った)。

  代郡烏桓の三大人は皆が単于と称して,力を恃み驕ること恣ままとしたため,太守は治めること能わなかった。魏王操は丞相倉曹屬の裴潛を以って太守と為すと,精兵を以ってして授けんと欲した。裴潛曰く:「単于は自ら放して日久しいことを知っておりましょう,今将いる兵を多くして往くなら,必ずや懼れて而して境で拒みましょう,将いるのを少なくすれば則ち憚るに見えません,宜しく計謀を以って之を図るべきです。」遂に単車にて之で郡にいったため,単于は驚き喜んだ。裴潛は(慰)撫するに恩威を以ってしたため,単于は讋服することになった。

  初め,南匈奴が久しく塞内に居った,与編戸大同而不輸貢賦。議者恐其戸口滋蔓,浸難禁制,宜豫為之防。秋,七月,南単于の呼廚泉が魏に於いて入朝してきたため,魏王である曹操は因って之を鄴に於いて留めると,右賢王の去卑を使て其の國を監させた。単于は歳ごとに綿、絹、錢、谷を給されること列侯の如くとされ,子孫は其号を伝え襲(名)した。其の衆を分けて五部と為すと,各々其の貴人を立てて帥と為し,漢人を選んで司馬と為して以って之を監督させた。

  八月,魏は大理であった鐘繇を以って(魏の)相國と為した。

  冬,十月,魏王である曹操は兵を治めて孫権を撃つこととした;十一月,譙に至った。

 

 

【ここまで通鑑巻67漢紀59(214−216)】